第5講のまとめ
DV家庭では、子どもに対する虐待が併存する場合もあれば、子どもがDVに加担する場合もある。家庭にあるDVに、無関係な子どもなんていません。
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【第6講】DV家庭でみられる特徴的な虐待ー教育虐待と性虐待
1 DV家庭でみられる特徴的な虐待その1-教育虐待
DV家庭から避難できた子どもたちの中に、回復の早い子どもと、遅い子どもがいます。色々な要因があるので一概に言えませんが、傾向として、差別的な発言の多い親から精神的虐待を受けた子どもの後遺症がひどいなぁと思います。「教育虐待」もその例に入ります。差別的な言葉は、子どもに直接の向かわなくても、子どもの心を蝕みます。学校のいじめや、職場のパワーハラスメントがある時に、本人は気づいていなくても、周囲で見ている人の心を傷つけるという現象がそれです。
パワーハラスメントの裁判例では、上司のパワハラが直接自身に向けられたものでなくても、そのような上司の下で働くことそれ自体による心理的負荷があると認めたものがあります。
「部長の部下に対する非難や叱責等は、課長に向けられたものではなかったといえるが、自分の部下が上司から叱責を受けた場合には、それを自分に対するものとしても受け止め、責任を感じるというのは、平均的な職員にとっても自然な姿であり、むしろそれが誠実な態度というべきである。」という認定がされています。
昨日の講座で、面前DVは、子どもに対する「直接の虐待」であるという話をしました。
自分に直接の暴言が向かわなくても、一方が他方に対して、「頭膿んでんな」、「バカなの?」、「俺と同じだけ稼いでから意見言ってくれる?」、「ママは頭が悪いから似なくて良かったよ」、などという差別的な言葉によるDVを目撃することで、子どもの心は壊れます。それは、きょうだいでも同じで、きょうだい間で差別がある場合に、溺愛されている子どもの方が、差別されている子どもよりも傷ついているという例をいくつも見てきました。
いじめやパワハラの事件をやってきた経験からも、いじめられているから傷つくという単純なことではなく、加害者が自己保身のために他人を蹴落とす醜悪さを身近に感じたときに、いやがおうでも生じさせられてしまう心の傷つきがあります。否定的な価値観や感情がむき出しにぶつけられ、人権が尊重されないことを見せつけることが、子どもの心を壊しているように感じます。自分が何もできない無力さを超えて、自分も加害に加担しているのではないかと感じたと説明する子どもを何人もみてきました。前述の判例の言葉を借りれば、「誠実な態度」への毀損なのかもしれません。その原理についてはもやっとしていて上手く説明ができませんが、実態としてそうだということをお伝えしています。「子どもに対する直接の暴力がないから虐待ではない」、という考え方を改めないと、この国にまん延するモラハラ文化は改まりません。そのことは何度でも言いたい。
そして、「差別」を見せつけることが子どもの心を壊すという事実は、その差別が家族に対してではなく、第三者に対するものであっても、時として重篤な被害をもたらします。その最たるものが「教育虐待」です。「教育虐待」とは、教育を理由として、子どもに理想を押し付け子どもに無理強いをする心理的虐待のことですが、教育虐待は、「自分だけを特別と思いたい自己保身の病」であるという意味でも、家族のメンバーに対する過干渉という意味でも、DVと非常に親和的です。
「教育虐待」の一番の問題点は、他者への差別的言動を伴うというところにあります。具体的には「学歴のない人間は話通じない」、「使われる側の人間になりたくないだろ?」、「偏差値の高い学校に入らないと人生詰むぞ」などの差別心剥き出しの発言がそれに当たります。常に差別的な言動を吐きまくっているような親に育てられると、その言葉が直接に子どもに向けられたものでなかったとしても、加害者の有していた差別のモノサシが後々まで抜けません。愛されているように見えても、一旦バカにされる対象となれば、軽蔑されてしまうのだろうという不安が常につきまとい、別居後においても、勉強しようとすると頭が痛くなるとか、難しいことが考えられない、寝る時に叫び出すなどの症状が出たりしています。
やっかいなことに、「教育虐待」は、表面上は子どもの勉強を見てあげている育メン気取りが多いのが特徴で、加害者は、加害意識を持ちにくいように思います。「夫婦仲は悪かったが、子どもからは慕われていた」などと言って、子どもが書いた「いつも勉強をみてくれてありがとう」などの手紙や一緒に解いたワークブックなどが証拠提出されたりします。また、子どもを手段とする自己実現となっているような場合には執着心も大きく、親子間ストーカーになりやすい類型でもあります。「教育虐待」をしていた人が、学費を出すことを条件に、面会交流を要求するようなことも、子どもの心を壊し続けます。別居により、子どもが子どもらしさを取り戻す過程で、不登校になったり、成績が下がったりすることも多く、「やっぱり自分が見てあげないとダメなんだ。」と思い込みますが、同居中に傷ついた子どもが、別居により、ようやくその傷を表に出せるようになったと見るべき事案が多いことは世の中にもっと知られてよいと思います。
2 DV家庭でみられる特徴的な虐待その2-性虐待
DV家庭で見られるもう一つの重大な虐待は、性虐待です。同じ家庭で、男児へ「教育虐待」、女児へ性虐待というケースも多いです。性的な支配は、支配の最終形態。DV加害者の性虐待は、性的興奮を得るという側面だけでなく、支配欲を満たすという傾向を併せ持ちます。幼少期は性虐待の意味が分からず、可愛がられている、気に入られていると捉えてしまい発覚が遅れます。理解したら理解したで、恥ずかしさから申告することができません。そういうことを分かって加害が繰り返されています。
性虐待は、継父によるものが多いと思われるかもしれませんが、実父によるものも多いです。実父だと発覚しにくい面もあります。
・・・要するに、「男性から女児への性虐待が多い」。
先進国でも何でもない。そういう国だということを全国民が自覚して欲しいと思います。性虐待の裁判に興味本位の傍聴人が湧いてくるため、時間のある弁護士で傍聴席を埋める呼びかけがされることがあります。情けない…。性虐待の事案は、詳細に報道すれば性的に消費され、伝えなければ事件を誤解されてしまう。そう、これが、ジェンダーギャップ指数120位の国の等身大の実情です。
以下、具体的な話をするので、フラッシュバックが心配な方はここまでで止めておきましょう。(なお、守秘義務に触れないよう事案の特定を避けるため、ディテールは変えています。)
幼い女児の性器のみをアップで写真撮影したり、お風呂で父親の性器を女児に洗わせたり、父親が娘の口に舌を入れてキスをしたり…。性行を含むものについては、子どもが言い出せず、長期間継続してしまいます。口止めされている場合もありますし、そもそも何が起こっているのかがわからない場合もあります。父親に気に入られていた子どもが、何でこんなに面会交流を拒むのだろうと不思議に思っていたら、後に性虐待があったことがわかるということがあります。
にっこり笑って撮影された父親との恋人同士のような写真。わたしがお父さんを傷つけてるかもしれないと悩む日記。実父からの性虐待も本当に多い…。「娘は楽しそうにしていた」、「娘から誘ってきた」。そんな鬼畜みたいなことが、普通に、誰にも気付かれずに起こっていることは各地のフラワーデモでも、幾つもの声が上がっていました。
性交を含む性虐待が発覚している面会交流事件で、調査官から、「直接面会できないのは無理からぬことだと思います。間接交流から始めてみるのはどうでしょう?」、「虐待があったからこそ離婚後に修復できたら子どもの力になると思うのです」と言われた時に、この国の司法は面会交流宗教に取り憑かれてるということを思い知り、絶望しました。真面目で実力のある調査官です。「どんな親でも親は親」、「両親に愛されることが子どもの幸せ」という考えは有害です。何度も言ってきましたが、離婚後の子どもの最善の利益のために、誰がどの程度監護養育に関わるかは、「メンバーによる」。関係が悪化している家族関係を修復するメリットがあるのは加害者だけです。
お風呂で陰茎を5歳の娘に洗わせていたというような事案の審判で、裁判官が「その時、お子さんは嫌がってたのですか?」と質問したり、相手方代理人が「冗談でやっており、娘も喜んでいた」と主張することもありますが、意味が分かりません。その事実に当事者間に争いがなく、子どもは現時点では父を慕っているという時、面会交流が認められかねないのが今の家裁の実務です。
父子の仲が良かったのに、別居後に面会交流を拒むようになると、監護親が悪口を吹き込んでいるなどと言われるのが家裁の実情ですが、同居中には加害者からの抑圧で言い出せなかった苦しさを、別居後しばらくしてからようやくポツリポツリ話し始める子どもの心理は誰が守りますか?
どうしてこんなに拒否感が強いのだろう。外出するのにも怯えて、小学生にもなるのに母親から離れることへの不安を口にして登校をしぶるようになり、心療内科に通うようになり半年後、お風呂で股の部分を開かされたり父親の股間が顔の近くに寄ってくるのが嫌だったと話し始めました。子どもは調査官にも頑張って話したけれど、調査報告書には一行「お風呂に一緒に入るのも嫌だった」と記載されただけ。調査官はこう言いました。「見ていたわけではありませんから」そして、「どんな父親でも、お父さんはお父さん。両親が仲良く、愛されるほうが子どもにとって幸せです」。
フラワーデモのきっかけともなった、実父による性虐待が無罪となった名古屋地方裁判所岡崎支部の事件の控訴審で、名古屋高等裁判所が逆転有罪としたときに、被害者のコメントを引用します。「今日、ここにつながるまでに、私は多くの傷つき体験を味わいました。信じてもらえないつらさです。子どもの訴えに静かに、真剣に耳を傾けてください。そうでないと、頑張って一歩踏み出しても、意味がなくなってしまいます。子どもの無力感をどうか救ってください。私の経験した、信じてもらえないつらさを、これから救いを求めてくる子どもたちにはどうか味わってほしくありません。」
お風呂場で嫌なことをされたという申告をきいて、真実が分からないという裁判所。しかし、主治医は、「やっとここまで言えたのかもしれない。もっと重大な被害があるかもしれない。症状が重すぎる」と指摘しました。そして、このことが発覚しなければ、私は子どもに面会を頑張ろうと明るく励ましていた可能性がありますが、これは加害行為にほかなりません。 大人は、子どもの拒否感にもっと耳を傾けるべきだと思います。片親疎外の考え方は、子どもの訴えを軽視する枠組みです。そして、親に会いたいと述べた子どもには、「本当なの?遠慮してない?」などという確認は決してされません。
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本日は以上です。この講座も残すところあと1回。
今日も、お読みいただき、ありがとうございました。