SOUL REGALIA   作:秋水

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※19/12/22現在、仮公開中。
大幅な変更、改訂を行う可能性があります。


第五節 未知へと挑め

 

「『中層』のモンスター程度に逃げを打ったと聞いた時は、てめぇもついに焼きが回ったと思ったんだがな」

 白霧と見紛うほどの灰が立ち込める中、アレンが忌々しそうに舌打ちした。

「あの時は、この程度ではなかった」

 場所は、例によって一三階層。

 まず間違いなく、深淵に向かう途中で遭遇したモンスターの大群の一部だろう。

 その言葉に、アレンが積もった灰の山を蹴り散らす。

(さて、どうしたものか)

 その姿を見やりながら、小さく自問した。

 今の俺は自派閥のみならず、第三次調査隊全体の前線指揮を請け負っている。

 いつものように身軽には動けなかった。

(ロイマンめ。よほど懲りたと見える)

 いつになく殊勝な態度で、応援を求めてきたギルド長を思い出す。

 ……もっとも、この期に及んで出し渋られたなら、その方が遥かに面倒だが。

(やはり、上手くはいかんか)

【ロキ・ファミリア】は遠征中で団長以下主力陣は全員――いや、【凶狼(ヴァナルガンド)】はまだ地上にいるはずだが――が出払っている。

【ガネーシャ・ファミリア】も団員が各地に派遣されており、戦力は大幅に低下している。

 つまり、第三次調査隊の中核が俺達となるのは自明の理だ。

 加えて言えば、団長である俺が総指揮を任せられることもだ。

 そこまでは、何の問題もないのだが……。

 

 さて。

 その第三次調査隊の目的は大きく分けて四つ。

 

 一つは、言うまでもなく異形及び『深淵種』の殲滅だ。

 異形や『深淵種』がいつまでも『中層』に居座られては、多くの中小派閥が干上がることになる。

 冒険者のみならず、ギルドとしても放置できない問題だった。

 

 もう一つは閉鎖前にダンジョンに潜り、未だ安否確認ができていない者たちの捜索。

 無論、第一次調査隊の未帰還者も含まれている。

 これに関しては、ほぼ殺害と同義となるため第一目的の一部と言ってもいいだろう。

 

 もう一つは、異常発生したモンスターの駆除。

 もちろん、ダンジョンが無限に生み出す以上、全滅させることなどできるはずもない。

 おおよそ普段通りの数にまで間引きするというだけの話だ。

 感覚以外の基準がないため、一番厄介な作業だが……手に入った魔石は各自で持ち帰っていいとギルドからも通達が出ている。

 調査隊に参加しているパーティの何割かはこの魔石が狙いと見ていい。

 そして、それを咎める気もない。

(『中層』のモンスター。その大群に対応できる冒険者はさほど多くないからな)

 そして、大規模となると、一人当たりの報酬が減るというのは仕方がない話だ。

 いくらギルドと言えど、予算を無限に組めるわけではない。

 だが、実利もないのに集まる冒険者など、よほど名声に飢えているか、それとも底抜けのお人好しか……いずれにせよ稀だった。

 だからこその条件だ。他の目的を忘れないなら満足するまで好きにさせておくしかない。

 もっとも、伝令班の安全も確保しなければならないことを考えれば、むしろ好都合と言えるが……。

 

 最後の一つは、おそらく発生しているであろう『強化種』の駆除だ。

 今回に限らず、大規模な怪物の宴(モンスター・パーティ)の後は、多くの場合において『強化種』の発生が確認されている。

 特に今回は『深淵』とダンジョンの完全閉鎖という二つの異状事態が重なっているのだ。

 初めから『強化種』の発生は想定されている。

 ただ――…

 

「さっきのあれが『深淵種』ってやつか?」

 想定よりも少しだけ早かった。

 何しろ、遭遇したのは一二階層。まだ『上層』だ。

 そこで奴は三人一組(スリーマンセル)のパーティを皆殺しにし、装備や魔石を奪っていた。

 エンブレムからして殺害されたのは【ソーマ・ファミリア】の団員だ。

 放置された魔石か、武装を目当てにダンジョンに潜っていたらしい。

 もっとも、表沙汰になることはないが、異常事態(イレギュラー)発生後の遺品泥棒――戦場稼ぎ自体はさほど珍しいことではない。

 加えて言えば、その異常事態(イレギュラー)の残滓に巻き込まれて木乃伊取りが木乃伊になることもだ。

(そもそも、連中に『中層』の手前まで潜れるほどの実力があったかどうか)

 件の【ソーマ・ファミリア】は飲んだくれの集まる派閥だと聞くが……。

 いや、それはいいだろう。

「おそらくな」

 もっとも、今まで遭遇したものとは少し勝手が違うようにも思えたが。

 いずれにせよ、あの『深淵種』か『強化種』らしきもののせいで、すでに数名の犠牲者が出てしまった。

 もっとも、調査隊にはまだ死者は出ていない。負傷者もそこまで深刻な傷を負ったわけではない。

 一方、その『深淵種』は、俺達の追撃を振り切り、塞がりつつある縦穴に飛び込んでいった。

「あれは元はアルミラージ(白兎)か……。チッ、気に食わねぇな」

 道中でいくらか足止めを受けたとはいえ、オラリオ最速を誇るアレンを振り切るとは。

 都合よく助けが入り、縦穴まで見つけるとは、なかなかの()()の持ち主と言えよう。

(運も実力の内といったところか)

 胸中で呟いていると、アレンが言った。

「それで、どうする。このまま追いかけるか?」

 いつもなら、頷くところだが。

「いや、まずは予定通り包囲網を展開する」

 今回ばかりは首を横に振った。

「あぁ?」

「お前の言う通りあれはアルミラージが原型だ。それが一二階層とは言え、『上層』にいた。神蓋(バベル)の封印は『深淵種』には通じないと考えた方が良い」

 それもまた、別段驚くようなことではない。

 神蓋(バベル)の封印が『深淵種』には通じない。それもまた、予測されたことだ。

 封印の要たる神ウラノスがつい先ほどまで塔を離れていたこと。

 そして、『深淵』自体が神々ですら封じきれない厄災であるらしいこと。

 この二つを考慮すれば、想定しない方が馬鹿げた話だ。

「あれをフレイヤの御前に出すわけにはいかん」

 そして、生き残りの『深淵種』があれだけとは限らない。

 まずは奴らを地上に出さないことこそが肝要だった。

 もちろん、これは単なる私情に留まらない。

 全ての冒険者にとっての至上命題だ。

 

 ――モンスターの地上侵出。それを防げずして何が神の眷属か。

 

「当たり前だ。あんな薄汚ねぇもんをあの方に見せられるかよ」

 吐き捨ててから、アレンが言った。

「だから、なおさらンな呑気なことを言ってて良いのかよ?」

「『中層』に逃げ戻っただけだ。何の問題がある」

 上に向かったならまだしも、下にいるなら状況は何も変わらない。

 むしろ、正常な状態に戻ったと言えよう。

 このまま包囲網を構築し、追い詰めていくだけだ。

 それに……、

(奴の潜在能力(ポテンシャル)を完全に把握したとは言い切れんが……)

 しかし、アレは決して()()()()()()の敵ではない。その確信があった。

 強敵を前に臆して逃げる程度の存在だ。

 確かに力は得たかもしれない。だが、あれはただそれだけの存在でしかない。

 地上に出たなら、それでもオラリオ史に悪名を残しただろう。

 だが、奴は上に向かわず、下に逃げた。

 ならば、後は人知れずダンジョンの闇に還るだけだった。

「一五階層には、すでに奴らが向かっている」

 クオン達――俺と【凶狼(ヴァナルガンド)】を除く第二次調査隊は、こちらとは別に『中層』を行軍中だ。

 目的は基本的に俺達と同じだが、連中にはそれ以外の目的もある。

 というより、調()()()と名乗るのは、奴らこそが適切だろう。

 

 何しろ、目的の一つは深淵跡地の調査。

 本当にダンジョンは――あの区域(エリア)は深淵の影響から脱したのか。

 カルラという女魔導師が言うには、状態によっては今後も時間をかけて監視していく必要が生じるらしい。

 

 もう一つはリヴィラの調査だ。

 どれ程の被害が出ているのか。最悪、リヴィラの街が異形の巣窟となっている可能性も皆無ではない。

 その場合、リヴィラそのものが殲滅対象となる。

 

「そして、【勇者(ブレイバー)】……【ロキ・ファミリア】も今は一八階層に滞在している」

 ……場合によっては、一八階層に留まっている【ロキ・ファミリア】すらも殲滅対象となるわけだが。

 一方で、奴らが無事なら頼まずとも首を突っ込んでくるだろう。

 飽くなき野心。名声への渇望こそがあの小人族(パルゥム)の強さの源なのだ。

 相対する俺達に黙って庇われているはずがない。 

 つまるところ、オラリオ有数の戦力は一二階層から一八階層に集まっている。

 よほどの異常事態(イレギュラー)でも起こらない限り、このまま挟撃できる。

 この状況で、奴が『中層』から生きて出ることはまずあり得まい。

 いや、違う。

「このまま確実に追い詰める。殲滅こそが使命だからな」

 奴も含めて『深淵種』も異形どももダンジョン……いや、この『中層』から出すものか。

 そのために、俺達はここにいる。

「殲滅するなら、道中の雑魚どもを放っておけば良かっただろうが」

 道中で俺達を邪魔したのは、モンスターの大群ばかりではない。

 貧窮した弱小派閥の団員や、あるいは【ソーマ・ファミリア】の同類。

 そう言った者たちが助けを求めて殺到してきた。

 想定外というなら、その人数が多すぎた事だ。

 人間の欲望か、それとも弱小派閥の財政事情か。その辺りを読み違えたらしい。

 もっとも、アレンの言う通り、本来なら命を賭して冒険に挑む者こそが冒険者だ。

 力及ばず斃れたとして、それは誰の責任でもない。

「今回ばかりはそうもいかん」

 ……が、今回はオラリオ中が注目している事態だ。

 加えて、第三次調査隊は【フレイア・ファミリア】を中核とすると大々的に報じられてもいる。

 そんな中で下手に被害を出しては、フレイヤ様の名に傷をつけることになる。

 例えそれが調査隊とは無関係の冒険者であっても、まるで無視するわけにはいかない。

 何しろ、未帰還者の保護も役目の一つ。そして、あの中に未帰還者がいないと断言はできなかった。

(思った以上に面倒な話だ)

 確かに第三次調査隊の人員は豊富だ。

 それは間違いない。だが、その分だけ未熟な者もまた多く、いつも通りの采配では立ち行かない。

 加えて、団長としての力量……指揮官としての手腕なら【勇者(ブレイバー)】の方が上だろうという自覚があった。

(統率か。縁が遠い言葉だな……)

 事あるごとに絡んでくる団員たちを思い出し、小さくため息を吐く。

 俺達の派閥では、互いが最大の競争相手だということは誰もが理解している。

 団長という称号は統率者の肩書ではなく、剣闘士の王者に与えられる黄金杯のようなもの。

 俺達の派閥に統率者がいるとすれば、それはフレイヤ様だけだ。

 それでも、普段なら全く問題はない。

 自慢ではないが、殲滅戦は得意とするところだった。

 フレイヤ様の命があれば、例え一国でも攻め滅してみせよう。

 それが可能だという自負はある。

(……だが、今回ばかりは状況が悪い)

 まだ浅い階層とはいえ、ダンジョンは広大であり、かつ入り組んでいる。

 敵はその中に分散していて、どこにどれだけいるかすら不明。

 加えて、早期決着が求められている。

 この状況で必要となるのは、個々人の武勇よりも連携の取れた包囲網だった。

 

 そして、それこそが俺達にとって最も苦手とする領域だった。

 

 いつも通りに好き勝手動き出す団員に、相変わらず数だけは多いモンスターどもが襲い掛かり――殲滅されるまでの一瞬に『強化種』は脇目もふらず走り出した。

 あれこそ、まさに脱兎の如く……いや、脱兎そのものか。

 無論、この程度のことは問題と呼ぶにも値しないが……しかし、少しばかり幸先が悪い。

 何しろ――…

(今頃、【赤戦の豹(パルーザ)】も頭を抱えているかもしれんな)

 向こうも向こうで、取り込んだばかりの【イシュタル・ファミリア】の元団員を投入している。

 派閥内の連携に乱れが出ていないとはとても思えない。

(……なかなかの状況だな)

 自派閥の団員に手を焼く団長と副団長が、パーティ全体の指揮官と副官というわけだ。

 このパーティは連携に問題がある――と。漠然と抱いていた懸念が正しいと証明されてしまった。

 

 もっとも、流石にパーティが機能不全に陥るほどではない。

 言うまでもなく、パーティの損害も軽微だ。 

 状況的にも作戦を変更する必要性は一切存在しない。

 このまま包囲網を構築し、追い詰めて殲滅する。

 そして、その中にあの『深淵種』も含まれる。

 ただそれだけの話だった。

 問題など、何ら存在していない。

 

「そりゃ分かってるがな」

 槍で肩を叩きながら、アレンが吐き捨てた。

「ところで、例の兎野郎も『中層』から帰還してねえんだろう。そっちはどうするんだ?」

 確かに、未帰還者の一覧表にその名は記されていた。

 ランクアップから十日で『中層』進出とは流石に驚きを禁じ得ない。

 ……しかし、あのランクアップしたばかりであの『強化種』に勝てるものか。

「放っておけ」

 それについても、一つの予感があった。

「奴は死なん。少なくとも、あの程度の相手に殺されることはない」

 何もせず逃げたあの『深淵種』と、仮にも戦士となったミノタウロス。

 どちらが強いかと問われたなら――…

「随分と高く買ってるじゃねぇか。ありゃ、潜在能力(ポテンシャル)だけ見りゃ『下層』でも通じるぜ?」

 分かっている。そうでなければ、いくら俺達が足止めを受け、また幸運が奴に味方にしたとしても逃げ延びられるわけがない。

 それは分かっている。分かっているが……。

(馬鹿げた話だな)

 実際に多少ならず欲目は混じっているだろう。

 それでも、あの『深淵種』は紅い猛牛ほどの壁にはなるまい。

(もっとも、重要な経験にはなるだろうがな)

 不思議と、そんな予感があった。

 

 

 

 苛立ちまぎれに、魔石(しんぞう)をかみ砕く。

 実際、彼は苛立っていた。

 もっといい武器と、もっと多くの、この暗い何かを求めて『外』を目指していた。

 決して不可能ではない。そう思っていたが……。

 しかし、もう少しのところで思わぬ壁にぶち当たった。

 自分たちと似たような耳をはやした侵入者(にんげん)

 それを見るのは初めてではなかったが……あの大男は危険だ。

 逃げ切れたのはひとえに馬鹿な同胞たちのお陰だった。

 勝ち目もないのに、よくもまぁ飛び込んでいくものだ。数を揃えて気が大きくなっていたのだろう。

 もっとも、その馬鹿どもがいなければ、あの場で殺されていたのは認めざるを得ない。

 何とか生き延びたが……万能感も渇望もまとめて吹き飛ばされた気分だった。

 全く忌々しい。忌々しいが、あれを殺して暗い何かを奪うには、もう少し力を高め、まともな武器を手にしなくてはならない。

 

 ――しかし、どこから?

 

 必死に頭を働かせていると、ふと思い出した。

 もう少し下の方に、侵入者(にんげん)の巣がある。そこに行けばいい。

 少しでもまともな武器を得て、多くの魔石(しんぞう)を喰らわなくては地上には出れない。

 そう決めて、降りてきて――その途中で、この白い毛並みの侵入者(にんげん)と出くわした。

 大した武器も、あの暗い何かも持っていなさそうだが……探れば、魔石(しんぞう)をいくらか隠し持っているかもしれない。

 どうせ大した手間ではない。どこから見てもくたばり損ないどもだ。

 あの大男を見かける直前にいた侵入者(にんげん)どもと同じように、さっさと殺してしまおう。

 奴らは自分が、武器を使うなど夢にも思っていないのだ。不意を突くには楽でいい。

 偶然拾ったその大きな剣を握りしめ、一気に跳躍した。

 

 …――

 

 ここにきて、まさかの『強化種』との最初の遭遇(ファースト・コンタクト)

 最悪をさらに下回るその事態を前に――しかし、思ったよりも動揺は大きくなかった。

 いや、最初の遭遇ではない。『強化種』というなら、あのミノタウロスだってそうだったはずだ。

「くッ!?」

 ただ、速い。少なくとも、敏捷に関してはあのミノタウロスを遥かに上回る。

 僕だってLv.2へと昇華されているのに、反応が追いつかない。リリ達を狙わせないようにするので精一杯だ。

 小盾の表面から火花が散り、鎧の表面が少しずつ削り取られていく。

 潜在能力(ポテンシャル)の差が大きすぎる。まったく成す術がない――…

(本当に?)

 最悪を極めたような状況の中で、その奇妙な疑問が膨れ上がっていく。

 確かに潜在能力(ポテンシャル)の差は絶対だ。

 もし仮にモンスターにも【ステイタス】のような一覧があるなら、全ての項目で――ひょっとしたら、『魔力』は違うかもしれないけど――負けているだろう。

 だから、()()()()

(何で、まだ生きてるんだ?)

 傷ならもう数えきれないほど負っている。けど、それだけだ。

 本当に深刻な傷はまだ一つだって負っていない。

 繰り返すが、潜在能力(ポテンシャル)の差は絶対。おそらく、Lv.2の――しかも、ランクアップしたばかりの――冒険者が遭遇していいモンスターではない。

 ……その潜在能力(ポテンシャル)だけを見るなら。

 それでも、まだ何とか食い下がっていられる。食いついていける。

 

『冒険者には【ステイタス】に振り回されている人が多いって、よく言う」

 金色の憧憬(アイズ・ヴァレンシュタイン)の声が鮮明に蘇った。

 

(そうだ……!)

 こいつは『強化種』。いつ発生したかは分からないけど……『中層』進出のため、慎重に念入りに情報を集めてくれていたリリが知らなかった以上、そんなに前じゃない。

 ひょっとしたら上で発生している異常事態(イレギュラー)の一部なのかもしれない。

 いずれにしても、冒険者に例えるならランクアップしたばかりの存在と見ていい。

(こいつは、『恩恵』……『魔石の力』に寄りかかりすぎている!)

 それとも、()()()いるのか。

 どっちにしても、自分の力に振り回されていることに変わりはない。

(よく見ろ! こいつの動きは()()()()()()()()()()だろうッ!)

 そのせいで、圧倒的に格下であるはずの僕を殺せないでいる。

 そして、それを理解できていない。それとも理解したくないのか。

「ギィイイ!!」

 苛立ちが、動きをさらに粗雑にした。

 その瞬間。意識の中で時間の流れが鈍化する。

(今ッ!!)

 無限に続く一瞬の中で、その言葉だけが稲妻のように弾けて飛んだ。

「―――――ッ!」

 雑に繰り出された大剣――剣の重さに少し振り回されている――が、手甲と一体化した小盾の表面を()()()()()

 受け流し(パリィ)。クオンさんがやってのけるあの妙技。

 ……もっとも、流石にぶっつけ本番では受け流すだけで精一杯だったけど。

「うおおおおおおおおッッ!!」

 それでも、好機だった。

 反撃へと転じる。

 間違いない。こいつは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 どれ程の力も、当たらないなら意味がない。

 予測さえできるなら、対応できない速さではない。

 そして――…

「ギィイイ!?」

 その暗く湿った毛皮も、攻撃が通じないほど分厚いわけじゃない。

 紫紺の輝きも、炎の軌跡も。その毛皮を斬り裂くには充分だ。

(食らいつけッ!)

 こいつは、自分が攻められることに慣れていない。

 多分、今までは全て奇襲で片をつけてきたんだろう。

 折角の速さと力も、全く噛み合っていない。動きがあまりにでたらめすぎる。

 

 ……もっとも、それでも直撃すればひとたまりもない。

 

 その瞬間、まず間違いなく戦闘不能に陥る。

 そして、次の瞬間には殺される。

 僕だけじゃない。リリとヴェルフもだ。

 それでも……いや、だからこそ。

 この至近距離こそが、最も安全な場所。真正面からの斬り合いこそが唯一の活路だ。

 それを証明するように、次第に目が慣れてくる。動きが読めてくる。

 反応が、何とか追いついてくる。

(怯えるな! 前に出ろ!!)

 もちろん、だからと言って全て避けきれるはずもない。

 体はすでに何ヶ所も斬り裂かれているけど、どの傷も浅い。この程度で臆してはいられない。

(あのミノタウロスは、こいつよりもっとずっと怖かっただろうッ!?)

 初めての冒険だ。少し美化しているのかもしれない。

 ただ、感じる。いくら強かろうと、こいつはあの猛牛とは違う。畏怖(こわ)くはない――!

「ギュイ!」

 ますます苛立ちながら、その『強化種』が後ろへと跳ぶ。

「ファイアボルト!!」

 あの猛牛なら、退くことなどあり得ない。

 この程度の連撃(ラッシュ)など力で粉砕して退けたはずだ。 

(引き剥がされてたまるか!)

 自ら放った炎雷に追いつくように加速。意地でも近接戦(インファイト)を続行する。

 どれ程の言葉で鼓舞しようと、力の差は絶対的だ。二度も受け流しが成功するとは思えない。

 仕切り直しは効かない。こいつが自分の力をものにする前に押し切るしかない。

 懲りずに間合いを取ろうとするその『強化種』に、死に物狂いで食らいつき続ける。

「ギイイイイイイ!!」

 空中からの、力任せの超大振りの一撃。

 単純極まる力技は……しかし、彼我の力量差を明確にした。

 どうあっても回避に徹するしかない。相手の敏捷を考えれば、その一瞬は痛い。

 ……もっとも、まだ致命的ではない。

 開いた間合いを補う(まほう)なら、あるのだ。

 ナイフを握ったままの左手を翳して狙いを定め――

「ファイア――…ッ?!」

 大剣が槍へと()()()()

 間合いが変わる。すでに穂先が体に届く距離だった。

 反応できたのは、単純に見慣れていたからだ。

 魔法を中断し、慌てて飛び退く。それでも間に合わず、手首から肘にかけてを軽く切り裂かれた。

(マズい!?)

 交差は一瞬。着地と同時、棒切れでも振り回すように、アルミラージが槍を振り回す。

 流れを取り戻された。

(いや、まだだ!)

 穂先の先端にうっすらと脚を斬り裂かれながら、それでも少しだけ安堵していた。

 武器を変えてくれたのは、せめてもの幸運だと言える。

 何しろ、槍の動きは剣の動きよりさらに粗雑なのだ。これなら、まだ何とかなる。

 限界を超えて白熱する集中力。その中で、自分に言い聞かせる……が。

 

 状況はさらに悪化している。

 それを認めざるを得なかった。

 

(間合いが広い……ッ!)

 もう一度近づかない限り、こちらの攻撃は届かない。

 あるいは、もう少し間合いを開いて魔法で狙うか。

 それに気づいたのか、今度は僕に間合いを取らせようとしない。

「ぐぅッ?!」

 まっすぐ振り下ろされた槍が、肩の装甲に直撃する。

 その衝撃で装甲が歪み、肩の骨が悲鳴を上げた。

 骨が折れたり外れたりしなかったのはヴェルフのお陰か。それとも、幸運だったのか。

 あるいは、その両方かもしれないけど。

「ああああああッッ!?」

 押さえつけられ、動きが止まった。

 たちまち猛攻に晒された。

 細長い棍棒――確か棍っていう武器があったはず――でも扱うように、文字通り滅多打ちにされる。

 とっさに頭だけは守ったけど……それでどうなるものでもない。

 体中が悲鳴を上げる。多分骨にはヒビが入り始めたはずだ。このまま続けば、砕けるのは時間の問題だった。

「おい」

 その声が響いたのは、ちょうどそんな時だった。

「その槍、さては安物だな」

「え?」

 重厚な大刀がその槍に叩きつけられた。

「ギィ?!」

 槍の柄が、半ばから切断される。

 無防備になったその瞬間、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ベルの攻撃を防ぐ度に、槍には傷がついてたんだ。それか、単に手入れが悪かったか」

 だから、俺の一撃でも簡単に折れた――と、彼は小さく笑う。

 その一瞬、『強化種』が石斧――本来アルミラージが使う天然武器(ネイチャーウェポン)――を()()()()()……

「もう驚きませんよ!」

 投擲するより先に、リリの放ったボルトがその目を射抜いた。

 通常のアルミラージより大きいということは、その分だけ――止まっていてくれるなら――当てやすいのだ。

 何より、このモンスターはアルミラージだ。

 ミノタウロスのように咆哮(ハウル)は使ってこない。

 なら、Lv.1のリリとヴェルフも強制停止(リストレイト)させられることはない――!

「行け、ベル!」

「おおおおおおおおおおッッ!!」

 一気に加速。ナイフを握る左手に、そのまま≪呪術の火≫を灯す。

 そして、一気に燃え上がらせた。

 最も基礎となる【発火】。

 ただ掌に爆炎を生み出すだけのそれは、単純ながらも充分に凶悪だ。

 その爆発力に、加速が乗った拳が加わる。

 確かな手ごたえがあった。

「ギィ―――!」

 だが、それでも致命傷には届かない。

 通常のアルミラージの『耐久』を遥かに上回っている。

(これが、『強化種』……!!)

 仕返しとばかりに思い切り蹴り飛ばされ、胃液を地面を転がる。

 その最中に毒づいていた。

(いや、本当に?)

 これは本当に単なる『強化種』なのか?

 ヤケクソのように思い浮かんだ疑問は、血が混じった胃液と共に吐き捨てた。

 そんなことに感けている余裕など、どこをひねっても出て来やしないのだ。

「悪い、ベル! 前衛は任せる! 俺じゃ反応できねぇ!」

「分かってる!」

 ヴェルフの声に、跳ね起きる。

 やることは今までと同じだ。槍を破壊されたせいか、武器も大剣に戻っている。

 とにかく、食らいつく。そして、ヴェルフ達を狙わせない。

 ……ああ、それと。なるべくなら時間をかけないで何とかしたい。

 それは流石に贅沢過ぎるけど。

「そらよ!」

 ただ、攻撃の手は二つに増えた。

 動きさえ鈍らせてやれば、ひとまずは何とかなる。

「ギイイイイ!!」

 ヴェルフの攻撃に反応して、そちらを狙うならその瞬間こそが好機だ。

「はぁあッ!!」

 ヴェルフが戦線に加わってくれたおかげで、攻撃の機会(チャンス)はかなり増えた。

 とはいえ、余裕などない。

 前提として、Lv.1の攻撃は通じない。ヴェルフが悪いのではなく、単純に【ステイタス】の差が大きすぎる。

 辛うじてダメージを与えられるのは、Lv.2以上。つまり僕だけだ。

 特にヴェルフはまだ脚を痛めたまま。いつも通りには動けない。

 さらにはランクの差。仮にもLv.2の僕でもギリギリ食い下がれるかどうかだ。

 少しでも連携が乱れたら、そのまま共倒れしかねない。

 まったく、綱渡りもいいところだ。

「こいつはキツいな……ッッ!」

 そして、今の状態でもより多く手傷を負っているのは僕らの方だった。

 血が混じった汗を――いや、汗が混じった血を乱暴に拭いながら、ヴェルフが呻く。

 流れ落ちる血は、そのまま体力を奪っていく。

(焦るな……!)

 そして、今こうしている間にも、時間は進んでいる。

 時間の感覚なんて、もうすっかり失われている。それが……そう、焦燥をさらに煽る。

(階層主の次産期間(インターバル)はおよそ二週間……)

 アイズさん……【ロキ・ファミリア】が一七階層を通過したのは、おそらく僕がミノタウロスと戦った日。

 ダンジョンに潜ってから、どれだけ経ったか分からないけど……潜った日から数えるなら猶予は二日。

 まだ一日もたってないような気もするし、とっくに二日を過ぎてしまった気もする。

 分からないことこそが恐怖であり、一方で救いでもある。

 もし仮に二日を過ぎていて、それが分かってしまえば、その瞬間に心が折れる。

(でも、時間はかけられない)

 階層主の産出以前の問題だ。

 このまま戦い続ければ、先に力尽きるのは間違いないく僕達なのだから。

(一撃だ)

 取れる手段は、多くない。

 いや、むしろ一つしかないと言っていいほどだ。

 例えこいつが『強化種』でも……それどころか、階層主であっても、その一撃には耐えられない。

 つまり、魔石の破壊だ。

 シルバーバックの時と同じく、捨て身の一撃を敢行する覚悟を決めた。

(けど、どうやって?)

 覚悟があれば何とでもなる――と。そんな都合のいい状況ではない。

 まともに斬り込むことすら難しいのだ。

 無暗に突撃などした日には、そのまま天界まで突っ走る羽目になる。

 それに、今は大剣だけど……クオンさん達と同じ『スキル』の使い手なら、他にどんな武器を隠し持っているか分かったものじゃない。

 今までは、便利そうでいいなとしか思わなかったけど……。

(この『スキル』、敵に回すと()()()()……!)

 どんな武器が飛び出してくるかまるで分らない。

 相手の手が読めない。予想しきれない。

 迂闊に近づいたばかりに、突如として現れた重量武器で防御もろともに叩き潰される――なんてこともありえるのだ。

「ファイアボルト!」

 僅かな恐れが、動きを鈍らせた。

 開きかけた間合いを、慌てて魔法で埋め合わせる。

「貰ったッ!!」

 その炎雷の陰から放たれたのは、ヴェルフの横薙ぎの一撃。

 完全にヴェルフの間合いだった。

 まだLv.1とはいえ、ランクアップは見えている。その一撃は、充分に痛撃を与えるはず――…

「何ッ!?」

 その一撃が弾かれた。

 理由はごく当たり前だった。大盾で防がれただけだ。

 取り出されるのは、武器ばかりではない。

「ギギッ!!」

 大盾をそのままに、『強化種』が跳躍する。

 手に持っているのは、赤い刀身をもつ短剣。

(どこかで、見たような……)

 記憶が刺激されたのは、その刀身が炎に包まれたからだ。

 思い出した。リリが持っていた魔剣によく似ている――!

「【燃えつきろ、外法の業】!」

 反応は、僕よりもヴェルフの方が速かった。

 鋭い叫びがそのまま世界を揺るがす。

「【ウィル・オ・ウィスプ】!!」

 空間を伝播するその()()にそんな錯覚すら覚えた。

 そう。放たれたのは、炎でも雷でもない。一見すれば、ただの陽炎だ。

 ただそれだけを浴びたなら、何の効果もない。

 しかし――…

「ギギャ?!」

 僕達を襲うはずだった炎が、その瞬間破裂した。

 正確には、爆発したのはその魔剣だ。

 

 この現象は魔力暴発(イグニス・ファトゥス)と呼ばれる。

 

 その名の通り『魔力』を制御できず暴走させてしまう事故現象だ。

 神様たちが降臨する以前――『古代』において、魔法種族(マジックユーザー)達が自らの手で魔法を編み出していた頃には多発したらしいけど……『神の恩恵(ファルナ)』によって自分専用の魔法が発現し、魔力の調節(コントロール)が円滑化した現代ではほとんど発生しなくなった。

 もちろん、魔法を誰でも簡単に扱えるようにした魔剣が暴発なんてするはずがない。

 ……本来なら。

「魔剣にも効くんですね……」

「ヘルハウンドのブレスよりも『魔法』に近いからな」

 リリの言葉に、ヴェルフがあっさりと応じた。

 

 対魔力魔法(アンチ・マジック・ファイア)

 

 強制的に魔力暴発(イグニス・ファトゥス)を引き起こし、対象を自爆させる『魔法封じ』の魔法。

 これこそが、ヴェルフの魔法。

 外法(まほう)ではなく正道(はくへいせん)で戦うべし――と。武器職人(ヴェルフ)らしい魔法だった。

 もしくは、その血筋に対する感情によるものだろうか。

「おいおい、その魔剣も安物か? ()()()()()()()

 そう。その効果はあくまで自爆だ。威力は対象の威力、魔力の量に依存する。

 あの魔剣に込められていた――残っていた魔力ではあの強化種を仕留めきれなかったらしい。

 魔剣そのものは粉々に砕け散ったが、アルミラージはまだ健在だ。

 爆発に巻き込まれ、至る所から血を流しているが致命傷には程遠い。

 ただし、動きは止まった。

「―――――ッッ!!」

 ダイダロス通りでシルバーバックと戦った時と同じように、全力で地面を蹴りつける。

 両手でショートソードを構えての突撃。加速はあの時の比じゃない。

 ただし、敵の強さもあの時の比ではない。

 

 突撃槍(ペネトレイション)

 出し惜しみはしない。ありったけをただその一瞬にだけ注ぎ込む。

 

 そして。

 放たれたその一撃は確かに分厚い毛皮を貫き、その奥の魔石まで届いた――…

 

 ――…

 

「しかし、この魔石をどうしたものか……」

 クオンが回収してきた魔石……原始の闇をそのまま凍てつかせたかのような、その暗い魔石を前にして呻く。

 今は安定しているが、それでも通常の魔石と違い、奇妙な気配がする。

 少なくとも、神々が小さく悲鳴を上げる程度には。

「まさか、売り払う訳にはいかないな」

 当たり前のことを呟く。

 

『深淵を発生させる装置くらいは作れるかもしれないな』

 

 などと、クオンの奴は言っていたが……多分、あれは冗談ではない。

 目的が何であれ、下手に弄れば結果としてそうなる。

(となれば、砕いて終わりともいかないだろう)

 というより、砕いた時点で深淵が発生しかねない。

 つまり、倉庫の奥深くにしまい込んでおしまい――と、いう訳にもいかないわけだ。

 ついうっかり誰かが蹴飛ばした途端オラリオが……最悪は世界が滅びる――と、そんなのは笑い話にもならない。

(安全を期すなら、祈祷の間に安置しておくのが一番だろうが……)

 しかし、そんなことをすればウラノスが尋常ならざる心的負担を負う事になる。

 あの老神にこれ以上の心労をかけるのは憚られた。

(ならば、私の隠れ家か……)

 隠れ家は、そろそろ私自身の居場所すら圧迫するほど者が増えてきた。

 下手に置いておけば、その世界を滅ぼす『うっかり』を私自身がやりかねない。

(やはり、どこか別に魔工房(アトリエ)を用意しなくてはならないな……)

 もっとも、生憎とこの体だ。

 通常の物件に、通常の手続きを踏んで入居するのはかなり難しい。

 手頃な廃墟を見つけ、書類上の手続きだけで終わらせなくてはならない。

 ……しかし、仮に見つけたとして。私の私物には魔力を帯びた代物がいくらでもある。

 お互いに干渉しあって妙なことにならないという保証はない。

 となると、やはり――…

(素直に専門の保管庫を用意するしかないか)

 折しも闇派閥(イヴィルス)残党が……そして、エニュオなる謎の存在が暗躍している。

 さすがに、すでにそちらに毒された職員がいるとは考えたくないが、先日の『神罰同盟』のような場合もあり得た。

 適当な空き部屋に保管庫の看板をぶら下げるだけでは意味がない。

 必要なのは、相応の強度を持った本物の『保管庫』だ。

 今なら、ロイマンも予算を惜しまず動き出すだろう。

 だが、それでも数日で作れるようなものではないし、作れるようなものでは意味がない。

 場所を確保し、信頼できる業者を選び、素材を吟味し……もちろん、そこには予算の問題が絡んでくる。工事が始まるのはその後だ。

 一ヶ月や二ヶ月など、すぐにでも過ぎてしまうだろう。

 その間、この危険物をどうするか。

(本当なら、あいつに押し付けてしまうのが一番いいのだがな)

 クオンの持っている『底のない木箱』なる魔道具(マジックアイテム)に封印してもらう。

 それが、思いつく限り最善の手段だが……。

(しかし、その場合は偽物(ダミー)を用意しなくては)

 ギルドが回収したのは周知の事実だ。

 そして、都市運営を担っている者として、適切に保管管理する義務がある。

 あいつに預けるのが一番安全だとして……肝心のクオン自身を危険視する者が多いというのが現実だった。

 せめて、ギルドが保管しているという名目だけでも立つようにしておかなくては。

(しかし、魔石に深淵が宿るとは……)

 発生した深淵は消えたのではなく、ここに封じ込められているのではないか。

 一度発生した深淵が、あれほどあっけなく消滅することなど本来ならあり得ない。

 カルラという魔導士はそんなことを言った。

 もちろん、彼女もクオンと共に第三次調査隊に組み込まれている。

 従って、言葉を交わした時間は決して長くはない。

 クオンとウラノスがギルドで帰還報告を交わしている間のことだ。

 

『この魔石というものについて、生憎と私は詳しくなくてね。まだ確かなことは何も言えないが……』

 

 しかし、モンスターは――あるいは、ダンジョンそのものが深淵の影響を受けることは間違いない。

 深淵種という新たな『種』すら生み出すほどに。

(魔石は、深淵を宿せる?)

 それが何を意味するのか。

 分からない。深淵という存在に対する知識が圧倒的に不足している。

(しかし、『深淵の主』はダンジョンが生み出したものではないだろう?)

 それなら、ダンジョンと深淵が対立している理由が分からない。

 とはいえ、原形はインファント・ドラゴン。つまり、ダンジョンより生まれたモンスターだ。

(これは一体……?)

 何となくすっきりとしない。

 だが、根本的な問題として、その深淵というものに対して知識が足りない。

(やはり、彼女とは互いの知識を交換しなくてはならん)

 それ自体は、吝かではない。むしろ、願ってもないことだ。

 彼女達の魔法――いや、魔術は誰でも習得可能な技術であり、何人もの先人によって磨き抜かれてきた学問だ。

 そこにあるのは探究の歴史。積み重ねられた叡智の結晶と言っていい。

 私とて、かつて『賢者』などと呼ばれていた身。純粋に好奇心が刺激される。されないはずがない。

(いけないな。平常心を保たねば)

 その叡智は、容易く狂気へと導く呪いでもある。挑むのであれば、それに対する畏れを失ってはならない。

 もはや人とは言えないが……だからこそ、これ以上の呪いを身に宿すつもりはない。

 それに、今は深淵への対応こそが最優先事項だ。

 情報交換はクオン達が帰還してから。それまでに、冷静さを取り戻しておかなくては。

 私個人としても、彼らと敵対するような事態は避けたいところだ。

(……私の場合は単なる自業自得だがね)

 それでも、折角出会えた同胞のような存在なのだから。

「ああ、しかし、だとするなら……」

 ひょっとして、他の魔石にも影響が出ていたりするのだろうか。

 だとするなら、しばらくの間、鑑定士たちには過酷が待っているだろう。

 問題なしと判断されるまで、持ち込まれる全ての魔石の安全確認をする必要がある。

 少なくとも、第三次調査隊が持ち帰ってくる……あの【猛者(おうじゃ)】をして、異常発生と言わしめるほどのモンスター達が遺す魔石の全てを。

(……いや、まぁ、多分、私も巻き込まれるだろうが。その鑑定作業に)

 待ち受ける過酷を前に、もうないはずの胃がキリキリと痛み出した。

 

 ――…

 

 一四階層。深淵が広がっていたその広間も、今やすっかり修復されていた。

 もっとも、完全に元通りとは言い難い。

 それに気づいたのは偶然だった。

「これは魔石……? お前が持ち帰ったあの漆黒の魔石か?」

 僅かに煌めいた地面を、短刀で軽く削ってやるとそれが姿を見せた。

「ああ。確かに似ているな」

 シャクティの言葉に、小さく頷いた。

「しかし、何故()()()()が埋まっている?」

 鉱石の類と同じように、そこには魔石の塊が埋まっているようだった。

 まぁ、モンスターを生み出すダンジョンが、魔石を生み出したところで驚くことはないだろう。

 しかし――…

(これは、どちらかというと……)

 魔石というよりも、『楔石』……正確には『闇の貴石』にどこか似ている。

(主なき人間性に宿るもの、か……)

 それが本当かはよく分からないが……いずれにせよ、変質した楔石の一種ということは確かだ。

 さしあたり、楔石と人間性が結びついた代物といったところか。

 何が原因でそれが起こるのかまでは分からないが。

(もしかして、深淵を魔石に押し付けた?)

 仮にそういう事が可能なのだとするなら――…

(呪いを逸らすには、人ないし人であったものでなければならない……)

 その条件に、魔石が合致するとでも?

 いや、極彩色の魔石という存在もある。あれは間違いなく何かしらの影響を受けた結果だ。

 あれが精霊……つまり神の力の影響だと仮定して。

 一方で深淵……人間の力にまで影響まで受けるとは。

(純粋なソウルと同じようなものなのか?)

 ソウルとは人にも神にも同じように宿るものだ。

 グウィン、イザリス、ニトたちのソウルは、炎のような輝きを宿していた。

 一方、マヌスやゲールのソウルは黒く変質していた。

 それと同じか。あるいは――…

(火でも闇でもないもの)

 それ故に、どちらにでもなれる。どちらをも取り込み、どちらにも溶け込める。

 魔石ないしダンジョンとはそういうものなのだろうか。

(ダンジョンか……。そういや、神どもは千年前から何か企んでるんだよな)

 あるいはもっと前――『古代』と呼ばれている時代からか。

 いずれにせよ、それに関してはウラノスやガネーシャまでが言葉を濁すばかりだ。

 誓約がどうこう言っているが……いずれにしても、この大穴は神どもが何かやらかした結果生まれたものだと思っていたのだが。

 しかし、そのダンジョンに深淵――人間性(ダークソウル)が宿るとなると、話はまたややこしくなる。

 というよりも、昔から『王のソウル』と『闇のソウル』が混ざってろくなことになった試しがない。

出所(でどころ)は同じ癖にな)

 しかし、実際には不死人なんて中途半端な存在を……あるいは、それ以上によく分からない代物すら生み出す始末だ。

 いや、それはともかくとして――…

(こいつは、()()()()()()()()について、どうにかして情報を得ないとマズいな……)

 例によって、何が起こっているのかさっぱりだった。

 この状況で、ひとまず奴らに従って最下層を目指す――と、いう気にはならない。

(それじゃロードランでの火継ぎと同じだからな)

 げんなりとしながら呻く。

 だが、力ずくでウラノス達の口を割らせるのも現実的とは言い難い。

 締め上げたところで本当のことを言うとは限らないし、今の時点であいつらと敵対するのはただの愚行だ。

 そもそも、本当に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を把握しているかどうか。

 少なくとも、俺達『火の時代』の亡霊が介入してくることは想定していなかったはずだ。

 奴らの計画は、例によって既に狂い始めていると見ていい。

(ったく、全知全能を謳うなら、もう少し頑張れよな)

 いや、頑張った結果こそが『火継ぎの儀』だと言えるのか。

 それなら、今のままでちょうどいいのかもしれない。

「どうする。採掘しておくか?」

 いずれにせよ、この魔石擬きだか貴石擬きだかを持ち帰って調べた方が良いだろう。

 ……ただ、案外大きそうだ。掘り出すには少々手間がかかる。

「当然だ。今は少しでも情報が欲しい」

 問いかけると、シャクティが頷いた。

 なら、是非もない。彼女が言う通り、思わぬ手掛かりになるかもしれないわけだし。

 フェルズ辺りは苦労するかもしれないが……

(こういう訳が分からない代物は、あいつの担当だ)

 この際だ。全て丸投げしてしまおう。

 あれこれスペルは使えるが、基本的に使えるだけだ。弄り回したり研究した経験はほぼない。

「悪い、ソラール。ちょっと手伝ってくれ」

 フェルズには悪いが……まぁ、餅は餅屋という言葉もある。

 ここは諦めて頑張ってもらうとしよう。

「ああ、任せておけ!」

 頷くソラールに愛用のつるはしを一本渡す。

(ああ、だが……これが『闇の貴石』のようなものなら、何かの役に立つかもしれないな)

 可能性の問題だが……もし使えるなら、能力的な不利を補えるかもしれない。

 ……深淵絡みのこれを加工できる鍛冶師がこの時代にいるかどうかという問題もあるが。

(ヘファイストスは無理だな)

 悲鳴を上げるだけでは済むまい。

 とはいえ……生憎と他に良い鍛冶師を知らないのだが。

(ああ、いや。……何て言ったっけ。ヘファイストスの商売敵)

 もっとも、そちらも神であることに変わりはない。なら、結果は同じか。

(ま、いいか。地上に戻ってからゆっくり考えるとしようか)

 具体的には、オレックの爺さんにでも相談してみるとしよう。 

 

 ……多分、フェルズはそれどころじゃなくなるだろうし。

 

 

 

 ……そう。

 ダンジョンはただ深淵に飲みこまれるだけの存在ではない。

 この先どのような事が起こるかはともかく……少なくとも、今の時点では拮抗していると言っていい。

 だからこそ、ダンジョンにとっても『深淵』は野放しにはできないものだった。

 長年かけて少しずつ適応してきたとはいえ、まだ異物であることに変わりはない。

 まして、ここは『神の枷』の力が強い領域。影響は深刻だ。

 ……もっとも、今科せられている『枷』は、この千年科せられてきたものより少しだけ融通が利く。

 お陰で、異物が生み出した『要』の消滅に合わせて大部分は吐き出した。

 ――が、それでも充分とはいかない。まだ無視できない程度には残っている。

 

 だからこそ。

 今は偶然に生まれた、その『強化種』を……正確には、その体内にある『魔石』を無駄にすることはできなかった。

 ……おそらく、今のそれにならまだ燻るこの異物を逸らせるはずなのだから。

 

「ベル、離れろッ!?」

 ヴェルフの叫びに、とっさに飛び退く。

 同時、暗い靄――いや、『闇』がその『強化種』を取り巻いた。

 ショートソードを引き抜こうとしていたなら、僕もその『闇』に巻き込まれていただろう。

 いや、そもそも引き抜く必要がある時点でおかしい。

「なん、で?! 魔石は砕いたはず……!?」

 確かに砕いた。その手ごたえは、まだ手に残ってる。

 なら、何で灰にならない。どうして、こんな妙な力を――…

「え?」

 まったく訳が分からない。

 理解を超えた現象に戦慄していると、リリが小さく呟いた。

 それに応じるように、突如として天井が崩落。降り注ぐ大量の瓦礫が、その『強化種』を直撃した。

「助かった……?」

 思わぬ事態に、つい気の抜けた声が漏れる。

 もちろん、そんなはずがない。ここはダンジョンだ。こんな幸運はあり得ない。

 なら、一体何が……。

「いや、違うぞ……。何だ、何が起こってる?」

 降り注いだ瓦礫が、そのまま結合していく。

 ダンジョンの自己修復と同じ光景だった。

 あの『強化種』を封じ込めるように、そこに巨大な岩塊が生まれつつある。

「もしかして、あれは蛹のようなものなのでは……?」

 まだ残っている微かな隙間から、紫紺の輝きがこぼれ出ている。

 あの中で、何かが起こっている。明らかに異常事態(イレギュラー)だ。

 それも、エイナさんからも教わっていない……いや。もしかしたら、エイナさん自身も知らないような。

「ベル様……ッ!」

「分かってる! 行こう!!」

 階層主が産出される前に一七階層を突破しなくてはならない――と。

 それはとても重要なことだったけど……今は、このよく分からない何かから少しでも遠ざかりたかった。

「クソッ……。頼むから、大人しくしててくれよ、モンスターども」

 脂汗を滲ませながら、ヴェルフが呟いた。

 痛めた脚での戦闘は、間違いなく傷を悪化させている。

「いや、いい。それより迎撃を優先してくれ」

 肩を貸すために近づくと、ヴェルフが首を横に振った。

「今襲われるのはマズい」

 奥歯を噛み締めながら、それでもヴェルフは走る速さを落とさない。

 その少し後ろで、リリも息を切らせながら頷いた。

「……ええ。階層主の事もありますが、あの奇妙な『強化種』から少しでも離れなくては……っ!」

 ダンジョンで異常を見かけたらすぐにその場から離れる――と。それが、多くの場合の定石(セオリー)だという。

 冒険者は冒険してはいけないというエイナさんの教えにも通じる。

 何より、今の僕達にとっては、それ以外の選択肢なんてあり得ない。

(マズい。絶対にマズい……ッ!)

 悪寒が止まらない。背中を伝う汗が、酷く冷たい。

 あの『強化種』はもちろんそうだけど、あの『闇』はそれ以上に危険だった。

 あれが何だかは分からない。でも、あれに触れてはいけない。飲み込まれたなら、もう戻ってこれない――!

(縦穴……! 縦穴はどこだ……ッ?)

 本当に見つからない。あと一つ降りれば、一七階層だっていうのに。

 今なら足元がまた崩れ落ちても許せる気分だった。

 

 ……そして。

 その時、確かに()()()()()()()()()を聞いた。

 

「―――――っっ!?」

 この決死行が始まって最大の悪寒が、背筋を舐め上げた。

 幻聴だ。そんなものは単なる幻聴でしかない。だって、あの岩塊からはもうずいぶんと離れている。

 だから、ここまで音が聞こえるはずがない。

 

 ……例え()()()()()()()()()()()としてもだ。

 

「走って―――!」

 それは、無茶な注文だった。

 仮にもLv.2となった僕も、すでに体力が底を打ちつつある。その自覚がある。

 でも、それでも、言わざるを得ない。

(早く、一八階層に辿り着かないと……!)

 それに追いつかれる前に。

「ギィイイイイィィィイイィ――――!!」

 しかし、無情にもダンジョンに新たなる災悪の産声が響き渡った。

「今度は何だってんだ?」

「知りません! 少なくともろくでもないことです!」

「ふざけろ……!」

 不気味な産声を背に、お互いに引きずり合うようにして逃げ出す。

 その間にも、悪寒は酷くなるばかりだ。

(追ってくる……ッ!)

 追跡者の気配が……死神の足音がすぐそこまで迫っている。

(ダメだ!)

 振り切れない。もうすぐにでも追いつかれる。その確信が、背筋を貫く。

 こんな時、あの人達なら一体どうする。

 ……考えるまでもないことだ。

「ファイアボルトッッ!!」

 加速に逆らって、強引に体を反転。そのまま砲声をあげた。

 虚空を斬り裂く炎雷が、不自然に拡散する。何かに直撃した証拠だ。

 先手はとったが、致命傷ではない。それどころか、痛痒を与えられたかどうか。

「おいおい、何だってんだあれは……」

 襲ってきたのは、さっきの『強化種』……アルミラージだったはずのものだ。

 でも、もう原形の面影を探す方が難しい。

「まさか、魔石……?」

 紫紺……いや、紫黒(しこく)の結晶が体中に生えている。

 まるで鎧のようだ。

「おい、リリスケ。魔石の塊だ。倒せば大儲けだぞ」

「もちろん、喜びますよ。無事に倒せたなら」

 交わされるいつもの軽口すら、乾ききっていた。

 赤い瞳が……今や、唯一と言っていいほど白兎(アルミラージ)の痕跡が、薄闇の向こうで燃え上がる。

(来る……ッ!)

 その言葉と、紫黒の輝きが爆ぜるのはほぼ同時だった。

「がぁ……ッッ?!」

 そして、反応は圧倒的に遅れた。

 直撃――いや、まだ生きているのだから、そうとは言い難いが。

 それでも、あっけなく意識が砕け散りそうになった。

「ベル様――!?」

「よそ見するな、死ぬぞ!」

 その意識を、仲間の声が繋ぎとめる。

 ここで倒れるわけにはいかない。

 苦い血を吐き捨て、体を地面から引き剥がす。

 体が悲鳴を上げる。だが、まだ()()()()()()

 なら、それで充分だ。

「ぉおおお…おおおおっっ!!」

 途切れかけた咆哮を、強引に繋げなおして疾走する。 

 だから、辛うじて間に合った。

「危ねぇ?!」

 加速のままに、ヴェルフを突きとばす。

 そこに紫黒の塊が激突するのはほとんど同時だった。

「クソッ。どこに跳んでくるか分からねぇ……!」

 敵は自分の速さと力に完全に振り回されている。

 突進しては、壁や天井に激突。そこでやっと方向転換をする。そんな有様だ。 

「気にすることはありません。分かっても、多分リリ達では避けられませんから」

 ただ、その速さも力も圧倒的だ。

 僕自身も、紫黒の残光を追いかけるだけで精いっぱい。

 そして――…

「そして、ついうっかりでも当たってしまえばそこまでです……!」

 リリの言う通りだ。

 間違っても『中層』にいていいモンスターじゃない。

 Lv.2程度ではまったく成す術がなかった。

 攻撃が通じるかどうか以前に、攻撃をしようにもその速さに追いつけない。

 それは、撤退も不可能だという意味でもある。

 背中を向ければ、そのまま轢殺されるのは間違いない。

 だからといって、いつまでも避け続けていられるわけがない。

 先に息が上がるのは僕達だ。

 撃破も撤退も不可能。つまり――…

(いいや、まだだ)

 神様のナイフを握りしめる。

(状況は、変わっちゃいない……!)

 一撃喰らった。でも、まだ生きている。まだ()()()()()

 それが意味することは、たった一つだった。

 相変わらず、この『強化種』は自分の力に振り回されている。

 いや、新たな力を得た結果、さらに悪化したと言っていい。

 あの距離で狙いを外すなんて、よっぽどのことだ。振り回されているどころか、まるっきり制御できていない。

 だから、活路はそこにある。

(動きをよく見ろ!)

 制御できていないとしても、本当にでたらめに飛び回っているわけでもない。

 少なくとも、あの『強化種』自身は僕達を狙って攻撃を仕掛けてきている。

 でも、細かな制御ができないせいで攻撃は酷く直線的だ。

 なら、攻撃の初動。その瞬間に込められる意図。それさえ見落とさなければ、実際の動きは見えなくたって何とか避けられる。

「Lv.1に無茶を言ってくれるぜ……!」

「それができたなら、リリもサポーターを卒業ですね……!」

 自分に言い聞かせていたつもりだったけど……どうやら、声になっていたらしい。

 ヴェルフとリリの軽口を引き裂くように、紫黒の輝きが奔る。

 狙いは――…

「リリ、左!!」

 弾かれたようにリリが飛び退き、紫黒の塊がそこに激突する。

「ファイアボルト!」

 激突する先が分かるなら、魔法で狙える。

 ――と。そんな簡単な話ではなかった。

(速い!?)

 誰よりも早いはずの炎雷は、しかし直撃しなかった。

 魔石――鎧のような結晶の表面をいくらか焼いたかもしれないが、まともな傷一つ負わせられない。

「あの魔石、丈夫すぎるだろ。素直に砕けて灰になれって……」

 ヴェルフの言う通りだ。だけど――…

(魔石なら、もう砕いたはずだ……)

 あの時――あの不自然すぎる崩落が起こる前に、確かに砕いた。

 なのに、この『強化種』はまだ生きている。

(『強化種』ってこういうものなのか?)

 いや、そんなはずがない。

『こればかりは、どこで遭遇するか分からないから』

 と、エイナさんからも『強化種』については、ある程度教わっている。

 魔石が砕かれても平気なんて危険な特性があるなら、真っ先に教えてくれるはずだ。

 でも、聞いたことがない。

(やっぱり、こいつはただの『強化種』じゃない)

 もっとも、今はこいつの正体が何かなんてどうでもいいことだった。

 そんなことよりも、この過酷をどうやって乗り越えるか。考えなくちゃいけないのはそれだけだ。

「ベル様……!!」

 思考の海に沈む直前、リリの悲鳴が聞こえた。

 反射的に視線を巡らせる。それが危険な行為だとは分かっていたけど……。

「嘘だろ……」

 近づいてくるのは、大石斧を手にしたミノタウロス。

 しかも、三匹もいる。

 どうやら、ダンジョンは意地でも僕達を嬲り殺しにしたいらしい。

 ……もっとも、ミノタウロスは本来この階層こそが住処なのだから、文句を言うほうが筋違いかもしれないけど。

 

『いいか、ベル。敵を利用するってのも一つの手だぞ』

 鈍化する時間の流れの中で、クオンさんの言葉が蘇る。

 

『例えば、ブレスのような広域攻撃だ。うまく立ち回って巻き込めば、自分が消耗することなく敵を減らせる』

 そのまま相討ちに持ち込めるなら理想だがな――なんて、聞いた時は正直ちょっと狡いんじゃないかと思ったりしたけど。

 それでも、仲間の命には代えられない。

 迷いと呼ぶには短すぎる思考の末に、決断した。

「ファイアボルト!」

 なけなしの精神力(マインド)を注ぎこみ、幾度目かの砲声を上げる。

 狙いはもちろん、あの『強化種』。

(掠めるだけで良い……ッ!)

 注意さえ僕に向けられるなら、今はそれで充分だった。

「ギイィ!!」

 そうだ。それでいい。

(そのまま飛び掛かってこい……!)

 背後に迫るミノタウロス達の殺気を無視して、ただその『強化種』の動きを読むことにだけ専念する。

 機会(チャンス)は一回。間違っても咆哮(ハウル)など使わせるわけにはいかない。

「ベルさ――」

 そして、紫黒の破壊が吹き荒れる。

「くッ……!」

 反応が遅れた。狙いすぎたせいだ……が、幸い左肩の装甲を持っていかれるだけで済んだ。

 しびれる左腕は無視して――多分、骨は無事だ――振り向く。

(よし!)

 紫黒の塊は、容易くミノタウロスの一体を轢殺し、残った二体……仲間を殺され怒り狂ったミノタウロスと乱闘を始める。

 このまま相討ちを――と、それはとても望めそうにないけど。

「おいおい、ミノタウロスといえば『中層』の看板モンスターだろうが……」

 完全に上がった息を何とか整えながら、ヴェルフが呻く。

 逃げる時間はない。精々、呼吸を整えるくらいの時間があるかどうか。

 二体のミノタウロスが息絶えるまでに、だ。

 いや、そうでなくとも背中など向けられない。向けた瞬間、間違いなく轢殺される。

「あり得ません! あんな、あんなモンスターが『中層』にいるなんて……!」

「だから『強化種』なんだろうよ……」

「それでもです! あんな『強化種』なんて聞いたことが……!」

 でたらめな動きでも、ミノタウロスを圧倒できる。

 どう考えても『下層』級……いや、最悪は『深層』級。

 もし、自分の力を使いこなせるようになったなら、その時が僕達の最期だ。

 いや、その前に――…

「ファイアボルト!」

 これ以上、少しだって魔石を喰わせるわけにはいかない。

 ミノタウロスの死体を狙い、魔法を放つ。

 一撃ですべて砕けるとは思えないけど……捕食する隙を奪うくらいはできるはずだ。

「ベル様!? ダメです――…」

 同時、逃走経路を予測して走る。

(よし!)

 やはり、この『強化種』は経験が圧倒的に足りない。『技と駆け引き』なら負けることはない。

 読み通りの場所に飛び込んでくる姿に、改めて確信した。

 活路があるとするなら、やはり近接戦。それ以外にはない。

 例え、一度でも直撃すれば即死という綱渡りすぎる状況だとしてもだ。

()()()()()()()()

 それがどうした。そんな戦いは、あの朝日が差し込む市壁の上で、いくらでも経験してきた。

(相手の動きにはついて行けない)

 ありったけの速さを費やしても、追いきれない。

 それなら、どうする。足りない頭を必死に巡らせる。

(狙えるとしたら、相手が動きを止める一瞬)

 それはいつか? 決まっている。

 攻撃後の硬直だ。体勢を入れ替え、狙いを定めるその瞬間だけだ唯一の好機(チャンス)

 ただ――…

(硬い……!)

 体表を覆う紫黒の魔石は、酷く硬かった。

 さっきまでの毛皮と違って、まるで金属か……酷く固い硝子でも斬りつけているような気分だった。

 ただでさえ当てづらいというのに、下手に当てると今度はそのまま刃が滑りそうになる。

(でも、確かに削れている……!)

 ダンジョンの中を、煌めく光の粉が舞い踊る。

 攻撃は、例え僅かでも効いている。なら、やることは何も変わらない。

 ただ――…

(体力が……)

 下手に攻撃の手を緩めては、リリ達が狙われる。

 それを避けるためにも、自分より早い敵を常に追い回さなくてはならない。

 体力の温存など、初めから不可能だった。

 何よりここまでの疲労と、何よりこの『強化種』から受けた攻撃が体を深刻に蝕んでいる。

 しかし、ここで逃げるという選択肢はない。

 だから――…

「うぉおおおぉぉぉおおッッ!!」

 今すぐにでも自壊が始まる。これ以上は戦えない。

 そんな体の悲鳴を無視し、代わりにさらなる加速を命じた。

 

 

 

「『中層』とは、これほどに早くモンスターが生まれるのか……?」

 ようやく途切れたモンスターの襲撃。

 おそらく、さほど長くはならない休息の中で、桜花さんが血の混じった汗を拭う。

「確かに、『中層』は『上層』よりもモンスターの産出が早いですが……」

 私もまた、再び乱れかけた呼吸を整えながら答える。

「おそらく、これも異常事態(イレギュラー)の影響でしょう」

 第二次調査隊――シャクティやクオンさんのみならず、【猛者(おうじゃ)】や【凶狼(ヴァナルガンド)】までが参戦している――が、撤退を選択するほどの数が出現したと聞く。

 実際には時間や体力の消費を嫌い強行突破したようだが……それでも、伊達にモンスターの異常発生などと言われているわけではないらしい。

 先ほどから行く手を遮っているのはその残党といったところか。産出される数そのものは通常に戻っているように思える。

 少なくとも、怪物の宴(モンスター・パーティ)のような大発生とは今のところ遭遇していない。

「それに、どうやら第三次調査隊の先行隊を追い抜いてしまったらしい」

 意図して距離を保っていたため、確信はないが……今の一五階層には、どうにも同業者の気配を感じない。

 もちろん、『中層』に進出できる冒険者自体が少ないのは百も承知だが……。

(あちらも、何か別の異常事態(イレギュラー)に対応しているという事か……)

 どちらかと言えば、その可能性を疑った方が良い。

 いつになくギルドの動きが機敏……つまり、あのエルフの恥が、まともに働きだす程度には厄介な状況なのだから。

 そんな中で、先行隊を追い抜いてしまったのが痛い。

 侵攻速度を上げると宣言し、神ヘスティアとアンジェリックさんも必死についてきてくれているが……それでも、速度はむしろ遅くなってしまっている。

 理由は簡単だ。モンスターの襲撃を立て続けに受けている。その影響だ。

「お二人は無事ですか?」

 ため息を飲み込んでから、問いかけた。

「う、うん。君たちのお陰で、今のところ無事だよ」

「ええ、私も同じよ」

 神ヘスティアもアンジェリックさんも、ひとまず傷を負ってはいないらしい。

 安堵してから、【タケミカヅチ・ファミリア】の奮闘を賞賛する。

 冒険者ならかすり傷で済むようなことでも、彼女達にとっては重傷を負う事になりかねない。

「い、今さらだけど。本当に大丈夫なのかしら? そりゃ、一四階層は通り過ぎたけど……」

 そんな中で、ふとアンジェリックさんが呟いた。

「クオンさんが対応済みですから、おそらく」

「そう? あいつ、あれで結構いい加減なところがあるんだけど……」

 それは別段驚きもしませんが。

 ただ、こういう状況では驚くほど慎重だとも思う。

 彼が殺したというなら、本当に殺したと考えていい。

「残党が残っているのは確かでしょう」

 しかし。それはそれとして、警戒は必須だった。

「でなければ、事後処理にこれほどの人員が動員されるはずがない」

 オラリオの歴史を見ても、これほど大規模な冒険者依頼(クエスト)は稀なのだから。

 まして、【猛者(おうじゃ)】……いや、【フレイア・ファミリア】の精鋭が揃って参戦している。

「まだ呪術師(ヘクサー)の一部が残っていると?」

 元凶はいないにしても、残滓は残っていると考えた方が良い。

「そこまでは何とも。ただ、仮に残っているならこの厳戒態勢も納得がいきます」

 もっとも、奇妙だというなら、魔石を変質させるほどの呪術師(ヘクサー)が今まで埋もれていたこと自体が奇妙な話だ。

 あの暗黒期の動乱ですら、まったく噂にならなかった。

(かなりの暗部にまで踏み込んでいたつもりでしたが……)

 この数年の間に台頭してきたのか。それとも、単に私の自惚れだったのか。

「ならば、俺達が遭遇する可能性もあるというわけか」

「警戒して損はないでしょう」

 雑念を振り払って言葉を続ける。

「決して油断はできません。ですが、【戦場の聖女(デア・セイント)】がすでに把握しています」

 警戒は必要だが、そこまで悲観した物でもない。

 彼女ほどの治療師(ヒーラー)もまた、この千年を見てもごく僅かだ。

「あれから三日。あるいはすでに解呪法を確立させているかも――…」

 今すぐとはいかないまでも、近いうちに解決する問題だ。

「いや、それは不可能だ」

 と、その考えをアンジェさんが否定した。

「その何某というのが、どれほどの力量かは知らないが。それでも、深淵には抗えない」

「深淵という呪詛(カーズ)を知っているのですか?」

 それなりに情報を集めたつもりだが、結局詳細は不明のままだ。

 私だけではなく、ギルドまでもが同じらしい。

「そのものではないがな」

 吐き捨てられたその言葉こそ、まるで呪詛のようだった。

(ああ、なるほど)

 見ず知らずの彼女相手に、奇妙な共感を覚えていた理由。

 それをようやく理解した。

「あの人喰らいどもが拝んでいたものと同じような代物だ」

 彼女は、復讐者だ。今も瞋恚の炎に身を焼かれている。

 その暗い輝きに。底冷えするような熱に。私自身が勝手に呼応しているだけだ。

「いずれにしても、その呪いに対して人は無力だ。精々逸らす事ができるかどうか……」

 嘆息する暇もなく、彼女は言葉を続けていた。

「逸らす?」

「そうだ。そして、逸らせるとしたらそれは人か、人であった何かだろう」

「人であった何か……」

 何とも不吉な響きだった。

「しかし、そのクオンとは何者だ? そもそも深淵に立ち入る自体がそう容易いことではない」

「そうなのですか?」

「ああ。まさか【深淵歩き】アルトリウスでもあるまいし」

「アルトリウス……?」

 それは、『古代』における大英雄にして大逆者。旧バベル――旧オラリオを建設した【狼騎士】の名だが……。

「古いお伽噺だ。かつてとある国に深淵が発生した時、その元凶たる魔物から最後の王女を救い出したとされる神々の英雄」

 私が育ったあの聖堂は、古臭い書物だけは多く持っていた――と、彼女は小さく苦笑する。

「魔物から姫を救ったその騎士は、人知れず去っていった。まぁ、よくある話といえばそれまでだがな」

 私もあまり英雄譚には明るくないものの……そういった物語なら、いくつか思い浮かぶ。

 しかし、アルトリウスという名は一種の禁忌と言っていい。

 実際に、完全な形で残っている彼の逸話は存在しない。正確には、彼自身の逸話は残っていない。

 それほどに徹底して消されているのだ。間違っても『神の英雄』などと称されるはずがなかった。

「だが、まったくのお伽噺とも思えん。深淵による災いは、その後も幾度となく起こっている」

「その時はどのように?」

「場所や時代にもよるが、ファランの者たちの活躍を耳にすることが多いな」

「ファラン?」

「かの英雄の後継者……。少なくとも、そうならんとする者たちだと聞く」

 私も詳しいわけではないが、とアンジェさんが小さく付け足した。

「クオンさんも、その一員なのでしょうか?」

「それは分からん。その男とも面識がないからな」

 だが、と彼女は言葉を続けた。

「奴らにしては、やり方が手緩い」

「かなり異例尽くしの冒険者依頼(クエスト)ですが……」

 創設神ウラノスが人前に姿を見せること自体が異例の事態だと言える。

 少なくとも、私が知る限りでは初めての事だ。

「方向性の違いだ。ファランの者たちなら、この街ごと焼いていてもおかしくない」

 ……クオンさんがその気になれば、やりかねないようにも思うが。

「街を焼くだと……」

 呪詛のように、桜花さんが呻いた。

 彼だけではない。ヤマトさんや、ヒタチさんまでが怒りを滲ませている。

 ……いや、それともこれは嫌悪だろうか。あるいは、恐怖かもしれない。

 もちろん、私とてあまりいい気分ではない。

 ただ、そこまでしなければならないほどの脅威だ――と、それだけは心に止めておく必要がある。

 もっとも、今さらといえば今さらだが。

「ああ。だから、彼らは英雄の後継者でありながら忌み嫌われている」

 ……それだけが理由ではないだろうがな――と。

 そんなことを呟いてから、

「もっとも、この洞窟……ダンジョンと言ったか。ここも奇妙な場所だ。単に攻めあぐねているという可能性もあるか」

 壁から生き物が生まれるとは、何とも不気味な話だ。

 彼女の呟きは、駆け出しの――まだ本当に慣れていない冒険者が時々口にする言葉そのものだった。

(彼女は一体……)

 私達の知らない知識を持ち、私達にとって常識ともいえる知識に疎い。

 オラリオに来たばかりの異邦人――いや、それにしても何か大きな隔たりがあるように感じられる。

「不死隊は頭頂が尖った独特の兜を愛用すると聞くが、その男はどうだ?」

「いえ、そういった格好をしているのは見た事がありません」

 もっとも、あの人の『スキル』を考えれば、見た事がないからと言って安心はできないが。

「なら、武器はどうだ?」

「大剣……クレイモアをよく使っているようですね。それ以外にも色々と」

 それこそ、Lv.5をおたまで返り討ちにしたこともある。

 ……いや、あれは本当におたまだったのだろうか。その形をした魔剣と言われた方がまだ納得がいく。

(いえ、そんな奇天烈な鍛冶師(スミス)がいるとは思えませんが……)

 ……鍛冶師(スミス)には変わり者が多いらしい――と。そんな噂など、私は知らない。

 試し斬りを繰り返した結果、Lv.5に至った最上級鍛冶師(マスター・スミス)がいるなんて、そんな話は聞いたこともない。

「ならば、やはりファランとは無関係だろう」

 彼女が、あっさりと肩をすくめてから。

「深淵を知っていてなおこれとは……誰だか知らないが、随分と甘い男のようだな」

 などと、オラリオの住人が聞いたら目を剥くようなことを呟いた。

 実際に桜花さんたちは驚愕の表情を浮かべている。

「各々方、警戒を!」

 そんな中で、ヤマトさんが鋭い声を上げた。

「前方、数は一三。『ダンジョン・ワーム』です!」

 全員が身構える中、彼女はさらに続けた。

「そして、速い! 先ほどよりもずっと! 散開して――…」

 つまり、『深淵種』と見るべきか。

(特異な存在だという割には、遭遇する数が多い)

 もっとも、文句を言っても始まらない。

 そして、文句を言っている暇もなかった。

「来ます!」

 その叫びと共に、上下左右全ての方向から黒く湿り一層醜悪となった蚯蚓が飛び出してきた。

(やはり『深淵種』!)

 初撃は全て凌いだ――が、厄介だった。

 穿孔する速さが違う。

 さらに、暗い湿りは刃を滑らせ、蚯蚓のように柔らかな体は打撃を吸収する。

 加えて、千切れた部位も、蚯蚓と同じくまだ蠢いていた。

 結局、初撃で仕留められた個体は、一体いるかどうか。

「円陣を! 中央には神ヘスティアとアンジェリックさん。ヤマトさんも中央で索敵に専念しなさい!」

 指示を出しながら武器を小太刀に持ち替える。

 この方が手数を増やせる。それに、この相手なら刃の方が有効だ。

「任せろ!」

「承知!」

「はい!」

 打てば響くこの感触は、何とも頼もしい。

 彼らはいずれ、一角の冒険者となるだろう。

 ……もちろん、この先も生き残ることができれば、だが。

(さて、どうするか)

 ダンジョン・ワームを相手にする時は、基本的に反撃(カウンター)狙いとなる。

 もちろん、それだけならいくらでも手はある。

 だが、今回ばかりはあまり悠長に構えていられないのも事実だった。

 何しろ、こちらにはサポーターよりもはるかに脆い存在がふたりもいる。

 彼女達に常に注意を向けていなければならない。

 もちろん、【タケミカヅチ・ファミリア】も同じだ。

(油断すれば、私達も足元をすくわれる)

 先ほどのミノタウロス深淵種は、確かな強敵だった。

 ここが『中層』であることは忘れた方が良い。

(……どうやら、ランクの壁が低くなったのは、ダンジョンも同じようですね)

 冒険者はこれからさらなる精進が求められそうだ――と、他人事のように思っている場合ではない。

 千切れたまましつこく喰らいつきにくるダンジョン・ワームの残骸を踏みつぶし、また適当な方向に蹴り飛ばす。

 断面に牙を生み出すなど、まさに怪物じみている。

 それに、数が多い。

「面倒な相手だ……」

 足元を潜り抜けようとするダンジョン・ワームを斧槍で迎撃しながら、アンジェさんが吐き捨てる。

「全くです」

 今さらダンジョン・ワームに手を焼くとは……少し勘が鈍ったのかもしれない。

 嘆息しながら、死角から飛び出してきた一匹を、縦に両断する。

 たちまち二匹に分裂する――と、流石にそこまでの事にはならなそうだが。

 それでも、未だにガチガチと牙を鳴らしているその姿には、流石に嫌悪感を覚えた。

「魔石を砕かない限り即死しないとは……」

 続けて、もう一匹の体に小太刀を突きたてる。

 魔石からは外れたが、別に問題はない。そのまま力ずくで壁から引きずり出す。

 そうなれば、もうさほどの脅威ではない。地面に落ちてのたうつそのダンジョン・ワームの急所――魔石のある辺りに思い切り踏みつける。

 柔らかな体は瞬間的な力には強いかもしれないが、この状況なら関係ない。

 魔石が砕ける感触と同時、灰となって崩れ落ちた。

「敵数残り九!」

 ヤマトさんの声に、内心で舌打ちする。

「このままでは、凌ぎきれん。先に陣形を喰い破られる」

 胸中をよぎった言葉を、アンジェさんが口にした。

 何しろ、とっさに組んだ円陣だ。前衛だった私とアンジェさんはそのまま並んでいる。

 後ろを受け持つのは、桜花さんとヒタチさん。

 視線だけ振り返れば、二人ともすでに少なくない手傷を負っているのが見えた。

 理由は単純だった。

(このモンスターたちは、今この時も成長している)

 こちらの動きを理解し、そのうえで対処法を探っている。

 つまりは『技と駆け引き』を身に付けつつあった。

 呻きながらも、まだ若い冒険者たちの研鑽に心からの賞賛を送る。

 凡庸なLv.2ならすでに瓦解していておかしくない。

 そうならないのは、各々が確かな技を身に着けているからだ。

 それどころか――…

「はぁああッ!!」

 戦斧一閃。桜花さんの一撃が、ついにダンジョン・ワームを捉えた。

 成長しているのは、こちらも同じことだ。

 武神の教えが、この状況の中で彼ら自身の血肉となっていく。

 すべては、彼らの研鑽によるもの。長い時間をかけて磨かれてきたそれが、さらなる輝きを放とうとしている。

 

 ――だが、それすらも無慈悲に蹂躙するのがダンジョンだった。

 

「え?」

 斬り飛ばされた肉片。それは、新たに攻撃を仕掛けてきた個体の体に当たり、軌道を反転させた。

 意図されたものか、それとも単なる偶然なのか。

 いずれにせよ、その小さな肉片は、私達の警戒をすり抜けていた。

「あうぅ……っっ!?」

 気づいた時には、すでにヒタチさんが悲鳴を上げていた。

「千草殿!?」

「いけない。集中を乱しては――!」

 司令塔だったヤマトさんの意識が乱れた一瞬。いや、それにすら満たない刹那。

 ダンジョンは――そして、醜悪な捕喰者たちは、満を持してその牙をむき出しにした。

「迂闊……!」

 続けて悲鳴を上げたのは、ヤマトさん。

 視線だけ振り向けば、ふくらはぎの一部を食い千切られているのが見えた。

「やらせるか!」

 続けて、首を食いちぎらんと新たな個体が地面から飛び出す。

 それを斬り払おうと、アンジェさんが剣を振るう――が。

「しま――ッ?!」

 その個体は、あっさりと狙いを変え……あるいは、本当の狙い通りにその腕へと絡みついた。

 ダンジョンの薄闇の中で、勝敗の天秤は容易く傾く。

「くッ?!」

 引きずり倒される彼女を援護している暇もない。

 それどころか、そちらに気を取られた事すら失敗だったと言わざるを得なかった。

 新たなダンジョン・ワームが、まずは左足に絡みつく。

 続けて、それを斬り払おうとした右腕に。少し遅れて右足に。最後に左腕へと絡みつく。

「おのれ……!」

 毒づきながら、息を吸い込む。

 こうなっては、魔法で吹き飛ばすしかない――…

「今は遠き森の――!?」

 しかし、詠唱はあっけなく潰された。

 勢いよく飛び出してきた五匹目。それが、鳩尾に強烈な頭突きを叩き込む。

 衝撃が肺を締め上げ、空気を強引に押し出す。

 その一瞬の間に、五匹目と入れ替わるように姿を見せたのは六匹目。

 頭上から垂れ下がってきたそれは、首へと絡みつき締め上げる。

(マズい……!)

 これでは詠唱ができない。

 Lv.4と言えども、永遠に呼吸を止めていられるわけではない。

 ……何より、動きを止めてしまっている。

「うわぁ?!」

「やらせん!」

 神ヘスティアとアンジェリックさんの守りは、桜花さん一人。

 自由に動けるダンジョン・ワームは三匹。

 一匹は凌いだが……いや、違う。

「何だと……!?」

 それは、捨て身の特攻だった。

 命と引き換えに、その個体は桜花さんに絡みつき、その動きを止める。

「ヘスティア様!」

 その瞬間、アンジェさんが走った。

 思わず目を見開く。

 振りほどいたのではない。彼女は、自分の腕を斬り飛ばしていた。

 狂気の特攻を凌ぐのは、さらなる狂気。

 しかし――…

「ッッ!?」

 元より無茶な姿勢。しかも、片腕を失い体の均衡(バランス)も乱れている。

「霞く――」

 神ヘスティアこそ半ば体当たりするようにして庇ったが、伸ばした指先は、僅かにアンジェリックさんに届かない――…

「―――ん、わぁ?!」

 神ヘスティアの叫びが、途中で悲鳴に変わった。

 理由は滲む視界の中でも明白だった。

 アンジェリックさんを狙った個体。その頭部が()()()()()()()()()()()()()()からだ。

「ひゅ――…!」

 唐突に呼吸が回復する。

 急に流れ込んできた空気に、声ともつかない奇妙な音が漏れた。

 とっさに喉に手を伸ばして――四肢もまた解放されていることに気づく。

「無事か?」

 その声には、聞き覚えがあった。

 かつての友や、今の同僚にも負けぬほどに耳にしてきた。

「シャクティ……?」

 シャクティ・ヴァルマ。

 迷宮都市の憲兵とも呼ばれる【ガネーシャ・ファミリア】の団長にして、オラリオでも少ないLv.5の一人。

 私が心から尊敬する人物だった。

「ああ。無事なようだな」

「ええ……!」

 頭部を失いながら、それでもしぶとく地面に潜ろうとするダンジョン・ワームを素手で捕まえる。

 あまり気分はよくないが……そのためのグローブだ。

 力任せに引きずり出し、その魔石に小太刀を突き立てた。

「お陰様で」

 その頃には、すでに戦いは終わっていた。

 それもそうだろう。シャクティが一人でここにいるわけがない。

「くたばりなッ!」

 アンジェリックさんを狙った――そして、今や頭部を失っているその個体を引きずり出すのは、アマゾネス。

 そのまま地面に叩きつけ、無造作に魔石を踏み砕いた。

「それが最後か?」

 そのアマゾネスに声をかけたのは、黒衣を纏った一人の男。

 言うまでもなく、クオンさんだった。

「おそらくね」

「まったく、面倒な奴らだ。……っと!」

 肩をすくめ合うクオンさんに、アンジェリックさんが飛びついた。

「あーもう! あーもうっ!! 何でアナタ達は肝心な時にいないよー!!」

「何の話……いや、悪かった! 悪かったから揺さぶるな?!」

 その声が微妙にぶれて聞こえるくらいの速さで揺さぶられるクオンさん。

 やはり、相応に精神的負担(ストレス)を感じていたらしい。

 アンジェリックさんは、少し涙目だった。

(……それも当然でしょう)

 もっとも、責める気はない。

 むしろ、ここまで気丈にふるまってくれたことに感謝しているくらいだ。

 ここはもう『中層』。

 偉業を乗り越え、『器』を昇華した冒険者ですら容易く命を落とす魔境だ。

 常人が恐怖を感じないはずがなかった。

「何でそういうことするんだよぉおぉおおっっ?!」

 と、そこでさらなる悲鳴がダンジョンに響き渡った。

 そういえば、アンジェさんは腕を――…

「ですが……」

 視線を向ければ、確かに彼女の右腕は切り落とされていた。

「ですがもかすがもあるもんか! ええい、クオンくぅん!!」

「何でお前まで揺さぶる?!」

「何とかしておくれよぉおっ!!」

「何をだ?!」

 今も全力で前後左右に揺さぶられるクオンさんは、アンジェさんに気づいていないらしい。

 ……まぁ、それはそうでしょうけど。

「あんたたち、少し落ち着きな!」

 いずれにせよ、騒いでいる暇はない。

 私が仲裁に向かうより早く、アマゾネス――【麗傑(アンティアネイラ)】が二人の頭上に拳を落とした。

「きゃ?!」

「あいたぁ!?」

 悲鳴と共に頭を押さえる二人と、その隙に抜け出すクオンさん。

 彼らを他所に、言葉を交わすのは見知らぬ二人だった。

「彼女は、貴公の知り合いかな?」

 一人は、いかにも魔女といった風体の女性。

「いや、俺ではない」

 もう一人は、今時珍しいほど型の古い大兜(グレートヘルム)を被った男だった。

(いえ、彼の格好は……)

 大兜(グレートヘルム)に、太陽が描かれたサーコート。

 手には同じく太陽が描かれた円盾。腰には直剣。

 これは、時々酒場で話題に上る『太陽の戦士』なる存在と同じ特徴では……。

「―――――――」

 その彼はタリスマンを握りしめ、クオンさんと同じ奇妙な詠唱を紡ぐ。

 と、金色の魔方陣のようなものが現れ、【タケミカヅチ・ファミリア】の傷を癒していった。

「まだ痛むところはあるか?」

「い、いえ。問題ありません。ありがとうございます」

 どうやら、治癒魔法だったらしい。

 それも、治療師(ヒーラー)に見劣りしない見事なものだ。

 一方で、魔女はと言えば――…

「となると、またか……」

 何が、とは。あえて聞きませんが。

 ゆるゆると首を振る姿を見て、彼女とクオンさんの関係は大体予想がついた。

「……一応言っておくが、俺の知り合いでもないからな」

 嘆く彼女に、クオンさんもまた呻いてから。

「おい、ヘスティア。そいつは誰だ?」

「決まってるだろ。ボクの新しい眷属さ!」

「眷属にしただと?」

 それは、どこか動揺を宿しているように聞こえた。

 いや、実際に何かしら心を乱したのだろう。

「そんなことよりも、何とかしておくれよ!」

 神ヘスティアの訴えに、彼は舌打ちをしてから言った。

「……眷属にしたなら、もう分かっているだろう。()()()()()()()()()()()()()()()

 言葉を失う神ヘスティア。いや、それは私達も同じか。

「ああ。そうだな」

 最も気楽な様子で肩をすくめたのは、アンジェさん本人だった。

「エスト瓶は持っていないのか?」

「持っているが、中身がない」

「それもそうか」

 頷くと、クオンさんが炎でも入っているかのように橙色に輝く瓶を取り出した。

「使え」

「助かる」

 アンジェさんが、その瓶の中身を呷ると同時、彼女の体が燃え上がった。

 いや、それは錯覚だろう。どちらかと言えば陽炎のように揺らいだというべきだ。

 そして――…

「何だと……」

 斬り落とされた腕が、復元していた。

 驚愕の声が重なる。

「エスト瓶にこれほどの力があったのか……」

 ただ、やはり彼女だけはその意味がズレていた。

「まぁ、長いこと使っているからな」

 そして、その言葉の意味を介するのもまたクオンさんだけだった。

 ……いや、見慣れぬ二人も分かっているのか。

「……やはり、巡礼者か」

「その様子だと、お前は違うようだな」

「ああ。巡礼地に赴いたことはない」

 彼らのやり取りが何を意味しているのか、まるで分からない。

「だが、巡礼者に出会えたのは幸運だ」

 彼女の声は、今までになく弾んでいる。

 一筋の救いでも見出したかのように、彼女は言った。

「いつか私を殺してくれ。選ばれた者なら、それほどの手間ではないだろう?」

「覚えておくさ。俺が殺される側に回るかもしれないからな」

 よく分からない返事を、クオンさんが返したあたりで。

「こらぁあああああぁああっ!! 勝手なこと言うなぁあああああ!!」

 神ヘスティアが再度突貫。大きく跳躍すると、そのままドロップキックを放つ。

「あいたたたたっ?!」

 そして、あっさりと避けられ、代わりに関節を決められて悲鳴を上げた。

「そこは当たるところだろぉ?!」

「知るか、ンなこと」

「ああああ!? ギブギブギブ!!」

 ぺちぺちと腕を叩かれ、面倒くさそうな顔をするクオンさん。

 ……若干機嫌を損ねているのは間違いない。

「ベルくぅん……。クオン君が苛めるんだよぉ……」

 一方で、ぽいと投げ捨てられ、べそをかくのは神ヘスティア。

「こ、これが神殺し……」

 そして、その姿に【タケミカヅチ・ファミリア】が戦慄の声を上げる。

 何だかとても混沌(カオス)な光景だった。

(……いえ、この人が本気ならこの程度では済まないと思いますが)

 となると、これは友愛に満ちたやり取りなのかもしれない。

 自分で出したその結論に、頭痛を覚えた。

「というか、お前。彼女をどこで拾ってきたんだよ?」

「べーだ! 教えてやるもんか」

 まだ涙目のまま、思いっきり舌を出して――

「そうかそうか。ところで、こんなところに何故か≪イバラムチ≫があったりするんだが……」

「ベル君達がダンジョンから連れてきたんだよ!」

 どこからか取り出されたその鞭を見て、そのまま即座に答える。

 ……賢明な判断です、神ヘスティア。

「いつの話だ?」

「ええと……。うん、四日くらい前かな」

「……ちょうど深淵が発生した頃か」

 再び不穏な空気が漂いだした。

 クオンさんとアンジェさんの視線が正面からぶつかり合う。

「別に殺されるのは構わないが」

 そんな中で、彼女は不快そうに言った。

「あの人喰らいどもと一緒にするな。深み……深淵になど誰が手を出すか」

「ほう?」

 声を上げたのは、見知らぬ魔女だった。

「深み。それに『人喰らい』ときたか」

「知っているのか?」

「ああ。だが、落ち着きたまえ。私達が聖堂騎士に見えるか?」

「深淵に対応できるなら、可能性はある」

「対応できなかったからこその、深みの大聖堂ではないかな?」

「……」

 よく分からないやり取りだったが……どうやら、魔女の方が上手だったらしい。

 不満そうに、アンジェさんが鼻を鳴らす。

「エルドリッヂが火継ぎをする前。白教の内輪もめに決着がついた頃の生まれか……」

 そんな中で、クオンさんが小さく呟いた。

「白教の内輪もめとは?」

 首を傾げたのは、大兜の戦士だった。

「ん? ああ。俺もよく知らないが、どうやら主神が入れ替わったらしい」

「主神? 主神ロイドが?」

「ああ。ロイドは傍系に過ぎず、主神を僭称したんだとさ」

「……かの神は、大王グウィンの叔父にあたるはずだが」

「それを俺に言われてもな……」

 例によってよく分からない会話が続く。

(主神? 【ロイド・ファミリア】という事でしょうか……)

 しかし、聞き覚えのない名前だった。

 もっとも、オラリオにある派閥ですらその全てを知っているわけではない。

 そして、派閥は何もオラリオの中だけに存在しているわけではないのだ。

 心当たりがないとしても、何ら不思議ではない。

 ただ、『外の派閥』という言葉から、一つの可能性が思い浮かんだ。

(もしや、内輪もめとは……)

 国家系派閥の場合、一柱では『恩恵(ファルナ)』を与えきれないため、『従属神』というものを抱えるという話は聞いたことがある。

 ロイドという神が、自分の『従属神』とその眷属に反乱を起こされ、敗北した――と、言う意味なのだろうか。

「それでは、主神は誰になったのだ?」

「クァトって女神だ。だが、多分その後で彼女の言う『深み』に――…」

「それだぁあああぁああっ!!」

「……今度は何だよ?」

 再び叫ぶ神ヘスティアに、クオンさんが胡乱な目を向けた。

「やっぱりクァトって神を、知ってるのかい?!」

「うん? まぁ、一応は……」

 詳しいわけじゃないが――と、付け足された言葉が聞こえたのかどうか。

 神ヘスティアがさらに問いかけた。

「それってどういう神なんだい?」

「涙の神。哀しみに寄り添う慈愛の女神というのが一般的だな。だが、一部では人を絶望の運命に導く悪神とも言われるらしい」

 それはまた、随分と両極端な神だった。

「それがどうかしたか?」

「今、オラリオにいるんだけど……」

「何だと……?」

 クオンさんと魔女、そして大兜の戦士が顔を見合わせる。

 それどころか、アンジェさんまでが視線を鋭くした。

「確かか?」

「うん。神会(デナトゥス)で会ったんだ。どっかで聞いた名前だったなって」

「女神クァトが実在した……いや、まだ神として存在しているだと?」

「あ、待って。実在はしてないんだよ。どっかの女神がロールプレイ……ええと、そういう役割を演じているみたいで……」

 このやり取りから察するに、私の勘はやはり外れたらしい。

 しかし、そうなると本当に、一体何の話をしているやら。

 流石に気になるが……しかし、互いに詮索は無用というのが条件だ。

 何とか好奇心を抑え込んでいると――

「話の途中で済まないが」

 シャクティが、その会話に割って入った。

 ……何というか。非常に嫌な予感がする。

 いや、大丈夫だ。

(私の勘はよく外れる)

 もっとも、今回ばかりは外す自信の方がなかったが。

「ひとつ確認をさせてもらいます。あなたは、神ヘスティアですね?」

 ……今さらだが、神のダンジョン立ち入りは固く禁じられている。

「神がダンジョンに立ち入るのは、硬く禁じられているのは、ご承知だと思いますが……」

「えっとぉ……」

 もちろん、ギルドの規則にもしっかりと明記されていた。

「そうなのか?」

 あるはずもない言い訳を探して視線を泳がせる神ヘスティアを他所に、クオンさんが小さく問いかけてくる。

「そうでなきゃ、あの道楽馬鹿どもが一柱(ひとり)もリヴィラに住みつかないわけないだろう?」

 肩をすくめたのは、【麗傑(アンティアネイラ)】だった。

 言い方はともかく……実際のところ、その通りだ。

「確かにな」

 しっかりと頷いてから、クオンさんがアンジェリックさんに何かしら目配せをして――…

「まぁ、落ち着けシャクティ」

 そして、言った。

「一見すると、そいつはジャガ丸くんの女神によく似ているが……」

「違うとでも?」

 いえ、違うと思いますが。

 そもそも、神ヘスティア。今の発言を流してよろしいのですか?

「ああ。彼女達は、霞の妹でな」

 ……『達』?

「ヘスとティアっていうんだ」

「そーよ。妹たちよ」

 アンジェリックさんまでが胸を張って言い切る。

「正気か、お前達?!」

 まさか私を巻き込む気ですか?!――などと、慌てている暇もない。

「わ、わーい! おねーちゃーん!」

 見事なまでの棒読みとともに、神ヘスティアがアンジェリックさんに抱き着く。

(す、縋るような目で私を見ないでください……!)

 しかし、今の私は神ヘスティアに雇われている身だ。その神意に逆うわけには――!

「ね……ねえさん……」

 蚊が鳴くような微かな声を何とか絞り出し、指先でアンジェリックさんの上着の裾を少し摘まむ。

 クオンさん。よく頑張った――とでも言いたげな顔で私を見ないでください。

「お、お前まで?!」

 シャクティ。違うんです。今は雇われの身なのです。だからこれは仕方がないことなのです。

 だから、そんな顔で私を見ないでください……!

「どう。可愛いでしょ?」

 ……アンジェリックさん。あなたのその自信はどこから来るのですか。

「ところで、私も一つ聞いていいか?」

 ああ、そうだな――と。投げやりな返事を返すシャクティを他所に、アンジェさんが言った。

「『最初の火』がないというのは本当か?」

 例によって、何のことだか分からない。

 その言葉の意味を理解したのは、やはり彼……彼らだけだった。

「ん……。まぁ、多分、そのはずなんだが……」

 神ヘスティアを見やってから、クオンさんは肩を落とす。

「正直、自信を失いつつある」

「何でボクを見ていうんだーっ?!」

 三度目の叫びがダンジョンに響き――

『ヴォオオオオオオオオ!!』

 そして、モンスターの咆哮が帰ってきた。

「とりあえず、話はここまでだな」

 新たに姿を見せたモンスターの大群――幸い、通常種ばかりのようだが――を見やりクオンさんが告げる。

「まずはあのモンスターどもを突破。ベル達を拾って一八階層に向かう。話の続きはその後。それでいいか?」

 もちろん、全員が頷いたのは言うまでもない。

 

 

 

「くそったれが……」

 紫紺――いや、紫黒の輝きが奔るごとに、ベルの体から血が舞う。

 何が起こっているのか。未だLv.1の俺には、まともに見えもしない。

 ついでに言えば、勝ち筋すら見えなかった。

(ふざけろ……!)

 丹田に力を込め、弱気になった自分を叱咤する。

 こんなところでくたばっていられるほど暇ではない。

(落ち着け。よく考えろ……)

 初めての客……いや、リリスケも含めて初めてのパーティだ。

 まだ一週間をようやく超えた程度の付き合いだが……だからどうした。

 俺達はパーティだ。

(俺は、こいつらのために何ができる?)

 まだLv.1の……一山いくらの冒険者もどきが、あの『強化種』相手に何ができる。

(いや、違う。そうじゃない)

 俺は鍛冶師(スミス)だ。……ああクソッたれ。だから、そうじゃない。

(鎚もない火もない。炉床(ハース)どころか砥石の欠片もねぇ)

 そんな有様で、何ができる? ヴェルフ・クロッゾ(おれ)に、今何ができる――?

(ベルの攻撃まで通じない)

 ランクアップしたばかりとはいえ、Lv.2だ。それでダメなら、Lv.1の出る幕などない。

 いや、本当に――?

(あれは……?)

 何かが、感覚に引っかかった。

 だが、一体なんだ。何が引っかかった?

(よく見ろ。鍛冶師(スミス)だろう)

 終えるはずのない戦いを。見えるはずのない『強化種』の一挙手一投足にすべての集中力を注ぎ込む。

(奴の()()に目を向けろ。その性能を余すことなく把握しろ)

 それができないで、どうやって至高の武器など打つというのか。

 目の前にあるものすら理解できないなら、至高の武器など夢想することすらできやしない。

(見えない癖に、鍛冶師(おれ)の感覚は一体何をひっかけた?)

 ここがどこか。隣にいるのは誰か。目の前で戦っているのは誰か。

 それすらも意識の外に追いやられた時、確かに見えた。

「そうか!」

 思わず笑いだしそうになった。

 答えが分かってしまえば、大したこともない。

 むしろ、必死になっていた自分の未熟さに呆れるくらいだ。

 ならば、次に必要なのは――…

(当てはあるのか?)

 繰り返すが、ここには鎚も火もない。

 それでも、当てはあるのか?

(ある)

 その言葉が爆ぜると同時、足の痛みすら消えていた。

「ヴェルフ様!?」

 迷わず走る。

「まさか一人で逃げる気ですか!?」

「ふざけろ! いいからお前も来い!」

 リリスケの見当はずれな罵声に怒鳴り返す。

「ベルに武器を届けるのはお前の仕事だろうが!」

「武器? そんなものどこに……!」

 とはいえ、文句の声がすぐ傍で聞こえる以上、ついては来ているのだろう。

 そして、目的地もさほど遠くはない。

「頼むぞ。残っていてくれよ……!」

 蹂躙され、焼け焦げたミノタウロスの死体が転がり、灰が積もるその一角。

 探していたそれは、確かに転がっていた。

 完全な形ではないが……なに、むしろベルならこの方が使いやすい。

 持ち上げ、念入りに確認する。

(柄が少し折れているだけだ。それ以外に問題はねぇ)

 他の二つは、完全に砕かれてしまっているが……これは、まだ武器として生きている。

「こんなものでどうしようって言うんですか?!」

 無言で放り渡すと、リリスケが叫んだ。

「いいから聞け」

 俺自身も、それを――ミノタウロスの持っていた大石斧を握りしめて告げた。

「あの魔石みたいなやつ。あれは、ベルの攻撃が効かないくらい硬い」

「それは分かってます!」

「だから聞けって! そして、よく見ろ。あいつが壁に激突した直後だ。目を凝らせば、お前にだって見えるはずだ」

「何を……?」

 ゴム玉のように跳ね回る紫黒の輝き。

 例によって勢いよく壁に激突して……

「え?」

「見えたな?」

「少し、欠けた……?」

 そう。ほんの小さな破片。

 塵と大差ない程度だが、それが宙を舞う。

 ベルの攻撃の影響ではない。あれは――…

「見たままだ。あれは衝撃……打撃に弱い」

 あの魔石は硬い。硬いが、靭性がない。

 生半な刃物では傷一つつけられない金剛石(ダイヤモンド)も、そこらにある金槌で叩けば容易く割れる。

 おそらくは、それと同じことだ。

「で、ですが……」

「割れなくてもいい。衝撃は貫通する」

 次の攻撃に移るのが妙に遅い時がある。あれは、おそらく衝撃が体にまで伝わっているからだ。

 自分の力――自分の加速に耐え切れず、その衝撃が痛撃となっている。

「甲虫みたいなもんだ。殻が固いだけで、中身はそこまででもない」

 ……いや、それは少なからぬ希望的観測が混じっているが。

 いずれにせよ、打撃武器の方が有効だというのは間違いない。

 もし読み違えていたなら、真剣に鍛冶師(スミス)としてもう一度一からやり直さなくてはならなくなる。

(下手すりゃ来世の話だがな)

 何しろ、勝ち筋というにはあまりにも頼りなさすぎる。

 胸中のうめき声を何とか無視して、腹を括った。

 手札を選んでいる余裕など、どこを探ってもありはしない。

 いや、そもそも選べる手札が全く足りていないのだ。

「問題はどうやって渡す……?」

 迂闊にベルの注意を逸らすのは危険だ。

「もう一回、たぶん撃てます……」

 リリスケが、≪リトルバリスタ≫の調子を確かめながら呟いた。

「当てる必要はありません。一瞬だけ、注意を惹ければ……」

「だが、避けれるのか?」

 あの『強化種』は単純だ。

 攻撃を仕掛ければ、そのままリリスケを狙ってくる。

 お互いにLv.1。ベルですらついて行けない『強化種』の攻撃には反応することすら容易ではない。

「手は、あります……」

 地面を見やり、リリスケが呻いた。

 それは、まるで自分に言い聞かせているかのように。

「なら、やるぞ……!」

 リリスケが、何を考えているかは分かった。

「はい!」

 リリスケが、≪リトルバリスタ≫の狙いを定める。

 打ち合わせは必要ない。お互いに狙えるとしたら『強化種』が動きを止めた時。

 つまり、攻撃後の硬直だけだ。

 そのなかで、可能な限りベルがこちらに近づいた時に仕掛ける。

「撃ちます!」

「ベル、受け取れ!!」

 リリスケが≪リトルバリスタ≫を放つのと、俺が叫ぶのはほぼ同時だった。

 我ながら、いいパーティになっていたもんだ――と。感慨に浸りながら、石斧を放り投げる。

 そして、すぐさま地面を蹴りつけた。

 正しくは、地面にまだ積もっていた灰――ミノタウロスの死体だったものだ。

 巻きあがる灰は、ほんのわずかに視界を防ぐ。

 あいつの狙いはいい加減だ。ほんの少しでも目測を狂わせてやれば、生き残れる確率は高まる。

 もっとも、それだけでは不十分だった。あれは、アルミラージだ。

 問題は、視覚よりもむしろ聴覚。目測を狂わせたいなら、そちらにも手を打たなくてはならない。

 実際、灰燼などものともせず、その『強化種』は突進してきて――…

「あぶねぇ……!」

 リリスケを押し倒しながら、放り投げた石斧の残骸。

 それが激突した音に釣られて、俺達から少し離れた場所へと突っ込んできた。

 もちろん、完全に避けられたわけではない。掠めた部分はごっそりと抉られている。

 だが、痛みに悶えている暇はない。

 まだ距離が近い。加えて、俺達はまだ地面に倒れたままだ。

 追撃を受ければ、確実に避けきれない――…

「させるかッ!!」

 紫黒の塊を追って、白兎(ベル)が飛び込んできた。

 その加速のままに、手にした石斧を叩きつける。

「やった……!?」

 今までとは響く音が違う。

 その中で、いっそ戸惑うようなベルの声が聞こえた。

「そいつは打撃に弱い! 思い切りぶっ飛ばしてやれ!」

「分かった!」

 言葉すら置き去りにして、再び二匹の兎が激突する。

 そして、何かの天秤が揺れ動くのを幻視した。

「……動きが変わった?」

「ああ。あの野郎、ビビってやがる……!」

 それとも、焦れているのか。

 いずれにしても、『強化種』の攻撃からいくらか苛烈さが失われている。

 思った以上に、効果は劇的だった。

 これなら、あるいは――…

「すまねぇ。頼むぞ、ベル……!」

 この過酷を、ベル一人に任せなければならない自分の不甲斐なさ。

 それを噛み締めながら、呻いていた。

 

 …――

 

(行ける……!)

 手ごたえが変わった。

 確かに、この紫黒は堅い。でも、それだけだ。

 この石斧なら、叩き割れる。微かだが、確かにその手ごたえがあった。

 それ以上に――…

(やっぱり、こいつは臆病だ……!)

 痛みを恐れ、必要以上に距離を取ろうとする。

 そのせいで、ただでさえ制御できていない動きがさらにでたらめになった。

(なら、こうだ……!)

 露骨なまでに、石斧を振りかぶり、振り下ろす――フリをした。

 いわゆるフェイント。

 アイズさん達に比べれば遥かに拙いそれに、その『強化種』はあっさりと引っかかった。

(視えたぞ……!)

 相手の動き。飛び退く先。

 それが分かるなら、確実に追いつける。

 一つの行動を終えるごとに、こいつは一瞬以上動きを止めるのだから――!

「おおおおおおおおおッッ!」

 壁と挟むようにして、石斧を叩きつける。

『ギィィイ――!!』

 初めて――じゃないけど。

 この異形になってから、初めて苦悶の悲鳴を上げる。

「やらせるかッッ!」

 振り回されるのは右腕。もはや、武器は持っていない。

 だが、紫黒の結晶がいくつも生えた腕は、それそのものが凶悪な棍棒のようだ。

 当たれば、ただでは済まない。

 それを左手で払いのける。もちろん、素手ではダメだ。

 思い描くのは、荒れ狂う炎。

 つまりは【発火】。

 掌で炸裂するその爆炎が、盾となってその腕を払いのけた。

「はぁああぁああッッ!!」

 さらに追撃。

 片腕で振るう分、威力は低い。ただ、その代わりに少しだけ振りが早くなる。

 狙うのは『強化種』が盾代わりに構えた左腕。

 そこに生じている紫黒の結晶に、はっきりと罅が入った。

『ヒギイイイィイイイ!!』

 それは、いっそ泣き声にすら聞こえた。

 圧倒的に格下であるはずの僕に、ここまで痛撃を受けること。

 その理不尽を嘆いているのかもしれない。

「く……ッ!?」

 ただ、それでも互いの力量の差は圧倒的だ。

 闇雲に振り回された四肢が掠めただけでも、肌が裂け、下手をすると肉まで持っていかれる。

 相手の未熟に救われ、ギリギリのところで食い下がっているだけ。

 状況は何も変わっていない。変わっていないはずだけど……。

(何だ……?)

 一秒ごとに鋭化していく意識と本能。それについて行けず、取り残された思考がただ空廻る。

 意味もなく回り続け、最後に残ったのは奇妙な感慨だった。

 共感。共鳴。同調。同情。……それとも、単純な恐怖だろうか。

 そんなことを考えている暇などないにも関わらず、一瞬ごとにそんな感情が強くなっていく。

 

 ――おそらく、この『強化種』は発生したばかり

 

 ――冒険者になって、まだ一ヶ月半の新人(ルーキー)

 

 自分の声のようでもあるし、別の誰かの囁きのようにも思える。

 

 ――どういう理由なのか、前例にないほどの早さで成長した

 

 ――エイナさんどころか、神様まで驚くほどの成長期が続いている

 

(ああ、それは……)

 他ならぬ僕自身の現身のようだ。

 鏡に映る、左右が反転した自分。

 冒険者と怪物(モンスター)――ではない。

 違うのは、そんなことじゃない。

『ギィイイ!!』

 目の前にいるそれは、やはり臆病だった。

 どれ程の力を得たとしても、冒険には挑めない。

 そう。ここにいるのは……目の前にいるのは、あの時、冒険に挑めなかった僕だ。

 臆病なままで。仲間もいなくて。ただ力ばかりが膨れ上がり続け、ついにはそれに振り回されている僕。

 

 ――これは、お前の末路。いつか来る、すぐ傍にある未来だ……

 

 熱病のように。呪詛のように。あるいは警告のように。

 体に。そして心に。暗く絡みつくその言葉を振り払うように加速する。

 

(リリ、ヴェルフ……)

 その言葉に惑う時は、少なくとも今じゃない。

 今この瞬間において、それは唯の雑音でしかない。

「おおおおおおおッッ!!」

 追いかけるべき憧憬が燃えている。冒険に挑む意思がこの胸にある。一緒に進みたい仲間がいる。

 それら全てが、今も壊れかけの体を突き動かしている。

 だから、まだ戦える。まだ、鏡の向こう側を恐れる理由はない。

 

 ――リン、リン

 

 鼓舞するように、(チャイム)が鳴り始める。

 力が白く輝いて、石斧へと収束する。

 

(一撃だ……)

 時間をかければ、先に削り取られるのは僕だった。

 それどころか、これ以上の戦闘は自分自身の体が耐えられない。

 だから。

 この一撃で、紫黒の鎧ごと、この弱くて恐ろしい怪物を打ち砕く。

 眦を決して、真正面からその敵を見据えた。

(来る……!)

 四肢を撓ませ、紅い瞳に殺意を宿して。

 紫黒の砲弾が放たれる。

 紫黒の軌跡に、白光の軌跡を重ね合わせて――…

「がぁ……!?」

 そして、激突。

 反動を押さえきれなかった体が近くの壁に叩きつけられた。

 だが、その中でも確かな手ごたえを覚えていた。

 白い燐光の中に消えていく石斧は、間違いなくその怪物を叩き割ったのだと。

「やった……?」

 リリの声につられるように、視線を背後に向ける。

 あの怪物は、地面を抉り、それでも足りずに近くの壁に激突していた。

 もはや原形をとどめていない。

 激突した頭は胴体に潜り込み、そのまま体の半分を圧し潰されている。

 今の僕の力だけで、あれほどの破壊力は生み出せない。

 多分、半分以上はあの『強化種』自身の力によるものだろう。

「…………」

 すっかり干からびた喉から、吐息が零れる。

 強敵を倒した安堵も高揚もない。ただ、物悲しい。

 結局、あの怪物は最後の最後まで自分の力を制御できず、ついにその重さに圧し潰されたのだ。

 そして……。

「ベル様!!」

「ベル!」

 駆け寄ってくるリリとヴェルフの声で、それに気づいた。

「しま――…!?」

 足元。亀裂。崩落。広い……!

 単語だけが意識の中で爆ぜ――そして、再びの浮遊感。

「うわぁああぁあああっっ!?」

 ただ、限界まで研ぎ澄まされていた感覚にとって、それは窮地というほどではなかった。

 崩落する直前に、リリ達と合流。砕けた足場を蹴って、巻き込まれない辺りまで何とか跳ぶ。

「いたたた……」

 まぁ、着地まではできなかったわけだけど。

「二人とも、大丈夫?」

 地面にぶつけた肩を押さえながら、二人に問いかける。

 ありきたりなその痛みは、いっそ奇妙な安心すら感じさせた。

「ああ……。何つーか、まだ生きてることを実感してる」

「ええ……。ホント、何でまだリリ達は生きてるんでしょうね?」

 ぶつけたらしい頭とお尻を撫でながら、二人も軽く笑う。

 笑うというか、顔の筋肉から力が抜けたみたいだ。多分、僕も同じ顔をしている。

 そして、その弛緩した筋肉が急激に引き締まった。

「ベル様……」

 声が出ない。あり得ない。本当に何だっていうんだ?

「おいおい、ふざけろよ……!」

 崩落に巻き込まれた『強化種』の死体。

 地面に叩きつけられ、瓦礫に圧し潰され、さらに悲惨なことになったそれが、動き出していた。

 いや、違う。動いているのは死体じゃない。

(何かが、染み出している……?)

 腐った乾溜液(タール)のような何かが、砕けた結晶から溢れ出しては蠢いている。

 

 それは、自らの力に圧し潰されてなお、誰かの思惑に使い潰される――

 

「行きましょう! ここは一七階層です……!」

 呪詛のような言葉を、リリの叫びがかき消した。

 慌てて立ち上がろうとして――…

「っっ……?!」

 膝から力が抜けた。膝どころか全身に力が入らない。

 体が鉛に漬けられたかのようだ。体力も精神もすっかり体から抜け落ちていた。

 地面への墜落は、さほどの痛痒(ダメージ)ではない。

 なら、心当たりは一つしかなかった。

 

英雄願望(アルゴノゥト)

 

 あんな凄まじい力に、何の代償もないなんてことはあり得なかった。

 

「行くぞ、ベル……!」

 ヴェルフが僕の体を引きずり上げる。

 その肩もまた抉られていた。度重なる魔法の行使に加えて、今も治まらない出血。

 青ざめた顔。その体は冷たく、そして小さく震えていた。

「ええ! ここまで来たなら、もう一息です……!」

 支えてくれるリリこそ、今にも倒れそうだった。

 僕らの中で最も低い【ステイタス】。それでいて、回復薬は優先的に僕達に回してくれた。

 今もまだ意識を保っているのが、むしろ奇跡のようだ。

 もう、全員が限界だった。それでも、まだ諦めていない。

 それなら、泣き言なんて言っていられない。

(みんなで、地上に帰るんだ……!)

 首に下げたペンダントの感触を思い出し、自分を叱咤する。

 みんなで約束した。ここまで来て諦めてたまるか。

 まずは一歩。足を地面から引きはがす。

「行こう……!」

 お互いの体を引きずり合うようにして、さらにダンジョンの奥へと進む。

 迷路は途絶え、全てが一本の道へと合流してはさらに広く、そして天井は高くなっていった。

 それに従って進むのが正しい道だと、リリが言っていたのはいつだったか。

(モンスターが……)

 襲ってこない。気配は感じるけど、それだけだ。

 今の状況で襲われるのは危険だった。けど、それ以上にこの静寂が怖い。

 

 そして、やっとそこに辿り着いた。

 

「ここが……」

 呆然としたまま、自然と声が漏れた。

 ごつごつとした壁や天井の中で、それはいっそ美しくさえあった。

 大勢の石工たちが、丹念に磨き上げたような石壁。そこには、僅かな継ぎ目すら見当たらない。

「『嘆きの大壁』……!」

 かつてこの階層に到達し、何とか生還した冒険者たちによって名付けられた一七階層最後の障壁(かべ)

 たった一体。特定のモンスターしか生み出さないその巨大壁は、ただただ圧巻だった。

 状況も忘れ、思わず足を止めてしまうほどに。

「ギリギリ、間に合ったみたいだな」

「ええ……。もう一息……」

 今にも倒れそうなヴェルフの言葉に、半ば意識を失ったままリリが頷いた。

「急ごう……!」

 体の震えが止まらない。これは、単に圧倒されているだけじゃない。

 何かの予感。いや、何かなんて誤魔化しはやめよう。

 心臓を締め上げるこれは、さらなる過酷への予感だ。

 一心不乱に。最後の体力を絞り出して。床に根を張りそうな足を引きはがし続ける。

 一八階層への連結路は……この決死行の出口はもう見えている。

 でも、遠い。広大なその主の間を、まだ半分しか進んでいない。

(急げ、急げ、急げ……!)

 それは僕の声か。それとも、リリとヴェルフだろうか。

 分からない。ただ、いっそ祈るようにその言葉を繰り返していた。

 

 そして、ダンジョンはその脆弱を嘲笑う。

 

 バキリ――

 

 鳴った。

 音が。

 確かに、聞こえた。

 僕らの真横で。

 

「ふざけろ……!」

 磨かれた壁面に、立ち尽くす僕らの陰が映り込んでいる。

 そこに、大きな亀裂が走った。

「走れぇ!!」

 不吉な暗示をかき消すように叫ぶ。

 威勢が良かったのは、その叫びだけだった。

 力の入らない体をお互いに支え合い、引きずり合って、這いずるように走る。

 体が重い。何で。こんなにも遠い……?

 空気が焼けるように熱い。喉も肺もすっかり焼かれてしまっている。

 辛い。意識を手放してしまいたい。

 その誘惑はとても甘く……そして、屈した瞬間に間違いなく死ぬ。

「クソッ……!」

 ヴェルフが、大刀を投げ捨てた。

「…………」

 同じく壊れた≪リトルバリスタ≫を放り捨てたリリが、そのままバックパックの背負い紐を切ろうとする。

 その手を支え、一息に紐を斬り落としたのは僕だったか。それともヴェルフだろうか。

 

 嘆きの壁は、破滅を告げるように叫喚する。

 

 ――少しでも身軽に。少しでも早く。もっと急いで……!

 

 遠い昔。階層主という言葉すらなかった頃から今に至るまで。

 ここに辿り着き、そして斃れた冒険者たちの声が聞こえるようだった。

 

 そして、ついに破滅が顕現する。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、一際大きな、着地音。

 

 よせ。やめろ。見るな――!

 

 理性の制止を振り切って、首が後ろへと回る。

 

 一転して訪れた僅かな静寂。

 立ち込める土煙の向こう側に、それはいた。

 

 巨大すぎる灰褐色の体。

 人の骨格に酷似しながら、その首も。その肩も。腕も。脚も。全てが太い。

 

 ついこの前遭遇した大型級――ブラッドサウルスより遥かに大きい。

 断言できる。今この時までに目にした中で、最も巨大な怪物(せいぶつ)だと。

(これが、階層主……!)

 戦慄が体を駆け抜ける。

 ミノタウロスとは違う。心傷(トラウマ)によるものではない。

 畏怖だ。まるで超越存在(かみさま)を前にした時のように。

 ……それはそうだろう。

 絶対的な『存在』の隔たり。それが、僕とその怪物に間には確かに存在する。

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!』

 

 巨人の咆哮が、静寂を打ち砕く。

 その瞬間。ようやく、本能が警鐘を上げた。

 ありったけの体力を。もう搾りかすすら残っていない体からそれをひねり出す。

 そして、駆け出した。

「走れ、走れ、走れ、走れ走れ走れ走れ走れ!!」

 誰かが叫んでいる。

 僕らの後ろで、風が渦巻く。

 巨人が、その拳を振りかざしていた。

 見えないはずのその光景が見えたのは、何故だろう。

 分からない。ただ、それが振り下ろされた瞬間。僕らはあっけなく打ち砕かれる。

(あと、あと少しなのに……!)

 見えている。連結路は見えている。その先には、光すら感じられる。

 それなのに――!

 拳が、振り下ろされる。

『ギィィィイィ』

 あまりに鈍く、ひたすらに重い打撃音。

 それに混じって、そろそろ耳に馴染んだ悲鳴が聞こえた。

(追いかけてきた……!?)

 あの奇妙な『強化種』の死体。いや、それにとり憑いた何か。

 それが、巨人の拳に打ちのめされ、いよいよ原形を失っていく。

「走れぇえええぇええッ!!」

 最後の……本当に、掛け値なしに最後の力を注ぎ込んで、その通路に飛び込む。

 同時、巨人の拳が今度こそ僕らを狙って放たれた。

「がぁ……?!」

 直撃ではなかった。拳そのものは掠りもしていない。

 ただ、その衝撃が逃げ場のない連結路の中を満たし、蹂躙していく。

 その暴風の中で、僕らにはもう成す術がなかった。

「ぎっ、づぅ、が……!?」

 叩きつけられているのは壁なのか床なのか。それとも天井なのか。

 打ち据えられ、削り取られながら、その通路の中をでたらめに転がり進む。

「……ぅ」

 半ば砕け散った意識。赤い視界の中で草原を見た。

 柔らかな草の感触が、傷ついた体を優しく受け止めている。

 暗かった世界が、妙に明るくて暖かい。

 

 もしかして、ここが天界――と、そんな馬鹿な考えを体の痛みが否定した。

 

(リリ……。ヴェルフ……)

 呼びかけたつもりが、かすれ声すら出なかった。

 もう一Cたりとも体が動かない。意識が霧散していく。

(駄目だ……)

 まだ、意識を手放せない。ここで意識を失ったなら、もう目覚められない。

 唇を噛み切って……多分、噛み切ったと思う。もう、痛みは感じないし、口の中は血の味しかない。

 とにかく、薄れつつある意識を何とか鼓舞する。

(二人を、治療しなくちゃ)

 あるいは、僕自身も。

 だから、手に『火』を灯せ。炎への憧憬を抱け。

(せめて、【ぬくもりの火】を灯さなくちゃ……)

 でも、もう火の粉すら起こせない。

 それでも、手をかざそうとして――…

 

 かさ、かさ、と。

 

 草を踏み分けて、誰かが近づいてくる。

 一人じゃない。もっと多い。多分、どこかのパーティなんだと思う。

 その誰かは、ちょうど僕らの真正面で脚を止めたらしい。

 何か呼びかけられているような気もするけど、よく聞こえない。

 ただ、動かないはずの体が、動いた。

 一番近くにいる誰か。その細い足首を掴む。

 動揺の気配が、掌に伝わってきた。

「仲間を……助けてください……っ!」

 ようやくのことで、その言葉を絞り出す。

 その懇願が届いたかどうか。

 確かめるより先に、暗い浮遊感に意識が包まれた。

 暗転していく視界。消えていく意識。

 

 その中で、煌めく金色の髪を、幻視したような気がした。

 

 

 




―お知らせ―
 お気に入り登録していただいた方、感想を書き込んでいただいた方、誤字報告くださった方、ありがとうございます。
 次回更新は1月中を予定しています。

 19/12/28:誤字修正。一部改訂

―あとがき―

 おや!? アルミラージの様子が…!
 
 まず最初に感謝を。
 前回から何ヶ所もの誤字報告くださった方、ありがとうございます!
 とても助かりました。
 
 さて、ベル君一行は無事(?)に一八階層到達となりました。
 次は新章で、主に外伝五巻と黒ゴライアス戦ですね。
 そして、一転して尺に余裕ができるはずなので、暗躍中の方々に少しだけ登場してもらおうかなと思っています。
 
 さて。
 
 前回から姿を見せたアルミラージですが…
 気づけば闇派生⇒結晶派生⇒深み派生という、どこかのシスター並の進化を遂げていました。
 また、拙作におけるダンジョンの設定についても少しだけ触れてみたり…
 もっとも、ダンジョン関係の設定は、まだ原作でもほとんど触れられていないので深掘りしづらいんですけどね。
 今のところ分かっているのは、『神を憎んでいる』ことと、その原因が『神によって何かが閉じ込められている』から。
 そして、『最下層には異端児(ゼノス)との共存を可能にする誓約があること』と『限界が近い』ということでしょうか。
 多分、ダンジョンの発生に神々が絡んでいると考えていいとは思うんですが。
 
 クロスオーバー作品なので、最終的には原作から設定が乖離するとは思いますが、できる限りすり合わせたいですから、もうしばらくは融通の利く状態で何とか続けていこうと思っていますが、さて…。
 
 設定といえば、ファミリアクロニクルの新刊が出ましたね!
 
 色々と見所はありますが、個人的には待ちに待ったオッタルのステイタスですね! ずっと、待ってましたとも!! 
 まさかここまで完全に『偉業』待ちだったとは…!
 もちろん、発展アビリティやスキル。詳細は不明なものの魔法まで!
 次は春姫編らしいですが…エピソードガネーシャも待ってます!
 せめて、シャクティさんのステイタスだけでも…!

 そして、オッタルの普段の生活(?)や過去の経歴にも少し触れられていましたね。
 まさかの苦労人ポジションという真実に、何故だか癒されました(笑)
 それと、一部のシーンを書き直させていただきました。
 今のところ一部一章五節と三章四節ですね。
 手直しを始めると、いっそ全部書き直したくなるので、簡単にですが…。 

 と、そんなわけで今回はここまで。
 
 どうか次回もよろしくお願いいたします。
 また、返信が遅くて恐縮ですが、感想などいただけましたら幸いです。
 

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