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明晰なる曖昧さの恐怖 ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』
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明晰なる曖昧さの恐怖 ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』

2018-08-12 16:26

    十数年前にこの小説を読んだとき(土屋政雄訳だったか、行方昭夫訳だったか…?)にはこう思ったのだった――




    ネタバレ注意






    「幽霊はいなくて実は家庭教師の妄想にすぎない、と思いながら読んでいると、そうではなかったことが判明して愕然とする(実際に××が幽霊に殺される)。かといって、幽霊が本当にいるとは言い切れない(グロース婦人の眼には見えていない)。しかし、家庭教師の幻視ではない証拠もある(家庭教師が見た幽霊の外見が生前のクイントに一致する)。ただし、家庭教師の精神がなにがしか病んでいることの証拠もある(怪しい男を見たのに何故かしばらく誰にも相談しない。子供と幽霊が結託しているという奇妙な思い込み)。どの解釈を選んでもどこかで辻褄が合わなくなる。この曖昧なる明晰さのなかに宙吊りにされる恐怖!」

    なるほど名作であるというふうに納得したのであった。



    今回は、新潮文庫の新訳(小川高義訳)で読み返してみた。
    そして、ググって見つけたこの論文
    “The Turn of the Screw”: 「序文」と『創作ノート』を手がかりに 名本達也
    (この作品の様々な解釈について、きわめて簡潔によくまとめられている。)
    で、今までなされてきたいろいろな解釈を知ってから読んだ。
    すると、最後に××が幽霊に殺されるのは、実は家庭教師が絞め殺しているだけである、という解釈が紹介されている。私はその可能性は思いつきもしなかった。

    そういう目でこの小説を再読してみると、すべては精神を病んだ女家庭教師の幻視であり、××を締め殺したのもこの女であるというふうにしか読めなくなってしまった。家庭教師が見た幽霊の外見と生前のクイントの外見が一致していたのは、グロース婦人が調子を合わせていただけなのだろう。

    仄聞するところ、この新訳は「すべては女家庭教師の妄想だった」という説に沿って読みやすい訳文になっているとも聞く。なんだか、かつて感じた「構造的かつ必然的な、明晰な曖昧さ」が霧散してしまい、急につまらなくなってしまった。
    (ためしに、土屋政雄訳をパラパラと眺めてみたら、舞台劇を目の前で見ているような迫力に満ちていて、幽霊が実はいないなどという前提は絶対に出てこない)。



    ただし、この解釈でも、物語のいたるところに不確定的で怪しげで未解決な点は残る。

    ・子供の叔父の紳士は何かを知っている(以前はよく屋敷を訪れていたのに、今では報告を受けることさえ拒否する。いったい何があったのか?)。
    ・男児は、他の児童に悪影響があるという理由で放校となった(自慰あるいは同性愛?)。
    ・クイントの死には他殺を匂わせる点がある(他殺だとすると犯人は誰か?)。
    ・ジョセルの死とクイントの死はどちらが先なのか? この二人の死は関連しているのか?
    ・叔父の紳士はクイントとどういう関係だったのか?(これも同性愛?もしかしてクイントやジョセルを殺したのはこの叔父?)

    この他にも、幽霊はいたのかいなかったのか?子供はなぜ死んだのか?という点に比べれば小さな点であろうとはいえ、未解決で曖昧なところがいくらでもある。なにしろ、全編のあらゆる台詞が曖昧模糊としているのだ。さらに、この物語の語りの構造のレベルにも多くの謎がある。

    ・ダグラス自身はこの話のことをどう思っているのか? 「凄惨」とか「容易にわかるさ」などとむにゃむにゃ言っていてさっぱりわからない。
    ・「私」が女家庭教師の手記を「書写した」のはなぜなのか? そこで何らかの改竄が行われたと疑わざるを得ないではないか!
    ・ダグラスと「私」はどういう関係なのか? 相当に親しい友人であること以外には何もわからない。
    ・そもそも「私」は誰なのか? 小説家ジェイムズと同一とみなせる存在なのか? 性別すらわからない。
    ・「私」が思いついたタイトルとは何なのか?「ねじの回転 The Turn of the Screw」であるはずがない。それは作中の誰かが言った、〈それなら二回転になるよ that they give two turns!〉というセリフと大して変わらないからだ。つまり、「私」はこの怪談にぴったりのタイトルを思いついたと叫んでいるのに、それが何なのかがさっぱり作品から読み取れないのである。私としては、この謎がいちばん許せない。なんなんだよもう。

    ヘンリー・ジェイムズはたぶん、いたずらに読者を煙に巻くことを目的とした小説を書いてしまったのだろう。あらゆるところを思わせぶりにぼかして書いただけであって、こんなのは名作でもなんでもない…。

    という気がしてくる。なんかもうやだ、この小説。



    先程の 名木論文 に戻ろう。この小説の発端は、ヘンリー・ジェイムズの「創作ノート」にその記録があるのだという。そこに記されているのは、ジェイムズがカンタベリー大主教から聞いた怪談が元ネタなのだということだ。

    カンタベリー大主教!

    我らが哲学者A・N・ホワイトヘッドの幼少期に影響を与えた、英国国教会の総本山のトップではないか!

    …といっても、我らがホワイトヘッドの家族と親交があったのはアーチボルド・キャンベル・テート(在位1868-1882)であって、ジェイムズがこの怪談を聞いたのはその直後の後継者、エドワード・ホワイト・ベンソン(在位1883-1896)である。

    哲学者ホワイトヘッドは英国人であり、その父は、カンタベリー大聖堂から16マイルしか離れていない教区の聖職者であり小学校校長という名士であった。カンタベリー大主教と家族ぐるみのつきあいがあってもなんら不思議ではない。

    しかし、アメリカ生まれアメリカ育ちのジェイムズが(ロンドンにも居を持つ名士文人であったとはいえ)、なぜ、カンタベリー大主教から怪談を聞くなどという機会に恵まれたのか?

    『ねじの回転』の曖昧さというのは、「創作ノート」に記された、大主教ベンソンの怪談が曖昧であったことと対応している。つまり必ずしも、ジェイムズが悪意をもって読者を惑わすために曖昧な話を書いたわけではなく、もとからひどく曖昧な怪談であったのだ。そしてこのカンタベリー大主教ベンソンは、奥さんは首相グラッドストンに「ヨーロッパ一の賢女」と呼ばれ11人の恋人遍歴のあるレズビアンで、二人の間に生まれた子供六人のうち夭折した息子一人を除く息子三人はみな作家や詩人になりみなホモセクシャルでそのうちの一人はホラー作家としても有名になり娘一人は芸術家でレズビアン残りの娘一人も作家というなんだかすごい一家(このへんはうろ覚えなので間違いがあるかも)の人でありたぶん本人もなんかすごい人なのだろう(いや、これは偏見であり差別的なのだけれども…)。だとすると、その人が曖昧でつまらない怪談を語ったなどとはとうてい考えがたい。カンタベリー大主教ベンソンが語った曖昧でありながらその曖昧さに特異な面白さのある怪談を聞いたという体験をジェイムズが小説作品として可能な限り再現したと考えるべきではないのか?


    さらに、こう考えてみることができるのではないか?

    ジェイムズの『ねじの回転』に様々な解釈を施したり、それが傑作であるかどうかに頭を悩ませることよりも、カンタベリー大主教ベンソンはどういう人であったかを調べたり、この人が語ったその怪談とはどんなものであったのかを想像したりするほうが、もしかしたら実り多く楽しいことなのではないか? ジェイムズの『ねじの回転』は、実は元ネタであるベンソンの怪談の妙味を伝えきれていないのではないか?

    …しかしこれについては、ヘンリー・ジェイムズやカンタベリー大主教ベンソンの伝記を読んでみたり、英語で調べ物をしたりしなくてはならないだろうから、私がそれをするにはちょっと時間がかかりそうだ。

    〔おわり〕





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