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西洋美術史オタク、シャニマスのイラストについて考える
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西洋美術史オタク、シャニマスのイラストについて考える

2019-07-14 21:40
  • 6

先日、シャニマスで霧子の新しいサポートSRが出ましたね。
その名も「我・思・君・思 幽谷霧子」
果たしてどんなイラストでしょうか?








遠っ!



がっつりと大きく取られた背景の中にポツーーンと人がいる。たしかに印象的ですね。
……あれ? この構成、どこかで見たことがありますよね?



そう。19世紀フランス・バルビゾン派を代表する画家、
ジャン=バティスト・カミーユ・コローです!
代表作「モルトフォンテーヌの思い出」なんか、人物の比率がほとんどそのままじゃないですか!!!!!!!!!!!!!!!!!


シャニマスは間違いなくバルビゾン派の影響を受けている!!
終わり! 閉廷!!!!!!!!!!!!!




などという茶番をやるために筆を執ったわけではありません。


 シャニマスの絵、いいですよね。
 ぜんっぜんプレイしてないですがツイッターによく流れてくるのでなんとなく見たことあります。実際、ソーシャルゲームの文脈の中ではかなり新鮮だなぁ、と。
 だから必然的にいろいろな意見が飛び交うわけです。

「シャニマスは美術作品」
「シャニマスは現代美術」
「これ最終的にアイドルいなくなるぞ」
「ディレクションの違いでは?」
「ユーザーの需要が変化したんじゃないの」
「リミッターを解除しただけ」
「デレステだって頑張ってるぞ」
「ミリシタはもともと上手い」

 などなど。まぁ、各タイトル間違いなく影響は受けているでしょう。
 また、イラストの凄さに言及するブログ記事もいくつか上がっています。

https://note.mu/kanohara/n/nfa805efc01f5
https://note.mu/gamecast/n/nf5be39506bed
https://me-scapes.tumblr.com/post/185309768179/shiny-colors

 オタクにここまで考えさせるシャニマス、恐ろしい子……!


 さて、私は趣味で西洋美術史を勉強しています。守備範囲はだいたい15〜20世紀のフランスを中心としたヨーロッパ美術。

 「シャニマスは美術作品」という意見があると書きましたがそれは大正解です。正確には、この世に現れた「表現」は全て否が応にも美術史の系譜の中に組み込まれ、美術作品として評価してもいい状態になります。なのでシャニマスを美術史的価値観で鑑賞することは何も問題ありません。

 というわけで、今回はコローに似たイラストも来たことですし、美術史オタクとしてシャニマスのイラストを見てて感じたことをメモっておこうと思います。

 昨今のアイマスイラストの進化について、考える助けになれば幸いです。



★構図〜人物の面積比〜

 シャニマスのイラストを論じる時に最も良く話題にあがるのが「構図」ですね。画面分割や三角構図など語れることはいくつかありますが、まだ手垢の少ない「人物の面積比」について見てみましょう。

 大変誤解されやすいので初めに断っておきますが、美術史という大きなくくりで見ればシャニマスの構図の取り方は特に珍しいものではありません。例えばメインの人物を画面端に寄せる構図は、早くは16世紀フランドルのピーテル・ブリューゲル(父)の作品に見ることができます。なので、斬新さに言及する時は「ソシャゲとして見た時に」というマクラが必要です。

 ソシャゲとして見た時に印象的な構図の例となるとやはり「メロウビート・スローダウン 三峰結華」でしょうか。ソシャゲはUIの都合などもありますから本当の一枚絵として論じるのは難しいのですが、それでもこれは思い切ってます。実際私も誰がメインかわかりませんでした。



 メインの人物をあえて端に寄せる構図は、例えばピーテル・ブリューゲル(父)作「サウルの自害」などに見られますが、より効果的、あるいは作為的に用いられているのはやっぱりトマス・ゲインズバラ作「アンドリューズ夫妻」でしょう。



 イギリスの画家ゲインズバラは「風景画家になりたいけど生活の為に肖像画を描いていた」という特殊なキャリアの持ち主です。なのでゲインズバラとしてはこれは風景画。アンバランスに描かれているアンドリューズ夫妻は完成品を見てどう思ったんでしょうか。

 画家がこういった構図を取る場合、多くは「どっちかっていうと風景のほうがメイン」ときが多いですが、面積比を極端にすることで自然と粗密の対比が生まれ、結果的に小さい面積で書かれた人物の方にも注目が行くというオイシイ構図だったりします。そう考えると、「メロウビート〜」も、画面から受ける暑さ、気だるさはアイドルからでなく主に全体の色合いなどから受ける印象ですね。「背景だけで何かを語れる」という自信の表れです。

 余談ですが、特にサポートSRにこういった構図の絵が多いことから、シャニマス的にはこういう構図は工数が少なくて済むんだな〜と邪推しています。


 構図関係でもう一つ。

 特にアンティーカのサポートアイドルイラストは、何人かが見切れたり後ろ姿になろうともメンバー全員が同じくらいの大きさでギュウギュウに描かれことが多い傾向にあります。意図的な画面作りであることは間違いないでしょう。







 逆に、同じメンバー数の放課後クライマックスガールズでは見切れはほとんど起きません。それどころかアイドルをデフォルメしたりかなり後方に下げてまで顔が入るようにしています。メンバーの身長はアンティーカよりもバラバラなはずなのに。





 絵画の世界では、同じ大きさ・情報量で描かれたものは同じような重要度を持っていると考えます。ここは難しいところで、「全員が同じ重要度」なのは全員が同じ大きさのアンティーカか全員の顔が入っている放クラのどちらなのか、迷うところです。ここらへんの判断はコミュをじっくり見た人に任せましょう。
 また、「街角フラワーガーデン 白瀬咲耶」のように他のメンバーが遥か後ろに下がっている場合、他のメンバーから畏れ敬われているという暗示かもしれません。エモい。

 「メロウビート〜」についても、鑑賞者が誰メインの絵かわからないんですから、この絵を描いた人=ディレクションした人は「誰がメインかわからなくても構わなかった」ということになります。なのでこのイラストは「三人が等価値である」というコンセプトで制作されていて、残り二人を冷えた飲み物に喩えることで「残り二人はこの三人とは違う」と区別しようとしている、と考えることができますね。

 こういった焦点のしぼり方の対比はバロック時代の肖像画に見ることが出来ます。
 17世紀フランドル地方のバロック様式を代表する肖像画家、フランス・ハルスとレンブラント・ファン・レインを比較してみるとよくわかります。





 この時代に流行した集団肖像画は全員を均等に描くというお決まりがありました。基本的に全員でお金を出し合って依頼するものなので、そうでないと不平等だったわけです。ハルスの「聖ゲオルギウス市民隊士官たちの宴会」(上)はそのお決まりに忠実に描いていますね。

 しかしアムステルダムの火縄銃組合の依頼で作られたレンブラントの「夜警」(下)は、あきらかに中央にいる隊長と副隊長に注目が行くように構図とライティングが調整されています。ちなみにその左側にいる女性はレンブラントの妻・サスキアという説があるんですが、何の関係もない女性が組合員よりも目立っちゃってるのでそこそこ不満が出たそうです。



★時間のずらし

 シャニマスの更に大きな特徴に「時間のずらし」があります。Catch the shiny tailのイベント報酬サポートSSR「風野署長の一日勤務回想録 風野灯織」を見てみましょう。


 なんと、フレームに入ったアイドルの写真「だけ」を映しています。回想録の名の通り「仕事が終わった後」の風景なんですね。
 今までのアイマスのカードはライブ中、撮影中、休憩中……と、「出来事のピーク」の華やかさを切り取ってきたわけです。しかしシャニマスのカードは時折、アイドルたちのピークでない「余韻」とか「過程」をイラストとして提示してきます。

 それが如実に現れているイラストのひとつがサポートSSR「かしまし、みっつの願いごと 大崎甜花」。


 初詣に向かうアルストロメリアの面々を描いています。しかし、同じガシャに実装されていたプロデュースSR「しじまに華ひととき 櫻木 真乃」はお参りで願い事をする瞬間をとらえています。プロデュースとサポートの価値の違いはありますが、少なくともこの時、シャニマスは出来事のピークよりもそこに向かうまでの過程に価値があると定義していた、と考えることが出来ます。
 Catch the shiny tailイベにおいても風野署長がサポートSSRだったのに対し、同じく報酬だった「アイムカミングスーン 八宮めぐる」はサポートSRですから、あながち間違ってなさそうです。

 この対比に、私はスペインのフランシスコ・デ・ゴヤ作マドリード1808年5月3日またはプリンシぺ・ピオの丘での虐殺」を思い出します。


 ナポレオン率いるフランス軍がスペインを侵略した際の光景を、ゴヤが取材を元に描いたものです。泣き叫びながら命乞いするマドリード市民と無機質なフランス軍の対比が恐怖を引き立てていますね。

 一方、この絵に影響を受けて描かれたとされるのがフランスのエドゥアール・マネ作「皇帝マキシミリアンの処刑」。


 時代が変わりナポレオン3世の支援によってメキシコ皇帝に即位したマキシミリアンが、大統領フアレス率いるメキシコ軍によって処刑される瞬間を描いています。

 ゴヤの絵からは無残に殺されていく運命の市民の痛ましさがこれでもかと伝わってくるのに対し、マネの絵のなんと平凡なこと。まぁ、マネを始め写実主義や印象派の面々はナポレオン3世に思うところがあったでしょうし、この切り取り方には彼への恨みのようなものを感じることもできるわけですが……。
 出来事の決定的瞬間を描くだけが絵画ではない、と思い知らされるいい例です。



★鑑賞者の立ち位置

 最後に。構図と被る話になりますが「鑑賞者の立ち位置」について見てみましょう。
 美術作品について考える時は作品そのものだけでなく「誰の・何のための作品か」も並行して考えます。芸術が鑑賞者なくして芸術たり得ないのと同じように、アイドルマスターのイラストにおいてもそのシチュエーションにおける我々の立ち位置は常に考えなければなりません。
 この点に注目してみると、シャニマスは「鑑賞者の立ち位置が極めて無秩序」ということに気づきます。これはサポートよりもプロデュースアイドルの方に顕著です。

 「バッドガールの羽ばたき 西城樹里」は、腕の位置からして鑑賞者=プロデューサーの視点から描かれていることは間違いありません。アイドルイベントでもこの絵はプロデューサーが樹里の腕を引っ張るシーンに挿入されています。



 しかし、「チエルアルコは流星の 八宮めぐる」はそうはいきません。水槽に映るこの角度のめぐるの顔を見ることができるのはめぐる本人だけのはず。つまりこれは「アイドルの視点」から描かれています。



 個人的に一番メチャクチャやってると思ったイラスト、「カトレアの花言葉 有栖川 夏葉(フェスアイドル)」雲やパンダなど現実に存在し得ないものが描かれています。ということは、「なんらかの媒体に載せるために加工された写真データ」ということになります。



 という具合に、シャニマスは特にプロデュースアイドルイラストにおいて鑑賞者の立ち位置をコロコロと変えることで魅力あるアイドルの一場面を演出しているのです。

 額縁という窓から景色をのぞく時、私達は望まずとも「その場にいる透明人間」となることがほとんどですが、時に画家は巧みなシチュエーション設定や画面構成で鑑賞者の立ち位置を操作することがあります。
 立ち位置操作の代表と言えば、ディエゴ・ベラスケス作「ラス・メニーナス」ですね。



 スペイン国王・フェリペ4世の宮廷の一室を描いたこの絵。中央にいる王女マルガリータが目立ちますが、目を凝らしてみれば画面中央やや左に小さな鏡が。ここに映っているのは、他でもないフェリペ4世と王妃マリアナ。つまりこの絵は、いままさにベラスケスの前で肖像画のためにポーズをとっている国王夫妻の視点から描かれているのです。

 前述の「チエルアルコ〜」にも同じ技術が使われています。この場合、鑑賞者をアイドル自身と設定することで我々という透明人間を消去しています。そうすることで純粋なアイドルだけの世界……つまり「孤独」をより強調している、と考えることができますね。

 この「鑑賞者の立ち位置」の設定、ミリシタ・デレステとシャニマスの違いを語る上での大きなポイントだと考えています。
 まず、ミリシタはグリマス時代から鑑賞者に「カメラマン・早坂そら」というアバターを与え、「カメラマンが見ることができる風景を描く」というルールを基礎に制作されています。当然オフショットなど「いつ撮ったんだよ」という例外はありますが、それでも「チエルアルコ〜」のようなアイドル視点からの構図は見受けられませんし、「カトレアの〜」のような特殊効果も人形や舞台セットとして描くことで「その場にある」という説明がされます。最近ではイラストとしての光の効果もレンズフレアなど「カメラから見えるもの」として描くことでうまく理由付けしています。



 一方デレステはかなりあやふやで、鑑賞者に確固たるアバターを設定していないため、カードごとにプロデューサー目線だったりスタジオのカメラマン目線だったり、あるいはいわゆる神目線だったりして、その点ではよりシャニマスに構造が近いです。しかしその「無秩序の秩序」ともいうべきカメラワークの自由さをシャニマスほど上手に使いこなしているカードが少ないため、残念ながら現状では付け焼き刃の後続という印象を持たれてしまっているように思います。




★存在の耐えがたい軽さ

 構図・時間のずらし・鑑賞者の立ち位置の操作に注目してみて感じたのは、「シャニマスは、『ある出来事のピーク以外で起きたアイドルの感情の動き』がイベントやガシャの報酬に値すると考えていて、かつそこにプロデューサーがいない状況を肯定している」ということ。
 言い換えれば、「アイドルがそこにいて青春してるなら、そこにプロデューサーはいなくてもいい」ということです。

 ここで重要なのが、アイマスにとって私達はパトロンでありお客様だということです。だからアイマスのメイン商品であるカードイラストは「必ず」私達の需要に応えるように作られています。
 だとするならば、「アイドルがそこにいて青春してるなら、そこにプロデューサーはいなくていい」と考えているのは他ならぬ私達自身だということになってしまいます。
 これ、アイドルと二人三脚でトップアイドルを目指すゲームとしてスタートしたアイドルマスターというゲームにおいてかなりの異常事態ですよね。プロデューサーの職務放棄みたいなもんです。

 アイマスの歴史の中で私達が変化していったならば、それは美術史的考察におおいに関係があります。なぜなら美術史は「変化」の歴史だからです。
 美術史の中には、美意識……すなわち「何を美しいと思うか」という価値観が文化圏レベルで変わる時があり、そういった価値観の変化を先導するムーヴメントを「美術運動」と呼ぶわけですが、新たな美術運動が興る時には一つでなくとも必ず大きな原因があるもの。
 だから今、ソシャゲという土壌でシャニマスのような表現が新鮮なものとして評価を得ている背景にはパラダイムシフトと呼ぶべき大きな価値の変化が起きた・起きているハズ。そしてその変化とは大体の場合「需要の変化」だったりします。

 私達の需要の変化について考えることでシャニマスの表現の意味がより深く理解できるなら、考えてみる価値はありそうです。

 いったいなぜ、私達プロデューサーの存在は希薄になっていったのでしょうか?



★特別な体験

 美術運動は基本的に現状を打破するためのカウンターカルチャーとして発生します。
 例えば18世紀の美術様式、ロココが生まれた背景には貴族の繁栄がありました。ルイ16世とマリー・アントワネットが収めるフランスにおいて、貴族たちは直前のバロック様式に見られる説教じみた教訓の示唆よりもより華やかで享楽的な絵画を求めました。しかしそんなバラ色の絵画も次第に下品だと蔑まれるようになり、更にポンペイの発掘による歴史ブームとフランス革命に向かう政治不信の高まりが重なって、時代はギリシャ・ローマ時代の精錬された美を礼賛する新古典主義へと移り変わっていくわけです。

 そう考えると、私達も不満にまみれた日常を送っていますね。
 高度経済成長やバブルの最中に私達の物質的欲求はピークを迎え、そこから徐々にモノへの欲求は衰退していきました。でも、人と関わる中で自己顕示欲を捨てることは難しいわけで……私達は家や車などに代わる、誰かに対して精神的なマウントを取れるものを探していました。
 そこに現れたのがソーシャルゲームです。私達は恵まれていますが社会で一番を取れるほどではありません。ゲームの世界はそんな私達でもそこそこ頑張れば一番になれる場所だったんですね。それこそシンデレラガールズが始まったころ、ソシャゲはどれもモノ重視=豪華さ重視だったと記憶しています。お金をかければけるほどアバターがド派手になってみんなホメてくれます。

 しかし欲とは恐ろしいもので、自己顕示欲というやつは「絶対に」満たされません。満たしたと思っても他の何かを見つけたら途端に不安になる。負けないように更に金をかける。そのループです。結果、華美になる一方のロココ美術が衰退したようにユーザー達も経済的・肉体的・精神的に疲れてしまいました。こうしてソシャゲ文化は現実と同じように、精神的な満足感=勝利以外の喜びを重視する時代に突入したというワケです。

 私がアイマス界で「あっ、みんな疲れてんな」と感じ始めたのは「サプボ」という単語が登場し始めたあたりです。確かデレアニのころだったでしょうか。
 小早川紗枝などの例外があるにせよ、ボイスは基本的に「選挙結果に対して与えられるもの」という認識でした。しかしいきなりアイドルにボイスが付いてしまったことでその価値観は崩壊し、頑張ることの価値がわからなくなってしまった。今ではシンデレラガールという「トロフィー」そのものが形骸化している……なんていう意見も聞こえてくるようになりました。まるでバブルだこりゃ。
 あるトロフィーの価値がなくなってしばらく経つと、人はまた新しく優位性を持ったトロフィーを求め始めます。しかし一度インフレを体験したプロデューサーは札束で殴り合うことの虚しさを思い知っている。

 だから私達のうち一部は「戦わない」ことを選びました。吉良吉影の言葉を借りるなら、「激しい喜びはいらない、そのかわり深い絶望もない、植物の心のような人生」を望んだわけです。
 でも、戦うことをやめた私達がアイマスで何を楽しんでいるんでしょうか。
 かなり抽象的ですが、多分「特別な体験」と呼ぶのが妥当だと思います。それまでは「勝つ」ことがオーソドックスな「特別な体験」でした。しかし、プロデューサー同士が交流したり二次創作が活発になるにつれて、特別な思いを得るためには必ずしも「勝つ」必要はないとプロデューサー達は気づいてしまった。だから「戦う」必要もなくなっていった。よりオンリーワン志向の強いアイマスが幕を開けたのです。

 しかしひとつ問題が。
 戦うことをやめてなお、私達はプロデューサーなのです。つまり私達がその場にいるだけで、アイドルは職業としての「アイドル」になってしまう。それでは「何かが起きてしまう」。だから私達は、戦わないことと同時にその場から消え去ることを選んだ。そうすることで、アイドル達が私達に見せない表情を眺めようとしている……と、そう解釈しています。

 シャニマスだけでなくアイマスの素晴らしいカード絵を見ていると、アイドルは「絵になる」のではなく「そこにいるだけで周りを『絵』にしてしまう」存在なのだと実感しますし、シャニマスのイラストに「何も起きていない」あるいは「何かが起きていた」瞬間のものが多いのはそういった意図があるのだと私は睨んでいます。何も起きていなくてもアイドルが居さえすればその場面は十分に特別なのです。


 シャニマスが「何も起きていない」瞬間を報酬と定義していると考えると、ミリシタとデレステとのシーンの切り取り方の違いも説明がつきます。

 ポチポチゲーとして始まったふたつのタイトルはプラットホームを変えてもまだまだ苦労の末の豪華さで射幸心を煽るモノ重視タイプのゲームですから、トロフィーたるカード絵は「アイドルの感情のピーク」を切り取ったものになることが多いのです。
 そこに空間の凪の瞬間を捉えることに秀でたシャニマスのイラスト手法をそのまま取り入れてもイラストとゲームのコンセプトに矛盾が生じてしまいます。ミリもデレも、それぞれのスタンスの中でどうにか新しい技術を取り入れようとしている……そんな段階なんだと思います。例えば下の「潮風の一頁 鷺沢文香」も、シャニマスで出ていたらおそらくこちらを向かずに本を読んでいたことでしょう。そこは優劣でなく、ゲームコンセプトの差です。



 私が「シャニマス優秀だなぁ〜〜」と思うのは、「私達が『私達は実は物質的な豪華さよりも精神的な満足感を求めている』ことに気づいた」ことにいち早く気づき、ゲームシステムとイラストに組み込む英断をしたというところです。
 「プロデューサー」という名前の呪いに縛られた人たちは知り合いにも沢山います。そういった人たちに勝利以外のトロフィーを指し示したシャニマスはやっぱりスゴイ。



★美術史オタクのまとめ

 私が初めて冒頭の「モルトフォンテーヌの思い出」をルーヴル美術館の図録で見た時、まるで画面から風に揺れる木々のざわめきが溢れてくるような気がして、無性に懐かしい気分になったのを憶えています。しかし、私はフランス北部にあるモルトフォンテーヌの森に行ったことなどありません。行ったこともない場所を懐かしむなんておかしな話ですよね。
 図録によると、「モルトフォンテーヌの思い出」の原題はフランス語で「Souvenir de Mortefontaine」というそうです。Souvenirは日本語の「お土産」「形見」「記念」に相当する、記憶をとどめるために残しておくものを指す単語です。
 コローはよく旅をする画家で、様々な地方を訪れてはスケッチや写真を撮り、自宅に帰るとそれらを参考に自分が見た風景を「思い出」として描き残しました。こうしてコローが「感じた」記憶のモルトフォンテーヌの森は、地球の裏側にいる私の鼓膜の中で今もざわめき続けているというわけです。

 本当に優れた画家は、自分が感じた(「見た」ではない)景色の「におい」を筆で画面に表現することで、私達に同じ感覚を伝えることができるのだ、とその時に学びました。

 そういう意味では、現行のアイマスタイトルの美術班はどれもその「におい」を表現できる技術を持っています。ただ、ゲームの指針、ディレクション、工数、イベントの収益目標など様々なハードルがゲーム開発にはあり、それぞれのタイトルに「あぁ、力を出し切れてないんだろうな」というイラストがチラホラと見受けられるのが現実です。

 Twitterに流れてくる意見を見る限り、皆さんは「それぞれのタイトルのイラストを比較する」という行為に抵抗を持っているようです。それはおそらく、力を出し切れていないイラスト、いわゆる「アラ」がバレてしまうことへの恐れでしょうか。しかし美術史オタクとして言わせてもらいますと、同時代の作品こそどんどん比較していくべきです。

 美術は、「美」という本当に存在するのかすらわからないものについて考える学問です。
だから本当は美術なんて全員わからないんですが、それでも、美しいものがなぜ美しいのかという好奇心を源に手探りで穴を掘り進んでいくような、そんな一面を持っています。
 だから作品単体のみを手がかりに価値を考える絶対評価だけでなく、美術作品を当時あるいは前後の時代の作品や時代背景と照らし合わせることで「その作品は美術史の中でどのような立ち位置にいるのか」という相対評価を同時に下していく必要があります。自分の感覚のみを頼りに作品を評価しているようでは、美を論ずることは到底不可能です。
 大事なのは、「『比較する』ことと『優劣をつける』ことは全く違う」ということ。これさえ踏まえておけば、美術品の比較はとても楽しいはずですよ。

 そして本当に価値あるものに出会えた時は、嫌いなものを嫌いと叫ぶのと同じくらいに良いものだと認めていくべきです。なぜなら、アイマスにおける全てのイラストは、他でもないあなたを喜ばせるために作られているからです。


★シャニマスはどこへ行くのか

 最後に、美術史的な観点から「シャニマスのイラストは今後どこへ行きつくのか」を予想してみたいと思います。

「既成概念を破壊する」
「何も起きていない瞬間を描く」
「ユーザーがある種の無気力に陥っている」

 という特徴は20世紀に生まれた「ダダイズム」という美術運動のそれに似ています。
 ダダイズムが生まれたのは第一次世界大戦中のスイス。世界全体を巻き込んだ戦争に無力感を覚えた芸術家達による戦争、武力への抵抗をベースに、無意識・無意味な美術を志し、それによる常識の破壊を作品のコンセプトとしています。やっぱり総選挙は世界大戦やったんや……。

 ツイッターなどを見る限り、「最後には画面からアイドルがいなくなるんじゃないか」と予想している方々が多いようです。確かに、遺留物や幾何形体で表現されるアイドルはなかなかエモいかもしれません。

 ……まぁ冗談にマジレスも野暮ですが、ダダの文脈で考えるとそれはあまり美しくないと思います。
 ダダは「理不尽」を 大事にしており、モチーフが孕んでいる「意味」の難解な組み合わせで鑑賞者の価値観を混乱させます。故に、そもそもモチーフのもつ意味を汲み取れないようなレベルにまで抽象化するとは考えにくいのです。また、実は我々の大部分はカードに対して精神的な充足感よりも先に「かわいさ=性=セッ○ス」を求めているので、画面からアイドルの肉体が消えることはなさそうです。

 肉体を保ちながら理不尽さを出す。実は、そんな表現を可能にする技法がダダイズムにはあります。「レディメイド」です。



 マルセル・デュシャン作「泉」で一躍有名になったこの手法。「レディメイド=既製品」の名の通り、「既製品(または少し手を加えたもの)をそのまま美術作品として展示する」というトンデモナイ手法で、デュシャン以降の美術を決定的に変えてしまった20世紀最大の問題作と言われています。

 既製のものを用いて、肉体をもったアイドルを表現する。
 これなら、なんかイケそうじゃないですか?
 ということで、ちょっと作ってみました。


 断言しましょう、将来的にシャニマスのイラストは、こうなるに違いありません!








いかん、危ない危ない危ない……。

 





ご清聴ありがとうございました。
シラス.

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

というわけで宣伝の時間です。

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>トロフィーたるカード絵は「アイドルの感情のピーク」を切り取ったものになることが多いのです

シャニマスは「アイドルの感情のピーク」をコミュの中に持ってきているのだなーと。
シャニマスはテキストを読んでいくのが中心のシステムだからこそ、ユーザーもそこまで見てくれるだろうという勝算?があるからこそ、こういった選択ができるのかなぁと思います。
デレステ・ミリシタの場合、ゲームシステムの中心となるのは音ゲーで、コミュといったようなテキストはどうしてもそこから離れた部分になってしまいますから、スタッフもユーザーがそこまで見てくれるか、という賭けはしにくいのだろうなぁと。

逆に、音ゲー(アイドルが歌って踊る映像)が中心であるからこそ、ミリシタにはSSRイラストに衣装の全体を映すという制限があった?というのも納得が出来るなぁと、記事を見て一人で歓心していました。
27ヶ月前
×
オチにネタを挟まないと死んじゃう病かよ。

シャニマスはデレ・ミリと異なる点として、
固定のユニットが存在しており、サポートは特に
そのアイドル同士の繋がりに主観が置かれているため、
「そこにプロデューサーは必要ない」という考察は正しいと思います。

が、その考察を詰めるなら、シャニマスと同じく
固定のユニットが存在している前例との比較が必要です。
つまり、考察のサンプルにSideMが入っていないのは手落ちなのでは?
27ヶ月前
×
シャニマスの起こした変化としてやはり一番大きいのは「プロデュースアイドル」と「サポートアイドル」に明確な違いを作ったことなのかなと思います。

【チエルアルコは流星の】を例に「視点がプロデューサーのものではない」としていますがそのイラストがイベントCGという形で活用されるコミュではその場にプロデューサーはいてめぐるに声をかけていて、ほとんどのPカードがそうです。
それはそれとして「プロデューサーがいなくても成り立つ」というのはSカードが体現しています。
Sカードの中にはアイドル活動すらせず休日をただ過ごしているだけのものからアイドルの夢の中の話まであります。

シャニマスにおいてPの存在が希薄、というのは少し違っていて「Pとアイドルを描いたPカード」と「アイドル達がそこにいることのみを描いたSカード」の2つがそれぞれ別の需要を満たしているというのが自分の考えです。
27ヶ月前
×
「『比較する』ことと『優劣をつける』ことは全く違う」 正しいと思います ただこの文章はその立場にあるでしょうか
ミリシタがここ1年でのカメラの存在を度外視した構図のSSRの増加を言及しなかったこと シャニマスのプロデュースカードの多くが既存の「アイマス的構図」にも関わらず「シャニマスは~プロデューサーがいない状況を肯定している」とまで言い切ったこと そして何よりデレマスに関しては主観の入った誤認識を前提に話を進めたことや「付け焼き刃の後続」とまで評したこと 旧来の「アイマス」の負の側面と「比較」するときは必ずデレマスの話になること
この文章は100点の美術知識で50点のアイマス知識を隠しながら書いた ミリシタPによる「ぜんっぜんプレイしてない」シャニマスを武器にしたデレマスへの熱意のあるマウンティングとしか思えませんでした
27ヶ月前
×
>>4
"「『比較する』ことと『優劣をつける』ことは全く違う」 正しいと思います ただこの文章はその立場にあるでしょうか" 当然論ぜられるべきと思います ただこの文章はそれを指摘する立場にあるでしょうか
ミリシタの構図の変化への言及(知識)がないことを指摘しながら筆者の立場をミリシタPと呼ぶ矛盾を抱え批判していること 「(プロデューサーは)必ずしもいなくてもいい」「肯定している」程度の表現に対して「言い切ったこと」などと「Pの存在を否定している」ような表現にまで歪曲していること(不在の肯定は存在の否定になりませんからね) そして何よりデレマスに関してはそもそも考察の主題でないのにデレステとの比較部分を全てフォーカスして論うことや「比較」に関してデレマスを庇う体を装いながらデレマス以外との比較に足る情報の付加・記事内容の補完をする気が全く見られないこと
この文章は50点の文章力で50点の読解力を隠しながら書いたデレマスPによる「ぜんっぜん記事タイトルを理解してない」情報の故意的切り取りを武器にした筆者への熱意のあるマウンティングとしか思えませんでした

西洋美術史、今まで触れることがありませんでしたがアイマスということで目を通しました。大変面白いですね。「ラス・メニーナス」の鏡の中の夫妻についての視点表現など幾つか度肝を抜かれました。やはり知識があると楽しみ方の幅が増えますね。カードイラスト変遷の一考察としてもとても楽しく読ませていただきました。
27ヶ月前
×
美術史を交えた観点からのイラストについてのお話とても面白く感じました。また、他のアイマスシリーズのイラストとの比較から、それぞれが目指す所に違いがあるのだなと思いました。私はつい忘れがちになってしまうのですが、同じアイマスでも当然ながら絶妙に客層やコンセプトも違うのだとこの記事で改めて感じさせられました。イラストについて以外にも色々と考えさせられる記事だと思います。
27ヶ月前
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