アメリカの原子爆弾製造計画「マンハッタン・プロジェクト」は、レスリー・グローブス将軍の総指揮の下で1942年初夏、具体的に動き出しますが、その9月、グローブスの副官ニコルズ大佐はグローブスに命じられてウォール街のエドガー・サンジェーのオフィスに行きました。ニコルズ大佐の任務は原子爆弾に必要なウラン資源を確保することにあり、最も有望視される供給源としてのカタンガのシンコロブエ・ウラン鉱山を所有するユニオン・ミニエール社がどの程度素早くウランを提供できるかをチェックするのが目的でしたが、グローブスもニコルズも早期確保は容易ではないとばかり考えていました。ところがニコルズをにこやかに迎えたサンジェーは、”Youl can have the one now ,it is in New York,a thousand tons of it , I was waiting for your visit” と言って、ニコルズの度胆を抜いたのでした。まさにその通り、グローブス将軍の鼻の下、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に1200トンのウラン鉱石が、高値を付ける日を持って、秘密裏に2年間も寝かされていたのです。ウラン鉱石は直ちにアメリカ陸軍の管理下に移され、また、陸軍の工兵軍団がコンゴに派遣され、ウラン持ち出しのための飛行場がエリザベトビル(今のルブンバシ)とレオポルドビル(今のキンシャサ)に整備され、コンゴ河のマタディ(マーロウ、コンラッドが上陸した!)に輸出港が建設されました。このルートを通って、1942年から1944年にわたって、約3万トンのウラン鉱石がエドガー・サンジェーのユニオン・ミニエール社によってアメリカ陸軍に売り渡されたとされています。・・・
1906年は、たまたま、ハナ・アーレントの誕生年でもありますが、彼女は主著『全体主義の起源』の中で、レオポルド王のコンゴ植民地経営を「ベルギー国王のきわめて個人的な『膨張』に基づくだけの sui generis (特殊なもの)であった」としていますが、カタンガ地方の歴史、ユニオン・ミニエール社をめぐる国際的資本の参加侵入の歴史を学べば学ぶほど、アーレントの断定が極めて皮相的なものであったことが明らかになります。ユニオン・ミニエール社には、設立当初から、ロスチャイルドの名に象徴されるベルギーと英国にまたがる資本が参画していましたが、1907年、カタンガの北に接するカサイ地方で林業とダイヤモンド等の鉱業を始めたfフォルミニエール社という会社にも、発足当初から、米国のグッゲンハイム・グループが出資し、さらに、1950年には、ロックフェラー・グループがユニオン・ミニエール社の大株主になりました。