渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

息の長いタイプのモーターサイクル

2021年10月13日 | open



あ。このおねーちゃんのバイク、
私が高校時代前半に乗っていたの
と同じ
マシンだ。


こいうヨーロピアンボバー風に
まとめるのもいいねぇ。


トライアンフみたいだが、原形はこれ。



1974年発売。ホンダCB250T。
250セニアの次のモデル。

私のは75年式だった。

よく、こうした4ストツインは
当時のマルソーちゃんはトッ
ツァンバイクと呼んで馬鹿に
した。
理由は遅いからだ。
だが、走らせ方によっては遅く
もない。
馬力自体はCB250Tが27PSで
カワサキマッハⅠの250SSが
28PSで大差ない。
ただ、車重がCB250Tは170kg
以上あり、マッハワンは154kg
程しかなかった。パワーウエイト
レシオが違ったので加速感が
違っていた。
その後、45PSのマッハⅡもCB
400Fourも所有して乗り比べた
のだが、一番味があったのは
25Tだった。

ただ、私の場合は、極めて低い
垂れのあるコンチハンにして
(まだスワローやコンドルは
登場していなかった)、マフラー
は当時出始めたばかりのパーツ
屋だったビートの集合を着けて
いた。吸気側もいじった。
ツインの集合は脈動干渉で遅く
なるとの説もあるが、私のは
どうしたものか、かなり速く
なった。
タイヤは前後にダンロップTT100
をはかせた。それが高1の時。

この車は、他の車両を手放して
もかなりあとまで持っていた。
タンクとサイドカバーは途中
から濃い目のライトブルーに
全塗装していた。
フロントフェンダはFRP製で
同色ペイント。ヘルメットが
そうであるように、全部自主
ペイントだ。
走り方は2ストモデルと全く
変えた。それなりの走法が
あり、それを理解していた
からだ。そういうのに年齢は
関係ない。16歳だろうが17歳
だろうが、解るものは解る。
ただ、ブレーキしながらの

ブリッピングは2ストだろう
が4ストだろうがやっていた。
ただし、4ストの場合は、キック
を避けるために半クラで滑らし
ながらシフトダウンをポンポン
とやっていた。
その10年後以内にホンダから
バックトルクリミッターが
導入されたが、当時は手動で
シフトダウン時のレブ同調
を半クラで合わせる事を4スト
では私はやっていた。
2ストの場合はパンパンパン
とそのままブリップしてダウン
だった。
まだ国内ではハングオン走法

が一般的ではなかった頃、
私とレーシングチームのクラス
メートだけはハングスタイル
だった。理由はヤーノやケニー
がやっていたから。さらに
その理由は知っていた。物理的
な事柄だ。膝を擦る目的では

ない。
当時はハングスタイル走法は
サーキットにおいてさえ遅い
とか、公道には不要とかまこと
しやかな嘘が言われていたが、
それらは全部嘘。

多くの物理的な理由から、
ハングスタイルは高速度旋回
では必須だった。
ただ、「ハングオン」という
呼称は存在せず、「宗乗り」
とか私たちは言っていた。
イン側の膝を開いて腰を落とし
てリーンアウト(相対的には
姿勢はリーンアウトになる。
頭の位置はバイク軸線の延長
の中心)で旋回するのは、
仲間内や身内の二輪乗りたち
からは当時はとても奇異に見えた
らしく、「何?その乗り方」と
よく言われた。
しかし、私ともう一人の同級生
はそのような乗り方だった。
同級生は後に国際A級になり、
マン島を走り、そのトライの
記録がメディアから発売され
ていた。

速さだけでいったら高校時代
で一番速かったのはマッハⅡ
だが(意外とヨンフォアは遅い)、
一番エンジンとシャシの味が
あるのは25Tだった。

最近では所さんが世田谷ベース
でいじり倒した25Tを雑誌に載せ
ていた。25Tをスクランブラーに
していた。

今、1970年代中期のホンダドリーム
CB250Tは程度が良い物件で380万円
位する(笑)。
私は高校1年の時にバイト代で一括
現金で購入した。オートバイはまだ
新車も中古も高額商品ではなかった。
(その頃から20年以上前は超高額)

それは大学時代まで持っていて、
学生時代に後輩に請われて譲った。
ずっと持っておこうと思った4スト
ツインだったが、後輩がえらく

25Tを気に入っていたのだった。
「後発のホーク250のほうが速いよ」
と言っても、ドリーム250Tがいいの
だと言ってた。
多分、トライアンフ系が好きなの
だろう。

このバイク、振動がものすごかった。
RZ350(1型)を所有して乗った時、
あまりの振動のないモーターみた
いなエンジンとフレームに驚いた。
だが、ツインエンジンはとても味が
あるエンジンだ。
パワーだけならマルチエンジンだが、
250や350-400のライトウェイト
クラスでは、ツインはなにかと面
白い特性を見せるので楽しめる。


ホンダのツイン250は74年式から
マフラーがかちあげになったが、
その前のタイプ(セニア)はスト
レートで
なかなかオールドライク
なレー
サー風だ。当時は他社の
2ストもこうした水平マフラーだ。



だが、私はこれの一つ前の型の
1968年式のCB250SS(スーパー
スポーツ)が一番歴代CB250の
中では姿がかっこいいと思う。
時代性もあるが、もろにカフェ
レーサーなのだ。その名もスーパー
スポートだよ(笑)。SSだよ、

これが50年前の当時の。

今見てもめちゃくちゃイケてる。


ハンドルは二種類あるが、低い
タイプ
の物は更にレーシーであっ
たし、
1960年代初期のマシンは
もろにレー
サーのような低いハン
ドルのモデル
だった事は、私は
何度も繰り返して
このウェブ日記
で述べてきたので、
ここを読んで
いる方はご存じだろう。

もともとはレーサーと極めて同じ
形状を市販車はしていた、という
よりも、市販車を改造してレーサー
を作っていた時代があったのだ。
今もある意味それかも。60年代
後半から1990年代末期までは、
レース専用車が多く作られた。
1950年代もそうした例はあった
が、大抵は公道市販車と共通する
設計が多かった。1980年代の
レーサーレプリカブームによって
一度分離していた競技用と公道
市販車の相互技術援用が再び
開始された。

1961年のCB72(250)などは、
スタイルも、ディメンションも
もろにレーサーだ。各部構成パーツ
は当時最新式のものだった。

そもそもシルエット自体が極めて
造形的にも秀逸である。
このノーマル状態でのステップの

位置に注目してほしい。クランク
の完全に後ろ、つまりレーシング
バックステップなのだ。

この高さのハンドルが1960年代
初頭には日本でも当たり前で
あったし、ヨーロッパGP式の前傾
姿勢が一般公道車でも常識だった。
つまり、1980年代のレーサーレプ
リカ時代と同じだった。
だが、警察と運輸省がハンドル規制
を始め、「低いハンドルは危険」
と決めつけて新車の形式認可を下ろ
さないようしてしまった。
その後、法令も改正して高さと幅
の規定を設けた。
そうした自動二輪受難時代が1970年
台だった。
暴走族の存在云々などは一切関係が
ない。

ホンダの二輪車のデザインに没個性
的な物が存在するのは、それはウイ
ンカーやテールなど、共通パーツを
使用する「システム化」を初めて
行なったことによる影響があるだろ
う。
それにより、ホンダのオートバイは
安く壊れないという認識が広まって
よく売れ、世界グランプリでヤマハ
がホンダを王座から引きずり下ろし
て世界王者として君臨し続けた時代
にあっても、ホンダがダントツ
一番の販売台数だった。
売れるには理由がある。
安くて壊れないのだ。
スズキのバイクがまた化け物で
ほぼ壊れない。
一番しょっちゅう壊れたのがカワ
サキだった。
カワサキクオリティなどとも呼ばれ
ていた。
驚くことに、1988年式という80年代
末期のバブルの頃でさえ、カワサキ
KR-1のアルミフレームの内側には
溶接スパッタの粒粒を綺麗に除去
しないままエンジンを組み込んで
出荷した事が現実の現車に残って
いる。カワサキならではだ。

ヤマハのバイクも壊れにくいという
事はなかった。
ただ、ヤマハ2ストのエンジンは
嘘みたいに丈夫だ。別な所がいく。
とにかく壊れないのはホンダと
スズキだったが、ガンマ1型は
未完成なモデルで、よくトラブル
があちこちに出た。もっとも常に
エンジンもシャシも限界エリア
付近で使用していたのだが。

この25Tのおねーさん、とっても
楽しそうだ。そういう車なんだよ
なあ、4ストバーチカルツイン
エンジンというのは。
2ストパラツインのようにヒュン
ヒュン
とモーターのように回る
エンジン
もいいけど、まったりと
ズンドコ
ベロンチョもいいもんだよ。
これは直立並列二気筒に乗って
みれば分かる。実際に乗らずに
いくらネットで調べてもだめ。
個人的には2ストだろうと4スト

だろうと、V型エンジンはあまり
好きではない。これは好みの問題。
リンゴか梨か、みたいなもん。
私はツインでは横並びが好き。
競技車両ではVのほうが絶対に
ハイパワーエンジン作れるけど
ね。でもツインはバーチカル、
パラレルなんだよなぁ。
これは乗った事ない人には何も
語れない。


気持ちよさそうだね。





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