ドミトリー・ユールセイン
「ほう……」
ベルベットの箱を開けてガラスペンを目にしたドミトリーは、ため息のような声を漏らした。
エカテリーナは思わず微笑む。見た瞬間にため息、それは百万言に勝る称賛だろう。
ドミトリーは一本ずつガラスペンを取り出すと、じっくりと見つめたのち、手に握り込んだ。書く時の感覚を想像しているようでもあり、感触を愛でているようでもある。ブルーグリーンと黒のツイストのペン、豪奢な金彩で飾られたペン、そしてーー美の女神のペン。
打ち寄せる波に包まれた透明な珠の中、眠れる
ふっふ、とドミトリーは笑った。
「エカテリーナ……君の職人は、美というものを解っているね。そう、すべてが明かされるより、隠された部分に焦らされて恋い焦がれる時、女性の面影は最も美しいものだ。実に、良いね」
「
エカテリーナはにっこり笑う。
それに、思いがけずアレクセイが反応した。
「エカテリーナ……その、粋人という評判は、どこで耳にした?」
心配そうに眉をひそめている兄に、あ、と思ったエカテリーナである。
それを聞いたのは、商業流通長のハリルからだ。ドミトリーとは旧知の仲らしく、ガラスペンの納品で顔を合わせると知るといろいろ教えてくれた。優れた商売人であり、美しいものを好む趣味人、粋人でもあり、人づきあいが好きな社交家でもあると。
ただ、問題というかハンデというかがあって、ドミトリー公の奥様は他の男性の前に姿を見せることができないのだそうだ。『神々の山嶺』の向こうの大国の王女であった夫人は、生国の慣例を今も守っている。それが、王女を遠い異国へ嫁がせる時に、父王が出した条件だったそうだ。
皇国の社交は、男女がパートナーで参加することが基本。他家のパーティーなどは、夫婦で参加するものだ。それだけでなく、貴族の奥方は自家でパーティーを開く場合、女主人として来客をもてなさなければならない。しかし、ユールセイン公爵邸でパーティーを開いても、夫人は来客の前に出ることすらできない。
そのハンデをカバーするため、結婚してからしばらくの間、ドミトリー公はしばしば「人をもてなすことに長けた女性たち」を呼んで来客のもてなしを任せつつ、一般的なパーティーとは一味違う、華やかな催しを開いていたそうだ。時に客の度肝を抜くほど奇抜、時に王侯たちを唸らせる洗練の極み。皇都の社交界では、ちょっとした伝説だそうな。
それでかえって他国の王侯からも一目置かれて友人付き合いができ、今の外務大臣という立場につながったようだから、禍福はあざなえる縄の如しというやつですね。
粋人という評価は、その頃からのもの。
ただしこの言葉には、趣味が良い人、という意味の他に、花柳界というか花街というか、そういうところの「
実際ドミトリー公は、そのへんの女性に絶大な人気があるらしい。でもご本人は、決して遊び人ではない。昔おもてなしを頼んだ女性たちに丁重に接して謝礼も気前良く渡し、おまけにユールセイン家の催しが縁で上顧客と出会えたということで彼女たちがドミトリー公を褒め称えたのが人気の始まりで、本人はむしろ愛妻家であると、ハリルさんは強く言っていた。
なんでも妻を裏切ってよその女性に手なんぞ出したら首を斬ると、奥様の兄弟王子たちに言われているのだそうで。妻を複数娶って他の妻を平等に扱うのはいいそうなんだけど、皇国ではそれはあり得ませんので。
ともあれ、あんまりお嬢様が知っていて良い言葉ではないんだろうな。しまったー。
……という考えが一瞬で脳裏を駆け巡ったのをどこかに押し込めて、エカテリーナは兄ににっこり笑いかけた。
「お兄様、評判というものは、どこからとも知れず聞こえてくるものと聞き及びますわ。風の噂、などと申しますもの。きっと
ドミトリーが高らかに笑う。
「これは嬉しい言葉だ。賢く優しいエカテリーナ、
「あら、それこそ素敵なお言葉ですこと。嬉しゅうございます」
「……ドミトリー公が極めて優れた感性の持ち主であることは、間違いないと私も思う」
重々しく言ったアレクセイだが、口元がわずかに緩んでいたりする。妹を褒められて上機嫌なのだった。
ガラスペン三本すべて試し書きをして、なめらかな書き味や続けて書ける行数をしっかりと確認し、ドミトリーは数度うなずいた。
「美しさだけでなく、実用性も優れている。このガラスペンは『神々の山嶺』の向こうの国々でも、もてはやされるに違いない」
「まあ嬉しい!おじさまほどの方がそう仰せなら、間違いございませんわ」
レフの傑作だし、あちら出身のハリルさんからも他国への販売の話は出ていたから自信はあったけど。でもあちらの国々との貿易に長けたドミトリー公がこう言ってくれるなら、間違いないよね。
いつか輸出……夢が広がるわー。
「エカテリーナは、他国の文化に興味があるかい?よければ一度、連れて行ってあげよう」
「本当ですの⁉︎ なんて素敵!」
船旅ですか⁉︎ 帆船で航海⁉︎ カリビアンなパイレーツ的光景を、生で見られると⁉︎
素敵すぎる!
「エカテリーナ」
珍しくも見て解るほど青ざめたアレクセイに名を呼ばれて、エカテリーナは我に返った。
「ドミトリー公、ご配慮はありがたいが、この子は病弱なのです。他国への旅など、とても」
「そうなのか?」
ドミトリーは戸惑った顔をする。目の前にいるエカテリーナは元気そうなのだから、当然だ。
アレクセイは妹の手を取った。
「エカテリーナ、他国へ行きたいのか?」
「はい……お兄様のお許しをいただけるなら……」
おずおずとエカテリーナは言う。
その手をアレクセイは両手で握って、真剣に語り出した。
「お前の望みなら、すべて叶えたいと思う。だが、海路は駄目だ。あまりに危険すぎる。
お前が乗った船が大海へ出航すれば、たちまち海神が嵐を起こして、お前を海底の宮殿へ招くに違いない。お前の輝きは、神をも魔をも魅了してしまうんだよ。
鱗と
「お兄様ったら」
いくらなんでも
私がよその国に行ってみたいなー、って言っただけで、すべての船が難破する、に帰結……シスコンで被害を広げすぎです。素晴らしい想像力、さすがお兄様。
エカテリーナはにっこり笑った。
「わたくしのために海神様が嵐を起こすなど、あり得ませんわ。ですけれど、わたくしが間違っておりました。よそのお国を訪ねるのは素敵なことと存じますけれど、わたくしが居たい場所はお兄様のお側の他にございません。わたくしはどこにも参りませんわ」
「エカテリーナ……」
アレクセイが声を震わせる。
視界の端に見えるドミトリーが、全力で笑いをこらえているらしいことに、エカテリーナは全力で気付かないようにした。
「このガラスペンだが、妻から父王への贈り物にするよう勧めるから、もう一セット注文できるかね。次男に持たせて陛下に献上すれば、さぞ喜んでいただけるだろう」
ドミトリーが言ってくれた言葉に、エカテリーナは喜ぶ。
「お孫様が、異国へ嫁いだ愛娘からの贈り物をお届けになるのですわね。それはさぞ、お喜びになるに違いありませんわ」
「今度は、妻に会いに来てくれたまえ。妻が暮らす棟は、すべてが妻の生国の様式になっているんだ。皇国に居ながらにして、異国の気分を味わえる――アレクセイは招待するわけにいかないので、またの機会になるが」
「まあ……嬉しい。王女であられた奥様にお目にかかれるとは、光栄なことですわ。お兄様、お許しくださいまして?」
きちんと兄に許しを求める妹に、アレクセイは微笑んでうなずいた。
「勿論だ。お前にふさわしい交流が得られて、私も嬉しく思うよ。お前の工房にとっても、いっそうの名誉だ。あちらの国の貴顕にとって、ガラスペンは垂涎の品になるだろう」
アレクセイの言葉に、ドミトリーはふっふと笑う。
「皇国にしかない『垂涎の品』の誕生は、我が家にとっても実に喜ばしいことでね……君は素晴らしいよ、エカテリーナ。これから、息子たちも含めて家族で付き合っていければ嬉しいね」
アレクセイが、なぜか不機嫌になった。
その後もう少し話をして、兄妹はユールセイン邸を辞した。
「ハリル坊やによろしく」
最後にドミトリーにそう言われて、エカテリーナは目を見張る。
「あの、ハリル様とはどのようなお知り合いですの?」
「カマル商会の末っ子とは、彼がほんの子供だった頃からの付き合いだよ。当時から目端の利く子供でね、マグダレーナが気に入って自分の配下に加えようと誘ったが、ユールノヴァの商業部門顧問の座で釣ったセルゲイ公に獲られてしまった。マグダレーナはずっと悔しがっていたが、十代の少年にそんな立場を与えるなどという大胆な真似、セルゲイ公にしかできないだろうね」
そうですね……。
ていうかハリルさん、皇后陛下とお祖父様に獲り合いされたのー⁉︎
すげえー!
そしてお祖父様、本当に、人材を得るためなら手段を選ばなかったんですね……。