いやぁ、酷いものを見てしまいましたね。
先日、『共産党には警戒心マックスなのに平井卓也はスルーする山田太郎の陣笠ぶり+ブキッキオ論破伝説の虚構』を書く前に山田太郎の動画を見ながらメモ書き程度にツイートをしていました(まとめは『山田太郎のさんちゃんねる468回へのツッコミとか感想とか』に)。その中で、以下のようなツイートをしました。
結果として、このツイートは誤りであったようです。とはいえ、最初から記憶は曖昧であり、そのことを表現するように書きましたが、例のあの人が鬼の首を取ったように騒ぎ始めました。
言うまでもなく、差別・デマ、挙句はカルト署名と何でもありな人物に謝罪を要求する権利はありません。むかついたので、彼らを茶化すために以下のようなツイートをしました。
これが、悪夢の始まりとなりました。
ギャグを解説させられることで半ば強制的に滑らされるのは不愉快なのですが、言うまでもなく、上のツイートは別に謝罪文ではありません。そのことは第一声から『山田太郎支持者を中心とするTwitter利用者の読解力を考慮せずに発言し』などと言っていることからも明白です。不適切な謝罪ですらなく、謝罪に見せかけた煽りです。
にもかかわらず、これが少なくとも謝罪文であろうという前提に立ったリプライが無数に押し寄せる有様となっています。こんなにたくさん。どうしてこうなった。
象徴的なのは、最後のツイートに最も多くのリプライが押し寄せているということかもしれません。むろん、最後のツイートは蛇足にほかなりませんが、この蛇足が謝罪文の価値を毀損することはあり得ません。だって謝罪文じゃないですから。にもかかわらず、以下のようなリプライがいっぱいです。うわぁ……。
最後の文章は、極めて露骨に「なんちゃって」と言うようなつもりで付け加えましたが、それすら理解してもらえませんでした。
最後のツイートに反応が集中したのは、単純に最も短い文章だったからでしょう。「謝罪文」の内容は読めないが最後に蛇足っぽいことが書かれているなという点だけは理解できるので、そこに反応して蛇足だとか態度が云々だとか偉そうに上から目線で言おうとしたのでしょう。まさか、自分が文章を読めていないことを晒す羽目になるとも知らずに。
私はアマチュアの趣味としてネットで小説を書いたり動画を投稿したりもしていますが、こうなるとネットのユーザーに向けて何かを表現することのむなしさを感じずにはいられません。読めない人間にものを公開して何の意味があるのでしょうか。この文章だってそうかもしれません。
どういうことでしょうか。元々、私の皮肉は『山田太郎支持者を中心とするTwitter利用者の読解力を考慮せずに発言し』の一文が皮肉であることのシグナルとなっていました。それが理解されないということは、可能性は2つあります。1つは、単にこの文章を読み落としているという可能性です。シグナルが見えていないなら、皮肉と気づかないのは当然でしょう。
そして、もう1つの可能性は、『山田太郎支持者を中心とするTwitter利用者の読解力を考慮せずに発言し』たので謝罪するという文章が、何らおかしいものではないとオタクたちが考えているという恐ろしいものです。言い換えれば、彼らは自分たちの読解力が平均を下回ることを承知したうえで、他人がそのレベルに合わせるべきであり、そうしないことは謝罪に値すると考えているかもしれないということです。
そう考えると、私の皮肉を皮肉ではなく本当の謝罪文と受け取ったのも筋が通ってしまいます。自分たちの理解の責任は全て文章を書いた側にあり、仮に誤解が生じたとすれば書き手が全面的に責任を引き受け謝るのが筋であると考えていれば、あの謝罪文は皮肉で何でもなく、本当の謝罪文になってしまいます。そりゃ、最後のツイートが蛇足とか言い出しますわ。
そして、この推測はあながち馬鹿げてもいないのではないかという危惧もあります。私はこれまでにも指摘してきましたが、オタクは自分の所属するファンダムが自身を頂点とするものであると考えている節があります(『批判のできないオタクたち』参照)。そのような思想を背景とすれば、自身の誤読は書き手の責任であると考えるのは当然でしょう。オタクファンダムの存在意義は頂点にいるオタクの精神的快楽のためであり、その目的にそぐわない振る舞いはヒエラルキーの下の人間に責任があることになるからです。
ともあれ、確実に言えることは、このような短い文章すら読めないオタクが表現について論じるのはあまりにも無謀だということです。ただ文章を読むことすらできない人々が、表象にある意味合いとか文脈とかわかるわけがありません。共産党の公約もしっかり誤読していましたが、ツイートすら読めない人が公約なんか読めないのは当然と言えるでしょう。
我々が対峙しなければならないのは、言葉はわからないが欲望を隠す気もないというモンスターかもしれません。どうすりゃいいのマジで。
最後に、この騒動の中でもらったありがたいお言葉で締めるとしましょう。
先日、『共産党には警戒心マックスなのに平井卓也はスルーする山田太郎の陣笠ぶり+ブキッキオ論破伝説の虚構』を書く前に山田太郎の動画を見ながらメモ書き程度にツイートをしていました(まとめは『山田太郎のさんちゃんねる468回へのツッコミとか感想とか』に)。その中で、以下のようなツイートをしました。
結果として、このツイートは誤りであったようです。とはいえ、最初から記憶は曖昧であり、そのことを表現するように書きましたが、例のあの人が鬼の首を取ったように騒ぎ始めました。
言うまでもなく、差別・デマ、挙句はカルト署名と何でもありな人物に謝罪を要求する権利はありません。むかついたので、彼らを茶化すために以下のようなツイートをしました。
これが、悪夢の始まりとなりました。
いや、謝ってはないです
どうして悪夢だったのか。それは、ツイートの直後についたリプがこれだったことから察してください。ギャグを解説させられることで半ば強制的に滑らされるのは不愉快なのですが、言うまでもなく、上のツイートは別に謝罪文ではありません。そのことは第一声から『山田太郎支持者を中心とするTwitter利用者の読解力を考慮せずに発言し』などと言っていることからも明白です。不適切な謝罪ですらなく、謝罪に見せかけた煽りです。
にもかかわらず、これが少なくとも謝罪文であろうという前提に立ったリプライが無数に押し寄せる有様となっています。こんなにたくさん。どうしてこうなった。
象徴的なのは、最後のツイートに最も多くのリプライが押し寄せているということかもしれません。むろん、最後のツイートは蛇足にほかなりませんが、この蛇足が謝罪文の価値を毀損することはあり得ません。だって謝罪文じゃないですから。にもかかわらず、以下のようなリプライがいっぱいです。うわぁ……。
最後の文章は、極めて露骨に「なんちゃって」と言うようなつもりで付け加えましたが、それすら理解してもらえませんでした。
最後のツイートに反応が集中したのは、単純に最も短い文章だったからでしょう。「謝罪文」の内容は読めないが最後に蛇足っぽいことが書かれているなという点だけは理解できるので、そこに反応して蛇足だとか態度が云々だとか偉そうに上から目線で言おうとしたのでしょう。まさか、自分が文章を読めていないことを晒す羽目になるとも知らずに。
私はアマチュアの趣味としてネットで小説を書いたり動画を投稿したりもしていますが、こうなるとネットのユーザーに向けて何かを表現することのむなしさを感じずにはいられません。読めない人間にものを公開して何の意味があるのでしょうか。この文章だってそうかもしれません。
恐ろしい可能性
しかし、私はそれでもインターネットを諦めたくありません。ありませんでしたが……「いや、いうてネットのオタクにはそれなりに読解力があるのだ」と考えてしまうと、さらにヤバい可能性に思い至ることに気づき震えました。どういうことでしょうか。元々、私の皮肉は『山田太郎支持者を中心とするTwitter利用者の読解力を考慮せずに発言し』の一文が皮肉であることのシグナルとなっていました。それが理解されないということは、可能性は2つあります。1つは、単にこの文章を読み落としているという可能性です。シグナルが見えていないなら、皮肉と気づかないのは当然でしょう。
そして、もう1つの可能性は、『山田太郎支持者を中心とするTwitter利用者の読解力を考慮せずに発言し』たので謝罪するという文章が、何らおかしいものではないとオタクたちが考えているという恐ろしいものです。言い換えれば、彼らは自分たちの読解力が平均を下回ることを承知したうえで、他人がそのレベルに合わせるべきであり、そうしないことは謝罪に値すると考えているかもしれないということです。
そう考えると、私の皮肉を皮肉ではなく本当の謝罪文と受け取ったのも筋が通ってしまいます。自分たちの理解の責任は全て文章を書いた側にあり、仮に誤解が生じたとすれば書き手が全面的に責任を引き受け謝るのが筋であると考えていれば、あの謝罪文は皮肉で何でもなく、本当の謝罪文になってしまいます。そりゃ、最後のツイートが蛇足とか言い出しますわ。
そして、この推測はあながち馬鹿げてもいないのではないかという危惧もあります。私はこれまでにも指摘してきましたが、オタクは自分の所属するファンダムが自身を頂点とするものであると考えている節があります(『批判のできないオタクたち』参照)。そのような思想を背景とすれば、自身の誤読は書き手の責任であると考えるのは当然でしょう。オタクファンダムの存在意義は頂点にいるオタクの精神的快楽のためであり、その目的にそぐわない振る舞いはヒエラルキーの下の人間に責任があることになるからです。
ともあれ、確実に言えることは、このような短い文章すら読めないオタクが表現について論じるのはあまりにも無謀だということです。ただ文章を読むことすらできない人々が、表象にある意味合いとか文脈とかわかるわけがありません。共産党の公約もしっかり誤読していましたが、ツイートすら読めない人が公約なんか読めないのは当然と言えるでしょう。
我々が対峙しなければならないのは、言葉はわからないが欲望を隠す気もないというモンスターかもしれません。どうすりゃいいのマジで。
最後に、この騒動の中でもらったありがたいお言葉で締めるとしましょう。
「俺たちと同じレベルでTwitter楽しんでるオッサン」がウケるんですよ