この文章を書いている二〇二〇年六月中旬においても、李容洙さんの会見から派生する新たな疑惑と反証とが次々とニュースになっている。李容洙さんの側に対しても尹美香前代表側に対しても陰謀論が渦巻き、また、渦中の正義連が運営していた、元「慰安婦」のための居住施設「平和の我が家」の所長が自宅で死亡しているのが発見された。警察発表から推察するに、おそらく自殺だろう。ともあれ疑惑のすべてがまだ捜査中の段階だ。
だから私は何も、このニュースについての論評を下したいのではない。ただここで私自身の内省を、この文章を通じて深めたいと思う。
どうして私は、金学順さんの言葉には耳を傾けようとせず、一方で、李容洙さんの言葉にはこんなにも抵抗なく目を見開いているのか。そこには年齢の違いもあろう。そして立場の違いも。もはや私は社会的責任の少ない中学生ではなく、四十代の小説家なのだ。
だがそれだけではないはずだ。従軍「慰安婦」の問題とは、女性をときに騙して連れ回し、その行動や住居や職業選択の自由を奪い、ときに暴力と恐怖支配によって性を搾取する。私は、たまたま在日韓国人という立場ではあるが、それ以前に男である。男にとってこれは、自分が直接に関与してないとしても、気まずい、後ろめたい、原罪の意識すら背負わされるような問題である。男たち(あるいは権力側につきたがる者たち)の反発する心理は、逆差別の問題をことさらに取りあげたり、歴史修正の努力に走ったり、あちらの国(民族・人種)のしていることのほうがより悪いと反証探しに血まなこになって中和作用を期待したりする。過去あった悲劇は「時代のせいだ、今は違う」との現状認識からの逃避をもくろむ。生物学的に男とはそういうものなのだとの「リアリズム」を持ちだしたり、一部のフェミニストの過激な言動を切り取って喧伝し、「だからフェミニストって奴は頭がおかしい」との大ざっぱな絨毯爆撃をしてそこを制圧したと安心したがったりする。
ところで、こうして批判者心理に対していちいち分析を加えているからといって、私自身が罪意識から免れられているわけではない。どう言い繕おうとかつて私は、金学順さんの言葉に心が動かなかったのだから。
一方、李容洙さんの会見とその後に起こっているニュースに私が目を開き耳を傾けているのはなぜか、それはひとつには、私のぬぐいがたい集団行動への苦手意識、大きな組織への反発心に由来するものだろう。
私は集団行動が苦手だ。多数による熱狂が苦手だ。個人の自由を束縛しようとする規制や管理が嫌いだし、不透明な機構のなかでひとりの人間を崇拝しようとする雰囲気づくりにも、つい舌を出したくなる。
自分のそんな、あまのじゃくな傾向も、ぜんぶを否定したいわけではない。巨額のお金が集まるような組織には、もちろん透明化が絶対必要だ。民主化とは透明化のことでもある。そして、たったひとりの人間に権力が集中してしまうシステムも、すぐにでも法整備が必要だろう。個人の自由を束縛するなとほんの数行前に書いたが、これは権力者側には当てはまらない。そもそもの法の理念とは、権力者たちが傍若無人にふるまわないための鎖のはずだ。