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11.
伊野尾慧の呪い
目を覚ますと、雑然と置かれた椅子が目の前に広がっていた。なんと形容して良いのか分からない、不思議な空間。
意識が混濁している。
ついさっきまでシャッター街に居て——、
髙木が誰かに手を握られて——。
だが、いくらも記憶ははっきりとしない。唯一分かるのは、MV撮影の時に感じた違和感が、殊さらに強くなっていることだけ。そして、明らかにここが現実世界ではないということだけ。
出口はないのかと辺りを彷徨うが、何処にも見つからない。
その時、急に不思議な現象が起こりだす。
——何処からともなくグラスが飛んできて割れたり、
——床に「HELP」という文字が浮かび上がってきたり、
——「266」と書かれたキーホルダーがついた鍵が落ちていたり……。
どうにもわけが分からない。
異世界との交錯……?
いつかの本で読んだ、冗談のような設定を思い出す。
思案に耽っていると、突然背後にえも言われぬ気配を感じる。
そこには、黒衣を纏った青い狐の面の男が、いつの間にか立っていた。
伊野尾は恐ろしくなり逃げ出した。何処を走っているのか、自分でも分からない。乱雑に置かれた椅子をなぎ倒しながら、ただ逃げ続ける。
狐の面は何かを訴えかけているようだが、その表情は分からず、捕まったらどうなってしまうか分からない今では、逃げるしか無いのだ。
ふと伊野尾は、壁に掛かった鏡が青く光っていることに気がついた。
狐の面はこちらに迫っている。
伊野尾には、鏡が何処かへ誘う入り口のように見えて、また他に逃げ場がないことを悟って、意を決して飛び込んだ。
感覚がぐにゃりと歪み、強い耳鳴りがする。
鏡の中は、異空間へと繋がるタイムトンネルのようだった。狐の面は追ってこない。
何も分からぬまま、伊野尾はその先を進む。
どれほど歩いただろうか、気付けば伊野尾は青い闇が支配する神社の前に立っていた。
神社——?
そこは「群青神社」と言う稲荷神社であるらしかった。辺りには六つの青い光が舞っている。ここもまた、異世界なのだろうか。
怪しみながら境内を歩く伊野尾は、鳥居の下に「群青村伝承記」と書かれた書物を見つける。
開き見れば、そこには群青村と云う集落の忌まわしき歴史が記されていた。
村が干ばつに襲われ、雨を降らせるために母狐を穴ぐらへ閉じ込めたこと。
その子狐から恨みをかい、呪われ、村人全員が異世界へ飛ばされてしまったこと。
その子狐の呪いを封印したこと。
その封印方法。
現実世界へ戻る方法。
そして——、祓えの方法。
それを読み終えた瞬間、伊野尾の中に、これまで起きていた怪異の全てが流れ込んできた。
子狐の呪いがMVの踊りによって解き放たれたこと。
知念はその呪いに身体を乗っ取られたこと。
知念の身体をした呪いは、メンバーを次々と孤独世界へと送っていったこと。
伊野尾は何かに突き動かされるように、本に挟まった御札の一枚を取り出し、梵字のような文字を書きつける。
「群青村伝承記」の祓えの方法に書かれていた通りの文字。
「消えた者を現世に呼び戻す秘法」である。
一心不乱に書きつける。やがて終わり、立ち上がった伊野尾は、書き終えた秘法の札を神社の石垣に貼り付けると、静かに呼吸を整え、書かれていた通りの祓え詞をつぶやく。
その瞬間、世界は真っ白な光りに包まれた。辺りをさまよっていた六つの青い光は、まるでろうそくの火が消える如く、ゆっくりと宙空へ消えていく。
伊野尾もまた、浮遊する如くその青の世界から消えていった。
だが、これで終わりではない。まだ最後の祓えの儀式が残っている。
伊野尾が目を覚ますと、そこはホテルの一室だった。
一面、豊かな彩りに包まれている。
戻れた。あの忌まわしい世界から戻れたのだ。
伊野尾がこの世界に戻り、しなければならないこと。
子狐に取り憑かれた者から、呪いを祓わなければいけない。
部屋を出て、子狐が取り憑いた男を捜す。廊下にも居らず、エレベーターにも居ない。
「階段室」と書かれた扉を開けると、そこは薮が消えた階段だった。
その男が階段の踊り場に一人立っている。
気付かれないように伊野尾は背後からそっと近づき、優しく耳打ちをする。
「知念の身体から出ていくんだ」
知念の身体をした狐は、伊野尾を見るなり一目散に逃げ出した。
伊野尾は追いかける。階段を下り、駐車場へと追い詰める。
壁際に追い詰められ逃げ場をなくしたその狐を、伊野尾は抱きしめた。
「群青村伝承記」に書かれていた祓えの方法。それは孤独を埋める「愛情」を示すことだった。
伊野尾に抱きしめられ、苦しみに顔を歪める子狐。己の魂が、乗っ取った身体から離れていく。
だがそれに反して、どこか懐かしいぬくもりに包まれる。知念の身体から抜け出た子狐の魂は、己に宿っていた恨みや憎しみが消えていくのを感じながら、空へと昇っていった。…………
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12.
呪いの終わり
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11.伊野尾慧の呪い
意識が混濁している。
ついさっきまでシャッター街に居て——、
髙木が誰かに手を握られて——。
だが、いくらも記憶ははっきりとしない。唯一分かるのは、MV撮影の時に感じた違和感が、殊さらに強くなっていることだけ。そして、明らかにここが現実世界ではないということだけ。
出口はないのかと辺りを彷徨うが、何処にも見つからない。
その時、急に不思議な現象が起こりだす。
——何処からともなくグラスが飛んできて割れたり、
——床に「HELP」という文字が浮かび上がってきたり、
——「266」と書かれたキーホルダーがついた鍵が落ちていたり……。
どうにもわけが分からない。
異世界との交錯……?
いつかの本で読んだ、冗談のような設定を思い出す。
思案に耽っていると、突然背後にえも言われぬ気配を感じる。
そこには、黒衣を纏った青い狐の面の男が、いつの間にか立っていた。
伊野尾は恐ろしくなり逃げ出した。何処を走っているのか、自分でも分からない。乱雑に置かれた椅子をなぎ倒しながら、ただ逃げ続ける。
狐の面は何かを訴えかけているようだが、その表情は分からず、捕まったらどうなってしまうか分からない今では、逃げるしか無いのだ。
ふと伊野尾は、壁に掛かった鏡が青く光っていることに気がついた。
狐の面はこちらに迫っている。
伊野尾には、鏡が何処かへ誘う入り口のように見えて、また他に逃げ場がないことを悟って、意を決して飛び込んだ。
感覚がぐにゃりと歪み、強い耳鳴りがする。
鏡の中は、異空間へと繋がるタイムトンネルのようだった。狐の面は追ってこない。
何も分からぬまま、伊野尾はその先を進む。
どれほど歩いただろうか、気付けば伊野尾は青い闇が支配する神社の前に立っていた。
神社——?
そこは「群青神社」と言う稲荷神社であるらしかった。辺りには六つの青い光が舞っている。ここもまた、異世界なのだろうか。
怪しみながら境内を歩く伊野尾は、鳥居の下に「群青村伝承記」と書かれた書物を見つける。
開き見れば、そこには群青村と云う集落の忌まわしき歴史が記されていた。
村が干ばつに襲われ、雨を降らせるために母狐を穴ぐらへ閉じ込めたこと。
その子狐から恨みをかい、呪われ、村人全員が異世界へ飛ばされてしまったこと。
その子狐の呪いを封印したこと。
その封印方法。
現実世界へ戻る方法。
そして——、祓えの方法。
それを読み終えた瞬間、伊野尾の中に、これまで起きていた怪異の全てが流れ込んできた。
子狐の呪いがMVの踊りによって解き放たれたこと。
知念はその呪いに身体を乗っ取られたこと。
知念の身体をした呪いは、メンバーを次々と孤独世界へと送っていったこと。
伊野尾は何かに突き動かされるように、本に挟まった御札の一枚を取り出し、梵字のような文字を書きつける。
「群青村伝承記」の祓えの方法に書かれていた通りの文字。
「消えた者を現世に呼び戻す秘法」である。
一心不乱に書きつける。やがて終わり、立ち上がった伊野尾は、書き終えた秘法の札を神社の石垣に貼り付けると、静かに呼吸を整え、書かれていた通りの祓え詞をつぶやく。
その瞬間、世界は真っ白な光りに包まれた。辺りをさまよっていた六つの青い光は、まるでろうそくの火が消える如く、ゆっくりと宙空へ消えていく。
伊野尾もまた、浮遊する如くその青の世界から消えていった。
だが、これで終わりではない。まだ最後の祓えの儀式が残っている。
伊野尾が目を覚ますと、そこはホテルの一室だった。
一面、豊かな彩りに包まれている。
戻れた。あの忌まわしい世界から戻れたのだ。
伊野尾がこの世界に戻り、しなければならないこと。
子狐に取り憑かれた者から、呪いを祓わなければいけない。
部屋を出て、子狐が取り憑いた男を捜す。廊下にも居らず、エレベーターにも居ない。
「階段室」と書かれた扉を開けると、そこは薮が消えた階段だった。
その男が階段の踊り場に一人立っている。
気付かれないように伊野尾は背後からそっと近づき、優しく耳打ちをする。
「知念の身体から出ていくんだ」
知念の身体をした狐は、伊野尾を見るなり一目散に逃げ出した。
伊野尾は追いかける。階段を下り、駐車場へと追い詰める。
壁際に追い詰められ逃げ場をなくしたその狐を、伊野尾は抱きしめた。
「群青村伝承記」に書かれていた祓えの方法。それは孤独を埋める「愛情」を示すことだった。
伊野尾に抱きしめられ、苦しみに顔を歪める子狐。己の魂が、乗っ取った身体から離れていく。
だがそれに反して、どこか懐かしいぬくもりに包まれる。知念の身体から抜け出た子狐の魂は、己に宿っていた恨みや憎しみが消えていくのを感じながら、空へと昇っていった。…………