イエズス会のルイス・フロイスは秀次切腹事件が起こる3年も前に、秀吉と秀次が不和になることや謀反の前兆などを総長宛の報告書に書いています。
どうしてそのような事が書けたのでしょうか・・・?
フロイスには予知能力があったのでしょうか・・・?
この不可解のお陰で、イエズス会に他のキリスト教徒と異なる特徴があることに気づかされることになりました。
この様な事からこれまでの日本史ではキリスト教を日本的信仰で単一的に理解したりしようとしていないのではないか
つまりキリスト教徒には様々な考えや解釈を持った団体が存在し、彼らが競い合って日本に来ている、という事に気づくようになってまいりました。
特に、イエズス会の創設はイグナチオ・ロヨラを中心になされていますが、ロヨラによっては「霊操」というエクササイズがイエズス会には存在しています。
ウィキペディアには
霊操(れいそう、ラテン語: Exercitia spiritualia)とは、
イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行、またその方法を記した著作。
「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とする。修行の到達点においては神と深い人格的交わりを持つ=神の御意志を見出すことが目指される。
とありまして、大変重要なものであり
イエズス会が設立母体という上智大学には
『霊操』はイエズス会の精神基盤
というサイトがありますのでご覧いただきたいと存じます。
その様な下地をお持ちいただいて以後のブログをご覧いただきたい分けでございます。
さて前回のブログ
豊臣秀次には喘息の持病があり鬱での自殺原因は孤独が大なのに誰が高野山へと言ったのか
http://ameblo.jp/matsui0816/entry-12248059193.html
上記の様に豊臣秀次には喘息という持病があった事をお伝えしました、
この様な事が分かってまいりますと、豊臣秀吉としては、数少ない血縁者で後継者として頼りにしたい秀次が持病持ちであったという事から、秀吉政権の継承という事には大変腐心されていたのではないか、という様な新たな見方が浮上してくるわけでございます。
秀次はなぜ大陸へ行かなかったか?それが太閤の不満をかった、という事も言われていますが、
これも行かなかったというより行けなかった、という状況があったからではないか、という理解も生まれてまいります。
ですから、高野山へ行かれた時も、矢部健太郎教授が
「秀吉は殺すどころか自殺をしないように配慮していた」
(以下のブログ参照)
秀吉が絶対殺してはならない秀次を秀吉の切腹命令で殺したという通説のおかしさが痛切に分かる記事
と言われているわけですが、
なるほどと思われてくるわけなのです。
これまでの通説で言われています、
「秀頼が生まれたから秀次が疎まれるようになった」
という事は普通に考えても、秀吉が苦労して天下統一を行い、関白にまでなって作った豊臣政権の継続を願う事はあっても、秀頼がまだ2歳で後見ともなる秀次を亡き者にするという、自分で自分の首を絞めるようなことを秀吉がやったというのは不自然なわけです。
実際、当時の日本の資料からは、秀頼が生まれた以後に、唐入りに秀次を総大将にするという命令書を出しているようになかったわけで、
そんな不自然な説がまことしやかにされてきたのは逆にどうしてなのかという思いで、このおかしい?という疑問を追求してまいりますと少しづつその原因が判明してまいりました。
それはイエズス会の理解が日本史では進められていない、という事なのです。
つまり当時の日本へ来たというイエズス会の内情やその目的が不明なままで日本人の感覚で、こうだろう・・・と想像で終えてしまい、秀次事件を国内問題だとして結論を出そうとしてきたからなのです。
なぜこの様に申し上げられるのかと言えば、今から30年くらい前に彼ら(バテレン)が本国に送付していた当時のイエズス会報告書などが松田毅一氏や高瀬弘一郎氏などのご努力によって和訳され、彼らの内情や目的などを知ることができるようになってきたからで、この場をお借りして翻訳にご努力頂きました関係の皆様には心から感謝申し上げたいわけでございます。
(勿論まだまだ原書は膨大に眠っているといわれていますので更に翻訳が進むことを願ってやみません。)
では、秀吉と秀次が不和になることや謀反の前兆などが秀次事件が起こる3年も前の唐入りが始まった文禄元年(1592年)に
イエズス会総長宛のルイス・フロイス報告書が十六・七世紀イエズス会報告集第1期第1巻
に書かれていますので関係部をご紹介させて頂きます。
(十六・七世紀イエズス会報告集第1期第1巻より抽出)
P310より
「関白殿(秀吉)はこの甥(秀次)に日本国を譲ったが、甥を遠ざけたため甥もまた関白殿を遠ざけた(中略)(両者の)大いなる不和の温床になるに相違あるまいと予測された。」(中略)
「大いなる謀反が起こる前兆であったという事であった」(中略)
「秀吉の支配も終わりを告げるのはほとんど確実であるとあまねく予想されていた」
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(尚、「 」内は松田毅一監訳十六・七世紀イエズス会報告集第1期第1巻 P310~P311より)
この様な秀次事件が起こる原因を知っているかの様な内容が断片的ですが書かれているわけなのです。
そして3年後の文禄4年の秀次切腹があった直後の10月に秀次の死に関してのエズス会総長宛の報告が書かれています。
この内容は30数ページにわたりますので全部の転載はできませんが、お読みいただきますと3年前にフロイスが報告したことがその通りになっている、という文章になっています。
ではフロイスの報告書の中で秀次はどの様に断罪されているか、について、その一部抽出させていただきます。
(松田毅一監訳十六・七世紀イエズス会報告集第1期第2巻 P94~96より)
「1595年10月(20日)付、(長崎)発信ルイスフロイス師の年報補遺」
P 92太閤様とその甥関白殿の不和の発端と根源の次第
P94より
>この少壮の関白殿(秀次)は優れた才能を有し、気前のよい人で多くの資質を備え、機敏、怜悧、かつまれにみる賢明さの持ち主であり、特に親切で、その他にも多く優れた徳を備えていた。(中略)
賢者たちの習慣や有能な人々の説教に興味を抱き、また日本の書物を読んだり文章を(たしなんで)いた。(中略)
しかし関白殿には唯一つ、著しい汚点があった(中略)
関白殿の悪徳は次のようなものであった。
関白殿はまるで母乳(を吸う)とともに野獣的な魂に浸ったかに思われた。
殿にとっては、人間の血を流すことは何でもないことで、人間を虐殺するにあたっても(その手段は)非常に戦慄的であった。
殿のこのような虐殺の習慣は無感覚になっていたので、たとえ可哀想な人々を殺して残忍に引き裂いた場合にも、それらのことは主として関白殿の限りない慰みによっているかのように思われた。(中略)
時には自分の思いのままに太刀でばさりばさりと斬れるように足で吊しておくことさえあった。このような方法で身体をずたずたに切り刻む時に、関白は大いなる欲望にそそられたが、その切り刻み方は小鳥もそれ以上に細かくは引きちぎれぬほどであった。(中略)
またある時には、殿はネロの再現かと思われるほど婦人を殺戮し、身体の内臓や子宮を調べたりした。
要するに殿の野蛮さは非常に野獣的なもので、カルグラ帝やドミティアヌス帝、その他の僣主さえも人間の怪獣性では関白殿に一歩譲っているように思われた。
私が、若い頃に読んだ歴史上の人物でも、またこれらの皇帝でも関白殿がなしたように 自ら手を下し人間の血で地面を汚し、このような悪業をひどく愛好するとか、またこのような不評の業を誇らしく思った人はいなかった。
このような仕業は、もっと卑しい身分の人においてすらふさわしくないからである。
それゆえ主(なるデウス)は(人間を)裁かれるにあたって、偽ることも偽られることもあり得ないのだから、
関白殿の最期は、(主なるデウスの)正当な判決によったものであることにほかならず、またそうでなければならなかったようにおもわれる
(後略)
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転載部は以上です。
この内容は30数ページにわたりますので全部の転載はできませんが、
天皇にお仕え申し上げる最高の公家の位を持たれる関白の秀次がこの様な極悪な事をするわけがありません。
しかも更に(長崎)発信ルイスフロイス師の年報補遺の文末には
「・・・関白(秀次)殿たち一同が、残虐このうえなく、取り返しのつかぬ断罪にあい、洗礼も授からず、真の信仰も知らず、地上の幸福のみならず、哀れにも永遠の幸福をも喪失したことは、なおさら不幸極まりものであった。一五九五年十月、日本より。」
と書かれています、そして関白秀次をかのローマ帝国暴君ネロの再現かと表現されていますが、
この様な事は日本人からしますと実に偏見と思うわけなのですが、色々と研究を進めますと、やはりそこには日本人が体験しえない深い歴史的背景が存在しているわけです。
そこで当時の彼らの異教徒や改宗しないもの(日本人)への考え方を知らないといけないわけですし、キリスト教でもイエズス会には当時文頭にも申し上げましたが「霊操」という修業の持つ意味を知るなどの必要があるわけなのです。
(つぶやき:日本人は宗教で国と国とが争うという戦争を体験したことがない、という事を考えさせられます、)
そこで、イエズス会の霊操をネットだけでなく、門脇佳吉訳の「霊操」(イグナチオ・デ・ロヨラ著)で学ばせていただいたりしまして、そこからこの様な表現がされている事が、イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行の「霊操」によるフロイスの神(霊)体験が真実として書かれていたのではないのか、という事に気づかせて頂くようになったわけなのです。
それから、秀次を最初に殺生関白と書かれていたのは「信長公記」で有名な太田牛一が書いた秀吉の一代記『太閤軍記』ですが、その噂集めの取材先にイエズス会があった事が分かってきました。
太田牛一がキリシタンであったかは不明ですが、イエズス会と日本のキリシタン大名との関係は、豊臣政権などの情報をイエズス会が得る為やイエズス会の教えや方針を信徒である日本のキリシタン大名に伝え教えるという関係があったわけですから、フロイスの神からの真実として語ることも伝えられていたのではないかと思われます。
ですからイエズス会と太閤記の太田牛一の関係を知ることも秀吉・秀次の歴史の真実を知る上においては、とても重要である事が分かってくるわけなのです。
次回は、フロイスがローマ帝国暴君ネロをなぜ出してきたのかなど霊操の事も踏まえてお伝えさせて頂きたいと思っております。
歴史の真実に光を当てる・・・
では次回まで!
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