②近代税制と新自由主義的税制の相違点
税制は国民生活の基礎を形作るものです。税制によって、平等な社会になるかどうか、または、経済成長が可能な社会になるかどうかが決定されます。
それにも関わらず、多くの経済学者、政治家、マスコミは、税金は国民全員が公平に負担すべきものであると決まり文句を叫ぶだけで、平等の達成や経済成長の実現という効果には関心を失ってしまったかのように振舞います。
これは本当に不思議なことです。
政策の議論としては、短期的な金融政策や財政政策のほうが政局の絡みもあって面白いのですが、これは、その時々の刹那の対応に過ぎず、永久に続くことが前提である税制の重要性に比べれば二次的な問題に過ぎません。
自動車の構造が壊れていれば、運転者がどんなに頑張っても安全運転は無理なのであって、運転の技術以前に、構造に故障が無いことが全ての前提になります。
税制は正に自動車の構造に相当し、ここが壊れているのでは、行政が少々、金融政策や財政政策という運転で頑張ったところでどうにもなりません。
近代税制と真っ向から対立する税制理論にトリクルダウン理論があります。トリクルダウン理論は、新自由主義のウソの所得再分配理論です。
トリクルダウン理論とは、企業の雇用の自由化などの規制緩和をし、なお、富裕層の負担となる法人税、所得税、相続税を軽減し、富裕層に好きなだけ儲けさせれば、富裕層は、自らの自由意志によって、投資や消費を増大し、低所得者層に富がトリクルダウンする(こぼれ落ちる)という理論です。
だから、法人税減税、所得税の累進度の緩和は、富裕層を儲けさせるためのトリクルダウン理論を背骨とする新自由主義税制であると言うことが出来ます。
富裕層の自由意志による社会貢献(トリクルダウン)の役割を強調するのは、国家が行うべき社会貢献の役割を削減しようとすることに外なりません。
それゆえ、トリクルダウン理論は小さな国家論とか夜警国家論とかとも呼ばれます。
国家というものは、投資家と呼ばれる富裕層の善意(自由意志)による所得再分配をあてにするのではなく、法律(税制)で所得再分配を強制しなければならないのに、新自由主義はトリクルダウン理論によって、国家の役割を骨抜きにしようとしているわけです。
これは、実際に、富裕層の自由意志にまかせれば良いという新古典派経済学や新自由主義の所得再分配理論となり、富裕層に対する税金や、企業の雇用制度による労働分配の義務を緩和させる運動となっています。
そして、今や、自民党は経団連など大企業の利益を最優先する新自由主義政党であることが鮮明となっています。現に、自民党はあれやこれやの理由を付けながら明確に新自由主義税制に突き進んでいます。
自民党は、法人税減税で株主の純利益の課税を軽くすると、企業が喜んで人件費を増やすとトリクルダウン理論の通りのことを言っています。
まともに考えれば、やっと、労働者の賃金を削って利益を手に入れた株主や富裕層が、なぜ再び、やすやすとその富を低所得者に配るようになると思うのか、自民党の思考回路は理解出来ません。頭がオカシイとしか考えられません。
利益は人件費を控除した残余なのです。利益を残したということは、すでに、投資家が人件費として分配する気がなかったことを意味しています。それなのに、なぜ再び人件費として分配する気になるのでしょうか。投資家が心変わりする何の保証も無いのに、自民党の主張は無責任極まりないというしかありません。
しかし、さすがに、現状を見て、経済学者、政治家、マスコミも、もはやトリクルダウンが起こっているとは言えなくなりました。最近はさすがに、誰もが、トリクルダウンという言葉を使うのは恥ずかしいようです。
それにも関わらず、自民党の、最大の政治課題は投資家が最大の利益を上げるための環境作りにあるという方針が変わることはありません。
自民党は、富裕層を優遇する理由にトリクルダウンが起こるとは言わなくなった代わりに、今は、経済成長してパイを増やさなければ所得再分配出来ないし、投資家が投資をしなければ経済成長は出来ない、よって、投資家の利益を保護しなければならないという理論に変身しています。
これを煎じ詰めれば、法人税減税によって純利益を保護すれば、純利益から投資するようになるというトリクルダウン理論そのものです。
純利益とは設備投資費(減価償却費)や人件費を支払った残余ですから、純利益を保護しても設備投資費(減価償却費)や人件費を上げるようなことは起こりません。これは理論の矛盾です。
トリクルダウン理論では、投資家の純利益を保護してやれば労働者の賃金でさえも多く払うようになると言っていますが、純利益がどのような過程で生まれたかを考えると、それは矛盾としか言いようがありません。
ところが、今、自民党は企業の純利益の増大を奨励する一方で、経団連に賃上げを要請するというまことに奇っ怪なパフォーマンスを行っています。しかし、どう考えても、これらの行為は矛盾しており、茶番というしかありません。
要するに、自民党は、ウソにウソを重ねて、労働者の賃金を下げることにインセンティブを与え、投資家(ほとんどは富裕層)の利益を守ろうとしているのです。
これは、現代の日本に限らず、ケインズの生きた1900年代前半期のイギリスでも同じでした。
ケインズは、伝統的な新古典派経済学との論争から、経済成長の理論を抜きにしては、どんな経済政策の議論も無視されるということは承知していましたから、所得再分配すべきという自らの感情を、伝統的な経済成長の理論を軸とする理論に転換して闘う場を求めていました。
ケインズは、貧困を救う所得再分配に投資家の善意をあてに出来ないことは最初から判っていましたから、政府の強制力によって所得再分配を行う以外に、経済成長をもたらす政策は無いと主張しました。
これがいわゆるケインズ政策です。ケインズは、その最後の結論で「利子生活者の安楽死」という言葉を使って、ようやく自らの感情を明らかにしました。
政府が所得再分配政策を行うためには、金本位制下にあっては財政均衡という条件に拘束され、自由に貨幣を印刷することが出来ないので、富裕層からの税収を財源にする以外ありません。
ところが、イギリスの富裕層およびこれに媚びへつらう政治家たちは、今の日本と同様に富裕層に対する増税を許しませんでした。
そして、今の日本と同様に、富裕層へ富を集中して、資本の希少性による資本収益の増大への道筋を付けてやらなければ、投資家は投資しようとしないという理論がまかり通っていました。ケインズ経済学はそれとの闘いでした。
富裕層への富の集中に対して異論を唱える第一歩が、流動性選好からもたらされる「流動性の罠」の理論です。
これは、貨幣の最大の保有者である富裕層による貨幣の保有動機が、物々交換の仲介手段という性質を超え、貯蓄を好むようになり、富裕層の貯蓄が景気を悪化させるという理論です。
貯蓄、流動性選好の増大、および、それからもたらされる流動性の罠を解決する方法論が、ケインズの、政府の積極的な財政政策による有効需要の創設の理論です。
しかし、金本位制下にある限り、財政均衡の壁を打ち破ることは出来ず、低所得者や貧困層への所得再分配のためとはいえ、財政赤字を拡大して、財政政策を行うことは無理なことでした。
なぜなら、金本位制においては、貨幣量に制約が設けられているため、政府が勝手に貨幣を発行して、政府支出に使うことは出来ないからです。貨幣を発行するとは財政赤字を拡大することでもあります。
これは、金融機関による信用創造も同じであり、金融機関が保有している金(gold)の量に相当する現金を見据えて融資するしかありませんでした。
金本位制におけるときは、政府が積極的な財政政策を行うためには、富裕層に対する増税が必要であり、それが出来ないならば、どうしても、財政均衡の壁を打ち破らなければなりません。そして、財政均衡の壁を打ち破るためには金本位制から脱却しなければなりませんでした。
そこで、ケインズは、結局、金本位制をやめて、管理通貨制度へ移行する以外にないと結論付けました。
金本位制から管理通貨制度への転換は、ケインズの亡くなった25年後の1971年のニクソンの兌換停止宣言で最終的に達成されました。
そして、現代の管理通貨制度の社会では、ケインズの思惑通り、財政均衡を気にすることなく、通貨発行量を増大させ、所得再分配を行い、インフレを起こし、経済成長させることが可能になっています。
日本が1989年のバブルに至るまで国民総中間層と呼ばれるほどの所得の平準化と経済成長が出来たのは、財政均衡を度外視した所得再分配政策を行ったからです。
ところが、財政均衡を度外視した所得再分配政策によって、実際に財政が悪化したかというと、逆に、税収弾性値による自然増収によって、むしろ財政の均衡は維持されました。
ただし、財政収支は経済の健全性とは無関係であり、どうでも良いことですから、ここで財政の均衡が維持されたことを評価するつもりはありません。
見落としてならないのは、1989年までは冷戦が続いており、社会主義との競合から、国内においても所得再分配政策が重視されて来たということです。
資本主義社会では、昔から、資本主義の特質(欠陥)として、投資家、債権者、資本家などから成る富裕層が政治家を牛耳り、富の一極集中や独占が起こる傾向を持っていましたが、政治家が、社会主義との競合の危機感を持っていましたから、1989年までは富裕層に対する比較的に重い税負担と、低所得者への所得再分配が実現されていたのです。
しかし、その緊張感は、1989年の冷戦の終結によって無くなりました。
それを見て取った富裕層は本性を現し、政治家に富の一極集中や独占を容認するよう圧力をかけ、もともと欲深な政治家たちは(野党政治家も含めて)、率先して、近代税制を破壊して行きました。そして、低所得者や貧困層はますます貧困になり、日本人は現在のような哀れな国民になったのです。