【足利義昭の子孫】を家系図で解説!義昭の末裔は今現在どこにいる?
「足利義昭」の「子孫」が、今も続いているのかどうか、ご存知ですか?
実は筆者も、くわしく調査してみるまで、「足利義昭の子孫」が今も続いているか、まったく知りませんでした。
この記事は「室町幕府・最後の将軍【足利義昭】の子孫」について知りたい方に、とても役立つはずです。
これを読めば「足利義昭の子孫のゆくえ」を簡単に理解できます。それだけではなく、他人に解説できるほど、くわしくなることができます。
「足利義昭」の「子孫」は、今現在も続いている可能性が高いのです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「足利義昭の子供たち」は、その後どうなったのか?
諸説あるものの、足利義昭には「足利義尋」「一色義喬」「永山義在」「矢島秀行」という4人の子がいたと考えられている
「足利義尋」の直系は断絶したが、残り三人の子孫が、今も続いている可能性がある
2,「足利義昭の子孫」は、今も続いているのか?
「義昭の子孫」は、今も続いている可能性が高い。
しかし、ハッキリとした証拠があるわけではないが、映画会社「松竹」の元社長「永山武臣」さんが、義昭の子孫かもしれない。
証拠がないので、「義昭の子孫」と断言はできない。
3,「足利義昭の子孫」以外に、「足利家」の子孫はいるのか?
初代将軍「足利尊氏」の子孫は、「関東足利家」と「平島公方家」という2つの系統を通じて、今も続いている
目次 [hide]
足利義昭の「4人」の子供達と、その「子孫」をくわしく解説
「足利義昭」の子供たち一覧
室町幕府15代将軍「足利義昭」は、「室町幕府」を開いた初代・征夷大将軍「足利尊氏」の末裔です。
《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」
「足利義昭」には、4名の子供がいたと考えられます。
- 足利義尋(あしかが ぎじん)
- 一色義喬(いっしき よしたか)
- 永山義在(ながやま よしあり)
- 矢島秀行(やじま ひでゆき)
諸説あるものの、これら「4人」は「足利義昭」の子供である可能性が高いです。
以下に「足利義昭」と、その子供たちの家系図をご用意いたしました。
足利義昭の「4人の子供たち」は、一体どのような生涯をおくったのでしょうか。
【1573年】、義昭は「織田信長」によって京都から追放され、没落しています。
そのため「義昭の子供たち」も、壮絶な人生をおくっています。
【足利義尋(あしかが ぎじん)】と子孫
「足利義尋」は足利義昭の「嫡子(ちゃくし)」、つまり後継者として育てられた人物です。
「義尋」には「義尊」「常尊」という二人の息子がいましたが、そこで子孫は断絶しています。
本来なら「足利義尋」こそが、父「義昭」の後継者として、「室町幕府16代・征夷大将軍」となるはずのです。
【1573年】、父「足利義昭」は「武田信玄」と協力して、「織田信長」に戦いを挑みます(槇島城の戦い)
《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
この戦いに敗北した「足利義昭」は、息子「義尋」を人質として「織田信長」に差し出して、京都から追放されるのです。
このとき「義尋」は、わずか1歳でした。
織田信長は「足利義昭」に対して、「京都へ戻ってほしい」と要請したものの、「足利義昭」はこれを拒絶。室町幕府は滅亡します。
「16代 征夷大将軍」としての道を閉ざされた「義尋」は、わずか1歳で奈良の「興福寺」というお寺で出家。
そこで大僧正という高い地位にまで登りつめるのです。
ところが「義尋」は、還俗(げんぞく)します。つまり「僧侶」をやめてしまったのです。
そしてお公家さんから妻をもらい、「二人の子供」をもうけるのです。
その二人の子供とは
- 「義尊(ぎそん)」
- 「常尊(じょうそん)」
という名前です。
義昭の子供たちは、2人とも出家して「僧侶」となっています。
そのため「義尊」と「常尊」には子供がいません。
「足利義昭」の直系子孫は、こうして断絶したのです。
「義尋」は、33歳という若さで病死しています。
「足利義尋」は、以下にご紹介する「3人の子供たち」とは違い、唯一「足利義昭の実子」であることが明らかな人物です。
ちなみに異説ですが、「義尋」は僧侶であるにもかかわらず、「義尊」と「常尊」という子供をもうけた罪から、「興福寺」を追い出されたという説があります。
【一色義喬(いっしき よしたか)】と子孫
「一色義喬」は、足利義昭の家臣「一色藤長」に育てられた人物です。
この「一色義喬」の子孫と考えられているのが、幕末・会津藩の「坂本義劉」です。
「義喬」についてくわしい資料が残されていないため
「一色義喬は、義昭ではなく【義尋の子供】なのではないか」
「義喬のほうが【義尋】よりも大切にされているため、義喬のほうが次期将軍と考えられていたのではないか」
などなど、数々の推測がなされています。
【1614年】、「徳川家康」と「豊臣秀頼」の間で「大坂の陣」が勃発。
このとき「一色義喬」は、約500名の軍を率いて「徳川軍」として参戦しようとしました。
《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
しかし戦に間に合わず、大坂城は落城してしまいます。
間に合わなかった「一色義喬」ですが、出陣した心意気を「徳川家康」から評価されることとなります。
「義喬」は、京都に3万石の領地を与えられそうになりますが、「戦功がないのに褒美をもらうのは恥」と言って辞退したといわれています。
この「一色義喬」には、「義房」という名前の息子がいました。
その「義房」が、「徳川家康の法会(ほうえ)」に参加したという記録が残っています。
「義房」の子「義邵(よしあき)」は「坂本」へと姓をかえて「坂本義邵」と名乗っています。
その後、「義邵」は会津藩につかえています。(「坂本」と姓を変えた理由は、「一色義喬」が「近江国坂本」出身だったから。「坂本」は「明智光秀」の居城があった場所)
「義邵」の孫「坂本義辰」は、江戸幕府の老中「松平定信」に対して
「自分は足利義昭の子孫である」
と主張する「由緒書」を出しています。
その後「坂本義邵」の子孫「坂本義続」が、「戊辰戦争」で負った傷により死亡。
「義続」の子「義劉」は戊辰戦争後に、会津藩から「栃木県足利」へと移動したといわれています。
「栃木県足利」は、先祖である初代将軍「足利尊氏」が生まれ育った、いわば「足利氏発祥の地」です。
「一色義喬」の子孫と考えられている「坂本義劉」。
その「坂本義劉」の子孫が、今も続いている可能性がありますが、詳しいことは不明です。
ただし、この「一色義喬」が本当に「足利義昭」の子であるかどうかは、定かではありません。
「一色義喬」に続く「坂本家」が、足利義昭の子孫であると、ハッキリとは証明されていないのです。
【永山義在(ながやま よしあり)】と子孫
「永山義在」は、「足利義昭」が「織田信長」に京都から追放された後に生まれた子といわれています。
「永山義在」の子孫は、幕末・薩摩藩士の「永山弥一郎」と「永山武四郎」。
「永山武四郎」の孫が、「松竹」の元社長「永山武臣」さんです。
「義在」は成長したあと、父「義昭」から離れて生活したようです。
その後、薩摩藩士「永山」という人物の娘婿となり、「永山義在」と名乗ったのだとか。
「永山義在」は薩摩藩士として、息子「永山義房」、孫「永山義比」へと、その血筋をつなげていきます。
ここから話は一気に「幕末」へと飛びます。
幕末の薩摩藩、「永山義在」の子孫と考えられている人物が「2名」おりました。
「永山弥一郎」と「永山武四郎」です。
この二人は同姓ではあるものの、親子でも兄弟でもなく、おそらくは遠縁であると考えられます。
《永山弥一郎》
「引用元ウィキペディアより」
薩摩藩士「永山弥一郎」と男爵「永山武四郎」は、「北海道・屯田兵創設」の建白書を一緒に「岩倉具視」へ提出しています。
ですので、当然ながら「弥一郎」と「武四郎」の二人は赤の他人ではなく、面識があります。
《岩倉具視》
「引用元ウィキペディアより」
「永山武四郎」は、薩摩藩「永山盛香」氏の娘「常子」さんと、「市来政志」の間に生まれた人物です。
この「永山武四郎」のお孫さんが、先ほど申しました映画会社「松竹」の元社長「永山武臣」さんです。
一方の「永山弥一郎」は、倒幕のために「坂本龍馬」とも面会するほど各地で活躍しています。
【1877年】、「永山弥一郎」は「西南戦争」で「西郷隆盛」とともに戦死しているのです。
西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』
さきほど「松竹の社長『永山武臣』氏は、足利義昭の子孫かもしれない」と申しました。
この「かもしれない」というあいまいな言い方をした理由は
「【永山弥一郎】と【永山武四郎】、そして【永山義在】が、子孫と先祖の関係にあることを証明する証拠が、なにもない」
からです。
「永山義在」から「永山弥一郎・武四郎」へとつながる家系図のような証拠は、見つかっていません。
もしかすると「幕末・永山氏」と「足利義昭」の間には、なんの接点もない可能性もあるのです。
余談ですが、俳優「西田敏行」さん主演の大河ドラマ「翔ぶが如く」において、名バイプレイヤー「遠藤憲一」さんが、「永山弥一郎」を演じておられました。
「西郷隆盛の最期」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ
「大河ドラマを無料で視聴する方法」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ
【矢島秀行(やじま ひでゆき)】と子孫
「矢島秀行」は、「足利義昭」の家臣だったといわれている人物です。
しかし「矢島秀行は足利義昭の子供である」という異説が存在します。
そんな「矢島秀行」の孫娘が、「今川義元」の孫に嫁いでいます。
「矢島秀行」の娘「八千子」は、猛将「立花宗茂」の継室(後妻)となっています。
『立花宗茂』
「引用元https://snappygoat.com/より」
「矢島秀行」には、「矢島重成」という息子がいました。
この「重成」の長女「奈緒」が、「今川義元」の孫「今川直房」に嫁いでいるのです。
「矢島秀行」の子孫は、その後も「立花家」に仕え続けています。
しかし、その子孫の行方は不明です。
ちなみにこの「今川直房」の妹が、「忠臣蔵」で有名な悪役「吉良上野介義央」の母親です。
「今川直房」の男系直系の子孫は、明治時代に「今川範叙(のりのぶ)」とその子「淑人(よしと)」を最後に断絶しています。
「今川義元の子孫」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ
【足利義昭の子孫】は、今現在も続いているのか?
映画会社「松竹」の元社長は「足利義昭」の子孫かもしれない
足利義昭の子孫は「今現在も続いている可能性が高い」です。
映画会社「松竹」の元社長「永山武臣(ながやま たけおみ)」さんが、「足利義昭」の子孫だと考えられます。
なぜ「可能性が高い」という、あいまいな言い方をしているのかというと
その理由は「足利義昭の子孫」の可能性がある人物が、本当に「義昭の血を引いているのか」どうか、ハッキリと証明されていないからです。
「足利義昭」の子孫と考えられる人物の中で、有名な人といえば「永山武臣」さんです。
「永山武臣」さんは、映画会社「松竹」の元社長。
「2006年(平成18年)」に亡くなられた実業家です。
この「永山武臣」さんは、数々の歌舞伎役者さんの「襲名披露興行」を成功に導いた人物として有名です。
- 「12代目・市川團十郎」さん
- 「11代目・市川海老蔵」さん
- 「18代目・中村勘三郎」さん
などなど、彼らの襲名披露興行を指揮したお人なのです。
《11代目・市川海老蔵》
「引用元ウィキペディアより」
11代目「市川海老蔵」さんは、【2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」で、ナレーターを務めておられます。
「永山武臣」さんは、「足利義昭」の子孫である可能性があります。
ちなみに「永山武臣」さんのご子息は、フジテレビの「永山耕三」さん。
「永山耕三」さんは「テレビドラマプロデューサー」として
- 「ひとつ屋根の下」
- 「ロングバケーション」
などの人気ドラマを演出したお方です。
この「永山耕三」さんのお嬢さんは、「Abema」の総合プロデューサーを務めておられます
「足利義昭」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ
【足利家の子孫・末裔】を「家系図」でまとめて紹介
室町幕府第15代征夷大将軍「足利義昭」から数える「足利家直系」は断絶しています。
なぜなら義昭の嫡子「義尋」の息子たち「義尊と常尊」が、子供を残さず亡くなったからです。
しかし「足利家の末裔」は、それ以外の系統からも続き、現在も存続しています。
現在も続く「足利家」の家系は、2つあります。
「関東足利家(喜連川家)」と「平島公方家」です。(「公方(くぼう)」とは、「将軍」のことです。例えば「徳川綱吉」は「犬将軍」と呼ばれましたが「犬公方」とも呼ばれています)
そしてそれぞれに
- 「足利浩平」さん(喜連川家)
- 「足利義弘」さん(平島公方)
という子孫を、現代まで繋げているのです。
「関東足利家(喜連川家)」
「関東足利家」(喜連川家)の現在の当主は、「足利浩平」さんという方です。
「関東足利家」とは、「足利尊氏」の三男「足利基氏(もとうじ)」から始まる系統です。
父「尊氏」と兄「義詮(よしあきら)」は、京都で政務を取っていました。
それに対して「基氏」は、関東・鎌倉で「鎌倉公方」という出先機関の長官をしていたのです。
その「基氏」の子孫が、代々「関東」を支配し、京都の本家「足利将軍家」と対立するようになるのです。
戦国時代になって、「足利将軍家」に敗北した「関東足利家」は、滅亡寸前に追い込まれます。
しかし天下人「豊臣秀吉」が救いの手を差し伸べます。
名門「足利家」の血筋を惜しんだ秀吉は、「喜連川(きつれがわ)」という地に領地を与えたのです。(喜連川は、現在の「栃木県さくら市喜連川」)
《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
「徳川家康」の時代になると、「関東足利家」は「喜連川」という姓を名乗ります。
その後「喜連川家」は、わずか5千石の領地しかないのに、「10万石の大名」として扱われます。
その理由は「格式ある家柄」を、徳川家から評価されたためです。
明治維新の2年後にあたる【1870年】、「喜連川藩」は領地を明治政府へ返還して消滅。
その後は「子爵」という爵位を与えられ、「華族」という高い身分を誇っています。
これ以降、「喜連川家」は姓を「足利」に戻しています。
「足利義昭」とその子「義尋」の直系が断絶して以降、「関東足利家・喜連川家」が「足利氏」の本家としてあつかわれることとなります。
この「関東足利家・喜連川家」系統の子孫が、東海大学で学長を務めた「足利惇氏(あつうじ)」氏です。
【2014年現在】の足利家当主は、「足利惇氏」さんの甥「浩平」さんです。
「足利浩平」さんは、造形美術に関係する会社の代表取締役を務めておられます。
「平島公方家」
足利家のもう一つの系統が「平島公方(ひらしまくぼう)」と呼ばれる系統です。
「平島公方」の現代の末裔は、「足利義弘」さんというお方。
「平島公方」とは、「足利義維(よしつな)」という人物から始まる系統です。(「平島」とは「足利義維」が住んでいた場所で、現在の「徳島県阿南市那賀川町」)
「足利義維」は、11代将軍「足利義澄(よしずみ)」の次男で、12代将軍「足利義晴」の弟にあたります。(「義維」は、15代「義昭」の叔父)
この「足利義維」の息子が、のちに14代将軍となる「足利義栄(よしひで)」です。
しかし「足利義栄」は、「織田信長」が15代将軍「足利義昭」を擁立したため、京都へ入ることもできずに病死。
《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
その後「足利義栄」の弟である「足利義助」が、「平島公方」の家名を存続しています。
【1608年】、阿波国の大名「蜂須賀氏」に養われていた「義助」の孫「足利義次」は、冷遇されることとなります。
姓を「足利」から「平島」へ変えられるなど冷遇されていました。
その後の「平島公方」は、「蜂須賀氏」からの冷遇に耐えかねたのか、阿波国から京都へ移住。
同時に、姓を「足利」へと戻しています。
明治維新の後、「平島公方家」は「足利将軍家」の子孫であるとして、「華族」になれるよう運動を開始。
しかし「華族」として認められないどころか、「士族(元武士)」としても認められませんでした。
その後「平島公方家」は、現在の「京都市西京区」で平民となっています。
【2003年】以降の「平島公方家」の当主は「足利義弘」という方です。
「足利義弘」さんは、元「創造学園大学」の教授。「全国足利氏ゆかりの会」で特別顧問をしておられます。
ちなみに、13代将軍「足利義輝」の子孫も、現代に続いている可能性があります。
「足利義輝の子孫」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ
『足利家の末裔』は「鎌倉幕府・北条家」の子孫でもあった!
「足利義昭」の子孫には、「鎌倉幕府」を支配していた「北条一門」の血も流れていることをご存知でしょうか?
実は「室町幕府」を開いた「足利尊氏」の妻は、「北条一族」の女性なのです。
そのため「足利義昭」やその子孫には、「源頼朝」の義父であり「北条政子」の父である「北条時政」の血が流れています。
足利尊氏の妻「登子」は、北条一族「赤橋流」の血を引いているのです。
「登子」の兄「北条守時」は、鎌倉幕府・最後の執権です。
【1333年】、「北条守時」は「新田義貞」と戦い、戦死。鎌倉幕府は滅亡します。
「赤橋守時・登子」兄妹の先祖は、【2022年】の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の主人公「北条義時」。
「足利尊氏」と「登子」の間に生まれたのが、室町幕府2代将軍「足利義詮」です。
現代まで「足利家」の血筋をつたえる「関東足利家」の祖「足利基氏」も、「登子」が生んだ子です。
ということは「足利義昭」にも、「登子」を通じて「北条氏」の血が流れていることになります。
現代までつづく「関東足利家」の末裔にも、「北条家」の血がひきつがれているということです。
余談ですが、「守時・登子」兄妹の祖父は「北条義宗」という人物です。
【闇営業】やら【オフホワイト不倫】やらで話題になった天才お笑い芸人「宮迫博之」さんが、【2001年】の大河ドラマ「北条時宗」で、この「北条義宗」を演じておられました。
「大河ドラマを無料で視聴する方法」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ
【足利義昭の生涯】を、カンタンに解説
室町幕府・最後の将軍「足利義昭」は、【天文6年(1537年)11月13日】に誕生しました。
ここから【1597年】に亡くなるまで、波乱の人生が始まることとなります。
その幼名は「千歳丸(ちとせまる)」
父は、室町幕府12代征夷大将軍「足利義晴」。
兄は、室町幕府13代征夷大将軍「足利義輝」。
《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」
【1542年】、千歳丸は「家督争い」を未然に防ぐため、奈良の興福寺で出家させられます。
出家する際に、「覚慶(かくけい)」と改名。
【1565年】、僧侶として静かに暮らしていた「覚慶」の人生を変える大事件が勃発します。
「永禄の変」です。
- 戦国大名「三好義継」
- 三好家の有力家臣「三好三人衆」
- 松永久秀の息子「松永久通」
この三者が協力して、征夷大将軍「足利義輝」を暗殺してしまったのです。
兄「足利義輝」を暗殺された「覚慶」は、「松永久通」たちに捕まり、興福寺に幽閉されます。
「義輝」の家来だった「三淵藤英」やその弟「細川藤孝」たちは、「覚慶」の救出に成功します。
【1566年】、「覚慶」は「足利義秋」と改名。
同年、越前国の大名「朝倉義景」を頼った「足利義秋」は、この地にいた「明智光秀」と出会うこととなります。
本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン
【1568年】、「足利義秋」は、「秋」という文字を不吉であるといって嫌がり、「足利義昭」と改名。
同年、「明智光秀」の仲介によって、尾張・美濃を支配していた「織田信長」の元へ移ることとなります。
【1568年】、「足利義昭」は兄「足利義輝」の敵討ちのため、「織田信長」や「浅井長政」の協力を得て、京都へ進軍。(上洛)
宿敵「三好三人衆」らを京都から追い出すことに成功します。
これにより「足利義昭」は、「室町幕府15代征夷大将軍」に就任。
ところが、これ以降「足利義昭」はその失政を「織田信長」に厳しく注意されるようになります。
これをきっかけに、両者の関係は、急激に悪化。
挙句の果てに「足利義昭」は「武田信玄」や「朝倉義景」に協力を要請。「織田信長」を倒そうと画策し始めるのです。
《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」
【1573年】、「義昭」がもっとも頼りにしていた「武田信玄」が、「織田信長」を追いつめながらも急死してしまいます。
一気に形勢不利となった「義昭」は、「織田信長」との間で繰り広げられた「槇島城の戦い」で惨敗。
この敗北により「義昭」は京都から追放されます。
この時、200年以上続いた「室町幕府」は滅亡したのです。
その後も「義昭」は、中国地方の大名「毛利輝元」の庇護を受けながら、「織田信長」に対抗しつづけます。
【1582年】、「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に殺害されると、「義昭」は京都への帰還を画策し始めますが、失敗。
【1585年】、「豊臣秀吉」が関白・太政大臣という最高位に就任。
【1587年】、「足利義昭」は「秀吉」の協力もあって、14年ぶりに京都への帰還に成功。
【1588年】、「義昭」は朝廷へと参内し、「征夷大将軍」の職を辞任。名実ともに「豊臣秀吉」が天下人となります
【1592~1593年】、秀吉が「文禄の役(朝鮮出兵)」を開始。
【1597年】、「慶長の役」開始。
この「朝鮮出兵」の際に、「足利義昭」は秀吉から出兵を頼まれたため、200人の軍団を率いて「肥前・名護屋城」へ出陣しています。
【慶長2年(1597年)8月28日】、「足利義昭」は大坂で亡くなります。
享年61歳(満年齢59歳)
死因は「腫物」。
老齢であるにもかかわらず、「豊臣秀吉」による「朝鮮出兵」に出陣した無理が祟った、といわれています。
「明智光秀」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ
「足利義輝と足利義昭は、どういう関係なのか?」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「足利義昭の子供たち」は、その後どうなったのか?
諸説あるものの、足利義昭には「足利義尋」「一色義喬」「永山義在」「矢島秀行」という4人の子がいたと考えられている
「足利義尋」の直系は断絶したが、残り三人の子孫が、今も続いている可能性がある
2,「足利義昭の子孫」は、今も続いているのか?
「義昭の子孫」は、今も続いている可能性が高い。
しかし、ハッキリとした証拠があるわけではないが、映画会社「松竹」の元社長「永山武臣」さんが、義昭の子孫かもしれない。
証拠がないので、「義昭の子孫」と断言はできない。
3,「足利義昭の子孫」以外に、「足利家」の子孫はいるのか?
初代将軍「足利尊氏」の子孫は、「関東足利家」と「平島公方家」という2つの系統を通じて、今も続いている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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こんにちは!矢島重成のことでしたら私の調べた内容でよろしければお伝えできますよ
こんにちは
この度は当サイトをご利用いただき、そのうえ貴重なお言葉まで頂きまして、心より御礼を申し上げます。
矢島重成氏について、情報を下さるとのお言葉をいただき、驚きと嬉しさで大変興奮しております。
もしも情報を頂けましたら、これ以上ないほど幸せです!!!
もしもお手数でないようでしたら、ぜひぜひお言葉に甘えさせていただけないでしょうか?
ご温情に心よりお礼を申し上げます。
何卒よろしくお願い致します。
ありがとうございます!!!
お役に立てるか分かりませんが、私の知りうる限りでよろしければ、こちらのE-mailにご連絡くださいませ!
申し訳ありません!
私共がパソコンに疎いせいで、頂きましたEメールアドレスへのご連絡ができませんでした!
貴重な情報をコメントで頂き、本当にありがとうございます!!
すみませんでした!
『柳川歴史資料集成第一集 柳河藩享保八年藩士系図。上』はご覧になりましたでしょうか。
元亀元年、矢島重成は父矢島勘兵衛秀行、母菊亭晴季の娘のもとで誕生しました。
しかしこの頃、三好残党が京都の足利義昭を度々襲います。矢島勘兵衛秀行(重成父)は足利義昭を防戦時に
負傷し、その傷がもとでその年の暮れに亡くなりました。
その後のことは、通説として、
母と重成、そしてまだ3歳だった姉八千は、母の実家である京都の菊亭家に身を寄せました。
それからしばらくして、細川藤孝(幽斎)が母子を引取り、子供たちを養育しました。
重成は、細川家や細川家家臣の旧足利幕臣家にて育てられたと言われています。
それから25年過ぎた頃、重成と八千の行く末について困った幽斎が、秀吉と話合い
八千の婚姻先を立花宗茂に・・・と決まったそうです。
しかし、誾千代という妻の存在や、天下を分け目の戦乱の世、
生きるか死ぬかの中で、すぐには婚姻の話がまとまったわけでは無いようです。
1602年宗茂の妻誾千代が病死します。
1602年末から1603年頃かと思いますが、
宗茂が棚倉へ移動する途中で京都に寄り、そのときに八千と会ったのではないかと言われています。
棚倉から晩年の宗茂や立花藩の再興のために陰ながら支えたのが八千です。
宗茂の養子となった忠茂の養育に心血を注ぎ、
八千(瑞松院)は江戸における将軍家や他家への贈答を取り仕切っていました。
当時は、将軍家や他の大名との間で行う儀礼行為時には、見栄の張り合いなども
あったようですが、宗茂や忠茂のための衣類を、京都の呉服店に注文し、支払い
などを行っていたのも八千でした。八千自身は、自分が着る小袖は、進物で頂いた
もので間に合わせたようです。そして元和10年(1615年)かねてから病弱であった
八千が、更に体調を悪くした時には、「病人ゆえ、手許の金は不要」として
江戸から注文した分の皆斎に充てようとした書状が残っています。
弟の矢島重成については、一番最初に歴史に登場するのは
慶長の役で吉弘統幸と一緒に戦った時と思われます。
立花藩での重成の役割は京都や大阪など畿内情勢の情報収集
並びに、細川家への使者を務めていました。
また、寛永20年、後光明天皇の即位時は禁中への祝儀の使者として、
明暦2年(1656年)後西天皇即位時には、重成の長男重知も使者として
京都に赴いていたようです。
『柳川の歴史4 近世大名立花家』柳川市史編集委員会 参考
さて、矢島重成には子供が数人おります。
長男重知、長女(今川直房室)、二女(大鳥居養子石崎若狭妻)、二男重武
等々です。
重知の傍らには弟の重武がいたようで、政治的なことなど
常に兄弟で話し合われていたようです。
長男重知の家系は早い段階で途絶えてしまい、宗茂の兄弟が
矢島家の跡を継ぎ、明治期まで柳川に住んでいました。
二男、重武の家系は、矢島家の血縁を繋ぎながら
現在まで続いております。現在の当主は重武から
数えると第13代目です。
重武の家系では、明治期には、
父淡斉と長男の湊、二男の為三郎が立花藩主鑑寛公に仕え
江戸(東京)京都、大阪などに御供していたようです。
父、淡斉が亡くなった年に、跡を継いだ長男の湊も病死するという
不幸に見舞われ、二男の為三郎が家督を継ぎました。
矢島為三郎は、陸軍軍人として日露戦争に従軍し、
後に広島県福山で陸軍大佐になっています。
福山と言えば鞆の浦ですね。やはりご縁があるのでしょうか?
妻は、朽木之綱公の長女(病死のため継妻あり)で、やはり
ここでも足利との何か繋がりを感じますね。
為三郎の弟で三男の矢島功は海軍大佐でした。
海軍では、海軍参謀本部や露国公使館に務め
明治25年には「露西亜国皇帝ヨリ贈与シタル神聖安那第三等
勲章」を大尉時に受領しています。
明治34年に、叙勲四等瑞宝章を受章しています。
しかしこの後病気のために亡くなりました。
妻は鴨脚長子(下鴨神社禰宜)病死
継妻は、華園完子(華園澤弥弟信暁娘)
子供はいなかったようです。
ざっくりですが、このような系譜です!
室町後期の矢島家については、まだまだ秘されていることも
多いと思います。史料も乏しいようですが、調べると
面白そうですね
こんばんは
お返事が遅くなりまして申し訳ありません。
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どのように御礼を申し上げれば、この感謝の気持ちを伝え切れるのか。
ありがとうございます、としか申し上げられませんが、どうか失礼をお許しください。
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興奮しすぎてお見苦しい文章になっているとは存じますが、失礼をどうかお許しくださいませ
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