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●原爆投下

 ● 「疑史」(落合莞爾) も 「ユダヤとは何か」・「日本に渡来したイスラエル族」・「アヤタチとサンカ」まで辿り着いた。

 西欧の目からすると、コロンブスからアウシュビッツへ、わが日本に引き付けて考えると、コロンブスから 「広島・ナガサキ」ということに私の中ではなる。

 明日の「ナガサキ」を前に、その「旅」を試みてみる。

 ************* 


 ●『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』 徳永 恂(まこと)
 学術文庫 2007年7月
 原:『ヴェニスのゲットーにて』 みすず書房 1997年


 2章 コロンブスとユダヤ人問題 1492年の地平

 1 『希望の帆』- クリストファ・コロンブス「約束の地」を求めて

 ★運命の循環

 クリストファ・コロンブスをインドの地まで導くはずの3隻の帆船がパロスの港に錨を降ろしている。1492年8月2日の夕刻のことである。コロンブスは桟橋に立って、最後の水夫たちと他の探検隊員がデッキに上っていくのを見ている。夜11時までには全員乗船していること、というのが彼の指令である。

 歴史の本でわれわれは、3隻の帆船は翌日、8月3日になって出帆した、ということを知っている。なぜコロンブスは乗組員たちに真夜中前に乗船することを命じたのか? なぜ彼はこの成り行きを個人的に監視していたのか? その指令は船乗りたちの習慣にまったく反するものであった。彼らはこれほど長い旅の前ならふつう最後の瞬間まで家族の許に留まり、船の出帆直前になってはじめて甲板に行くものなのだ。なぜ今回は違うのか? こういう指令が出された理由は、ひょっとしたらこの8月2日という日付けにあるのか? なんと言っても記憶すべき1492年8月2日なのだから。スペイン国王フェルナンドとイサベラの布告によれば、この日の真夜中以降いかなるユダヤ人もスペインの地に留まってはならないのである。もしかするとこの探検隊員たちはその布告に関わりがあるのか? コロンブスの船にはユダヤ人たちが乗っているのか?彼の発見の旅とユダヤ人追放の間にはつながりがあるのか? そして結局のところ、そもそもこの旅はユダヤ人迫害と関係しているのか? こうしたすべての疑問が執拗に研究者に襲いかかり、満足のいく答えを求めるのである。

しかしわれわれが自分で答えを見つけようとする前に、コロンブスの話に耳を傾けよう。

 「聖なる国王陛下、あなた方がユダヤ人たちをあなた方の領地から追い払われた後、それと同じ1月、陛下は私を1船団と共にインディアスの地へ派遣することを命令されました」。

 コロンブスの日記はこう始められている。この2つの出来事を彼はアメリカ大陸発見についての報告の冒頭に掲げている。

 1目見ただけだと、コロンブスはここで歴史的日付けを混同している、と思いたくなる。周知のようにユダヤ人追放の勅令は1492年3月31日に署名され、コロンブスの旅行に対する同意はそれより3ヵ月前、つまり1月に与えられたのだから。もちろんコロンブスと国王の間の契約は4月17日にはじめて署名されたのだが。一見すると取り違えているように思われるこの日付けはどう理解すればよいのだろう? これは次のように説明する他ない。つまり、ユダヤ人追放の準備はすでに1月には、王宮の人々に周知のことになり、コロンブスにもそのパトロンたちにも知れるところまで進められていた、ということである。だから事の流れは・・・1月 コロンブスの旅行許可。3月 ユダヤ人追放布告。8月2日 ユダヤ人、スペイン滞在最終の日、かつアメリカ大陸発見旅行出発の前日という具合に2つの出来事はここで合流するのである。・・・略・・・

・・・コロンブスは、別の機会にも示す偉人特有のよく知られた本能で、2つの出来事をここで結び付けているのである。あの時代に取り組んでいる歴史家たちは、アメリカ発見とユダヤ人追放はスペイン全史の中で首尾一貫性を特っていた、という点で一致している。

 この夜は歴史の分岐点である。1つの章が終わり、新しい章が始まるのである。スペインの歴史のみならず、全世界史に影響を及ぼす章である。コロンブスが夜11時に部外者を締め出して、船上に船員を乗り込ませたことは、コロンブスと彼の発見の旅の実現がわれわれに投げかける数多くの謎の1つである。コロンブスは、正確に1時間後にスペイン警察、市の民兵部隊、宗教裁判の手先が、命令にも拘らずユダヤ人がスペインに留まっていないかどうか、見つけ出すために捜索に乗り出す、ということを知っている。しかし、コロンブスが、彼の従者たちがすでに夜11時に各自の部署についているのを知りたがっている、という事実は特別扱いされるものではない。われわれに謎めいて見える出来事が幾つかある。したがってこうした疑問や歴史的に証明しうる出来事はすべて、その全体の中で観察されねばならない。矛盾に満ちているように思われるコロンブスの人格も謎の解明に役立ちはしない。幾つかの出来事の関連についての理解があってはじめて状況が幾らか明らかになるのだ。

 コロンブスとユダヤ人との結び付きはけっして偶然のものではなく、両者が望んだことだったのだ。それは長い間きわめて多くの研究者の注意を引いていたし、この結び付きの理由解明に努めた、幾つかの分析のテーマであった。しかし今日に至るまで満足な結果はでていない。

 2

 ヴィーゼンタールの『希望の帆』第1章は、こういう推理小説風のやや思わせぶりな書き方で始められている。だが、さしあたりここでは、コロンブスがユダヤ人だったのか、マラーノだったのか、あるいは少なくともユダヤ系の血を引いていたのかは別として、彼の歴史の1部は、その時代のユダヤ人の歴史の1部でもあったのだ、というヴィーゼンタールの基本認識を確認しておけば足りる。コロンブスの西廻りインディアス航路を開こうとするプランは、ユダヤ人たちの希望をかき立て、だからこそ彼らによって支援されたということは、少なくとも否定できない事実だろう。

 だが、それにしても、コロンブスのプランは大きな冒険だった。当時の天文・地理学をはじめとする科学的知識によれば、天動説の枠内ながら地球球体説は常識化しており、さらに航海術・造船などの技術的支えもある程度はあったとはいえ、女王が組織した諮問委員会は、数度にわたって、その成功可能性を、とくに莫大な費用を使ってはたしてそれに見合う利益が得られるかという採算可能性を否定している。にもかかわらず、イサベラ女王が、そしてその側近にあったアラゴンの財務官サンタンヘルをはじめとするユダヤ人たちが、この危険な賭けに踏み切り、それを促進したのは、どのような衝動に突き動かされていたからなのだろうか。コロンブスの航海に働いていた動機は何だったのか。必ずしもコロンブス個人の心理的思惑ではなく、この事業を推進した集合的動機が、しかもそこに働いている、相反する2つの方向を区別することが問題なのである。言い換えれば、コロンブスの事業を支援した人々の動機はけっして単一ではなく、彼の航海には、それぞれ別の期待が、異なった夢が託されていたのではないか。そのことをじっと胸の裡に折りたたんで、1492年8月3日の日の出前、コロンブスは希望の帆をあげてパロマ港を船出していった。その時、朝風にはためくサンタ・マリア号の帆に、コロンブス自身は、どういう希望を投影していたのだろうか。

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 ●『寛容の文化』 マリア・ロサ・メノカル 2005年 名古屋大学出版局
 
 ★アルハンブラにて 1492年、グラナダ

 国王陛下とその継承者は以後、(グラナダ市民が)自らの信仰を奉じて生活することを許可する。そして彼らのモスク、彼らのミナレット、彼らのムアッズィンが強奪されることを許さず、彼らが敬虔なる目的のために行った奉献や寄進に干渉したり、彼らが遵守する習慣や慣行を妨げたりすることもないだろう。    ダラナダ降伏協定文書、第6条より


 1492年1月2日、ローマ教皇の勅書によりカトリック両王として知られることになる統一スペインの君主が、急勾配を歩みのぼりながら、宮廷都市・アルハンブラヘと通ずる丘にずっしりとした1歩を踏み出した。それは頂上へと向かう険しい登坂路であり、下方に急峻な谷を望む宮殿は重々しく防備されていた。だが、カスティーリャ女王とアラゴン国王 ―  いずれも敵対した異母兄弟、ペドロ残忍王とエンリケ・デ・トラスタマラの血統に連なる遠い親戚同士で、前者はペドロの曾々孫、後者はエンリケの曾々孫であった ― は、いかなる抵抗にも遭遇することはなかった。この土地自体がすでにカスティーリャ軍の掌中に握られていたので、このムスリム要塞の占領は純粋に儀礼的なものだったのである。年代記作者が描写しているように、最上級の衣服、モーロ風の長衣に身を包んだカスティーリャ女王と彼女の配偶者のアラゴン国王は、ナスル朝の凝りに凝った居室に歩み入り、この宮殿を自らの新たなカサ・レアル、すなわちスペイン国王の居館に定めた。このシーンを演ずるにあたり、アラブ風の衣服に身を包み、まるで自分たちが永遠の持ち主であるかのように宮殿へと入ったイサベルとフェルナンドは、自分たちがこの宮殿がたたえるものすべての文化的な相続者にほかならないことを実感した。イサベルはセビーリャで女王に即位し、彼女の父祖たちの家、アルカーサルをよく知っていた。彼女がはじめてアルハンブラを目にしたとき、それが彼女自身の宮殿の力強い原型であることに気づいたのはその両の目であったし、居室の外観や庭園の噴水が奏でる者にこのうえない親しみを覚えたのもその美的感性であった。勝利をおさめたキリスト教徒の君主がグラナダのムスリムに保証した宗教的自由は、当の君主たちがグラナダ人のファッションを身にまとうのと同じくらい根拠のあることだったといえるかもしれない。イサベルはまだ新たな家・アルハンブラのクローゼットをぜんぶ開け放っていなかったが、彼女の父祖たちが何百年にもわたってアンダルス人の箪笥を引っかきまわしてきたので、彼女はその1部をどうやって身につければよいか充分にわかっていた。もちろん、ムスリムに賦与された保護に疑念を抱くのももっともなことであった。けれども、希望を抱く根拠があったことも事実であった。

 250年にわたってムスリムの要塞であったこの都市のあきらめの言葉というべき降伏協定は、数ヶ月前の1491年秋、ナスル朝最後の国王にしてボアブディルの名で知られるムハンマド12世とカトリック国王との密約を介してすでに合意に達していた。都市には血しぶきもあがらなかったし、貴重な宮殿にいかなる損害も生じなかった。有名な「ムーア人の最後の溜息」という表現が、ほぼ3世紀にわたってナスル朝の都であったグラナダをボアブディル自身が放棄しなくてはならなかった悲哀を見事に浮き彫りにしている。年月を越えて語りつがれる逸話のなかには、ボアブディル自身が、グラナダをあとにする際に悔悟の念を抱きながら溜息をついたとするくだりは見あたらず、ただ彼が男らしく守ることのできなかった宮殿のために女のように泣き叫ぶのはよくないと、母親によって厳しく戒められているのみである。けれども、この歴史的瞬間にボアブディルが「男らしく」闘うべきだったかは、簡単には答えようのない問題である。そのとき、グラナダにとっては - 自分の息子が人質にとられていたボアブディル自身にとっても - 手札が完全に行きづまっており、あきらめるよりほかになかったのである。

 ボアブディルは1月2日の式典で、父祖の家、アルハンブラの鍵をフェルナンドとイサベルに手渡した。彼が懸念したことが自らあとに残したもの、そしてグラナダの大勢のムスリムに本当に起きることになるなんて知る由もなかったろう。わたしたちの歴史的な展望にもかかわらず、避けられなくはなかったことは、イサベルとフェルナンドによる丘の上への勝利の行進のあとに続いた一連の出来事であった。★カトリック両王はほんの短期間のうちに、自らボアブディルとともに署名した降伏協定を破棄したのである。都市グラナダ、そして王国そのもののあきらめの言葉は、ムスリムが自らの信仰をおおっぴらに、新たなキリスト教国家の内部で完全な市民としていかなる迫害もなく実践することを許可する条項を明記していた。それはけっして革新的な条項ではない。なにしろムスリムは、政治地図が複雑に変化するなかで、新たにキリスト教国家となったこの同じ土地で何百年にもわたって生活してきたのである。イベリア半島のキリスト教徒は、ウマイヤ朝が半島にもちこんだズィンマの諸原則をおおむね吸収し、トレードのような土地でさえ - スペイン教会の中心であり、カスティーリャ歴代国王の首都のひとつでもあった - 、ユダヤ人とムデハルの共同体が存続するのみならず、文化的営為の不可欠な部分をなしてきたのであった。もちろん問題はそうした状況そのものから生じたのであり、こうしてムデハルの処遇はますます悪化することになった。危機はしばしば彼らの反乱によって引き起こされた。両陣営の宗教的権威はそれを、キリスト教徒統治下でムスリムが生活するには受け入れがたい、それどこらか罪深いことと布告した。けれども、ときには儚く終わりもしたが、さまざまな措置が当時の複雑な文化の深奥にとどまり、そのまま維持されることもあった。ムスリムは、イデオロギー的に譲歩できない部分を除けば、自分たちなしですますことなど想像すらできなかったキリスト教徒諸国家において、社会的にも経済的にも、はたまた文化的にも不可欠の役割を果たしてきたのであり、実際のところ、政治的スペクトルを横断するキリスト教スペイン人が、彼らの土地で生活するムスリムを自分たちと同じようにスペイン人とみなしていた証拠もそこかしこにあるのである。ムデハルは、ウマイヤ朝カリフ国が解体して以来ほぼ5世紀以上にわたって、半島の社会的・文化的景観の1部をなしてきたし、自分たちがキリスト教徒スペイン全土で手を貸した建築物と同じくらい、目に見える日常であった。だが、大部分のグラナダ人にとって、北方の土地は日々目にする雪帽子をかぶった山々を越えればすぐそこにあるのに、もはや何千マイルも彼方にあるように感じられた。ボアブディルは知っていた。彼らムスリムが順応しなくてはならない変化はとうてい受け入れがたいものであることを。彼らは、ウマイヤ朝とターイファの時代を生きてきた父祖たちと違って、キリスト教徒はおろか、ユダヤ人とさえ一緒に暮らしたことがなかったからである。

 ボアブディルから宮廷都市の鍵を渡されるや、キリスト教徒はその中世的伝統、わけてもカスティーリャ的伝統が彼らに教えるとおりにふるまった。彼らはナスル朝の宮殿に入るだけでなく、敬虔なイサベルはモスクを教会に見立て、そこで祈りを捧げはじめたのである。それらは、手にした財産を両の手を広げて抱擁し、それを受け入れるのにとくべつ考える必要もないくらい熟知していた者がする行為であり、アラビア文字が全面に書かれた宮殿や、手を儀礼的にかざせばモスクを完全に正しい教会に変えてしまえるような文化を、けっして異質なものとみなしていなかったことの証である。何世代ものあいだ、歴代のキリスト教徒スペインの国王が与えた保護により、ナスル朝の豪華絢爛たる記憶の宮殿は比較的良好に保たれ、イスラーム世界のなかで最もよく保存された中世以来のイスラーム宮殿となった。だが、★協定の破棄とその後のムスリムの残酷な迫害は、わずかな時間のあいだに、国王居館を隅々まで覆う豪華な言語が禁じられた言語になってしまうこと - そしてそれを読める者も真のスペイン人ではないと通告されること - を意味した。ムスリムは改宗を迫られ、改宗した者はモリスコと呼ばれた。アラビア語で書物を読むことは禁止され、たくさんの書物が焚書の憂き目に遭ったのである。
           
           ☆

 キリスト教徒スペインからのユダヤ人追放を旨とする王令が、グラナダの降伏からちょうど3ヶ月後にアルハンブラの新たな住人によって署名された。カトリック両王は、10・11世紀、かの偉大な詩人、シュムエル・ハナギドがイスラーム・ターイファのワズィールにして軍隊の司令官を務めていたころ、まさに繁栄のきわみにあったユダヤ人共同体が敷いた土台の上にナスル朝の宮殿が建てられていることをはたして知っていただろうか。1492年3月31日のユダヤ人追放令の発布は、ユダヤ人共同体のいたるところに甚大な驚きと失望を引き起こした。けれども、このときもたらされた明らかな衝撃が実際にどれほどのものであったかは、それがその後も長らく続いたことを伝えるさまざまな物語によってまちまちで、かならずしも一致していない。

 この出来事ほど、ユダヤ人と新キリスト教徒 - 後者はユダヤからキリスト教に改宗した人びとを指す - 、何世紀もの間ずっと、キリスト教国の統治府の最上位を占めてきた最も学識ある人びとのまわりに黙示録的な作用をおよぼしたものはなかった。長きにわたってイサベルとフェルナンドの親密な助言者を務めてきた人びとは突如、信用ある顧問として宮廷に仕えることはおろか、自らの祖国に住むという単純きわまりない権利さえをも懇願しなくてはならないという尋常ならざる状況下におかれていることに否応なしに気づかされたのであった。

 両君主に直接進言できたユダヤ人のなかで最も聡明で口の立つイサーク・アブラヴァネルは、なしうるかぎりすべてのことをやった。ユダヤ人がどこにもまして繁栄を享受した故郷を失うという残酷な悲劇に直面し、激しく狼狽して卒倒しそうになりながら、アブラヴァネルはある種の典礼的な象徴主義に救いを見出した。彼は、ささやかながら、明らかに象徴的な意味をもつ終末の日の延期を、つまりユダヤ人追放を本来規定された7月31日(追放令の発給から4ケ月後)から8月2日に変更する措置を交渉によって勝ちとったのである。1492年の8月2日は偶然にも、ユダヤ暦におけるアブ月の9日、イェルサレムの神殿の破壊を記念する日、そう、まさしく最初のディアスポラが始まった日に一致していた。のちの歴史家のなかには、かくも重大な日付の調整についてアブラヴァネル本人が説明したことに異議を唱える者もいるのだが、いずれにしても真実は、アブラヴァネル - 確実に彼ひとりではなかっただろう - が当時の悲劇を神殿の破壊以来、ユダヤ史において並ぶものがないものと認識していたということである。追放令を撤回するようイサベルとフェルナンドを説得することができなかったので、宮廷ユダヤ人のなかで最も影響力のあったこの人物は、失うものの大きさと深さがどれはどのものだったかをともかく歴史だけは知っているようにと、この第2のディアスポラの日付を最初のそれを記念する日と一致させようとしたのであった。アブラヴァネルは、未来永劫にわたってはっきりさせておきたかったのである。セファラッドと呼ばれたスペインからの追放が、約束の地での長きにわたった逗留の破滅的な終末にほかならなかったことを。

 アブ月の9日の裏面では、セファルディーム、すなわちスペインのユダヤ人は方々に離散してしまい、彼らがわずか4ヶ月のあいだにまとめたほんのわずかなものはつめこまれたり、棄てられたりした。ディアスポラの只中でその身に携えられた最も貴重なものといえば、彼らが最も愛着のあったものを純粋に象徴するもの、すなわち自宅の鍵と彼らが話した15世紀のカスティーリャ語くらいであった。離散した人びとのなかには、アブラヴァネルの偉業を讃える者もいた。彼らはのちに、悲劇を終末論的な言葉で理解し、目前に迫るメシアの到来を予百しはじめることになる。ユダヤ人のおぞましい離散に対するアブラヴァネルの嘆きからすれば、辛辣な皮肉というほかない光景が、パレスティナ北部はサフェドで演じられている。「出スペイン」のおかげで、サフェドはカバリストの集う有名な中心都市となったのである。その街路では、ユダヤ人離散者が話すロマンス語、彼らがラテン語の意でラディーノ語と呼ぶ言語 - つまりはヘブライ語でもアラビア語でもない言葉 - 、わたしたちが古スペイン語の1形態として認識している言語があちこちから聞こえてくる。けれども、失われた土地の言葉はもはや、アブラヴァネルやスペインから離散した第1世代の人びとには本来の心地よい響きを奏でていない。彼らにとって、イェルサレムをとりまくパレスティナそのものが、真の約束の地と感じていたセファラッドから遠く隔たった土地であった。それが、離散という最も痛苦な選択をした人びとの運命であった。彼らは、自らの手に携えてきた鍵の合う家、自らの手に握られた記憶の宮殿をふたたび目にすることはなかった。だが、かつてマイモニデスが擁護した便宜上の改宗といういまひとつの選択肢があり、1492年にもその後にも数多くの人びとがこうした道を選びとっている。追放規定は文字どおり改宗者の意であるコンベルソとか、(もっと侮蔑的に★「豚」を意味する世俗語で)マラーノと呼ばれた改宗ユダヤ人には免除されたので、それは大きく開かれた運となった。ここでは、はっきりとした異論の余地のない数字は挙げられない。ある人は大半が離散したと言い、ある人は大半が改宗して、あるいは改宗したふりをしてとどまったと言う - ただ、後者の選択をした人びととその子孫、なかば秘密にされなくてはならなかった複雑きわまりない彼らの生こそが、スペインにおいても、1492年初頭にはいまだ夢想すらできなかった土地においても、キリスト教徒スペイン人社会の構造の核心をなすことになるのである。

              ☆

 ルイス・デ・トーレスは、1492年8月3日にパロスの港をあとにした。8月2日、ヘブライ暦のアブ月9日にいたるまでの数週間と数日は、旅立つのに充分な資金確保に奔走する死に物狂いの大勢のユダヤ人でどこもごった返し、悲しみと混乱に満ちていた。その他大勢は、半狂乱になったように洗礼盤へと奔走した。グラナダで発給された王令は、ユダヤ人の改宗が目的であり、洗礼を受けたユダヤ人は故郷に残る資格を得るというものだった。もっとも、ムスリムに対する宗教的寛容を保証したものと同じように、この約束もまた幻想にすぎないことが証明されることになる。
新キリスト教徒はみな、のちに強いられた改宗のなかで悪しき信仰を保持していると疑われ、そのために迫害を受けることになったからである。だが、8月3日、第2のディアスポラの最初の日は、自らの信仰を公然と保持し、故郷を棄てる選択をした人びとの最後の1団がわれ先にと旅立とうとして、港は立錐の余地もないほどであった。

 ルイス・デ・トーレスは、ユダヤ人追放令の署名に実際に立ち会ったひとりの人物とともに旅立った。彼らはその日の朝、セビーリャの下流に位置するものの、海岸に沿って8マイル東のカディスほど大きくも利便性がよくもないパロス港を出港する3隻の船のひとつに一緒に乗りこんだ。こんな日には、選り好みなどしていられなかった。こうしてクリストファー・コロンブスは自身の3隻の船と、スペイン船団に加わるべく公式に洗礼を受けたか、もしくは受けなかったかもしれないユダヤ人の通訳とともに旅立った。どっちにしろ、ルイスは、コロンブスが彼の行く手で通じるだろうと期待した言葉を話すために、彼と連れ立っていったのである。なにしろインディアスの話し言葉は、異教を奉じながら文明的な世界ではつねづねそうだったように、アラビア語のはずだった。悲喜こもごもの状況と憶測から生まれたこのシーンの底を流れる皮肉に対して、笑うべきか、泣くべきか、誰が判断できるというのだろう。のちに自分が発見したいと願ったとおりの特徴を宿す大きな島にたどり着き、人々が「クバナカン」の言葉を話すのを聞いたとき、コロンブスは彼らこそが自分が探していた「グラン・カン」(すなわち大ハーン)にあたると信じこみ、ルイスをヨーロッパ人とアメリカ新世界の人々との史上初の外交の場に送りこんだ。その島の後背地で、ルイスはモンゴルの君主ではなく、キューバの部族長に出会ったのである。こうしてふたりの男たち、タイノ人の首長とアラビア語を話すユダヤ人はいささか心もとない会談を始めたのであった。

 1492年という大きな分岐点の裏側で交わされたこうした会談は、翻訳家たちがほの暗く危険な記憶とみなされ、カスティーリャ語だけが「旧キリスト教徒」あるいは純粋なクリスティアーノの言語、それどころか、全体のうちのひとつではなく唯一絶対の言語になってしまった世界のいたるところで早晩交わされることになる。この驚くべき年の夏のあいだ、コロンブスと大勢のユダヤ人たちが想像するよりなかった土地で自らの荷物を積みこんでいたころ、近代ヨーロッパ言語初の文法書が編纂されている。『グラマティカ・デ・ラ・レングア・カステリャーナ(カスティーリャ語文法)』は、自らの書物を古色蒼然とした宮殿ではなく、もちろん記憶の宮殿などではなく、遥かに近代的な建築物と認識する著者アントニオ・デ・ネブリーハその人によって女王イサベルに献上された。翻訳家たちの古い時代はかくして終わりを告げた。近い将来、新たな帝国の新たな時代が、新たな言語とともにすべての古いものにとって替わる。古き戦いは敗れ去り、ネブリーハは自著の序文で、古き宗教は脇に追いやられ、古き言語は翻訳されつくしたと書いた。「耕すべきものはもはや平安のみ」と。

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  ●『原爆の秘密 国外編』 鬼塚英昭 成甲書房 2008年8月 
 
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  ★私(鬼塚)はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか [序として]

 1945年8月6日広島に、その3日後の9日には長崎に、アメリカは原爆を投下した。日本の敗戦はすでにはっきりしていた時期であった。私はながい間、「どうしてアメリカは日本に原爆を落としたのであろうか」と考え続けてきた。アメリカ側からの本もたくさん読んできた。日本人が書いた本も同様にたくさん読んできた。しかし、私には疑問が残った。

 日本は敗戦(「終戦」という言葉になっているが)工作を続けていた。アメリカは、その日本の敗戦工作の詳細を知りつくしていた。広島に原爆を投下する1週間前に、アメリカは原爆投下の最終準備に入った。天候だけが問題であった。それと同時に、アメリカは無条件降伏を日本につきつけていた。日本国民は、日本政府の敗戦工作も、アメリカを中心とする連合国の敗戦提案も何ひとつ知ることがなかった。

 それだけではない。広島では、原爆投下直前の8月3日ごろから、投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた。しかも、原爆投下の直前にもかかわらず、アメリカ軍機の空襲の情報さえ、広島市民は何ひとつ知らされなかった。長崎市民も悲劇に放り込まれた。広島の原爆投下についての情報をほとんど知ることがなかった。

 私は、広島と長崎に落とされた原爆について調べているうちに、常識では考えられないような矛盾点を数多く発見した。そのためにもアメリカ側の資料を読み、原爆とは何か、どうして原爆がつくられるようになったのか、どのような過程でつくられていったのか - を調べていった。そしてついに、アメリカがどうして原爆を投下したのか、という私の積年の疑問が少しずつ解けていくのが分かった。

 私は原爆製造の謎に挑むことによって、原爆投下の謎を解明しえたのである。従来の原爆投下説と私の説は、全くといってよいほどに異なる。読者は私の本により、原爆投下は何よりも、国際金融寡頭勢力とも呼ぶべき集団が主役であると知ることになる。

 私たち日本人は半世紀以上にわたり、騙され続けている。私たち日本人は、真実に眼をそらさずに直視しなければならない。もし、現状のままでいるのなら、広島と長崎の悲劇がふたたび繰り返されるであろう。

 この本を、広島と長崎で死に、あるいは傷ついた人々に捧げたい。

 2008年7月、またあの日を目前にして     鬼塚英昭

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 ●第1章 アインシュタイン書簡と「原爆カネ儲け協定」

 ★「アインシュタイン書簡」という伝説

 アルバート・アインシュタイン博士よりルーズヴェルト大統領への書簡をまず読んでみよう

 1939年8月2日付。レスリー・R・グローブス『原爆はこうしてつくられた』 1964年、より引用)。

 E・フェルミとL・シラルト〔シラード〕の最近の若干の仕事が私の手許に原稿のまま送られてきました。私はこの仕事の内容から、ウラン元素を近い将来に新しい重要なエネルギー源に転換することが可能であろうと期待するようになりました。このため生じた状況のいくつかの面を考慮すると、警戒を払うことが必要な模様であり、またもし必要とあれば、政府が迅速な対策を講ずべきだとも思われます。したがって、私は次の事実と勧告に閣下の関心を引くことを自分の義務と信ずるものであります。

 この4ヵ月間のあいだに、フランスのジョリオ・キュリーならびにアメリカのフェルミとシラルトの仕事を通して、大量のウランの中に核分裂連鎖反応を起こし、それにより巨大な力と新しいウランに似た大量の元素を放出することが可能となるかもしれない - そうした見込みが生じてきました。これを近い将来に実現できることは、今やほぼ確実であると思われます。

 この新しい現象はさらに爆弾の製造にも適用されるでありましょう。そして - 確実性はずっと低くなるが - このやり方によって新型のきわめて強力な爆弾をつくり出せることが考えられます。この型の爆弾を船で運んで港内で爆発させるならば、1発で港全体ならびに周囲の地域を破壊できる公算が非常に大きいのであります。しかし、このような爆弾は空輪するにはあまりに重すぎるおそれがきわめて大であります。

 合衆国はウランについてはきわめて含有量の少ない鉱石をいくらか所有するにすぎません。カナダと旧チェコスロバキアに若干の良質の鉱石があるが、最も重要なウラン産地はベルギー領コンゴであります。

 以上の状況にかんがみ、政府とアメリカにおいて連鎖反応に従事している物理学者との間にはなんらかの恒常的な接触を保つことが好ましいと考えられます。これを実現する1つの可能な方法は、閣下がこの仕事を、信頼できかつ非公式な資格で従事できる人物に委任することかもしれません。その場合、その人物の使命は次のようなことになるでしょう。

 1、政府諸機関に接近し、関係各省に今後の新しい動きをたえず報告し、政府のとるべき措置に関して勧告し、とくに合衆国のためウラン鉱の供給を確保する問題に着目する。
 2、現在のところ大学の諸研究室の予算の範囲内で進めているこの実験作業を促進し、そのために資金が必要であれば、この大事業のために貢献することを望む民間人との接触を通じて資金を調達し、また必要な設備を有する工業界研究所の協力を得ること。

 ドイツは同国が接収したチェコスロバキアの鉱山からのウラン売却をじっさいに停止させたと聞き及んでいます。ドイツがこのようなすばやい措置をとった理由は、いまウランに関するアメリカの仕事の若干が反覆されているベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所に、ドイツの外務次官フォン・ワイゼッカーの息子(C・F・ワイゼッカー博士)が配置されていることから、おそらく理解できると思われます。

 以上が「アインシュタイン書簡」である。だが、この書簡はアインシュタインが直接書いたものではない。この書簡を実際に書いたのは、ハンガリーからアメリカに亡命したユダヤ人の物理学者レオ・シラードである。

 デニス・ブラインの『アインシュタイン』から引用する。

 リーオ・ジラード〔レオ・シラード〕はハンガリー系ユダヤ人で、1920年代にアインシュタインと一緒に仕事をしたこともあるが、やはりドイツ人が恐ろしい武器を手に入れたらどうなるかと悩んでおり、そのことしか考えられないほどだった。彼は、ハーンが中性子を使ってウランの分裂に成功するよりも5年近く前に、連鎖反応を平和的に利用できる可能性を予言していた。ジラードも友人のウィグナーも「ドイツがベルギー領コンゴのウラン鉱石を手に入れ、それを使って原爆を製造することを恐れていた」。ウィグナーはチェコスロバキアのウランでも充分に原爆がつくれることを知っていたので、この問題をシラードほど深刻には受けとめていなかった。だが、2人とも、ベルギー政府にこの脅威を警告して、ドイツにこれ以上、ウラン鉱石を与えないためにはどうすればいいかと考えていた。そして、アインシュタインがベルギーのエリザベート皇太后と親しいことを思い出した。彼から皇太后に手紙で警告してもらえばうまくいくかもしれない。

 ウィグナーによると、それは[1939年]7月のことで、アインシュタインがロングアイランドの別荘にいることを知っていた。・・・略・・・

 ★第2章 誰が何のために原爆をつくったのか

  ★ナチス・ドイツ帝国を育てた巨大帝国

 (現アメリカ大統領・ジョージ・ブッシュの祖父はプレスコット・ブッシュである。このプレスコット・ブッシュはブラウン・ブラザーズ・ハリマンの重役として、ナチスドイツとの交渉役を演じて、ヒトラーへの財政援助やドイツでの投資業務で主導的な役割を果たした。・・・ナチス・ドイツはユダヤ財閥と深く関係したニューヨークのウオール街が産み、育てたのである。)
 ・・・1942年10月、日本と英米が開戦して10ヵ月が過ぎた。だが、UBC(ユニオン・バンキング・コーポレーション)はナチスヘの資金融資を続けていた。この10月20日、プレスコット・ブッシュ指揮の下で活動中のナチス政府の銀行業務の停止をアメリカ財務省が命じた。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙がUBCの秘密を暴いたからである。

 1926年、W・A・ハリマン社はヒトラーの最も重要なスポンサーであるフリッツ・ティッセンのために1つの組織をつくった。この組織にウォール街のユダヤ人銀行家で、俗に「死の商人」と呼ばれるクラーレンス・ディロンを迎えた。ここに、新ドイツ・スチール・トラストが出来あがった。この組織のためにティッセンは複数の代表者をディロン・リード社に送り込んだ。ナチス・ドイツの外債を引き受けたのである。

 ドイツの鉄鋼トラストも、新ドイツ・スチール・トラストも、アメリカ資本によってつくられたのである。

 1939年にナチスはポーランドに侵攻する。しかし、フリッツ・ティッセンとブッシュはポーランドから石炭、鉄鉱石を掠奪し、これをナチス・ドイツに売りつけたのである。

 私はヒトラー誕生の1つのエピソードとして、1932年、在ベルリンのアメリカ大使がワシントンに送った報告書について前章で触れた。ナチス党を支持し、そのための資金を提供した最大のスポンサーはドイツのハンブルクを拠点に活躍するウォーバーグ財閥であると書いた。ナチス・ドイツがユダヤ人によってつくられた事実を知ると、第二次世界大戦が何であったかの秘密の大半が解けてくる。それはまた、原爆投下の秘密を解くことに繋がるのである。

 ヒトラーはユダヤ資本を受け入れ、ユダヤ資本に助けられ、そしてそのユダヤ人虐殺して、大戦を拡大させたのである。ロスチャイルド、ウォーバーグのようなユダヤ財閥は、自らの1族さえ安泰ならばそれでよし、とするのである。

 1934年、アメリカ合衆国は、ドイツ国債仮証券発行代理店にブラウン・ブラザース・ハリマンを指名した。ヒトラーが首相と大統領を兼務し、「総統」の名称を使用した年である。このことは何を意味するのか。ブラウン・ブラザース・ハリマンがロスチャイルドのシティバンクと同等になったことを意味する。同時に、ナチス・ドイツが武器や石油を買うためにドイツ国債をハリマンの銀行を通じて発行するということを意味する。ブッシュはドイツ国債をウォール街、ロンドンのシティ、ベルギーの王室などに売りつけるべくヨーロッパを廻る。やがてブッシュは、ロスチャイルドの経営する兵器会社のヴィッカースの兵器受託会社のために働きだす。

 では、日本はどうか。ナチス・ドイツと同様のことが日本でも起こっていた。

 1912(明治45)年、東京市は公債の1部をニューヨークで発行した。日本の外債引き受けのシンジケートはロックフェラー系のナショナル・シティバンクとモルガン系のナショナル・バンク・オブ・コマースであった。その背後でこの銀行を動かし、実質的に公債を引き受けたのは、クーン・ローブ商会であった。日露戦争の戦争債を引き受けた、あのクーン・ローブ商会である。当時の東京市でさえ、ユダヤ金融機関から資金を調達したのである。日本はアメリカから屑鉄を輸入し、それで船や武器をつくった。アメリカが屑鉄の輸出を禁止したとき、すでに日本の敗戦は決定していた。

 ナチス・ドイツに無限に近い援助を続けてポーランドを進攻させたのとちがい、日本は屑鉄や石油の輸入ができなくなり、真珠湾攻撃をするのである。・・・略・・・

 ★ウラン鉱石はニューヨークにあった

 (冒頭の[アインシュタイン書簡=シラードが書いた]に「・・・アメリカ合衆国にはごく低品質のウラン鉱石が少しあるだけです。・・・」と書かれているが、そのとき、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に大量のウラン精鉱がすでに貯蔵されていた。倉庫はベルギーのユニオン・ミニエール(UM)のものであった。・・・と藤永茂は『「闇の奥」の奥』に書いている。) ・・・略・・・

 2007年12月18日、私はある友人から、★藤永茂のインターネット上のブログのプリントを受け取った。この文書に先に引用した文章(要約した)が出ていた。私は自分が書いていたコンゴ産のウラニウムについて、同じような興味をもって書かれている文章に初めて接して驚いた。 


(★藤永茂氏のブログは、
 → http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/ から
 当該月日のバックナンバーで読めます。
 冒頭、【コンラッドの『闇の奥』を藤永茂の新訳(三交社)で読んで下さい】とあります。)
 
 
 このコピーを読んだ日の翌朝、私は福岡市に住む藤永茂氏に電話した。まことに申し訳ないと思ったが、すぐに、私は別府発の福岡行長距離バスにとび乗って、博多の天神にあるホテルのロビーで藤永氏に会った。偶然が重なっていた。その前日、私は藤永氏の著書の『ロバート・オッペンハイマー』を読んでいた。藤永氏は著作に経歴を書いている。 ― 1926年中国・長春生まれ、九州大学理学部物理学科卒。64年九州大学教養学部教授(物理)。68年カナダ・アルバータ大学理学部教授(化学)。91年同大学名誉教授。

 たくさんの著書の一つに『アメリカ・インディアン前史』(朝日新聞社)があった。私は「どうしてこの本を書かれたのですか」と問うた。白髪の老紳士は笑みをうかべ静かに語り出した。

  「私はカナダの大学で教授をしていたとき、カナダのインディアンの悲劇を知ったのです。それが非常な驚きで、この本になったのです。ベルギーのコンゴ産のウラン鉱山も1つの偶然です。コンゴの人々の悲劇を知り、本に書いたからです。それが原爆へと結びついたのです」
 書きかけの原稿を持参していた私は、コンゴのウラン鉱についての部分をお見せした。私は別の方向から、世界を支配する巨大カルテルを追求していき、ベルギー頷コンゴのウラン鉱にたどりついたのである。その経緯を先生に説明した。

 藤永氏はブログで次のように書いている。

 ・・・これ〔『「闇の奥」の奥』〕を書いた時点で、上〔ウラン鉱山〕の「奇態な事実」についての調査が極めて不十分であったことのため、上の記述に時間的な勇み足を犯していたことをお詫びしなければなりません。しかし、この知識に足りなさは、私に限られたことではなく、アインシュタイン書簡を書いた当のシラードも知らなかったことだった筈です。今では話の辻棲が大体合うようになりましたので報告します。

 この文章を読んで分かるように、藤永氏は心やさしき科学者である。氏は原爆誕生の経緯を書いている。文書は非常に理解しやすい。続ける。

 1932年、英国のチャドウィックが電荷を持たない素粒子である中性子を発見。1934年、イタリアのフェルミは中性子を多数の元素に当てて人工放射性元素を作ることを始めました。フェルミの1番の狙いは、天然に存在する最大の原子番号(Z=92)を持つウランの原子核に中性子を当てて、天然には存在しないZ=93、94の新元素を人間の手で作ることにあったのですが、お目当ての新元素が出来た証拠は一向に見付からない。1935年から1938年にかけて、ドイツのハーン、マイトナー、ストラスマンのチームも同じ試みを辛抱強く続けたのですが、超ウラン元素が出来た確証は得られませんでした。それもその筈、ウラン原子核は遅い中性子を吸収して、大きな運動エネルギーを持つ2つの中型の原子核に分裂していたのです。1939年1月になって、スウェーデンでマイトナーとフリツシュによって、やっと核分裂の事実が確認されると、革新的なエネルギー源としてウランを使う可能性が、世界中の原子核物理学者の頭の中で閃きます。中性子の当たったウランが勢いよく2つに分裂して、その際にまた2個以上の中性子がこぼれ出ることになると、その中性子が別のウランを分裂させ、連鎖的な分裂反応の進行が期待されます。この中性子の放出が実際に起こっていることを確かめる実験は、フランスのパリでジョリオ、ハルバン、コワルスキーのチーム、アメリカのコロンビア大学でフェルミとシラードのチームによって競争的に行われました。フランスのチームは実に手回しがよく、実験成功の翌月の1939年5月の1日と4日には、ウラン核分裂のエネルギーをゆっくりと取り出す方法(今で言えば原子炉)と爆発的に放出させる方法(核爆弾)について2つの特許を申請しました。

 原子爆弾が誕生する物語が簡明に書かれている。私は藤永氏から、この物語の具体的な説明を受けた。しかし、氏以上にこの物語を簡明に読者に伝える自信がない。私は私なりに原爆の原理を独学で学んできた。しかし、原爆製造の原理については書かない。それでも、別項でウラン爆弾とプルトニウム爆弾については触れる。この点についても藤永氏の学説を借用する。

 さて、藤永氏はベルギー領コンゴについても書いている。先ほどの文章の続きである。

 ・・しかも、〔1939年〕5月8日には、ジョリオ(仏)はベルギーの首都ブリュッセルに足を運んで例のユニオン・ミニエール社(UMHK)の幹部たちに今後のウラン鉱石の重要性を説明し、その買い付けを申し出ました。その時のユニオン・ミニエール社の社長(ディレクター)が問題の男エドガー・サンジェーだったのです。

 1915年、コンゴのカタンガ地方の南部のシンコロブエで優良なウラン鉱石が発見されましたが、1934年、ジョリオが奥さんのイレーヌ・キュリーと共同ではじめて人工放射性元素を作るまでは、イレーヌのお母さんが発見したラジウムの方が天然放射性元素として人気を独占し、ラジウムを抽出した後のウラン鉱石は、そのまま放置されていたのでした。1939年当時のシンコロブエのウラン鉱山には膨大な量のそうした残渣としてのウラン鉱石が堆積していたのです。それが、突然、重大な戦略物資となる可能性をジョリオ博士の話から嗅ぎ付けた、文字通りの「山師」エドガー・サンジェーは一世一代の大ギャンブルに出ます。1939年といえば第二次世界大戦勃発の年、ジョリオの訪問を受けた直後、つまり、大戦勃発の直前に、ベルギー人、エドガー・サンジェーはシンコロブエに堆積していたウラン鉱石の半分に当たる約1200トンを秘密裏にニューヨークに送り、スタテン島のユニオン・ミニエール社所属の倉庫に隠蔽、貯蔵したのでした。戦争が始まると、サンジェー本人もニューヨークに移住しウォール街にオフィスを開いて、そこからユニオン・ミニエール社の事業を指揮することを始めました。

 アメリカの原子爆弾製造計画「マンハッタン・プロジェクト」は、レスリー・グローブス将軍の総指揮の下で1942年初夏、具体的に動き出しますが、その9月、グローブスの副官ニコルズ大佐はグローブスに命じられてウォール街のエドガー・サンジェーのオフィスに行きました。ニコルズ大佐の任務は原子爆弾に必要なウラン資源を確保することにあり、最も有望視される供給源としてのカタンガのシンコロブエ・ウラン鉱山を所有するユニオン・ミニエール社がどの程度素早くウランを提供できるかをチェックするのが目的でしたが、グローブスもニコルズも早期確保は容易ではないとばかり考えていました。ところがニコルズをにこやかに迎えたサンジェーは、”Youl can have the one now ,it is in New York,a thousand tons of it , I was waiting for your visit” と言って、ニコルズの度胆を抜いたのでした。まさにその通り、グローブス将軍の鼻の下、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に1200トンのウラン鉱石が、高値を付ける日を持って、秘密裏に2年間も寝かされていたのです。ウラン鉱石は直ちにアメリカ陸軍の管理下に移され、また、陸軍の工兵軍団がコンゴに派遣され、ウラン持ち出しのための飛行場がエリザベトビル(今のルブンバシ)とレオポルドビル(今のキンシャサ)に整備され、コンゴ河のマタディ(マーロウ、コンラッドが上陸した!)に輸出港が建設されました。このルートを通って、1942年から1944年にわたって、約3万トンのウラン鉱石がエドガー・サンジェーのユニオン・ミニエール社によってアメリカ陸軍に売り渡されたとされています。・・・

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 この藤永氏のブログは、ユニオン・ミニエール社のウランがどうしてアメリカ陸軍省の手に渡ったのかを書いている。レスリー・R・グローブス将軍(グローブズ、グローヴズと表記する訳書もあるが、本書ではグローブスとする)の『原爆はこうしてつくられた』にその物語は拠っていると思われる。この本の中の「その品物をナチに渡すな」の章に、「1人の忠誠なベルギー人」としてサンジェーが登場する。グローブスは次のように書いている。

 サンギエ 〔サンジェー〕氏が9月18日に思いがけないことを打ち明けてくれたので、われわれは彼が連合国にとっていかに重要な人物であるかを知ることができ、それ以来、われわれにできるあらゆる方法で彼を援助した。支払いの方法などわれわれと彼との取決めのくわしいことは、できるだけ秘密にした。彼は銀行に特別の口座を持ち、売却したウランの代金を預金していた。また、こうした秘密を保護するため、★連邦準備銀行はこれら取引きについて報告しないように手配されていた。

 私は、グローブスの「その品物をナチに渡すな」の章を読み、思ったことがある。ユニオン・ミニエール社の社長サンジェーは単なる「雇われ社長」であり、アメリカに原爆を製造させ、その原料を売り込むために派遣された1エージェントにすぎなかったのではないかと。

 私は第1章の「ウラン鉱石を支配したロスチャイルド」の中で「30年代なかば、カナダの原資ウランが強力な競争者となりはじめるまでU・M(ユニオン・ミニエ-ル社)が世界のラジウム供給を支配した」と書いた。★グローブスの本を読むと、U・Mのウラン鉱石がないと原爆は造れないように書いている。しかし、これは嘘である。

 第1に、アメリカのコロラド州南西部からユタにいたるコロラド高原にも、含有量は少ないがウラン鉱山があり、ラジウムを生産していた。第二次世界大戦当時、この鉱山は大量のウランを生産していたのである。この会社は、ユニオン・カーバイドによって完全に支配されていた。そして、このユニオン・カーバイドはペルーのミナ・ラグラの鉱山も所有していた。この鉱山は、戦前のヴァナジウム産額の3分の1近くを供給していた。この当時、アメリカは世界産額の27%を占め、世界第2のヴァナジウム生産国であった。ウラニウムの最も重要な二次的資源を支配していたのである。しかし、ここに問題が発生する。

 ユニオン・カーバイトとその子会社のヴァナジウム・コーポレーション・オブ・アメリカがロックフェラー財閥の支配下にあった点である。この2つの会社のグループは、ナチス・ドイツのルール地方の鉱業家たちと結びついていた。この鉱業家たちを動かしていたのが、ヒトラーに財政援助をし続けた銀行組織、シュレーダーであった。この銀行組織はジョン・フォスター・ダレスの法律事務所を使った。また、ロックフェラー財閥の資金はブラウン・ブラザース・ハリマンの重役ブッシュ(現大統領の祖父)が運用した。彼らは2つの世界大戦の間、ナチス・ドイツの再軍備に1役を演じた。このことは詳しく書いた。このロックフェラーのグループにメロン財閥も加わっていた。

  ここまで書いてくると真相がかなり見えてくる。ユニオン・カーバイトの子会社とヴァナジウム・コーポレーション・オブ・アメリカは排他的なカルテルを結んでいた。ヴァナジウム精錬の副産物ウラニウムを大量に所有していたのである。

 私はサマセット・モームの言葉を引用した。モームは「軍務を離れた将軍は精彩のない街の英雄にすぎない」と書いている。グローブス将軍は、単なる連絡係であったのだ。「マンハッタン計画」とは、ベルギー領コンゴにあるウラン鉱山のウランをアメリカに売りつけようとして、ロスチャイルドとモルガンが、エドガー・サンジェーというエージェントを使い、いちはやく情報戦争に勝ったという物語の結末に生まれた計画である。

 それにしてもグローブスは世にも不思議なことを書いている。

 「こうした秘密を保護するため、連邦準備銀行はこれらの取引きについて報告しないように手配されていた」と。

 ベルギー領コンゴのウランの支払代金は、財務省と連邦準備銀行の特別勘定から出た(支払われた)のである。このときの財務長官は、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアである。彼はロスチャイルドの血族である。

 ★「国際巨大資本」ロスチャイルド=モルガン=デュポンの暗躍

 イギリスのシュローダー銀行、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ロックフェラーの英米独のカルテル資本グループは、対ヒトラーエ作の面のみに心を奪われ、ロスチャイルド=モルガン=デュポン連合に先を越されたのが(結果が)、マンハッタン計画となった。

 デュポンがほぼ独占化したこの計画には1つの伏線があった。

 ルーズヴェルトは大統領になると、ニューディール政策をとった。この政策は共産主義的であるという批判の声が「自由同盟」という組織から上がった。この同盟に、デュポンとJPモルガンらが加わった。ルーズヴェルトは財閥を「特権諸侯」とか、「経済的国王派」と言って非難した。ルーズヴェルトは大衆の眼前で財閥を非難したので庶民の英雄となった。しかし、化けの皮が剥がされるときがきた。

1937年、「自由同盟」のリーダー格のピュートル・デュポンの娘・エセルとルーズグェルト2世の政略結婚式が行われた。『タイム』誌の表紙を飾った2人の結婚式は「本年最高の結婚式」と持てはやされた。しかし、エセルはルーズヴェルト2世の背中にナイフを突き刺して、この結婚はご破算になる。エセルは精神病院で自殺するのである。

 私は★ルーズヴェルトがどうして大統領になったのかを書いた。ロスチャイルドの一族から金を貰い続けた彼の生涯を読者に示した。ロスチャイルド=モルガン=デュポンの力が、ロックフェラーの英米独のカルテル資本を上回ったのである。ヒトラーは単に利用されただけである。アインシュタイン書簡を書いた、あのシラードという物理学者はたぶん、多重スパイなのだ。


 (注:鬼塚は【チャーチルとルーズヴェルトの素顔-p58~63】として、2人の浪費癖やウオール街での株取引の失敗による借金生活者ぶりを描いている。そして、その借金は共にロスチャイルドに清算してもらっていたことも。「2人とも〔隠れユダヤ人〕であった。・・・ルーズベルトは本名をローズフェルト・赤いバラ というオランダ系ユダヤ人であり、彼自身もそれを認めている。」とも。
 とにかく、2人は「国際ユダヤ財閥にとってまことに都合のよい」アメリカ大統領とイギリス首相だった、という。
 また、後半の一節に★〔「私は大統領を辞めたい」 ルーズベルトの怪死と原爆〕と題して、大統領の、原爆投下に対する苦悩ぶりや暗殺説や自死説などを書いている-p175~184-がここでは略。)
 
 さて、もう1度、藤永氏のブログの続きを見ることにしよう。

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 ・・・このカタンガ生まれのウランが、1945年8月6日8時16分、広島を壊滅させたのでした。1946年、アメリカ政府は、エドガー・サンジェーの「連合国の勝利に目覚ましく貢献した功績」に対して「功労勲章」を授けます。サンジェーは、米国市民ではない人間として、勲章の初めての受章者になりました。
 拙著『「間の奥」の奥』の224~5頁に「1943年8月ルーズベルト大統領は英国首相チャーチルとカナダのケベックで協定を結び、アメリカはコンゴ産出ウランの2分の1の所有権を確保し、1944年3月に英米両国はコンゴ産のすべてのウラン買い付けの権利をベルギー政府に承認させた。銀行強盗が事前に山分けの相談をするのと何の変わりもない。ウランの産地シンコロブエは当時の英領ローデシア北部(現ザンビア)とベルギー領コンゴの国境のすぐ近くに位置する。英米のカタンガのウラン資源の一方的独占収奪はコンゴ共和国独立後の数多のトラブルの震源地をシンボリックに予告するものであった」と書きました。ウラン資源をめぐるこの英・米・ベルギーの「契約」は東西冷戦の時代まで続いたことを思えば、青年首相ルムンバにカタンガ地方の支配を委ねるというのは、反ソ陣営としては絶対に受け入れられないことであったことが、よく分かります。

 世の中には「知らないままの方が良かった」と思われる事実が沢山あるようです。コンラッドが小説『闇の奥』の構想を温めていた丁度その頃、ベルギー王レオポルド2世はコンゴ河流域の黒人たちを酷使して、密林に自生するゴムの樹の樹液(ゴム原料)を、気が狂ったように収集して世界に売りさばき、巨利を得ていましたが、実は、その金はカタンガ地方の制覇と開拓に是非とも必要だったのでした。多数の黒人原住民を死に追いやって稼いだ資金が、回り回って、ヒロシマ・ナガサキの原爆を生んだという事実を知れば、日本人ならば誰しも全くやりきれない気持に追い込まれます。          「藤永茂ブログ」(2007年11月21日)

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 この文章を読んで気になったことがある。「・・・1944年3月に英米両国はコンゴ産のすべてのウラン買い付けの権利をベルギー政府に承認させた」という点である。
 当時、ベルギーはナチス・ドイツの占頷下にあった。従って、ベルギー政府は正式には存在しない。ベルギーはイギリス国内に亡命政府をつくった。これは何を意味するのか。英米は亡命政府と交渉しただけで、正式の協定と認めさせたということだ。誰が正式の協定と認めたのか。ナチス・ドイツが英米に暗黙の了解を与えたということだ。ヒトラーはベルギーを支配している。すなわち、ベルギー頷コンゴに対しても権益を主張できる、ある程度の正当性を持っている。しかし、英米は亡命政府と協定を結んだのである。

 ユニオン・ミニエール社はソシエテ・ジェネラル銀行が支配する。この銀行はベルギー王室と金融業者が所有する私的企業であると私は書いた。★この銀行をヒトラーは支配することができなかった。どうしてか? ヒトラーはベルギーの金融資本の背後にある国際寡頭資本家に育てられて、第二次世界大戦をやらされていたからである。

 「銀行強盗が事前に山分けの相談をするのと何の変わりもない」と藤永氏は書いている。全くその通りである。
 「多数の黒人原住民を死に追いやって稼いだ資金が、回り回って、ヒロシマ・ナガサキの原爆を生んだという事実を知れば、日本人ならば誰しも金くやりきれない気持に追い込まれます」と藤永先生は最後に書く。

 ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下は日本だけの問題ではない。

 藤永氏は★2007年12月5日のブログで、「無題」のタイトルのもと、「ベルギー国王レオポルドニ世再考(上)」を発表している。その1部を抜粋する。

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 1906年は、たまたま、ハナ・アーレントの誕生年でもありますが、彼女は主著『全体主義の起源』の中で、レオポルド王のコンゴ植民地経営を「ベルギー国王のきわめて個人的な『膨張』に基づくだけの sui generis (特殊なもの)であった」としていますが、カタンガ地方の歴史、ユニオン・ミニエール社をめぐる国際的資本の参加侵入の歴史を学べば学ぶほど、アーレントの断定が極めて皮相的なものであったことが明らかになります。ユニオン・ミニエール社には、設立当初から、ロスチャイルドの名に象徴されるベルギーと英国にまたがる資本が参画していましたが、1907年、カタンガの北に接するカサイ地方で林業とダイヤモンド等の鉱業を始めたfフォルミニエール社という会社にも、発足当初から、米国のグッゲンハイム・グループが出資し、さらに、1950年には、ロックフェラー・グループがユニオン・ミニエール社の大株主になりました。

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 ハナ・アーレントの★『全体主義の起源』は全体主義を知るバイブルとして戦後1時期の日本で広く読まれた。しかし、この本は全体主義を秘匿するために書かれたように思う。藤永氏は「・・・ロスチャイルドの名に象徴されるベルギーと英国にまたがる資本が参画していましたが・・・」と書いている。私はこの点から、コンゴのウラン鉱山を追求してきたのである。  


 この鬼塚氏の『原爆の秘密〔国外編〕』のサブタイトルは、

 【殺人兵器と 狂気の錬金術】です。 

 長くなりすぎたので、稿を改めます。 


 
 引き続き、鬼塚氏の著から続ける。

 ●『原爆の秘密 国内編』 昭和天皇は知っていた。 


★日本人はまだ原爆の真実を知らない 「序として」

 原爆はどうして広島と長崎に落とされたのか? 多くの本は、軍国主義国家たる日本を敗北させるために、また、ソヴィエトが日本進攻をする前に落とした、などと書いている。なかでも、アメリカ軍が日本本土に上陸して本土決戦となれば多数の死者を出すことが考えられるので、しかたなく原爆を投下した、という説が有力である。

 しかし、私は広島と長崎に原爆が落とされた最大の原因は、核兵器カルテルが狂気ともいえる金儲けに走ったからであるとする説を立てて、姉妹書『原爆の秘密 国外篇』(*上に一部紹介した。)を書きすすめたのである。

 核兵器カルテルとは何か? アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。

 ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウムを抽出し、これを使って原爆を製造する。ウラン爆弾の製造は1945年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。

 1945年7月16日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。この実験が遅れ、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・スティムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。

 そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである。

 本書『原爆の秘密 国内篇』はこの私の推論が正しいことを立証するものである。ただ、その過程では、日本人として知るに堪えない数々の事実が浮上してくる。読者よ、どうか最後まで、この国の隠された歴史を暴く旅におつき合いいただきたい。それこそが、より確かな明日を築くための寄辺となるであろうから。

2008年7月、 またあの日を目前にして  鬼塚英昭

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 目次は以下の通り。


 ●日本人はまだ原爆の真実を知らない[序として]


 ●第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立

 東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」
 第二総軍設立の真の理由に迫る
 原爆投下予告を確かに聴いた人々
 投下予告はこうして封印された

 ●第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 日本進攻計画と第二総軍との「不可解な暗合」
 発令されなかった警戒警報
 謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち
 生者と死者と、あるいは賢者と愚者と
 演出された投下時刻「八時十五分」の意味

 ● 第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

 「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く
 やはり予告されていた長崎への原爆投下 
 カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ

 ● 第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係
 元帥の述懐は「君!・・・なるようにしかならんねエ」
 「県庁員幹部二死傷ナシ」は何を意味するか
 アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた
 日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」

 ● 第五章 見棄てられた被爆者たち

 原爆はどのように報道されたのか
 ドクター・ジュノーの懸命なる闘い
 「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」
 国際赤十字社、もうひとつの顔
 迫りくる恐怖、生き抜いた原爆患者たち

 ● 第六章 天皇と神と原爆と

 天皇美談だけが残って、責任は消えた
 「神の御心のままに」逝った人々
 原爆で死んだ人々を見つめて

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 ●第1章 原爆投下計画と第2総軍の設立

 ★東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」 


「東京ローズ」をご存じだろうか。第二次世界大戦中、太平洋戦線にいたアメリカ兵への宣伝放送を、魅惑的な英語で読んでいた日本人女性アナウンサーのニックネームである。彼女たちの甘美で美しい声は、故国を遠く離れた若い米兵たちの郷愁をかきたてたという。

 だが、その東京ローズについて書く前に、ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エノラ・ゲイ』(1980年)からある文章を引用する。とても奇妙なことが書かれている。その文章は「1945年7月12日 -   テニアン島」の項の中にある。テニアン島の基地から原爆投下機が広島、そして長崎に向かったのである。

 ビーザー〔テニアン島に派遣された諜報将校〕は、テニアン島占領の時に戦死したアメリカ兵の墓地の近くのかまぼこ小屋にいた。その墓地には、彼が目撃した墜落事故で死んだ爆撃機乗員たちの遺体も葬られていた。ビーザーはその後、焼夷弾をぎりぎりまで満載したB29のそうした墜落事故はテニアン島では珍しくないことで、嫌でも逃れられぬ人生の現実であることを知るようになった。ビーザーは服を着ると、かまぼこ小屋の中が空っぽなのを知った。仲間の将校たちはおそらく浜辺へ海水浴に行ったのだろう。

 小屋のラジオのスイッチをひねると、センチメンタル・ジャーニーの曲が雑音のなかから聞こえてきた。そしてその曲が止むと、続いて甘い美しい声が響いた。それはビーザーが、しゃくだけれども引きつけられているものだった。

 東京ローズが太平洋地域のアメリカ軍向けの定時の宣伝放送を繰り返していた。

 日本放送協会(NHK)で戦時宣伝放送「ゼロ・アワー」が開始されたのは1943年(昭和18年)3月であった。参謀本部情報局管轄のもとに行われた対連合国向けの謀略放送である。命じられるままに、東京ローズは太平洋地域のアメリカ軍向けの放送を流していた。『エノラ・ゲイ』の続きをみよう。

 ・・・東京ローズはもう2度も第509航空群のことを名指しで取り上げて、隊員たちの胆を冷やした。第1回目は、第509航空群・地上勤務部隊が5月30日のメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)にテニアン島に上陸した直後のことであった。東京ローズは彼らの到着したことに触れ、「日本軍の餌食にならないうちにアメリカヘお帰り」とすすめた。

 第509航空群の隊員のなかにはその言葉を嘲笑したものもいたが、また心配したものもいた。そういう隊員は、一体、東京ローズがどうやって、アメリカ全航空隊のなかで最も秘密のこの部隊のことを知ったのだろうかといぶかった。それから2週間後に、東京ローズはまた第509航空群のことを言った。彼女は、第509航空群の爆撃機は、尻に「R」の記号がはっきりついているから、日本軍の高射砲隊はすぐ見分けられるぞと警告した。今度は誰も馬鹿にはしなかった。その記号が機に書き付けられたのは、そのすぐ前のことだったからである。

 『米軍資料 原爆投下の経緯』(1996年)を見ることにする。

 第509航空群団が米軍資料に登場するのは、「資料A-3/グローヴス将軍ヘテリー大尉から。主題:12月28日に貴官グローブスの執筆室で開かれた会議のノート」(日付1945年1月6日)である。

  ・・・
 8、今後のティベッツ大佐の群団の計画について、以下の通りに決定をみた。
 a、第509〔航空〕群団の全機は、陸軍の規格爆弾が運べるように爆弾倉内の懸架装置を改修する。この作業は、群団の訓練がバティスタ飛行場で完了したのち、4月15日ごろに特別改修工事で行う。
 b、テイベッツ大佐の群団が作戦に使用できるように、月当り最低9発の大型爆弾を提供する。
 c、デリー大尉は、将軍(グローブス)のために、第509航空群団の、1月1日から3月1日を経て6月 15日に至る間の、作戦の概要をまとめて提出するように求められた。

 第509航空群団は原爆投下のために作られた特別の航空群団であった。この群団は1944年12月28日に正式に発足した。この会議記録のなかに気になることが書かれている。

 7、6月15日と7月15日の間の、東京上空の気象条件はどうかという問題が出された。アツシュワース海軍中佐は、8月15日までは比較的に雨が多いと指摘した。

 なお、「大型爆弾」とは、ファットマンと同一の弾体を有し、火薬だけを詰めたものと提示された、と書かれている。カボチャ爆弾と後に呼ばれたものである。

 どうして東京ローズは第509航空群のことを知り得たのか? 彼女はNHKに雇われた2世の女性である。彼女の人生を知りたい人は、上坂冬子の『東京ローズ』1995年)を読まれるがいい。しかし、この本は、東京ローズが放送で米兵に語りかけた肝心の内容についてはまるで触れていない。

 『エノラ・ゲイ』の続きを見ることにしよう

 ・・・ビーザーは、東京ローズがそこら辺中のことを知っているらしいのに不安は覚えたが、それでもその日本からの妖しい魅惑的な声には耳を傾けた。今朝も彼女は相変わらず、アメリカのごく最近の野球試合の点数、ブロードウェーの内外の劇場にかかっているドラマやコメディの知らせ、フィクションとノンフィクションのベストセラーの詳細を知らせ、その間に現在のヒットパレードの曲を流した。
 今日は第509航空群の名前は出なかった。ビーザーはラジオのスイッチを切って、東京ローズに他のホームシックの兵隊の慰問をまかせた。

 引用文中のビーザーとはテニアン島に派遣された検閲将校である。東京ローズのニュース放送を検閲していたのである。この東京ローズに関する文章を読むと、★日本の陸軍参謀本部が原爆のことを知っていたことに気づくのである。

  戦前戦中、東京・駿河台の現在は文化学院がある場所に「駿河台技術研究所」(後に駿河台分室と改められた)があった。上坂冬子の『東京ローズ』から引用する。

 ・・・技術研究所とは申すまでもなくカモフラージュのための偽称である。私がこの蔦のからまる文化学院にことさら注目するようになったのは、
「謀略放送といえば東京ローズのゼロ・アワーが真先に引き合いに出されますが、実はあれはいわゆる謀略放送のほんの1部にしかすぎません。主流は何といっても駿河台技術研究所(捕虜の間では通称〔文化キャンプ〕)の捕虜たちの行った放送ですよ」と述懐した元参謀本部宣伝主任・恒石重嗣中佐の一言にひきつけられたからである。・・・

 上坂冬子は捕虜たちのことを詳述するが、どんな内容を彼らは喋らされたのかについては書いていない。しかし、興味深いことを書いているので引用する。

 ・・・14人の捕虜のうち3人(ヘンショー、ブロボー、マクノータン)は翌日早速NHK第五スタジオヘ赴いて、同盟通信社(昭和11年連合通信社と日本電報通信社通信部門を合併して設立した国策通信社で社長は吉野伊之肋、幹部には松本重治、長谷川才次、井上勇の各氏など)の用意した原稿を読み上げ、かくて我が国初の捕虜による謀略放送第1回「日の丸アワー」は放送されたのである。・・・

 この上坂冬子の文章を読んで分かることがある。あの「黙殺」発言を「イグノア」と訳したのが、国策通信社による謀略であったということである。松本重治や長谷川才次は戦後にアメリカのロックフェラー財団と気脈を通じて甘い汁を吸った謀略家たちであった。あの東京ローズのニュースも1種の国策であろう。陸軍参謀本部と同盟通信社が共同でニュースを作成し、東京ローズに喋らせたのである。彼ら陸軍参謀本部のエリートや同盟通信社の幹部たちは、第509航空群の爆撃機の尻に「R」のマークがついている秘密まで知っていたのである。これが何を意味するかは考えるまでもないことである。
 彼らは、ロックフェラーやモルガンと通じていたのだ。そして、原爆が落とされるまで日本を降伏させないように猿芝居を演じていたのである。この同盟通信社とヨハンセン・グルーープに深い因縁があることはすでに姉妹書『原爆の秘密 国外篇』で書いた。

 上坂冬子は「その8課(参謀本部の)の人々は戦後から今日まで『駿河台会』という名の親睦会を持っており、ほぼ毎年1回の割で集りをつづけて、すでに30回を越えている」と書いている。そして、1977年7月12日午後5時、上坂冬子は会場の霞が関ビル34階の1室に、取材許可を得て出席する。そこに元参謀本部第二部長・有末精三陸軍中将が出席していた、と上坂冬子が書いている。この有末清三陸軍中将の発言を上坂冬子は書きとめている。

 ・・・ついに82歳の有末精三元中将まで立ち上り、
 「東京ローズの生みの親というオーストラリアのカズンズ少佐に、1度だけ駿河台で会ったことがあるんだが、私はこういうザックバランな男だから、こちらからグッドモーニングと手をさしのべて『食い物はどうだ』と聞いたら、彼は即座に『ワンダフル』と答えましたな」・・・

 戦争が終わったとき、多くの軍人や政治家、文官たちが戦犯となったり追放処分となった。しかし、謀略機関で働いた連中は、1部の例外はあるものの、ほとんどが自由の身となり、それだけではなく、権力と富を得た。有末精三も例外ではなかった。「有末機関」をつくり、米軍に協力した。これは何を意味するのか。彼らはアメリカとグルであったことを意味するのではないのか。アメリカのために働いてきたのではなかったのか。

  続く。
 

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