写真は数日前の有明山です。左横の北アルプス燕岳は真っ白ですが、標高の関係で有明山の山肌は木々の霧氷でご覧のような色の違いが風景を作ります。
連日の寒さ。天気予報も今朝も大当たりで廊下を歩くと吐く息が白くなります。古いうちですからサッシも二重ではなく寒気がじかに伝わってきます。
火は火を焼かず。でしたか禅問答では水に入って水に濡れず。などと不思議なことを言うようです。哲学者の上田閑照先生が鈴木大拙先生に「水に入って水に濡れず。」とはどういうことかと質問されたら、鈴木先生は「ずぶ濡れだ!」と応えたそうで、上田先生はそれを聴いて安心したという話を2年ほど前の哲学者森哲郎先生の西谷啓治哲学の講演でそういう話を聴いたことを思い出しました。
よく自己を滅するといいますが、意識的な私というものは常に定まるところがなく散乱しています。
本来的な自己というもののあり方においては分別無き無分別智にあり常に三昧、刀でこの刀を切ることができないというレトリックも意味をなします。
水に入ればずぶ濡れであるのは確かで、それが三昧の表現になると「濡れず」になり、そこに自己を忘れる、というあり様が出てきます。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
自己無くして自己を観る、は自己即否定、自己即肯定の三昧の境地の生(あ)るのひとつを表現する。
しかしながらサムイは寒い。ツメタイは冷たい。サムタイのです。「サムタイ」は私の造語です。
「サムタイ」で今日も始まる。
わたしが阿弥陀になるじゃない。
阿弥陀の方からわしになるのだ。
なむあみだぶつ。
は妙好人の浅原才一翁の言葉です。念仏者の詞ですがまさにその境地に至った言葉です。