気象学者のスヴェレ・ペターセン(Sverre Petterssen 1898-1974)の自伝的回想録『嵐をしのいで Weathering the Storm 』〔注1〕に、A・N・ホワイトヘッドとの出会いをしるした一節があります。
ペターセンは、「歴史上もっとも重要な天気予報」、すなわち、第二次世界大戦におけるノルマンディー上陸作戦のための天気予報に貢献した人物です。〔注2〕
ノルウェー人のペターセンは、1939年からマサチューセッツ工科大学の気象学部長の地位にありましたが、ドイツ軍の侵攻によりロンドンへ亡命していたノルウェー政府からの要請で英国へ渡ります。以下は、この回想録からの引用です。〔注3〕
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…英国大使館からのメッセージを受け取った。〔1941年の〕11月8日にガンダー〔カナダ東海岸、ニューファンドランド島の国際空港〕から出発する空輸軍団に席を予約した、と。その飛行に必要な装具は、ワシントンから帰還する英国使節団に運ばせるとのことであった。
〔中略〕
やがてワシントンから飛行機がきた。ロンドンへ行く人が三人乗っていて、私の装具一式を持っていた。毛皮裏地のブーツ、二重になった飛行服、巨大な手袋、毛皮の帽子。
〔この空輸軍団の〕気象学の運用を見学することに集中していたから、私はこの同行者たちにほとんど注意を払っていなかった。一人は英国海軍の提督、一人は航空機生産省の高官、そしてもう一人はホワイトヘッドという名の教授であった。
〔中略〕
マック博士〔Patrick Duncan McTaggart-Cowan 気象学者〕が航空路上の天気予測の最後の仕上げをしているときに気がついたのだけれども、この年老いた教授は、数学者・哲学者として有名な、あのホワイトヘッド(アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド)であった。毎度ながら損なことであったけれども、私は自分の仕事のことで頭がいっぱいだったのである。
〔中略〕
記録的な速さでスコットランドのプレストウィック〔国際空港〕に到着した。私の記憶では九時間八分だ。動物にとっての快適さという観点ではひどい飛行であった。爆弾倉には氷点下の隙間風が吹き込む。いろいろな形の荷物や箱のほかに座席というものはない。音がすごくて会話もできない。
少し寝ようと思って荷箱の上で横になり、我ながら馬鹿なことをしたものだが、酸素マスクを外してしまった。プレストウィックへ下降し始めたときに目が覚めると、足も手も痺れ、五感に不調をきたしているありさまであった。
同乗者たちはマスクを着用し、八十歳を超えていたホワイトヘッドも含めて一睡もせず、大西洋を飛んだぞ!とでも言いたげに、少年のようにはつらつとしていた。
〔中略〕
ホワイトヘッドは著しく快活であり、言葉にあらわしがたいほど、よい刺激を与えてくれる人物であった。彼はハーバード大学を休職し、英国へと戻って戦時経済省 the Ministry of Economic Warfare で働くことを選んだのである。
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八十歳のホワイトヘッドが大西洋を軍用機で飛行し、英国の戦時経済省に協力していた!
この事実は、ホワイトヘッドの伝記の決定版であるV・ロウ『ホワイトヘッド伝』〔注4〕にも載っていませんし、最新の年表〔エディンパラ版著作集『ホワイトヘッドのハーバード講義1924-1925』2017, pp.xvii-xix〕にも記載されていません。
いったい、どんな仕事だったのでしょうか? きっと、有識者会議のようなものに呼ばれたのでしょう。なにか戦争にかんすることだったのでしょうか、それとも、戦後の英国の再建についてだったのでしょうか、はたまた、戦後の世界体制をいかに編成するかについてだったのでしょうか? この時期には「自由の諸相」(1940)〔注5〕、「復興という問題」(1942)〔注6〕といった論文がありますから、そこに表れている思想と関係があるのではないでしょうか?
しかし、よくよく考えてみると、不可解な点があります。
この1941年は、ホワイトヘッドが「新しい薬がなければ死んでいた」ほど深刻な肺炎で臥った年です。〔注7〕予定されていた原稿が病気のせいで書けなかったことを詫びた9月21日付の手紙も残っています。〔注8〕
そして、この飛行が11月8日であるにもかかわらず、わずか11日後の11月19日には米国の自宅で、友人と歓談していた記録があります。〔注9〕
不可能な日程ではありませんが、肺炎から回復したばかりの八十歳の老人を軍用機の爆弾倉に押し込み、11日間足らずのあいだに大西洋を往復するというのは、あまりにも乱暴な話です。それほどまでに、緊急で重大で極秘の仕事だったのでしょうか?
仮にそうだったとしても、戦後70年以上を経た今日では多くの資料が閲覧可能になっているでしょうから、いままで誰もこの歴史的事実に気付かなかったというのはどうも不自然です。
もう一つ気になる点があります。これと同じ時期に、ホワイトヘッドの息子である経営学者のT・ノース・ホワイトヘッド は、英国の外務省のために働いていました。〔注10〕このT・ノースくらいは、父の渡英のことを知っていてもよさそうなものです。そしてT・ノースは、V・ロウがホワイトヘッドの伝記を書くにあたって全面協力したのですから、知っていたならその事実を伝えていたはずです。
…と、ここで一つの可能性に気付きます。ペターセンは、このT・ノース・ホワイトヘッドを、その父である哲学者ホワイトヘッドと勘違いしたのではないか?
そう考えると辻褄が合います。
T・ノースは父ホワイトヘッドと共に英国で育ちました。父ホワイトヘッドは1924年にハーバード大学教授として招聘され米国へ移住します。T・ノースは1931年にハーバード大学の経営大学院であるハーバード・ビジネス・スクールの助教授として米国へ移住します。なんと、親子でハーバード大学の先生になったのです。
T・ノースは、第二次世界大戦が勃発するとハーバード大学を休職し、みずから志願して英国外務省の米国部門で働きます(戦後に同大学に復帰)。アメリカの世論とルーズベルト大統領の考えを読み、チャーチル首相にアドバイスするという役割を担いました。〔注11〕たまたま1941年11月8日に英国行きの飛行機に乗っていたことは大いにあり得ます。
そして、「ハーバード大を休職 chosen to leave Harvard 」という表現は、T・ノースにこそあてはまります。哲学者ホワイトヘッドは1937年に七十六歳で退職し、とっくに名誉教授になっていたのですから、「leave (休職または退職)」する必要はありません。
そもそも、たまたま飛行機に乗り合わせたこの「ホワイトヘッド」が哲学者ホワイトヘッドであるというのは、ペターソンが「気がついた」ことであって、本人に確認したとは書いてありません。T・ノースであったと考えれば辻褄が合うのですから、これはもう、そのように断定してよさそうです。
しかし、そう考えた場合に一つだけ、辻褄の合わない点が残ります。この時点で四十三歳であったペターセンが、この時点で四十九歳のT・ノースを、八十歳の老人だと勘違いするでしょうか?
ペターセンは飛行機を降りたあと、この「ホワイトヘッド」と、西洋文明の行方について会話したことや、その人となりから受けた印象、そして、ロンドンのタクシー事情やホテル事情について雑談したことまで、かなり鮮やかな記憶としてこの回想録に記していますから、年齢をそこまで極端に見誤るというのは考えにくいことです。〔注12〕ペターセンがこの本を出版したのは最晩年の七十六歳のときですから、その種の記憶違いが忍び込むこともありうるのでしょうか? いや、もしかたら、哲学者ホワイヘッドがいつごろの生まれなのかを全く知らなかったせいで、T・ノース を哲学者ホワイヘッドだと思いこんでしまったのではないでしょうか?
これ以上の推測は無意味でしょうから、このへんまでにしておきます。
以上を合わせて考えると、年齢の食い違いが謎として残るものの、ペターセンがT・ノース・ホワイトヘッドをその父と勘違いしたと考えてよさそうです。こう空想するのも楽しいのですが――
――我らが哲学者ホワイトヘッドは、第二次世界大戦の渦中にある英国から極秘の重要会議に招聘される。肺炎で死にかけたその年に、八十歳の老体を押して爆撃機に乗り込むホワイトヘッド。軍用の防寒着と酸素マスクを着用し、氷点下の爆弾倉で九時間あまりの飛行に耐えるも、その顔は少年のように輝いている。そのわずか11日後には、何もなかったかのごとく、彼はいつもどおりに自宅で友人と歓談していた。この任務はあまりにも重要で、あまりにも極秘であったため、偶然に残されたこのペターセンの回想以外には一切の証拠が残っていないのだ。われわれはただ、この時期における論文、「自由の諸相」(1940)や「復興という問題」(1942)に現れている彼の思想から、かろうじて何があったのか想像することを許されているにすぎない。
〔おわり〕
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注1 Svere Petterssen "Weathering the Storm: Sverre Petterssen, the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology," American Meteorological Society, Jan 1, 2001. 初版(ノルウェー語)は1974年。注2 James Fleming, "Sverre Petterssen and the contentious (and momentous) weather forecasts for D-Day," Endeavour Vol.28 No.2, June 2004
注3 以下の引用は、Weathering the Storm pp.100-102. からの抜粋である。
注4 Victor Lowe, "Alfred North Whitehead: The Man and his Work", (1985, vol. I; 1990, vol. II)
注5 "Aspects of freedom." In Ruth Nanda Anshen (ed.), "Freedom: Its Meaning," Harcourt, Brace. 1940, pp. 42-67.
注6 "The problem of reconstruction", Atlantic Monthly, vol. 169, February 1942, pp. 172-5.(一部編集が加えられた雑誌記事。全文は、October. Statesmanship and specialized learning. Proceedings of the American Academy of Arts and Sciences, vol. 75(1), pp. 1-5, 1942 Oct. )
注7 Lucian Price, "Dialogues of Alfred North Whitehead", 1954.
1941年6月28日の会話に「新しい薬がなければ私は六週間前に死んでいた」というホワイトヘッドの発言がある。また8月30日の会話では、L・プライスから見てホワイトヘッドは「肺炎から順調に回復し、非常に健康に見えた」が、ホワイトヘッドは「人にはそう言われますが、病気の影響がまだ残っています」と答えている。
注9 Lucian Price, "Dialogues of Alfred North Whitehead," 1954. 1941年12月19日の対話参照。
注10 T・ノース・ホワイトヘッドの経歴については ここ(Encyclopedia of History of American Management)を参照した。
注11 Robert Stinnett, "Day Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbor," Free Press; Touchstone ed., 2001, p.3.
注12 Weathering the Storm pp.101-103.
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