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【オリジナル小説】やさしいNの減らし方前編
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【オリジナル小説】やさしいNの減らし方前編

2020-10-11 17:47
    先日自己矛盾さんの放送を見ていただいた方、ありがとうございました。
    その時話題にあがった小説になります。
    10年以上前に書いたものなのです。書き始めたのは15年くらい前ではないでしょうか、本当に痛々しくて、文章も稚拙なのです。
    はっきり言って、自分で読み直している間に恥ずかしくなって挫折してしまいました。
    それでも今には無い当時の情熱だけは本物だったので、恥ずかしながらアップさせていただきました。
    出来はともかく一番思い入れが深いものなので、茶化す目的でもなんでもいいので見てあげてくださると幸いです。

    0.

    ――レジさんがログインしました。
     ディスプレイの右下にログイン情報が表示される。それとほぼ同時に、レジが話しかけてきた文字も表示された。
     「レジ」というのはハンドルネーム。僕の唯一のチャット友達だ。プロフィールには女性とあるけれど、実際のところどうか分からない。もしかしたら、50歳くらいのおっさんかもしれない。会うつもりもないので、別にどうでもいいのだけれども。
    『おはようございます! 元気ですか? 元気ですよね!』
    『全然、元気じゃないよ。それに今は夕方だし』
    『なんですかー、相変わらず、ぶっ冷めじゃないですか! それに、実は私は外国からチャットをしているという叙述トリックかもしれませんよ?』
    『そうだね』
    『わぁ、淡泊ですね!』
     自分で淡泊な反応をしようというつもりはないのだけれども、本来コミュニケーション不足な僕がチャットをしても、こんな調子になってしまうのだ。これはチャットに限ったことではない。僕はネットだろうがリアルだろうが、分け隔て無くコミュニケーションが苦手だった。
    『そういえば、明日からついに高校生活なんですよね?』
    『そうだね』
    『大丈夫なんですか?』
    『大丈夫だよ』
    『え、そうなんですか!? でも先輩って確か……』
     レジの文章が一度途切れる。
     彼女は僕のことを先輩と呼んでいるが、実際に先輩なわけではない。そもそもレジとは会った事も無いし、お互いの住んでいる場所も知らない。本名すら分からない。
     ただ、ハンドルネームを持っていない僕は、レジが僕を呼ぶ為の固有名詞が必要となったのだ。
     そこでとりあえず年上だったので便宜上先輩と呼ぶことになったのだ。
    『先輩って女性恐怖症でしたよね?』
    『うん。そうだよ』
    『大丈夫なんですか?』
    『大丈夫だよ』
     僕は自分のことを、女性恐怖症だと言い張っている。医者にそう診断されたわけではないのだが、実際に女性とコミュニケーションをとるのに対して恐怖を抱いているのでそう自負しているのだ。そして、コミュニケーションを避け続けた結果、僕のコミュニケーション能力はいつの間にか、地に落ちたものになっていた。
    『へぇ、あんなに女性恐怖症だって言っていたのに、すごい自信じゃないですか。もしかして女性恐怖症、克服したんですか?』
    『言ってなかったっけ? 男子校に進学したんだよ』
     確かに言った記憶がない。多分言ってなかったのだろう。
    『ええー! 前聞いた時、近くに男子高無いって、言ってたじゃないですか!』
    『遠くに入学したんだよ、と言っても県下だけど。だから一週間くらい前から一人暮らしだよ』
    『そうなんですか、叔母さん、よく許してくれましたね』
    『説得した』
     叔母の説得には時間がかかった。叔母は僕のことを溺愛している。その為、手の届かない範囲に置くのに難色を示していたのだ。
    『そうなんですか、あの、まだ……』
    『まだ?』
     少しだけ時間が空いた。
    『叔母さんとはうまくいってないんですか?』
    『叔母は僕に良くしてくれてるよ。ただ、叔母も女性だから、女性恐怖症の僕にはちょっと辛いだけ。叔母が特別嫌いなわけじゃないよ』僕は嘘をついた。
    『そうなんですか』
     叔母は僕の心配ごとの一つだ。
     レジはそれを知っていて、気にしてくれていたのだろう。
     あまり、叔母について話したことは無いけれども、それでも今の発言が嘘だということに彼女は気が付いただろう。
     実際、一人暮らしをしようと思ったもう一つの理由は、叔母と離れる為だった。
    『でもじゃあ、女性恐怖症は治る気配は無いんですか?』
    『無いと思う。あまり詳しく言ってもどうせ信じてもらえないから言わないけど、僕の女性恐怖症は仕方が無いんだ』
    『仕方が無い?』
    『結果論って言えばいいかな、うまく言葉にできないけど』
    『結果論、ですか?』
    『うん。信じてもらえないと思うけど、僕は人と違うみたいなんだ。変なんだ。これまで生きてきて、女性とコミュニケーションを取り続けると結果としてお互いが不幸になる。僕はそういう、変な能力めいたものがあるんだ』
     しばらくの間、チャットが停まった。時計を見ると、もうすでに日付が変わろうとしている。
     わざわざこんな話をする必要なんて無かったと、少し後悔した。
    『ごめん、変な話だった』
    『いえ、私は信じてますよ。信じてますけど。絶望的じゃないですか、私。来年、先輩と同じ高校に入学してみたいと思ってたんですよ。それが、なんと、男子校ですよ! しかも、女性恐怖症が仕方が無いだなんて』
    『そもそも、僕の名前も住所も知らないよね』
    『そうなんですけどね』
    『僕は……、レジとはネットの関係だからこそ女性恐怖症の僕でも仲良く出来たと思ってるんだ。僕にとっては、そのアバターがレジのイメージ、それでいいと思うんだ』
     アニメ風にデフォルメされたアバターを見た。レジのアバターは、髪の毛がやたら長く金髪で、髪の毛を生け花かなにかと間違えたかのように、実用的でない装飾が施されていた。服も相手を威嚇するかのような派手な格好をしていた。
    『私こんなにコンタクトレンズでスープが掬えるほど、目が大きくないですよ?』
    『給食の時とかに便利じゃん』
    『給食の時に、目からでっかいコンタクトレンズを取り出して、これにカレー入れてくださいって言っても友達減らないですか!?』
    『さあ』
    『それに私、髪もこんなにパーマかかってないし、染めても無いです』
     アバターと本人は似てないらしい。
    『そうなんだ』
    『派手なほうが好きなんですか!』
    『そういう意味じゃないよ』
     僕が入力すると、また返事がこなくなった。下のほうに今入力してるというアイコンが、点滅している。おそらく、入力しては消しを繰り返しているのだろう。
    『先輩。高校生になってもまたチャットできますか? チャットでなら、女性と話をしても、大丈夫なんですよね?』
    『うん、大丈夫だと思う』
    『やったー!』
     アバターが背後にお花畑を出した。喜びを、ボタン一つで表現出来るなんてなんて便利なんだろう。現実世界でも、ボタン一つで感情が表現出来るのなら、もう少し世界はスムーズだったろうに、と思う。
     僕のアバターは、常に無表情を貫いているが、別に無表情にポリシーがあるわけでもなく、ただ単に操作が面倒なだけだ。ボタン一つすら面倒なのだから、やはり世界はスムーズにならないだろう。
    『レジはさ、他にチャットする相手いるんじゃないの? 僕とチャットしてて楽しい?』
    『楽しいですか、うーん、難易度の高い質問しますねー』
    『楽しくないなら、別に無理して僕とチャットしなくても……』
     レジなら誰とでも楽しく、チャットができるはずだ。
    『あー! またそういう話なんですか!?』
    『定期的に出したい話題だよね、蛍光ペンが定期的にほしくなるみたいな』
    『なりませんよ! でも先輩とのチャットは他の人より優先しちゃいますねー』
    『優先?』
     わざわざ話題の貧相な僕を優先する理由なんてほとんど無いだろう。もしかして他にチャット相手の居ない僕を気を遣ってくれているのかもしれない。
    『先輩は、他にチャットの相手は作らないんです?』
    『うん。そう言えば作らないね、なんでだろ。たぶん面倒だからだけど』
     レジと話をしだしたのも単なる偶然で、チャットの相手を探していたわけではない。相手を探したような記憶も無い。
    『それは私も、先輩と話を嬉しいですけど、でも、先輩って本当に向上心とか探求心が無いって感じですよね』
    『そうかも。確かに無いね』
     探求心というのは、普通の人間だけに与えられたものだと思う。
     少なくとも他人と異なる僕は、他人と同じラインにいるのが精一杯で、何かを向上させよう、なんて考えたことも無かった。
     なら、もし僕が、他人と同じだったら。
    『僕は、人と違うから』
    『じゃあ、先輩が女性恐怖症じゃなかったら、人と同じ向上心を持っていたんですか?』
    『どうだろ』

    1.

     水道高校に入学して一年が経過し、当然ながら僕は二年生になっていた。
     保健室から教室に戻ると、いつもテンションの高い山田が、アベレージを大幅に上回るテンションで声をかけてきた。
    「おう、体調不良か、珍しいな!」
     体調不良だと知っているのに気遣いを見せる様子がまったく無い。この山田はという男はそういう人間なのだ。高校生活でできた友人の一人だ。
     そして、さらにその横の席に座っているのが夕部。こいつもまた、僕が高校に入ってできた友人である。
    「大丈夫なの?」夕部が心配そうに、顔を向けた。
    「大丈夫だよ」
     一年の頃は、三人のグループで学校生活を過ごしていた。
     一年の初頭をぼんやりと過ごしていたら、なんとなく二人が話しかけてくれて、いつの間にやら複数のグループを形成し始め、それらが徐々に最適化された結果がこのグループだったのだ。
     二年になっても二人と同じクラスだったことは、コミュニケーションが苦手な僕としては、素直に嬉しかった。
    「ほらな。心配すること無いって言っただろ?」
     山田はなぜか誇らしげに、鼻息を出した。鼻息が顔にあたって気持ち悪い。
    「まあ、瀬村君が大丈夫って言うなら、それでいいかな」
     瀬村というのは僕の名前だ。
     瀬村文人(せむらあやと)。特にコメントのしようが無い平凡な名前だと自己評価している。
    「そんなことより瀬村、あれ見たか?」
    「あれ……って」一瞬なんのことか分からなかったが、すぐに山田の言いたいことを理解した。「ああ、入学式のことね……」
     僕は口の中が苦くなり、砂を噛み締めるような感触を覚えた。
     あの光景は、確かに忘れられないものがあった。
    「ああ、すごかったよねー」夕部が反応した。「正直言って、あんなに入ってくると思わなかったよ。ね、瀬村君」
    「うん」相槌を打つのが精一杯だった。
    「まさかあんなに、女子が入ってくると思わなかったな!」山田は下品に笑った。
     水道高校に僕が入って一年。
     たった一年という速さで、僕にとっての最良条件だったはずのこの高校は、突如としてその最大のメリットを欠いてしまった。
     水道高校は共学化したのだ。
    「まず、女子高生っていう響きがやばいな。諸行無常の響きがあるからな」
    「無いよ」夕部がつっこむ。「で、なに、かわいい娘いたの?」
    「馬鹿かお前?」山田は首を左右に振った。「あの光景を見てそんな冷静に、あの娘かわいいなんていう理性が残ってるわけねーだろ。このハゲ。今まで男しかいなかった空間の体育館に、女子がズラーっと並んでたんだぞ? その姿を見て、背徳感で胸が苦しくなって息ができなくなった」
    「背徳感で?」
    「そうだ!」山田は無駄に立ち上がった。「初めて自分のことをすごい人間だと思った。俺は体が勝手にあの行列の中に飛び込んでしまいそうになる感情。それを、この理性が、止めたんだ!」
     彼は偉業を達成したかのように、拳を天井に突き立てている。そのポーズは、自由を表現した像のようだった。
    「気持ち悪いからやめてよ。気持ち悪いのは顔面だけにしてよ」夕部がため息をついた。「思想まで気持ち悪いのは反則だよ」
    「うるせー!」
    「救いようが無いよね」
     二人は楽しそうに会話をしているが、その会話を聞きながら考える。
     去年の夏休み頃に急に浮上した共学化説は、僕を絶望へと突き落とした。しかし、まさかここまで急に共学するとは思っていなかったので、まあ僕には関係ないだろくらいに考え、不安を打ち消していたが。あっという間に共学化の話は決定した。
     それに関して、山田と夕部の二人は、
    「どうせ、女子生徒なんか来やしねーよ」
    「なんで?」
    「お前な、最近まで男子校だった場所が急に共学になりましたよー、なんて言われても女子が入って来るわけねーだろ。すでに、志望校が決まってるやつとか、推薦で決まってるやつも多いだろ。わざわざこんな、男臭い空間に入りたいでーす、なんて女子いないだろ」
    「確かにね。なんかイカ臭いしね」
    「そういう具体的な臭さじゃなくてだな」
     等とコメントしていたが、実際のところ、予想が大きくはずれてしまった。新入生のほぼ半分が女子だったのだ。
     目の前で山田が、その件について「勝因は、アクセスのよさだったな」と述べている。その女性の列をみたのが原因なのか、遅刻しそうになって朝ご飯をバナナだけにしたのが原因なのかは分からないけれど、入学式の最中に倒れてしまったのだ。
     高校入学してからは、女性恐怖症を自称する必要が無くなったので、二人にはあまり言っていない。
     クラスで憂鬱そうにしているのは僕だけで、山田と夕部を含めたクラス中は盛り上がり、「俺一年からやり直すわ!」と、悲しい発言をしている人も居た。じゃあなぜ、男子校に入学したのだろう。
    「瀬村、お前本当に大丈夫なのか?」
     山田が心配そうにこっちを向いた。こいつに心配されるくらいなのだから、よっぽど残念な顔色なのだろう。
     夕部も不安そうに覗き込んでくる。
    「大丈夫だと思う。多分」
     そう答えながらも、今後どうすればいいのか不安で堪らなかった。


     今日は授業も無く、午前中には下校となった。
    「何やってんだ? 帰らないのか?」
    「もうちょっとしたら帰るよ」
    「そうか、変なやつだな」
     山田は不思議そうな顔をしながら帰っていった。夕部もとっくに帰っている。ほとんど誰も居なくなった教室で、はぁ、とわざとらしくため息をついてみた。
     窓から中庭の様子を伺うと、今までだったら居ないはずの女子生徒が、割合こそ少ないものの歩いている。女子が校舎から居なくなるまで待つことも考えたが、毎日それをすることを考えたら憂鬱で仕方がない。
     まあ僕に、何かしらのアクションを起こしてこようなんて女子は、まず居ないだろうから、普通に道を歩くだけ。大丈夫。そう自分に言い聞かせてみたものの、校内に女子が居るという感覚が、お風呂にテレビのリモコンがいっぱい浮いているような、そんなどうしようもない違和感となって離れない。
    「大丈夫だから……」
     自分を励ますように、自分の口から声が出て、情けない。
     平然を装って、校内を歩く。
     いつもよりぎこちがない、それに焦りから所所に歩幅が大きくなり速度もあがっていく。
     もう少しで下駄箱、そこから校門へと抜ければあとはいつもの下校コース。その下駄箱へ向かう最後の曲がり角で、僕は何かにぶつかってしまった。
     その何かが「きゃっ」という声を出した。あまり、この学校では聞きなれない、高い声だった。
     少女がクリスマスに素敵なプレゼントをもらったような、可愛らしい悲鳴。目の前には眼鏡をかけた女子生徒が、倒れこんでいたのだ。
     少女漫画の第一話にありそうな、シュチュエーションだった。突然現れた女性。僕は混乱しそうになる自分を抑えるのに必死だった。
     衝撃は軽く、僕は怪我も無く突っ立っていたが、彼女には衝撃が強かったのだろう。廊下に座り込んで、小さく震えていた。
    「すみません!」僕はすぐに謝った。
    「こ、こちらこそ。すみません……」
     その時、正面から猛ダッシュしてくる女子生徒が見えた。
     長い髪が大きく揺れている。
    「あんた! 鈴子に何してるの!」
     どうやらメガネの生徒の知り合いらしい。
     二人の間に割り込むと、僕のことを睨みつけてきた。
    「い、いや……」
    「答えなさい。鈴子に何をしたの?」
     駆けつけてきた女子生徒に睨みつけられる。走ってきただけあって、息が少しだけ荒い。ぶつかったことから、彼女のダッシュ等を含め、周囲の視線がこちらを向いていた。
    「その、ごめん……」
     あまり良い感じのしない謝罪になってしまったが、この状況で頑張って捻り出た、最大限の謝罪だった。
     メガネの女子生徒は、急いで首を振った。
    「いえ、私の不注意です。すみません。リクもそんな睨まないで」
     彼女は僕を庇うように何度も謝った。
    「本当なの?」
     リクと呼ばれたほうの女子生徒は、再び睨みつけてきた。
     その睨みが、女性に対する恐怖症を増幅させ、言葉が出なかった。何かしゃべらなくてはと思っても、声が出てこないのだ。何も言葉が浮かばないし、口から何も僕は彼女を直視することができず目を逸らしてしまった。
     それが彼女にとって気に障ったようだった。
    「腹立つわね!」
     彼女は手を振り上げた。
     反射的に強く目を閉じる。平手打ちが飛んでくることを覚悟した。
     その時だった。
     不快感が、僕を包み込んだ。
     頭が不必要なものに触れてしまったかのような不快感。
     昔見た本を読み返したような感覚。
     既視感。
     その言葉がこの感覚を表現できる一番近い言葉だと思う。
     その感覚こそが、自分自身の本質だと思い出した。
     一年間のという時間をかけて、少しずつ錆びた感覚が、一瞬で色を取り戻す。
    「なにが……」
     何がおこった……?
     そう言いたかった僕の口は、遮られた。
     彼女は僕の顔を両手で固定した。
     唇が何かに触れる。
     柔らかくて、僕の知っているあらゆる物質よりも優しかった。
     嗅覚が何か甘いものを捉える。
     目の前に気配がする。
     唇と唇が触れ合っていた。
    「リ、リク……?」
     さきほどぶつかった生徒の声が聞こえる。
     声はそれだけではなく、周りからも徐々に声が聞こえてきた。
     この状況を打破する方法を考える時間も無いまま、目の前の女子生徒は目も開いた。
     目の前にある瞳が、徐々に開いていくのが分かった。彼女のほうが僕よりも背が高く、僕を見下ろしていた。
     突き飛ばされた。
     僕は力に逆らうことも忘れ、再び尻餅をつく。
     お尻から伝わる、ひんやりとした感覚が、僕の気持ちを少しだけ現実に引き戻した。
    「なんで……」彼女は下駄箱のほうへ走り去った。
    「り、リク、すみません、失礼します」
     もう一人も、ペコリとお辞儀をすると走り去ってしまった。
     その場に僕だけが取り残されてしまった。
     周囲の生徒は、露骨か否かの違いはあるけれども、ほぼ全員が間違いなくこっちを見ていただろう。
     下駄箱のほうに歩いていった。僕らを注目していた人達は、これ以上イベントは無いと踏んだようで、こちらの興味を失ったように去っていった。
     家に帰り、ベッドに横になって始めて少しずつ頭がはっきりとする。
     長身の女子生徒は言った。「なんで……」と。なんでだろう。僕も知りたかった。
     リクと呼ばれていた。
     彼女には悪い事をしてしまった。
     リクって、どんな字を書くのだろうか、本名には思えないけどあだ名だろうか?
     彼女の容姿を思い出す。僕がもし普通だったら、彼女の事をどう思っていただろう。
     自分の唇に触れてみると。手に光るものがついた。化粧品かなにかだろうか。僕にはそれが何か分からなかった。女性を避けてきた結果、無意識のうちに女性に関する知識も避け続けてきたのだ。
     そうだ、避けなければ。これからもずっと。
     立ち上がと、台所に向かい唇と手を洗った。
     携帯電話を見ると、叔母からの着信履歴とメールが届いていた。「たまには連絡ください」という内容を、無理やり長文にしたような内容だった。
     今ちょっと手が離せないから、また日を改めて電話する。部活すらしていない暇な高校生の返信にしては、あまりに白々しいメールを送りつけて、携帯の電源を切った。
     
     
     
     翌日、どの時間帯が一番人に会わなくて済むだろうかと考えた末、いつもより十分ほど早く登校する。予想通り、ほとんど人に会わず教室に着く。
     教室にはまだ十人も居ないにも関わらず、山田と夕部はすでに教室に座っていた。。
     この二人が学校に来るのが早いとは知ってはいたが、まさかここまで早いとは思わなかった。どんだけ学校が好きなんだこいつらは。
     だが、いつもなら楽しそうに話している二人も、今日は二人して、まとめて買った漫画の一巻が、異常なまでに面白くなかったかのような、暗い表情をしていた。
    「どうしたの?」
     挨拶代わりに話しかけると、二人はこちらを怪訝そうに見つめてきた。
    「この中に裏切りものがいる」
    「裏切り者だって? 馬鹿なこと言うなよ、一体だれが裏切り者だと言うんだい?」
     二人の、小芝居が始まった。
    「この中にキス魔がいる」
    「キスマ?」
    「キス魔」夕部が復唱した。
     キス魔。もしかして昨日のことを言っているのだろうか。二人がなぜ、昨日のことをすでに知っているのだろうか。
     二人の白々しい小芝居はついに核心に迫った。
    「え、じゃあ山田さん! なんでも、この中に一年生と放課後の校舎で仲良くキスしてたやつが居るってこと?」
    「ああ、俺の情報によると、もう舌まで入れまくりだったらしいぞ」
     入れてないって。
    「ええ! 本当ですか?」
    「ああ、一秒間に七回くらいのペースで入れてたらしいぞ」
     あまりキスに明るくはないけれども、一秒間に七回も舌を入れることに何か意味があるのだろうか。
    「ええ! 彼女なんて居るわけないよー、なんて笑いながら言ってたあいつが?」
    「ああ、嘘つきがいるようなんだ」
     山田は一瞬こちらを見た。
    「そんな奴、居るわけ」夕部が一瞬こちらを見る。
    「しかも、三角関係だったらしいぞ」
     どこで仕入れてきた情報か知らないが、何か勘違いしているようだった。
     二人に情報伝達される際、ずいぶんと歪曲したことが分かった。
     僕には一年生の彼女がいつの間にか出来ていて、その子と校内でキスしていたという情報になっていらしい。しかも、舌を一秒間に七回入れるという、よく分からないテクニックを駆使。さらに、別の女子生徒と三角関係を構築していたらしいく、それを目撃されたことにより修羅場へと突入。しかし、僕の華麗な話術で和解。三人は夜の街に消えていったというのだ。
     彼らは僕に話術がないことくらい知っているだろうに。
    「二人とも勘違いしている」
     僕は否定した。
     ただ、事実をそのまま言うわけにもいかない。
     なにせ事実のほうが、さきほどの話より嘘くさいのだ。
    「聞いてよ、まずね、キスしていたというのは認めるから」
    「やっぱりキス魔じゃねーか」
    「違う違う、ちゃんと聞いて。まず、キスっていう定義はなんだろう? それは唇と唇を重ねるってことだよ。だから、まあ、キスしたっていうのは、認めるけど、それは故意ではないんだよ」
    「死ね」
    「だから、故意じゃないんだって、眼鏡をかけた女の子とぶつかって困り果ててたんだけど、そのときに体調不良も伴って、バランスを崩しちゃったんだよ」
    「お前の、アイデンティティーも崩れろ」
     なんか、合間合間にただただ罵倒されるんだけど。
    「聞いて聞いて、違うって。だからね、それで、バランスを崩した時に、一人の女子生徒を巻き込むような形になっちゃったんだよ」
    「やくざの紛争にも巻き込まれろ」
    「やだよ……、で、そのときに唇と唇が重ね合わさってしまったのです。神様のいたずらってこわいよね……、乙女の純情を奪ってしまうことになっちゃったというわけ。だからまあキスしたといっても故意じゃないし、申し訳ないことだと思ってるんだよ」
     即興で作ったにしては、意外と良く出来たシナリオだと思った。当然ほとんど嘘なのだが、事実もほんの少しくらい混ざっている。
     バレない嘘をつくコツは、真実を含ますのが良いと聞いたことがある。
    「うおー! でっかいハナクソとれたー!」
    「うわ、汚いよ」
     聞いてないし。
    「で?」
     山田はこっちを指さした。指先には、大きいハナクソがくっついていた。いや、大きすぎるでしょそれ。
     なんと説明したら良いのだろうか。
    「ごめん、僕も良く分かってなくて」
     山田と夕部は顔を見合わせた。
    「別に怒ってるわけじゃねーぞ」
    「そうだよ、むしろ安心したって思ってたんだよ」
    「安心した?」
     話が見えない。
    「なんつーかさ、お前ってあまりに女に興味が無さそうだったからな、心配してたんだよ。このままいやな意味で超越したような存在になるとか、男に興味を持ち出したりしたら、付き合い方変えなきゃいけないだろ?」
    「だからさ、校内でキス事件を聞いてさ、ちょっと安心したんだよね」
    「そうなんだ」
     驚いた。女性恐怖症を、二人に公言していないにも関わらず、二人はどうやら女性を避けているということに気がついていたようだ。
    「ありがと……」
     感謝の言葉を口にしたが、その後、一日中「あー、俺もキスしてー」とか言っていたので、なんだか腑に落ちなかった
     
     
     
    『どっかーん!』
     謎の擬音から、レジとのチャットはスタートした。
    『元気そうだね』
    『元気に決まってるじゃないですか! 昨日から私、高校生ですよ!』
    『高校生になると爆発するの?』
    『当たり前じゃないですか!』
    『じゃあ中学生の頃はどんな感じだったの?』
    『どっかぁん……』
    『今は?』
    『どっかーーーーん!!』
    『じゃあ、中学生の頃のほうが好きかな』
    『このロリコン!』
    『いや、そういう意味じゃないけど』
     彼女自身が言うように、テンションが高く、高校生活始めての登校について語りだした。中学校の頃からの友人がいることや、校長先生の話がやたら長かったこと、教頭先生の話が異様に短かったこと、担任の先生がジャージだったことなどを話した。
     あと、部活はどうすれば良いかという話になった。
    『聞いてくださいよ。女子ポートボール部無かったんですよー!』
    『そりゃそうだよね』
    『なんでですかー!』
    『多分、レジと話さなかったら、一生、女子ポートボール部の存在を知らないまま生涯を終えた自信あるよ』
    『なんですかそれー!』
     レジのアバターが怒り出した。
    『ポートボール部があったら入ろうとばかり考えてたせいで、ポートボール部が無かったらどうしようなんて、全然考えてなかったですよ!』
    『ポートボール部がある前提で入学するなんて、浅はかにもほどがあるよ』
    『どっかぁん……』
    『中学生に戻ってるよ』
    『どっかーーん!』
    『はい、楽しそうだね高校生活』
    『ところで、先輩は無事二年生になれましたか?』
    『なれたよ』
    『おおー! 追試受かったんですかー!』
    『まあね、ギリギリだったけど』
    『そういえば共学になったんですよね、何か変わったことありましたか?』レジのアバターが笑う。『もしかして、すでに、女子高生とストロベリーな出来事でもありましたか?』
    『この前、いちごをコンビニで買ったけど、半分くらい食べたらお腹張った』
    『はいはいストロベリーですね、おもしろいー』
    『まず、女子高生とストロベリーっていう比喩のほうがおかしいと思うけど』
    『で、何かあったんですか?』
     女子高生と何かあったか、と言われれば、嫌でも昨日のキスのことを思い出す。
     あまり他言しないほうがいいと分かってはいるものの、他に誰も言えない。結局のところ、こんなことを話せるのは、レジだけ。
    『あった』
    『おお! 珍しいじゃないですか先輩! いつもは″無い″のプレパラートなのに!』
    『オンパレード?』
    『あれ?』
    『実は変な話なんだけど、キスされちゃった』
     しばらく、反応が無かった。
     結論を急ぎすぎて、変な伝わり方をしてしまったかもしれない。
    『いや、ごめん。ちゃんと説明をする』
     昔から説明は苦手だ。どうしても端折ってしまう癖がある。現代文の試験でも″彼の気持ちを答えなさい″なんて問題は苦手で、いつも一行くらいで簡潔に書いてしまうことが多い。人の気持なんて、どうせ言葉で表せるはずがないのだから、簡潔なほうが相対的に正確に近いのではないだろうか。
     レジには話せる範囲でなんとか説明した。
     Aさんとぶつかった。Bさんが怒った。Bさんにキスされた。大体の内容を言えばそんな感じだった。
    『じゃあ先輩は、謎の後輩にキスされたんですか?』
    『うん、でも。僕が悪いんだけどね』
    『先輩が悪い? どうしてですか? 向こうがキスしてきたんじゃないんですか?』
    『そうだけど』
    『だけど? まさか、本当は無理やりキスしたんじゃないですよね?』
    『違う、と思う』
     否定はしたものの、無理やりというのはあながち間違いではない。無理やりキスしたのではなく、無理やりキスをさせたのだ。
    『歯切れ悪ぅ!』
    『ごめん、信じてもらえないと思うんだけど、僕が他の人と違うって言ったの覚えてる?』
    『覚えてますよ!』
    『つまり、そういうこと』
    『なるほど、そういうことか。ってどういうことですかー!?』ノリツッコミを頂いた。
    『僕が彼女にキスをさせた、させたかった訳じゃないけどさせたの。って言っても分からないよね』
    『分からないですよ!』
    『そりゃそうだ』
    『ンモー!』
     説明が下手なくせに本質的なことぼやかしているのだから、伝わるはずもない。そんな詐欺師のようなこと、できるはずがない。
    『つまり先輩は、漫画とかによくあるみたいな、不思議な能力を持っているってことですか?』
    『うん。前も言ったと思うけど。別に信じなくていいよ』
    『信じますけど。その能力で、女の人にキスさせたってことですか?』
    『うん、まあ。女性恐怖症って言った事があるよね』
    『変態じゃないですか! 能力乱用!』
    『いや、その能力っていうのが、勝手になるんだよそれが、フルオートなんだよ』
    『ええ! 勝手に周りの人たちが、先輩にキスしちゃうんですか? おっさんの集団が通ったらどうするんですか? それとなんでカタカナで言い直したんですか?』
    『いや、だから女性だけなんだって、カタカナはカッコいいと思っただけ』
    『カッコ悪いですけど』
     結局、次には能力も含めて、ちゃんと説明するように約束させられた。
    『絶対また教えてくださいよ! 私は納得してませんからね!』
     レジのコメントがまだ流れているにも関わらず、半強制的にチャットを終了させ、パソコンの電源を落とし、椅子にもたれかかるように力を抜いた。
     レジにはうまく伝わらなかったけれど、気持ちが楽になるのが分かった。
     何も映さなくなったディスプレイを眺めながら考えた。
     彼女には結局のところ、僕の本質とも言える核心部分を伝えなかった。
     なぜ伝えなかったのだろう?
     きっと、怖かったんだ。
     自分の全てを知られるのが。
     
     
     
     放課後になると山田も夕部も、挨拶も無しに帰っていた。
    「こんにちは」背後から聞き覚えのある声が聞こえる。
    「今日はキスしないから安心してね」
     それは背後から聞こえてきた。残っているクラスメイトは、一人残らず僕の後方を見ている。
     振り向くことはできなかった。
     いったいどんな表情で喋っているのかも分からない無機質な音声だった。それでも言葉の一語一語から針のようなものが噴出され、体中の至る所を突き刺されるような感触に陥った。
     背後からもう一つ声が聞こえた。
    「やめようよ……」
     こちらの声も聞き覚えがあった。
     眼鏡をかけていた、僕とぶつかった生徒だ。
    「とにかく話があるの、来てくれる?」
    「分かった」振り向かずに応えた。
     二人の背後をついていく。
     どこに連れて行かされるのだろうか。いろいろと考えてみたものの、校舎裏に連行されて縦横無尽に殴られる、警察に痴漢免罪としてが挙げられる。
     女性を極力避けたい僕としては非常に好ましくない展開になってしまった。
     二年生になってからというものの、前年度の安定した生活が嘘のように、受難の日々が続いている。
     二人が立ち止まったのは見慣れた場所だった。見慣れた場所で立ち止まった。去年一年間、放課後を過ごしていた。
    「文芸部室?」
    「そうよ」
     彼女は長い髪をかき上げた。漫画と洋画くらいでしか見た事ないほどの見事なまでの栗色のロングヘアーだった。
     こうやって始めて彼女の全身像見る。身体特徴のすべてにおいて無駄がない。糸ようじを擬人化したかのように、スレンダーに締まっていた。
     ただ胸だけは例外で、大きかった。
     女性恐怖症とか自称しながら、そんなところはしっかり見てる僕です。こんにちは。
    「あはは……」
     眼鏡の生徒が、力なく笑った。
     彼女は、声が特徴的だった。アニメで聞いたことあるような、子どもが一所懸命作った綿菓子みたいな声だった。比較的小さい体格をしており、二人が並ぶとその差がさらに際立つ。髪も黒いセミショートでストレート。新期造山帯と後期造山帯のように対照的だった。
    「早く入ってくれる?」
     偉そうなほうの女子は、顎で部室を指す。
    「なんで?」
    「いいから」
     露骨に不快感を投げつけてくる。それを避けるように文芸部に近づいた。
     扉に近づくと、文芸部と書かれた板は、大分くたびれている。
     狭いのに室内は、それを広く見せる気が全く無い間取りと散らかり具合が、さらに狭さを際立たせていた。
     部屋の中には壊れたタイプライターに、誰かが持ち寄ったであろう文庫本が多数本棚に収納されていた。A四用紙と方眼用紙が、いろんな場所でいろんな形を表現していたが、基本的には丸められたものが多かった。
     サービスが終了したオペレーションシステムがギリギリ動いているノートパソコンが、唯一と言っていいほど意味のあるアイテムのように思えた。
    「汚らしい場所ね」
    「リ、リク……」
     二人が入ってくる。
    「しかも狭い、そして何か臭いわよ」
    「やめなよリク……」
     一人は露骨に部室の汚さと狭さを罵倒して、もう一人はそれを制そうとした。しかし、そうは言いながらもキョロキョロと部室を見る表情は、うわ何コレ汚い、と語っているようにも思えた。僕の被害妄想であってほしい。
     偉そうな方の女子は、部屋の奥まで歩くと窓を開けた。
    「あ!」
     止めに入ろうとしたが、残念ながら遅かったようだった。
     棚の上にある埃が舞い上がり、部屋全体に埃が舞い上がる。ホコリは目に見えるほど大量に舞い上がり、咳き込むを通り越して窒息の心配すらしなければいけない領域だった。
     僕と二人はなんとか部屋の外に出た。
    「何よさっきのは!」
     憤慨している様子なので、仕方無く解説することにした。
     男三人で部活をしていたころの話、つまり去年の話だ。
     男三人のうち、二人は掃除が嫌いで、一人は掃除が苦手だった。要するにだれも掃除をする気が無かった。
    「誰か掃除すればよかったんじゃないの」
    「まあ、そうなんだけど」
    「ふーん」
     呆れた、という表情だった。
    「まあいいわ、そんなこともあろうかと、じゃじゃーん!」彼女は雑巾を見せつけるように突き出した。
    「何これ?」
    「雑巾でしょ、見てわからないの?」
    「もしかして掃除?」
    「もしかしなくても掃除よ」
     もう一人の女子のほうを見る。いつの間にか箒を持っていた。まるで箒に跨ってどこか飛んでいきそうなくらいに似合っていた。
    「ん?」
    「どうしたのよ」
    「もしかして、僕も掃除するの?」
    「そりゃそうよ」そう言って、驚いたように口に手を当てた。「まさか、あんた、何か勘違いしてるんじゃないの? 私があんたのことを……好きだとか……」彼女は急にしなびた白菜のように目を伏せた。
    「そういう意味の勘違いならしてないよ」それは僕が一番分かっている。あれは彼女の意思に関係の無いものだ。「なんでわざわざ部室に呼んだの?」
    「何言ってんの? あんた文芸部なんでしょ?」
    「あれ?」
     文芸部だったかと言われれば文芸部だったが、それは去年までの話だ。今は違う。
     去年在籍していた僕以外の二人は三年生だった。共学化の話を聞いたときに辞めるつもりでいたのだが、結局のところ文芸部自体が、部活動として終了してしまうことになった。
     三人いないと部として成立しない、という校則がある。
     なので、特に何も手続きをとっていなかったのだ。
     誰から聞いたのかは知らないが、まだ文芸部の名簿に残っていたのだろう。
    「もしかして二人は文芸部に入るつもりなの?」
    「当たり前でしょ。なんで私が入りもしない部の部室を掃除するのよ」
     後ろの女の子は、首を小さく縦に振っていた。
    「僕が文芸部だったって、誰から聞いたのか分からないけど、とっくに辞めたつもりだったんだけど」
    「どっちにしろあんたが散らかしたんでしょ」彼女に睨まれる。「それに、あんたがいなきゃ三人にならないの。辞めさせるわけにはいかないわ」
     なんだかまずい方向に話が進んでいると思った。正直言って、女性二人と話をしている現状ですら、困っている。
     彼女は顔を逸らした。笑っているように見えたし、怒っているようにも見えた。


     掃除はスピーディかつ丁寧に行われ、一時間ぐらいで小奇麗になった。
     だが、まだ納得がいってないようで、窓の小さな汚れを見つめている。もう一人は、汗を垂らしながら、壁についた汚れをへらで削り取っていた。そこまでしなくても。
    「もういいんじゃないか?」
     掃除の終了を、できるだけ穏やかに提案したのだが、案の定こちらを軽蔑するような視線で見た。
    「まだまだ、汚らわしいじゃないの」
    「一日で落ちるもんじゃ無さそうだしさ、ほら、放課後少しずつ綺麗にしていけば良いだろ」
     そう言ってから、自分の発言がまるで、毎日部活動にいそしむと宣言しているようなものだと気が付き、自分の迂闊さを呪った。
    「それもそうね」
     彼女はこちらを向いたかと言うと、机を挟んで正面に座った。至近距離で対面してしまい目を逸らす。
    「変なことしないわよ」
     その仕草は彼女をイラ付かせただけだった。
    「ごめん……」反射的に謝ってしまった。
     彼女の顔は三角江のように整った顔立ちだった。
     その顔が、もっと近くにあった瞬間を思い出す。改めて、悪いことをしたと思った。
     眼鏡の女子は、掃除道具を部屋の片隅に置き、椅子に座った。一つの机で三人麻雀をするような座席配置になる。この部屋に机が一つしか無いというわけではなく、大小含めて三つの机があったが、みんな同じ机に面して座っている。だからといってこの机が、とても美しいとか、やたら機能性に優れているわけでもなく、どの机も公平に汚らしく古びている。
     突然、偉そうな方の女子が、ボールペン解体中に飛んでいったバネのように立ち上がった。
    「さぁて、じゃあ新生文芸部を祝って、まずは自己紹介からね」
     ぼくは二人のフルネームも知らなかった。
    「まずは私から」黒板の前に立ち、名前と思わしき文字列を書いた。「私の名前は、和泉陸空、気安く、リクって呼んでもいいわよ」
     和泉陸空、と書いて『いずみりく』と読むらしい。無くても困らない漢字が二個もある不思議な名前だ。
    「馬鹿にするなら私じゃなくて親のネーミングセンスにしてね」思考を読み取ったのか、釘を刺してきた。「漢字は覚えなくていいわ、気に入ってないもの。リクって読み方だけ覚えてくれればいいわ。読み方のほうは、漢字の割にスタイリッシュで気に入っているの」
     確かに、和泉陸空はスタイリッシュではないが、リクとなるとスタイリッシュのような気がする。
    「質問はある? でも、キスのこととかそういうのやめてね。私も、なんであんなことしたのか覚えてないし」
    「特に無い」
    「え、無いの?」リクは驚いた。「気になることとかあるでしょ?」
    「えっと……」
     質問を捻り出そうとした。しかし、特に気になることは出てこなかった。もう帰って良いですか? と言う質問を考えたが、言わなかった。
    「あの……趣味は……」
     もう一人の少女が、気を遣ったのか、まるで不慣れな婚活みたいな質問をした。
    「鈴子が質問してどうするのよ!」
     怒られていた。
    「なにかあるでしょうよ」
    「じゃあ趣味は?」
    「なにさらっと便乗してるよの」彼女が楽しそうに髪をかいた。質問されて満足しているのだろうか。「そうねー、趣味は、特に無いわね」
     そっちも無いんじゃないか。
    「もっとおもしろい質問しなさいよ」
     質問すらハードルをあげてくる。あまり会話等せずに、すぐに終わらせたいせいか、気が進まない。
    「まぁいいわ、次は鈴子ね」
     鈴子と呼ばれたほうが立ち上がる。どこか落ち着きの無い様子で、部屋をキョロキョロ見回していた。
    「私は鈴子と言います。森川鈴子です。えっと、そうですね、何を言えばいいんでしょうか……、血液型はAB型で、趣味は本をよく読みます。それで、文芸部に入ろうと思いました……」鈴子さんは、短い深呼吸をした。緊張しているのだろうか。「文芸部になったからには、一生懸命がんばりますので……よろしくお願いします」
     鈴子さんは深々と頭を下げた。
     つられて頭を下げる。リクは微動だにしなかったが、上野動物園でパンダでも見たようなやさしい表情になっていた。
    「トリね」
     リクはこちらを見た。
    「僕?」
    「他に誰がいるのよ」
    「多分、本の合間にちいさな虫がいると思うけど」
    「なんで、私が小さな虫の自己紹介を聞かなきゃいけないのよ。それに私は人間以外の自己紹介は聞かないって決めてるの。公園で犬を散歩しているおばちゃんが、犬に、自己紹介しなさい、って無茶を言っているのを聞いてから、人間以外の自己紹介は断固として阻止しようって決めたのよ」
     割とどうでもいい情報を手に入れてしまった。
     僕はしぶしぶ、立ち上がった。
     この時、妙な違和感を覚えた。それが、自分が女性相手に冗談を飛ばしたことに対することだと気がつく。
     そんなこと過去にあっただろうか。
    「何、どうしたの?」
    「大丈夫ですか?」
     二人が心配そうにこちらを見る。
    「いや、別に大丈夫、ちょっと眩暈がしただけ」
     驚きが表情に出てしまっていたようだ。
    「瀬村文人です」椅子に座る。
    「まさか、それだけ?」
    「うん」
    「なんか、特技とか無いの?」
    「あんまり」
    「じゃあ、好きな芸能人とか、関取とかは?」
    「テレビ持ってないし。え、関取?」
    「えぇ!」リクは大げさに、口元に手をあてて驚いた。「テレビ持ってないって、一体どうやって生活してるの?」
    「テレビが無くても生活はできるよ……一人暮らし始めたら買おうと思ってたけど、インターネットとか本とか読んでたら、無くても大丈夫だったから……」
    「地震とか来たらどうするの?」
    「地震がどうしたの?」
     地震とテレビにどのような因果関係が結ばれているのか、僕には分からなかった。
    「そんな人がいるとはね」
     鈴子さんは、リクのほうを見た。
    「私もテレビ持ってない……」
    「もしかして私、少数派なの?」
     その後、特にたわいもない話をリクが一方的にした後に、解散となった。
    「また明日」
    「し、失礼しました……」
     部屋に一人になると、徐々に心が平穏を取り戻していくのが分かる。
     それと比例するように自分の状況が脳に整理される。
     今日は何も起こらなかった。
     それは、僕にとって悪いことでは無い。
     だが、明日はどうなるか分からない。
     明後日もどうなるか分からない。
     その次の日、
     その次の日、
     やはりどうなるか分からない。
     部室を見渡す。
     共学になると聞いた時、部活を辞めようと思ったが「どうせ無くなるから最後までいろよ」と引き止めてくれた先輩達を思い出す。
     あの時の部活は楽しかった。
     リクも鈴子さんも先輩達と同じ。
     癖の強い人間だった。
     あの時のように、もしかしたらまた部活動と言う名の、時間を過ぎるのを楽しむような機会がくるのかもしれない。
     そんな、妄想
     大きく首を振る。
     それは、彼女達を苦しめる結果になるだけだ。
     早く。
     なんとかしなくてはいけない。
     なのに僕は、どことなく思考をずらし始めていた。
     結局のところ、僕は甘えていた。
     
     
     
     翌日。
     昼休みになると、山田、夕部の二人と飯を食う。最近はコンビニでおにぎりを買って持ってくるようにしている。
     コンビニを使う時は、女性を避け、近所のおっさんが個人経営のしているコンビニを使うようにしている。
     客がほとんど居ないというコンビニとしては絶望的な特徴を持っているその店は、それ以外の点においてチェーン店であるコンビニに勝る要素は皆無だった。つまり僕以外にその店を使うメリットがあるとは思えない。
     本当にコンビニなのか際どかったが、表の看板には”コンビニ「三角州」”と書かれていることから、ここがコンビニエンスストアを自称していることと、店舗名が三角州なのが見て取れた。
     店主のおっさんは、僕がこのコンビニを気に入っていると勘違いしているらしく、買い物をすると二回に一回は、このコンビニの良さが分かってくれているのは君だけ、という悲しいエピソードを披露される。
     否定するわけにもいかず、なんというかポテンシャルが高いですよね、と曖昧に褒めて誤魔化している。
     今日もおにぎりの海苔がやたらと湿っているなと思った。いったい、どこで仕入れているのだろうか。
    「で、どうなんだ。ハーレム部は?」
     唐突に山田が聞いてきた。
    「何、ハーレム部って。もしかして、文芸部のこと?」
    「他に何があるんだよ」
     それを聞いて夕部は、アハハと小さく笑った。
    「勘違いしてるようだけど、三人居ないと部が成立しなかったから、仕方が無かったんだよ。もし、イケメンの入部希望者が居たら、間違いなく退部させられるよ」
    「じゃあ、俺が入るか」
    「どうぞどうぞ」
    「俺、本読まねーし」
     じゃあ言うなよ。お互いの為になる素敵な提案だと思ったのに。
    「ちょっと良いかしら」
     背後から嫌な音声が聞こえる。
     山田も夕部も僕の背後を見ている。
     リクだ。
     初めて部活へと呼び出された時も背後からだった。古いロールプレイングゲームの武器屋のように、背後から話しかけると、会話内容が変わって有益な情報が得られるとでも思っているのだろうか。
    「あ、噂の」
     山田は指さして言った。
     夕部は空気を察してくれたのかしらないが、何も言わなかった。不自然に弁当だけを見つめて、ご飯を食べていた。
    「噂のキス魔です」リクは自虐的な言葉を使った。
     今回は振り返り、リクの顔を見る。笑顔からは皮肉や卑屈的な要素は感じられなかった。正真正銘の笑顔か、それに近い作り笑いのどちらかだろう。
    「瀬村先輩をお借りしてよろしいでしょうか?」
     彼女は少しだけ首を左に傾けた。
    「返さなくていいからな」
    「じゃあね、瀬村くん」
     薄情な友人共を恨んだ。
     
     
     
    「質問があって呼んだんだけど」リクが言った。
     質問があるからと言って、昼休みに部室に呼び出すことも無いと思うのだが、注目すべき点は部室の鍵をすでに所持していた点である。
    「なんで鍵持ってるの?」
     昨日、間違いなく鍵を閉め、職員室に鍵を返したはずである。
    「細かいわね。嫌われるわよ」リクは笑顔を作った。
     今度は女性と二人きり。日を追う毎に、状況が過酷になっていく気がする。心臓は大きく高鳴っていた。罪悪感と背徳感がコラボレーションして、胸を締め付ける。
    「質問って?」耐えきれず聞く。
     キスのことだろう。
    「今日、あんたを呼んだことは、鈴子には黙っててほしいの」
    「別に良いけど、なんで?」
    「恥ずかしいからよ」リクは本当に恥ずかしそうに言った。「ここって文芸部室よね?」
    「へ?」僕は変な声を出してしまった。「そうだけど」
    「単刀直入に聞くわ。文芸って何?」
    「文芸って、って言われても……」
    「鈴子に誘われるまま入っちゃったから、全然分からないのよね」こちらを見た。始めて睨まれずに目があったかもしれない。「いや、違うのよ。大体は分かるのよ。大体はね」
     髪の毛先をいじりだした。
     質問内容の不明瞭さが、文芸部とは何かを全く知らない様子だった。
    「文芸って言葉の意味は、僕もあんま分からないけど」
    「じゃあ、あんたも一緒じゃないの」
    「違うよ……」
     本を読んだり、文章を書いたりするのがこの部活の内容だと伝えた。ついでに、去年は文化祭に部誌を二十冊くらい印刷した。これが去年唯一の部活から出た唯一のアウトプットで、あとは読書ばかりしていた。
    「ふうん」分かったとも、興味無いとも取れる相槌で返される。「なるほどね、大体想像通りだったわ」
    「そうなんだ……」
     彼女がこちらをチラリと見て、顔を伏せてしまった。見栄がばれていないかと確認している様子だった。
    「読書とかするほう?」
    「読書?」リクは困った表情になった。意外と表情豊かだなと思った。「するわよ。そうね、週に二時間はするわよ」
     鯖を読んだようなリアクションだったにも関わらず、そこまで多くなかった。若者の読書離れは深刻のようだ。僕も家ではあまり本を読まないので、人のことを言えない。
    「無理しなくても良いんじゃない? 部活なんて他にいっぱいあるよ」
    「無いわ」リクは首を小さく振る。「私が中学時代にやってた部活はこの学校には無かったわ」
     確かに、女子なんとか部なんていうものはこの学校にはまだできていない。リクがやっていた部活というのは何だろうか?
     もしかして、レジと女子ポートボール部だろうか、と思って自分で面白くなって笑ってしまった。
    「何笑ってるの?」
    「ごめん」小さく首を振った。
     小馬鹿にされたとでも思ったのか、不快感を顕にしていた。
    「言いたいことがあればはっきり言えばいいのよ、あなた男でしょ?」
    「言いたいこと」丁度言いたいことがあった。「実は女性恐怖症なんだ」
     もしかしたら、女性恐怖症ということを配慮してくれて、今後の関係を改めてくれるかもしれないと思ったが、特にそんなことも無かった。
     リクは口元を押さえて笑った。
    「あんた気が利くのね。面白い冗談だわ」
     冗談を言ったつもりは無かったのに、リクは変なつぼに入ってしまったようで、笑いを堪えきれずに口を押さえている。
    「そっちも何か聞きたいことあるんじゃないの?」
    「あるわよ、でも聞かない」
    「なんで?」
    「私、男じゃないし」
     そう言ってまた笑い出した。
     意味が分からなかったが、リクが楽しそうだったから別に良いかなと思った。
     放課後になると、律儀に部室に行ったが、誰も居なかった。
     ドアには小さな付箋が貼られており、″本買いに行ってきます リク Feat.SUZUKO″と書かれていた。鈴子さんもこんなカッコ悪い表記をされて屈辱的だっただろう。SUZUKOこと鈴子さんのの名誉の為に、付箋をはがし、ゴミ箱に入れて帰宅した。


    『がちゃがちゃちーん!』
     デスプレイにレジのコメントが表示された。
    『何か嫌なことでもあったの?』
    『レジだけに、それっぽい挨拶を考えたんだけどどうですか?』
    『うーん、良いか悪いか酷いかで言うと、酷いね』
    『惜しいですねー』
    『そうだね』
     なにが、なにに惜しかったのかは分からなかった。
    『先輩は今何してました?』
    『エアコンのリモコンを脇に挟んで壁にタックルしたら、エアコンがつくかについて研究してた』
    『へえ』レジのアバターが煙を噴出しながら怒った。『それで、エアコンは起動しましたか?』
    『ごめん、冗談だよ』
    『知ってます』レジのアバターが戻った。まめな奴だ。『先輩、もしかして、機嫌がいいんですか?』
    『なんでそう思うの?』
    『だって、いつもは冗談なんて言わないじゃないですか。急に面白くない冗談を言うんですか!?』酷評される。
    『いや、今日、冗談が面白いって褒められたんだけど』
    『誰ですか、そのセンスの無い人間は?』
    『この前、言った人だよ』
    『あの先輩がむりやりキスと純情を奪った文芸部の?』
    『言い草が気になるけど、そうだね』
    『なんですかー、いつの間にか仲良しじゃないですか。詳しく教えてくださいよー!』
     今日の昼休みのことを話した。説明が面倒だったのでいろいろ端折って説明する予定だったのだが、レジがいちいち質問してくるので結局こと細かく説明していた。
    『そりゃ冗談って思われますよー!』
    『そうかな?』
     良く分からなかったが、彼女いわく、さんざん普通に話をしておいて、女性恐怖症って言われても信じられるわけがないらしい。リク達に流されているだけで、自分からアグレッシブに攻めたようなことは無いはずなのだが。
    『でもこれからどうするんです? ずっと、文芸部にいて大丈夫なんですか?』
    『全然、考えて無い』
    『嘘だあ、先輩のことだからどうせ、しょうもないことを延々と考えてますよね』
     するどいなと少し思った。
    『もしかして機嫌悪い?』
    『別に、悪くないですよーっだ! それはいいとして、先輩がいいのなら、そのまま部活続ければ良いんじゃないですか?』
    『分からない』
    『あんまり女の人と話す機会が少なかったから戸惑ってるだけですよ、その人にもいつか、能力のこととか言っちゃえば、きっと分かってくれますよ』
    『それは無いと思う』
    『あら、先輩って本当に消極的って感じですよねー、奥手っていうか、あ、前も言いましたよね、向上心が無いぜ! って感じですよ』
     レジのアバターが、急に凛々しくなった。
    『無いぜ! なんて言われても……』
    『あ、そういえば、この前お姉ちゃんが言ってたんですけど、向上心を手に入れる簡単な方法って聞いたんですよ』
    『何?』
    『選択肢を減らすと良いらしいです』
    『選択肢を減らす?』
    『そうらしいですよ。別の選択肢があると、それを逃げ道と勘違いして向上的になれないらしいんですよ。別の選択肢を諦めれば、勝手に向上心が湧いてくるそうですよー』
    『夢を諦めると、新しい夢が見えてくるみたいな、そういう意味なのかな?』
    『そうかもしれませんね。別の選択肢を諦めるってなんか変じゃない? 妥協みたいにも聞こえるけど』
    『じゃあ、向上心と妥協は似てるってことでしょうか?』
    『さあ?』


    「文句あるの?」
     部室に入ってから一言も発していないにも関わらず、リクは不機嫌そうに言った。リクの隣か、かわいらしい声が聞こえた。
    「こんにちは」
     鈴子さんはわざわざ本から顔を上げて、お辞儀をしてくれた。彼女の読んでいる本は、古いファンタジー小説のようだった。タイトルは見たことあるものの、それがどんな小説かは知らなかった。
    「こんにちは」僕は鈴子さんに返事をして、リクのほうを見た。「文句は無いけど、何してるの?」
    「見て分からないの?」
    「ヒントは?」
    「ノーヒントよ。そんなの」彼女は溜息をついた。「文芸部といえば読書、そう言ったのはあんたでしょ?」
    「そんな直下型な解答したかなぁ……言ったような気もするけど」
    「言ったわよ」
    「じゃあ今、読書してるの?」
     というか、鈴子さんに秘密じゃなかったのか。
    「まあ、そうね……」
     彼女は本に視線を落とした。しかし、どこか落ち着かない様子だ。たしかに本を読んでいるような仕草はしているが、何か困っているようだった。
    「あのさ、リク。もうちょっと簡単な本から読んだほうが良いんじゃ無いかな」
     鈴子さんがリクに言った。その発言により、リクが何に困っているのかが分かった。リクが読んでいた本は、異様なまでに分厚い、ロシアの名作だった。
     いや、それは名作だけど、明らかに読書をしたことが無いであろうリクには難しいのではないだろうか。
    「なんで、そんな本を?」
     さり気なく、リクに聞いてみた。
    「文句あるの?」
    「文句は無いけど」
     僕は本棚から、文庫本を複数冊選んだ。
     選んだものは、比較的に簡単に読むことができる本だった。話の大筋がわかりやすく、一人称で書かれているものを複数冊選んで、机の上に並べた。
     なるべく多ジャンルで、読みやすいものを選んだつもりだ。
    「まあ、この辺が読みやすいと思う」
    「瀬村さんすごいですね……」まず鈴子さんが、反応した。「私も選んでいいですか? 次に読みたい小説が決まってないんです」
    「いいよ」
     リクはこちらをキョロキョロと伺っている。リクらしくない戸惑った動きだった。
    「じゃあ、これ」
     鈴子さんは、意外にもすぐに一冊を選んだ。
    「早いね、もう選んだの?」
    「あはは……」
     彼女は照れているのか、笑ってすぐに俯いてしまった。
    「鈴子はね、優先順位を決めるのが好きなのよ」リクが言った。
    「優先順位を決めるのが?」
    「鈴子は優柔不断だから、何事にも優先順位を明確にするようにしているのよ」
     鈴子さんのほうを見る。
    「は、はい……、例えば小説を選ぶときは、ファンタジー小説からって決めてるんです……」
    「ファンタジーが好きなの?」鈴子さんは小刻みに頷いた。
    「いつか冒険してみたいらしいわよ」
    「ああ、そうなんだ」
     鈴子さんは、また恥ずかしそうに頷いた。奥手そうな彼女だけれども、以外とアグレッシブな野望を持っているようだ。
    「で、リクはどうするの?」
    「そうね、そこまで言うなら私も、それから選ぼうかしら」と呟いて、口を膨らませた。
     いきなり風船のものまねでも始めたのかと思ったが、それは不機嫌になったというアピールだと気がついた。現実世界ではありえない感情の表現だと思っていたが、こんな場所で目にするとは。
     リクは僕の視線に気がついたのか、顔を少しばかり赤らめて怒った。
    「もしかして、唇見てたんじゃないんでしょうね?」
    「見てないよ」
     僕はとっさに嘘を付いた。
     
     
     
    「ねえ、これなんて読むの?」
     彼女がこっちの本を寄せて、漢字を指さした。リクは結局、厳選に厳選を重ねた末に、一冊の恋愛小説を選んだ。選出した理由は、一番薄かったからだろう。
     これは去年の部長が好きだった小説だったが、僕は読んだことが無かった。
    「ちゅうちょ」
    「へー、意味は?」
    「戸惑うとかそういう辺の意味」
    「ふーん」リクは納得したようだ。リクはどうやら国語が苦手のようだった。おそらく国語だけではないと思うけれども。「なんで、わざわざそんな難しい言葉を使うの? ”戸惑った”って書けば良いんじゃないの?」
    「さあ、僕が書いたわけじゃないから……」
     彼女に的確な解答は与えられなかった。僕もリクに同意見で、わざわざ難しい表現を使う必要なんて無いのに、と思うことが多々ある。
     リクは頻繁に質問してきたが、集中力はあるようで、質問と質問の合間はほぼ読書に集中しているように思えた。質問の都度、鈴子さんの視線がこちらに向くのが分かる。
     一区切りほど読み終わると満足したのか、リクは喋りだした。
    「この女は駄目ね」
     彼女の読んでいる恋愛小説の登場人物をいきなり批判した。あまりに唐突すぎて、リアクションは困難を極めたが、そんな僕に解説を始めた。
    「この女、私が死んだら、あなたも死んでくれる? なんてことを彼氏に言い出したのよ」
     序盤からいきなりハードな展開の小説だ。リクは本気で怒っているようだ。物語に対してそこまで感情をむき出しにしてくれたら、筆者も満足だろう。
    「なにが駄目なの?」
    「女々しい」
    「そうなんだ」
    「でも、彼氏はいいこと言ったわ」リクは本をペラペラとめくった。該当の台詞を探しているのだろう。「君が死んだら、俺は君の分まで生きたいどうのこうの。ですって」
    「そこ略すんだ」
    「その辺はどうでもいいわ。生きたいっていうのは素晴らしいわね。自分に正直って感じがしてくるわ。もし大切な誰かが死んでも、自分の生死には関係無いわよね」
    「そうかな」
     一章からもうクライマックス的な展開だった。そのあと二人が困難を乗り越え、そして奇跡のクライマックス、みたいな展開を漠然と想像した。
    「あと、もう一個、いい台詞を言ってるわ」
    「なんて?」
    「新人歓迎会は豪勢にやるぞー。ですって」
    「え、何それ、どういう展開? 生死の話はどこにいっちゃったの?」
    「それはそれ、これはこれ。この女はダメな女だけど、割り切りがいい女は嫌いじゃないわ」
    「そうなんだ」
    「ということで、私達は新人歓迎会どうするの?」
    「人の話聞いてる? 新人のほうが多い新人歓迎会なんてやりたく無いんだど」
    「私はやってほしいわよ」リクが鈴子のほうを見る。「鈴子もやってもらいたいわよね」
     鈴子さんは、急に振られて驚いたように目を開いたが、リク、僕、リクと、信号を渡る前の確認のような首の動きをした。
    「あの、迷惑じゃないですか……?」
     そう聞かれるのが一番困ってしまう。
     鈴子さんの小動物のような動きに、綿菓子のような可愛らしい声で聞かれてしまうとと、いくら僕でも、迷惑なんで断ります、とはさすがに言えなくなってしまう。
     いや、ここはなんとしても避けなくては。
    「ダメですよね……」
    「大丈夫ですよ」口から肯定が零れた。
     鈴子さんはうれしそうに微笑んだ。もしかして僕は、鈴子さんの巧みな演技にひっかかっているのではないだろうか。
    「じゃあ決まり」
    「決行は次の日曜日ね。よろしくねー」リクは嬉しそうに鈴子を見ると、読書に戻ってしまった。
    「これなんて読むの?」
    「うこん」
     
     
     
     リクと鈴子さんのことを考えていた。というよりは、二人と話した内容を反芻していた。結局、部活動という大層なものにないにしろ、参加することになってしまった。
     でも、今はまだ、うまくやっている。キスのことは不審がられても、うまくやってるじゃないか。
    このまま、平穏に部活動ができれば。
     僕の思考に警告するように、携帯電話が無機質な音を立てた。
     叔母からの電話だ。
     携帯電話に叔母から電話がかかってくる時、なにかのメロディーにはせずに、ありふれた着信音に変えていた。
     それは、万が一好きなメロディーにでもしていた場合、二度とこの音楽を好きな気持ちで聞けなくなるだろうという考慮だった。
     その音楽を街角で聴いただけでイライラしてしまうようになるだろう、だから着信音は無機質な音、つまり、ただの着信音にしたのだ。電源を切った。
     叔母からの無機質な着信音が、僕が他者と異なるということをを思い出させてくれた。思考を現実的なものへ引き戻してくれたのだ。
     このままでは、近々、絶望することになるだろう。
     それに、彼女らも絶望するだろう。
     覚悟していたはずなのに、女性とある程度親しくなってしまったのだ。
     でも、たまには。
     たまには絶望まで希望を持っていてもいいんじゃないだろうか。
     この時、僕の思考はどこか湿っていた。
     
     
     
     日曜日になると、新人歓迎会という名の謎の集会が行われることになった。当然参加者は三人だけで、僕と、リクと鈴子さん。当然スペシャルゲストとかもいない。新人歓迎会と銘打っているのだから、他に誰か居てもおかしいのだが。
     この話が決定的になる前に僕は、正直に話した。言い訳でもなんでもない。
    「お金がないんだ」
     バイトをしていない一人暮らしの高校生をなめてもらっては困る。
     コンビニのおにぎりと雑誌、あとは自炊でなんとか暮らしているというのに、所持金はコンスタントに減少し続ける。
     叔母は僕に仕送りをしてくれているが、女手一つではさすがに無理がある。その点では叔母に悪いと思っている。つまり、叔母に悪いと思っている唯一の点が資金面である。
    「別にお金出せなんて言ってないわよ」リクが言った。
     新人歓迎会という言葉の響きからして、居酒屋で、お前らこれで好きなもの頼めよ、とか言わされるかと思ったのだが。
    「未成年が居酒屋なんて行っても、楽しいはずが無いわ」
    「じゃあどうするの?」
    「それはあんたが考えてよ」
    「うーん……」
     必死に考えてみても、なにもうかばない。
     リクのほうから声が聞こえた。リクが急に声変わりをした訳ではなく、背後にいた鈴子さんが喋っただけだった。
    「もしよかったら……、私の家とかどうですか? 一人暮らしだから迷惑かからないですよ」
    「駄目に決まってるでしょ」リクによってすぐさま却下された。「鈴子、あんた正気なの? こんなケダモノのなり損ないみたいなのを部屋に入れてごらん。一瞬にして、全ての下着の匂いを嗅がれるわよ」
    「ひぃ……」
     鈴子さんは、ケダモノですらなり損ないの僕を見て怯えた。少しショックだった。
    「僕は一体何者だ?」
    「変態よ、変態」
     とまあそんな感じで、下着を嗅がないという屈辱的な約束をさせられることになってしまったが、新人歓迎会は鈴子さんの家で行われることとなった。
     待ち合わせ場所は、鈴子さんの家の近くの公園に決まった。これは、リクが「住所なんかこの変態に教えたら、パンツをすべて食べられてタンスに入ってるわよ。パンツの代わりに僕をはきなよとか言い出すんでしょ、この変態は」と言い出したからである。
    「だから、僕は一体何者なんだよ」
    「布を食べてもおなかを壊さない、強靱なおなかを持つ変態に決まってるでしょ」
    「ちょっとメリットっぽく言うのやめてよ」
     しかし、もし僕が鈴子さんの部屋に侵入するような変態だとしたら、後日、進入する可能性もあるのではないか。とも思ったが、話がややこしくなりそうになったので言わなkった。
     これでは、待ち合わせ場所からアイマスクとヘッドホンを装着した状態で鈴子家に訪問することになりかねない。
     ということで、休日にブランコに座り時間を潰していたら、すぐにリクと鈴子さんが現れた。
    「なんでブランコなのよ」
     挨拶がわりに、笑いながら変なつっこみをしていくるリク。テンションが高いのがすぐに分かる。
     鈴子さんも軽くお辞儀してきた。
     二人は当然なのだが、制服では無かった。
     リクは、白いシャツにピンクのスカート、それを水色の薄いカーディガンを羽織っていた。お洒落な格好にも見えるが、大型ショッピングモールのマネキンが装備していそうな服装にも見えた。
    「何じろじろ見てるのよ」
    「いやごめん」
     打って変わって、鈴子さんは黒かった。
     これは別に、何かの比喩表現とかではなく、全体的な装いが黒かったのだ。黒い帽子に、黒いシャツ、黒いスカート、そして、赤と黒のチェックのニーソックスを備え付けていた。赤いネクタイだけが、僕から見える唯一の黒くない装飾品だった。
     流行に疎い僕も、鈴子さんのファッションセンスはいかがなものかと思った。
    「こんにちは」
    「こんにちは」
     中身は何も変わらず鈴子さんだった。だが、いつもより楽しそうで綿菓子みたいな声も糖度を増していた。
     鈴子さんの家までは、徒歩十分程だそうで、買出しはほとんど済ませてあるから大丈夫とのことだった。
    「もし、鈴子に何かあったら分かってるわね? 瞬殺するからね、瞬殺。しかも一番苦しい死に方で。そうね、餓死とかいいわね」
     もしかしたら僕は、人類史上初の餓死で瞬殺されるという、想像もつかない未知の殺され方をしてしまうかもしれない。それだけはなんとか回避したいので、粗相の無いようにしよう。
    「何もしないから」
    「本当かしら? ま、あんたにそんな度胸があるようには見えないけど」
     そのとおりだと思った。別に、襲うつもりがあるわけじゃないけれども。鈴子さんの家は、学校から近い場所にあった。二階建ての木造住宅だった。木造というよりも、木を薄っぺらい鉄で包み込んだような、すごく簡単な構造物だった。
     アパート名をやたら大きい看板でアピールしているあたりがすごい。人工衛星から撮影した地図からでも、ばっちり確認できそうな大きな看板でアパート名をアピールしていた。利便性や、家賃の安さではなく名前をアピールすることに何の意味があるのだろう。
     昭和の刑事ドラマに出てきそうな、アパートの偏見を詰め込んだ、見事なまでのアパートだ。鈴子さんが一人暮らしするには、少し不安が残るような住宅環境だった。
    「どう? 鈴子の家、歴史を感じさせるでしょ?」
    「そうだね」
     確かに歴史を感じさせる。主に、高度成長期に建てられた欠陥住宅の歴史や、老朽化した建築物の歴史なのだけれども。
     いつかこういう住宅がなくなるならば、刑事ドラマの撮影ができなくなるのだろうか、そうなったら日光江戸村の横あたりに、日光ボロアパート村なんかを作る必要があるのかもしれない。
     鈴子さんの部屋は二階にあり、二階に上る為には、屋外に設置された錆び付いた階段を使わなくてはいけない。その階段を歩く度に、ギギギという軋むような効果音を立て、リクは一歩上がるたびに「大丈夫よ」と自分に言い聞かせるかのように呟いていた。
    「大丈夫よ」
    「ユーラシア大陸中部の仏教といえば?」
    「大乗仏教よ」
     以外と余裕がありそうだ。
     
     
     
     部屋全体は、アパートの外装からは想像がつかないほど直角の多い整った空間になっていた。決して広くないスペースを最大限有効利用できるように、机、本棚、ベッド、テーブルが効率よく配置されていた。
     ただ、部屋全体が黒と白で統一されているのが気になった。
     部屋のあちこちには変なアイテムもいろいろと置かれていた。アルコールランプらしきものがあるが、用途はまったく不明である。休日には、溶解度を求めたりして余暇を楽しむのだろうか。
    「必要なのかな?」
    「参議院ですか?」
    「なんで急に参議院の必要性について語りだすと思ったの……?」
     そう言われてみると、鈴子さんのセンスも、ねじれ国会のようにずれているかもしれない。そうでもない。
     カーペットの上に置かれた、小さなテーブルの上には料理が並べられていた。サンドイッチや、おにぎり、がメインの炭水化物溢れるラインナップだった。
     料理が乗ったテーブルを、三人が囲むようにして座った。
    「ふふん」リクが自慢げに鼻を鳴らした。「どう? すごいでしょ。こう見えても、私と鈴子は料理が上手で、私の家庭科の成績は事実上五みたいなものと先生に褒められたことがあるのよ」
     事実上五みたいなもの、に関しては詮索しないにしても、料理を二人でつくったのは本当らしい。
    「リクは、本当に家庭科は上手だよね」鈴子さんは、家庭訪問に来た担任の先生が褒めるところをがんばって探した時のような発言をした。「きっと良いお嫁さんになるよ」
    「当然ね」
    「当然なんだ」
     三人は丸いテーブルを囲むように座った。
    「じゃあ早速いただきます。でいいのかな?」
    「まあ、感謝しまくりながら、一口食べるごとに私に向かって二回くらい礼をしながら食べるといいわ」
    「ええ、二回も?」
    「あの私は一回で良いですよ?」鈴子さんも珍しく冗談に乗ってきた。
     新人歓迎会という名前の謎のパーティは、どうやら盛り上がりそうだった。
    「あ、この林檎から食べてね、私が頑張って切ったんだから」
     いきなり自分が切った林檎を推奨してくるあたり、料理が得意というのも怪しくなってきた。
    「なにこれ、じゃがいも?」
    「林檎って言ったの聞こえなかった?」
     
     
     
     前々から気になっていたことの中で、一番気になっていない疑問を聞いてみた。
    「二人はどうして水道高校を選んだの? 下手したら男だらけになるはずだったのに」
    「まったく私もそう思うわ」リクは鈴子を見た。「その件に関しては、鈴子に聞いて。私は鈴子と香苗が水道高校に誘われただけだし」
     香苗というのは、初めて聞く名前だったが、多分二人の共通の友人なのだろう。
    「う、うん……」彼女は名前を呼ばれて注目されたのが恥ずかしかったのか、顔を紅潮させた。「特に理由は無いです」
     リクは溜息をついた。
    「鈴子の成績ではもっと上を狙えた筈なんだけどね、一人暮らしでもしたかったんじゃないかしら」
    「そうなんです」鈴子さんは頷いた。
    「僕も、一人暮らししたかったからかな」
     入学理由の一つに、叔母と離れたいというのがある。
    「ああ、そうなの」リクがおにぎりを頬張りながら片手間に返事した。
     一人暮らしを始めたかった理由について聞かれると思ったが、特にそんなことも無く、この話題は終了した。話題を振るのは苦手だ。
     烏龍茶のペットボトルに手を取ったが、途中で止めた。すでに空になっていたからだ。
    「もう無くなったの?」リクは空になったペットボトルを手に取ると、視覚だけの確認では物足りなかったのか、ペットボトルを振った。「無いわね。あんたガブガブ飲み過ぎなんじゃないの?」
    「私、買ってきます」
     鈴子さんが立ち上がる動作を始める。
    「いや、僕が買ってくるよ」
     今回は新人歓迎会と銘打ったパーティだというのに、新人でない僕が、何も準備をしていなのだから。
    「そのくらいは……」
    「私が行くわ」リクに制止されてしまった。「あんたこの辺の地理詳しくないでしょ?」
    「コンビニくらい分かるよ」
    「いいのよ、強がらなくて」
     なぜか僕が強がったことになってしまったが、もうすでにリクは立ち上がり、スカートの裾を直していた。
    「鈴子は、何かいる?」
    「私は……」
     鈴子さんは悩んでいるのかリクを見つめていたが、結局首を横に振った。
    「分かったわ」
    「あの」部屋で鈴子さんと二人になることに気がついた。「いいの?」
    「何がよ。歯切れが悪いわね」
     リクは笑顔を作って、顔を傾かせた。僕が言いたいことに気が付いているのに、はぐらかしているようにも見えた。
     ドアを開けて烏龍茶を買いにいってしまった。外からギシギシという音がゆっくりと聞こえる。それと同時に、リクの「大丈夫よ」という声が聞こえる。訳あり住宅の闇を感じる。
    「行っちゃったね」
     彼女に話題を振ったつもりだったが、彼女はうんうんと頷いた。特に音声は返ってこなかったので、僕も黙る他無かった。
     間が持たなくなり、お茶が無いにも関わらずおにぎりを口の中に入れるとほぼ同時に、鈴子さんは喋った。
    「瀬村さんは、好きな人とかいますか?」
     いきなりの質問に咽そうになってしまった。
     飲み物で流すことも出来ずにいると、彼女は水道水をコップに入れてくれたので、一気に飲んで喉に詰まったものを体内へと流し込んだ。
    「ありがとう」
     おにぎりをお腹に流し込むと、別にお茶なんてなくても水道水で事足りるような気がしてきた。
    「す、すみません。変な質問しちゃいましたね……」
    「いやいや、全然気にしないで」僕はわざとらしく両手を振った。「好きな人なんて、居るワケ無いじゃないですか。去年まで男子校だったんですよ、あんまりそう言うのに興味無いって言うか……」
     こっちのフォローはかなり面妖なものになってしまった。言い訳しているような情けない気分になった。
    「本当ですか?」
     鈴子さんと一瞬だけ目が合った。僕はアハハと笑った。それが場の空気をさらに乾いたものにさせた。
     また十秒か、二十秒か、沈黙が続いた。
    「そっか、そうですよね」
     彼女は俯いたままだ
    「どうしたの?」
     鈴子さんは俯いたまま首を横に振った。
     そしてそのまま少しだけ時間を置くと、強引に話題が変わった。
    「瀬村さんは、何か夢ってありますか?
    「夢か、夢ね。えっと、そうだね、平和とかかな」
    「平和って、世界平和とかですか?」
    「いや、そういう意味じゃないけど、もうちょっと身近かな。世界単位で平和であってほしいとか、僕が考えるだけ失礼だし」
    「失礼なんですか?」
    「失礼だと思うけど……そういう鈴子さんは、夢とかあるの?」
    「ありますよ」マカロニサラダのように白い、彼女の頬が緩んだ。「小説の中みたいに、冒険とか出てみたいです。そういう非現実的なことがもっとあれば良いのにって、思うんです……」
     彼女は少しだけ恥ずかしそうだった。自分の発言が幼稚だったと思ったのかもしれない。
    「そうなんだ」
    「おかしいですよね」
    「そんなことも無いよ」
     彼女は照れ隠しをするように笑顔を作った。
    「瀬村さんは楽しいですか?」
    「高校生活?」
    「そうですね。もっと細かく言えば、部活でしょうか?」
    「鈴子さんは、文芸部、楽しくないの?」
    「楽しいです。だけど」鈴子さんはうつむいた。彼女と目が合わせるのは至難の業だ。「瀬村さんは無理やり入部させられたようなものですし」
    「気にしないで、楽しんでるよ。まだ一週間だから良く分からないけど、それなりに」
    「よかった」
     鈴子さんは、暖かいものを飲み終えたかのような、小さくて可愛らしい息を吐いた。
     反射的に答えたので、本当に楽しかなんて考えずに答えた。
     最初は嫌だった。それは間違いない。
     だけど。
     今は……?
     僕はまだ、気づいていなかった。
     
     
     
     リクが帰ってきたのは、三十分以上経過した後だった。
     一体どこまで買いに行ったんだろうか。
    「結構重たくて、困っちゃったわ」
     リクは二本のペットボトルを、床に置いた。それだけで部屋からギシギシと音が聞こえ、このアパートの耐震性についての不安が脳内を駆け巡ったが、僕がどうにかできる問題でもないので、それ以上考えなかった。
     リクは鈴子のほうを見た。鈴子はリクと目が合うと首を横に振る。
    「あら」リクが呟く。
     アイコンタクトで会話されても、まったく読み取る事が出来なかったが、きっと、「鈴子、ここの耐震性はどうなってるの?」「皆無です」とか、その辺だろうと勝手に解釈するしかなかった。
     日本にいる以上、リクも耐震性に関して気になるのだろう。
    「なに一人で納得したみたいな表情してるの?」
    「いや特に何も。そっちこそ何かあったの?」
    「何かって?」
    「いや、なんかちょっと時間が長かったから」
    「ああ、そう言うことね」彼女はごそごそとコンビニのビニールから紙の箱を取り出した。紙の箱にはケーキが入っていた。
    「あら? 形が崩れてる」
     ケーキは少し形が歪んでいた。
     それは、ペットボトルと同じ袋に入れてたからだろ。
     近くのケーキ屋で買ってきたのだろう。六分の一に切られたショートケーキ二人分と、モンブランが一人分置かれていた。
    「おいしそうですね」
     鈴子は皿を取りにいった。
    「でしょう?」リクは胸元に手を置いて誇らしげにしていた。
     昔から、あまりこういうものを食べる機会は少ない。
    「甘い」
     それが僕が久しぶりにケーキを食べた感想だった。
    「社会に対するあんたの考え方が?」リクはえらい大規模に解釈したようだった。
    「どうしてこんな状況で、社会に対する姿勢について語るの? どう考えてもケーキだよね」
     鈴子さんはモンブランを食べていた。
    「鈴子はね、ケーキよりもモンブランのほうが優先順位が高いのよ。変わってるでしょ」
    「ただの好みの問題じゃ」
     鈴子さんは恥ずかしそうに、中心の栗を食べた。
    「モンブランって、なんだか、不思議な食べ物じゃないですか?」鈴子さんが言った。「栗を加工したもので、中心の栗を彩っているなんて」
     リアクションに困ってしまう。
    「ね、変わっているのよ」
     リクはケーキを口に運んだ。リクの口元を見ると、なんだか恥ずかしくなってしまうが、悟られないように自分もケーキを口に運んだ。
    「甘いのは苦手なの?」
    「好きだよ。だけど、久しぶりに甘いものなんて食べたから、つい」
    「あのぉ、私の分も食べますか?」鈴子さんが言った。
    「い、いや、そういう意味じゃないですよ。確かに貧しいですけど、あまり機会が無かっただけ」
     鈴子さんに変に気を使わせてしまったようで。少し反省する。
    「なんか私と鈴子じゃ、態度が全然違うわね」
    「そう?」
    「別に良いけどね」リクはケーキを食べ終えて、フォークを置くと、爪楊枝で歯間のコンディションを整えはじめた。おっさんかお前は。
    「あら」リクが携帯電話を見た。時間を確認したのだろう。「そろそろ帰らなくちゃいけないわ」
    「リクの両親は、門限に厳しいよね」鈴子が解説する。
    「そうなのよ、高校になったから少しはマシになるかと思ったけど、そんなことは全然無いわ、むしろ元々男子校だった場所だったからって、門限が早くなりそうだったもの。変なの」
     リクはいたって高校生らしい悩みについて触れた。
    「ああ、じゃあそろそろ帰ります」
     僕は急いで一口だけ残ったケーキを食べようとフォークを手に取ろうとした。
    「あんたはもう少し居たら?」
     リクがこっちを向いた。
    「え?」
     そのリアクションが予想外だったので、驚いてしまった。リクのほうを見る。
     リクは、それを発言を後悔するかのように、俯いてしまった。
     フォークが床に落ちた。
     彼女の反応に、見とれていたからだ。
    「あ、ごめん、カーペットが汚れちゃったかも……」
    「いえ、気にしないでください。すぐに替えのフォーク持ってきますね」
     気を使ったわけでもなんでもなく、心の底からフォークくらい別にそのままで良いと思ったのだが。
    「あ!」リクは左手のパーに右手のグーを落として、いかにも良いこと思いついたとばかりのポーズを決めた。頭の上に電球でも出てきそうな大げさなリアクションだった。もしかしたら、さっきのことを誤魔化しているのかもしれない。「じゃあさ、食べさせてあげたら?」
     リクは、鈴子さんをニヤニヤと見つめた。
    「食べさせる?」
    「そしたら、フォーク変えなくても汚く無いでしょ?」
     鈴子さんは戸惑っていた。
    「どういう発想だよ、それ」
    「良いじゃん、あんたも減るもんじゃないし別に良いでしょ?」
    「良く無いと思うけど」
     リクをくだらない思い付きに反対していたつもりだったのだが、鈴子さんは何を勘違いしたのか、自分のフォークで、あまっていたケーキを刺した。
    「すみません、顔を動かさないでください」
     なにやら緊張しているようだった。
    「いや、鈴子さん? 本当にやらなくても」
     リクが不敵な笑みでこちらの様子を伺っている。
     リクの思う壺というか、思いつきの勝利というか、どうやら彼女にとって楽しい状況になっていることが、表情から伝わってきた。
    「では」
     彼女がフォークを僕に近づけた。
    「あ」
     僕は油断していた。
     異次元から攻撃されたかのように、瞬間的には何がおこったか分からなかった。
     まだこれだ。
     いつか油断して、こうなってしまう。
     こうなってしまう。
     いつかこうなるということは分かっていたはずなのに、油断をしていた。
     ずっと忘れないと決めていたのに、僕は人を不幸にする性質なのだと忘れないようにしてきたはずなのに。
     フォークが僕のふとももあたりに突き刺さった。
     二人とも何がおこったのか分からなかっただろう。
     時間が止まったかのように思えた。
     僕のジーパンに赤い滲みができ、それが徐々に広がっていくのが分かる。
     それが僕に、時間が正常に進んでいることを教えてくれた。
     鈴子さんがフォークを離すと、すぐにフォークは外れた。
     挟んでいたケーキも転げ落ちた。
     僕の足に突き刺さったフォークは浅かったようだ。痛みもあまり感じなかった。
    「わ、私は……」鈴子さんの声が聞こえる。
    発声したというよりは口から滲み出たというような、か細い声だった。
    「鈴子、何をしているの……?」リクもそれ以上は何も言わなかった。
    「大丈夫、僕は大丈夫なんだ」
    「でも……私……」
     鈴子さんは怯えながら言った。
     僕は鈴子さんの両肩を、両手で抑えた。
    「違う! 僕が悪いんだ!」
     それだけは、それだけは伝えないと。
    「これって」リクが何かに気がついたように呟く。「あの時と同じってこと……?」
    「そうだよ、だから僕は女性恐怖症なんだ」
     鈴子さんのほうを向きなおした。
    「ごめん。僕はどこかおかしいんだ。どこか変なんだ。鈴子さんが僕を傷つけたんじゃない、鈴子さんが僕を傷つけるようにしたのは僕なんだ」僕は再びリクを見る。「リクなら分かるだろ? あの時だって僕に自分の意図しない行動を、キスをさせただろ? あの時と一緒なんだ。他人に何かをさせてしまうんだ。いつもこうなんだ」
     僕はドアまで歩いた。
     リクは僕が元々座っていた場所から視線を動かさなかった。鈴子さんは僕を目で追っていた。二人ともなにも喋らなかった。
    「ごめん」
     僕は部屋を飛び出した。
     足の痛みも気にならなかった。
     ただ、喪失感と罪悪感だけが、僕を痛みつけた。

    2.

     翌日になり、少しだけ学校を休もうかなんて考えたけれども、結局登校した。休んだら、二度と登校することが無くなりそうだったからだ。
     別に、二人に迷惑をかけないのなら、二度と登校しないという選択もあったんだけれども、結局は学校に足を運んでいた。
     普段は変に斜に構えているくせに、日常が完全に終わってしまうのが怖いのだ。そのくらい自分でも分かる。
     足の痛みは少し残っていたが、あまり気になるほどでもない。
    「おい、モテの貴公子」
    「なにそれ……」
    「なんか悩んでいるって顔してるから、どうせ女がらみだろうかと思ったら、腹が立ってきたから仕方がないだろ」
    「えぇ……、悩んでいる顔をしているだけでそんな扱いを……」
    「で、どんな悩みなんだなんでも聞いてやるけど、あの二人の、女がらみだったら、ラーメンの話題をふれ」
    「……とんこつラーメンおいしいよね」
    「そうだな、俺は醤油派だけどな。モテの貴公子死ね」
    「いや、あの二人の悩みではあるけど、想像してるのとは違うよ」
    「俺の想像は、お前が思っているより、もっと具体的だからな、それだけは覚悟しとけよ」
    「いやだよ、そんな覚悟……」
     僕がため息をついた、夕部が笑った。
    「でもさあ、僕もモテる秘訣くらいは知りたいよ、なんかないの?」
    「知らないけど……」
     なんだか二人のまなざしが熱い、もしかして本当に、モテる秘訣を聞いてきているのだろうか。
    「そ、そういえば、道を聞かれる人はモテるって聞いたことあるよ」
    「道聞かれてる時点でモテてるだろうが」
     言われると思った。
    「いや、道を聞かれるってことはほら……なんか地図をもってあるくとか……」
    「今時携帯のほうが良いだろ。それに、お、あの人、地図持ってる、ちょっと道聞こうかななんてあるわけねーだろ」
    「無茶ぶりに答えたらこれだよ……」
    「いや少し待って」
     夕部が、重大なヒントを得たかのように僕たちを制止した。コートの裏を地図にするのはどうだろう……
    「お前、それってまさか……」
    「そう、道に迷っている女性に向かって……コートを……」
    「全裸でってことか……」
    「つまり、目的地の場所が地図でいうあんな場所こんな場所になる可能性が……」
     いまいち二人の言っていることは分からなかったが、僕はともかく彼らがモテることは永遠にないということだけは分かった。
     放課後になると、すぐに帰った。
     部活には顔を出せなかった。理由は、リクと鈴子さんに顔を合わすのが怖かったのだ。
     おそらく変な奴だと思われただろう。
     向こうも会いたくないに違いない。
     異端者と思われるのが怖い。
     臆病者と蔑まれるのが怖い。
     近寄るなと罵られるのが怖い。
     何もかもが怖かった。
     彼女達が今なにを考えているのだろうか、何を喋っているのだろうか、考えたくもないのに、彼女達のことが、セキュリティソフトの広告のように、嫌でも出てきてしまうのだった。
     そんな、月曜日をコピーして張り付けたような日々が五日間続いた。
     金曜日の夜になってやっと心に平穏が顔を出した気がした。土日は学校に行かなくていいという、卑屈な開放感からくるものだ。
     なんとか落ち着きつつある心を、これ以上乱れないよう取り扱うことにした。パソコンを起動すると、レジがオンラインになっていた。
    『ちゅんちゅん』
    『夜だよ』
    『あー先輩! 久しぶりじゃないですか!』
    『久しぶりでもないと思うけど。なんか嫌なことでもあったの?』
    『なんで嫌なことを優先して聞いてくるんですか?』
     レジは相変わらずだ。
    『いや、そういうつもりじゃなかったけど』
    『先輩こそ何かあったんじゃないですか? 私と言うものがありながら、一週間も放置してたなんて!』
     今回の件について聞いてもらうべきか聞いてもらわないべきか。だが、愚痴を聞いてもらえるのはやはりレジしか居ないのだ。
    『そういえばあったな』
    『ほらー、一体どうしたんです?』
    『友達が変態ばっかりなんだ』
    『先輩も十分変態だから大丈夫です。はい、続いて次のお悩みですー!』
    『かわし方うまいなー』
    『でしょう? で、本当の悩みってなんなんですか?』
    『ごめん』
    『謝られても! というか、もしかして先輩、謝る相手間違えてるんじゃないですか?』
    『相手を間違う?』少し間を置いて、続けて入力した。『ああ、うん。そうかもしれない』
    『素直ですね。よかったら聞きましょうか?』
    『ごめん、聞いてほしい』
     一部始終を話し終えると、レジは黙り込んでしまった。
     黙りこんだかというのはチャットが止まったという意味で、本当はディスプレイの前で叫びながら開脚前転をしているのかもしれないが、僕には何も伝わってこなかった。
     チャットというのは入力しなければなにも出力されない、それが最大のメリットであり最大のデメリットでもある。
    『その女の子の部屋、どうでした?』
     話しを聞き終えたレジは、想像とは大分異なる反応だった。
    『そこなんだ』
    『だって! 先輩は女の子の家なんて行ったことないでしょ?』
    『うんまあ、そうだけど』
    『どうでした? はじめての女の子の部屋なんで、ちょっと変な気持ちになったりしなかったでしょうね?』
    『正直に言うと、ちょっと怖かった』
    『怖かったって?』
    『なんか黒ずくめで怖かった』
    『あら、それはなんと言えばいいんでしょうか、黒ずくめ?』
    『うん。あと、やっぱりちょっと良い匂いがしたかも』
    『変態ー!』レジのアバターが頭から煙をあげる。『やっぱり、お友達のこといえないじゃないですかー!』
    『そんな話だっけ?』
    『そんな話ですよ! 先輩、女の子の部屋に呼ばれたんでしょ? それって結構特別なことですよ!』
    『そうかな? 最近の女の子は部屋に呼んだ男の人数が経験値になるとか聞いたことあるけど』
    『どこの情報なんですかそれー!』
    『さっきみた雑誌』
    『そんな雑誌捨てなさい! なんだか、今更になって話をはぐらかそうとしてません?』
    『あ、そういえばそうだね。ごめん』
     そっちも随分的外れだったのに、と思いながらも謝った。
    『正直者ー! もういいですよ。怒りましたよ』
    『ごめんでちゅ』
    『謝る気ないじゃないですかー! 別にちゃんと謝っても私の怒りは収まらないけど、その二人ならきっと許してくれますよ、ちゃんと部活に行って謝ってください!』
    『あ、そうかな? でも』
    『でも?』
    『何て謝れば』
    『自分で考えてください!』
     またアバターが怒り出した。
     逃げるようにメッセを閉じ、パソコンの電源を切った。
     謝る、って言われてもな。


     部室に現れるのは九日ぶりになる。
     なんて謝ろう。全部言うべきか、それともなんとか適当にごまかすべきか、そもそも話を聞いて貰えるのだろうか、もしかしたら誰も居ないかもしれない、といろいろ考えてみても、結論なんて出てくるはずもなかった。
     二人が何を考えているかすら、理解できていないのだから。
    『その二人ならきっと許してくれますよ』
     レジの言葉を思い出す。
     そう言われるとポジティブな気持ちが少しばかり芽生えるが、レジが彼女らを知って発言していたわけでもない。そう考えると、ポジティブな気持ちは一瞬で枯れてしまう。
     ドアノブをゆっくりと回す。
     彼女達はいた。
     二人は、いつもどおりの配置で本を読んでいた。リクも鈴子さんもこちらを見た。
     リクは何も変わらなかった。
     一週間そこらで変わっていたら怖いのだが、それでも、変わりないリクを見ると安心した。
     鈴子さんは髪を切っていた。元々セミショートだった髪を、さらに短くしていた。
     リクは本を置いて僕を指差してきた。
    「遅かったわね」指差した右手をそのまま髪にもっていって、髪をくるくると巻いた。まるで、指を出したのは髪を巻くためと言わんばかりだった。「文化部だからって理由の無い欠席は駄目よ」
     言いたいことは言い終えたとばかりに、本に視線を戻した。
    「う、うん……」
     鈴子さんはこっちを、メスシリンダーの正しい測り方のようにまっすぐと見つめていた。とりあえず謝らないと。そう思って彼女に近づくと、読んでいた本が手から滑り落ちた。
    「うぅ……」彼女の口からうめき声を漏らしながら僕を見上げてくる。
    瞳が濡れているのに気がついて、時間経過とともに軽減されていたはずの罪悪感が戻ってきた。
    「そのさ……」
     とっとと謝ればいいのに、なかなか口から一言が出てこない。
     鈴子さんの瞳からはどんどんと涙が溢れてくる。なのに彼女はそれを拭くこともしなかった。
    「ごめんなさい……私は……ごめんなさい……」
     鈴子さんは何度も謝った。
     謝らないといけないのは僕なのに、彼女は何度も謝った。
     涙も拭かずに。
     ずっと。
    「違うよ鈴子さん。ごめん。僕が悪いんだ」
     鈴子さんは首を大きく振ると、抱きついてきた。制服が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった。
    「大胆ね」
     リクは僕らのほうを見て呟いた。安堵したように笑っていた。


     鈴子さんが泣き止むまで、少し時間がかかった。
    「ちーん」
     彼女の綿菓子のような声とは異なり、鼻をかむ音声は豪快だった。
     リクが持ってきたティッシュは、見るからに高級で、鼻のかみ甲斐がありそうだった。僕も一組だけもらって鼻をかんだ。鼻全体を包み込むような保湿感が、なんとも心地よかった。
    「これいいね、どこで売ってるの?」
    「良いでしょ?」
     まるで自分が作ったかのように自慢げにしていたのは、当然ながらリクだった。
    「リクのなの?」
    「違うわよ、どう考えても鈴子のでしょ。なに言ってんのよ」
     そっちがなにを言ってんだよ。一通り落ち着いたので今日は帰ろうとしたのだが、「一週間の遅れを取り戻すつもりはあるの?」と、よく分からない理不尽をリクに押し付けられてしまった為、本を読むことにした。
     読書の遅れって一体なんだろう。
     本日の読書は、初めは頭に内容が全然入ってこなかったが、文字を追い始めたら、徐々に文字の意味が頭の中に入ってくるようになり、いつもどおり読書できるようになった。
     その読書も一段落したので、目の前にいるいつもと変わらない女に質問して見ることにした。
    「あのさ、気になってないの?」
    「主語が無いわね、私がなにに対して気になってると思うの?」
    「主語が無いのは日本語の美徳だからね」
    「前の日曜日のことだよ」
    「でしょうね」
     リクは読書していた本から顔を上げた。
     読んでいた本は、前とは別の恋愛小説だった。
    「分かってるなら聞いてよ」
    「そうね」リクは一瞬だけ瞳だけを下に向けたが、すぐに瞳はこちらを戻した。「当然、気になるわね」
    「そうだよね」
     質問が間違えていた、気になっているはずだ。それをリクは敢えて言わなかっただけだった。無粋な質問をしてしまったなと後悔する。
    「説明しようか?」
    「説明したいの?」
     僕は黙った。
    「したくなかったら、別に良いわ。話したい時にどうぞ」
     彼女は見かけどおり、強い人間だなと思った。
     気になると言いつつも、それでも僕に気を遣ってくれている。彼女のほうを見る。僕は言ったはずだ。キスをさせたと。
    「いつでも説明するから、聞きたくなったらいつでも言ってよ。鈴子さんも」
     それが僕の言える精一杯だった。
     鈴子さんは「ちーん」と豪快に鼻をかんだあと、こっちを向いて大きく頷いた。
    「そうね。じゃあ聞くけど、これなんて読むの?」
    「かんじちょう」
     
     
     
     日中は山田の汚らしい発言を聞き、放課後になると文芸部で読書。家ではたまにレジとチャットするという日々が続き、五月中旬になった。
     基本的にレジとチャットをしない日は、インターネットをしたり、やり終えたゲームのレベル上げをしたり、読書したりと、有意義とは程遠い日々を送っていた。
     学生の本分で有名な勉学に関しては、まだ二年になってから手をつけていないのが現状だった。
     リクと鈴子さんを避けることはやめた。
     ただ、他の女性に対しては今まで通り避けて続けた。と言っても、僕に話しかける人なんてまずいないし、廊下でぶつかったりすることも無かったし、ましてやキスなんてされるはずも無い。
     ここ一ヶ月で変わった事と言えば、気温が上がったこと、リクが単語の読み方を聞いてくる回数が減ったことくらいだろうか。
     一ヶ月前と間違え探しをしても、たぶんその二つくらいしか見つけられないのではないだろうか。あと一つだけ強いてあげるとしたら、リクが恋愛小説だけではなくミステリー小説も読むようになったことだろうか。
     そして、どんなワトソン役よりも突拍子もない推理を、言い聞かせてくる。
    「つまり、犯人は全員の髪の毛をそってロープにしたのね。だから鏡が壊れていたのよ、みんな自分自身の髪の毛が無いのが分からない為にね」
    「じゃあ鏡が無かったから、誰も自分の髪の毛が無いことに気がつかなかったってこと?」
    「自分の髪の毛が無くなってるなんて、結構盲点ね、叙述的だわ」
    「どこが叙述的なの? 誰も他の人が髪の毛が無くなってることを指摘しなかったの?」
    「ほら、ある日突然友達の髪の毛がなくなってたら、ちょっと遠慮しちゃうじゃない。聞いて良いのかしら? ってなるでしょ」
    「合ってるといいね」
     彼女は誇らしげに鼻息を出して、読書を進めた。
     その後、その本に関して話題にすることが無かったことから、その奇跡の推理は、案の定間違えていたようだった。
     いつものように部室に向かうと、部室の前に、女子生徒が何やら立ち話をしていた。一人はリクだったが、もう一人は鈴子さんではなかった。一体何者だろうか?
     とにかく、あまり関わりたく無いと思い、引き返そうと方向転換を試みた。また、時間を置いて来るか、それとも諦めて家に帰るか、そんな選択肢を思い浮かべたところで、リクに呼ばれた。
    「あ、やっと来たわ!」
     残念ながら気が付かれてしまった。逃げる訳にもいかない。
    「こんにちは」
    「はいさーい!」
     もう一人は随分と元気そうだった、はいさーいって何だろう。
    「あ、はいさいって言うのは沖縄の挨拶ですよ先輩。って言っても私は沖縄行ったことないんですけどね!」彼女は僕の周りをぐるっと回った。
     僕はダンスユニットのボーカルではないので、周りを回られるのに慣れていない。
    「先輩が噂の先輩なんですね! なるほど! 近くで見るとさほどイケメンでもないですね!? 前、先輩を見たときは遠景だったからかな、かっこよく見えたんですけど」
     案外失礼なやつだ。
    「かっこよくないよ」
    「あ、もしかして気を悪くしちゃいました? ごめんあそばせって感じですよね、毎回こうなんですよ。前に見たって言うのは、一ヶ月くらい前に三人で帰ってたときに、二人が教えてくれたんですよ、やけにリズミカルな先輩がいるって」
    「僕ってリズミカルなの?」
     リクのほうを見る。
    「言ってないわよそんなこと」リクは溜息をつき、右手を振って否定した。
    「リクを呆れさせるとは……」
     リクを呆れさせるとは、この人できると思った。何ができるのかは自分でも分からない。
    なんとか話を切り上げる方向に持っていこうとした。
    「あのさ、今日は……」
     適当な理由をつけて帰ろうとしたが、その必要は無さそうだった。
    「ああ! ごめんなさい! あんまりそう言うの好きじゃないんですよね知ってますよー! そろそろ私は若いふたりに任せて、どろんでござる!」
     彼女はくるっと回った。方向転換のオーバーアクションかと思ったが、三百六十度回転したので、ただの無意味な回転だったようだ。
    「リク、私行くねー!」
    「あら、もしかして、今日も運動部の勧誘?」
    「うん、運動部なら何でもいいのに、意外に人集まらないのよねー」
    「運動部ならなんでもなんて、アバウトなこと言ってるから、人が集まらないんじゃないの?」
    「アハハ、そうかもねー」
     彼女は長く結んだ髪を、ポリポリと掻いた。痒かったのだろうか。
    「運動部ならなんでもいいって、どういうこと?」
    「変わってるのでしょ? 運動部ならなんでもいいから作りたいらしいのよ」
    「体動かさないよりマシだと思ってね!」
    「何かやりたいこと決めてから勧誘したら?」僕が提案する。
    「むー」彼女は唸った。
    「それは無理ね。だって」リクは楽しそうに言った。「中学校の頃、女子ポートボール部だったのよ」
    「女子ポートボール部?」
     女子ポートボール部、どこかで聞いた気がする。
     思え返す間もなく、すぐにレジのアバターが脳内をカットインした。確変かお前は。と脳内のレジに突っ込む。
    「ほらね、マイナーなのよ」リクが言う。
    「分かってるし、そんなことー! じゃあね!」
     彼女が立ち去ろうとするところを引きとめる。
     自分でも珍しいことをしたものだと思ったが、女子ポートボール部と聞いて、気になったのだ。
    「あら?」彼女は振り返った。「私?」
     珍しそうにこちらを見る。
    「あ、えっと、せっかくだから名前でも聞いておこうかと思って」
    「ふーん」彼女は、シンデレラをいじめる悪い姉のような、露骨に蔑むような顔を作った。「もしかして、私狙われちゃったりしてますか? 駄目ですよ先輩! いやーん!」
    「何が?」
    「あれ? 私の勘違いですか? まあ良いです冗談です。怖い人がにらんでくるんで冗談にしておきますね!」
    「にらんで無いわよ」
    「私は香苗です! 香る苗って書いて香苗です。両方とも左右対称っぽいところが良いと思いますよ!」
     頭の中で漢字を思い浮かべた。
     聞いたことあるなと思ったが、それはリクが話題にしたことがあったから名前だけ聞いたことがあっただけだった。
    「確かに、左右対称、っぽいね」
    「っぽいだけで左右対称じゃないところもポイント高いでしょう」
    「そうだね」
     適当に返事をした。
    「それでは、はいさーい! お二人ともさようなら!」
     それから、自分から名前を聞いておきながら自分は名乗らなかったな、ということに気がついた。
    「変わった奴でしょ」
    「そうかも」
     僕も文人だから左右対処だよ。と伝えたかったような気もした。
     
     
     
     リクは部室に入ると、窓際まで歩いた。窓を開ける。窓を開けても埃は少しも舞い上がらなかった。ずいぶんと衛生的な部屋になったもんだ。
    「今日、鈴子来ないから」リクの髪が揺れた。
    「あ、そうなんだ」
    「そう、ちょっと急用があるって言ってたわ」
    「急用?」
     一人暮らしの高校生とあらば、暇はあれど急用なんてものは滅多に無い。一人暮らしの高校生である僕が言うのだから間違いない。
    「ああ、だから香苗さんをつれてきたの?」
    「香苗がどうしたの?」リクが髪を押えて振り返る。「ああ、言いたいことは分かったわ」
     リクはしばらくの間、本棚の本を選んでいた。珍しくその間黙っていた
    「そう、ね。そうよね、きっとそう」彼女は、首を縦に揺らした。「二人になるのが怖かったのね。だから香苗を連れてきたのよ。自分でも分からなかったわ」
     リクはこちらを向いた。少しだけ自虐的に笑っていて、それがリクのいつもと笑顔と違っていた。似合わないなと思った。
    「でも失敗に終わったわね」
    「ごめん」
     一ヶ月前のこと、彼女は何も言わなくなったし鈴子さんも何も言わなかった。しかし忘れているはずがない。
     結局は怖いのだ。
     ふたりっきりになるとまたキスをしてしまうかもしれない。フォークで突き刺してしまうかもしれない。自分の意図しない行動をとってしまうかもしれない。
    「違うわ」彼女は否定した。僕は何も言ってないのに。「あなたが思っているようなことで、二人になるのが怖かったんじゃないの。もしあなたと二人になると、多分聞いてしまうんじゃないかなって思ってたの。それがきっと怖かったのよ」
     聞いてしまう、というのは、あのことに関して聞くということだろう。
     なぜ、したくもない行動を、僕に対して行使してしまうのか。
    「いいよ、言うよ」
    「それでいいの?」
    「怖いよ」
    「怖くないわ」彼女はやっと、表情から自虐的なものが消えた。「でも私はあなたを嫌ったりはしないと思う。思うっていうのも変ね、断定できるわ」
     
     
     
     五月だというのに寒い。
     なのに、僕らはなぜか校舎の屋上に来ていた。
    「寒いよ」
    「仕方ないでしょ。こういうときは屋上って相場が決まってるんだから」
     リクは一体この一ヶ月の間に、どんな本を読んだか具体的には知らないが、きっと本から身につけた知識なんだろうなと思った。
     どんな本なのか、少しに気になったが、それよりももっと気になることのほうを質問した。
    「どうして、屋上の鍵を持ってるの?」
    「別に良いじゃない」
     適当な返答が返ってきた。
    「さて、なにから話せばいいかな」
    「なんか、変な能力があるんじゃなかったっけ?」
    「信じてる?」
    「大抵ね。そのほうが自分の意思でキスしたよりも説明がつくわ」
     彼女は立っていた。
     屋上にはベンチが設置されていたが、リクは座らなかった。
     彼女と僕との距離は一メートル以上二メートル未満というところだろうか、ただ彼女は先程からこちらに体を向けようとせずに、二人を接点とした接線から九十度の方向へと体を向けて空を見上げていた。
     髪がなびいて、バラードのプロモーションビデオを見ているようだった。
     彼女が綺麗だったせいだろうか、胸が大きく高鳴るのが分かる。
     僕は結論を急いだ。
     彼女の気が変わる前に。
     屋上は本来、進入禁止の場所だ。
     その為、あまり綺麗とは言えない空間で、ゴミも多く落ちている。なんで進入禁止の場所にゴミが落ちるのか、そのメカニズムは想像もつかない。
    「これ、あげる」
     僕は足元に落ちていたものを拾うと、リクに渡した。
    「これって、石じゃないの。何のつもり?」
    「いらなかった?」
    「いらないわよこんなの」
     僕は唾を飲んだ。
     不思議そうな表情をしている。彼女の性格からして、普段ならこんな理不尽なことを言うと嫌な顔をするのに、今だけはそんな顔をしなかった。そんな優しいリクのことを僕は……
    「じゃあ、返してよ」
     手を差し出す。
    「何よそれ」
     リクは僕に石を渡そうとするはず。
     予想通り、彼女は僕に石を渡そうとした。
     彼女はまだその動作を取っていない、だけど僕にはそれが分かった。
     そして、彼女が僕にどういう行動を取るのかも分かった。
     石が彼女の手元を離れる。
     予想よりもスピードが早かった。
     覚悟していたとは言え、少し痛かった。
     幸い目にも鼻にも当たらなかったが、もう少し小さな石にしておけば良かったかもしれない。
     額から血が流れる。
     リクは石を投げつけたのだ。僕の額に向かって。
    「何これ……」
     リクは驚いている。というよりは気持ち悪いものを見てしまったかのように、怯えている。
     当たり前だ。
     自分が想像していた行動がいきなり別の行動になったのだから。リクはこれで二回目のはずだ。
     しかし、リクには想定外だったはずだ。こうしたほうがリクには伝わりやすいと思ったし、説明の手間が省ける。信じてもらえる。そう思ったのだ。
    「なにこれ……」
     リクは僕を見て、その後、彼女は自身の手を見た。自分が投げたことを理解しているのだろう。
     キスの時もこんな感じだったはずだ。
     彼女は僕をまた見た。泣いていた。
    「ああ……」リクが声を漏らす。
     もしかしたら何か言おうとしたのかもしれなかったが、僕には届かなかった。
     彼女は振り返ると、走り去ってしまった。
     開きっぱなしの扉をしばらく眺めていた。
     いろいろな考えが交差する。彼女は怖くないと言ってくれた、けど本当は僕のことをどこかで気持ち悪がっていたのだろう。
     彼女は優しい。
     だから本人ですら気がついていなかったのだろう。
    「駄目だったか」
     扉を眺めるにも飽きて、僕は屋上から室内に入った。
    「あ、鍵が無いや」
     呟いて見たものの、別に鍵なんてどうでも良かったので、そのまま帰宅した。
     
     
     
     その日の夜、レジとチャットをした。
    『僕が馬鹿だったんだ』
    『そうなんですか?』
    『僕のことを他人に理解してもらおうなんて考え、その考え自体が馬鹿げていたんだ』
    『そうなんですか?』
    『そうに決まってるよ、僕は本当に馬鹿なんだ』
    『先輩は、馬鹿なんかじゃないですよ。ただ、ちょっとだけ周りが見えてないだけです』
     レジが呆れているのが手に取るように分かった。
     だけど、僕は止められなかった。
     僕は最低だ、そう気がついていながらもレジとは関係の無い愚痴を、延々と打ち込み続けた。
    『なんで僕だけがこんな目に遭うんだろう』
    『知りません』
    『あいつだってそうだ』
    『あいつ?』
    『あいつは言ったんだ、嫌いになったりしないって』
    『言ったんですか。先輩の能力のこと』
    『うん。その言葉を信じたんだ、リクは僕のことを裏切ったりしない、そう信じてたんだ、なのに……』
    『なのに?』
    『嘘だったんだよ』
    『嘘?』
    『彼女は僕から逃げたんだ! なら最初から、優しい言葉なんていらなかったのに!』
    『先輩』
    『期待なんてさせるから!』
     レジの返事はついに無くなった。
    『最初から一人で生きていけたのに。なのに、彼女がいたから僕は。甘えてしまったんだよ』
     レジはまた返事をしなかった。
    『ごめん』
     わざかな時間だったが、それでも冷静さを少しだけ取り戻した。少なくとも、レジに悪かったなと思える程度には。
    『ねえ、先輩?』
    『ごめん』
    『なんで、謝るんですか?』
    『いや、愚痴ばっかり言っちゃったから』
    『あら、先輩。少しは冷静になったみたいですね』
    『多分』
     自分の頭を抑えた。
     すこしだけ自分が戻ってきたような気がした。気のせいかもしれないが、少なくとも今のようにチャットで喚き散らすようなことは無さそうだと自己分析する。
    『楽しかったんでしょ? せっかくだし、取り返せば良いじゃないですか?』
    『取り戻す?』
     変な表現だなと思った。
    『そうですよ、じゃないと勿体無いですよ』
    『でも』
    『先輩、ここ最近、ずっとチャットで楽しそうに話してたじゃないですか、今更何言ってるんですか、レッツ楽しかった日々取り戻し!』
    『駄目だと思うけど……』
    『あーもー! 駄目ってやってみなきゃ分からないでしょー!』
     レジのアバターが怒り出す。
    『でも、どうやって?』
    『本人に聞いてくださいよ』
    『怒ってるかもしれないし』
    『じゃあ、謝ればいいでしょうー!』
    『許してもらえないと思う』
    『もー!』彼女のアバターがまた怒る。なおかつ、アバターが細かく震えている。怒るボタンを連打しているのだろう。『そんなこと、謝ってみれば分かるでしょー!』
     画面ごしにも、怒りというか熱気のようなものが伝わってきた。
    『分かったよ、聞いてみる』
    『それでこそ先輩です!』
     僕ってそんなキャラだったかな、と自分で思い返してみたが、とくに思い当たる節は無かった。
    『どのへんが?』
    『こんな時ですら、向上心が無いあたりでしょうか』
     褒められるかとおもったら、逆に罵倒されてしまった。
    『ああ、そこなのね』
    『どういたしましてー!』
    『え、ありがとう。あれ? 順番、逆じゃない?』
     今日も結局いつもと変わらず、すっかりレジのペースになっていた。思い返してみれば、いつだってそうなのだ。レジのペースに誘導されている。
     彼女がいなかったら僕は、今以上に駄目になっていただろう。
    『先輩、泣きやみましたかー!』
    『泣きやむ?』目元を抑えてみると、涙が手についた。驚いたことに、いつの間にか涙を流していたらしい。『そうだね、泣いてたみたいだね恥ずかしい』
    『泣きやんだんですねー!』
    『そうだね、ありがとう』
    『どうしたしまして、あ、今度は順番正しかったみたいですね』
     レジのアバターが楽しそうに笑った。
    『じゃあ、そろそろ落ちるね』
    『ブブー! 駄目でーす!』
    『どうかしたの?』
    『決まってるじゃないですか』
     彼女のアバターが今日はじめて笑った。
    『まだ私が泣き止んでないからですよ』
     
     
     
     翌日の放課後になると、部室に向かった。
     リクはいなかった。鈴子さんがひとりで、いつもの席に座って本を読んでいたようだが、こっちの存在に気がつくと、こちらを向いた。目が合う。
     いつもと違って見えた。その理由は多分髪を切ったせいだろう。髪を切って以降、彼女の表情がよく見えるようになった。
     どちらも彼女には似合っていたが、こっちのほうが明るく見えるなと思った。
    「こ、こんにちは」
    「こんにちは、その、今日は休み?」
    「あら」彼女はクスっと笑った。彼女らしくない余裕ある笑みだった。「私はここに居ますよ。見えませんか?」
     彼女の冗談は珍しいなと思った。リクからまだ何も聞かされていないのかもしれない。
    「勘違いしないでよ」
     鈴子さんにしては口調はきつかったが、小学生の朗読のような棒読みなのも気になった。
    「って、リクが言ってました」
    「リクが?」
    「そうです、リクが言ってたんですよ。勘違いしないでね。今日部活を休んだのはただの偶然だから、変に勘ぐったりしないように。明日ちゃんと続き聞かせて。だそうですよ」
    「そうなんだ」
    「安心しました?」
    「うん」
     今日の鈴子さんは、いつもより機嫌が良さそうだ。
    「私も、いつか聞かせてくださいね」
    「何を?」
    「昨日、リクが瀬村さんに聞いたことですよ」
    「ああ」鈴子さんはリクから昨日の話を聞いたのだろうか。それとも流れから気がついただけだろうか。
    「でも、リクは多分、聞いて後悔したと思う。実演だったんだけど、だから」
     鈴子さんは僕の発言を、途中で遮った。
    「それは違いますよ。リクは勘違いしないでって言ってました。それに、私にはリクが逃げた理由が分かります」
    「リクは後悔してない?」
    「はい、そうです」鈴子さんは断言した。
    「逃げたのに?」
    「はい」
    「そうか、鈴子さんがそう言うなら、そうかもしれないね」
     鈴子は頷いた。
     その後、一時間あまり読書をした。
     それが本日の集中力の限界だったのか、あるいはその本が面白くなかったのか分からないが、一時間が限界だった。
     本を閉じて思い返してみると、本の内容があまり思い出せなかった。こんな時はいくら読書しても時間の無駄だ。
    「そろそろ、帰るね」
     本を閉じると、鈴子さんも閉じた。
    「あの、私も帰ります」
     校舎を出ると彼女のアパートの方向に歩き出した。
     別に遠回りになるわけでもないのに、一緒に帰宅することは無かった。
     この道よりも、もっと人の少ない道のほうを通ることが多かったからだ。リクの家は真逆に位置するので、リクは一緒には帰れない。
     ふたりっきりで帰るのが気まずかったのも、一緒に帰らなかった理由の一つにあげられる。
    「こうやって二人で帰るのって初めてですね」
    「うん、そうだね」
     並んで歩いていた彼女は、小さかった。
     女性を真横にして歩くという機会がほとんど無かった。その為、彼女の小ささがいつも以上に際立った。
    「あ」
     横を向いても、彼女はすこしばかり目線を下げないと彼女を見ることができない。
     文芸部は三人がそれぞれ、リク、僕、鈴子さんの順番で高い。それぞれが、十センチ以上離れているのだから、なんとも統一感が無い。
    「なんですか」
    「いやその、小さいなって思って」
    「ひどいですね。ちょっと気にしてるんです」
     彼女は小走りで僕の目の前に出て、胸元をみた。
    「大きい人が好きですか?」
    「そこじゃないよ、身長のことだよ」
    「じゃあどっちでも適応できるお得な質問しますね」彼女が僕を見て笑った。「先輩はリクのことが好きですか?」
     彼女の質問の意味を理解するのには時間はそこまでは掛からなかったと思う。質問に対する返答はそうはいかなかった。
     僕は立ち止まった。
     目の前には彼女がいる、まだ返事を待っていた。笑顔だけれども、誤魔化させはしない、という意思が伝わってくる。
     僕が答えなかったら、彼女はいつまでもそこから動かないだろう。
     とても好きな友人だ、という返答を思いついた。
     しかし、彼女がそんな言葉を望んでいないのは分かっていたし、そんな言葉の逃げ道をつくような解答を口に出すのも馬鹿らしかった。しかし。
    「嫌いじゃない」
     残念ながら僕の口から出てきた言葉は、想像していた言葉よりも輪をかけて馬鹿らしかった。
    「瀬村さん……」
     彼女は呆れただろう。しかし僕にとってはそれが精一杯の返答だった。
    「じゃあ瀬村さんの代わりに、私が、私の質問に答えましょうか?」
     僕が優柔不断なのも悪いが、彼女もずいぶんと意地悪なもんだ。
    「いや、いい、分かってる。ごめん」
    「そうですか」
     彼女は納得してない様子だったが、静かに百八十度方向転換するとそのまま進みだした。
    「これも、ちゃんとリクには言ってあげてくださいね」
     
     
     
     朝下駄箱を見ると紙が入っていた。
     紙は付箋で、その付箋に見覚えがあった。以前、リクが部活を休むときに使ったものだった。
     ”放課後、屋上に来なさい”
     命令文。一応僕のほうが先輩なのに。なんてことを一瞬だけ思ったが、今更だった。
     放課後のことを考えると複雑な気分になる。
     胃が痛くなるような感覚もあるのに、どこか楽しみでもいる。実に不思議な気持ちだった。この矛盾は何なんだろう?
     彼女らと会ってから、僕は成長したのかもしれない。
     変な能力。それに反比例するような向上心の欠落。
     なにをするにも僕は女性を避けることばかり考えていた。
     こんな僕も、彼女らと居れば変わっていける気がした。いや、少なくと、彼女らの前では変われた。
     放課後、屋上に行くとすでに鍵は開いていた。
    「遅かったわね」
     彼女は相変わらず髪をなびかせて、こちら向いて立っていた。細分化された太陽光が、彼女を照らしていた。それが、彼女をいつもより輝かせて、美しく見えた。
    「前から言おうと思ってたけど、ホームルームは二年生のほうが長引くもんだよ」
    「知ってるわよ、そのくらい」
     リクはそこにいた。
     彼女が本を閉じた。
    「昨日暇だったから、おかげで大分読書が進んじゃったわ。おかげで犯人に目星がついたわ」
    「犯人、当たったことあったっけ?」
    「私は過去を気にしないのよ」そういって、髪をかきあげた。「犯人は、赤と青のセロハンを使ってできた立体に見える眼鏡をつかったのよ」
    「凶器がセロハンでできた眼鏡なの……?」
    「馬鹿ね」
     彼女はクスっと笑った。
     馬鹿はどっちだよ、とは言わなかった。
    「これを使って、平面なものを立体に見せることで、相手に操作を惑わせたのよ。それで工場長は、リフトに当たって……」
    「赤と青のセロハンを使っても、平面が全部立体に見えるわけじゃないよ」
    「だから、赤と青のしましまの服を着ていた人が犯人なわけよ」
     リクの読んでいた人物にそんな奴いたっけ、考えてみても思い出せない。おそらく居ないだろう。
    「ガバガバな推理じゃん……」
    「でも、前読んだ本なんて、首を刀で二人同時に切ったら、一つの首が、偶然、別の胴体の神経につながって逃げていったっていうすごいトリックだったわよ」
    「まあ……そういうのもあるよね……」
     実はあの小説、僕は好きだということは言わなかった。
    「この前、登場人物について話をしたの覚えてるかしら?」彼女は僕との距離を詰めた。もう一メートルも離れていない。
    「好きな人死んだ登場人物の話だっけ?」
    「そう、あの時の話、やっぱり無しにして」
    「言われなければ思い出さなかったから、無しなんていちいち言わなくても……」
    「そう、あなたらしいわね」彼女は囁いた。「やっぱりきっと、好きな人が居なくなるのは、離ればなれになるのは寂しいわ。多分だけどね」
     その声は、風にかき消されそうに小さかったにも関わらず、耳に届いた。それが、彼女が近くにいるという実感を得た。
    「自分のことを置換って呼んでる」
    「ええ!」彼女はさっきまでの囁き声とは異なり、突発的な音声を発した。「痴漢ってそんな、いきなりそんなカミングアウトされても、私困るわ」彼女の頬が赤くなる。「こんな場所に呼び出して……」
    「ち、違うって! 置換だよ、水上置換とかの、それにここに呼び出したのはリクのほうだし」
    「そう言えばそうだったわね。水上置換?」彼女は少し考えた。「あの水に溶けにくい気体を置換する時の?」
    「そうそうそう、その水上置換だよ。水に溶けさえしなければ、大抵の気体が水より重たいから、便利だよね」
    「さあ、あんまり私、空気の重たさについて考えたことがないけど」
    「ああ、だから……」
     空気読めないのか……とは言わなかった。僕も空気を読むことに関しては自信がない。しかし、そんな彼女だからこそ、一瞬でいつもどおりのリクに戻り。こっちまで楽しくなってしまう。ここで言ういつも通りとは、アホみたいな、の意味だ。
    「雰囲気ぶちこわしだね」
    「元々ないわよ、そんな雰囲気」彼女がくるりと髪を巻いて放した。「置換は分かったわ。想像してたのと漢字が違ったみたい」
    「よかったね」
    「わーい」
     彼女らしくなく、体を揺らして喜びを表現した。
    「僕はね、生まれつきというか、物心がついた時から、その置換って能力に悩まされてたんだ。たまにね、僕に対して変な行動を取ることあったよね」
    「あったわよ」
     彼女はまた頬を赤く染めた。
     キスのことを思い出したのだろう。こっちまで恥ずかしくなってしまう。
    「それが女性だけなんだ。女性が僕を対象として行動は、別の行動になることがあるんだ」
    「どういうこと?」
    「つまり、僕にビンタしようとすると、キスすることになる。女性なら誰でも」
    「それは、その、すごいわね。確かに、私はあなたにビンタをしようとしたわね。でもそれって随分と局地的じゃないかしら?」
    「ビンタだけじゃないよ、例えば僕に石を渡そうとすると石をぶつけてしまうし、フォークで何かを食べさせようとすると、フォークで足を刺してしまう」
    「ああ、そうなの、そういうことなのね」彼女は納得したらしい。「だから置換なのね」
    「そう、行動が置き換わるから、置換って名付けてみたんだよ」
    「あんたもネーミングセンスが無いわね」
    「えぇ……」
     少しショックだった。
    「でも本当に局地的なのね。限定されているっていうのかしら」
    「うん。だから、なんとか生きていけてるんだと思う」
    「それって、その置換っていうの? それが、例えばそのキスしたときってあなたは分かるの? そうね、あくまでもしもの話よ、あの時、私があなたに急にキスがしたくなったのかもしれないわよ?」
    「それはちゃんと分かる。ちゃんと、ビンタがキスに変換されたってその直前に理解できるんだ」
    「ふーん」彼女は頭を整理したかったのか、少しだけ目を瞑った。「壮大なのか小規模なのか、いまいち分からない能力ね」
    「うん」
    「いつ頃からそんなことになったの?」
    「小学校の頃かな、始めて置換したのは、小学校の帰り道だったと思う」
     当時の情景を思い返す。全て鮮明に思い浮かべることができた。あの日だけは多分一生忘れることは無いだろう。
    「友達と一緒に帰ってた。寄り道して、この石見てって言ったんだ、それで友達のほうを見ると、石が顔に直撃して、彼女は怯えるように逃げて、でもなぜか、何が起こったのか不思議と理解できて」
    「その友人とはどうなったの?」
    「分からない。でも口も利いてもらえなくなったし、でもその友達は前より暗くなった。今は明るくやってるかもしれないけど」
    「そうなの」
     リクは悲しそうな表情を一瞬だけ見せたが、すぐに笑顔を作った。
    「うん」
    「キスは、私で、初めてだったの?」
    「それも小学校のとき」
    「あらまあ」彼女は口を押さえて驚いた。「おませさんね」
    「二年生の頃、おばあちゃんの先生にビンタされそうになって」
     思い出しただけで先生の口臭がよみがえる。それを誤魔化すように口を動かした。
    「なにそれ!」
     リク笑い出した。よっぽど面白かったらしく笑いながら涙を拭いている。
    「いや、笑うけど、入れ歯は外れるわ、おばあちゃん先生は泣き出すわ、大変だったんだからね」
    「ほろ苦い青春ね」
    「苦すぎるよ」
    「他にも何か、置換したことってないの?」
    「フォークは、あの時が初めてだったかな」
    「あら、そうなの、自分でも全部分かってるってわけでも無いのね」
     リクが、悲しそうに呟いた。
    「うん、他にもいろいろある。でもあんまり言いたくないかも」
    「いいのよ、言いたくないことは言わなくていいって。前から言ってるでしょ」
    「うん」僕は彼女を瞳に写した。「僕は、ずっと女性を避けてきたんだ。この能力のせいでと思った。だから劣等感もずっと抱いていた。だけど女性だけを避けるなんていう器用なことはできなくて、コミュニケーション事態が徐々に下手になって……」
    「だから女性恐怖症って言ったのね」
    「覚えてたんだ」
    「そのくらいは覚えてるわよ、馬鹿にしてる?」
     リクが、僕の言った何気ない一言を覚えてくれていた。そのことがうれしかった。
    「そんなつもりは無いけど」
    「ねえ、その置換ってのは、やっぱり不幸?」
    「うん」
    「でもさ」彼女は微笑んだ。「私とキスできたよね?」
    「それは」
     彼女の唇の感触を思い出した。忘れていない。あの時の香りさえ覚えている。何度も思い出している。
     そして、同じ感触が僕の唇に触れた。
    「ん」
     目の前には彼女の顔があって、目を閉じていた。頬には初めて会ったときのように、顔を固定している手があった。
     僕も目を閉じる。
     前と香りは変わっていた。記憶が上書きされた気がした。なんど想像したところで、今触れている唇のほうが魅力的で、新しい香りの記憶のほうを優先させたのだ。
     一分くらい経ったかもしれないし一秒も経っていないかもしれない。
     彼女はそっと唇を離した。
     手は離していない。
    「本当ね。変なの」
     彼女は僕にビンタをしようとしたのだ。試す為に。
    「今でも、その置換って言うのは全部不幸だと思ってる?」
     さきほどの置換のせいで、それは肯定できなくなってしまっていた。
    「全部ではないかもね」
    「ふふーん」
     彼女は自慢げな顔をした。
    「さーて、あなたの話も終わりね。じゃあ私からも良いかしら」
    「良いけど、ここじゃないと駄目なの?」
    「駄目よ」彼女は少しだけ距離を置いて、髪をかき上げた。それでも彼女は手の届く位置にいた。「じゃないとここに呼んだ意味が無いじゃないの」
    「あれ? さっきの僕の会話の為じゃ?」
    「さっきのは私の話の前菜みたいなものよ」
     人のトラウマ発表を、まさかの前菜扱いである。
    「これだからリクは」
     僕は自虐的に笑った。
    「なにかしら?」
    「別になんでもないよ」
    「そう、なんか気になるけど。まあいいわ、言うわよ?」
    「うん」
     心臓が高鳴る。なにを言うつもりなのだろうか。分かっている。でもそれは僕から言わなきゃいけないことだったかもしれない。
    「いざ、言うとなると恥ずかしいわね」
     彼女の唇を見つめた。
     何も考えていなかった、ただぼんやりと口が動くのを待っていたのだ。
    「私ね、高校に入ってから、楽しいことばかりだったの。最初は嫌だった、自分でもなんであんなやつにキスしたのかも分からないし、でもあなたと過ごして徐々に分かった。あなたは優しいって。でもどこか自虐的で、優しさもどこか卑屈だったの」
    「リク」
    「瀬村文人」
     彼女は僕の名を呼んだ。彼女が名前で僕のことを呼ぶのは、初めてだったのではないだろうか。
     僕は彼女が好きだ。
     特に好きな部分なんて考えたことは無かったが、あえてハード的な部分を一つ挙げるとしたら、それは唇だろう。
     彼女の唇は魅力的だ。
    「わたしね、あなたのことが」
     恋の告白だということが分かった。
     しかし、その告白は置換されてしまった。
     唇が赤く染る。
     彼女は舌を噛み切って、死んだ。



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