■■<アブダクションという発想>■■D-004
ホーム設計方法論 2008-11-22記述

物事を論理的に突き詰めて、最適な解に到達するためには、まずデータに基づく分析的なアプローチが求められる。しかし分析は問題を明らかにするが、解は与えない。「発想」の思考プロセスには、「アブダクション」が必要なのである。
 設計を行うとき、方針を検討したり、計算したり、作図したりしている。その基本的な方法は、科学的知識を演繹的に具体的特定の問題に適用する作業である。しかし、少なくない時間は設計物をイメージとして、外部から見ると支離滅裂なアイデアを弄んでいる。いわゆる「発想」というプロセスである。この「発想」というプロセスは、一般の論理思考とは異なるプロセスであるということを書きたい。しばしば「問題が分かれば、答えは出たのも同じ」だと主張するマネージャを見る。このような人種は、自らは「問題を示す」だけで、後は担当者や専門家に任せて恥じない。何しろ、問題が分かっているのだから、後は楽なものだと思っている。仕事をするということは「問題の答え」を出すことである。このようなレベルのマネーシャは、担当者や専門家が答えを出す行為の中で起こす失敗が耐えられない。もっとしっかりやれ、もっと論理的にやれと騒ぐ。このような人は、問題を明らかにする思考プロセスしか知らないので、解決策も同様に考えられると思っているから困ったものだ。
 このような思考法への認識の差異は、「スタッフ」と「ライン」との関係でも起こることがある。当然「問題を示す人」がスタッフで、「問題を解決する人」や、その中でまた「問題を起こす人」がラインだ。このような関係でのスタッフは役に立たない。声を大にして言わなければならない。「問題が分かっても、答えは分からない。」

■それは、「なぜ・なぜ」という分析が足りないからだと反論するかもしれない。それは違う。発想には、アナロジー、ヒューリステックとアブダクションがあり、アブダクションは先の2タイプとは生成のメカニズムが異なる。アナロジーは類推であり、「Aはa,b,cという特性を持っている。もしBがa,bという特性をもっているなら、cという特性もあるかもしれない」と考えるようなメカニズムである。ヒューリステックは「経験則」であり、類比する対象が過去の経験や事例に基づくもので、「Aという過去の事例はa,b,cという特性を持っている。もしBがa,bという特性をもっているなら、cという特性もあるかもしれない」と考えるメカニズムである。
 この二つは、問題を分析することによって、ある程度導かれるだろう。たとえばTRIZは、これをシステマチック行う方法論として理解することができる。TRIZには過去の科学・技術知識に基づく巨大なデータベースがある。これを類比思考によって、眼前の問題に適用する。しかし、すでにTRIZの知識はあまりにも巨大すぎて、世界知そのものに近づいている。その意味でTRIZに解けないものはないという主張に偽りはない。しかし現実には、膨大の知識の取捨選択の段階で、どのような側面で選択するかという偶然に支配されて、必ずしも最適解に近づくことはできない。
 しかし、「アブダクション」(仮説形成)は別だ。それは「ひらめき」や「思いつき」と呼ばれるものである。分析から導かれる発想は「アナロジー」と「ヒューリステック」であると思う。「アブダクション」は問題に対して、決して分析的・合理的でないプロセスの中で、ふと訪れる。ある種の技術的飛躍、科学的発見に「アブダクション」が作用しなかったことはなかっただろう。私の程度でも、ささやかなアブダクションの経験は多い。先週も、モータの構造について数日間考えていて、どうにも分からないままある夜寝付いたのだが、朝起きた瞬間に、ヒントとなる図形的なイメージがふと浮かんだ。ケクレの大発見とは次元は異なるが、より深い考察、より長い考察ができる人には、より大きな飛躍的発想が訪れるのだろうという羨望を感じた。

注)帰納法(Induction)は個々の具体的事象から一般的な命題・法則を導き出すものである。
演繹法(Deduction)は一般的な命題・法則を前提として論理の必然的帰結としての具体的事象を示すものである。


■以上、「問題」と「解」との関係における「アブダクション」の位置づけを考えた。これを設計という行為に当てはめてみよう。我々製品設計の担当者は、狭い意味で設計を定義している。設計とは、客(金を支払う人)のニーズに対応して、持っている技術(シーズ)を組合せて、実体のある人工物を生み出す論理的作業である。科学であると同時に経済学が含まれるというのが、我々の立場である。機能と価格との間の矛盾解決が主要な課題である。多くの先行設計事例があって、これを前提にして、形状や質量を削減したり、機能の強化を図り、さらに価格の低減も織り込まなければならない。我々は過去の正しいやり方を知っている。知ってはいるが、それを利用する限り、目標とする設計は実現できないから、そこで悩み、悩みの中から、新しい発想が生まれる。
 上に書いたことの繰り返しになるが、アナリシス(分析)は実体からその機能、属性、性能を明らかにする作業である。すなわち「あるもの」を説明する作業である。アナリシスでは、その設計が良いか悪いかを説明することはできるが、モノは生み出すことはできない。設計の評論家と設計者とはまったく別な人間である。

■設計とは、アナリシスとは逆向きにシンセシス(総合化)として、その機能、属性、性能を満たす実体を創造する作業である。創造は飛躍であって、何らかの「命題・法則」や「仮説」に基づく推論作業である。設計されたある製品を調査・分析して、どの部分がいかに高価格であるかとか、どの部分の信頼性が低いとか指摘する作業はアナリシス(分析)である。第三者がこれを行うことは容易である。こんなレベルの低い設計ミスをしていると指摘することも容易である。これが分かっても、これは問題の指摘に止まり、解決案を得るには、別な思考様式が必要である。それがシンセシスである。設計者が日常的に「思いつき」、「ヒラメキ」「発想・着想」と呼んでいる作業もこのシンセシスの方法論であるアブダクションであって、このアブダクションを推進する力が創造力である。

■どうやら、同じようなことをくどくどと書き続けている感じがする。自分の言いたいことを、できるだけ論理的に説明したいという努力は今のところ成功していない。多くの設計的な失敗をしてきた自身の弁解にしか聞こえないだろう。なぜなら、設計が「アブダクション」であるなら、「アブダクション」は間違える可能を許容するからである。
 「アブダクション」という考え方を言い訳に使うつもりはない。むしろ自身の技術力や創造力に自信を持っている設計者に対して、そのあなたの設計にはアブダクション要素が含まれ、必然的に誤りが侵入する可能性があることを言っておきたい。設計には絶対的に真実の設計とか完璧な設計などなく、せいぜい他と比較して良い設計があるだけで、その設計すら、次に現れる他の設計によって凌駕されてしまうものである。それは設計がアブダクションであるからであり、アブダクションである限り、「設計は間違える」という可能性に、設計者は常に隣合わせていることを忘れてはならない。みずからの創造力にのみ頼った設計は失敗する。自分の設計の結果に安住したら、競争に敗れる。近年、設計者における創造力の重要性が主張されるが、創造力には上記のような危うさがあることを知っていれば、その間違いをいかに少なくするかという努力の重要性も理解できる。
 それに必要なのは、実は先に否定的に述べたアナリシスである。アブダクションにいたるためには、まずデータに基づく分析をきちんと行うことである。やみくもな「思いつきの連発」では新製品はできない。もう一つの努力がまさに勉強である。たくさんの技術的シーズを知識として活用して設計していくために、なにより勉強が必要な所以である。





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