ハイスクール・オーラバスターに辿りつくまで
若木未生さんの人気サーガ《ハイスクール・オーラバスター》が、『ハイスクール・オーラバスター・リファインド 最果てに訣す』で完結し、シリーズ外伝集『アンダーワールド・クロニクル』とともに書店にならびます。三十二年にわたるシリーズがついにピリオド! この最終巻を楽しみにしていた読者、そして終わることを惜しむファンも多いことでしょう。作者の若木さんに、この作品の原点を語っていただきました。「お話づくり」をせずにはいられない――いわば天性の語り部である若木さんが、いかにしてデビューに至り、自分の道を切り開いたのか。興味深いエピソード満載です。
小説を書いていても叱られないひとになりたかった。
受験勉強をするという名目でデスクにむかい、こっそり小説を書いていると、ノックをせずに母が部屋の扉をひらき「また小説書いてる!」と叱るのだった。
とても悲しかった。
小説というには未熟すぎるが「お話づくり」を始めたのは六歳くらいだったと思う。『秘密戦隊ゴレンジャー』を観てモモレンジャーのお話を書いたりしていた。
小学四年生のとき、父の都合でイギリスへ行き一年暮らした。現地の学校に通った。日本人はひとりもいない。こちらは英語がうまく喋れなくておどおどしていた。がんばって「トイレに行きます」と言っても「いま日本語を喋ったの?」とからかわれた。
週に一度、お題にあわせて小説を書く授業があった。小説ならば和英辞書をひきながら書けた。いや、いま思えばめちゃくちゃな文法であったが、勢いで勝手に書いた。ミステリーがお題のときはアルセーヌ・ルパンを思いだして怪盗紳士を書いた。海賊がお題のときは冒険と財宝と姫君を書いた。一週間の持ち時間を使ってノートを提出すると先生たちが「新作が来た」と回し読みしてくれた。言葉が通じなくても小説があればなんとかなる、と思った。
帰国したわたしをSFが待っていた。
SFは剛力だった。脳がSF色に塗り変わるのがわかった。
ラジオのパーソナリティが竹宮惠子先生の『地球へ…』の内容を紹介しているのを聴いた瞬間、どっと泣きだして「なんとしても読まなければ」と思った。迫害される超能力者《ミュウ》たち、というフレーズだけで魂をわしづかみにされてしまった。超能力者の四文字は甘美だった。わたしの部屋にはソルジャー・ブルーのポスターが貼られた。
超能力者を求めて本を読んだ。漫画も読んだ。アニメも見た。豊穣だった。SFというジャンルは人間も哲学も嘆きも希望も内包していたしそのころはこの言葉はなかったけれど「萌え」だってあった。
そして革命もあった。
「パイロットはスタンバっておけ!」
というのは『機動戦士ガンダム』でブライト艦長が言うセリフである。びっくりした。スタンバイしておけでなくスタンバっておけという破壊された日本語がテレビから聞こえてくる。これが他人同士が面つきあわせて必死に生きてるナマの現場の空気感なのよね、というセリフである。架空の物語であるがだからこそナマでなければならない。おそろしいものを観た。洗礼と呼ぶべきものだった。わたしの部屋には《めぐりあい宇宙》のポスターも貼られた。
わたしはとある赤ペン先生の通信教育を受講していた。その会誌の読み物として平井和正先生の『幻魔大戦』サーガの紹介記事が載った。宇宙を滅ぼす幻魔と戦う光の超能力者たち。やばい。やばい。やばいやつだ。その当時、『幻魔大戦』は角川文庫から二十巻刊行されていた。英語塾に通うバスを、いくつか前の停留所でおりるようにした。きりつめたバス代で文庫を買った。文庫って安くてありがたいな。そう思った。バス代をきりつめ、おやつをあきらめて、すがりつくように文庫一冊を買う。だから自分がその後コバルト文庫でデビューしたときも、わたしとおなじような、一冊の文庫に情念こめてやまないひとたちが買うのだと覚悟した。
『幻魔大戦』は小銭をためて一冊ずつ買って、一冊読むたびに震えあがった。東丈が好きだった。白いページに黒一色の活字を並べるだけでひとりの架空の人間を身震いするほど好きにさせる魔力とはなんだろう。小説とはおそろしい。もちろん《ウルフガイ》を読んで犬神明にも夢中になった。『真幻魔大戦』と《アダルト・ウルフガイ》は中学校の図書室にあったのを読んだ。拙作『真・イズミ幻戦記』の「真」は、おそれおおくもこの「真」を拝借しています。
同級生の持っていたコバルト文庫『星へ行く船』で新井素子先生に出会った。身も世もなく嫉妬した。現役高校生がSF小説家としてデビューできるものなのか、こんなに完成された面白いものが書けるのか、という衝撃があった。それだけでも敗北感で頭がぐらぐらするのに読書家の同級生はだれもかれも新井素子先生の本を読んでいて読むばかりでなくめちゃめちゃ文体に影響をうけて(交換日記などにおいて)おり、強烈な感染力のもとにわたしは無力だった。気がつけば、自分の文体も、ふらふらと新井先生に寄っていく。その竜巻みたいな引力から逃れるにはそうとうな時間が必要だった。
小説家になりたい。いますぐなりたい。そう思ったのは新井先生のおかげだと思います。そして、小説家になれば叱られないですむんじゃないかなと考えた。
高校受験のときも大学受験のときも「また小説書いてる!」と親に叱られつづけたので、わたしは大学に入ったとたん「もう小説を書いてもいいよね」と思った。ちょっと、だいぶ、勘違いをした。大学とは勉強をするために行くところなのだが、いざ入学してみると、もう小説を書く以外のことに割くリソースがなかった。まじめに大学に行かなかったから一年生で留年した。留年すると専門的な講義に進めず、落とした単位をふたたび履修するだけになるので一年間暇だった。ただひたすらバイトをするか小説を書くかしていた。コバルト文庫の新人賞に原稿を送ったのは、新井先生の本を出しているところだったから。
大賞ではなく佳作入選でひっかかった。
おそるおそる授賞パーティーに行ったら、すれちがいざま先輩の作家さんに言われた。
「おめでとうございます! 儲かりますよ!」
少女小説の売れる時代だった。
おもに恋愛小説がブームの中心だったが、そんなこととは知らずに、ただ小説を書いても叱られない身分になりたかっただけだし、新井先生みたいにコバルト文庫でSFを書くのだ、としか思っていなかった。
「SFが書きたいんですよね」
と言うと、編集者氏は「そうなの?」と意外そうだった。投稿作はふつうの青春小説だったので、おどろかれるのは無理もない。あんまりSFは望まれていない雰囲気だったが、書きたいのは、学園を舞台とした超能力者たちの伝奇バトルや葛藤やナマな心や成長や濃厚な感情だった。当時、少女小説においては、SFと謳うと売れない、という状況になっていたらしい。第一作の惹句には「学園ファンタジー」と書かれた。
ファンタジーが嫌なんじゃないけどSFと呼ばれたいなあ、と思っていた。それはわたしが救われつづけてきたものはSFであって、自分にはファンタジーの素養があまりないんだよなあという劣等感によるものです。
そう、まず、学園を舞台とした。大学生の自分にとって高校生活の記憶はまだ肌に触れるほど至近距離にあり、それを書くのは至極当然という気持ちがあった。
ほんとうの自分は小説を書いているはずなのに小説を書くことを親に知られてはいけない。わたしの高校生活の根っこはそういうものだった。抑圧があり、秘密がある。これはわたしのごく私的な話だが、けれど普遍でもあると思った。わたしとおなじような思いを抱えているひとがどこかにいるだろう。そのひとに向けて物語をつくろう。他人事ではなく作り事ではない、わたしたちに絶対に必要な、生きるための力を宿した物語を。
それは人間が生きている小説だ。
お行儀がわるくても「スタンバっておく」が言えるキャラクターたちに、牽引される小説だ。
そのころまだ「ライトノベル」や「キャラクター小説」という呼び方には出会っていなかった。コバルト文庫のパブリックイメージは「乙女ちっく」だった。(コバルト文庫の投げこみチラシの名称が「乙女ちっく通信」だった)「コバルト文庫は少女漫画でいうところの『りぼん』だよ」と教わった。わたしはりぼんも好きだ。だけど少女から遠く離れたところにあるものをこそ読みたい、と思う少女たちをわたしは知っていた。週刊少年ジャンプを読む少女たちにむかってボールを投げたかった。
中学生のときに書いたキャラクターや、高校生のときにうまれたキャラクターから、代表選手をよせあつめて、新しいチームをつくった。
水沢諒、の水沢の名は『星へ行く船』の水沢探偵事務所からいただいたし、七瀬冴子、の七瀬の名は筒井康隆先生の《七瀬シリーズ》からいただいた。中学生や高校生のやりがちなことだが、そこから三十二年も名前をお借りしたままでいるとは予想だにしなかった。なんだか申し訳ありません。
小説を書いていると叱られる子だった。おかげで小説家になってしまった。お子さんを小説家にしたいひとは参考になさってください。
そしてハイスクール・オーラバスターとわたしの、長い三十二年が始まった。
気づけば、わたしは「小説を書かないと叱られるひと」になっていた。
こんなに嬉しいことはない。(泣くけど)
しかし、三十二年はほんとうに長かったと思います。お待たせしたかたには、ごめんなさい。
どうもありがとうございます。
若木未生 (校閲:横道仁志・渡邊利道/編集:牧眞司)