鈴木久五郎の告白記、第二弾です。ちょっと長いので、前後半に分割します。
明治四十二年五月号p94-97「余が失敗時代の回顧と楽天主義」 ← 前回掲載
同六月号p6-12「嘗て余が一千万円を勝ち得たる経路」 ← 今回は前半を掲載
同七月号p45-52「古今未曽有と称せられたる予が全盛当時の活劇」
前号の記事は雑誌の後ろの方にわずか4頁だったのに、今回は雑誌冒頭に7頁。読者の好評を得て急遽、追加の執筆依頼(あるいは取材)を受けたのかな、とも想像されます。
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実業之世界 第六巻第六号 (鈴久の前半生)
『かつて私が一千万円を勝ち取った経路』
代議士 鈴木久五郎
◎私が相場をやった動機
私は十三歳から二十歳まで、深川の「上清(じょうせい)」という店〔米問屋〕に奉公した。この家は私の親類である。今の上清の主人、中村清蔵〔相場師、実業家としても活躍〕は三代目であるが、初代は上総〔千葉県中部〕の人で、上総屋清蔵と言った。二代目は私の祖父の弟で、これは鈴木家から養子に入った人である。初代は、田舎から飛び出して日本橋の小網町(こあみちょう)で焼き芋屋を始めたが、そんなことでは埒が明かないというので、度胸を定めて米相場をやりだした。それから二十数年の間、儲けたり損したりして、結局百万円の財産を残して死んだ。
私の実家〔埼玉県北葛飾郡〕は、五代目鈴木兵右衛門というのが中興の祖である。これは私の祖父にあたる。この祖父も、一代で百万円を作った豪傑である。一方に酒を造り、一方に米相場をやり、そして儲けた金でもって地面を買い、さらにまた儲けた金でもって地面を買った。つまり維新後における経済界の変乱に乗じて儲けたのである。いっとき、密造酒の検挙を喰って、酒造家で破産する者が数多くあった。その節、私の祖父も、七万何千円という罰金を課されたが、その罰金は綺麗に納めてその年すぐに七万何千円を儲け返したという、すごい腕前であった。「しかも、譲られた財産はただ三百文〔現在の数万円〕であったのを、ここまで鍛え上げたのだ」と言って、私は幼少のころから祖父からたびたびこの手柄話を聞かされた。
つまり、私の少年時代の生活は、一代で財産を築きあげた家に育てられて、一代で財産を築きあげた家へ奉公に行った、というわけである。三百文の財産を百万円以上に鍛え上げた祖父に十三歳まで薫陶を受けて、十三歳からは、焼き芋屋から百万円以上を作った店に奉公に行ったのである。つまり私は、比較的大きな波乱のある歴史を、眼前に見た。そこで私は、「自分も、やがて世の中に出たなら、ひとつ大儲けをしてやろう。そのためには、真面目にソロバンを弾いて商売をやって□利を争っているようでは駄目だ。転ぶか起きるかの勝負で金を取るのが近道だ」と考えた。十三歳から二十歳までの七年間、上清の店に奉公して、学校から帰ると電話を聞いたり、商売の手伝いをしたりしている間に、そのことが深く脳裏に刻まれた。
上清にせよ、天下の糸平〔いとへい=田中平八、相場で巨利を築いた生糸商〕にせよ、雨敬〔あめけい=雨宮敬次郎、実業や投機で活躍〕にせよ、ないしはまた大阪の五代友厚〔ごだいともあつ、薩摩藩の武士で明治期には実業家〕にせよ、一代で財産を作った者は、みな相場で儲けている。ただし、古河市兵衛〔ふるかわ いちべえ、古河財閥の創業者〕のように、鉱山で儲けた人もあるが、鉱山は天下にそうたくさんあるものではない。よい鉱山を見つけた後でなければ大きく儲からぬ。けれども相場は、うまく機会を捉えれば、いつでも儲けられる。久五郎が天下に名をなすには、相場をおいて他にはない。このように早くも心に決めていた。
◎半年かかって、ようやく兄を説得した
私は、二十歳の四月、田舎の実家に帰った。それから〔明治〕三十二年、松方さん〔松方正義、当時二度目の首相〕が金本位制を実施しようとしたころであったと思う。私の実家は、「危険だから酒屋はやめよう」ということになった。「これから何をするか。金貸しはみっともない。国益になる仕事をしなければならぬ」というので、鈴木銀行を起し、その経営には兄と叔父とがあたった。私は店員として働いていたが、あまりにも道楽をしたので勘当され、二十四歳の暮れに内密に家の金を懐にして逃げ、ふたたび東京に来た。そして、下谷(したや)の一隅に七円五十銭ばかりの長屋を借りうけ、天下の形勢を睨んで、ひそかに時期が来るのを待った。
ところが、なかなか時期は来ない。いや、来ていても自分が儲けることができないのである。実家はもちろん、親戚一同、「貴様のような奴は、びた一文でも面倒を見ぬ」という厳しいお達しである。以前に、上清の家を出るときは、「お前は道楽をしていけない。田舎へ帰れ」「よろしい帰る」「お前が改心するまで絶縁だ」「よろしい、おれも男だ。あなた以上の財産を作るまでは再びお目にかかりません」と立派な口をきいて出たのである。そこで仕方がないから、身の回りの品を売って食いつなぎ、つぶさに流浪の苦難を味わった。
それから、二十六歳の年に兄貴を説得しに行った。「田舎にぐずぐずしていては時勢に遅れますぞ。そのままにして過ごせば、田舎の金持ちとして死んでしまうにすぎぬ。それでは人間として面白くない。東京に支店を出して、大いに鈴木家の発展を図らねばならぬ」と、おおいに兄を激励した。そうやって兄を説き落とすのに、実に半年かかった。初めは「貴様のような勘当した奴の言うことは…」と言って受け付けなかった。そこで私が「もし私が不信用なら、法学士でも高等商業の出身でも連れてきてやらせるがよい。田舎にいては、鳥のいない島のコウモリのようなもので、とうてい伸びない」と言って、懇々と説得したところ、ついに私の説に服して、その年(三十五年)の九月十三日に、日本橋の小網町に鈴木銀行の支店を出した。
そこで、「とにかくお前の説によって設けた支店だから、マァやってみろ」ということで、私を支店長にした。「しかしお前はズボラだから、女房役がなければならぬ」ということで、上清で何代にもわたり番頭をつとめる伊藤という堅い男をもらってきて支配人にして、これに金庫の鍵を預けて営業を始めた。その当時、東京にはべつに知り合いはない。学校の友達はあるけれども、それらは三井物産や第一銀行あたりの勤め人となっているから、銀行の華客〔得意先〕にはならない。どこの馬の骨だかわからぬ奴が小網町の片隅に小さな看板をかけてやりだした、というわけである。
すると間もなく日露戦争が起こった。つまり、明治三十七年二月十三日に、仁川港においてワリヤーグ〔ロシアの巡洋艦〕、コレーツ〔ロシアの航洋砲艦〕が破壊(ぶっこわ)されたという騒ぎである。「サァ事だ。日露戦争は日本の浮沈にかんする一大事である。勝てば国威が宣揚するが、負ければ日本は大変なことになる。したがって、我輩が起つも倒れるもこの時機にある」と思って、つらつらと天下の形勢を観測していると、どうも戦は長引くようである。少なくとも、三年くらいはかかりそうだ。「それならこの間に、ひとつ外国を見てこよう」と思って、三十七年の十一月四日、ロンドンに向かって出発した。
途中、上海の友人のもとに立ち寄り、この港に一週間ばかり滞在することにした。すると号外が来た。その号外の題目に
Most important fort is occupied.
「最も重要な砲台が占領された」
と書いてあり、本文には、有名な二百三高地〔日露戦争の激戦地〕が占領されたことを細かく報じている。それから、香港の噂によれば、バルチック艦隊が四十何艘、舳艫相銜(じくろあいふく)んで〔多くの船が連なって〕すでにシンガポール沖に来ているということである。この噂を聞いて、私は心機一転した。「天下の安危が決するのは今である。ロンドンあたりへ行ってのんきに英語などの研究をする場合ではない」と思って、そそくさと荷物をまとめて帰途につき、十二月十三日に東京に着いた。
◎日本と運命を共にする考えで株を買う
ロンドンへ行って一、二年は顔を見られないと思っていた私が突然帰ったので、みんなが驚いている。女どもなどは狐につままれたようにあっけに取られている。「なぜ帰ってきたのか」と言う。私が、「上海あたりの噂はたいへんなものである。バルチック艦隊はもうシンガポール沖に来ているという。日本の運命はいよいよ焦眉の急に迫った。海軍の司令長官は東郷平八郎さんである。決して負けるようなことはあるまいけれども、万が一、もし負けたなら、どうしても日本は滅茶滅茶、鈴木銀行も滅茶滅茶。こういう危急存亡の場合にあたって、私はとてもロンドンあたりへボンヤリ行って日を送れないから、帰ってきたのだ」と言うと、兄は、「そんならどうするか」と言う。
私は、「イザとなっては、国民軍として尽くさねばならぬことはもちろんだが、さしあたり我らはこの時に乗じて財産を作らねばならぬ。三菱にしろ、三井にしろ、安田にしろ、みな維新または西南戦争の際に富を作ったのである。おおいに儲けようとするには、国が戦争という大博打を打ったとき、やはり個人も大博打を打たねばならぬ。負ければ鈴木家百万円の財産は塵のごとく灰のごとく飛散してしまうかもしれぬが、勝てば百万円の財産が五百万円にも千万円にもなる。運命は天にある。はたして勝つか負けるかは、人間にはあらかじめ測り知ることができないけれども、現に政府は日露戦争という大博打を打っている。政府がすでにそうだとすれば、国民もこれに倣ってよいわけだ」という議論をして、まず兄を説伏し、それから他の社員二人を説いて、いよいよ株をやりだした。
ところが、株をやるといっても、私は上清の店にいたとき、少し株と米の講釈を聞いただけで、実地にやったことはない。いまの時期は買えばよいのか売ればよいのか、とんと分からぬ。しかし私は、だんぜん買うことに決心した。たとえ、売って儲けても、日本が戦争に負ければ我々の財産はみな取られてしまうのである。この博打は、勝つという方よりほかに張り目がない。天子様〔天皇〕の…と言っては恐れ多いから別として、時の総理大臣伯爵桂太郎さんの運を張るよりほかにない。あるいは、陸軍大将大山巌さん、海軍大将東郷平八郎さんの運を買い、これと盛衰を共にするよりほかにない。負けるなんてそんな縁起の悪い方には張れぬ。そこで、買いの一点張りと出た。
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今回はいったんここで切ります。次回は後半を掲載します。