犯罪者名鑑 麻原彰晃 18
富士山本部道場の設立
オウム真理教と教祖麻原の変質が誰の目にも明らかになったキッカケはいつか、という質問に、信徒のほとんどが答えるのは、1987年の富士山本部道場の設立です。外界との接触が断たれた環境に居住区を構えたことにより、完全に浮世離れした思考に陥ってしまったのでしょう。修行の内容も過激になる一方で、不眠不休での立位礼拝や、一日一食という厳しい食事制限など、肉体的な負担が強い修行が行われるようになりました。この修行の過激化に関しては、私は麻原個人の事情も大きく関係したと考えています。
すでに触れた通り、オウムが真理教と名を改め、宗教色を強めていった当時から、麻原は修行をしなくなり、人の心を読む「超能力」が失われていました。加えて、一時は減った信徒の数もこの頃からは徐々に増え始め、麻原が信徒一人ひとりの修行の進み具合を把握することは困難になっていました。幹部がそれを代行できればよかったのでしょうが、オウム幹部の中でヨーガを極めたといえるのは、石井久子などごく初期に入信した一部の幹部だけで、86年以降に出家した村井秀夫や早川紀代秀などは、ヨーガの行法にろくに精通しておらず、信徒からの質問には、麻原から渡された「こう聞かれたら、こう答えろ」というマニュアルを読みながら対応するという体たらくでした。
昔のように信徒の修行の進み具合を把握できなくなり、そもそも指導自体面倒くさがって、末端の信徒にはビデオの中でしか接しなくなった麻原は、修行の内容を、信徒が自分の頭を使って考えながら、各々が明確な目標を目指して取り組む中身のあるものではなく、目的意識もあやふやなまま、単に肉体的に追い込むだけの苦痛合戦のようなものに変えてしまったのではないでしょうか。
個人差はありますが、基本的に、資本主義社会の中で生きてきた人は、「何かやってないと不安になる」性質を持っています。そして、意味のあるなしに関わらず、やったことがキツければキツイほど、不安は取り除かれるものです。高校の野球部で、炎天下に無駄な長距離走をさせたり、回数だけを目的にした素振りをさせるような、ただキツイだけの修行をさせることにより、信徒を「なんかやった気」にさせて誤魔化していたということです。
思考停止の状態で臨む過酷な修行は、超能力の獲得や精神の向上にはなんら結びつきませんでしたが、激しい疲労を与え、また信徒が自分の頭で考える力を奪うことで、麻原への依存を強める副産物を生みました。これにより、井上嘉博などの盲目の狂信者が次々と生み出されていったわけですが、しかし一方で、修行に耐えきれずに壊れてしまう信徒も出てきます。こうした流れの中で、オウム最初の死亡事件「真島事件」が発生したのです。
真島事件の発生
1988年9月22日、富士山総本部道場で行われていた「百日修行」の途中、二十五歳の男性信徒、真島照之が、突然道場を走り回り、檀上に登って大声をあげるなどの奇行を始めました。村井秀夫から報告を受けた麻原は、村井、早川紀代秀、岡崎一明、新実智光ら幹部に命じ、真島を取り押さえさせ、女性用の風呂場に連行させます。このとき現場を仕切っていたのは村井秀夫で、はじめ村井は麻原の指示通り、真島の頭にバケツで水をかけて冷やさせますが、それでも真島が暴れるのをやめないため、今度は男性用の風呂場に連れていき、ホースで水をかけ、最後には四人で力を合わせて逆さに抱えあげて、浴槽の水に頭をつけさせます。
やがて真島がぐったりしてきたので焦った村井は、医師である平田雅之を呼び、容体を確かめさせると、瞳孔が開き、呼吸も止まっていることが確認されます。報告を受けて慌てた麻原は、はじめ再び水をかけ、ショックを与えて蘇生させるよう指示。それで息を吹き返すわけもなく、今度は人工呼吸や心臓マッサージを始めますが、努力は実らず、真島の死亡が確認されてしまいます。
死んでしまったら、もうどうしようもありません。麻原と幹部は、遺体をどうするかを話し合います。まともな考えなら警察に届け出るところですが、当時、教団は、宗教法人の認可に向けて動いていた時期でした。刑法上は過失致死に当たる今回の事件が外部に漏れれば、認可が下りるのに不利に働くことは明白です。麻原や幹部たちは悩んだ挙句、真島の遺体を道場の護摩壇で燃やし、秘密裡の内に処分してしまいます。
これで、麻原とオウムの運命は決まりました。オウムが日本史上最悪のカルト集団になったターニングポイントは幾つかありますが、その最後のものが、この「真島事件」でした。ここで真島の死亡を隠ぺいせず、修行中の事故として警察に届け出ていれば、麻原と幹部は罰せられたでしょうが教団は存続し、平和裏な宗教団体として細々と活動を続けられた可能性はあったはずです。しかし、麻原はその道を選びませんでした。
「毒を食らわば皿まで」という言葉があります。後ろめたさという感情は恐ろしいもので、人間は往々にして、後ろめたさを払しょくするために正しい行いをしようとするのではなく、かえって積極的に悪行を働く傾向があります。真島事件以後、麻原とオウム幹部は、このときの愚行を正当化するために「ポア」の論理を作り上げ、殺人を肯定するヴァジラヤーナの教えを強化し、罪悪感を罪悪感で拭い去るように、次々と凶悪犯罪を重ねていくのです。
田口修二殺害事件
真島照之殺害は、あくまで修行中の事故で押し通すこともできましたが、その直後に麻原たちは、今度は明確な殺意を持って、信徒の殺害を行ってしまいます。発端は、「チクリ屋」村井秀夫の密告でした。
「電気班の田口修二が、真島の事件を見ていたんです。尊師を殺して、オウムを脱会したいと言っています」
事態を重く見た麻原は、第一サティアン四階の図書室に、石井久子、大内利裕、大内早苗、村井秀夫、新実智光、早川紀代秀、岡崎一明の七人の幹部を集め、会議を開きます。
「あのまま放っておくと、危ないんじゃないか。ポアした方がいいんじゃないか」
「ポア」の論理を簡単に説明すれば、「死後において、人の魂をより高い世界に転生させる」ということです。ようするに、すでに死んだ人の魂を操作するということを言っているのですが、これがオウムの中では、なぜか「人をより高い世界に転生させるためには、人を殺しても構わない、殺すべきだ」と、今生きている人を殺害する意味で使われていくようになってしまいます。
捻じ曲げた張本人はもちろん麻原です。麻原は、信徒たちから「なぜあの人をポアさせねばならないのか?」と質問されたときには、「魂が腐敗しきっており、救済するためには殺すしかない」「魂を転生させる時期に来ている」などといった論法で納得させ、徐々に論理を強化していきました。そして、地下鉄サリン事件の頃には、「ポアのためなら、虫を殺すように人を殺す」信徒を作り上げることに成功していました。
その「ポア」を最初に使い始めたのが、この田口事件でした。それまで、セミナーなどにおいて「ポア」の概念の説明自体はなされていましたが、ここまで明確に、個人を対象にしてこの言葉が使われたのは、初めてのことでした。幹部の間には動揺が走りますが、ただ一人、「イエスマン」村井秀夫だけが、冷静に麻原の言葉を引き取り、
「田口は尊師を殺してしまうのではないでしょうか。オウムから出してやらねば、多分そうするのではないでしょうか」
と発言します。これ以後の多くの事件で、これが一つのパターンになっていくのですが、麻原が何か、信徒たちに問いかけるような口調で意向を語ると、それを村井秀夫が引き取って、あたかも麻原の意向が、信徒全員の意向かのような形に持っていくのです。こうされると、反対意見を持つ人がいても、麻原一人が突拍子もない考えを持っているのではなく、みんなが同じ意見を持っているのに、私だけが違うことを考えている・・・間違っているのは私なのではないか・・・。という思考に陥ってしまうのが、人間というものです。実に巧みな誘導法で、一連のオウム事件において、村井秀夫という男が果たした役割がいかに重要であったかを示していると言えるでしょう。
ただ、このとき村井が同意したのは、田口が麻原を殺そうとしているのではないか、というところまでで、田口を殺すことにまで同意したわけではありませんでしたが、結局麻原は幹部たちを強引に殺害に同意させ、具体的な殺害方法まで指示します。麻原の指示に従った幹部たちは、それまで数日間、コンテナに監禁し、衰弱していた田口修二に目隠しを施し、ロープで首を締め上げました。それでもなかなか死なないので、最後には新実智光が首を捻り上げ、首の骨を折って殺害します。
遺体は護摩壇で、十五時間にも渡って念入りに焼却されました。麻原は幹部教徒七名とともに、とうとう「殺人者」となったのです。
よくオウムの信者について、「麻原に洗脳された、哀れなる子羊」と同情的な意見を述べる人もいますが、殺人にまで同意した以上、その責任は免れないでしょう。たった一回に事件に関わったというだけならともかく、この事件から幹部教徒たちが逮捕されるまでには七年近いタイムラグがあり、その間に改心するチャンスはいくらでもあったにも関わらず、彼らは様々な犯罪行為を重ねたわけですから、その道義的責任は首謀者の麻原にけして劣るものではありません。彼らは、自ら望んで殺人者となったのです。
オウム教団に宗教法人の認可が下りたのは、この半年後のことでした。
第三章 完
スポンサーサイト