ユーザーブロマガは2021年10月7日(予定)をもちましてサービスを終了します

わたしは釣り人になりたい
閉じる
閉じる

わたしは釣り人になりたい

2018-08-25 15:36



    私の前職の会社の社長は、経理からトラックの運転から現場の作業まですべて自分でできてしまう「一身具現性」の塊のような人であった。そして、ポケットのいっぱいついたメッシュのベストをよく羽織っていた。そう、釣り人のための「フィッシングベスト」である。電卓や領収書やハンコやメガネやスマホやUSBメモリや十徳ナイフといったもの、つまり、自分で何でもやってしまう小企業の社長が必要とする小物をすべて身にまとっていた。

    大事な相手とのそれなりに高級なレストランでの会食でも、なんならそのまま行っていた。ちょっと特殊な業界(もちろん海とは関係ない。むしろ非常にインドアな現場を点々とする仕事だ)だったからかもしれないが、それを問題にする人はいなかった。

    社長に影響されてか、その会社での私の同僚の何人かも同様のフィッシングベストを来ていた。そしてそのままレストランとかにも行っていた。

    「スマホで今はなんでもできるだろ、なんでそんな小物がいっぱい必要なんだよ?」と思う人もいるかもしれない。ちげーよ! それは純粋なオフィスワークの世界だろ? モノを作ったり直したり移動したり準備したり片付けたりする現場系の世界ではとにかくいろんな道具が必要なんだよ。


    たしかにフィッシングベストは最強に便利である。「あれはどこだっけ」とものを探す時間も、「あれが手元にあればなあ」と悔しがることも限りなくゼロに近づく。しかし最恐にダサい。せめてレストランとか、周りの人が着飾っている場所にはそのまま行かないでほしい。いややっぱり職場の中であってもダサい。どうみても愕然とするほどかっこ悪い。無理無理無理。

    私は彼らのことを、嫉妬と侮蔑を込めて心の中で「釣り人」と呼んでいた。本当は私だってすべての小道具を身にまとっていたい。フィッシングベストを着たい。私もそれなりに多種多様な作業をこなさなくてはならなかったから、すぐに取り出せたら便利なのにという小道具はたくさんあった。しかし私の美意識がそれを断固として拒絶する。いや、誰のファッションセンスからいってもそれは許されない。いやだいやだ、私は絶対に釣り人にならないぞ! 私はジャケットスタイルと質のいい布地の服にこだわりオールデンの靴を履いて職場に行くようなおしゃれさんなのだ(職場についたらすぐ作業着に着替えなくてはならなかったけど…)。

    フィッシングベストではなくガジェット用バッグや腰袋でいいではないか、と思うかもしれないが、それは絶対に違う。バッグや腰袋は私も使っていたし、いろいろなものを試行した。

    しかし、ちょっとした休憩中や、(一日に一、二回、瞬間的にしか顔を合わせない同僚と)「あの人にあったらあれをしなきゃ」みたいなときや、現場の中や周囲を駆け回っているときに、とつぜん手元にちょっとしたものが必要になる。そういうときに限ってバッグや腰袋をどこかに置いてきている。やはりフィッシングベストには敵わない。



    そしていま、私はその仕事を離れて、(一時的なバイトだが)もっとふつうのオフィスワークをしている。フィッシングベストを着るという選択肢はゼロになってしまった。都会のオフィス街で典型的なオフィスワークをしている量産型オフィスワーカーのなかに、フィッシングベストを着て仕事をしている人なんてたぶんいないだろう。違和感がありすぎるし、上司だって許さないはずだ。

    前の職場とは違って純粋なオフィスワークの世界だから、基本的にはパソコン一台ですべての仕事が済むし、そのパソコンも職場に完備されている。周囲のみんなも軽装で出社している。私がコロコロのついたバッグを転がしていると「おや、このあとご旅行ですか?」と聞かれてしまうくらいだ(私は常に多くの本を持ち歩いているのでコロコロのついたバッグが手放せない)。

    だから実は、もうフィッシングベストの必要性は薄い。でも今だって、スマホ、モバイルwifiルータ、ACアダブタ、文房具類、ポストイットなど、身にまとっていたい小物はたくさんある。

    ほんとうは今でも釣り人になりたい。









    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。