古典『増鏡』 現代語訳よろしくお願いします。 また①②は問題がカッコ抜きになっていて分からない箇所です。 この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、すぐれたる限りをえらばせ給ひて、
古典『増鏡』 現代語訳よろしくお願いします。 また①②は問題がカッコ抜きになっていて分からない箇所です。 この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、すぐれたる限りをえらばせ給ひて、 その道の聖たち判じけるに、院も加はらせ給ひながら、「猶このなみにはたち及びがたし」と卑下せさせ給ひて、 判の詞をばしるされず、御歌にて、優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へる、なかなかいと艶に侍りけり。 上のその道を得給へれば、下もおのづから時を知る習ひにや、男も女も、この御代にあたりて、よき歌よみ多く聞え侍りし中に、 宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣に聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官浅くて、 うち続き四位ばかりにて失せにし人の子なり。 まだいと若き齢にて、そこひもなく深き心ばへをのみ詠みしこそ、いとありがたく侍り①。 この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなん。かまへてまろが面起すばかり、よき歌つかうまつれ」と仰せらるるに、面うち赤めて涙ぐみてさぶらひけるけしき、限りなき好きのほど、あはれにぞ見えける。 されその御百首の歌、いづれもとりどりなる中に、 薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え 草の緑の濃き薄き色にて、去年の古雪遅く疾く消えける程を、推し量りたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひよりがたくや。 この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなん。 かくて、この度撰ばれたるをば②といふなり。元久二年三月廿六日、竟宴といふ事を、春日殿にて行はせ給ふ。 いみじき世のひびきなり。かの延喜の昔思しよそへられて、院御製、 いそのかみ古きを今にならべこし昔の跡をまたたづねつつ 摂政殿、 敷島や大和こそ葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり つきづき順流るめりしかど、さのみはうるさくてなん。
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『増鏡』一「おどろの下」 以前同じご質問にお答えしたことがありますので、加筆して転載します。 (後鳥羽院が、)この撰集(新古今集)より前に、千五百番の歌合 (*建仁元年、後鳥羽院が催した歌合。当時の代表歌人三十人を選んでそれぞれ百首ずつ詠ませて、千五百番とした。これに選ばれることは大変な名誉だった。) をおさせになった時も、よりすぐりの歌人をお選びになって、 その(和歌の)道の名人たちが優劣を判定したが、後鳥羽院も(判者として)御参加なさったけれど、(院は)「(私は)やはりこの(名人たちと)同列ではいられない」とご謙遜なさって、判定の詞をお書きにならず、御歌で、優劣のお気持ちだけを表現なさったのは、(判詞を記すより)かえってたいそう風流であった。 上の方がその道に優れておられれば、下の者も自然と時流に合うものだからだろうか、男も女も、この(後鳥羽院の)御代にあって、優れた歌人が多く伝わっている中に、 宮内卿の君といった(女性歌人)は、村上天皇の御子孫で、俊房の左大臣と申し上げた方の御末裔なので、もともとは高貴な血筋の人だが、官位が低いままで、四位ぐらいで亡くなった人の娘である。 まだたいそう若い年で、底知れない深い心情だけを詠んだのは、たいそう珍しいことであった。【① 「こそ」につく係り結びで「侍れ」】 この千五百番歌合のとき、後鳥羽院が(彼女に)おっしゃるには、 「このたび(私が選んだ歌人)は、みんな世間に(第一人者と)認められた老練な歌人たちである、宮内(おまえ)はまだ(若くて)ふさわしくないかもしれないが、それでもかまわないと思ったから(おまえを選んだのだ)。がんばって(お前を選んだ)私の面目が立つように、良い歌を詠んでくれよ。」 とおっしゃるので、(彼女は、感動で)顔を赤らめて、涙ぐんでいた様子は、この上なく(歌の道に)心を打ち込んでいるふうなのが、感心なことと見えた。 さて、その(時詠んだ)百首の歌は、どれもそれぞれ(名歌)だった(その)中に、 薄く濃き……薄い緑や濃い緑に野辺の若草がむらむらに萌え出している様子に、降り積もった雪がむらむらに融けている跡が見える 草の緑の色の濃淡で、去年積もった古い雪の融けるのに遅いのや早いのがある様子を、推しはかった趣向などは、未熟な人は、決して思いつけないだろう。 この人が、年をとるまで生存していたならば、まことに、どんなにか、目に見えぬ鬼神さえ感動させたであろうに(*『古今集』仮名序のことばを引用)、若くして亡くなったことは、たいそう気の毒で惜しいことだ。 こうして、この時撰ばれた勅撰集を【②新古今】といいのである。元久二年三月廿六日、竟宴(*講義や編纂が終ったときに催される宴)という事を、春日殿にて催された。 すばらしい聖代の盛事であった。あの(聖代といわれ、『古今集』が完成した醍醐天皇の)延喜の昔を思いなずらえられて、 後鳥羽院の御製、 いそのかみ……古い歌と今の歌を並べてきた、昔の『古今集』のあとをたどりながら(『新古今集』を完成させた)。 摂政(藤原良経)殿、 敷島や……大海のような多くの大和言葉の歌の中から、選んで拾い集められた玉(秀歌)は、さらにみがかれました。 (同じ趣旨の歌が)つぎつぎと詠まれたようだが、全部書くのはわずらわしいので(省略する)。 *宮内卿は、生没年ははっきりしないが、二十歳そこそこでなくなったらしい。
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質問者からのお礼コメント
ありがとうございます!
お礼日時:2012/2/5 10:00