プロローグ
夜半。蒼々と闇を照らす月が頭上に浮かんでいる。
その月明かりを受けながら、紅色に染まる世界があった。
路地裏。日中ですら人が寄り付かぬ異界である。
ぴちゃり、と地面にできた赤い水溜りに波紋が生まれた。
「て――、めえ」
一人の少年が体を震わせて、この世界を生み出した男を睨みつける。しかし、その声にはハッキリと恐怖の感情が見えた。
少年の足元には、同い年くらいの男女が『あった』。そう、『あった』だ。
そこに散乱しているものは、もはや人とは呼べない肉の塊。それは、もはやモノ。故にあった、と表現するしかない。
少年はなぜこんな事になったのか、必死に考える。
自分はただ、いつものようにここで座り込み、退屈な日常を謳歌していた。
その時、彼が来たのだ。今目の前にいる、退屈な日常を恋しく思わせる男が――。
……悔やんでも悔やみきれない。あそこで襲ってやろうなどと、思わなければこんな事にはならなかったというのに――ッ!
現実から逃避するように思考するそんな少年を、男はつまらなそうに見据える。
前髪だけが朱色に染まった奇妙な髪である。冷徹な瞳はされど焼けるような真紅。そのうえ紅色のトレンチコートという奇妙な服を身に纏っている。右手には、ゆらゆらと炎が揺らめいているような形の長剣。
――その姿は、例えるなら紅色の炎。激しく燃え上がるそれは、近づく者全てを消し炭にするだろう。
いや――彼にとって炎とは人物を現す比喩ではない。彼は、炎そのものだ。
見よ! 少年の足元に散乱する肉片を。生を失ったそれらからこぼれるのは、沸騰した血液であり、半ば灰に帰した臓器である。二月の寒空の下、それらは異臭と共に湯気を放つ。
それらは全て――この赤い男が行った惨劇である。だが、火を放つ道具など、彼は持っていない。
「く、来るなよ! ひっ、っぐ。ど――どっか行け!」
バタフライナイフを取り出し、無我夢中に振り回す少年。
けれど、彼は恐れない。そもそも、その程度の武器で彼に傷をつける事自体不可能である。豆腐の鉄槌でコンクリートを砕く事に熱を入れるようなものだ。そう、どんなに努力しようと、無謀であり、無理である。
「――喰らえ」
彼の言葉と、右手の剣から炎の獣が出現するのは同時。いや、獣と言うにはその姿は神々しい。――それは、例えるなら竜。
肉が焦げる音と、たんぱく質が焼ける独特な臭いがこの狭い世界に満たされる。
「ぎ、いいいいああああああああぁアアあああ!」
食い千切られ、右腕が喪失。肩から指先まで欠片すらも残さず消し炭となる。けれど、血液は流れない。皮肉にも、少年の腕を喰らった炎で生じた火傷で止血されたのだ。
「あ、ああ、あああああああ! た、たす、助け――助けてくれ」
「煩い、黙っていろ」
泣き叫びながら赦しを請う少年に、無慈悲な一撃が叩き込まれる。
ゆらめく長剣が頭蓋に埋まり、胸部で停止。男が強く念じると、少年の体は燃え上がり、炭と化す。残された灰だけを見たら、これが生きていた人間だったとは誰も思うまい。
「――脆い」
彼は少年たちの骸を、つまらない物でも見るかのように視線を向ける。――いや、実際彼にとってそれはつまらない物なのだろう。
今の彼にとって、とある目的だけが心を揺さぶるモノなのだから。
「退屈だが、目的のためには仕方が無い、か」
自分の指に炎を生み、それをタバコの先に押さえつける。紫煙が夜空に向かって昇り、凍てつくような冷たい風で乱され霧散する。
その現象を何気なく見つめながら、彼は思う。
「ああ、早く――――」
目的を果たしたい――と。
静かに呟いた男の眼の中で、激情と殺意が轟々と燃え盛っていた。