この件です。これ以前にも山田太郎は、共産党の公約を曲解してバッシングしたり、明らかに問題のある議員を「表現の自由を守る」という名目で推したりとめちゃくちゃです。

 ちなみに、動画の資料がアップロードされていました(『【第468回】どうなる? 非実在児童ポルノ』)。これはいい傾向です。動画を見なくても彼の主張が検証しやすくなりますからね。

ワニ大臣は自由に必要!(んなわけねぇだろ)

 まず山田太郎のやらかし1つ目は、四国のワニこと平井卓也前デジ大臣を応援してしまったことです。

 表現の自由以前に、平井卓也は政治家としてかなりアウトな人物であるということができます。なにせデジタル大臣になってから「初めての実績」がNTTから受けた接待ですから。半年後にお金を払って割り勘だったというウルトラCまで開発し、自民党の収賄疑惑回避の手法を前進させた実績は(彼らにとってのみ)非常に大きなものがあると言えるでしょう。

 また、オリパラアプリに関連してNECを「完全に干す」などと恫喝したことも記憶に新しいと言えます。自民党的には、偽らない本音で話す直接民主主義の体現者、という評価になっているのかもしれませんね。直接って直接攻撃の意味ではないんですが。

 もちろん、表現の自由に関しても重大な問題を抱えています。その最たる例は、ゲーム規制を推進した立役者である四国新聞のオーナー一族であるということです。彼自身は関係ないと否定していますが、四国新聞が事あるごとにに平井をよいしょする記事を出していますし、規制自体も自民の地方議員が主導したとなれば、関係ないというのは端的に言って嘘です。百歩譲って「直接関係したわけじゃないが、規制になってしまったのは遺憾」くらい言っておけばまだ嘘ではない範疇なのですが、明確に嘘をつく人間を信用できるでしょうか。

 加えて、2013年にはニコ動が配信した党首討論会にて、福島瑞穂議員に「黙れ、ばばあ!」と自演書き込みをしたのも忘れてはいけません。いま自民党は、親族の会社にお金を流しDappiなどのアカウントを運営させてデマや差別的言説を流布させていた疑惑がありますが、平井はいわば「元祖Dappi」だったわけです。もしかすると山田太郎は、そうした先見の明を買って平井を応援したのかもしれません。

 んなわけねぇだろ。

 規制になだれ込む危険を冒して平井に投票するくらいなら、対抗馬の小川淳也候補に投票しましょう。彼については『本当に君は総理大臣になれないのか』を読みましたが、明らかに収賄とか自作自演みたいな小細工をしない(っていうかできない)人物であると言えます。表現の自由をどう考えているかはわかりませんが、仮に考え方が違っても議論を受け止める余地のある人間であることは間違いありません。

恣意的で本質を見落とす公約チェック

 さて、動画に触れていきましょう。まず動画では各党の公約をチェックしますが、早速党派性丸出しです。いや、山田太郎は自民党議員なんで、そういう意味で党派性丸出しなのがダメなわけじゃないんですけど、表現の自由を守るという点からは明らかに恣意的で不公平な議論をしています。

 まず自民党ですが、青少年健全育成法について。ある程度時間を割きますが、過去の法案の来歴を話すことで、これが次の国会で訴状に上がるのではないかという点に関しては徹底してぼかしています。政権与党第一党の公約なんて最も実現確率の高いもののはずですが、スライドにしてたった2ページです。

 あと、国際機関の意見を聞くのがまずいという話が出てきます。ここで突然出てくるので動画を見ていると意味が分からないと思いますが、伏線を後で回収します。

 野党共闘の各党に関しては、とにかく危険だと煽ります。立憲は対策を推進するからヤバい、社民は包括的な差別禁止法を作るからヤバい、共産党はもちろんヤバい……という感じです。最大限好意的に見ても自民党の青少年健全育成法と同じくらいヤバいと煽っているという感じですが(実際には自民党以上にヤバいと煽っているように見える)、あくまで野党の公約であるという点を一切無視しています。

 野党の公約であるというのは、単に人数が少なくて実現可能性が低い以上の意味があります。それは、批判をちゃんと聞く可能性が高いという意味です。自民党のような与党は人数を頼みに強行採決ができますし、そもそも国会を開こうとしないので批判を聞かない集団だと言えます。こういう集団の公約にまずい点があっても、市民は修正させることができません。批判を聞かないからです。でも、野党の多くはそうではありません。仮にまずい点があっても、批判すれば聞いてくれる可能性は十分にあります。そういう意味でも、公約のヤバさは自民党が頭一つ抜けているのですが、山田太郎はそんなことには一切触れません。まぁ、自民党だからね。

 そして、彼の表現の自由への不見識は、実は維新の公約への対応で如実に現れます。彼は維新のヘイトスピーチ規制も同じようにヤバいと繰り返すだけなのですが、維新がいうヘイトスピーチに「日本・日本人に対象とするもの」が含まれる点を全くスルーしています。

 これの何がヤバいかと言えば、維新のヘイトスピーチの定義に従えば、政府や日本を批判する言説もヘイトスピーチだとして規制できかねないということです。特に、現時点で差別的な対応をされている民族的マイノリティは政府を批判する機会が多くなりえますが、これをヘイトスピーチだとして弾圧できる余地があるということです。

 つまり、維新の公約は、本来マイノリティを守るためのものであるはずのヘイトスピーチ規制を、少数派や批判者を弾圧する道具に変えてしまおうという下心のあるものであると言えます。先日、政府が歴史教科書への介入をしましたが、これのもととなったのが維新の質問主意書であることを考えれば馬鹿げた推測でもないでしょう。

 そして、このことを一切無視してしまう山田太郎は、表現の自由に対する理解が極めて浅いと言わざるを得ません。ヘイトスピーチ規制がかえってマイノリティの弾圧に使われているのではという議論はさほど珍しいものではなく、表現の自由を考えるなら当然知っているだろうべきものだからです。

ブキッキオ論破伝説の虚構

 さて、山田太郎が児童ポルノ問題で熱く語るときは、2013年ごろに国連の特別報告者であるブキッキオ氏と対峙した話と決まっています。それ以外に目立った活躍がないのでね。まぁ、当時は小党の政治家だったので活躍が限られるのはしょうがないんですけど、何度も繰り返されるとしらけますね。

 というのはさておき、私は前々から、このいわば「ブキッキオ論破伝説」的なものを疑ってました。これまでは「なんとなく疑わしいな」程度であり、いずれ検証しようと思っていたのですが、今回思いがけず機会が巡ってきました。

 そして、この伝説が虚構に近いものであることがわかりました。
 念のために言えば、今回は山田太郎側の主張しか見ていません。それでこう思うのですから、実際は察するべきなのでしょう。

 さて、この論破伝説はブキッキオ氏の主張が誤りであり、山田太郎の働きかけにより政府などが一丸となってこれを否定したというかたちになっています。しかし、この反論の中身が結構ひどいものです。山田太郎がスライドにまとめているので、これを引用しましょう。まず1枚目です。

スクリーンショット (53)

 いきなりズコーって感じです。まぁ、根拠云々は別にいいとしても、真ん中が問題です。架空でも性暴力表現が人権侵害であるという主張に「創作物に人権はない」と応じていますが、これは明らかにずれた反応でしょう。国連の報告やそれを引用した議論を見る限り、ここでの人権侵害は、それこそ共産党が指摘するように「表現物が社会的風潮に影響し、それが実際の被害を招く」という間接的なものが想定されています。実際、1つ前のスライドで山田太郎自身が示すように、女子差別撤廃委員会もそのように指摘しています。にもかかわらず、ここでの反論は創作物中の人物に人権があるかどうかという、都条例みたいな話になっています。

 このようなズレた反応をしながら「条約上の義務はない」と主張しても、あっ差別的な政府のいつもの言い逃れだなという印象にしかならないでしょう。
スクリーンショット (52)

 2枚目はもっと酷い有様です。まぁ、2つ目はいいとしましょう。2つ目は完全に評価の問題なので、私は軽いという評価が不当だとは思いませんが、ここを議論することは困難です。(とはいえ、この反論は外務省の感想にすぎないものであり、それを断固とした対応であるかのように評価できるとは思えませんが)

 問題はほかの3つです。まず13%云々ですが、確かにこれの根拠は明らかになっていません。そのことを指して政府とオタクはデマだデマだと騒ぎますが、じゃあ政府が実態を把握しているかと言えば……
スクリーンショット (54)

 このざまです。「13%はデマです。実態は把握してないけど」という主張が国際社会に受け入れられるかどうかよく考えたほうがいいでしょう。

 3つ目は被害届云々に対し警察庁が「そのようなことはない」と言っていますが、捜査の問題を指摘された警察が素直に認めると思っている時点でお話になりません。警察はそう聞かれたら実態はともかく「そんなこたぁない」というに決まっています。

 そして、女性への性暴力が警察に冷淡に扱われたのは周知の事実です。だいたい、中村格氏が性暴力事件の逮捕状を握りつぶした事例が2015年の時点で存在した以上、性暴力への捜査が適切に行われていないという批判を否定することは無理でしょう。機関のド頭がやってるわけですから。

 沖縄云々の話については、「はず」と言われればその通りかもしれないけどさぁ……としか言えません。「以外にない」というのはあくまで強調表現であり、本当に皆無であることを主張したいわけではないでしょう(そんな必要もないし)。英語的な表現を日本語にした結果だと思われます。そのことについて「いや誰かはそうじゃない境遇の人もいるだろ」というのは反論というより揚げ足取りというべきものです。

 加えて、沖縄に限った話ではありませんが、家庭の問題から家出をした少女が性的搾取にあうケースは稀ではありません。このことは例えば『女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち』などが指摘しています。

実は子どもの権利なんてどうでもいいのでは?

 ここまで山田太郎の議論を見てきましたが、動画を見る限り、彼の主張には2つの大きな問題があります。1つは、実は山田太郎は子どもの権利なんてどうでもよさそうだということです。

 こういうことをいうと、反論がすぐに飛んできそうです。山田太郎は子ども庁を作ろうとしているとか、児童ポルノを性的虐待記録物に変えようとしているとか。しかし、私はそれこそが表向きに態度にすぎないと思っています。

 彼が児童の権利に無関心なのは、ブキッキオ氏の主張に対する反応からありありとみて取れます。もし、表現の自由を守りつつ子供の権利も守りたいと思っているのであれば、あのような揚げ足取りと全否定を繰り返すような真似はしないはずです。ブキッキオ氏の主張には稚拙な面が確かにありますが、一方で日本が児童への性的搾取に無頓着な国であることはありありと描き出しています(もっとも、それは政府の対応含めてのことですが)。

 彼が特にひどいのは、13%の件です。彼はブキッキオ氏の主張によって日本が買春大国であるかような「誤った」印象がばら撒かれ、それによってかえって子供のリスクが上がったと言います。世界中のペドフィリアが日本なら子供とセックスできるとやってくるからだそうです。しかし、これはもう無茶苦茶な詭弁と曲解と言わざるを得ません。

 山田太郎の主張は、問題があることを指摘することは問題を外部に広めることだからするなというものです。しかし、このような主張は要するに問題を表沙汰にするなと言っているだけであり、児童への性暴力を見て見ぬふりをしろと言っているのと何ら変わりません。もし本当に児童への性暴力が問題だと思っているのであれば、批判は問題を指摘したブキッキオ氏ではなく問題を放置していた政府に向くはずです。彼はむしろそうせず、政府と協力して無理筋な理屈をひねり出しながらこれを否定する方法をとりました。本当に子どもの権利が大事なんでしょうか?

 そして皮肉なことに、ブキッキオ氏をきっかけにして日本の児童性暴力問題の解決は前進しましたし、ほかならぬ山田太郎がそれを進めました。彼はブキッキオ発言をきっかけに、児童への性暴力の実態を確かめようとしたからです。裏を返せば、それまでは政府も彼もやろうとしていなかったということです。

 こういう振る舞いを見る限り、彼が児童ポルノを性的虐待記録物に改めようとするのは、単にエロを守りたいからにすぎないと言えます。女性差別の観点から議論する人を彼は不愉快だと思っており、故に、児童の権利を守ることに使えそうだったとしてもブキッキオ氏は全否定しなければいけなかったのです。

 児童ポルノを性的虐待記録物に変えるというのは私も賛成です。しかし、このように不純な動機から主張されれば、主張自体の妥当性が疑われてしまいます。非常に迷惑なので辞めてほしいですね。

規制の背景にあるものの見落とし

 そしてもう1つの問題は、規制の背景にあるものを見落としているという点です。

 彼は動画の後半でアチョン法という、韓国の児童ポルノ規制法を取り上げています。また、前半では自民党の青少年健全育成法を取り上げています。これらと、国連や野党の主張する児童ポルノについての考え方を一緒に議論するというのは、実は誤りです。

 そもそも、児童ポルノを規制する考えには2つの理由があります。1つは児童の権利を守るという発想。もう1つは性道徳や規範の観点から規制する発想です。自民のそれは明らかに後者であり、前者にあたる国連や野党の主張とは同じように見えて全く異なるものです。

 ちなみに、私はアチョン法も後者にあたるのではないかと思っています。これはぜひ詳しい人に補足をお願いしたいところですが……アチョン法制定当時の大統領金泳三は敬虔なプロテスタント教徒であり、大統領就任直後にはネオン街追放に乗り出したこともあったようです。元々、韓国ではキリスト教保守の勢力が強く、彼らとセクシャルマイノリティの権利を求める市民との間に対立もあるようなので、アチョン法にもこうした宗教的性道徳を背景とする影響があってもおかしくないのではないかと思います。

 ともあれ、こうした異なる要素のある2つを一緒に議論するのは誤りです。背景が違えば落としどころも違うからです。

 児童の権利を擁護するために児童ポルノを規制しようとする人たちとは、実は議論の余地があります。彼らは要するに権利を守れればいいのであり、極端な話、規制なくしてその目的が達成できるなら児童ポルノを規制する必要はないからです。現状ではそれ以外に有効な方法がなさそうだから主張しているだけです。なので、規制以外の様々な対策を推進すれば、皆無とは言わなくとも規制を厳しくしないことに合意してくれる目があります。

 なにより、彼らの主張の背景には人権があります。表現の自由もまた人権であり、規制法が冤罪を生む可能性もあるとすれば、規制を対策の本筋とするのは彼らにとっても本意ではないはずです。人権の制約は少ないに越したことはありませんから。

 一方、道徳が理由だとこうはいきません。道徳で考えれば、児童ポルノに類するものが存在すること、それを楽しむ人がいることそれ自体が問題だからです。権利が背景なら、そうしたポルノが他者の権利を侵害するという「結果」を生じさせなければ許容してもらえそうですが、道徳は結果の有無にかかわらず存在を問題視します。ですから、譲歩の余地がありません。

 山田太郎はアチョン法が実際の性暴力への罰則より重いという矛盾を指摘しています。しかし、実はこの矛盾も、性道徳という補助線を引くとさほど驚くべきことではないとわかります。というのも、この手の古い性道徳は男尊女卑的な価値観を背景にしており、その発想では女性に対する被害は軽視されるからです。一方、社会を乱すと道徳がみなすものは厳しく罰します。というわけで、実際の被害の罰が軽くポルノが重くなるという一見意味不明な法律が出来上がるのです。

 こうした背景知識は、ポルノを論じるのであれば常識に属するものでしょう。ポルノの問題はつまり、性差別問題だからです。性差別を論じるうえでジェンダー論を踏まえるのは当然です。しかし、山田太郎にはそのような見方はないようです。

 私が指摘するように、そもそも山田太郎の発想は極めてミソジニー的です(『ミソジニスト山田太郎という可能性』参照)。そういう人物が論じるポルノ規制論がどれほど妥当なものになるでしょうか。
 米のことを知らない寿司屋がいい寿司を握れるとは思えませんがね。