石川啄木の『渋民日記』をめくっていると飛び込んできた語録ではあるが、一瞬、吃驚したが、すぐ微笑ましくなった。「世の中で頭脳の貧しい人だけが、幸福に暮らしている」というフレーズがそれである。昨日、国立循環器センターで半日いたときの院内の様子が想い出されてくる。病気の予防、治療のどちらかで来ている人々の不安、絶望、諦めの表情を観察しながら、自分にも来る試練のことなどを考えていたものだ。そんな折、この啄木のつぶやきが目にとまって何故か羨ましい思いになってしまった。きっとわが心臓は小心者のそれなのであろう。現実を深刻に考えれば考えるほどに、だんだん悩みや不安が出て来る。その悩みや不安をあまり感じないで安楽に暮らすことが出来るのは、何も考えようとしない人、つまり頭脳が貧しい人だからである。そんな人だけが幸福に暮らしているという、啄木の皮肉であろう。
石川啄木(1886-1912) かにかくに渋谷村は恋しかり思い出の山思い出の川
朝から風を伴った雨が吹いている。終日、家に閉籠っている切なさに侘しさが募る。『源氏物語』「野分」に「野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。・・・暮れゆくままに、物も見えず吹き迷はして、いとむくつければ、御格子など参りぬるに、うしろめたく、いみじ、と花の上を思し歎く。雨のおとどにも、前栽つくろはせたまひける折にしも、かく吹き出でて、もとあらの小萩、はしたなく待ち得たる風のけしきなり。折れぶり、露もとまるまじく吹きちらすを、少し端近くてたまふ」と、紫式部の頭脳の鋭さが窺われる。
『源氏物語絵巻』「野分」より
野分け立ちのあと、気まぐれに、「でんでんタウン」のアーケドの下を歩くと、見事に歩道上の自転車がなぎ倒されていた。伊東静雄の「野分よさらば駆けゆけ。目とむれば草紅葉すとひとは言へど、野はいま一色(ひといろ)の物悲しくも蒼褪(あおざ)めし彼方ぞ」の詩の一節ではないが、歩道を占拠し、歩行者の邪魔をしていた草の紅葉ではないが、自転車をなぎ倒して行った野ならぬ歩道を見て、その野分けの跳梁にこころは痛む。一色に物悲しくも蒼褪めた彼方へ去ってしまった。
かつて、四苦八苦して読んだトーマス・マンの『魔の山』のつぶやき「死と病気とへの興味は、生への興味の一形態にほかならない」が貧弱な頭脳に蘇ってきた。
―今日のわが愛誦句
・野分後の野の道青きものもなし 石塚友二
―今日のわが駄作詠草
・曖昧なとき過ぎて行き孤独なり
野分のあとの虚しさに似て