「デグレチャフ事務次官補が何を目指しておられるのかは、正直なところ俺にはよくは判りませんが、それでもあの方がBETAの地球から、いえ太陽系からの根絶を推し進めているという点には疑問を挟みませんよ」
夕呼から、ターニャと武とが思い描く「BETA大戦後の世界」は別の物だ、と言われても武としてはさしたる問題には感じられなかった。
まずは喀什の重頭脳級を潰し、BETAの対人類戦略を停滞させるという目的が共有できていれば、協力関係は続けられると考えている。
単純に「人類の勝利」や「世界平和」とお題目を唱えるには、武も様々な記憶を持ちすぎている。
第一に、何を以ってして「勝利」と定義するのかさえ不明確なのだ。
もしバビロン作戦が計画通りに成功したとしても、重力異常地帯が半永久的に残り国土の復興もできず、まして先祖から受け継いだ土地をも失ってしまいただ生き延びただけというのであれば、けっして勝利とは思えない。
かつては、ただ単純に人類が団結しBETAを駆逐することだけが優先されるべきだといった子供じみた夢想に取り付かれていたこともあったが、今は少し違う。人が人として生きていくためには、何らかの尊厳が必要だ、というくらいには武も理解するようにはなった。
そして、ターニャの言葉の端々からは、確固とした護るべき理念が感じられる。
その理念の内容の良し悪しはともかく、今なおまともな立脚点を見出せていないと思っている武には少しばかり眩しく見えることもある。
「まったく考えていないわけでもなさそうだけど、それだと赤点よね」
「えっ?」
夕呼は、まるで武の記憶にある教師のように回答を採点し、かつダメ出しをする。
そして軽くカップを振って、お代わりを要求してくる。眠気覚ましの代替コーヒーがさらに必要なくらいの話、ということだろう
「今、ターニャ・デグレチャフと名乗る人物は『いくつかの別世界で複数回の生を受けた』とはあたしに説明したわ。この世界においては、アンタも聞いてたはずだけど『原作知識持ち』だとも」
「え、ええ。その話は以前に聞きましたね」
今更何を再確認しようとしているのかが、武には判り辛く、ただ頷くことしかできない。
「いくつかの別世界とか誤魔化してはいるけど、本人が認めているのはこの世界と、あとはアンタの記憶の根幹になっているEX世界線に類似した世界、くらいよ。ここまではいいかしら」
「ですね。具体的には聞いていませんが、たしか2010年代まではそっちで生きていたとは話しておられたと記憶しています」
おそらくはわざと漏らした情報だろうとは、あの時も武は感じた。武の持つ未来知識よりもさらに先を知っているということを、夕呼に伝えておきたかったのだろう。
「で、その二つ以外はあまりハッキリしたことは明らかにしてないのよね、あの事務次官補。社も今は読み取れないという話だし」
第六世代とはいえ霞の持つリーディングは万能の読み取り能力ではない。雑念が混ざっている意識は見えづらいとも聞くし、そもそも読むことは身体にも精神にもかなりの負担が掛かるらしい。そして基本的には言語ではなく絵として見ているようで、それを第三者に明確に伝えるには、霞は少々絵心に欠けている。
「で、ちょっと確認するけど。アンタなんで衛士になってBETAと戦おうなんて思ったの?」
「最初はロボットに乗れるって舞い上がってのことでしたが、次はあんな結末を受け入れたくないっていう反抗心、みたいなものですかね? 今は、というか今回はそもそも衛士訓練兵だったし、世界線が違うとはいえ皆には死んで欲しくないですから」
今更ながらにそれを問うかとも思ってしまうが、なにか話の流れで必要なことなのだろうと、いつか口にしたようなことを答える。
「まあ軍人が戦うには当たり前の理由よね」
夕呼もあっさりと受け入れる。結局のところ軍人が戦うのは、仕事としての金や名誉のためか、前線の兵士であれば横に並ぶ仲間のためだ。
「でも、ね。あのターニャ・デグレチャフはそうじゃない」
「あ~言われてみれば、知り合いを助けるためとかそういう人じゃないですね」
「ちょっと違うわ。そういう面でも異質なんだけど、アンタが戦おうとするのは、このままだと数年後には人類が敗北するって判ってるからでしょ?」
「それは、夕呼先生もそうでしょ? 人類に残された時間は10年程度だっていうのは、ここでもそう変わってなさそうですし」
武の知る世界戦よりも、ターニャの介入によって極東戦線ははるかに長く抵抗を続けている。それでも先日には朝鮮半島からの撤退が始まっており、九州への進行が確実視されてきた。少しばかりは伸びているとはいえ、このままでは良くて5年程度の余裕が生まれているに過ぎない。
「まあ、そう言われてしまえばあたしも何も残せずに死にたいわけじゃないからね。でもね白銀、よく考えてみなさい」
「ターニャ・デグレチャフはアメリカ合衆国国民であり、すでに齢70を超えている」
「……あ」
武にはターニャの印象が、あの目付きの鋭すぎる幼女姿で刷り込まれているが、実際はすでに老境の域に達しているのだ。
「原作知識?だったっけ。それで第五が発動したとしても2005年くらいまではこの世界でも生きていける。その頃には80前後よ? 他世界の知識があるというのなら、アメリカでそれなりの職に就いて、十分に大往生できるはずなのよ」
今のBETA対戦に陥っているこの世界においてさえ、あたりまえに生きる程度であれば、ターニャは一般的には幸福な生活を約束されていたはずなのだ。
「ターニャ・デグレチャフの経歴は見たかしら? 軍に入るのはまだしも理解できる。キャリアパスとは少し意味合いが異なるけど、あの国においては今なお軍人というのは出世という意味では一つの最適解ではある」
軍、それも高級士官ともなれば人脈としても強力であり、軍人上がりの政治家や企業家など、合衆国においては珍しいものではない。
「でもね、光線級が出現したら衰退するのを『知っている』はずの空軍に入ったのは、ディグニファイド12に選抜されるためとしか考えられない。そして『月は地獄だ』とまで言われることが判っているのに、わざわざ自ら向かったのよ」
1959年に、国連は特務調査機関として「ディグニファイド12」を創設する。異星起源種とのコミュニケーションを目的として召集された12人は、当然ながらその多くは学者であった。が、ターニャは軍人としてそこに潜り込み、友好的接触を図ろうとする機関の基本方針とは真逆に、最初期から敵対存在であるとかもしれぬと警鐘を鳴らし続けたのだ。
当時の合衆国での宇宙開発は空軍が主導していた。月に行くためには海でも陸でもダメだったのだろう。
「普通に考えれば、自殺行為よ。避けられる危険は避けて当然。生きて帰って来ていること自体、非常識だとまで言われているわ」
そしてターニャ・デグレチャフはサクロボスコ事件から始まる第一次月面戦争を貧弱な装備で戦い抜き、月面帰りの超国家的思想集団たるルナリアンと呼ばれるような人脈を形成していく。
「そこまでして根回ししてやったのが反乱紛いの喀什への核攻撃よ。実現はされなかったとはいえ、それが成功していればどうなったと思う?」
「正直、口にしたい言葉ではないですが……最小の犠牲で最大の効果は挙げられたと思います。喀什周辺の核汚染だけで、ユーラシアは無事だったんじゃないかと」
「それはちょっと違うかもしれないわね。アンタはどうしても対BETA戦にのみ意識が行ってる」
クスリと笑い、先ほどと同じく少しばかり解答を間違えたような生徒に対するような反応を返す。
「宇宙からの侵略とはいえ、中国国内に許可なく第三国が核攻撃するのよ? 中ソがそろって反発して第三次世界大戦、それも核兵器の相互使用が予測されるような大戦が勃発していてもおかしくないわね」
「あ」
――撃ってしまえばよかったのだ。それでこの大戦が防げたのに。
そう言ってしまえるのは後知恵だ
それは、ユーラシアが墜ち総人口が10億程度となってしまった今だからこそ言える言葉なのだ。
撃つべきだった、確かに武はそう思う。
だがもし本当にあの時点でアメリカが中国国内に向けて、たとえそれがBETAなどという人類にとっての厄災以外の何物でもない存在だったとしても、おそらくは第三次大戦の引き金となったことは間違いない。
「そんな程度のことが、あの事務次官補に想像できなかったはずがない。これは良いわね?」
「え、ええ。そう、ですね」
「つまりは、ターニャ・デグレチャフという人物は、三次大戦が起こったとしてもBETAの地球落着を防ぎたかった。あるいは……」
「あるいは、対BETA戦は軌道上での迎撃を徹底させ、その横で自由主義と共産主義との三次大戦を画策していた、ですか」
夕呼がどういう方向に話を持って行きたがっていたのか、ここに来てようやく武にも理解できた。結局、ターニャが優先しているのが対BETAなのか対共産主義なのか、夕呼でさえ判断し切れていない、ということなのだ。
「アンタの知るEX世界線ではソビエトは崩壊して、ロシアに戻ってるんだったっけ?」
「ええ。大国ではありますが、経済的には苦しいって教えられました。あと10年もしたら、アメリカと並んでるのはロシアじゃなくて中国じゃないかって話もありましたね」
「その10年後の世界を、『ターニャ・デグレチャフ』になる前の人物は知ってるのよ」
「……まさか共産主義国家として強大化する中国を危険視して、喀什への核攻撃を理由に大戦を勃発させ先に潰しておく予定だった、とかいう話ですか?」
「そこまでは言わないけど、そうなっても問題ではない、とは考えていたでしょうね」
二人ともに、さすがにそれは陰謀論じみた考えだろう、と笑い飛ばすことも難しい。
「それにアンタのUL世界線でのレポートを見る限り、統一中華戦線は問題を抱えながらも何とか組織としての体裁は整えて、BETAとの戦いを続けてたのよね? この世界のそれとは比べようもないわね」
「中国側に、BETA大戦後の復興の機会を与えないため、でしょうか。国共合作を阻止しようと、何か介入はされていたようですけど」
この世界における国共合作の成り立っていない統一中華戦線は、名前だけの連絡機関程度のものに過ぎない。
座学で学んだ重慶防衛の経緯を見ても、ターニャが何らかの介入をしてきたことは明白だ。そしてそれは対BETA戦を優位に進めるためだけではなく、間違いなく中国共産党の国力を削ぐことも意図されていた。
「アンタがBETA大戦後の世界をどう考えてるかは知らないけど、間違いなくデグレチャフ事務次官補は、自らが思い描く世界像に向けて活動している。それを踏まえて、今後の対応を常に考えておきなさい」
空になったカップを掲げ、話は終わりとばかりに今度は本物のコーヒーを催促する。
「俺も一杯ご相伴に預かりますよ」
「ふむ。良い香りですな。私にも一杯頂けるかね、白銀武」
意識を切り替えるうえでも、せっかくの機会でもあるので自分用にもコーヒーを落とそうかと準備を始めたところ、部屋の片隅からいきなりに声をかけられる。
「って、ぅえっ?」
「はじめましてかな白銀武。私は微妙に怪しい者だ」
トレンチコートにソフト帽という如何にもな格好は、武の知る人物そのものだが、さすがに心の準備のないままに傍に出現されれば、満足な対応もできない。
「失礼いたしました、鎧衣課長。ご子息の鎧衣尊人さんにはお世話になっております」
少しばかり自分のペースに戻すためにも、少々慇懃無礼に挨拶を返す。
深い付き合いがあるとは決して言えないが、この人と話し出すと無駄に長くなる、という程度には相手を理解している。そしてあまり鎧衣課長の相手をしていれば夕呼の機嫌が悪くなりそうなのは、この世界線でも同様のようだ。
「ソイツに出すコーヒーなんてないわよ。そっちの泥水注いでなさい」
「おや、それは残念ですな。せっかくのハワイ土産、香月博士に先にご賞味していただきたかったのですが」
二人のやり取りを背後に、失礼いたしますと簡単に断りは入れたうえでコーヒーを淹れる作業に戻る
「ふむ。療養明けだという割には、良い肉の付き方だな。アフリカのとある部族では肉体を鍛え上げるために牛を持ち上げるとも聞くが……」
「そこまではしていませんよ。それは身体壊します」
訓練制服の上からでも、身体付きは読めるようだ。あるいはそれさえもブラフという可能性も、この人物の場合はありうる。むしろ武の身体調書などはすべて把握されていると考えるべきだ。
「で、さっさとその泥水飲み込んで用件を言いなさい」
少しばかり機嫌が上向いていた夕呼だったが、鎧衣課長の出現でその気配も吹き飛んだようだ。用件が無ければ引きずり出すとばかりに睨み付けている。
「このところ『月の後継者』あるいは『月の子供たち』などという興味深い言葉が各地で囁かれておりまして」
「なにその安直な名付けは? ケンカ売ってるのかしら」
月の後継者。
先日も少し耳にしたが、それが何を意味しているのかそして誰を指し示しているのか、武にも予想はつくものの断言するのは正直なところ気が引ける
「流石は聡明な香月博士、お気付きになられましたか」
「気付かないはずがないでしょ。それにしてもあたしがデグレチャフ事務次官補の庇護下に入った、いえ後継になるとでも言いたげね」
「そう判断する輩がいる、ということは事実ですな」
鎧衣は、自身、引いては帝国情報省がそう考えているわけではない、と一応は予防線を張っている。
ただ客観的に見れば、これまでは合衆国の出先機関であったかのようなJASRAが、第四計画と距離を詰めているのだ。日米間のみの話であれば協力関係の強化だと明るく考えることもできなくはないが、他国からしてみれば米国の一強化がまた進んでいるようにしか見えないのだろう。
月面戦争から付き従う生粋の「ルナリアン」は生き残っている者であってもターニャ同様にもうかなりの高齢だ。もちろん年齢と経歴に見合った地位を保っている者も居るが、多くはすでに引退している。
そしてユーロ戦線から続くターニャの築き上げた実績からルナリアン派閥とでも言えるような人脈は確実に各国に拡がっている。が、ターニャを継げるだけの人材がいなかった。
かつての副官であったジョン・ウォーケンが存命であったならば、おそらくは彼がその位置に着いたのだろうが、既に故人である。たとえ同じ血筋とはいえ、今の副官のアルフレッド・ウォーケンではまだ実績が足りない。
「ああ面倒くさい。それでこのところ嫌がらせが増えてるって、ことね」
第四には数が減りつつあるとはいえ、もともとは連隊規模の戦術機甲部隊が与えられている。
逆にJASRAは原則的には事務方であり、配下には兵力はない。
――デグレチャフに兵を与えるな。
それがかつて反乱じみた策を図られたアメリカ、また人民を磨り潰すような撤退戦を指揮されたユーロの、一つの総意だ。
そもそもがターニャが極東アジア方面にこの15年ほど居座っているのは、英米の主戦場であるユーロ戦線から引きはがし、さらにターニャには直接戦力を与えない、という方針ができているからだった。
ここに来ての第四への接近は、ターニャが最後に何かしようとしているのではないかという邪推と、後継者として香月夕呼が選ばれたのではないかという予測だ。
「もしかして鉄原でのG弾の無警告使用って……」
「香月博士への警鐘ではなく、事務次官補に向けたものかと」
武にしても、帝国の目と鼻の先、朝鮮半島で無警告で使用されたために、第四への警告かと受け取ってしまっていた。が、そもそも現場にいたターニャへの警告であると鎧衣は判断している。
そして今、ターニャの要望を受けて夕呼が鎧衣課長を通してまで、非公式の拝謁の機会を取り付けたのだ。たしかにこれは横から見れば、間違いなく香月夕呼がターニャ・デグレチャフの派閥に入ったと見られても当然である。
「では明日早朝、あらためてデグレチャフ事務次官補と白銀特務少尉をお迎えに参上いたしましょう」
「は? 明日、早朝……ですか? なにか予定がありましたか?」
「なに言ってるの白銀。アンタが言い出した会談よ。さっさと準備しておきなさい」
「え? 会談って、斯衛の皆様との、ですか?」
「そうに決まってるでしょ。そっちはそっちで準備があるでしょうから、さっさと出て行きなさい」
「明日、それも早朝からですかっ!?」
想定していなかったわけではないが、最重要の会談がいきなり確定している。
押し出されるように鎧衣課長ともども廊下に出されるが、何をあらためて用意しておくべきかと気が急くが、少し焦って考えが纏まらない。
鎧衣課長から、こちらは土産だといつか見たモアイ像を手渡され、盗聴器は仕込んであると言われたものの満足に驚くことさえもできなかった。
とりあえずは、何かと確認するためにハンガーに向かうしかなかった。
デグさんの事情(の極一部)を知っている人間二人が横から眺めてみても、やっぱりキグルイ月面人の可能性が否定できないんじゃないかなぁ……みたいなところです。
そして書いててなんですがデグさんの場合、たぶん三次大戦が起こっていたとしても共産主義とBETAとの異種二方面作戦を平気で展開しそうな気がしないでもない……