日露戦争(読み)にちろせんそう

日本大百科全書(ニッポニカ)「日露戦争」の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904年(明治37)2月より翌1905年9月まで、日本とロシア朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。

藤村道生

国際的背景目次を見る

三国干渉後、列強の中国分割が進行するなかで、アメリカは中国の門戸開放と領土保全および機会均等を宣言した。これに対しロシアは、シベリア鉄道を軸に東方政策を推進、東清(とうしん)鉄道敷設、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)租借を通じて南満州を支配するとともに、朝鮮にも進出して軍事教官や財政顧問を置き、南岸の馬山(まさん)浦まで租借を策した。日本は山県(やまがた)‐ロバノフ協定、西‐ローゼン協定で朝鮮における優越権の維持を図ったが、ロシアは義和団(ぎわだん)鎮圧の名目で出兵した兵力を撤兵せず事実上全満州を占領するに至った。イギリスは、ロシアの南下を阻止して中国市場を防衛するために日英同盟を提案。小村寿太郎(じゅたろう)外相は、満韓交換で日露関係調整を唱える伊藤博文(ひろぶみ)らの日露協商論を抑えて、1902年1月日英同盟を結び露仏同盟に対抗した。こうして満州と朝鮮を挟んで二帝国主義ブロックが対峙(たいじ)する形勢が生じた。

[藤村道生]

開戦の動因目次を見る

ロシアは露清(ろしん)協定による第二次撤兵の期限の1903年4月8日になっても、撤兵を実行せず、逆に増兵し、鴨緑江(おうりょくこう)南岸に進出して森林伐採を始めた。日本は、朝鮮の安全を脅かすものとして態度を硬化させた。おりしも日清戦後の10年計画による対露軍備拡張案が完成したので、軍も、開戦が必要ならば在をおいてないと強調した。国民は軍拡による相次ぐ増税にあえいでいたが、不満は国民同盟会などによって強硬外交論に誘導され、『萬朝報(よろずちょうほう)』に拠(よ)る内村鑑三(かんぞう)や幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の非戦論は孤立していった。

 桂(かつら)太郎内閣は1903年6月、元老を交えて御前会議を開き対露交渉案をまとめ、開戦世論と米英の支持を背景に、8月ロシアに対し奉天(ほうてん)の開放とロシア軍の満州撤兵を要求、交渉を開始した。日露両国はそれぞれ、相手国が朝鮮と満州を自国の勢力圏と認めること、相手国がこれに干渉しないことを約束させ、さらに相手国の勢力圏における支配を制限しようとした。日本は日英同盟の存在がロシアに譲歩させると期待したが、ロシア皇帝の側近は日本の満州に関する要求を強硬に拒否する一方、日本が韓国領土を軍事的に使用する権利をも否認した。交渉が難航するなかで日本では、陸・海・外三省の中堅幹部が互いに連絡して早期開戦を策動し、また東京帝大教授戸水寛人(とみずひろんど)ら七博士は強硬論を唱え、全国を遊説して開戦世論を盛り上げた。『萬朝報』も開戦論支持に転じたため内村らは退社、幸徳や堺利彦(さかいとしひこ)は『平民新聞』を創刊して非戦論の孤塁を守った。当初戦争に消極的だった実業界も、戦争切迫の情報で市況が沈滞したため、10月には開戦説に移った。政府は12月末の閣議で開戦準備促進を決め、旅順艦隊出動の報を受けた1904年2月4日の御前会議は対露国交断絶と軍事行動開始を決定し、10日日露両国はそれぞれ宣戦を布告した。

[藤村道生]

戦争の経過目次を見る

国力が乏しく長期戦に耐えることのできない日本の戦略は、ヨーロッパの増援を受けないうちに満州のロシア軍を撃滅し、戦況が優勢のうちに英米に依頼して講和することであった。戦費と軍需品も英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果をあげる必要があった。短期決戦と奇襲、英米との協調を軸に対露作戦計画が立案され、宣戦布告に先だつ仁川(じんせん)沖海戦と陸軍の韓国上陸、連合艦隊(司令長官東郷平八郎(とうごうへいはちろう))の旅順港夜襲が強行され、金子堅太郎が講和の斡旋(あっせん)依頼に、また日銀総裁高橋是清(これきよ)が外債募集のためにそれぞれ米、英に派遣された。

 第一軍(司令官黒木為楨(ためもと))は韓国を制圧、その圧力下に2月日韓議定書を結び、ついで8月に第一次日韓協約を締結して事実上の保護国とした。海軍は、黄海(こうかい)の制海権を確保し陸軍を遼東(りょうとう)半島に輸送するため旅順港の封鎖を図り、その一環として広瀬武夫らの決死隊が同港閉塞(へいそく)作戦を強行した。第二軍(司令官奥保鞏(おくやすかた))は5月遼東半島に上陸、南山激戦ののち第一軍、第四軍(司令官野津道貫(のづみちつら))とともに遼陽(りょうよう)決戦を目ざした。旅順要塞(ようさい)攻囲のため第三軍(司令官乃木希典(のぎまれすけ))を編成、以上各軍の統一指揮にあたる満州軍総司令部(総司令官大山巌(いわお))を置き、児玉源太郎(こだまげんたろう)を総参謀長とした。8月、ロシアの旅順艦隊はウラジオストクを目ざして脱走を図ったが、連合艦隊主力はこれを敗走させ(黄海海戦)、第二艦隊(長官上村彦之丞(かみむらひこのじょう))は陽動作戦中のウラジオ艦隊を撃破した(蔚山(うるさん)沖海戦)。第三軍は旅順に対し総攻撃したが兵力の3分の1を失って挫折(ざせつ)。北進軍(第一、二、四軍)ものちに海軍の広瀬中佐とともに軍神として喧伝(けんでん)された橘周太(たちばなしゅうた)中佐以下2万4000の死傷者を出し、遼陽は占領したが戦略目標のロシア野戦軍の殲滅(せんめつ)に失敗し、日本の望んだ早期終戦の可能性は去った。

 ロシアは当初、革命運動に備えて有力な兵団を首都周辺に配置していたが、敗戦は革命的機運を助長するとみて、現役兵の増援とバルチック艦隊の遠征を決定した。10月、ロシア軍の反撃で沙河(さか)会戦が発生、日本軍は苦戦のすえ撃退した。バルチック艦隊の出発で緊急課題となった旅順攻略のため、大本営は予備戦力の全部を投入、児玉総参謀長が直接指揮して二〇三高地(爾霊(にれい)山)を奪取、大きな犠牲を払って翌1905年1月開城に成功した(これまでの半年の戦争で約6万人の戦死者が出ている)。3月、奉天会戦で日本は辛勝したが、ロシア軍の包囲殲滅に失敗し、戦力の限界から講和は急務となった。5月、東郷艦隊は遠征のバルチック艦隊を撃滅し、海軍力を失ったロシアも講和を決意した。

[藤村道生]

反戦運動目次を見る

日本は戦費の半分以上を米英資本で賄い、ロシアもフランス資本で戦った。砲弾も同様で、日露戦争は財政と生産力からは英仏の代理戦争であり、それだけ両国の民衆は犠牲を強いられた。幸徳、堺らは1904年3月、「与露国社会党書」を『平民新聞』に発表して「愛国主義」と軍国主義に反対、日露人民は兄弟であると主張した。また片山潜(せん)は第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席、ロシア社会民主党のプレハーノフと交歓した。与謝野晶子(よさのあきこ)は「君死に給ふこと勿(なか)れ」と題する反戦詩を発表、表面の戦争熱と裏腹に戦死者の増加、生活の窮乏は民衆のうちに厭戦(えんせん)気分を広げていった。ロシアでは1905年1月の血の日曜日事件により革命運動が激化、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンが反乱、革命は全土に拡大した。革命の火を消すために講和は絶対的要請となった。

[藤村道生]

講和目次を見る

日本の依頼を受けたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、6月両国に講和を勧告。8月ポーツマスで講和会議が開かれた。日本の小村寿太郎(じゅたろう)全権は戦費賠償金を要求したが、ウィッテ全権は再戦すればロシア必勝の形勢にある満州戦線の実状を背景に拒否した。結局日本は、朝鮮における優越権、遼東半島租借権、東清鉄道南満支線、南樺太(からふと)、沿海州漁業権を得ることとなった。それは日本政府が絶対的必要条件としたものをすべて満足させ、さらに南樺太という相対的必要条件の一部さえ満たしていた。しかし償金がなく戦後の生活も困難であるとみた国民の一部は、ポーツマス条約調印日の9月5日、講和反対の国民大会を開き、日比谷焼打(ひびややきうち)事件に戦争中の不満を吐き出した。

[藤村道生]

戦争の影響目次を見る

戦勝で韓国の保護権を獲得した日本は、第二次日英同盟、桂‐タフト協定で韓国支配の承認を受け、逐次韓国の主権を奪い1910年に併合した。満州でも1906年南満州鉄道株式会社を創立、翌年の日露協約で南満州を勢力範囲に収めた。しかし、アメリカの鉄道資本家ハリマンの提案した満鉄の日米共同管理を拒否したことにより、日本は、門戸開放政策をとるアメリカのアジア政策と衝突することとなった。日本の戦勝はアジア民族運動勃興(ぼっこう)の契機となったが、朝鮮併合は日本への期待を失わせた。一方アジアへの進出を阻まれたロシアがバルカン政策を強化した結果、英仏露協商により対独包囲陣が成立した。こうして第一次世界大戦の戦略配置ができあがったのである。

[藤村道生]

『信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』(1959・河出書房新社)』『古屋哲夫著『日露戦争』(中公新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「日露戦争」の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904~05年,朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立から発展した日本・ロシアの軍事衝突。 1898年ロシアは中国 (清朝) に圧力をかけ,戦略的に重要な南満州の遼東半島南端にある旅順港の租借権を獲得した。またこれに先立つ 1896年には中国と対日同盟を結び,合せて東支鉄道の敷設権を得て,中国領満州を通過しロシアの海港ウラジオストクに達する道を開き,路線地として満州の地にわずかながら重要な足場をつくった。 1891年から 1904年にかけてロシアはシベリア横断鉄道を築いたものの,満州における軍事力を増強するに足る人員および物資を輸送できるだけの設備は整っていなかった。一方,日本は 1894年の日清戦争以来軍事力を確実に増強し,1904年の極東駐屯師団数は明らかにロシアを上回っていた。 1903年ロシアが満州からの撤兵同意を翻したのを,日本は攻撃の機とみなした。
1904年2月8日,奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して,戦いの火ぶたが切られた。同日陸軍も朝鮮半島に上陸し,まもなく完全に制圧した。5月別途遼東半島に上陸した日本軍は,25日南山を奪取して旅順港のロシア駐屯軍を満州の本隊から切離した。8月 10日旅順から出撃したロシア艦隊との間に黄海海戦が戦われ,日本軍が勝利,14日の蔚山沖海戦によって,日本は制海権を獲得した。8月 28日~9月4日には遼陽周辺で日露の野戦軍主力が会戦し,ロシア軍は退却した。 10月ロシア軍はシベリア横断鉄道経由で援軍を受け巻返しをはかったが,その攻撃はかえって統制力に欠けた優柔不断な面をさらけ出す結果となった。日本軍もまた数回にわたる攻撃の失敗で大きな犠牲を出し,旅順港の長期包囲戦に業を煮やしていた。日本軍の統制に分裂の兆しがみえはじめた矢先の 1905年1月1日,戦意を失った旅順港のロシア軍司令官は,3ヵ月分の糧食と十分な軍需品をたくわえたまま,配下にはかることなく独断で港を日本軍に引渡してしまった。陸上での最終戦となった2~3月の奉天会戦は,ロシア軍 35万対日本軍 25万の兵力を投入して行われた。ロシア軍9万,日本軍7万に上る死傷者を出した長期戦の末,ロシア軍司令官 A.N.クロパトキンは軍を北に撤退させ,奉天は日本軍の手中に落ちた。海上での戦闘も,最終的には日本軍が優勢になった。5月 27日,日本海海戦で東郷平八郎大将 (のち元帥) 率いる日本海軍主力艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った。バルチック艦隊は Z.P.ロジェストベンスキー提督指揮下,旅順の包囲をとくため 1904年 10月リエパヤのバルチック港を出航し,戦いがウラジオストクに達する頃到着した。すでに日本は経済的に疲弊していたが,日本海海戦の決定的勝利と,ロシア国内の政情不安が相まって,ロシア政府を平和条約の場へと導くこととなった。
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトを調停役に,1905年8月 10日から9月5日にかけて合衆国のニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議が開かれた。この場で締結されたポーツマス条約で,日本は旅順港を含む遼東半島と東支鉄道の一部 (旅順-長春間,南満州鉄道) の支配権を獲得し,サハリン島南部を領土に加えた。ロシアは南満州の中国への返還に同意し,日本の朝鮮支配権も認めた。日露戦争は日本が初めて当面した本格的戦争で,直接戦闘に参加した総兵力は 108万余,艦船 31.8万t,疾病をも含めた死傷者は 37万余,喪失艦船 91隻であった。

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百科事典マイペディア「日露戦争」の解説

日露戦争【にちろせんそう】

朝鮮(大韓帝国)・満州の支配をめぐる日本とロシアとの戦争。ロシアは,1900年の義和団事件を機に満州に15万の兵を送り,事件後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手し,日本の利害と衝突するに至った。1903年6月元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め,8月以降数次にわたりロシアと交渉したが,ついに妥協点に達せず,1904年2月8日日本側の仁川沖,旅順港奇襲で戦争開始,10日宣戦を布告。陸軍は4軍に編制,総司令官大山巌,総参謀長児玉源太郎のもとに満州軍総司令部を設けて全軍を統轄。戦闘は8月遼陽会戦,10月沙河会戦と苦戦ながら日本が勝利。他方旅順攻略乃木希典を司令官とする第3軍の3次にわたる総攻撃で死傷者5万9000余の損害を出し,ようやく1905年1月に占領。3月には両国とも30万前後の大軍を奉天に結集,会戦の結果日本軍が勝利(奉天会戦)。以後戦闘は膠着(こうちゃく)状態となった。海軍は5月に日本海海戦で勝利し,これを機に,米国大統領T.ローズベルトの講和勧告を受諾。8月にポーツマスで講和会議が開かれ,9月に日本全権小村寿太郎外相とロシア全権ウィッテが日露講和条約ポーツマス条約)に調印。→七博士建白事件対露同志会平民新聞バルチック艦隊二百三高地東郷平八郎
→関連項目明石元二郎足尾鉱毒事件池辺三山石川三四郎石光真清大阪砲兵工廠大塚楠緒子小野塚喜平次桂太郎内閣金井延関東州黒岩涙香クロパトキン郡司成忠軍部黄海海戦小杉放庵近衛兵ステッセリ建川美次東清鉄道東洋拓殖[株]ニコライ[2世]日米通商航海条約日韓議定書日本反戦運動ピウスーツキ非戦論広瀬武夫ブラゴベシチェンスク戊申詔書山県有朋李朝(朝鮮)ロシア革命ロジェストベンスキー

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旺文社世界史事典 三訂版「日露戦争」の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904年2月から翌年9月まで行われた,満州・朝鮮をめぐる日本とロシアとの戦争
日清戦争後,朝鮮支配の確立と満州進出をめざす日本と,義和団事件に乗じて満州を占領し,さらに朝鮮進出を企てたロシアとの対立が激化し,日本はロシアの極東での南下策に脅威を感じたイギリスに接近し,1902年日英同盟を結んだ。アメリカもまた日本に好意的であった。この国際環境を背景に1904年2月日本はロシアと開戦し,奉天会戦・日本海海戦などでロシアを圧倒したが,戦力の消耗と大きな経済的負担に苦しんだ。ロシアもツァーリズムの矛盾激化に伴う革命勢力が増大し,第1次ロシア革命などに悩まされ,アメリカ大統領T.ローズヴェルトの仲介の下に,1905年9月ポーツマス条約を結び,戦争を終結させた。この結果,日本は朝鮮における優越権,旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道に関する諸権利,南樺太を得て大陸進出政策を強化し,アメリカ・イギリスとの利害対立が生じた。ロシアは極東での南下策を阻まれたため,ほこ先をバルカンに転じてドイツ・オーストリアとの対立を深め,ドイツの躍進に脅かされていたイギリスに接近,国際関係に大きな変化を生んだ。

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旺文社日本史事典 三訂版「日露戦争」の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904(明治37)年,日本とロシアが朝鮮・満州支配をめぐる対立からおこした戦争(〜'05)
三国干渉後,ロシアは中国から満州における権益を得,北清事変後は,日本の満州撤兵要求を実行せず,満州の支配のみならず韓国進出の野心を示したので,日本と激しく対立した。日本は日英同盟('02)によるイギリスの支持を背景に,'04年2月仁川沖の奇襲で戦争開始。日本軍は有利に戦いをすすめ '05年3月奉天会戦で大勝,海軍も日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した。しかし,日本は軍事・財政的に戦争遂行能力が限界に達し,ロシアでは '05年1月,血の日曜日事件がおこり,国内の危機が急迫した。日本を援助したアメリカ・イギリスも一方の決定的勝利による満州独占をおそれ,アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で,同年9月ポーツマス条約が締結された。これにより,日本は韓国を保護国化し,南満州を勢力範囲とした。しかし,死者10万余人,戦費は約20億円を要したが,賠償金は得られず,民衆の不満は日比谷焼打ち事件などをひきおこした。

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精選版 日本国語大辞典「日露戦争」の解説

にちろ‐せんそう ‥センサウ【日露戦争】

明治三七~三八年(一九〇四‐〇五)満州・朝鮮の支配権をめぐって争われた日本とロシアとの戦争。同三七年二月宣戦布告。日本は同年八月以降の旅順攻撃、翌年三月の奉天会戦、五月の日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達していた。一方、ロシアも相続く敗退や国内の革命勃発などによって戦争終結を望むようになり、同三八年九月、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結。

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デジタル大辞泉「日露戦争」の解説

にちろ‐せんそう〔‐センサウ〕【日露戦争】

明治37年(1904)から翌年にかけて、満州(中国東北部)・朝鮮の支配権をめぐって日本とロシアとの間で行われた戦争。日本は旅順攻撃・奉天の会戦日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも革命勃発などによって戦争終結を望み、米国大統領T=ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結。→ポーツマス条約

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防府市歴史用語集「日露戦争」の解説

日露戦争

 1904年(明治37年)日本とロシアの間で起きた戦争で、主に中国大陸が戦場となりました。日本は有利に戦いをすすめましたが、犠牲も多く、人も物資も戦争を続けていくのには限界があったため、翌年、アメリカのルーズベルト大統領のはたらきかけにより、両国の間に条約が結ばれて戦争は終わりました。

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世界大百科事典 第2版「日露戦争」の解説

にちろせんそう【日露戦争】

1904‐05年(明治37‐38)に日本とロシア両国が朝鮮(大韓帝国),満州(現,中国東北部)に対する支配をめぐって戦った戦争。両国の背後には,英米,仏独など諸列強の帝国主義的利害の対立があったため,戦費の調達や講和などに各国の利害や思惑がからみ,他方,新興国日本の大国ロシアへの挑戦として世界の注目を集めた。明治三十七・八年の役ともいう。
[前史]
 日清戦争が日本の勝利に終わり,日本が講和条約で遼東半島を獲得すると,ロシアは同盟国フランスとロシアの関心がアジアに向けられていることを期待するドイツとともに三国干渉を行って日本に遼東半島を還付させた。

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世界大百科事典内の日露戦争の言及

【海軍】より

…海軍力では全体ではロシアが優勢だったが,日本側が新鋭艦を多く擁し,訓練・戦法にも優れ,連合艦隊は日本海海戦でロシア艦隊に大勝利を収めた。日露戦争後,日本海軍はアメリカを仮想敵国として大規模な軍備拡張に向かった。各国による建艦競争が始まると,軍艦の国産化を達成した日本は八八艦隊の実現をめざした。…

【朝鮮駐劄軍】より

…日露戦争開戦直後に編成され,日韓併合を経て日本による植民地支配の時期を通じて朝鮮に駐屯した日本の陸軍。日朝修好条規締結(1876)後,日本の陸軍部隊が朝鮮に常駐したのは,1882年壬午軍乱後結ばれた済物浦条約にもとづき,ソウルに駐屯した守備隊をはじめとする。…

【日韓併合】より

…1896年2月には,朝鮮国王をロシア公使館に監禁するクーデタが起こり,朝鮮政府はロシアとの提携をはかるようになった。こうして,日本政府が朝鮮支配を追求するかぎり,日露戦争は避けられないものとなった。 1904年日露開戦にふみきると,日本政府はさっそく朝鮮植民地化の基礎固めに着手した。…

※「日露戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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