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悪役令嬢、ブラコンにジョブチェンジします 作者:浜千鳥
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ムラーノ工房

「お嬢様、ようこそ」


久しぶりにムラーノ工房を訪ねたエカテリーナを、上気した顔のレフが出迎えた。


「お久しぶりね、レフ。お元気そうで何よりですわ」

「おかげさまで……ミナさんも、お久しぶりです」


律儀にミナにも挨拶するレフの周囲で、職人たちが口々に挨拶の声をかけてくる。それへも、エカテリーナはにこやかに挨拶を返した。


「ごきげんよう、皆様。どうぞ手はお止めにならないで」


ガラス製作はタイミングが重要。ガラスの塊を炉から出したら、時間との闘いだ。公爵令嬢が現れても、職人たちは動きを止められない。


ムラーノ工房は、活気に満ちていた。亡きムラーノ親方の弟子だった職人たちが戻って来ただけでなく、新たに増えた職人もいる。彼らは皆、忙しげに働いている。


次々に作られていくのは、多彩な色が組み合わされた水差し。翼のような飾りが付いた、おそろしく凝った造形のリキュールグラス。白いレース編みのような、繊細な模様がついた花瓶。

美しいが形は普通な赤や青のグラスや皿は、あとから金彩や銀彩が施され、エナメルで絵が描かれて、絢爛豪華な逸品となる。

ムラーノ工房が再始動してから、ガラスペンだけでなく、こうした品々への注文も殺到しているのだった。




「ご足労いただいて、申し訳ありません」

「わたくしがここに来たかったの。工房が動き出して間もないのに、領地へ行ってしまったのですもの。皆様のご様子が気になっていたのよ」


工房の隅にあるソファセットに落ち着くや、頭を下げたレフにそう答えつつ、エカテリーナはやはり来て良かったと思っている。職人たちが生き生きと働いている様子を実際に見て肌で感じると、しみじみと安心できた。

うん、ムラーノ工房、絶好調!


「皆、喜んで働いています。なんといっても、こんなに賃金が良い工房は他にありませんから。それに、賃金の計算理由をはっきり教えてもらえて、頑張りどころがわかるのがいいそうです」

「嬉しいこと。わたくしはこの工房を、働く方に、喜んで働いていただける場にしたかったのですもの」


内心で、よっしゃ!と拳を握りつつ、エカテリーナは微笑んだ。


なにしろ前世、過労死した社畜だったんで。思いがけず経営側に回ったからには、働く側のことを考えた職場にしたいですとも。


ムラーノ工房を買ってもらってから知ったけど、皇都の工房では、基本的に雇われ職人の待遇は良くない。ぶっちゃけ、安い賃金でこきつかわれる。

実力のある職人なら、自分の工房を持って親方になるもの。雇われている職人は、半人前。そういう感覚らしい。

けれど実際には、実力があっても資金が集められなかったり、いろいろな事情で自分の工房が持てない職人はいる。

素晴らしい腕を持つ職人が、いっこうに上がらない賃金で、親方の機嫌ひとつでクビにされるような状況で、働くしかないのはいかがなものか。


ブラック労働はこのブラコン悪役令嬢が許しません!

とか思って、前世の知識を活用して、皇都にはない基準や仕組みを作ってみましたよ。


ムラーノ工房では、職人たちの賃金は基本給プラス出来高だ。

前世の給与が基本給プラス残業代だった感覚に近いが、残業時間で金額が決まると、仕事もないのに居残っているほどお金になるという問題があった。出来高ならどの製品をいくつ作ったかで金額が決まるので、売り上げへの貢献と賃金がちゃんとリンクするはず。


製品によって作るのにかかる時間が違う点は、製品ごとに加算額を変えることでクリアした。販売時の単価に応じて、賃金への加算単価を決めてある。時間をかけて手のこんだ高額な製品を作ってくれれば、製作時間に見合うだけの加算が得られる。


さらに基本給も、技術力でランク付けすることにした。難しい製品を早く美しく作れる職人は、基本給自体が上がる。年齢や在籍期間は無関係だ。


この制度により職人たちは、作る側として割の良い製品がどれか、しっかり考えるようになった。腕を磨いてより高価に買ってもらえる製品を多く作れるようになろう、と意欲も湧いている。

皆、明るい未来を描いて、熱心に働いているのだった。




「それに、おかみさんとお嬢さんのことも、ありがとうございました。お二人の暮らしの心配がなくなって、本当に嬉しいです」


笑顔でレフが言ったのは、亡きムラーノ親方の家族のことだ。


皇都一とうたわれた職人でありながら商売は苦手だった親方は、名声とは裏腹に借金で苦しんだそうだ。素晴らしい作品を生み出すための、設備投資にお金がかかりすぎたのも大きかったのだろう。

亡くなった後、家族は借金のカタに工房を奪われてしまった。エカテリーナというかユールノヴァ公爵家が工房を買い取って再出発することになったものの、親方の遺族は苦しい暮らしが続いていた。

工房の賃金体系が決まって高給取りになったレフが、これでお世話になったおかみさんを助けることができます、と言うのを聞きとがめて事情を聞いて、エカテリーナは「これはいかん」と思ったのだ。

そして、ひらめいた。


「亡き親方の名声には、大きな価値があるのですもの。ムラーノ工房の名前を使わせていただくからには、お礼をお支払いするのは当然ですわ」


皇国の工房は、親方の名前が付く。ムラーノ親方がいない工房は、別の代表者の名前で呼ばれるのが普通だ。

けれどエカテリーナはあえて、「ムラーノ工房」の名前を使い続ける、とした。

そして、その名前の「使用料」を、遺族である親方の妻に支払うことにしたのだ。

前世的に言えば、商標のライセンス料といったところか。


……実はエカテリーナは、けっこう悩んだ。


私の感覚では、名前を使わせてもらうならライセンス料を払うもの。名前の本人や遺族に権利があるのは当然。でもこの世界この時代、その概念は存在しない。払う必要のないお金、ではある。


周囲から見れば意味のわからないことに、自分で稼いだわけでもないお金を使おうとしている……。セレズノア家の身分制度にモヤったように、この世界の当たり前を当たり前と思えない、世界の異分子になってしまっているんじゃないだろうか。

早く初期投資である工房の購入費用を回収して、ちゃんとユールノヴァ公爵家に貢献できるようになろう。お兄様の役に立とう!って思ってたんじゃないのか自分。


そんな悩みをある相手に相談してみたら――思わぬことになった。


『お嬢様。先日の名称使用料の件、ぜひやってみてくださいませんか』


妙に憔悴した様子で言った相談相手は、ダニール・リーガル。ユールノヴァ公爵家の法律顧問である。


グレイの髪に翡翠色の瞳、銀縁の眼鏡が印象的ないかにも理知的な容貌の持ち主。父親が大法院の長官という法曹界のサラブレッドで、ユールノヴァ領ではアレクセイを娘キーラと婚約させようとしたノヴァダイン伯爵をバッサリ斬って捨てた切れ者だが、この時はなぜか、銀縁の眼鏡まで曇って見えた。


『ダニール様、何かおありでしたの?』

『この件を、うっかり父に知られてしまいまして。民の暮らしのために法整備すべき案件かもしれない、実用性必要性の検討のためにユールノヴァ家でぜひ試行をとうるさく……あの父の頭の中には、常識はカケラもないのですが、古今東西のあらゆる国の法と判例が詰まっておりまして……関係ありそうな法と判例を延々と語り倒してきて、今度こそどうしてくれようかと……』

『……』


ダニールさんのお父さんといえば、大法院の長官という皇国の法曹界の最高権威、のはずですが。

今、『常識はカケラもない』と言いましたか?


絶句しているお嬢様に気付いてダニールは咳払いし、父親が語り倒した判例をいろいろと上げて、名称使用料の理論武装をしてくれたのだった。

なお、彼の家でメイドをやっているキーラ・ノヴァダインは元気だそうだ。


『元気で反応がよく、父が飽きずに揶揄からかうので助かっています』


どういう助かり方?と思ったが、つっこむのはやめておいた。


それよりも、あらためて思う――歴史は、繋がっているのだと。

前世にもこの世界に似た過去があり、その中でライセンス料という考え方が生まれて育ってきて、誰もが当たり前だと思うまでになった。

だからこの世界この時代にも、その考えが生まれる土壌はあるのだろう。

いつか芽吹いて育ち、当たり前になっていくのだろう。

私は、この世界でも、異分子じゃない。




ちょっと遠い目で思い返していたエカテリーナは、不思議そうなレフと目が合って、あわてて笑顔を作った。


「今日は、楽しみにしてきましたの。ユールセイン公のガラスペン、見せてくださる?」

「はい、どうぞご覧になってください」


レフが差し出したベルベットの箱の色は、ブルーグリーン。エカテリーナがまだ会ったことがないユールセイン公は、妹であるマグダレーナ皇后と同じ、珊瑚礁の海のような髪色をしているのだろう。


箱を開く。今回も、三本のガラスペンが並んで輝いている。

やはり皇后のガラスペンと同じく、ブルーグリーンが基調だ。けれど、印象は大きく違った。


一本目は、ブルーグリーンと漆黒とがツイストしている。『神々の山嶺』の向こうの国の王女だったというユールセイン公の夫人は、黒髪の美女なのだろう。

それにしても、黒いガラスの艶やかな美しさ。深い黒に、すいこまれてしまいそうだ。


次の一本は、今までのガラスペンのどれより豪奢な印象だった。持ち手のほとんどが金彩に覆われ、あざやかなエナメルで植物文様が描かれている。デザイン化された白百合の花の周囲を、しなやかに弧を描く青い蔦が囲む、幾何学模様アラベスクの正確無比な左右対象に、思わず目を凝らしてしまう。曲線のペンに人間が手で描いて、この完璧な線が生まれるとは。

黄金色に輝く豪華なペンは、『神々の山嶺』の向こうの美意識に合わせたものかもしれない。あちらの商人に見せびらかしてやりたい、とユールセイン公が語ったという目的に、ぴったりのデザインだろう。


そして三本目。美の女神のペン。

形状は、持ち手の部分が太く、後端へいくにつれて細くなるもの。太い部分の内部に、美の女神が描かれていた。


前世のギリシャ神話では、美の女神ヴィーナスは海の泡から生まれたとされていた。有名なボッティチェリの絵では、貝殻の上に立つ裸身の美女だったはず。

実はこちらの世界でも、古代アストラ帝国の頃から、美の女神は海の泡から生まれたという神話が信じられている。


ペンの太い部分は、美の女神を育む泡に見立てられていた。泡というより、透明な珠。

その周囲の半ばを、打ち寄せるブルーグリーンの波が膜のように包む。波の縁に激しく波立つ白波がエナメルで描かれているのが、女神を守る垂布ヴェールのようでもある。

女神は黒髪。そう描くようにとの、ユールセイン公の注文だ。白い豊かな肢体に白い薄物と長い黒髪をまとい、自分の腕を枕にしどけなく横たわって、眠りについていると見える。

指先ほどの小さな絵であり、波にさえぎられていることから、顔立ちは定かではない。だが、美しさが解る。頬の線、ふくよかな唇、そして肢体に、女性の美がしっとりと輝いている。

むしろ詳細には見えないことで、見る人がそれぞれ心に描く最上の美女を、この女神に見ることができるのだろう。


ブルーグリーンの海に包まれ、珠の中に守られた、眠れる女神。まだ生まれいずる前の、無垢なる美。

このペンを持つものは、女神を封じ込めた太い部分を握り込む。誰も触れられない美の女神を「手にする」のだ。




「……今回も素晴らしくてよ、レフ」


ほうっと、エカテリーナはため息をつく。

夜目遠目笠の内、なんて言葉があった。女性が美しく見えるシチュエーションだそうで、はっきり見えないから期待で美人と認識するってことですね。

美の女神をどう表現するかに悩んでいたレフ君、この芸術的なぼかし方にたどり着くって、本当に君はすごいよ。


「ユールセイン公は、きっと――奥様を深く愛しておられるのね。ご自分の手の中に女神を握ることができれば、さぞお喜びになることでしょう。

実はね、先日、先帝陛下にお会いしたの。ガラスペンのことをご存知で、余も手にしてみたいと仰せられたのよ。きっとご注文をいただけるわ。そうしたら、お願いね」

「先帝陛下が……!ありがとうございます!」


ぱっと顔を紅潮させて、レフは頭を下げた。



20周年のからみで、いつもより早く5巻の発売日が情報解禁になりました。

12月1日です!


また、本日10月1日13時頃、ビーンズ文庫20周年フェアのサイトが本格オープン予定だそうです。

本作関連の情報もいろいろ……!

一部の先行情報は活動報告にリンクを貼っています。

アニメイトのフェアのお知らせもありますので、よろしければご覧くださいませ。

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