DavyとKeikoのWhat?what?what?

2000年の2月に中国から帰国し、事務所登録をする為に小さなマンションを借りたのですが、その際に出会った不動産屋さんが、地元のラジオ番組に時々出演していると言い、”見学に来ますか?”と誘ってくれたので、

早速、夜の音楽番組収録を見学に行きました。

若者達がピット曲とお喋りで綴る明るくて元気な番組を、ガラス張りスタジオの外から、ディビ~と一緒に見学し、

その際に出会ったディレクターのOさんに、番組はどうやって創り運営をしているのか?と言うことを伺った私は、

翌日、番組の構成をまとめ、企画書を作成しラジオ局に持って行きました。

番組創りに関して、何にも知らないのに、全くのド素人なのに、恐れもせずに、・・・。

日本語が心配だからと渋っていたディビ~を少し強引に引っ張りだして。

でも、

帰国後、ディビ~が記者なりたいと言う夢を叶えるための第一歩なるような気がして、何かが生まれるような気がして、

そして私が建築の仕事に復帰する為にも、これはきっと良いチャンスになると、一人信じて、

連日必死でスポンサーを見つけるために、知らない会社へ飛び込みをして歩きました。

一時間の枠を4社のスポンサーで埋めることにこぎつけたのは、企画書提出から一ヶ月もかからない頃でした。

番組構成は、前半の30分は、でぃび~と私が海外や日本で経験した”何?これ?”と言う可笑しな出来事をお喋りし、文化や社会の違いを分析し、その間に彼が選んだ海外の曲を紹介し、

後半は、ゲスト(地域で活躍している方を紹介)を迎えて、お話を伺うと言う構成にしました。

企画は、ディレクターに面白いと言われ、5月初めから番組は始まりました。

始まりのテーマソングが流れだし、始めのご挨拶をし、番組は始まります。

”みなさ~~ん、こんばんわぁ~”

”そうそう、この間ね・・・”

こんな会話をきっかけに、番組を始めました。

彼が主婦と娼婦を間違えて言ってしまうことや私がelection(選挙)とerection(勃起)を間違えて言ってしまった事など、それぞれが間違って言ってしまった日本語と英語についての出来事を、その時の状況を面白可笑しく話したりしました。

そして、エンディングは私が好きだったCranberrirs(クランベリーズ)のOde to my motherで、静かに穏やかに番組を締めくくりました。

私たちは、誰にも教わらず、見よう見まねで、ラジオショ~を創り上げ、間に入れる音楽をディビ~が毎週選び、ゲストは、殆どの場合は私が探し出し、出演交渉をし、伺う内容を事前に打ち合わせをして、週一回の一時間の番組を約2年続けました。

特に大変だったのはゲスト探しで、都内で建築デザイナーとして契約を交わして、仕事も開始していましたから、その間に、全てをまとめて毎週番組を放送しました。

アイルランドからディビ~の妹が来日した際は、彼女とパートナーをゲストに迎え、エンディングにさよならを言うように彼女に促したディビ~が彼女に教えた言葉はさよならではなく”くさいおなら”でした。ハリーナとミッキーがエンディングで大きな声で”くさいおならぁぁぁぁ”と叫び、私とディビ~はぷっ~~~~っと吹き出し、番組は終了しました。

ディビ~のお父さんと国際電話で話し、彼にギターを弾いてもらいアイルランドの歌を歌ってもらったり、地域に住んでいる外国人の方たちにも、日本についてのお話を伺いました。

そして、

7,8ヶ月が過ぎる頃、前半の私たちのトークは、次第に、政治的な分析が多くなっていきました。

ディビ~のジャーナリストとして意識が、段々大きくなり、番組をただの馬鹿な外国人のお喋りショーにはしたくないと言う思いが前面に出てきました。

そして、私もそれに大賛成でしたから、

”軽いおちゃらけた番組にしたい”と思いがある暗い顔をするディレクターを横目に、初めから自分たちのやりたい番組をやってきたし、”これは誰の番組でもなく、私たちの番組だから”と言う思いもあり、社会性のある番組創りにこだわり続けました。

イギリスでは、そういう番組がすっごく人気があったんですね。

そこで、私もイギリスのように、リスナーから意見をいただけるような番組創りをと意識して、テーマも選ぶようになりました。

ある日、私が石原慎太郎さんの発言を番組の中で批判したんですが、

その収録が放送された日曜日の夕方6時過ぎ、うの付く団体さんの2人が、ラジオ局へ押しかけてきて、発言を撤回しろ!とディレクターに詰め寄ったとの連絡があり、翌週”先週の発言は不適切でした”とコメントを入れてくれと局から頼まれたんです。

でも、私もディビ~もそれを断りました。

その出来事は、局と私達の間に大きな溝を創りだし、やがて、私たちの番組創りへの意欲も意気消沈し、

2年の間、何度もディビ~を励ましながら続けた番組でしたが、彼はず~~~と

”け~こ、僕の日本語は足らないから、もう止めたいよ”と言い続けた事もあり、

私達は番組をやめることにしたんです。

でも、  でも、

でも、その出来事を、ディビ~がうのつく人たちに屈する日本のラジオ局と、自主規制にこだわるメディアと言うことで、記事を書いたんです。

それがネット上で公開され、

いろいろな国の学者やメディア関係の人たちの目に触れ、アクセスがあり、

ディビ~の記者としての実質的な第一歩に繋がったと思います。

その頃のことを、二人で時々思い出して話すことが、今でもあります。

帰国して9年目を迎えようとしていますが、

彼がジャーナリストとして、夢を叶えた事を、本当に良かったと嬉しく思う私です。

時々、必死で記事を書いても掲載されないときや、不安定な状況の中で、落ち込む彼に、

”ディビ~、でも子供の頃からの夢が叶ったでしょ?そういう風に夢を叶えられる人は少ないから、良かったんじゃない?”

と言う私です。

足元の仕事をしっかりやり続ければ、おのずと未来は開けてくると信じている夢見る少女の私で、焦らなくても、書き続けることで、未来が開けると信じている私です。

彼の周りにいるジャーナリストたちの中には、もっと良い条件で記事を書いている人もいます。

でも、”記事は内容だ!何処に目を向け、何を書いたか?”と思っている私は、上手く、早く記事を書いても、自分で納得いかない、いい加減記事を書くより、ディビ~の書く記事のほうが社会に役立っていると思うのです。

人にはいろんなタイプがあって、簡単に書ける人もいれば、慎重に言葉を選び、事実関係をしっかり捉えて書くという基本をしっかりする人もいるから、

自分の書き方の良い所と足らないところを見つめ続けて、書き続けることが大切だと思うのです。

それは私が自分の仕事に向い合うときと同じです。

結果は後からついてくると信じて止まない私です。

 

DavyとKeikoのWhat?What?What?

私の中で、この思い出は、

毎週、ゲスト探しと交渉と打ち合わせに一生懸命走リ続けた思い出と、

ちょっとのおかしさと、

普通では出来ない経験をし、二人で立ち向かったこと、

そして、

スタジオの中で、ディビ~と向かい合って、言葉を交わしながら創り上げた情景と、

そのすべてが、ちょっと切なく懐かしい思い出として、

生き続けています。

冷たい雨が降る今日、

クランベリーズのあの曲のMy Mother ♪ My mother ♪ が脳裏をかすめていきました。

今夜は雪かしら?


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