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これも未邦訳のようなので翻訳してみました。A. N. Whitehead の1912年の講演 ”The Principles of Mathematics in Relation to Elementary Teaching” です。1917年刊の "The Organization of Thought" p92-105 所収です。
・原文は ここ や ここ で読めます。
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数学の原理と初等教育
THE PRINCIPLES OF MATHEMATICS IN RELATION TO ELEMENTARY TEACHING
国際数学者会議、於ケンブリッジ、1912年8月
(International Congress of Mathematicians, Cambridge, August, 1912)
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
A.N.Whitehead
わたくしどもが関心を抱いておりますのは、数学の専門家となる少数の学生に対する高度な教育についてではなく、中等学校 secondary school〔日本の中学・高校に相当〕の大多数の少年たちに対する数学教育についてであります。
少年たちといっても、またその中で二つに分けなくてはなりません。
一つの区分は、数学の教育を限定しておきたいと欲する少年たち。他方の区分は、さまざまな専門家としてのキャリアへと進むために、数学の訓練をいくらか要する――数学で明確な好成績を収めるという形であれ、数学的な訓練の施された頭脳を得るという形であれ――少年たちです。
後者の区分を「数学層 methematical section」、前者の区分を「非数学層 non-mathematical section」と呼んでみることにいたします。
しかし、ここでも繰り返しになりますが、「数学層」の少年といいましても、最低限の数学よりも多くを学びたいと欲する少年は多数おります。
なおまた、この二つの層の少年たちについて私が申し上げますことのほとんどは、大学の初等クラスの生徒たちにも当て嵌まります。
本論文の主題は、こうした両方の層の生徒たちの教育のなかで、数学の様々な原理についての現代の研究が、どんな位置を占めるべきなのかを究明することであります。
この探求を始めるにあたって、一つの足がかりとするために、こう訊かせていただきます。「非数学層の少年たちに、必要最低限の算数だけでなく、それ以上の数学を少しでも教える必要があるのか」と。
一般教育〔liberal education 専門・職業教育ではなく、教養・人格に重点を置いた教育〕の一要素として用いられるとき、数学の訓練というものは、生徒の頭のなかに、どんな性質を生じさせようとして設計されているのでしょうか?
どちらの層の生徒にも等しく当て嵌まる答えとして、わたくしはこう答えます。「上手に設計された数学の課程であれば、互いに結びついた二通りの形で、生徒の頭脳は鍛えられるのである」と。
この二通りの形と申しますのは、密接に結びついているのではありますが、完璧に別々のものです。
まず一つ目の形と申しますのは、これは本質的には、論理学とは全く無関係のものです。
それは、「抽象的な観念をはっきりと把握して、それを特定の状況へと関係づける力」です。
言い換えますと、数学というものの最初の効用は、抽象的な思考の力を強めるということなのです。
繰り返しますが、これは本質的には、論理学とはなんら関係がありません。と申しましても、論理学の鍛錬というのが、欲する効果を生じるための最善の方法なのは事実でありますけれども。
何を習得させようとしているのかといえば、抽象的な観念についての哲学的理論ではありません。抽象的な観念を用いる習慣と力を身に付けさせようとしているのです。
どんなものであれ、何かを用いる習慣や力を身につけるには、方法が一つあり、そして一つしかありません。日常的にそれを使うことです。このありふれた方法しかないのです。ほかの近道はありません。
教育のなかで、もしわれわれが、ある一定の構造をもった頭脳を生み出すことを欲しているのであれば、生徒の頭を、一日一日、一年一年と慣らしてゆくことで、望ましい形の構造へ育てるのでなくてはなりません。
したがいまして、抽象的な観念を把握する力と、それを用いる習慣を教えるために、われわれは、一組の観念を選び出さなくてはなりません。それは、重要であるばかりでなく、わかりやすく clear 、はっきりした distinct 観念でないといけません。
幾何、比率、量、そして数といったことがらについての数学的な根本的真理というのは、他のいかなるものよりも、この条件を満たしています。
一般教育の一要素として、数学が根本的かつ普遍的な位置を占めているのは、このゆえなのであります。
ではしかし、いったい何が、「幾何、量、数についての根本的な数学的真理」だというのでしょうか?
ここでようやく、くだんの重大問題へと、わたくしたちは立ち至ります。「数学の原理についての現代科学」と「数学教育」のあいだには、どんな関係があるのかという問題です。
「数学の根本的な真理とは何か」という問題に対する、わたくしの答えはこうです。「いかなる絶対的な意味においても、そういうものはない」と。
「幾何、量、数といったものについての数学的推論すべてにとって必然的な出発点となるような少数の命題――たがいに独立 independent で、根源的 primitive で、証明されない unproved 命題――の一式が存在していて、それが唯一無二のものである」などということはないのです。
数学的な推論にさいして、絶対に必要とされる前提 pre-suppositions として唯一あるのは、論理的演繹を可能にするための前提だけです。
そういった「論理学の絶対的な真理」と、いわゆる「幾何、量、数についての根本的な真理」なるもののあいだには、命題 propositions、集合 classes、関係 relations にかんする論理学という、数学の主題の新しい世界の全てが広がっております。
〔訳注:このときまさに刊行中であったラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』は、数学の全ては論理学から導き出せることの証明を試みる画期的な大著であった〕
しかし、そのような主題は、あまりに抽象的ですから、「抽象的な思考をする」という難しい技芸のための初等的な訓練場とすることはできません。
そういうわけで、わたくしたちは、妥協をしなくてはなりません。五感でものを知覚したときに誰でも自然に思い浮かべるような、明白でわかりやすい一般的観念から出発する、という妥協です。
幾何学におきましては、ギリシャ人たちが練り上げ、ユークリッドによって提示された観念が、大まかに言えば、われわれの目的に適合しています。体積、表面、直線。真っ直ぐさ、曲率。交差、合同。より大、より小。相似、形状、縮尺。そういった観念です。
実際にわれわれは、空間の特性についてのそうした一般的観念を教育のなかで用いています。こうした一般的観念というのは、世界の中の様々な現象を、理解力をもって観察している人であれば、誰もが習慣的に脳裏に見ているものなのです。
こうしてわれわれは、プラトンの意見に立ち返ることになります。プラトンは、幾何学について――当時彼に知られていたような幾何学について――こう主張したのでした。一般教育において、幾何学は学問の女王である、と。
〔プラトンの開設した学園の門に掲げられていた句が「幾何学を知らざる者、この門を叩くべからず」。「数学は科学の女王であり、数論は数学の女王」と言ったのがガウス。したがってここはホワイトヘッドの言い間違いであろうか〕
幾何学のほかには、量、比率、数についての観念が残っております。
これは実際には、初等代数学を意味します。
初等代数学のなかで、とりわけ重要となる観念が二つあります。「任意の数 any number」という観念、つまり言い換えますと、x、y、z といった親しみのある文字を〔数値の代わりに〕使うこと。そして、「お互いに依存している変数」という観念、言い換えますと、関数という観念です。
そうした観念はみな、できるかぎりいちばん単純な関数をつくって繰り返し使わせることで、徐々に身に付けさせるのです。
一次関数は、図形では直線で表します。
二次関数は、図形では放物線で表します。
単純な陰関数 implicit functions 〔関係式 f(x,y)=0 の関数〕は、図形では円錐曲線で表します。
そこから先は、幸運であれば、そして意欲ある学級であれば、増加率という概念へと進んでゆくこともできるでしょう。そこでもまた、できるだけ単純きわまりない事例に限るようにするのです。
ここでわたくしは強く申し上げたいのですけれども、幾何においても代数においても、こうした一般的観念を把握することは、生徒の出発点なのではありません。生徒が到達すべきゴールなのです。
いちばん単純な特殊事例を繰り返し練習することが、進歩の方法です。そのゴールは、哲学的な分析をできるようになることではなくて、それを使えるようになることです。
しかし、使えるようになるには、生徒はどう練習したらよいのでしょうか?
ただ座って y=x+1 という関係について考えてもだめです。なにか単純でわかりやすいやり方で使ってみなくてはなりません。
数学の訓練によって生み出されるべき頭脳の力が二つあると申しましたけれども、ここでわれわれは、その二つ目の力のところへ来たのです。それはすなわち、「論理的に推論する力 the power of logical reasoning 」です。
ここでもまた、本質をなすのは、論理の哲学についての知識を教えることではありません。論理的に考える習慣を教えることこそが本質です。
「論理 logic 」という言葉でわたくしが指しておりますのは、演繹的論理学 deductive logic のことです。
演繹的論理学というのは、さまざまな一般的観念のあいだにある関係――たとえば「包含 implication 」など――についての科学です。論理学が始まるところでは、特殊な個々別々のものごとというのは、消え去ってしまいます。
このものごとをあのものごとと論理的に関係づける、ということはできません。例えば、このペンとあのペンを、論理的に関係づけることはできないのです。このペンに当て嵌まる何らかの一般的観念を、あのペンに当て嵌まる何らかの一般的観念と関係づける、ということならできます。
そして、二つのペンの個体性というのは、論理学的な過程にとっては、まったく無関係なことです。論理学的な過程というのはもっぱら、その二つの一般的観念にかんするものになるのです。
したがって、論理学という実践は、そういった一般的観念について考察するさいに一定のやり方で頭を使うということです。
そして、初等数学の訓練というのは、実は、先ほど列挙したような、幾何と代数についての一般的観念を論理的に用いるということにほかなりません。
したがいまして、初等数学の訓練には、わたくしがこの論文の始めに申し上げました通り、二重の利点があります。
初等数学の訓練によって、抽象的な思考のできる頭脳を作ることができますし、何を通じてその目的を達成するのかといえば、抽象的な思考のなかでも最重要な種類のもの、すなわち、演繹的論理の訓練を通じてなのです。
念のため申し上げておきますが、ただ抽象的な思考でありさえすればよいのなら、他のタイプのものを選択をすることもできます。子供たちを宗教的神秘主義者にするという希望のもと、抽象的な道徳的観念の美を直接に観想するよう訓練する、ということもできるかもしれないのですから。
一般的な教育の実践としましては、初等数学がその例でありますように、論理をこそ重んじるべしとの判断が下されております。
さて、それではここで、さらなる問いに答えなくてはなりません。数学を教えるにさいして、論理の精密さというのは、どんな役割があるのでしょうか?
ここに含まれた問いに対する、われわれの全体的な答えは明白です。
論理的な精密さというのは、数学を教えることの二つの目的のうちの一つです。しかも、数学を教えることの他方の目的を達成できるための、唯一の武器でもあるのです。
数学を教えるというのは、論理的な精密さを教えることです。
それを教えなかった数学教師は、何も教えなかったということです。
ただし、このように何の条件もつけない形で申し上げてしまいましたけれども、このテーゼの意味は注意深く説明せねばなりません。
というのも、きちんと説明しなければ、この問題についての本当の趣旨が、まったく誤解されてしまうはずですから。
論理的な精密さというのは、獲得されるべき能力です。
この性質を頭脳へと伝授することが、教育の目的なのです。
たとえば、偉大な文学を読む習慣は、文学教育が目指すゴールです。
ゴールだからといって、われわれは最初の授業を始めるにあたって、子供が自ら進んでシェイクスピアを読みたがるなどとは期待しません。
子供がアルファベットの全てを学び、綴れるようになるまで、読むことはできません。そしてその次には、一音節の語だけでできた本を読ませることから始めるものです。
それと同じように、数学の教育も、論理学的な精密さをだんだんと増してゆくのでなくてはなりません。
最後の段階にふさわしくあるのと同じくらい注意深い論理的な分析を、開始の段階で期待するというのは馬鹿げたことです。
わたくしの主張を、「数学の訓練にあたっては、子供には濃密な論理的思考の力が当然あるものと前提するべきである」という意味に取られますと、完全な誤解であります。
私の主張はその正反対でありまして、そういう力は、子供にあるものと思ってはいけないし、あとから身につくものなのです。数学の訓練とはまさに、その力を身につける過程にほかなりません。
わたくしが仮定している土台のすべては、「そういう力は、最初から完全に発達した状態で存在してはいない」というものです。
あとから身につける力というものは、他の力もみなそうですが、だんだんと育てられなくてはなりません。これは当然のことです。
その発達の様々な段階というのは、教師の判断と才能によって手引きされなくてはなりません。とはいえ、なにが本質なのかといえば、教師がはっきりと念頭に置いているということです――「論理学的に精密な推論をするという、まさにその力こそが、自分の努力の先にある目的のすべてである」ということを。
もし、子供たちが、いかなる程度においてであれこの力を得たならば、全てを得たことになるのです。
本論文の主題のこの部分につきましては、しかしながら、まだ完全に考えを尽くしたわけではありません。
論理的な精密さというのは、論証 argument の各段階をすべて理解するということです。
しかし、論証の各段階というのは、いったい何でしょうか?
論証のすべての段階をすべて言明するというのは、数学的な推論についての教育のカリキュラムのなかへ導入するには、あまりにも複雑で難しい作業となってしまいます。
そういった言明は、きわめて理解しづらい抽象的な論理学の観念を含んできます。なぜそれほど理解しづらいのかというと、通常の思考のなかでは、論証の全段階の明示が必要となることは、あまりにも稀だからです。
ですから、初等教育の主題の基礎とするには、適切なものではありません。
「理論的に万全な論理学的研究となるように論理の段階を踏むこと」と、「ほとんどの実用的な目的――教育を含め――のために十分であるように論理の段階を踏むこと」の違いを、理論的に区別するような線を引くことができるとは、わたくしは考えません。
その問題は心理学に属するのであり、実験の過程によって解かれるべきものです。
何を目指しているのかといえば、必要な分だけの論理的な用心深さを習得することです。誤謬を見抜けるようになり、健全な論理的演繹の型が分かるようになればよいのです。
それよりも先まで進むならば、一部は哲学的な目的のためということになりましょうし、また一部は、その研究それ自体が重要であるようなむき出しの抽象的観念を提示するためということになりましょう。しかし、こうした二つの目的ともなりますと、どちらも教育とは縁遠いものです。
わたくしの意見はこうです。「全体としてみれば、ギリシャの数学者たちから受け継いだタイプの論理的精密さというものが、おおまかに言って、われわれの求めるものである」と。
幾何でいえば、これが意味するのは、ユークリッドの幾何学にみられるような種類の精密さです。
ユークリッドの有名な著書『幾何学原論』を教科書として使うべきだ、などと申しているのではありません。ところどころで、ユークリッド流の説明にみられるような一定の圧縮が賢明ではないとも申しておりません。そういうことはすべて、ただの枝葉末節にすぎません。
わたくしが申しておりますのは、ユークリッドが明確に示したような種類の論理の推移は、われわれも明示するべきであり、ユークリッドが省いたような種類の論理の推移は、われわれも省くべきである、ということです。
とはいいましても、なにか緩和するものなしに、ユークリッド幾何学の全き厳格さのなかへ生徒を投げ込むことが望ましいのかどうかについては、わたくしは疑いを抱いております。
最初の段階では、与えられた数値から単純な作図をする訓練を生徒に課すことに大きな重点を置くという現代の習慣――少なくとも英国ではそうです――は、この理由によって、大いに賞賛されるべきです。
どういう意味かと申しますと、ユークリッド幾何学という精密な基礎の上でちょっぴり推論をしてみたあとに、それを様々な具体事例のなかでやってみるのです。大まかに測ってみると、望みどおりの結果が実際に得られていることがわかります。すると、学習者の頭はほっとするのです。
ただし、測ることと、証明することを、混同してはならないというのは重要です。抽象的な観念が実際にはどんなことを意味しているのかを、初学者が掴み取れるようにすることが目的なのです。
代数学でもやはり、記号法と、記号の実際の使用法については、いちばん単純な事例のなかで身につけるべきです。より理論的な、記号が主となる方法 symbolism の扱いについては、もっと後の適切な段階までとっておくのです。
つまり、わたくしの考えるルールはこうです。「まず最初は、いろいろな概念の意味を、単純なやり方で粗雑な練習をすることで学ぶ。しかる後に、より大きな一般性へと進んでゆくための準備として、論理的な手続きを洗練させてゆく」。
要するに、本論文の主張を、もう一つ別の言い方をするならば、こんなふうに言うこともできます。すなわち、「数学教育の目的は、分析する力、一般化する力、推論する力を身につけることである」と。
分析と一般化という、この二つの過程は、わたくしの先ほどの言明の中では、「抽象的な観念を把握する力」という言葉で、ひとまとめになっていました。
しかし、分析したり一般化したりするためには、これから分析されたり一般化されたりするべき、なまの素材となる観念から出発しなくてはなりません。
この過程を経て最後に生まれるものから出発するということは、したがって、明確なる誤りです。分析と一般化を経て精製された形となった観念から出発してはならないのです。
そんなことをしたら、訓練の重要な部分を飛ばしてしまっていることになります。子供の頭の中に実際に存在している観念を相手にしなくてはいけません。それを文明化 civilize し、着物を着せる clothe という、難しい技芸の稽古を子供にさせることが重要な部分なのです。
要するに、先生が宣教師で、子供の頭のなかにある観念は未開人です。
この人食い族と交わり、その身を危険に晒すことを拒むならば、宣教師は自らの主たる任務を避けていることになります。
さて、ではここで、「数学層」をなす子供たちへと注意を向けていただきたく思います。
広く浸透している考え方の一つに、こういうものがあります。つまり、比較的に進んだタイプの数学――例えば、微分学といったもの――は、その論理や理論をまったく考慮することなしに教えても、物理学者や技術者にとって役に立つものになりうる、という考え方です。
これはわたくしには、深刻な間違いであると思われます。
この考え方は、「数学的な結論へとたどり着く方法を理解することなしに、たんなる機械的な知識を持っているだけで、応用科学の役に立つ」ということを言っているわけです。
そんな知識は、ぜんぜん何の役にも立ちはしません。
結果それ自体であれば、その種の小型本や初等参考書に、みんな書いてあります。
結果を適用するときであれば、「それがなぜ真であるのか」などと思い煩う必要はありはしません。ただ受け入れて、当て嵌めればよい。
物理学や工学のなかで、なにが至高の重要性を有しているのかと言えば、数学的に訓練された頭脳です。そして、数学的に訓練された頭脳というのは、適切な数学の訓練を経ることでのみ、獲得されるのです。
微分学といった科目を学び始める適切な方法というのは、「増加の割合」という観念を粗雑に説明しつつ、いくつかの馬鹿馬鹿しいほど単純な事例へとすみやかに飛び込んで、その記号法を使ってみるということです。わたくしはこれを全面的に認めます。
そのようにして身に付けた記号法であれば、理工学研究所の講師たちが使えるものになります。
しかし、応用科学者に対する数学の訓練というのは、そうした観念を正確にしていったり、証明を精密にしてゆくところにあるのです。
数学を教えるさいの論理的な精密さというものの位置づけについて、本論文の趣旨が明確になったものと希望いたします。
精密な論理を用いるという習慣は、抽象的な観念のみに思考を集中させることを必須とします。これは、学びの最初の段階から、すべて可能であるというわけには参りません。
それは、教師が目指す先にある理想なのです。
また、論理の精密さというのは、論理を言葉に表す logical explicitness という意味にとるならば、絶対性のある問題ではありません。程度の多少の問題です。
したがって、訓練が進むにしたがって、どれくらいの量を言葉に表してゆくべきかというのは、教師が実践にさいして判断することです。
最後に申し上げます。ある意味では、教養ある頭脳というのは、言葉に表すことが減るのです。
よく憶えている道は素早く通ってしまい、自分にとってきわめて明白であるような思考の連なりを言葉にする労を省いているかもしれないのですから。
しかし他方で、この素早さの代償として支払っているものがあります。誤謬が潜みうる微妙な点のすべてに対しては集中力を発揮しているのです。
論理の精密さという習慣は、隠れた問題点への勘が働くということなのです。
〔おわり〕
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【訳者より】
・ホワイトヘッドは、ケンブリッジ大学で上級講師 senior lecturer (今の日本でいう准教授?)の地位にありましたが、いろいろな経緯があって、1910年にケンブリッジを去り、ロンドンへ移住します。ケンブリッジ大学の特別研究員(フェロウ)という地位は引き続き保持していましたが、1914年にロンドンのインペリアル・カレッジの応用数学主任教授となるまでは、(一時的な講師職や、教育行政の委員など以外には)あまり確たる地位のない時期でした。
・とはいえ、『数学原理』第1巻刊行が1910年、2巻が1912年、3巻が1913年。1911年の『数学入門』も好評を博しました。地位はなく、収入も減りましたが、多少の名声を得た時期ではあったかもしれません。
・同じ年に、「数学のカリキュラム」という講演もしています("The Organization of Thought"1917と”Aims of Education"1929の両方に所収)。
・数学に大きな革命を起こした一人であるホワイトヘッドが、それと並行して(か、それに一区切りつくころに)、初等教育に大きな関心を抱いていたのは、興味深いことと思います。
・そして、数学と論理学に革命を起こした一人であるホワイトヘッドが、初等教育においては、〈数学的・論理学的な厳密さを、最初から生徒に求めるのは間違いである。それは最後に得るべき目標なのである〉と力説しているのは、注目に値するのではないでしょうか。
・原文では生徒を指すのに boys, schoolboys, he が多用されており、男子生徒しか念頭にないかのごとくですが、時代ゆえでしょう。ホワイトヘッド自身は女権拡張論者でした。
・最後の一文「The habit of logical precision is the instinct for the subtle difficulty.」を「論理の精密さという習慣は、隠れた問題点への勘が働くということなのです。」と訳しましたが、本当はもう少し格好良く訳せる気がします…。
・原文は ここ や ここ で読めます。
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数学の原理と初等教育
THE PRINCIPLES OF MATHEMATICS IN RELATION TO ELEMENTARY TEACHING
国際数学者会議、於ケンブリッジ、1912年8月
(International Congress of Mathematicians, Cambridge, August, 1912)
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
A.N.Whitehead
わたくしどもが関心を抱いておりますのは、数学の専門家となる少数の学生に対する高度な教育についてではなく、中等学校 secondary school〔日本の中学・高校に相当〕の大多数の少年たちに対する数学教育についてであります。
少年たちといっても、またその中で二つに分けなくてはなりません。
一つの区分は、数学の教育を限定しておきたいと欲する少年たち。他方の区分は、さまざまな専門家としてのキャリアへと進むために、数学の訓練をいくらか要する――数学で明確な好成績を収めるという形であれ、数学的な訓練の施された頭脳を得るという形であれ――少年たちです。
後者の区分を「数学層 methematical section」、前者の区分を「非数学層 non-mathematical section」と呼んでみることにいたします。
しかし、ここでも繰り返しになりますが、「数学層」の少年といいましても、最低限の数学よりも多くを学びたいと欲する少年は多数おります。
なおまた、この二つの層の少年たちについて私が申し上げますことのほとんどは、大学の初等クラスの生徒たちにも当て嵌まります。
本論文の主題は、こうした両方の層の生徒たちの教育のなかで、数学の様々な原理についての現代の研究が、どんな位置を占めるべきなのかを究明することであります。
この探求を始めるにあたって、一つの足がかりとするために、こう訊かせていただきます。「非数学層の少年たちに、必要最低限の算数だけでなく、それ以上の数学を少しでも教える必要があるのか」と。
一般教育〔liberal education 専門・職業教育ではなく、教養・人格に重点を置いた教育〕の一要素として用いられるとき、数学の訓練というものは、生徒の頭のなかに、どんな性質を生じさせようとして設計されているのでしょうか?
どちらの層の生徒にも等しく当て嵌まる答えとして、わたくしはこう答えます。「上手に設計された数学の課程であれば、互いに結びついた二通りの形で、生徒の頭脳は鍛えられるのである」と。
この二通りの形と申しますのは、密接に結びついているのではありますが、完璧に別々のものです。
まず一つ目の形と申しますのは、これは本質的には、論理学とは全く無関係のものです。
それは、「抽象的な観念をはっきりと把握して、それを特定の状況へと関係づける力」です。
言い換えますと、数学というものの最初の効用は、抽象的な思考の力を強めるということなのです。
繰り返しますが、これは本質的には、論理学とはなんら関係がありません。と申しましても、論理学の鍛錬というのが、欲する効果を生じるための最善の方法なのは事実でありますけれども。
何を習得させようとしているのかといえば、抽象的な観念についての哲学的理論ではありません。抽象的な観念を用いる習慣と力を身に付けさせようとしているのです。
どんなものであれ、何かを用いる習慣や力を身につけるには、方法が一つあり、そして一つしかありません。日常的にそれを使うことです。このありふれた方法しかないのです。ほかの近道はありません。
教育のなかで、もしわれわれが、ある一定の構造をもった頭脳を生み出すことを欲しているのであれば、生徒の頭を、一日一日、一年一年と慣らしてゆくことで、望ましい形の構造へ育てるのでなくてはなりません。
したがいまして、抽象的な観念を把握する力と、それを用いる習慣を教えるために、われわれは、一組の観念を選び出さなくてはなりません。それは、重要であるばかりでなく、わかりやすく clear 、はっきりした distinct 観念でないといけません。
幾何、比率、量、そして数といったことがらについての数学的な根本的真理というのは、他のいかなるものよりも、この条件を満たしています。
一般教育の一要素として、数学が根本的かつ普遍的な位置を占めているのは、このゆえなのであります。
ではしかし、いったい何が、「幾何、量、数についての根本的な数学的真理」だというのでしょうか?
ここでようやく、くだんの重大問題へと、わたくしたちは立ち至ります。「数学の原理についての現代科学」と「数学教育」のあいだには、どんな関係があるのかという問題です。
「数学の根本的な真理とは何か」という問題に対する、わたくしの答えはこうです。「いかなる絶対的な意味においても、そういうものはない」と。
「幾何、量、数といったものについての数学的推論すべてにとって必然的な出発点となるような少数の命題――たがいに独立 independent で、根源的 primitive で、証明されない unproved 命題――の一式が存在していて、それが唯一無二のものである」などということはないのです。
数学的な推論にさいして、絶対に必要とされる前提 pre-suppositions として唯一あるのは、論理的演繹を可能にするための前提だけです。
そういった「論理学の絶対的な真理」と、いわゆる「幾何、量、数についての根本的な真理」なるもののあいだには、命題 propositions、集合 classes、関係 relations にかんする論理学という、数学の主題の新しい世界の全てが広がっております。
〔訳注:このときまさに刊行中であったラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』は、数学の全ては論理学から導き出せることの証明を試みる画期的な大著であった〕
しかし、そのような主題は、あまりに抽象的ですから、「抽象的な思考をする」という難しい技芸のための初等的な訓練場とすることはできません。
そういうわけで、わたくしたちは、妥協をしなくてはなりません。五感でものを知覚したときに誰でも自然に思い浮かべるような、明白でわかりやすい一般的観念から出発する、という妥協です。
幾何学におきましては、ギリシャ人たちが練り上げ、ユークリッドによって提示された観念が、大まかに言えば、われわれの目的に適合しています。体積、表面、直線。真っ直ぐさ、曲率。交差、合同。より大、より小。相似、形状、縮尺。そういった観念です。
実際にわれわれは、空間の特性についてのそうした一般的観念を教育のなかで用いています。こうした一般的観念というのは、世界の中の様々な現象を、理解力をもって観察している人であれば、誰もが習慣的に脳裏に見ているものなのです。
こうしてわれわれは、プラトンの意見に立ち返ることになります。プラトンは、幾何学について――当時彼に知られていたような幾何学について――こう主張したのでした。一般教育において、幾何学は学問の女王である、と。
〔プラトンの開設した学園の門に掲げられていた句が「幾何学を知らざる者、この門を叩くべからず」。「数学は科学の女王であり、数論は数学の女王」と言ったのがガウス。したがってここはホワイトヘッドの言い間違いであろうか〕
幾何学のほかには、量、比率、数についての観念が残っております。
これは実際には、初等代数学を意味します。
初等代数学のなかで、とりわけ重要となる観念が二つあります。「任意の数 any number」という観念、つまり言い換えますと、x、y、z といった親しみのある文字を〔数値の代わりに〕使うこと。そして、「お互いに依存している変数」という観念、言い換えますと、関数という観念です。
そうした観念はみな、できるかぎりいちばん単純な関数をつくって繰り返し使わせることで、徐々に身に付けさせるのです。
一次関数は、図形では直線で表します。
二次関数は、図形では放物線で表します。
単純な陰関数 implicit functions 〔関係式 f(x,y)=0 の関数〕は、図形では円錐曲線で表します。
そこから先は、幸運であれば、そして意欲ある学級であれば、増加率という概念へと進んでゆくこともできるでしょう。そこでもまた、できるだけ単純きわまりない事例に限るようにするのです。
ここでわたくしは強く申し上げたいのですけれども、幾何においても代数においても、こうした一般的観念を把握することは、生徒の出発点なのではありません。生徒が到達すべきゴールなのです。
いちばん単純な特殊事例を繰り返し練習することが、進歩の方法です。そのゴールは、哲学的な分析をできるようになることではなくて、それを使えるようになることです。
しかし、使えるようになるには、生徒はどう練習したらよいのでしょうか?
ただ座って y=x+1 という関係について考えてもだめです。なにか単純でわかりやすいやり方で使ってみなくてはなりません。
数学の訓練によって生み出されるべき頭脳の力が二つあると申しましたけれども、ここでわれわれは、その二つ目の力のところへ来たのです。それはすなわち、「論理的に推論する力 the power of logical reasoning 」です。
ここでもまた、本質をなすのは、論理の哲学についての知識を教えることではありません。論理的に考える習慣を教えることこそが本質です。
「論理 logic 」という言葉でわたくしが指しておりますのは、演繹的論理学 deductive logic のことです。
演繹的論理学というのは、さまざまな一般的観念のあいだにある関係――たとえば「包含 implication 」など――についての科学です。論理学が始まるところでは、特殊な個々別々のものごとというのは、消え去ってしまいます。
このものごとをあのものごとと論理的に関係づける、ということはできません。例えば、このペンとあのペンを、論理的に関係づけることはできないのです。このペンに当て嵌まる何らかの一般的観念を、あのペンに当て嵌まる何らかの一般的観念と関係づける、ということならできます。
そして、二つのペンの個体性というのは、論理学的な過程にとっては、まったく無関係なことです。論理学的な過程というのはもっぱら、その二つの一般的観念にかんするものになるのです。
したがって、論理学という実践は、そういった一般的観念について考察するさいに一定のやり方で頭を使うということです。
そして、初等数学の訓練というのは、実は、先ほど列挙したような、幾何と代数についての一般的観念を論理的に用いるということにほかなりません。
したがいまして、初等数学の訓練には、わたくしがこの論文の始めに申し上げました通り、二重の利点があります。
初等数学の訓練によって、抽象的な思考のできる頭脳を作ることができますし、何を通じてその目的を達成するのかといえば、抽象的な思考のなかでも最重要な種類のもの、すなわち、演繹的論理の訓練を通じてなのです。
念のため申し上げておきますが、ただ抽象的な思考でありさえすればよいのなら、他のタイプのものを選択をすることもできます。子供たちを宗教的神秘主義者にするという希望のもと、抽象的な道徳的観念の美を直接に観想するよう訓練する、ということもできるかもしれないのですから。
一般的な教育の実践としましては、初等数学がその例でありますように、論理をこそ重んじるべしとの判断が下されております。
さて、それではここで、さらなる問いに答えなくてはなりません。数学を教えるにさいして、論理の精密さというのは、どんな役割があるのでしょうか?
ここに含まれた問いに対する、われわれの全体的な答えは明白です。
論理的な精密さというのは、数学を教えることの二つの目的のうちの一つです。しかも、数学を教えることの他方の目的を達成できるための、唯一の武器でもあるのです。
数学を教えるというのは、論理的な精密さを教えることです。
それを教えなかった数学教師は、何も教えなかったということです。
ただし、このように何の条件もつけない形で申し上げてしまいましたけれども、このテーゼの意味は注意深く説明せねばなりません。
というのも、きちんと説明しなければ、この問題についての本当の趣旨が、まったく誤解されてしまうはずですから。
論理的な精密さというのは、獲得されるべき能力です。
この性質を頭脳へと伝授することが、教育の目的なのです。
たとえば、偉大な文学を読む習慣は、文学教育が目指すゴールです。
ゴールだからといって、われわれは最初の授業を始めるにあたって、子供が自ら進んでシェイクスピアを読みたがるなどとは期待しません。
子供がアルファベットの全てを学び、綴れるようになるまで、読むことはできません。そしてその次には、一音節の語だけでできた本を読ませることから始めるものです。
それと同じように、数学の教育も、論理学的な精密さをだんだんと増してゆくのでなくてはなりません。
最後の段階にふさわしくあるのと同じくらい注意深い論理的な分析を、開始の段階で期待するというのは馬鹿げたことです。
わたくしの主張を、「数学の訓練にあたっては、子供には濃密な論理的思考の力が当然あるものと前提するべきである」という意味に取られますと、完全な誤解であります。
私の主張はその正反対でありまして、そういう力は、子供にあるものと思ってはいけないし、あとから身につくものなのです。数学の訓練とはまさに、その力を身につける過程にほかなりません。
わたくしが仮定している土台のすべては、「そういう力は、最初から完全に発達した状態で存在してはいない」というものです。
あとから身につける力というものは、他の力もみなそうですが、だんだんと育てられなくてはなりません。これは当然のことです。
その発達の様々な段階というのは、教師の判断と才能によって手引きされなくてはなりません。とはいえ、なにが本質なのかといえば、教師がはっきりと念頭に置いているということです――「論理学的に精密な推論をするという、まさにその力こそが、自分の努力の先にある目的のすべてである」ということを。
もし、子供たちが、いかなる程度においてであれこの力を得たならば、全てを得たことになるのです。
本論文の主題のこの部分につきましては、しかしながら、まだ完全に考えを尽くしたわけではありません。
論理的な精密さというのは、論証 argument の各段階をすべて理解するということです。
しかし、論証の各段階というのは、いったい何でしょうか?
論証のすべての段階をすべて言明するというのは、数学的な推論についての教育のカリキュラムのなかへ導入するには、あまりにも複雑で難しい作業となってしまいます。
そういった言明は、きわめて理解しづらい抽象的な論理学の観念を含んできます。なぜそれほど理解しづらいのかというと、通常の思考のなかでは、論証の全段階の明示が必要となることは、あまりにも稀だからです。
ですから、初等教育の主題の基礎とするには、適切なものではありません。
「理論的に万全な論理学的研究となるように論理の段階を踏むこと」と、「ほとんどの実用的な目的――教育を含め――のために十分であるように論理の段階を踏むこと」の違いを、理論的に区別するような線を引くことができるとは、わたくしは考えません。
その問題は心理学に属するのであり、実験の過程によって解かれるべきものです。
何を目指しているのかといえば、必要な分だけの論理的な用心深さを習得することです。誤謬を見抜けるようになり、健全な論理的演繹の型が分かるようになればよいのです。
それよりも先まで進むならば、一部は哲学的な目的のためということになりましょうし、また一部は、その研究それ自体が重要であるようなむき出しの抽象的観念を提示するためということになりましょう。しかし、こうした二つの目的ともなりますと、どちらも教育とは縁遠いものです。
わたくしの意見はこうです。「全体としてみれば、ギリシャの数学者たちから受け継いだタイプの論理的精密さというものが、おおまかに言って、われわれの求めるものである」と。
幾何でいえば、これが意味するのは、ユークリッドの幾何学にみられるような種類の精密さです。
ユークリッドの有名な著書『幾何学原論』を教科書として使うべきだ、などと申しているのではありません。ところどころで、ユークリッド流の説明にみられるような一定の圧縮が賢明ではないとも申しておりません。そういうことはすべて、ただの枝葉末節にすぎません。
わたくしが申しておりますのは、ユークリッドが明確に示したような種類の論理の推移は、われわれも明示するべきであり、ユークリッドが省いたような種類の論理の推移は、われわれも省くべきである、ということです。
とはいいましても、なにか緩和するものなしに、ユークリッド幾何学の全き厳格さのなかへ生徒を投げ込むことが望ましいのかどうかについては、わたくしは疑いを抱いております。
最初の段階では、与えられた数値から単純な作図をする訓練を生徒に課すことに大きな重点を置くという現代の習慣――少なくとも英国ではそうです――は、この理由によって、大いに賞賛されるべきです。
どういう意味かと申しますと、ユークリッド幾何学という精密な基礎の上でちょっぴり推論をしてみたあとに、それを様々な具体事例のなかでやってみるのです。大まかに測ってみると、望みどおりの結果が実際に得られていることがわかります。すると、学習者の頭はほっとするのです。
ただし、測ることと、証明することを、混同してはならないというのは重要です。抽象的な観念が実際にはどんなことを意味しているのかを、初学者が掴み取れるようにすることが目的なのです。
代数学でもやはり、記号法と、記号の実際の使用法については、いちばん単純な事例のなかで身につけるべきです。より理論的な、記号が主となる方法 symbolism の扱いについては、もっと後の適切な段階までとっておくのです。
つまり、わたくしの考えるルールはこうです。「まず最初は、いろいろな概念の意味を、単純なやり方で粗雑な練習をすることで学ぶ。しかる後に、より大きな一般性へと進んでゆくための準備として、論理的な手続きを洗練させてゆく」。
要するに、本論文の主張を、もう一つ別の言い方をするならば、こんなふうに言うこともできます。すなわち、「数学教育の目的は、分析する力、一般化する力、推論する力を身につけることである」と。
分析と一般化という、この二つの過程は、わたくしの先ほどの言明の中では、「抽象的な観念を把握する力」という言葉で、ひとまとめになっていました。
しかし、分析したり一般化したりするためには、これから分析されたり一般化されたりするべき、なまの素材となる観念から出発しなくてはなりません。
この過程を経て最後に生まれるものから出発するということは、したがって、明確なる誤りです。分析と一般化を経て精製された形となった観念から出発してはならないのです。
そんなことをしたら、訓練の重要な部分を飛ばしてしまっていることになります。子供の頭の中に実際に存在している観念を相手にしなくてはいけません。それを文明化 civilize し、着物を着せる clothe という、難しい技芸の稽古を子供にさせることが重要な部分なのです。
要するに、先生が宣教師で、子供の頭のなかにある観念は未開人です。
この人食い族と交わり、その身を危険に晒すことを拒むならば、宣教師は自らの主たる任務を避けていることになります。
さて、ではここで、「数学層」をなす子供たちへと注意を向けていただきたく思います。
広く浸透している考え方の一つに、こういうものがあります。つまり、比較的に進んだタイプの数学――例えば、微分学といったもの――は、その論理や理論をまったく考慮することなしに教えても、物理学者や技術者にとって役に立つものになりうる、という考え方です。
これはわたくしには、深刻な間違いであると思われます。
この考え方は、「数学的な結論へとたどり着く方法を理解することなしに、たんなる機械的な知識を持っているだけで、応用科学の役に立つ」ということを言っているわけです。
そんな知識は、ぜんぜん何の役にも立ちはしません。
結果それ自体であれば、その種の小型本や初等参考書に、みんな書いてあります。
結果を適用するときであれば、「それがなぜ真であるのか」などと思い煩う必要はありはしません。ただ受け入れて、当て嵌めればよい。
物理学や工学のなかで、なにが至高の重要性を有しているのかと言えば、数学的に訓練された頭脳です。そして、数学的に訓練された頭脳というのは、適切な数学の訓練を経ることでのみ、獲得されるのです。
微分学といった科目を学び始める適切な方法というのは、「増加の割合」という観念を粗雑に説明しつつ、いくつかの馬鹿馬鹿しいほど単純な事例へとすみやかに飛び込んで、その記号法を使ってみるということです。わたくしはこれを全面的に認めます。
そのようにして身に付けた記号法であれば、理工学研究所の講師たちが使えるものになります。
しかし、応用科学者に対する数学の訓練というのは、そうした観念を正確にしていったり、証明を精密にしてゆくところにあるのです。
数学を教えるさいの論理的な精密さというものの位置づけについて、本論文の趣旨が明確になったものと希望いたします。
精密な論理を用いるという習慣は、抽象的な観念のみに思考を集中させることを必須とします。これは、学びの最初の段階から、すべて可能であるというわけには参りません。
それは、教師が目指す先にある理想なのです。
また、論理の精密さというのは、論理を言葉に表す logical explicitness という意味にとるならば、絶対性のある問題ではありません。程度の多少の問題です。
したがって、訓練が進むにしたがって、どれくらいの量を言葉に表してゆくべきかというのは、教師が実践にさいして判断することです。
最後に申し上げます。ある意味では、教養ある頭脳というのは、言葉に表すことが減るのです。
よく憶えている道は素早く通ってしまい、自分にとってきわめて明白であるような思考の連なりを言葉にする労を省いているかもしれないのですから。
しかし他方で、この素早さの代償として支払っているものがあります。誤謬が潜みうる微妙な点のすべてに対しては集中力を発揮しているのです。
論理の精密さという習慣は、隠れた問題点への勘が働くということなのです。
〔おわり〕
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【訳者より】
・ホワイトヘッドは、ケンブリッジ大学で上級講師 senior lecturer (今の日本でいう准教授?)の地位にありましたが、いろいろな経緯があって、1910年にケンブリッジを去り、ロンドンへ移住します。ケンブリッジ大学の特別研究員(フェロウ)という地位は引き続き保持していましたが、1914年にロンドンのインペリアル・カレッジの応用数学主任教授となるまでは、(一時的な講師職や、教育行政の委員など以外には)あまり確たる地位のない時期でした。
・とはいえ、『数学原理』第1巻刊行が1910年、2巻が1912年、3巻が1913年。1911年の『数学入門』も好評を博しました。地位はなく、収入も減りましたが、多少の名声を得た時期ではあったかもしれません。
・同じ年に、「数学のカリキュラム」という講演もしています("The Organization of Thought"1917と”Aims of Education"1929の両方に所収)。
・数学に大きな革命を起こした一人であるホワイトヘッドが、それと並行して(か、それに一区切りつくころに)、初等教育に大きな関心を抱いていたのは、興味深いことと思います。
・そして、数学と論理学に革命を起こした一人であるホワイトヘッドが、初等教育においては、〈数学的・論理学的な厳密さを、最初から生徒に求めるのは間違いである。それは最後に得るべき目標なのである〉と力説しているのは、注目に値するのではないでしょうか。
・原文では生徒を指すのに boys, schoolboys, he が多用されており、男子生徒しか念頭にないかのごとくですが、時代ゆえでしょう。ホワイトヘッド自身は女権拡張論者でした。
・最後の一文「The habit of logical precision is the instinct for the subtle difficulty.」を「論理の精密さという習慣は、隠れた問題点への勘が働くということなのです。」と訳しましたが、本当はもう少し格好良く訳せる気がします…。
・何かおかしなところがありましたら、ご教示いただけますと幸いです。
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