pixivは2021年5月31日付けでプライバシーポリシーを改定しました。

mono
mono
Sweet Dreams (Are Made Of This) - monoの小説 - pixiv
Sweet Dreams (Are Made Of This) - monoの小説 - pixiv
95,745文字

1.

 七海建人が逸架と初めて任務に出たのは灰原が死んで二週間が経った日のことだった。

 七海は彼女のことを話には聞いていた。だがこうして会うのも、ともに任務にあたるのも初めてだった。七海が高専に入学したときに逸架は四年生で、もうほとんど正規の呪術師と変わらぬ仕事をしていた。逸架に纏わる、ろくに学校にも来ずふらふらしているという噂は流言ではなく事実で、七海は彼女を高専で見かけたことがほとんどなかった。彼女が五年生となってからは敷地内ですれ違うことすらなくなった。  どういう人なのであろう、と七海は思った。噂話だけはいくらでも出回っていた。五条が覚醒する以前、高専で最も実力のある生徒はと問われれば十人が十人彼女の名を挙げた。ただし強力な術式を持つ代わりに人間性が破綻しているというのはもっぱらの評判で、任務はすっぽかす、提出書類はまともに書かない、謹慎処分もろくに守らないというので周囲から――特に補助監督からの評判は芳しくなかった。七海は逸架のことを五条のような力に裏打ちされた自信と不遜と奔放さを持った人物だと予断していた。  七海は指示された集合場所の喫茶店で三杯目のコーヒーに口をつけ、腕時計に視線を落とす。指定の時刻からすでに二時間が経過していた。溜息をひとつつき、任務の管理をしている補助監督に電話をかける。すぐに電話に出た彼に事の次第を伝えれば「あ! 七海くんは彼女と初任務でしたね! すみません、伝え忘れていました! 本当に申し訳ない!」と何度も謝りながら七海にビジネスホテルの名前を告げる。そこに迎えに行ってくれないか、と言われ七海は眉をひそめる。子供じゃあるまいし、と反駁しかけると、電話の向こうがやにわに騒がしくなる。そういうことなので、と言い終わらぬうちに電話は切られる。七海はうんざりしながら会計を済ませ喫茶店を後にした。冷房の効いた室内からじりじりと焼け付くように暑い炎天下に放り出される。七海は途端に噴き出す汗に顔をしかめた。呪術師という奴は本当に、と舌打ちする。

 指示されたホテルのフロアを見渡し、部屋番号のプレートを順に見ていく。目当ての部屋を見つけノックしようとすると、オートロックのドアが半開きになっていた。七海は眉を寄せ、鉈に手をかけ、肩でそっとドアを押し開ける。何者かの襲撃があったのかもしれない。室内に荒らされた様子はなく、ユニットバスからざあざあと水の流れる音だけがした。呪霊の気配もない。 「逸架さん」  ユニットバスの薄いドアの向こうに声をかける。反応がない。七海はもう一度声をかける。これで返答がなければ蹴破るつもりだった。だが、きゅ、とシャワーの栓が閉められる音が聞こえた。 「二十七日、十時、駅前の喫茶店集合」  小さな女性の声だった。 「今何時だと思ってるんですか、もう二時間も過ぎています」  七海の声は意識せずとも責めるような語調になった。二時間も待ちぼうけを食わされ、迎えに来てみれば悠々と風呂に入っている。腹を立てるなと言うほうが難しかった。そう、と先ほどと変わらぬ声音が返ってきた。七海は彼女に関する遅刻癖の悪評を思い出していた。悪びれもしないようであったら、先輩とはいえ苦言の一つも呈してやろうと思った。  ユニットバスのプラスチックの床を踏む足音と振動が七海に届く。簡素な作りのドアが細く開けられる。ドアの隙間からシャンプーの香りをはらんだ蒸気がふっと漏れ出し、七海の頬を撫でる。その向こうで、黒く濡れたような瞳が心底申し訳なさそうに七海をじっと見ていた。 「ごめん、本当にごめんなさい。今急いで出るから。ごめん」  そう言われ、七海は返す言葉を失った。喉のあたりまで出かけていた文句が詰まり、行き場を失う。 「これから急いでもどうにもならないでしょう。しっかり泡を流してから出てきてください」  七海はやっと、嫌味めいた言葉だけを返した。目はすっと閉じられ、また「ごめん」とだけ囁き声が聞こえ、ドアが閉められる。また水音が響く。それに紛れて慌ただしく身動きする音も聞こえた。  七海は使用感がないほど丁寧に片付けられたベッドに腰かける。なんなんだ、と一人呻いて溜息をついた。  水音がやみ、部屋中にがたがたとユニットバスの物音が響く。ビジネスホテルの浴室の物音は案外室内に響くらしい。ビジネスホテルには一人でしか泊まらない七海には新しい発見だった。プラスチックのドアが遠慮がちに開けられ、中から濡れた手がそろそろと覗く。その手は壁に掛けられた制服を指さしていた。 「……ごめんなさい、本当にすみません、制服取ってもらってもいい?」  七海は無言でベッドから立ち上がり、制服を手に取る。ドア越しにどうぞとそれを押し込むと「すみません……」と逸架の手が制服を掴んで引っ込んだ。 「逸架さん、私はホテルのロビーにいますので」  初対面の女性の着替えに付き合うのもおかしな話である。七海がそう提案すると、バスルームの物音がやんだ。何事かと耳をそばだてると囁くような声でまた「すみません」と聞こえてくる。七海は毒気を抜かれ立ち尽くした。バスルームに向かって「またあとで」とだけ言い残し部屋を後にする。入るときは半開きになっていたドアをどうするか迷ったが、きっちり閉めてオートロックがかかっていることを確認した。

 ロビーのソファに座って待っていると、十分足らずで見慣れた制服の女性がエレベーターから降りてきた。逸架の姿の記憶は曖昧であったが、高専関係者がそう何人も宿泊しているとも思えない。逸架はフロントで何かやりとりをしていた。そこでも彼女は何度も謝罪の言葉を口にし、深く頭を下げている。どうやらチェックアウトの時間を超過したことに対して謝っているらしい。そんなの超過料金を支払うだけでいいだろう、と七海は思う。  七海は彼女の姿を遠目に眺めた。制服の中で体が泳いでいる。高専制服は特殊素材のフルオーダーだ。彼女がゆとりのある服装を好むのでなければ、短期間で痩せたのだろうか。星漿体の一件以降、様々な要因で活性化した呪霊のために呪術師は休む間もなく引きずり回されている。彼女もそうだろうか。傲慢なまでの強さを周囲から認められる逸架も、疲労で痩せることがあるのだろうか。  逸架は良くも悪くも普通だった。頻繁に引き合いに出される五条が魔性じみて端正な姿をし言動も独特で苛烈であることに比べれば、逸架は特段目を引くものを持ってはいない。伏せられがちな黒目だけが濡れたように艶々としている。  逸架は少ない荷物を手に七海の方へ歩いてきた。表情に乏しい顔は伏せられ気味で、風呂上がりだというのに青ざめた頬に湿り気の取り切れていない髪が落ちている。 「――お待たせして、本当に、申し訳ない」  逸架の声音は控えめで申し訳なさが滲むが、表情が茫洋として真意を測りかねる。七海が何と答えるか迷っている間に逸架は淡々と先を続けた。 「五年生の逸架です。七海さん? 七海建人さん?」 「……はい、そうですが」 「今日はよろしくお願いします」  小さく会釈され、七海も思わず会釈を返した。仮にも相手は己の先輩で遙かに階級も上であるのだからもっと丁寧に挨拶をすべきであったか、と七海は思ったが、逸架は特段それを気にする素振りも見せなかった。  逸架の温度の低い視線がホテルのエントランスの方を向いた。移動しながら話しましょう、と逸架は言う。七海に異論は無かった。ただでさえ予定の時刻はとうに過ぎている。  ガラス製の自動ドアを潜った途端に触れられるような熱気が頬を撫でていく。地方の小さな町では、駅前でもジイジイと激しく蝉が鳴いていた。二人は補助監督に指示された現場まで歩く。駅前からほど近い再開発地域の廃病院に出現する呪霊の祓除が今回の任務であった。窓の調査によれば最も強力な呪霊は二級、しかしこれが観測しきれないほど複数体、あとは蠅頭に毛の生えた程度がまばらに見られる。今の七海には少々荷が重く、逸架には準備運動にもならない仕事であった。 「先生から聞いているかもしれないけど、今回の任務で私は――」  その先を逸架は口籠もる。そのまま何も言わなくなるので、七海は痺れを切らして「なんですか?」と先を促す。逸架は思い出したように言葉を続ける。 「七海さんの……補助役に入ることになっています」 「つまり指導ということですか」  事件以降、呪術師全体の実力の底上げは急務になっていた。教師やOBだけでなく生徒どうしの試験的バディによる現任訓練と指導も行われている。七海が言うと逸架はしばらく宙に視線をやった後、首を横に振った。 「指導なんて、そんな大層な物では……」 「私としては指導していただいた方が助かるのですが」  七海の脳裏に霊安室で寝かされる灰原の面影がよぎる。どうしてか思い出すのは清拭されたその姿ばかりだ。今、七海の中にはこれ以上誰も失わないための力がほしいという気持ちと、全て投げだし逃げ出してしまいたいという気持ちが、混ざり合うことなく存在している。  逸架はちらりと高い位置にある七海の顔を見た。七海が視線を返す前に、逸架は視線を前に戻す。 「私の術式のことは――」 「知っています」  七海が短く答えると逸架は「そうですか」と小さく頷く。逸架は饒舌なタイプではないらしく、それ以降黙々と歩を進めた。七海もおしゃべりなたちではないのでそれは気にならなかった。  廃病院の裏口で、逸架は帳を下ろす。それから伸び放題の植え込みに荷物を隠した。それを見た七海は「駅のコインロッカーに預けてくれば良かったのでは」と思ったが、さきほど会ったばかりで指摘するのも憚られた。七海もそれに倣い、鉈を隠していたスポーツバッグを植え込みに投げ込んだ。  逸架は制服のポケットから円柱形の容器を取り出す。プラスチック製のボトルで中に半分ほどBB弾が詰められている。逸架は中身を手のひらの上にざらざらと出した。 「七海さんの術式は――」 「物体の七対三の点に強制的に弱点を作ります」  逸架は頷く。 「良い術式です」  逸架が言うと嫌味にさえ聞こえるが、そういうつもりは微塵も無いらしい。七海は眉をひそめる。 「シンプルで、そのために対策も取りにくい。ただし、威力と確実性が七海さん自身の判断力に大きく依存している」  そのとおりである。七海は険しい顔のまま頷いた。術式があったところで、己の目で七対三を見極め寸分違わず攻撃を当てなければ用をなさない。  逸架は窓の割られた通用口に手を掛ける。扉を開けた瞬間、蠅頭がわっとあたりを飛び回る。七海が鉈に手を掛ける前に逸架が指で弾き出したBB弾でそれらを残らず叩き落とした。軽いBB弾が高速で弾き出され、蠅頭に着弾し蠅頭もろとも破砕して消える。 「七海さんは二級に集中しましょう」  蠅頭に埋もれ、朽ちた椅子に座る二級呪霊を示しながら逸架は言う。呪霊は叫びながら七海に追いすがる。七海は飛び退りそれを避けた。 「いいですか七海さん、七海さんが呪霊に入れられる攻撃は一回きりです。そういう気持ちで挑んでください」 「――なんです!?」  呪霊の猛攻を躱しながら七海は鉈を振り上げた。七対三は正確には捉えられていなかったが、おおよその見当をつけそれを振り下ろそうとする。途端、ぴたりと体が動かなくなった。呼吸すら出来ない。呪霊による攻撃か、と考えを巡らせるが、当の呪霊も動かないまま七海と顔を付き合わせている。床から舞い上がった塵と礫が空中で動くことなくとどまっている。 「七海さん」  ざらざらとした耳鳴りの中で逸架の声が背後から囁かれた。 「私には指導することはありません。七海さん、入れるのは一太刀です。敵をよく見てください。見ましたか? 弱点は? 見えましたか? いいですか? 術式を解除します。――三、二、一」  ふ、と耳鳴りが途切れ呪霊の喚き声が七海の耳朶を打つ。七海は鉈を呪霊の胴体に振り下ろした。七対三に分断された体は霧散し、塵となって消える。  逸架は天井付近を漂う蠅頭をBB弾で弾いた。 「気分はどうですか、人によってはひどい車酔いのようになってしまうことがあるので」 「――平気です」  七海は鉈を握り直す。  逸架の術式は物体の速度に干渉する。至極単純なはずのそれは、その速度が光速に限りなく近付くにつれ、質量そのものがエネルギーとなり、普遍的な時間の概念をねじ曲げ、空間を歪め、時空を掌握する。逸架の術式は誰もが疑わぬ時の運行の公平性に手を掛ける。  術式に名前は無い。逸架は非術師家系の出身であり、また過去に例のない術式であった。逸架自身がそういうものに頓着しない性質であり、優柔不断で考え込みすぎるせいもあり、名前が定まらないまま今に至る。  逸架は視線を天井に向ける。 「今見てきましたが、この建物の中には四十八の二級呪霊が巣食っています」  いつ見てきたのだ、と七海は尋ねかけたが、彼女には意味の無い問いであったのでそれを飲み込む。 「反復練習です。呪霊に対峙し、弱点を見極め、一太刀でとどめを刺す――時間はたっぷりあるので」  七海はそれを軽口の類いかと逸架の顔を思わずじっと見たのだが、逸架は怪訝そうに七海を見つめ返すだけだった。 「息を整えたら、次」  逸架は淡々とそう言った。



 七海が四十八の呪霊を斬り伏せるのに四十九太刀が必要だった。最後の一体への攻撃は弱点をわずかに逸れ、二太刀目を必要とした。大量に汗をかき、汚れた床に膝をつく七海はやり遂げられなかった悔しさに歯噛みする。表面上に顕わしはしないが。  荒い息を整えながら、七海は逸架を見上げる。逸架は七海を見下ろす。 「――講評は、」  七海が呻くと逸架はわずかに眉をひそめた。七海は今日彼女の申し訳なさそうな顔以外の表情を初めて見た気がする。逸架は眉根を寄せたまま床を眺めている。しばらく何も言わないので七海は「逸架さん」と名前を呼んだ。逸架は首を横に振る。 「指導者ではないので」 「一応先輩でしょう」 「……いやあ、私が言うことは、なにも」  煮え切らない口振りに七海は疲労も相まってだんだん苛立ってきた。語調もやや刺々しさを帯びる。 「後輩にアドバイスがあってもいいのでは」 「そんなことを言われても……」 「逸架さん」 「……ごめん、少し考えてもいい?」  七海は返答ともつかぬ呻き声を上げる。逸架は七海の傍らに屈み込んだ。青白い顔が心配そうに覗き込んでくる。 「立てる?」 「無理だ、と答えたらどうなるんですか?」  逸架は困惑げに眉根を寄せた。黒い目が宙を滑り「しばらく待つしかないかな」と肩を落とす。七海はそれを聞いてのろのろと立ち上がった。ふらつくが、駅まで歩くくらいなら問題なさそうだ。  来た道を来たときの何倍も時間を掛けながら戻る。あれほど長時間呪霊を斬っていた気がするのに、日はまだ高い。日の高いうちから酩酊したようにふらふらと道を歩く七海を見て、すれ違う何人かは七海に道を譲った。七海は己の亀のような歩調に付き合う逸架の背中に声をかける。 「逸架さんは先に行ってください」  逸架はその言葉に振り返り「そういうわけにも」とだけ言った。どういうわけだ、と七海は思う。規格外の術式をその身に刻んでおきながらその曖昧な態度はなんだ、と全く八つ当たりめいた感情が頭をもたげた。逸架の自信なさげな態度は、灰原を喪いささくれ立った七海の神経を無闇に逆撫でした。 「……肩でも貸そうか?」  子連れが大きく七海を避けるのを見て逸架が提案する。七海は首を横に振る。鉈を振るい続けた首と肩の筋がびりびりと痺れた。 「結構です」  己より小柄な女性に肩を貸され歩く己の姿を想像し七海は痛みのためではなく表情を歪める。そう、と逸架は小さく呟いた。七海はそろそろ逸架も諦めて先に行くかと期待したのだが、逸架は暴力的な日差しの照りつける夏のアスファルトの上を、七海の歩みに合わせてゆっくりと歩いた。 「……暑いね」  ぽつり、と逸架は溢す。白い頬をだらだらと汗が伝っていた。 「だから、先に行ってくれと言ってるじゃないですか」 「ああ、ちがう……そうじゃなくて……」  ただ暑いなって、と逸架は地方都市のさして人の多くない雑踏にかき消されそうな声で言う。七海は額の汗を手のひらで拭う。疲労の前に熱中症でどうにかなりそうだった。

 駅に着くなり待合室の椅子に座り込む七海に逸架はスポーツドリンクと切符を買って手渡す。七海は礼もそこそこに冷えたペットボトルを呷った。勢いよく流れ出す液体が頬を伝い首に落ちる。あっという間にボトルを一本空にした七海に逸架は伏せられがちな目に驚きを滲ませる。 「もう一本買ってこようか?」 「はい――あ、いえ、自分で買います」 「いいよ、座ってて」  自販機に向かう逸架の後姿を見て、七海は「先輩に使い走りをさせてしまった」とぼんやりと思う。ボトルを片手に戻ってきた逸架が七海にそれを差し出した。 「ありがとうございます、お金は払います」  礼を言い忘れていたことに思い至り、七海はボトルを受け取りながらそう口にした。制服から財布を取り出そうとする七海に逸架は首を横に振る。 「いいよ、先輩だから」  七海は素直にそれを受け、受けてからもしかすると今のは廃病院での七海の発言への意趣返しであったのだろうかとふと思った。

 ローカル線の車両が三両きりの列車にはボックス席しかなかった。七海は気まずさを感じながらも逸架の斜向かいに席を取る。向かい合わせに座るほどの親交も無く、かといって別のボックスに座るのはよそよそしすぎる気がした。  車両には他に大荷物を抱えた中年夫婦と、萎れた老婦人がいるだけだった。夫婦が時折短く言葉を交わし合う以外は、車内放送と線路を車両が走る音しか聞こえない。車内は冷房が効いていて、かいた汗が冷えていく。思わずうとうとする七海に向かい逸架が口を開いた。 「よかったと、思います」  なにが、と言いかけ、七海は己が「講評は」と尋ねていたことを思い出した。それに対して彼女が「時間をくれ」と答えたことも。当てつけめいた七海の要求に、逸架は今までずっと考えを巡らせていたらしい。七海はうっすらと「この人、いい加減なのか真面目なのか分からないな」と思った。 「七海さんが半分も祓ったら上々だと思っていたから……想像以上です。少しびっくりしています」  二年生でしたよね、と問われ、七海は無言で首肯する。褒められ、認められ、嬉しいような気もした。だが、だからなんだという気もした。そうでさえ己は灰原を死なせた。その厳然たる事実があるだけだ。  逸架はそれだけ言うと視線を車窓に向けた。七海は思わずその横顔に「あとは?」と投げかけてしまう。逸架は「あとは?」と鸚鵡返しに言葉を繰り返す。 「今後へのアドバイスはないんですか」  七海が言うと、逸架は目を伏せた。何事か考えているようだが、あまりに熟考するので呆れ半分に七海が「逸架さん」と先を促す。なければないで、そう言ってもらって構わないのだが。 「私の術式を緩めて同じことを繰り返します。そのうち術式なしで出来るようになるまで」  そう言われ、今度は七海が言葉に詰まる番だった。今日の任務と、痛む体と、術式発動中の奇妙な感覚を思い、顔をしかめる。 「非効率的では?」 「習うより慣れろ派なので」  意外とスパルタだな、と七海は思う。だが今日は試験的に組まされただけだ。二年生の七海と五年生の逸架がそうそう頻繁に同じ任務に当たることも無いだろう。 「そのときは、よろしくお願いします」  七海は当たり障り無くそう言った。礼を失しない程度に会釈する。逸架も気のない様子で車窓の外の景色を眺めながら小さく頷いた。  しばらく無言で外を眺め、七海は本でも読むかとも思ったが先輩を前に露骨に暇つぶしを始めるのも失礼だろうかとも思う。だが逸架は雑談を持ちかけられるような雰囲気でも無かった。口をきゅっと閉じ、目線は窓の外に向けている。どうするか、と考えているうちに七海は緊張の糸が切れたせいかいつの間にか眠ってしまっていた。

 ふ、と目を覚ます。窓の外は夏の夕日が暮れなずんではいたが、もうだいぶ時間が経っているようだった。七海は覚醒しきらないまま斜向かいの逸架を眺める。それからはっと体を起こした。 「すみません、寝ていました」 「いいよ、寝てて」  七海はそれに答える前に車窓の景色と自分の腕時計を見比べる。とっくに目的地についている頃だ。車窓の景色は眠る前よりも鄙びていた。車両には誰もいない。 「逸架さん、今どこに向かっているんですか?」  逸架は地方都市の中心駅の名前を口にする。おそらくこの電車はそこには向かわない。このあたりの土地勘はないが、それくらいは七海にも分かる。 「……もう到着していないとおかしい頃ですよね」 「そうかな」  七海は今乗っている電車の路線名を携帯電話で調べた。明らかに中心駅へは向かわない電車であることを確認し、溜息をつく。 「逸架さん、乗る電車が違います」  七海が言うと、逸架は「ああ」と小さく呻いた。眉根がぎゅっと寄せられる。 「ごめん、間違えたかも」 「間違えたかもというか……完全に違います。逆方向です」  七海が畳みかけると逸架は両手で顔を覆った。細い溜息が漏れる。 「ごめんなさい……七海さんに確認すればよかった……」 「いや……まあ、戻ればいいだけですし……」  だからといってこんな派手に乗り間違えることがあるか、と七海は思う。普通途中で気が付くだろう。長時間電車に乗っていて一向に目的地が近付かないことに疑問を抱かなかったのだろうか。  逸架は任務を終えた直後より遙かに疲れ切った顔をして、また「すみません」と呻いた。  調子が狂う、と七海は膝の上で指を組んだ。これならいい加減でだらしなく傲慢で不遜でふてぶてしくあってくれた方がまだやりやすい。 「次の駅で降りましょう」  七海が言うと、逸架は申し訳なさそうに萎れながら小さく頷いた。



 降りた駅は驚くべきことに無人駅であった。今時あるんだな、と呆然とする七海をよそに逸架は乗り越し精算用の箱――改札機でも何でもないただの箱である――に小銭を入れていた。目的地にも着かなかったのに、と七海は溜息をつきながら逸架に倣う。折り返しの電車の時間を確認したところ、今日この駅で停車する電車はあれが最後であったことを知り、再び呆然とした。日こそすっかり暮れているが、まだ七時をまわったばかりである。  七海が逸架にそれを伝えると、逸架は青ざめ「すみません」と言ったきり何も言わなくなってしまった。  駅の周囲には開いているのか分からない小さな商店と交番があるきりだった。七海はよろよろした足取りの逸架を引きずり交番で今日中に中心駅に戻る方法を聞いた。結論から言うと、交通手段はなく、少し離れた場所にあるビジネスホテルで翌朝の電車かバスを待つほか無いということだった。それを聞いた逸架は息をしているのかさえ分からないほど静かになった。 「本当に……すみません……」 「もうこうなってしまったものは仕方ないでしょう……」  二人は駐在が教えてくれた宿泊施設まで歩いた。道中、逸架が携帯電話で補助監督に帰着が遅れる報告をしていた。傷だらけの古い携帯電話が妙に七海の印象に残った。  紹介された宿泊施設はビジネスホテルというよりも民宿と簡易宿所の合いの子のような佇まいであった。年季の入った看板には「旅籠 まつもと」の筆文字が躍っている。逸架はそれを見てまた「すみません」と呻いた。  駐在があらかじめ連絡しておいてくれたおかげで、老齢の女将は快く二人を迎えてくれた。 「電車を逃しちゃったんだって? 大変だったねえ、このへん本数が少ないから」  昔はもっと電車もバスもあったんだけどね、すっかり寂れちゃって、宿屋もうちだけになっちゃった、というようなことを繰り返す女将への対応を、七海は早々に逸架に押しつけた。逸架が律儀に相づちを打つせいで女将の昔話は止まらない。階段を上がりながら女将は矢継ぎ早に話し続けた。  通された部屋は古い民家の一室のような作りをしている。お嬢さんはあっち、お兄さんはこっち、と女将は言うが、二部屋は続き間で襖一枚で隔てられているだけである。荷物を下ろす逸架の背中を女将はばしばしと叩いた。 「何かあったら大声出せば建物中に聞こえるから」  わはは、と笑う女将に逸架は胡乱な顔をした。女将は急だから簡単な物しか出せなくてごめんなさいね、と言いながらおにぎりとお茶のポットを置いていった。済んだら部屋の外に置いておいてくれたらいいから、と言い残し、曲がりかけた腰でゆっくりと階段を下りていった。七海は部屋の隅に投げ出されていた脚の折りたためる卓袱台を引っ張り出す。  二人で食卓を囲むが、特に会話も生まれなかった。傘のついた蛍光灯が時折弱く瞬く。逸架はラップでくるまれたおにぎりを黙々と口にしていた。半分ほどおにぎりを囓った逸架が突然「あ」と声を上げる。それほど切迫した響きでは無かったが、七海は「今度はいったいなんだ」と祈るような気分になった。 「大声を出せば聞こえるって、そういうことか……」  独りごちるように逸架は言った。七海は一瞬咀嚼を止める。ちか、と蛍光灯が瞬いたので、咀嚼を再開し、塩気の強いおにぎりを嚥下した。 「そういうことだと思いますよ」 「ごめん」 「……何がです」 「七海さんはそんな人じゃないってきちんと否定すべきだった」  七海は何と答えるべきか迷い「冗談なんだから笑って流せばいいのでは」と二つ目のおにぎりに手を伸ばした。そもそも単純な実力差から七海には逸架をどうこう出来ない。もちろんしようとも思わないが。  逸架は「でも、」と何かを言いかけたが、口を噤みお茶を飲むと「そっか、ごめんね」と呟く。七海は今日だけで逸架に一生分謝られている気がする。逸架は食べかけのおにぎりに口をつけようとし、動作を途中で止めると七海の方に視線を向けた。 「この話、していいか分からないんだけど……灰原くん、亡くなったって……」  その言葉を聞いて、七海の心臓は冷たく跳ねた。七海は逸架に何を言われるかと身を硬くする。弱さを誹られるだろうか、慣れろと諭されるだろうか。どちらに対しても覚悟をして、七海は黙って頷いた。ふうぅ、と細い息が逸架の唇の隙間から漏れる。 「灰原くん、何度か同じ任務に就いたことがある」 「……そうだったんですね」  そういえば、灰原が以前そんな話をしていた気がする。ミーハーな気があった灰原は嬉しそうに彼女の話をしていた。 「明るくていい人だったな。志があって、まっすぐで、すごく好きだった」  七海は一瞬「そういうこと」なのかと思ってぎょっとした。だが逸架はそういうようでもなく先を続ける。七海は親愛や敬愛をためらいなく口に出来る彼女のことを己より少し大人なのだと思った。 「きっといい呪術師になった」 「呪術師にしては……素直すぎました」  七海が言うと、逸架は痛々しく微笑んだ。この人も笑うのか、と七海はその淡い表情を目で追う。笑顔を見るならこんな場面でない方がよかったとも思った。 「悲しいな……もう会えないんだ……」  逸架はおにぎりをラップで包むと卓袱台の上に戻してしまう。痩せた手の甲に青い静脈が浮いていて、白い蛍光灯の光の下で目に付いた。  七海は影の落ちる逸架の顔を見つめる。その顔に落ちる悲哀と落胆と悔恨は本物だった。逸架は七海より長く呪術師として生きていて、七海より多くの仲間の死に触れてきている。数度任務が一緒だっただけの下級生の死にこれほど気落ちしていては身が持たないだろう。或いは、よほど灰原と気が合ったのだろうか。  七海はふと灰原のことを思い出す。「逸架さんとの任務はどうでした」と言う七海に灰原は「逸架さんめっちゃ強かった! 全然いいとこ見せられなかったよ!」と常のごとく明るく笑った。それから「逸架さんってああ見えて馬鹿が付くほど正直で、クソが付くほど真面目なんだよ。呪術師向いてないんじゃないかってくらい」と言い放ったのだ。高専屈指の実力者をそう評す灰原に、七海は「こいつ怖い物知らずにも程があるな」と呆れ返った。  今思えば、灰原の人を見る目は確かだった。  逸架は深く長い溜息をつき、すっと立ち上がる。 「……つかれた。お風呂に入って寝るね。おやすみ」  私の分も食べていいよ、と逸架は手の付いていないおにぎりを指で示す。七海は部屋を出ようとする逸架の背中に声をかけた。 「逸架さん」  襖に手を掛けていた逸架がこちらに首を巡らせる。七海はそれを言うかしばらく逡巡した。逸架は呼ばれたまま放っておかれても七海を急かしはしなかった。ただぬうと襖の前に立っていた。  七海は唇を舐め、ぽつりと呟く。 「呪術師を続けるか、迷っています」  汗が一粒擦り切れた畳に落ち、吸い込まれていった。  教師にさえ言っていないそれをなぜ今日会ったばかりの逸架に言ったか分からなかった。ただ逸架は茶化したり咎めたりすることはないのだろうという確信めいたものだけがあった。逸架は恬淡とした、浮かないようにさえ見える表情で数度浅く頷いた。それから七海が逸架を放っておいたのと同じほどの時間黙り込み、囁くような小さな声で「そっか……うん……」と言うと部屋を出て行った。



 翌朝、七海は部屋の気温が上がってきたため目が覚めた。アラームが鳴るにはまだ少し早かったが、のろのろと起き出し階下の洗面所で顔を洗う。部屋に戻ろうとすると女将に呼ばれ、朝食だとザルに盛られたトーストとバターの瓶を渡された。なぜザル、と七海は思ったが、機能性に問題はないのでそのまま自室に持ち帰る。  昨晩の残りのお茶を飲みながらトーストを噛る七海の耳に、隣室からの物音は届かない。一階で女将が忙しく立ち働く音ばかりが聞こえた。七海は襖の向こうに「逸架さん」と声をかけてみたが、返答はなかった。ひょっとすると、階下で身支度をしているのかもしれない。  七海は逸架の分のトーストを残して朝食を終える。隣室に人が戻ってくる気配はない。七海はもう一度、襖の向こうに声をかけた。返事はない。七海はどんどん冷えてしんなりしていくトーストを見て、席を立った。 「逸架さん、いますか? 起きてますか?」  襖を指先で軽く叩きながら問いかける。やはり返事はない。 「いないんですか? 入りますよ」  七海の懸念したとおり、逸架は布団を被って丸くなっていた。すう、すう、と規則正しい寝息をたてている。七海はそれを見下ろし溜息をつく。そろそろ起きねば乗る予定だった電車に間に合わない。 「逸架さん、起きてください」  返事はない。逸架は身動ぎすらしない。七海は躊躇いがちに逸架の肩を揺すった。むう、と逸架は唸り七海から逃げるように寝返りを打つ。七海は彼女の遅刻癖は寝汚さが原因だろうかと思った。 「逸架さん、電車に遅れます」 「………………おはよう、ござい、ます」  逸架はやっともそもそと起き上がると、バックパックの中身をあさり始めた。七海が「何してるんですか」と怪訝な顔をすると、逸架は眠たそうな顔のまま「寝汗……ひどいので……シャワー浴びてきます……」と言う。七海の口から思わず「は?」と先輩に向けるべきでない声音が漏れた。 「無理です。どう考えても間に合いません。逸架さん、おとなしく着替えてください。それから朝食です」 「朝食いらないから、シャワー……」 「シャワーは絶対に間に合いません」 「……いや」 「無理なものは無理です。早くしてください」  七海は逸架のバックパックごと素早くシャワーグッズを奪うと自室に戻った。背後から「ああ……」と恨みがましい呻き声が聞こえる。七海は後ろ手に襖を閉めた。逸架の遅刻癖の理由の一端を垣間見た気がした。

 制服に着替えた逸架が襖の隙間から七海を見る。それからするりと室内に入ってきた。  おはようございます、と逸架はもう一度挨拶をする。さきほどよりはっきりした口振りだった。 「おはようございます、トーストを頂きましたけど、すっかり冷めてしまいました」  逸架は「ごめん、大丈夫」とザルからトーストを取り上げる。「なんでザル?」と逸架が眉をひそめるので、七海は「さあ」と答えた。  逸架は冷めたトーストにバターも付けず齧り付く。七海はバターの瓶を手にした。 「バター使わないんですか?」 「七海さんがどっちを選んでも応援するよ」  突然そう言われ、七海は戸惑う。バターを使うか使わないかの話かと一瞬思ったが、逸架はどうやら昨晩の話の返答を今思いついたらしい。  七海はバターの瓶を開けながら「そうですか、ありがとうございます」とだけ言った。やはり逸架がいい加減なのか真面目なのか分からない。真面目なのかもしれないが、変な人なのだろうとは思った。

mono

mono

コメント
作者に感想を伝えてみよう

関連作品


好きな小説と出会える小説総合サイト

pixivノベルの注目小説