ついに今回で完結です。
明治四十二年五月号p94-97「余が失敗時代の回顧と楽天主義」
同六月号p6-12「嘗て余が一千万円を勝ち得たる経路」
同七月号p45-52「古今未曽有と称せられたる予が全盛当時の活劇」 ←今回は後半を掲載。
鈴久は、たんなる「相場師」であるには留まりませんでした。大株主としての力で企業の改革再編に乗り出し、事業家・資本家としても暴れまわります(その成否や良し悪しはともあれ)。当時、日本の基幹産業は繊維業。日本最大の企業であった「鐘紡」の実権を握ったとき、彼の栄光と資産は頂点に達します。
その後の没落過程には、三編とも、ほとんど触れていませんね。鈴久が書こうとしなかったのか、(聞き書き記事だとすれば)記者が遠慮したのか。それはわかりませんが、失敗について愚図愚図言わないところが、鈴久の勝負師らしい潔さかもしれません。
*呉錦堂に対して蔑称を用いるなどしている箇所があるが、時代を鑑みそのままにした。なお、呉錦堂は日露戦争勃発前に軍債45万円を献納して中国人として始めて叙勲され、日本国籍も得ている。鈴久との戦いで破産するが、三菱銀行の融資で救われ、その後は実業に専念したという。呉錦堂についてはこのサイトが詳しい。
http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/go_kindou.htm
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▼製糖会社の乗っ取り〔日本最大の製糖会社であった日糖=日本精製糖株式会社を、その幹部が鈴久と共謀して社長を追い出し、乗っ取った事件〕
鈴木久五郎のことを、世間が、単純な相場師とみなしているなら、これは少なくとも鈴木久五郎の半面を誤解している。これ〔東鉄や東株の買占め〕よりも以前に、私が製糖株を買い込んで大株主となったのも、やはり事業改良の趣旨から出たものなのだ。
私が二十六歳のときであったと思う。〔明治〕三十五年の議会に、「砂糖に重税をかけろ」という主張が出てきた。そのとき〔日糖社長の〕鈴木藤三郎君〔日本製糖業の父、発明王、実業家〕が反対説を述べて世に問うた。そしてそのとき私は、直接に鈴木藤三郎君からその理由を聞いた。「いま日本における砂糖の消費額は、なんと四億万斤〔一斤=600グラム〕だ。そのうち日本内地の製糖会社で清算する砂糖はいくらあるかといえば、実に少量である。日本の精糖業の前途は洋々たるものであると同時に、日本の精糖業はいまだ幼稚の域にある。この幼稚の域にある砂糖に重税を課したら、精糖業は潰れてしまう」
私は鈴木藤三郎君のこういう説を聞いていた。それから、三十七年に上海に行った際、非常に広大な二つの会社を見た。「あれは何という会社だ」と友人に聞くと、「あれこそ有名なるジャーディン・マジソンと、バターフィールド・スワイヤーという製糖会社である」と言う。そして「これらの会社が日本に砂糖を売り込んで、ともすると日本の製糖会社を圧倒しようとするのだ」と友人は私に説明した。私は、前に聞いた鈴木君の説が、いかにも道理のあることを痛切に感じた。そこで上海から帰国するとすぐに製糖株を買い進み、一万二千株も手に入れたのであった。
すると磯村音介〔日精の支配人〕が私を訪れてきて言った。「どうだ、日本の精製糖業の統一を図ろうではないか。内地の会社が互いに競争していては潰れてしまう。我々は同胞相食むという愚を去って、大合同を企て、外国の会社と戦争しようじゃないか」と言う。「それは私も大賛成だ」と意気投合して、鈴木藤三郎君(社長)のところへ談判に行った。すると鈴木社長は、「お説は同意するが、時期がまだ早い。いまに大阪の製糖会社は消滅してしまうから、それまで待て」と言って聞かない。しかし我々は、「そんな気の長いことは言ってられない」ということで株主の委任状を集めてみると、過半数以上が集まった。そこで「株も大丈夫だ。社長が固執して動かないならば、強制施行をやろう」と、不信任状を懐にして総会に臨んだ。ところが、色々ゴタゴタして、一時に開かれるはずの総会が四時になってようやく開かれた。それと同時に、現重役が総辞職をした。彼らは、大勢はすでに動かすことができないと見て、早くもここに覚悟をしたものらしい。
そこで代わりに立ったのが、専務取締役に磯村音介君、常務取締役に秋山一裕〔日精の参事。磯村と共謀〕君である。中村清蔵〔鈴久の奉公した「上清」の主人〕君が平取締として入り、監査役には私と、砂糖問屋を代表した後藤長兵衛君とであった。これが三十九年の五月である。それから六、七、八、九の四ヶ月を経て、大阪製糖会社と合併することを決め、十二月の総会でついに合併を結了した。そのとき「重役はあまり若い者ばかりではいけない」ということで、澁澤男爵〔渋沢栄一、日本資本主義の父〕を相談役として、酒匂常明〔さこう じょめい、農学者、官僚〕氏を社長となし、平取締に渡辺福三郎〔横浜の実業家〕、監査役に藤本清兵衛〔のちに大和証券となる藤本ビルブローカー創業者〕などが入ってきたのである。
▼鐘紡の買占め事件
東京株式取引所株の買占めは首尾よく目的を達し、製糖会社も理想の八割は実現した。さて、この次は何の統一を図ろうか、と考えた末に、ふと胸に浮かんだのは紡績業である。日本には紡績会社がたくさんある。鐘ヶ淵紡績、富士紡績、東京紡績、この三つが東京の三大紡績会社である。それから関西に行くと、摂津紡績、大阪紡績、名古屋紡績、三重紡績、その他いろいろな会社がある。
これほど多くの紡績会社があるにもかかわらず、その製品を海外に輸出しているのは、ほとんど鐘紡一社にすぎず、その他はことごとく内地で同士討ちをしている。同士討ちは日本の殖産興業を疲弊させるだけである。これを統一して、もっぱら販路を海外に求め、清国〔中国〕市場において外国品と競争するのが男子の事業であって、また我らの急務である。我々はここで、もっとも強固な「鐘紡」を中心として他の小さい会社を併呑することで、我々の理想を貫徹しよう、ということで、鐘紡の株を買い出すと、これが図らずも、呉錦堂〔ご きんどう、神戸の華商〕と一大戦争を開く原因になった。
というのも、不思議で仕方がないことに、当時は株式全体が騰貴していたのにもかかわらず、鐘紡の株のみが百三十円から百四十円に居座って動かないのである。どういうわけかと調べてみると、それは神戸にいる呉錦堂というチャンチャン〔中国人に対する当時の蔑称〕が一人で鐘紡を四万株持っていて、高くなれば売り崩し、安くなれば買い戻すせいであって、そのようにして彼は鐘紡株の相場を一手に左右している。しかも彼の背後には、鐘ヶ淵紡績会社の実権者にして、紡績界のオーソリティーたる武藤山治〔むとう さんじ、鐘紡の中興の祖〕という豪傑が控えているので、彼は実に驚くべき大勢力を持っている。
あるとき、呉錦堂が馬車に乗って、東京の取引所を見に来たことがあった。そのときの株屋連中の騒ぎはたいへんなもので、「サア呉錦堂が来た、売るか買うか、売れば安いし買えば高い。どうなることか」と七十軒の仲買が、彼を見て震えているのである。
調査の結果、こういうことがわかったので、私は奮然として立った。「そいつはすこぶる面白い。一つ戦ってみよう。なんの、相手は高の知れたチャンチャンである。一人のチャンチャンを恐れて東京の七十軒以上の仲買が何もできないでいるとは、あまりに意気地のない話である。やっつけろ」と、強敵を発見して私の勇気はさらに百倍した。
しかし、用意はあくまで周到なることを要する。私ら兄弟だけではいささか心もとない感がないでもない。といっても、途中で裏切りをするような者を味方にしたら却って破滅のもととなるので、私と富倉林蔵〔とみくら りんぞう、株式仲買人〕とが主となり、これに中村清蔵君、中島興平(なかじま よへい)君なども加え、少数だが堅い同盟を作った。東京と大阪の両方で買う事にして、東京は瀧沢の店に、大阪は広崎の店に注文し、きょう私が買えば富倉が休み、明日私が休めば富倉が買う、というように交代に買って両方一度に潰れないように用心し、いよいよ怪傑呉錦堂に戦を挑んだ。
◎呉錦堂との激戦
かくの如く、充分に策戦計画を整えて、まず百四十五円くらいから買い出して、百五十六円から百六十円に競り上げ、百七十円にまで買い煽ると、ついに呉錦堂の気付くところとなった。予想どおり、例のやりかたで売ってくる。すると、百七十円まで上がった相場がたちまちにして百五十五円に墜ちる。「ナンノ」という意気でさらに買い煽って百七十円にのぼせる。と、たちまちまた百六十円台に落とされる。買い上げると引き落とされる。また買い上げるとまた引き落とされる。このように一上一下、たがいに火花を散らして戦うこと二週間以上、とうとう百九十五円まで買い煽ると、またまた百九十円まで引き落とされた。
そこで私は考えた。「これはなかなか尋常一様の敵ではない。うっかりするとやられる。我々は過去二年間、鈴木家の興廃を賭して惨憺たる苦心を経た結果、ようやくここまでこぎ着けたのに、いまこの戦に負けては、いわゆる『九仭の功を一簣に欠く〔最後の少しの失敗で長い間の努力が無駄になる〕』だ。深く思慮を廻さねばならぬ」と思い、またまた例の花月花壇〔向島の大規模観光施設、遊園地と西洋料理。明治39年に鈴久が別荘として買収〕に行って同志と相談した。相談の結果は、「実株を受け取って、我々の基礎が強固であることを敵に示すしかない」ということになった。
ところが、これを銀行に交渉すると、三井(銀行)でも十五(銀行)でも、「平に御免を蒙る」と言って我々に金を貸してくれない。それなのに、このときただ独り、我輩を信じて金を貸してくれたのは安田銀行である。それは前々号において『私の失敗時代の回顧と楽天主義』という題下で話したから再び述べないが、ここにおいて我々は勇気一倍を加え、さらに買って買って買い抜いた。
すると呉錦堂の方でも大いに弱り出し、ついに三菱にすがって救済を求めた。なにしろ呉錦堂は百三十円台から売り出しているのだから、巨額の追敷〔追加証拠金〕に攻められている。彼は、株式や不動産は多く持っているが、現金は百万円くらいしか持っていない。さすがの彼も三菱に泣きついて、その救済を求めたのである。泣き付かれて三菱はさっそく承諾したが、「売った株は一つ残らず渡さねばならぬ」という条件である。「はいはい仰る通り、いかようにもいたしますから」と懇願して、こうして彼は三菱の後援を得てさらに我々と対抗した。
そこで戦はますます激しくなる。いよいよ猛烈なる悪戦苦闘を続けた。
しかし、幸いにして我々は始終優勢な地位に立ち、とうとう二百円を踏み切って二百三円にまで買い上げた。そこで世間では「日本は二百三高地を占領して勝った。二百三高地と二百三円、これが縁起がよいことである。鈴久の方が勝つに相違ない」と言って、早くも我々の前途を祝してくれた。はたしてその通り、我々はこの戦においては呉錦堂に勝ったが、天いまだ鈴久に幸いせず、その後の暴落に際してこれが我々の致命傷となり、没落したのは遺憾の極みである。
◎激戦の結末
二百三円まで買い上げると、村井銀行〔たばこ王・村井吉兵衛が設立した銀行〕の酒井静雄君が、出張先の大阪から手紙をよこした。「京都の土産に面白いものがあるから、いずれ近日中に帰郷の上、お目にかける」と書いてある。それから二、三日経って、「明日午前九時新橋着」という電報がきた。迎えに行くと、「君に話があるから」というので、二人で新喜楽〔築地の料亭〕に行った。
私が「面白い土産とはどんな土産だ」と聞くと、「それは、とにかく君に熟考をしてもらいたい大問題がある。古来、両雄並び立たず〔二人の英雄は共存できない〕という。君はいま、呉錦堂と火花を散らして戦っているが、いずれ、どちらか傷つくに相違ない。これは天下のために実に惜しむべきことである。呉錦堂は関西における成功者の一人である。君も関東における成功者の一人である。どちらが傷ついてもいけない。どうにかして丸く和睦をする気はないか」と言う。
そこで私は言った。「和睦する気はある。もともとこちらは戦を好むのではない。鐘紡を中心として、紡績業の統一を図るというのが僕の目的で、それにしては鐘紡の現在の資本金、五百五十万円では足らぬ。これを倍にして千百万円に増資し、その増資金をもって小さな紡績会社を併呑したいというのが、そもそも呉錦堂と戦を開くことになった理由である。千百万円に増資し、そしていま鐘紡はだいぶ儲かっているそうだから、配当を二割五分にして、我々一派から重役を一人入れてくれさえすれば、僕はいつでも和睦する」と言うと、「それならちょっと待ってくれ」と言って立って行った。
酒井君は、前もって部屋に待たせておいた三井銀行の神戸支店長、小野友次郎(おの ともじろう)君を連れてきて私に紹介した。そこでまた小野君といろいろ話すと、小野君は「それは容易ならぬことである。益田(ますだ)さん(三井同族会監理部副部長)、朝吹さん(鐘紡専務取締役)に相談した上でなければ返事は出来ない」と言って、その日はそれだけにして別れた。
別れ際に酒井君が言うには、「とにかくこの話が落着するまで株を買ってくれては困る。このうえ買い煽られては呉錦堂が死んでしまう。いまのところ現状維持にして貰いたい」と言うから、「よろしい承知した。そのかわり呉錦堂も売っては困る」。「それは決してさせない」ということで、後日の再会を期して別れた。
それからいろいろ交渉した結果、朝吹さんが言うには、「あなたの要求どおり、資本金は倍に致しましょう。配当も増しましょう。ただし二割五分では困るから、二割で我慢してください。それからあなたは大株主であるから、重役を入れるか入れないかは、もとよりあなたのお考えしだいだが、しかし私どもの立場としては、十数年来の歴史を有する鐘紡を、一挙にあなたに乗っ取られたとなっては、三井家の顔にかかわる。これは徳義上、忍んでもらいたい。その代わり、社長の三井養之助をはじめ私ども重役一同総辞職をするから」と言うのである。
私は、「長い歴史を有する三井に対して、とんだ要求を致しまして恐縮の至りです。私はただ、私の代表者として重役を一人入れていただければそれで満足なのです」と、ひたすら、総辞職の必要はないことを勧告したけれども、朝吹さんは「私たちの腕がないのと、徳がないので、このような失態を惹き起こしたのであるから、責任上ひとまず総辞職をいたします」と言うので、談判は終わりとなった。
そこで時の重役一同は辞職し、資本金を一千百万円、配当を二割にして、日比谷平左衛門〔ひびや へいざえもん、日本紡績界の巨人、鐘紡設立にもかかわる〕氏が新たに社長となった。これにて株式界空前の活劇と称された、呉錦堂と私との戦争は終わりを告げたわけである。
休戦中、鐘紡の株は二百九十五円にまで騰貴した。このとき私の財産を清算すれば、一千万円以上に達していた。私には大隈伯の忠告を容れる明がなく、栄華は槿花一朝〔むくげの花が朝咲いて夕にしぼむこと〕、夢のように果敢ない最後を遂げたのは、すでに前号に述べたから改めて贅せぬ。
〔おわり〕
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鈴久の告白記は以上です。翻訳(というほどの作業ではありませんが)しつつ読み返しましたが、何度読んでも面白い。
国会図書館での検索では、これら以外に、鈴久自身による文書は見つかりませんでした。ただ、私は初めて国会図書館を利用したので、検索がへたくそだっただけかもしれません。鈴久の全盛期には、その行状が毎日のように新聞紙面を賑わしたといいますし、破産した後も衆議院議員を一期務めたくらいですから、彼自身による文書や聞き書きなどは、他にも存在するはずです。また面白いものが見つかれば掲載してみたいものです。
感想などあれば、ぜひコメントをください。