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なぜネトウヨは一時代を築き、いま否定され始めるのか
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なぜネトウヨは一時代を築き、いま否定され始めるのか

2018-09-11 21:58
  • 257

「ネトウヨ」という言葉が人口に膾炙するようになったのはつまるところ、今目の前で起こっている事態を説明する語句が何かしら必要であるという、極めて現実的で実際的な需要からである。これは、「パヨク」という言葉が閉鎖的なネトウヨ的スフィアのなかで、より敵に対するより効果的なレッテルとキャンペーンの手段を獲得することを言外の目的として生み出されたこととはおおいに異なる。後者はどちらかというとマーケティング的な要素の強いもので「なんたら男子」などというのと同じく一部の人間が自らの都合の為に流行らせることを目的として流行らせた「しっくりしないよそよそしい」もの・・・自分ではない誰かの需要の為に通用させられているコピーだが、前者はもっと横断的な人々が必要に迫られて共用されるようになった言葉で、自然の流れで「流行ってしまった」ものである。

反マスメディアという幹


ネトウヨ的な存在は「ネット掲示板」が日本に登場したかなり早い段階からあったと言われる。ただ、これは今でも「定義揺れ」が存在するように、ネトウヨという言葉の意味は常にはっきりと固定化された輪郭があったわけではなくて、時の経過によってケースバイケースに微妙な変化を遂げながら今に至る。そのため「ネトウヨ」というネットミームのタイムライン上の一部分を切り取ってみても、時期によって中身は様々なものだが、一方で嫌韓・反中、あるいは反「反日」や反左翼というように、ほぼ一貫して共通している部分もあり、だいたいその手のものが「ネトウヨ」という非常に幅広い意味をもつ言葉の最大公約数的な要件として現在見なされる。

ただ、このネトウヨの要件とされる嫌韓・反中・反左翼とされるものも実は表面的なもので、本当に「ネトウヨ」の根幹となるものは本来「反マスメディア」であり、そしてもっと視野を広げるて言えば、20世紀末からゼロ年代初頭に日本の思想的・言論的メインストリームを占有していた(ように見える)左派・リベラル的インテリ層への強い反発と不信感だった。

このインテリ層というのは単なる知識人教養人という意味ではなく、知的エリートというよりは、ワイドショーや報道バラエティーでテレビ用の意見をもったいぶった口調で読み上げるコメンテーター連中をイメージした、ファッションインテリ層のことを指した。学歴と肩書とスーツと知識をひけらかすことしか頭にない煙たくなるようなオッサンおばはん連中で、自らの世代の失敗した学生運動をオラついた武勇伝にしながら、年を取って体制側に回ると自分たちの地位にしがみつき、それを守るための障壁を作ることに汲々とする、ノブレスオブリージュの高潔性とは程遠いいけ好かない既得権益層の姿だった。

その既得権益層の最も厚く、かつ悪目立ちする部分が、テレビや新聞や言論界であって、そしてそれらが結びつき緊密な共犯関係を形成するものがつまりはマスメディアというものであり、いわば、それは既得権益集団の巨大なコングロマリットのように見えた。

2002年の日韓ワールドカップにおける極度の偏向報道、2004年「冬のソナタ」を皮切りに起こったスクラム的な「韓流」キャンペーンと、2005年にフィクションの疑いが濃い「電車男」が「真実」と喧伝されて一大ブームに育て上げられたことは、マスメディアが情報の流通に対し圧倒的なアドバンテージを持つだけでなく、それを商業的、あるいは政治的目的のために恣意的に操作・悪用し、作られた流行や価値観を人々に強制しているのだという反感を抱かせることとなった。

マスメディアから一般人へと一方的な情報の流れが表社会にある一方で、ネットの中にはその一方通行からはみ出た部分に既存メディアから切り離された独自の価値観を共有する一種のスフィアが形成され、そこに実社会と異なる独特な「世界観」が形成されていった。そしてそのネット空間には、既存のマスメディアは真実を隠蔽し、国民を情報弱者の立場に閉じ込めて、都合のいい情報を信じ込ませて行動と判断を操り、自らとその共犯者らの利益のための養分として陥れている、という不信感がこのころに固まって、それ以降決して溶けることはなかった。

初期のインターネット上のラジカルな言説にとって主要な動機となっていたのは主にこの反マスメディア感情であって、別に特段の政治的ベクトルがあったようには思えない。確かに表社会の言論世界で居場所のない右翼の一部がネットという地下社会に潜って活動を行っている例はたくさんあったものの、別にそれは右翼に限った話ではなかったし、左右どちらにせよそれらの影響力や知名度はネット上においてでさえ極めて限定的で、しかも扱い的には「一部の拗らせた連中」といった域をでることはなかった。政治的言動を忌避する風潮は表社会でもネット社会でも変わらず、街頭で通行人が右翼の街宣車に眉を顰めるように、ネットの掲示板でもウヨク・サヨクは疎まれて、政治的な話題は単に場の空気を悪くする要因の一つと見做されていた。

※今でもネトウヨと言われる人々が「普通の日本人」というキャッチフレーズに異常に拘るのは、「政治的話題に拘る連中はキ〇ガイの気のある変人ども」という認識が広く共有されていたこのあたりのトラウマが大きな要因の一つとなっているように思える。

ただ、マスコミをマスゴミと言い換えるような反マスメディア的な言説はそれらとは別で、ある種の市民権を得ていた、という事実は非常に重要だった。

右翼的な排外主義的言動には冷めた顔で割り引いて聞くような態度を取る人々も、マスメディアに対するラジカルな言説にはかなり柔軟な姿勢を示したからである。それは、右翼は一部の思想のモノだが、反マスメディアについてはマトモな人間なら誰もが共有する常識的で正当な感情だという理解からだった。当時のネットはマスメディアの息のかかっていない数少ない空間であって、メディアのタテマエから逃れられるセーフハウスという意識があり、自ずとコニュニティの前提として反マスメディア的な価値観が共有されることとなる。

だから、反マスメディア的なラジカルな言説も、ある種の市民権と言ってもよいコモン・センスと見做されていた。

現代ネトウヨの誕生と黄金時代


匿名という自由が必然的にもたらすものが他者への攻撃である、という点については、ここで改めて細を穿って論ずることはしない。ネット社会が今よりもずっと小規模で一般的でなかった時代は、つまり送受信できるデータ量と通信速度が発展途上にあった時代であって、そのため動画やオンラインゲームなど大容量のやりとりが必要なものよりも、より軽量で安定したテキストコンテンツが娯楽やコミュニティの中心となるのは当然だった。そして文字だけのコンテンツが、より刺激を求めて殺伐化していくのも自然の成り行きだったのかもしれない。

匿名掲示板上の排外主義的な書き込みや誹謗中傷といったものは「お決まり」の風潮となっていて、特段にネトウヨ的な人々の専売特許だったわけではない。頑是ない悪童が汚い言葉を面白がって喚き散らすのと同じで、刹那的な刺激を求めた、特に深い考えのない愉快犯のような人々が大半を占めていた。確かに特定の政治的なバイアスや目的をもったレイシストたちやウルトラナショナリストもいるにはいたが、当時のネットには特定の思想的な偏りを持った人々を惹き合わせて凝縮するソーシャルコンテンツが今ほど潤沢ではなかったこともあって、彼らの声はさほど響きあうことなく、どこまでも荒漠な匿名の空間に溶けてなくなるのが常だった。

ネトウヨ的な言説は謂わば、「ハッキングから今晩のおかずまで」と謳われる巨大な匿名掲示板上の、無数の阿鼻叫喚のうちの一つでしかない。匿名掲示板そのものがまさに「地下世界」のような扱いをされていた当時だから、今でこそ異様とされるネトウヨ的な言説も、木を隠すなら森の中というわけではないが、無数の便所の落書きのなかにあってはありふれた過激な言動の一種として特に際立った存在感はなかった。

ただ、ネット上の言論空間に新たなフロンティアとしての政治的な可能性を見出していた人々は確かにいた。そして彼らはここを政治的運動や世論扇動ないし自分たちの価値観を推進するための宣伝作戦の主戦場にしようと、当時としてはかなり先見性のある計画を立てていた。

もっとも、植物のマツが競争力が弱いために、競争の激しい豊かな土壌の植生からは排除され、競争相手のいない貧弱な土壌の土地におしだされてしまった結果、海浜の植生のシンボルとなっているように、単に既存のマスメディアや言論空間での敗北者がネットという世論の辺縁部に押し出されただけのようでもある。ただまぁ、必要は発明の母ともいうし、だからと言ってその手段の先見性にケチをつけることもないのでないか。

その代表格が「チャンネル桜」で、有象無象のラジカルな便所の落書きではなく、特定の政治的主張・価値観を促進するための言論を推し進めるというある程度明確な方向性を持っていた。

「ネトウヨ」という単語を認知した初の外国メディア記事であり、国内的にも数少ないマスメディアによる「ネトウヨ」に言及したものであるジャパンタイムズ2006年3月14日の記事でも、問題の多さと書き込みの膨大さから2chだけが悪目立ちしているが、有象無象の匿名コメントよりも明確な政治的方向性をもつチャンネル桜のような存在こそがネトウヨ的価値観を効果的に広げることになるだろうと示唆している。

これは、ネトウヨ達の声をネトウヨ的メディアが取り上げ、その記事にさらにネトウヨ達が注目して集まるという自己再生産サイクルを予言する形となった。このサイクルには記事のトラフィックを稼ぐことで人目につくように浮上させ、たまたま出くわした人を新たなネトウヨとして引き込むと同時に、既存のネトウヨ的コミュニティで共有される「通説」を強化して身内の団結を固くする複合効果がある。チャンネル桜自身は先駆者のひとつというだけで、主な役割はyoutubeの後発者たちが担っているように思えるが。

ネット上でも泡沫のような存在に過ぎなかったネトウヨに「土台」が獲得されたのはゼロ年代後半のことで、北朝鮮拉致問題やイラク戦争と東シナ海を巡る中国との対立など、現実政治の影響を受けて言説の先鋭化と体系化が起こった。

携帯電話の若年層への普及の本格化によるネット人口の増加とライト化はネット空間におけるビジネスの可能性を増大させ、同時に障害となる非合法的傾向やアングラ感が淘汰されることとなり、ネット上の利用人口は匿名掲示板からyoutubeやニコニコなどの動画サイト、あるいはmixiやフェイスブック、その後のtwitterなどのソーシャルサービスに大きく移動することとなった。そして過疎とネタの停滞を引き起こした匿名掲示板とまとめブログなどの派生コンテンツは、テレビ局の情報バラエティよろしく、手っ取り早く人を集めるための話題としてニュースネタや政治ネタが主力商品として台頭するようになり、これがネトウヨムーブメントの台頭に一役買った。あらゆる話題に政治的な小ネタが、ネトウヨ的なちょっとした言説が紛れ込み、そういったお手軽政治言論はまとめブログを通して広く拡散されるようになった。

「朝鮮叩け、中国叩け。アサヒも叩いてサヨクを叩け」と頭を使わず空気で理解できるほどわかりやすく咀嚼された政治ネタは「涼宮ハルヒからアニメに入ってきた新参にわか共」のようなライト層にも大きく受け、小泉竹中新自由主義に対する非難より、中国韓国サヨクに対する罵倒が大いに好まれるようなネトウヨの大衆化が沸き起こった。本格的に政治ニュースネタがネット上の大量消費的娯楽コンテンツになった時代である。

2008年からの麻生政権誕生で状況はさらに過熱した。麻生太郎が空港のロビーでローゼンメイデンを読んでたという虚実不明の風説が大流通していて、しかも自らの評判を聞きつけたのか本人が秋葉原で演説を行ったり、過去に国会で2ちゃんねるに言及していたりしたもんだから、いつの間にか「麻生太郎はオタクで2ちゃんねらーでネットの味方」ということになっていて、ついに2ちゃんねるから首相が生まれたと欣喜雀躍大喝采があちこちで起こっていた。

折しも小泉長期政権後の反動とぐらつきから自民党与党は短命政権が続いていて、マスメディアの空気は「これをチャンスに政権交代」とネット世論とは逆方向に大きく振れていた。これが反麻生一大キャンペーンとなり、無党派層にもウケるようにとテレビお決まりの「白痴的バッシング」が蔓延したから、ネット社会伝統の反マスメディア主義を大いに刺激し、新しい流れの麻生支持と反マスメディア文化という根深く太い潮流が噛み合って盤石なネット世論のメインストリームを形成することとなった。

新しいライトな流行りに乗っかって台頭した「ネトウヨ」が、以前からネット上で共有されていた「反マスメディア」という常識的な価値観に入り込むことで、「普通の人間なら麻生を支持して当然、ネトウヨになっても仕方ない」という空気がかなりうまく醸成された。反マスメディア主義と並んでネトウヨ的価値観がコモン・センスとなった麻生政権時代こそ、ネトウヨという潮流の黄金期であったように思える。

新しい運動としてのネトウヨ


ゼロ年代後半におけるネトウヨの急速な勃興と黄金時代にはある種の目的の共有があった。

2002年の湘南ゴミ拾いオフの頃から、自分たちネットユーザーはマスメディアから無視されている、自分たちの声は黙殺されている、テレビや新聞に流されているのはマスコミが「編集した」世論であって、生の声は隠蔽されているんだ、というネット上の被害者意識は非常に強かった。石田衣良のサイレントマジョリティの例からも、これが決して無実の被害妄想だったというわけではないことがはっきりしていて、既存メディアの「ネットの意見は無教養すぎて世論に入れない」という態度に対し、ネットユーザー(ネトウヨに限らず)は自分たちの声を世論として認めさせたいという強い反感をずっと抱き続けていた。

この反感と麻生政権に対する極端化した自己同一視と連帯感が、マスコミの発表する政権支持率の低迷をネガティブキャンペーンの為の「捏造」と断定し、政権を支持する自分たちこそが本当の国民の意見だとして、マスメディアの「情報操作」から「俺たちの麻生」政権を防衛するための聖戦を遂行しようとする使命感が共有されるようになる。そして2008年の毎日新聞英語版猥褻捏造記事に対する騒動と抗議運動も相まって、ネトウヨ黄金期は、まさにメディアとのジハード熱が高揚した聖戦時代でもあった。

すごい一体感を感じる。今までにない何か熱い一体感を。風・・・なんだろう吹いてきてる確実に、着実に、俺たちのほうに。中途半端はやめよう、とにかく最後までやってやろうじゃん。ネットの画面の向こうには沢山の仲間がいる。決して一人じゃない。信じよう。そしてともに戦おう。工作員や邪魔は入るだろうけど、絶対に流されるなよ。


先述の通りネトウヨの存在と言説が自民党側に本格的に認知されるようになったのもこの時期で、「一体感」の高まりは、ネトウヨを単なる既存メディアからこぼれた不平不満の受け皿というという受動的な存在から、能動的な一種の政治運動に生まれ変わらせることとなる。この運動の目標は、日本の伝統を守るとか国を愛するとかいう御大層なものよりはむしろ、反マスコミ的な党派主義からくる政権維持という、かなり局所的で戦術的な目標だった。ただその一方で、運動の原動力には、政権への自己同一視とともに、「自分たちこそ世論である」という強い公共意識があったことは否定できない。

現実には深夜放送で視聴率が数パーセント以下に過ぎない深夜アニメがネット上ではメインストリームを形成していることに端的に表れている「現実とネットの乖離」というものは、ことこの聖戦の渦中では無視され、ネットの意見は一般市民に共通するコモン・センスなのだと信じられていた。マスコミに騙された普通の日本人ならば、真実を知らされれば自分たちと同じように「目覚める」だろうと、真実を知らしめ、本当の世論を目覚めさせることが自分たちの正義であると、固く信じられていた。

そしてこの聖戦運動は、2009年の総選挙で自民党が惨敗したことにより惨憺たる失敗に終わり、黄金期を迎えていたネトウヨはトラウマ的な挫折と屈辱を経験することとなった

「俺たちの麻生(自民)」を固く信じて戦っていたネトウヨを中心に、ネット上では圧倒的に自民支持派が優勢だったのにも関わらず、現実には類例を見ないほどの大敗北に終わり、ネット世論が単に砂上の楼閣を積み上げていただけだということがはっきり証明されてしまった。仇敵であるマスメディアの「ネットは世論に非ず」という主張が完全に真実であったことを証明してしまい、現実世界のありとあらゆるテレビチャンネルで民主党勝利のニュースが流れるたびに、いかに自分たちが裸の王様であったのか、その無力さと敗北を延々と見せつけられる耐えがたい屈辱を味あわされたのだった。

「ネトウヨ」自体は2010年代に入っても現在に至るまで存在し続けているが、かつて黄金期を築いたような「運動」としてのネトウヨはこの失敗で一気に勢いを失い、2011年の花王不買デモを最後に急速に沈下して現在は完全に埋没している。あるいは、かつての「運動」としてのネトウヨは完全に消滅したと言ってもいいと思う。

今残っているネトウヨには、かつて曲がりなりにも持っていた「公共性」というものはなく、商業的利益のために党派性を利用して囲い込まれた純粋な情報消費者しかいない。

ネット社会そのものの欠陥


牛後となることを厭って鶏口を目指した人は大勢いるだろうが、しかしそれはまず大前提として鶏に頭があればの話である、ということを忘れてはならない。

現実社会に対するカウンターカルチャーとしての意義をネットに見出す声も確かに多く存在した。しかし、結論から言ってしまうと、これは完全な見当違いだった。

何かしらのカルチャーというものが存在するには、まず何かしらの価値観というものが存在しなければならないが、。しかし、ネット上には「価値観」というものがまるきし存在しないことが今やはっきりしているからだ。

かつての私たちはネット上で、既得権益層が支配する現実メディアを「嘘つき」呼ばわりして、その価値観を旧態依然だ古臭いものだともの知り顔で否定していたけれども、しかし、一向にそれに代わる新しい価値観を自分たちが創出することはできなかったし、もっと言うなら、新しい価値観を作ろうという意思さえまったく存在していなかった。

ネットのアーリーアダプターたちのやったこと、そしてその後進らがそっくりそのまま真似たことは、単純かつ手っ取り早い「アウトサイダーアート」として、何も深いことを考えずに表社会の価値観を否定することだった。GTAを「単なる殺人ゲームじゃない、自由度を楽しむゲームだ」と言ったり、違法ダウンロードを「むしろ宣伝となって売り上げに貢献している」といったり、ロリ漫画を「表現の自由だ」と言ったり、今のアメーバTVが「テレビにできないこと」を謳いながらブスいじりや下ネタなどの「禁じ手」に手を染めることしかできないように、ルール違反をし、先人が積み上げた価値観を崩して遊ぶことだった。例にもれず、ネトウヨもまた、既存メディアや左派的な価値観の否定からくるカウンター運動の一種に過ぎない。

これらはつまり、何かを破壊し無秩序にすることの刹那的なスリルを、新しい形のコンテンツであり束縛されない自由という新しい価値観なのだと都合よく勘違い(という名の意図的なすり替えを)していただけである。「創造のための破壊」だの「価値観がないという価値観」だのという屁理屈でいくら糊塗しようと、それが単なる虚無に過ぎないという本質は、自分の経験から言ってもまず覆しようがない真実である。

このような先のない虚無主義がまかり通ったのは、「この井戸の水が枯れるはずがない」という極めて無根拠かつ無責任な楽観主義のためで、逆説的にも、ネットの敵である既存マスメディアが無限なまでに強大であればこそ、その価値観を否定して回る自分たちのアナーキーごっこが行き止まりに追い込まれるはずがないという歪な信頼があった。

だが、この既存の価値観の埋蔵量というのは思った以上に少なくて、想像以上に急速に枯渇してしまったのである。

分かりやすくネトウヨに関して言えば、民主党政権が2011年いっぱいで崩壊し、マイケル・グリーンだったか誰かがこれで日本の左派は再起不能だとコメントしたように、仇敵だった左派が自己崩壊してあっけなく跡形もなく消滅してしまったことが象徴的な出来事だった。

そしてこの場合はその後に右派傾向の強い安倍内閣の誕生とマスコミの迎合が起きた為、現実社会に否定するはずの価値観がなくなってしまう事態に直面する。その後のネトウヨ的スフィアの動向が、黄金期のように外へ向かう運動ではなく、閉じた環のなかで実在しない敵の幻像に延々と罵倒を投げつけ、コミュニティの内部でだけ価値観を循環ろ過する内向きな自己防衛に切り替わったことは、自らの根拠となる価値観をまったくの他者に依存するネットの脆さを如実に示してくれている。

※ゼロ年代の決まり文句だった「ネトウヨは今までの左翼偏向の反動」という古臭い言い回しを2018年にもなって常用している様は、まさに時が止まっているとしか言いようがない。このような時代錯誤的な言説の横行は、自己防衛のためにコミュニティを閉鎖孤立させてしまった結果、そのコミュニティの内部でだけ時間が止まってしまったことを証明している。

ネットのアーリーアダプターとその後継者たちは、新しい価値観を作れなかった。ネット上にはカルチャーと言えるものはまったく存在しない。ただ、他者の価値観を否定していい気になっていただけ。悪ガキが、教師の言葉の揚げ足取りをして授業を妨害して喜んでいるように、誰かが用意してくれる貯蓄に甘えて浪費に溺れていただけである。

そして、既存の価値観を否定しつくした後、自分たちが何も生み出せないことに気付いて、今度はなにをするかというと、別に今までとなにも変わらない。ほかに否定できるものがなくなったから次は自分たち自身を否定するのである。

スイーツ(笑)だのなんだのと、今まで表の価値観を嘲笑していたものが、今度は陰キャだ何だと言ってお互いを攻撃し始めたのがそれだった。現実とネットという対立軸は存在しなくなり、今度は自分たちの間で敵探しが始まる。

所謂ネトウヨ春のBAN祭りをしてネットにリテラシーを取り戻す光明などと論じている記事がいくつか見受けられたが、先述の意見を理由に、私はこれがリテラシーの光明だとはまったく思わない。これは単に今までの虚無主義の延長にあるものにすぎず、今まで通りの不毛で先のない否定と破壊の娯楽の一種でしかないと思うし、今までの経緯が示す通り、これもすぐに袋小路に行き当たって自傷行為を始めると思う。

価値観のない空間にリテラシーなどありようがない。今回はたまたま標的がネトウヨとなってしまっただけで、その本質が虚無である限り、何かしらの光明をもたらすことは絶対にない。

例えそれぞれ形が異なるように見える枝であろうとも、幹が同じなら、どの枝に成る実も中身はまったく同じものであるように。

虚無主義の行き着く先


「嫌儲」という価値観は、ネトウヨとならんでネット上に生み出された新たな価値観の雛だったが、それも疑似的な価値観の枠から脱する前に淘汰されてしまった。あれだけ悪魔的な響きとともに糾弾の対象とされた「ステルスマーケティング」だの「アフィブログ」だのという言葉は、もうあの時の程の熱を持って口にのぼることはない。

あれほどゲーム産業の健全な発展を阻害すると毛嫌いされたDLC商法は当然のものとなり、一部の重課金勢が回すガチャゲーが一大コンテンツとなってもてはやされている様は、ある種末期的な様相を呈しているようにしか見えない。

価値観のない虚無の支配するネット空間を満たしているのは、モラルも道徳もない商業主義と、その商業主義を認識することもできない盲目である。

皮肉を皮肉と理解できない、あるいは皮肉が皮肉になっていないというネット言論空間上の致命的な光景は、もはやこのネット世界ではマトモな思考も言語の存在しないという薄ら寒い現実を私たちに見せつけていて、そうなんだったらもう言葉を慎むか、あるいはホモビ語録でも弄っていっそのこと悪ふざけに興じていた方がマシじゃないかと心が折れてしまう。





こんな状況がいつか変わる日がくるのだろうか。

かつて情報操作をしていると言われ不倶戴天の敵とされたマスメディアの影響力もどんどん衰退していて、ネットが表の常識を否定して回った結果、「情報」や「真実」といったものはもう誰の手にも負えない化け物のように暴れまわり始めている。

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「反マスメディア」の実体さえ失ってしまったいま、ネット上の虚無主義は共食いや自傷行為に耽り始めている。こんな状況でマトモな価値観が生まれるはずがないが、それでも、いつか変わる日がくるのだろうか?

いつだったか誰かがこのブロマガのコメント欄で、「所謂2ch的な殺伐とした価値観は実は、日本社会に広く共有されていたものなんじゃないか」と書き込んでくれた人がいた。

もしこの言葉が真実であるとすれば、ほどなくして表社会もこのような汚い虚無主義に本格的に呑み込まれていくだろう。「ホンネ言える新しい社会」などというタテマエで誤魔化されながら・・・

ネトウヨ花王デモが失敗に終わって1年~2年が過ぎたころには、ネトウヨを懐かしむような時代になればこのネット世界も少しはマシになっているだろう、なんて淡い期待を持っていたかが、あの頃の「ネトウヨ」がすっかり過去のものとなってしまった今、状況はむしろ悪化しているように思える。

これから、「ネトウヨとはなんのか?」という言説や書籍が多く流行し始めるかもしれない。だがそれは、ネトウヨの異常性に気が付いたとか、ネトウヨ研究が進んだとか、そういうことではない。みんながこの異常なネトウヨという現象に向き合おうと思い始めたとか、そんな前向きなことでは決してないと思う。

それは単に、「ネトウヨ否定」というコンテンツを消費しなければならなくなったほど、虚無主義が浸透して世間が悪食になったということだと思う。

こんな頭の痛くなるような状況がどうやって変わり得るか私には想像できない。

もしかしたら、状況を変えてしまうような価値観は、日本社会がこのまま縮小していって、コンテンツを自給自足できなくなり海外からの輸入に頼り始めたとき、その流れに乗って外部から新たにやってくるのかも・・・しれない。少なくとも、閉じたコミュニティから自発的に生まれるのを期待するのは、かなり難しいのではないか

(了)

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他247件のコメントを表示
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これを「パヨクの遠吠え」で片付けられる知性の低さに嫉妬するわ
28ヶ月前
×
気に入らない主張に知性が低いとレッテル貼りする図太い精神に嫉妬するわ
28ヶ月前
×
>>263
気に入らない主張じゃなくて「中身がほとんどなく、記事を読んでいないことが明らかな程度の低いレス」だろ?
そんなレスをする奴が賢いとは思えんし、そら知性が低いと言われるわ
悔しいなら、記事の内容を具体的に指摘して反論して、どうぞ
28ヶ月前
×
読んでないけど、ネトウヨが否定されるようになったのは韓国の話ばかりしているからだぞ
ぶっちゃけ、普通の日本人はネトウヨほど韓国に興味ないから・・・
常識的に考えてアニメにハングルが写って発狂したりとか頭おかしいことしまくったからね
嫌われて当然
27ヶ月前
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>>265
普通の日本人を自称する媚韓リベラルだなそれ
26ヶ月前
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ネトウヨの本質は日韓W杯での偏向報道などを端緒に2ちゃんねらーを中心に高まった「既存メディアの価値観を疑いネットに真実を求める」という機運であり、右翼という属性自体は付随的な要素でしかないと認識しています。

以前のネトウヨ予備軍層の大半は現在はN国党を支持しているのではないでしょうか。
23ヶ月前
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定期的にこの記事のコメント蘭見に来るのすき
23ヶ月前
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つまり、ネトウヨネトサヨはまずネット民であって、その他の一般人とは現実的契機の差異によって区別可能なものであると言える。
現実的契機とは、匿名とは逆の特定性だけではなく、社会通念、社会常識、対話可能性、最低限の読解力、最低限の教養、法律などの実務との接続性、などがある言説の有無であると言える。
だがネット民はまずネット民であって、意識的にせよ、無意識的にせよ、現実的契機を否定することから始まっているため、一般人や社会や世間からの「ネトウヨ」「ネトサヨ」というラベリングに対して、そのようなラベリングが為される現実的契機を理解できない。
司法においては「ネトウヨ」という言葉は「キチガイ」に似た評価を受けているのだが、ネトウヨネトサヨネット民はそれらの現実的契機を受け入れることができない。
20ヶ月前
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>「反マスメディア」の実体さえ失ってしまったいま、ネット上の虚無主義は共食いや自傷行為に耽り始めている。
>それは単に、「ネトウヨ否定」というコンテンツを消費しなければならなくなったほど、虚無主義が浸透して世間が悪食になったということだと思う。

虚無主義というよりは冷笑主義だと思うんだけども、これはツイッター初めてからなんとなくわかるようになったんだよね
ネット上や現実世界の他者にそういうものが浸透しているというだけではなくて、程度の差はあるにせよ自分だって毒されているんだよ

シニシズムや兄貴の言うところの虚無主義から決別しなきゃならないとは思うけど、周囲にそれを期待するのは難しいから自分ひとりでやるしかないんでしょうね
20ヶ月前
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兄貴が主張したかったことはネトウヨ批判でもパヨク批判でもなく、ネットに蔓延る「虚無主義への警鐘」なんだよなぁ…
15ヶ月前
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