製造書を発掘!「320年ぶり」に蘇った日本酒の美味すぎる味
静岡県韮山に残っていた「御手製酒之法」を再現した人たちがいる
とろり甘くて、まさに「甘露」な日本酒ができた。仕込み米、300キロ。とてつもない手間をかけて1樽、四合瓶500本だけ製造された「江川酒」は、今のところ会員しか味わえない希少な日本酒だ。静岡県韮山の「江川邸」で、320年ぶりに仕込まれたこの江川酒を取材した。
美味しい。しかもとても
甘い。甘い日本酒なんて、という人もいるだろう。けれども「もともと日本酒は甘いものだった」のだという。戦後、日本酒本来の米から生まれる「甘味」を手っ取り早くだすために、甘味料が使われたことから、一般的な日本酒の「甘味」は、くどくて舌に残る「安い味」になってしまった。
が、この「江川酒」は違う。320年前の1698年に書かれた秘伝の製法、本来の日本酒の作り方に則ってつくられた由緒正しい甘みのある酒なのだ。
「コロナ禍で、ちょっと暇になってしまったんです。それで昨年の春から、蔵にしまってあった古文書をひとつひとつ取り出して、精読しました。そのなかに、江川酒の作り方を克明に記録した『御手製酒之法(おてせいさけのほう)』があったんです。全28ページにわたり、製法が記録されていました。江川家を愛する仲間で『再現しよう!』と盛り上がりました」
今も残る重要文化財「江川邸」の江川文庫学芸員、橋本敬之さんは、少年のような目でそう言った。
現在の静岡県伊豆の国市「韮山地域」に居を構えて代官を務めた江川家は、戦国時代には北条家に仕えた。北条氏が、この江川酒を諸国大名に贈り、その美味しさは豊臣秀吉、徳川家康らの絶賛を受けたという。江戸時代に幕府の財政難で原料の米が手に入らなくなり、酒造りが途絶えていた。
先端技術をつぎつぎと取り入れた「日本のダビンチ」
「36代の江川英龍(ひでたつ)は、1842年に日本で初めてパンを作った『パン祖』でもあるんです。幕末のころ蘭学を学び、鉄製の大砲を作るための『反射炉』や、砲台『お台場』(東京都港区)の提案をしたのも英龍です」
橋本さん、とても誇らしげだ。
「英龍は多芸多才、時代のスーパースターというか、日本のダビンチのような人でした。書画や工芸品もたくさん残されています。鎖国の時代なので海外に行くことはなかったのですが、オランダの文献などから多くを学び、コーヒーも飲んでいました。自由闊達な生涯です」
学びは人を幸せにする
「英龍は、そんな知識を惜しみなく伝えようと、塾を開きました。身分の上下なく、意欲のある者を広く受け入れて、最新の知識、教育を与えたんです。徳川家の代官として、また、国のために、という務めだけでなく、そこからは『学びは人を幸せにする』という信念が感じられます」
「教育パパだった」という英龍公の子孫で、江川家42代当主の江川洋さんは
「子どものころはこの屋敷で、夏休みを過ごしたりもしました。家のなかには、江戸時代から伝わる工芸品がふつうに置かれていましたね。先代である父から、当主としてとくになにかを教えられたことはないのですが、この場所にはしょっちゅう来ていたので、蔵のなかに『こんなものがあるよ』と見せられたり、さりげなく学んでいたように思います。僕自身は東京に住んでいますが、地元の方がよくしてくださって。江川家が創設した韮山塾から発展した韮山高校の同窓会のみなさんや、江戸時代からの関連のみなさんが守ってくれているんです」
そうして320年ぶりに蘇った「江川酒」。製造した万大(ばんだい)醸造の杜氏、伊奈静夫さんは言う。
「今の酒とはずいぶん違うんですよ。米に対して水が少なくて麹が多い。これでちゃんと酒ができるか、正直不安でしたね。古文書には、原料の分量や製法は細かく書いてあるけど温度が書いてなかったり。でもやってみようと」
2月に仕込んだ300キロの米は「ふつう1日で上がる水が上がってこない」などアクシデントを経て液量400リットルを絞った。完成、蔵出しされたのは、予定を下回るわずか500本分。その酒は淡い琥珀色で、アルコール度数は17%、「甘く濃厚な」味に仕上がった。本当に、美味しい。
江川酒は「江川英龍公を広める会」に入会、出資をすると「返礼品」として提供されるという。
家康が「養老の酒」と称賛し、秀吉が晩年に「醍醐の花見」にも運ばせたというこの「幻の酒」。
「今度はね、江川家の田んぼで米を作って、また昔通りの製法で江川酒を作ろうと思います」
と橋本さん。夢は、
「閉塞感のある現代に、英龍公の存在が広く知られ、学びのたいせつさが見直されること。NHK大河ドラマの主人公になることです!」
重要文化財江川家住宅(江川邸)https://izugaku.jp/egawahidetatsu/
問い合わせ:伊豆の国市 案内所「まちすけ」0558-76-0030