「VTuber 戸定梨香に人格がある」という主張は、表現者の自由を奪う
千葉県の松戸警察署が、ご当地で活躍するVTuber(バーチャルYouTuber)、戸定梨香(とじょう・りんか)さんが出演する自転車の交通安全を啓蒙する動画を9月10日までに削除した。
この動画は8月から公開されていたが、8月26日に「全国フェミニスト議員連盟(以下、全フェミ議連)」が松戸警察署や松戸市教育委員会などに宛てた公開質問状のせいで削除されたとして騒ぎになっている。
質問状の中で全フェミ議連は、戸定梨香さんが性的対象物として描写されているとしており、これに対してネットで「言いがかりだ」「フェミが女性の仕事を奪った」として批判が強まっていた。
自転車の交通ルールを説明するVTuber(バーチャルYouTuber)戸定梨香(左)。右は「松戸市応援ゆるキャラ」の「ばけごろう」=2021年7月、動画より
さてこの問題。論点は複数あり、どれを取り上げてもかなりの議論になるのだが、ここでは全フェミ議連を批判する側から出ている「VTuberにも人格がある」という主張を取り上げたい。
その主張によると、VTuberはいわゆるキャラクターとは異なり、一人の人間のアイデンティティと密接に結び付いていることから、人格があるというのである。
VTuberとは、見た目である3Dの「アバター」と、そのアバターを使って様々な動画を発信する「中の人」、つまりキャラクターの演者・運営者の組み合わせである。
キャラクターは作品の中でストーリーなどを進めるという目的を持って、作者によって生み出される存在であるが、VTuberはその多くが生配信などを通してファンと直接的に交流する立場にいる。そのために、おしゃべりなどの主な表現は中の人のアイデンティティを強く内包しており、極めて属人的である。
キャラクターを人間扱いすることの矛盾
VTuber(バーチャルYouTuber)は全国自治体で活躍している。「キミノミヤ」と招き猫のポーズをとる大村秀章愛知県知事=2019年3月
ではアバターと中の人が不可分かと言われるとそうではない。
VTuberとして一般的にも知られている「キズナアイ(Kizuna AI)」は、かつて中の人が複数人制になったことがある。
キズナアイとしての新たな表現や活動を志しての分裂だったのだろうが、ファンからは極めて不評で、当初から担当していた中の人が活動を終了するのではないかという憶測が飛び交うなどの騒ぎとなった。
結局、分裂したキズナアイたちは、キズナアイとは異なるアバターとなり、別のVTuberとなることで、この問題はようやく収束したのである。
キズナアイの事件は、VTuberのファンがアバターと中の人を密接に結び付けて考えているということを明確に示している。
しかしその一方で、アバターと中の人が一対であり不可分な関係性だというのは、VTuberのアバターひとつに中の人ひとりという、現在主流な運用形態から見た言い分に過ぎないということも示している。
故に本質的にはVTuberのアバターには人格は存在せず、VTuberの人格とは、その時点でしゃべりや操作を担当している中の人の人格でしかないのである。
何より僕が「VTuberにも人格がある」という主張に懸念を示すのは「表現の自由」という問題に大きく関わると考えているからである。
2010年、東京都の青少年健全育成条例の改正案に「非実在青少年」という言葉が出てきたことがある。「非実在青少年」は「年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの」と定義された。
改正案に対して表現の自由を守ろうとする人たちは、非実在青少年の定義が曖昧であり、恣意的な運用に繋がるなどとして、改正案に反対したのである。
このときに反対の理由として明確だったのは、マンガやアニメのキャラクターに、現実の人間の尺度を当てはめるのは強引すぎるということである。それこそ「大人になっても人間の子供に見える姿の種族」として描かれる50歳くらいの女性キャラクターの性交シーンは、果たして非実在青少年の性交に当てはまるものだろうか? すなわち、マンガに描かれたキャラクターを人間と同じようにみなして扱うこと自体がナンセンスであり、創作物の幅広い表現を、狭い現実に押し込める「分かっていない改正案」として批判されたのである。
ところが、今回の件では「VTuberには人格がある」と、VTuberが好きな側の人たちが言い出している。つまり「キャラクターを人間扱いしろ」というワケだ。
しかし、キャラクターを人間扱いすれば、かつて表現の自由を守るために主張したことがすべてひっくり返ることになる。
アバターと「中の人」が固着する不自由
DKai/Shutterstock.com
現在VTuberは映像や音声に関わる様々なコンテンツで活躍しているが、中にはアダルトコンテンツを提供するVTuberもいる。その姿は年長から幼女まで幅広く、当然未成年と思わしき容姿のVTuberもいる。
未成年の見た目をしたVTuberがアダルトコンテンツに参加しても問題視されないのは、あくまでも「参加しているのは成人である中の人であり、VTuberはどのような見た目であっても、あくまでもアバターでありキャラクターに過ぎない」という前提があるからだ。
しかしこれがVTuberに人格があるとすれば、未成年相当であると見なされるVTuberは「保護」の対象であると考えられるようになる。VTuberに対する健全な育成や虐待表現の抑止がVTuberを有する事務所や中の人に課されることとなり、アダルト等の未成年者にふさわしくないコンテンツに出演することは厳しく制限されることになるのである。
現在、VTuberが好きな姿のアバターを使って自由な表現ができるのは、あくまでもVTuberに人格が存在しないと見なされているからだ。まるで着ぐるみを着脱するように、事務所や中の人が自由にVTuberのアバターを利用してもいいはずである。
しかしVTuberに人格があると多くの人に認識されれば、VTuberはアバターを着替えることができなくなってしまう。アバターと中の人が一対の存在として固着してしまうのである。僕はそれはとても不自由なことであるように思う。
そもそも「VTuberにも人格がある」という意見は、VTuberに対する共通認識というよりは、質問状を出した全ファミ議連に対して「お前たちはVTuberのアバターを批判したのではなく、VTuberという女性の人格そのものを傷つけたのだ」と非難するために作り出した詭弁であると僕は考えている。
そのような一時的な詭弁が多くの人に共有されることによって事実であるかのように認識され、いずれは表現者の自由を奪い、その首を絞める可能性を感じずにはいられないのである。(赤木智弘 フリーライター)