「群青物語 〜青き追憶の呪い〜」「群青物語 〜青き追憶の呪い〜」

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08.知念侑李の呪い

知念侑李はエレベーターの中で、先程食べたケーキとコーヒーの甘さを思い出していた。誰かから何かを贈られる喜びと多幸感に脳が包まれている。
だが、その幸福は突如として驚愕に変わる。
完全な密室であるエレベーターが、強い揺れに襲われたのだ。成すすべなく、ただ壁に手を這わせ、己のバランスを取ることしか出来ない。
揺れは収まる気配を見せず、エレベーターはどんどんと急下降していく。表示のバグか、階数パネルは有り得るはずもない地下へと潜っていく……。
「B98」「B99」「B100」「B101」……。まだまだ下る。
やがて揺れが収まる頃には、もうパネルは意味を成していなかった。数字はおろか、どの文字とも判別せぬ言わば「文字化け」が表示されているだけなのだ。
ドアが開いた。
知念は呼吸を整え、怪訝な面持ちでエレベーターから出る。
ここが果たして何処なのかは判然としない。知念から見える景色は、遥か上階に居た頃のものと寸分違わぬ様相を成しており、世界に違和感はない。
だが、別フロアで通じるであろう扉が開かない。それが開かなければ何処へとも行くことは出来ない。
諦めてまたエレベーターに乗り込む。だが、何故かエレベーターのボタンは黒く塗りつぶされ、階数はおろか開閉ボタンもどれなのか分からない。
すると扉は勝手に閉まり、更に下り始めた。
扉を開いた先に見える世界は、またしても先ほどと同じだった。
奇妙にも別フロアへ通じる扉は、今度は開くことが出来た。
だがその先に続く廊下は、今までと明らかに空気が違う。平時の明かりに交錯するように青い光が混じっていくその先に――、一人佇む黒衣。
世界が歪み始める。黒衣は振り向きざま、己の青き狐の面を見せつけるように知念を見据える。慄き知念が逃げ出せば、乗じて黒衣も追いかける。
世界は間断なく青に侵食されていく。
逃げる先はエレベーターしかない。つい先刻まで怪しく思っていたその箱は、今や知念にとって唯一にして一瞬の安寧を与える。
閉まりかけるドアに黒衣の狐面は手を伸ばしたが間髪間に合わず、中に居る知念を虚しく見送った。
エレベーターは動き出す。またしてもどんどんと急降下し、やがて止まった。扉上の数字には、「B266」と書かれている。
フロアに出るとまた寸分違わぬ景色。
どうしてこうも同じ景色ばかりが繰り返されるのか。何も分からず、何も出来ず、頭を抱えその場に座り込んでしまう。
すると知念は背後に奇妙な気配を感じた。機械の動く音。
エレベーターの表示パネルが、「B266」を目指して下りてくる。
まさかあの狐面が、こちらに向かっている……?
逃げる間もなく、エレベーターはB266へと到達した。
そして、その鉄扉をゆっくりと開く――。
中には誰も乗っていなかった。虫一匹の気配すらない。
乗り込む知念。
もう、こんな恐怖は懲り懲りだ。極度の緊張を和らげ、知念は脱力する。だが、それもつかの間のこと。
――いる。
背後に、何者かも分からぬ怪異の気配。
振り向くことが出来ない。だが、振り向かなければならない。
恐る恐る振り向けば、目の前には青き狐の面を被った黒衣。声を上げる間もなく肩を掴まれ、怨念めいた何かが自分の中に流れ込んでくる。
意識がどんどんと薄れていく。先程まで狐だったそれは、みるみるうちに知念へと変化していく。
自分の前に、自分がいる。
意識が薄れていく中で、やがて知念は、自分の姿が黒衣を纏っていくのを感じた。

目を覚ますと、そこはエレベーターの中だった。
現実とは両断された一面青の世界。
夢だったのかと知念は一瞬錯覚を覚えたが、自分の身体や顔に触れると、その錯覚はすぐさま誤りであったことに気づく。
己の全てが、狐となってしまっている。
力任せに引っ張っても狐の仮面は取れず、黒衣を脱ぐことも出来ない。
何がどうしてこうなってしまったのか、知念には到底理解できなかった。
ただ動き出すエレベーター。
これ以上、何処へ向かうと言うのか。
階数も分からぬ密室の箱が行き着いた先は、一寸先も見えぬ、霧に包まれたやはり青の世界だった。

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