今回は結構重めな印象のフェミニズムの本です。文庫化されているので重量は軽いんですけどね。
本書は1985年に単行本として出版されたものを文庫化し、新たに1つの章を追加したものです。85年というと今から40年近く前でしょうか。相当古いものであり、普通なら学術書でこんなに古いと内容も古びてしまい、古典としての機能しか残らなくなると思います。
しかし、残念ながら、本書の指摘は未だに有効であり、全く古びていません。それはいいことではないのでしょう。とはいえ、だからこそ、本書が手に取りやすいかたちで再び世に出た意味があるというものです。
具体的にどこでそう感じたのかを言語化するには私の能力がいささか不足していて難しいのですが、これは全体的な印象です。そして、それこそがフェミニズムを含む人文学、あるいは心理学にも共通する社会科学の魅力なのではないかと思います。
私は本書を読んでいる途中に上のような感想を投稿しましたが、本書を読了したあとも同様の感想です。常識というのは目に見えないかたちで社会の中に溶け込んでおり、その中に性差別も入っています。そうした問題と向き合うには、言論を用いて目に見えるかたちに差別を切り出して社会に提示する必要があるのです。
しかし、言論はそれでも、目に見えない人にとっては見えないものです。例えば昨今問題となっているVTuberの問題でも「性的搾取だという『データ』を示せ」という支離滅裂な主張を私にする人が相当数いますが、こういう人たちにとって目に見えるものは「データ」だけなのです。ですから、データで示しえない女性差別はどこまで言語化しても彼らの目には見えません。
こうした問題にどのように対応すればいいかは、私も答えを持ち合わせていません。普通なら、こんな無能力な人は放置すればいいということになるところですが、性差別に関しては日本の中枢がこのレベルですからね。
私としてはうんざりすると同時に、目に見えないものを言論で可視化することの面白さが理解できない人生は非常にもったいなく、味気ないものだなという憐れみも感じるところです。
著者によれば、からかいには2つの意味指定があります。1つは、からかうことによってその言説が真面目なものではなく、遊びの中に含まれるものにすぎないという意味合いを指定することです。通常、真正面から誰かを攻撃すれば攻撃した側が非難されます。しかし、からかいの中に攻撃を隠すことによって、そうした非難を回避しつつ攻撃をすることが可能になるのです。
また、遊びとして攻撃することで、攻撃対象を真面目に相手にする必要のない劣位の者であるという印象をつける効果もあります。例えば、先ごろハラスメント行為を告発された某ラーメン評論家がふざけた調子の釈明を公開していましたが、これは不真面目な態度をとることでその問題が些細なものであると印象付ける狙いもあると言えるでしょう。
もう1つの意味合いは、からかいが匿名性を帯び、一般論かのように見えるというものです。著者によれば、からかいの多くは伝聞形式をとります。例えば、ミソジニストがフェミニストを「ブス」と罵るとき、そこには「俺がお前をブスだと思っている」という直接的で限定的な意味よりは、むしろ、「みんながフェミニストをブスだと思っている」というぼんやりとした思惑があります。からかいが攻撃を間接的に行おうとする行為であると考えれば、当然ともいえる機能でしょう。
こうしたからかいは男性社会から女性へ向けられることの多いものですが、実のところ、男性社会におけるからかいの機能については、先日書評した『「非モテ」からはじめる男性学』も触れていました。そちらの著者は、からかいが不真面目な体裁をとることで非難を回避することを指摘していました。いわゆる「ネタにマジレス」のようなもので、からかいに真面目に対応することがその集団の輪を乱すような意味合いとして取られ、それがさらにからかう理由になってしまうというものです。
本書の最初の出版は1985年であり、『「非モテ」からはじめる男性学』の出版が2021年です。まったく時代の異なるジェンダー論の書籍がその双方で「からかい」について述べているのは、極めて興味深いことだと思います。
男性社会の病理を解き明かすヒントは、もしかしたらここにあるのかもしれません。
本書は1985年に単行本として出版されたものを文庫化し、新たに1つの章を追加したものです。85年というと今から40年近く前でしょうか。相当古いものであり、普通なら学術書でこんなに古いと内容も古びてしまい、古典としての機能しか残らなくなると思います。
しかし、残念ながら、本書の指摘は未だに有効であり、全く古びていません。それはいいことではないのでしょう。とはいえ、だからこそ、本書が手に取りやすいかたちで再び世に出た意味があるというものです。
論理の力で妖怪を暴き出す
本書で特にインパクトがあるのは、個々の章や部分というより、むしろ全体を通じた著者の姿勢ではなかろうか、というのが私の感想です。その著者の姿勢というのは、社会に潜む曖昧で「普通だ」と考えられている様々な物事を、言葉と論理の力で暴き立て、日のもとに引きずり出して叩きのめすというものです。具体的にどこでそう感じたのかを言語化するには私の能力がいささか不足していて難しいのですが、これは全体的な印象です。そして、それこそがフェミニズムを含む人文学、あるいは心理学にも共通する社会科学の魅力なのではないかと思います。
私は本書を読んでいる途中に上のような感想を投稿しましたが、本書を読了したあとも同様の感想です。常識というのは目に見えないかたちで社会の中に溶け込んでおり、その中に性差別も入っています。そうした問題と向き合うには、言論を用いて目に見えるかたちに差別を切り出して社会に提示する必要があるのです。
しかし、言論はそれでも、目に見えない人にとっては見えないものです。例えば昨今問題となっているVTuberの問題でも「性的搾取だという『データ』を示せ」という支離滅裂な主張を私にする人が相当数いますが、こういう人たちにとって目に見えるものは「データ」だけなのです。ですから、データで示しえない女性差別はどこまで言語化しても彼らの目には見えません。
こうした問題にどのように対応すればいいかは、私も答えを持ち合わせていません。普通なら、こんな無能力な人は放置すればいいということになるところですが、性差別に関しては日本の中枢がこのレベルですからね。
私としてはうんざりすると同時に、目に見えないものを言論で可視化することの面白さが理解できない人生は非常にもったいなく、味気ないものだなという憐れみも感じるところです。
からかいの政治学
そして、本書には著名な(?)「からかいの政治学」も含まれてます。この論考はフェミニストが直面してきた「からかい」の構造と機能を解き明かしており、この章だけでも読んでおくべきではないかというくらい重要なものになっています。著者によれば、からかいには2つの意味指定があります。1つは、からかうことによってその言説が真面目なものではなく、遊びの中に含まれるものにすぎないという意味合いを指定することです。通常、真正面から誰かを攻撃すれば攻撃した側が非難されます。しかし、からかいの中に攻撃を隠すことによって、そうした非難を回避しつつ攻撃をすることが可能になるのです。
また、遊びとして攻撃することで、攻撃対象を真面目に相手にする必要のない劣位の者であるという印象をつける効果もあります。例えば、先ごろハラスメント行為を告発された某ラーメン評論家がふざけた調子の釈明を公開していましたが、これは不真面目な態度をとることでその問題が些細なものであると印象付ける狙いもあると言えるでしょう。
もう1つの意味合いは、からかいが匿名性を帯び、一般論かのように見えるというものです。著者によれば、からかいの多くは伝聞形式をとります。例えば、ミソジニストがフェミニストを「ブス」と罵るとき、そこには「俺がお前をブスだと思っている」という直接的で限定的な意味よりは、むしろ、「みんながフェミニストをブスだと思っている」というぼんやりとした思惑があります。からかいが攻撃を間接的に行おうとする行為であると考えれば、当然ともいえる機能でしょう。
こうしたからかいは男性社会から女性へ向けられることの多いものですが、実のところ、男性社会におけるからかいの機能については、先日書評した『「非モテ」からはじめる男性学』も触れていました。そちらの著者は、からかいが不真面目な体裁をとることで非難を回避することを指摘していました。いわゆる「ネタにマジレス」のようなもので、からかいに真面目に対応することがその集団の輪を乱すような意味合いとして取られ、それがさらにからかう理由になってしまうというものです。
本書の最初の出版は1985年であり、『「非モテ」からはじめる男性学』の出版が2021年です。まったく時代の異なるジェンダー論の書籍がその双方で「からかい」について述べているのは、極めて興味深いことだと思います。
男性社会の病理を解き明かすヒントは、もしかしたらここにあるのかもしれません。