「お風呂がないだなんて、そんな馬鹿なことは考えられませんわ」――日系人女性にそう教えられた考古学教授は、眠られぬ夜が明けると発掘現場へ急ぐ。
カナダのブリティシュコロンビア州の森の中で発掘された日系人の村落。日系人とその家族が、ここに隠れるかのように住んでいたのは間違いない。しかしなぜ、そしていつまで?
カナダの新聞、ノース・ショア・ニュースの記事を翻訳しました。原文は こちら です。
翻訳許可を下さったブレント・リヒター記者とノース・ショア・ニュースに感謝いたします。
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日系人の集落を発掘、カナダ・シーモア山
森の中の秘密の入植地
ブレント・リヒター(ノース・ショア・ニュース) 【翻訳:niconicoffee】
Brent Richter / North Shore News
2019年8月16日
錆びたノコギリの歯。ブリキ缶。シーモア川流域周辺の二次林で見つかるものとしては、特に珍しいものではない。
〔二次林 伐採や災害のあと自然に生えた森林〕
しかし、地表のシダ類を刈り払い、幾重もの堆積物を掘り進むと、そこにはまた別の、遥かに複雑な物語が眠っている。日本人入植者とその子孫、ニッケイ Nikkei が、この人里離れた森の中に住み、そしてある日突然消えてしまったのだ。
考古学教授のボブ・マックルは、シーモア川流域を14年間にわたり発掘調査してきた。写真は、キャピラノ大学の学生たちを監督するマックル教授。数日後には発掘を終える。この遺跡は日系人が隠れ住んでいた集落であり、おそらくは強制収容のときまで住み続けていた。写真:マイク・ウェイクフィールド(ノース・ショア・ニュース)
キャピラノ大学の考古学教授ボブ・マックルは、1920年代や1930年代の欧州系カナダ人の伐採キャンプの発掘と記録をしばらくのあいだ行っていたところ、2004年に、ある引退した林業者からの連絡を受けた。森の中に新たな遺跡があり、面白いものかもしれない、と。場所はライス湖とシーモア・ダムの中間あたり。といっても、表面に出ていたのは二、三個の缶と、ノコギリの歯が一つだけ。
「いったい何の遺跡なのか、発掘を始めるまでは全くわかりませんでした。でも掘っていくうちに、ライスボウル〔ご飯茶碗〕やサケ〔日本酒〕の瓶が出てきた」とマックル教授。
この14年間、マックル教授と、キャピラノ大学で指導を受ける考古学専攻の学生たちは、毎年春に六週間、この森にかつて居住していた人々の物語を掘り起こしてきた。マックル教授によると、ここは単なる伐採キャンプではなかった。都市部で猛威をふるう人種差別から逃れるため、そして、自分の文化を捨てずに暮らすための、日本人入植者たちの山里だったのだ。
「都会からギリギリまで離れたこの場所に、日系人の小さな村落があった、ということで間違いないようです」と教授。「隠れるようにして住んでいたのだと思います」。
マックル教授はこれまで、自分の少人数クラスを受講する学生を厳選してきた。学生にはこう警告する――公園を散歩するのとはわけが違うぞ(ロウアー・シーモア保護区を毎日数キロ踏破するのだから、歩くのは間違いないけれども)。
「健康で元気でないと無理だし、じゃなくても、そうなるつもりがないとね。雨の中での作業にも慣れなくちゃいけない。だって雨でも作業は続けるからね。熊のいるあたりで仕事するのも承知の上だよ。だって熊は出るから」。とりわけこの春は、人を恐れない熊が一匹いて、昼食の袋を漁られた。「そういうのが駄目な人っているでしょ」。
土の中の小さなゴミを全て記録することまではしないけれども、学生の一人、ショーンティ・ベインズは、それでもわくわくするという。
「プラスチックの欠片を一つと、釘を何本も見つけました。あと、あっちで瀬戸物の欠片も」と彼女は言う。「発掘は大好きです…何かが見つかると本当にドキドキする。ただの釘なんだから馬鹿みたいだけど、ものすごく興奮します」。
キャピラノ大学の学生たち。土を篩にかけ、日系人の伐採キャンプの遺物を探す。写真:マイク・ウェイクフィールド
ニッケイの村
教授たちが土の中から掘り出したのは、一つの忘れ去られた入植地。しかし、それだけではなかった。完全に異質な生活様式、つまり、明らかに日本的とわかる生活の跡が出てきたのである。
このニッケイ〔日系人〕の村が位置するのは、1900年代初めまでにヘイスティングス社によって皆伐されたはずの区域である。だが1918年ごろ、州政府により、隣接する伐採区の伐採許可が日本人実業家のエイキチ・カゲツ〔花月栄吉〕に与えられた。1924年ごろに伐採を終えると、カゲツはビジネスの拡大のため、バンクーバー島へと移動した。
フットボール場ほどの広さのこの伐採キャンプには、ヒマラヤスギの厚板が敷かれた道に沿って十数軒の小屋があり、四、五十人ほどは十分に生活できる。生活用水は、丘の上に作られた貯水池から重力式で各戸へと供給される。
〔フットボール場 カナディアンフットボールでは約34×20メートル〕
この遺跡の北端で、マックル教授と学生たちは、ヒマラヤスギで作られた台座と、緑色のガラスの小片をワイヤーで繋いだもの(おそらくは灯籠の一部)を掘り出した。神社があったのだろう――遺跡を訪れた日系人のほとんどはそう考えている。
「日が暮れて伐採の仕事から帰ってきたとき、最初にこれが見えたはずです」と教授。「北アメリカの他の場所で、こういったものを見つけた人がいるとは思えません」
遺跡のなかで最も平坦な場所は、奇妙なことに、建物の痕跡がまったくない。代わりに、土壌サンプルからは、焼いた骨の濃密な堆積物と、比較的高い pH 水準が検出されており、この集落の菜園の肥料が作られていたことを示している。
マッケイ教授のお気に入りの発見といえば、それは湯屋 bathhouse かもしれない。第一期発掘調査のさい、現場を訪れた年配の日系人女性がマックル教授にこう尋ねた。「オフロ ofuro はどこですの」。オフロという言葉を聞いたこともなかった教授に、この女性は、日本人にとっての湯浴みの文化的重要性を説明した。「お風呂が一つもないだなんて、そんな馬鹿なことは考えられませんわ」。
人生で一番眠れない夜を過ごしたあと、教授は翌朝早くに発掘場所へ戻った。オフロを見つけなくては。
「とにかく探し回ってみました。何かU字型の構造物がこのへんにあったはずだと」。教授はニコニコしながら湯屋の跡地で話す。「浴槽の一部まで見つかったんです。湯桶と柄杓もね」。
〔柄杓 ladle あるいは、湯かき棒か〕
教授からの申し出を受けて発掘現場を視察した元州議会議員のナオミ・ヤマモトは、この湯屋をみたとき、ゾクリとするものを覚えた。
「入浴は日本文化にとって本当に重要です。かなりの歳になるまで、私はシャワーで済ませたことが一度もありませんでした」とヤマモト。「日系四世のカナダ人なのにですよ」。
ヤマモトという性は「山のなかに住む者」という意味なのだけれども、彼女の先祖がブリティッシュ・コロンビアへ来たのは漁業のためであった。それでもヤマモトは、この発掘現場を訪問して深く心を打たれたという。
「まるで魔法のようです。あまりにも異様で、どう言ったらいいのか――この世のものではないみたい」とヤマモト。「100年かけて多くの木が倒れて朽ちて、たくさんの松葉が降り積もって、それでここは隠れてしまって、それを最近になってボブと学生が掘り返して…想像できたのはそれだけです」。
ヤマモトの両親は二人とも強制収容所へ送られた。祖父母らの家々や漁船は没収され、二度と返されなかった。
ヤマモトが州政府の一員であった2017年の春、ブリティッシュ・コロンビア州の日系人にとってこの遺跡が大事なものであることが公式に記念された。これはむろん、マックル教授の業績に負うものである。
ノース・バンクーバー博物館・資料館の史料学芸員、ダイアン・イデは、この伐採キャンプを2019年に訪れた。偶然ながら、イデの祖父は、バンクーバー島へ移動後のカゲツに雇われた製材労働者であった。
「私はまた別のこととの関連でこの遺跡を捉えています」とイデ。
この集落は当時はどんなふうに見えたのか、そして、そこに住んでいた人たちはどんな暮らしをしていたのか。イデはとりわけ、遺跡に残された瀬戸物や雑貨を見たときに思いを巡らせた。
「どれほど長く歩かなくてはならなかったのか、そして、ああいう重い丸太を運び込んだり、運び出したりすることが、どれほど大変だったことか」。
ライス湖の製材所の日本人たち。刀を持っている少年は「加藤の息子」であると記したラベルがある。この少年の名前はシゲオ・カトウであり、1941年に戦争に参加することを許された、ただ一人の日系カナダ人であった(他の人は全員除外された)。父はトサク・カトウであり、伐採キャンプの日本人労働者たちのボス兼労働者派遣業者であった。写真提供:ノース・バンクーバー博物館・資料館。
強制収容
日系人伐採労働者とその家族がここで共同生活を営んでいたということ自体は、さほど議論の余地はない。それよりも遥かに興味深いのは、いつまで住んでいたのか、という問いだ。マックル教授の仮説は、伐採が終わったあとも日系人居住者たちの一部がここに残ることを選んだのだろう、というものだ。カナダ政府が日系人を拘留し、内陸部の収容所へと送り始めたのは1942年。まさにそのときまで住んでいたのだろう、と。
この伐採キャンプに住んでいたのは誰なのか、どこへ行ったのか、その記録はない。しかし、物品の大半が手つかずのまま発見されたことは、住民は着の身着のまま、ほとんど何も持たずに急いでどこかへ立ち去ったことを示唆している。
マックル教授と学生たちは1000点以上の物品を記録した。その中には、日本から輸入された日本酒やビールの瓶、ゲームの駒、薬の瓶、時計と懐中時計、ティーポット〔急須?〕、衣類のボタン、硬貨、そして何百もの日本製の瀬戸物の欠片などがある。考古学的な遺跡のほとんどとは違い、これらの多くの物品は無傷であった。
「これは考古学においてはきわめて稀なことです」と教授。
厚板の敷かれた道には価値があり、木材として改めて売るのは簡単だったはずだが、それも地中に残されたまま。
料理用ストーブ cook stoves の残骸も多く見つかった。ほとんどは数ドルで売られていたものだが、それよりも遥かに高価な料理用ストーブ(1920年代のウッドワード・カタログで約37ドルで売られていた商品)も一つ、この遺跡の端のほうで見つかった。これは大きな切り株の後ろに入念に隠されていた。
「これはもちろん、誰かが泥棒に来るかもしれないと思ったからなのでしょう」と教授。
教授らは、イーストマン・コダック社製ブルズアイ・カメラ一台の残骸も回収した。これは強制収容所へは持ち込めない品であったはずだ。
「人は普通、土地を去るとき、全てのものを持っていきます」と教授。「ですからこれは、第二次大戦の強制収容までここに住み続けたという私の仮説の証拠となります。この小さな家々には良いものがたくさんあるのに、ふいに立ち去った。これは明らかであると思われます。最近見つけたもののなかには、家のカギまでありました」。
バスに乗るにはリン・バレーの停留所まで歩かねばならず、それには1時間以上かかったはずだ。そこから都会へと働きに出ることができただろう。今の世代にとってはありえないことのように聞こえるけれども、当時は普通だった、と教授。
この場所はきれいな水が豊富だ。畑で野菜を作り、近くのシーモア川で魚も獲れた。このキャンプでの暮らしは素晴らしいものだったに違いない、とマックル教授は思い描いている。
「私の印象としては、概して、ここに住んだ人たちはいい暮らしをしていたと思います。特に、1920年代のバンクーバーの人種差別のひどさという背景のなかでは。日本大使館は日系人たちに対して、現地に同化することを奨励していました――周りと違うことはするな、というわけです」と教授。「同化したくないと思った人たちが、ここを避難場所としたのでしょう」。
ノース・バンクーバー博物館・資料館は、ノース・ショアで働く日系人伐採労働者たちの写真を所蔵しており、それらの中には1905年まで遡るものもある。イデは、強制収容のときまで森の中に住み続けていたというマックル教授の仮説を裏付ける記録を見たことはないと言う。しかしイデは、日本人移民の子孫たちの口伝えを調べてみることがよい出発点になるのではないか、と話す。「もちろんマックル教授は地域史にきわめて大きな貢献をなさいました」とイデは言葉を加えた。
「長い間、ほとんど知られることもなく、断片的な証拠しかなかった歴史の一部分を、マックル教授は立証なさったのです」とイデ。「これは、より大きな歴史、つまり、カナダへ渡った移民たちの物語と、そして彼らの貢献は何であったかということの、重要な一部分です…。また、偏見という問題とも深くつながっています。なぜ強制収容ということがなされ、なぜ彼らはもうここにはいないのか。ここにもう日系人のコミュニティがないのはなぜなのか」
1926年にノース・バンクーバーの伐採キャンプで撮られた、日系人女性と子供の写真。シダース有限会社のリン・クリーク製材所かとも思われる。写真提供:ノース・バンクーバー博物館・資料館。
ふたたび土の中へ
2018年にノース・バンクーバー地区は、シーモア川流域での業績を称え、マックル教授に「コミュニティ遺産賞」を授与。だが、この仕事は終幕にさしかかっている。
「たぶん、この遺跡にかんしては、私の最後の発掘期間です。明日を発掘作業の最終日にしようと思っています」。六月にこの遺跡に来たとき、複雑な思いを隠さず、教授はそう話した。
これ以上なにも出てこないから、というわけではない。むしろ、教授と学生たちは、発掘作業の最後の数週間のうちに、また二軒の家の基礎を発見したばかりだ。
ただし、学生たちと共に集めたあらゆる状況証拠をもってしても、「ここは、強制収容のときまで日系人が隠れ住んでいた集落である」というマックル教授の仮説は、それ以上のものではない。つまり、一つの仮説であるに留まるのだ。
「決定的証拠はまだ探している途中です。1920年代以降の明らかな日付のわかる人工物は一つも見つけていません。それをまだ探しているんです」と教授。
教授の仮説を裏付ける証拠がまだ眠っているとしても、それを見つけるのは他の誰かということになりそうだ。考古学者たちのあいだでは、何も残さないほどに遺跡を掘り尽くすのは道義に反すると考えられている。技術は進歩し、手法の改善があり、異なる研究者が異なる問いへの答えを求めて遺跡を再訪するのだから。
「だから、みんなのために残しておいたというわけです」と教授。
マックル教授は、さらに何本かの学術論文を書くだけでなく、この遺跡についての本を書くことも計画している。また、ノース・バンクーバー博物館・美術館とバーナビー〔バンクーバー郊外の都市〕の日系文化センター博物館が、発掘記録の全てと発掘物の一部を、教授の引退後に引き取ることを希望している。そうすれば地域の人々や未来の考古学者が利用できるし、「今から100年後に、いや10年後かもしれないけど、私の仕事をありのまま見てもらえるからね」。
メトロ・バンクーバー行政区は、この伐採キャンプ跡をフェンスで囲うことを申し出たが、マックル教授は謝絶した。たまたま通りかかった人に、なにか重要なものがあると思われると、盗掘を招く恐れがあるからだ。
ほんの数週間後にはシダ類がもとのように繁茂し、ニッケイの入植地は再び覆い隠されるだろう。森の一部として、もしかしたら、今度こそは永遠に。
キャピラノ川の河口へ落とされて水しぶきを上げる丸太。前景には日系人の請負業者たち。1910年ごろ。写真提供:ノース・バンクーバー博物館・資料館。
〔おわり〕
【訳者(niconicoffee)より】
カナダの地方新聞 ノース・ショア・ニュース の2019年8月16日の記事を翻訳しました。執筆はブレント・リヒター記者。
ほんの百年ほど前のことが「考古学」というのは、なんだか不思議な気もしますが、この「遺跡」のほぼ全ては地表より下に埋もれていたとのことですから、たしかに考古学でなければ歯が立ちません。教授はこの遺跡を、日本的特徴の濃い20世紀前半の伐採キャンプ跡としては北米唯一かもしれない、と考えているとのことです。
ウィキペディア によると、カナダへの日本人移民は1877年に始まり、現在もカナダには約11万人の日系カナダ人がいます。日系人は第二次世界大戦のさい、敵国の手先であるという、いわれのない差別を受け、財産没収のうえ強制収容所へ送られました。そして、劣悪な環境のもとでの労働を強いられます。
日系文化センター博物館 Nikkei National Museum & Cultural Centre のウェブサイトには、第二次大戦中のみならず戦後にまで及んだ日系人差別について、やや詳しい 解説 があります。それによると、戦争が終わったあとでさえ、「逆に日系カナダ人は更にロッキー山脈の東側(ブリティッシュ・コロンビア州の外)に強制移動をするか、日本へ行くかという選択肢を強いられました。日本へ行った4000人近くの半分以上は初めての日本でした」。無一文で放り出したうえにこの仕打ちだったのです(一定の補償が行われたのは1988年)。
さて、この記事のハイライトは、やはり、お風呂の遺構を発見するところでしょう。戦前のことですから、五右衛門風呂でしょうか? または、木の浴槽の横に釜をつないだものだったでしょうか? 教授は動画のなかで、浴槽の「金属と、木製の側面」の一部を発見したと話していますので、下半分が五右衛門風呂で、上半分は木材で側面を作ったタイプの浴槽のように聞こえますが、そうした大きな鉄器は高価であり搬入も大変そうです。どのようなタイプのお風呂であったかは定かでありませんが、ともかくこの湯屋を、集落の人々は共同で使っていたのでしょう。
この記事を執筆したブレント・リヒター記者は、2017年4月にも 関連記事 を書いており、そこにはマックル教授の興味深い言葉がありました。
「…この地域の伐採搬出業 logging industry への日系人の貢献は、その子孫にさえ、あまり知られていません。日系人はこの産業における最大勢力の一つでした。多くの日本人がブリティッシュ・コロンビア州に来た理由は伐採搬出業でした。漁業と農業だと思っている人が多いですが」。
また、この記事を後追いした CBC〔カナダの国営メディア〕の 記事 などから、以下のような情報を得られます。
・隠れるように住んでいた理由の一つは、おそらく、1930年代に保護区として居住禁止になったから(もし、それ以降も住んでいたのなら、ですが)。
◇ツイッターアカウント、ウェブサイト
ブレント・リヒター記者 @BrentRichter
ボブ・マックル教授 @bobmuckle
マイク・ウェイクフィールド(写真家) http://www.mikewakefieldphotography.com/
ノース・ショア・ニュース @NorthShoreNews https://www.nsnews.com/
ノース・バンクーバー博物館・資料館 @NorthVanMuseum https://nvma.ca/
日系文化センター博物館 @nikkeimuse https://centre.nikkeiplace.org/
◇関連記事
関連記事 Smithonian.com 2019年9月3日
関連記事 CBC News 2019年8月26日
関連記事 Capilano Courier 2018年10月
関連記事 ノース・シェア・ニュース 2018年5月
関連記事 カプリノ大学 2018年4月
関連記事 Forest History Newsletter 2017年6月
関連記事 ノース・シェア・ニュース 2017年4月(ブレント・リヒター記者)
関連記事 Elfshot 2013年
〔おわり〕