正論は、なんであれ正論だ。いくら呆れ顔をされようと言いつづけなければいけない。が、同時に、それを盾にしたときに盾の裏面に映る己の顔から目を逸らしてはならない。そこから目を逸らしたところで、映る顔は変わらない。
取材のため以外に私は、これまでどんなデモや政治運動にも参加したことがない。なぜならどこに所属しようが、どこに参加しようが、それがぜんぜん政治的なものではない文化的な集いであっても職場の飲み会であっても、疎外感とむなしさと劣等感を私に覚えさせない機会はないからだ。
だが、そうした私のひたすら個人的な嫌悪の情と精神の弱さとが、外の世界を見るレンズであることを私自身が忘れてはならないとも思う。その曇りを曇りとして認識することを忘れてはならない。言うまでもなく集団行動があったからこそ、外交努力があったからこそ、デモや記者会見や団体としての表明があったからこそ、「慰安婦」問題は表面化し、金学順さんのあとに続く声を励まし、人々の心を揺るがせたのだ。
あるいはこうも言えよう。正義連という団体に対する非難のニュースに飛びつくことで、私もまた「慰安婦」問題そのものに対する後ろめたさを解消しようとしているのではないか。ああ正義連とはそういう団体だったか、と、だがそれで私がほっと胸をなで下ろしたり、胸のすくような思いをしたりしていいはずがない。
また、李容洙さんの会見にあった「日韓の若者たちは親しく交流しなければならない」との言及に、安直に喜んで飛びついたことも、私は反省しなければならないだろう。日韓友好は、日本に在住している韓国人の私にとって、あるいは私の家族にとって、生存を賭した喫緊課題である。しかしだからといって「未来志向」という大きな旗に隠れて、過去にあった、さまざまな苦痛や恥辱、絶望から生じる諦観、小さな幸福感、存在を無視されることの無力感と孤独とを塗りつぶすような暴挙に出てはならないはずだ。李容洙さんの発した「日韓交流」とはすなわち、お互いの歴史をよく知ったうえでとの前提があるはずで、それは、永遠に当事者になれない私たちにとって非常に険しい道ではあるが、例えば私は『証言未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ』(明石書店)という本を開く。そこには、元「慰安婦」の朴永心(パク・ヨンシム)さんによる証言が記されている。彼女に思い入れをしていた日本兵がひとりいて、「二人の様子を、ほかの日本兵たちは『お似合いだ』と言い、郷愁をもってその話を聞かせてくれる元日本兵もいた」が、そのことを問われた朴永心さんは「顔を引きつらせ、『思い出したくもない奴だ』と怒りに身を震わせた」とのことだ。私はこうした書籍を読むことで、あるいは他の媒体からでもそうだが、彼女たちの声に耳を傾けることがこれからだってできる。