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人権意識が高い勇者

作者:4kaえんぴつ

「したがって、僕は君にインターンを引き受けてほしいんだ」

「はぁ、それは何とも急で……しかし高等部一年生に頼むとは、正気ですか?」


 魔術学専門高等学校、魔導学科の研究室は建物の二階にある。

 他学科に比較してかなり在籍生徒数の少ない魔導学は端へ端へ、小さく小さく年々と追いやられていっているのが悲しい現状だ。そんな狭苦しく埃臭い、しかし、どこか穏やかな陽気が差し込む研究室の執務机に座した初老の男性、モーリッツ先生は、対峙する女生徒の飾らぬ物言いに苦笑した。


「僕は君を高く評価してるんだ、リザ・エッゲルト君。明確な実績も無く将来性も薄い――学校だけでなく世間からそう評価された魔導学の輝かしい未来を、君の向こう側に見た」


 モーリッツは手元の書類をリザへと差し出す。

 リザと呼ばれた、真面目そうな印象を受ける栗色長髪の女生徒は、受け取った書類を、目を細めて読み上げる。目が悪いということはないのだが、癖のようなものだった。


「『豊かな想像力と柔軟性、そして吸収力を持った幼少期の子供に魔術の専門教育を実施することで、より柔軟な思考を持った少年期に、既存の魔術を土台に敷いた高度な研究をすることができるようになる。対象は非常に高い魔力保有量を持つ、六歳から十二歳までの子供。期間は指導開始から四年間。ついては、各魔術学の研究者から数名、指導者に相応しい人物を任命していただきたい――魔術省』」


 読み上げたリザは怪訝そうに眉を顰め、「魔術省?」と繰り返した。


「もしかしてこれ、学校主体のインターン制度じゃなくて……」

「ああ、お察しの通り、国からの要請だよ。魔導学の権威だって僕の所に来たんだ」

「本当に買い被ってくれますね。勘弁してください」


 満面の笑みを浮かべるモーリッツの言葉に、リザは苦笑を返す他には無かった。


 『魔術』――それは科学的に解明されてきた世の中の法則を逸脱する、決して科学とは交わらない存在。大気中の不可視非実体の魔素と呼ばれる新元素に特定の手段で指向性を与えることにより、科学の範疇を逸脱した『神秘』を授ける行為の総称だ。


 対する『魔導』とは、その名前の通りの『魔術』を『導く』行為を示す。

 より詳しく説明するのであれば、魔導とは、交わらないとされた科学と魔術を仲介する魔術のことだ。既存の現代科学に魔術の力を乗せることで、その相乗効果を期待するというもの。ただし、科学と魔術を交えるからこそ、科学的常識の範疇に囚われないという魔術の性質を科学という蓋で抑圧してしまう。将来性は正直、薄いだろう。


「買い被りじゃないよ。現実的な話、君の成績はこの学校で歴代最高を叩き出している。『こんな話』が飛んでくるような研究者の僕がそう断言をするんだから、事実だ」

「成績が良いのと指導者として適切かは別の問題ですよ。私が休日に何をしているかご存じですか? 同年代が町で楽しく遊びまわってる中で、薄暗い研究室に引きこもってカフェインドバドバの珈琲片手に文献とにらめっこをしているんです」

「愉しそうじゃあないか」

「ええ、愉しいですよ。それが問題なんです」


 快活に笑うモーリッツの感想を肯定して、リザは「そんなことに悦を見出してる世間知らずの十六歳の女が、年頃の子供に何を教えられるって言うんですか」と参ったような表情で目を瞑り、嘆息混じりに続けた。

 その言葉には理があると判断をしているのだろうか、「それもそうなんだけどね」と、肯定をした上でモーリッツは反論をする。


「優れた研究者はアウトプットにも長けているべきだというのが僕の持論だ。たとえ宇宙の法則を全て導き出したとして、それを当事者以外が誰も理解できないのなら、世間的にその研究は評価をされない。分かるね? これは君のインターンでもある」

「研究者になれと?」

「ならなくてもいい。魔導学科卒業生たちの進路は数多く多岐に渡る。それに、なにも研究者になれと言い切るつもりは無いよ。ただ、どちらにしてもこの経験は無駄にならないと思うんだ。僕は君に、この経験を活かして羽ばたいてほしい」


 「先生の我儘という解釈でよろしいでしょうか」とリザが額に手を当てて唸ると、「そうなるね」とモーリッツは穏やかに微笑んだ。悪びれる様子も無いが、かといって咎められるほど彼に反抗心を抱いている訳でもない。


 元々、リザ・エッゲルトは孤独であった。

 十二歳の頃、両親の蒸発により生きる手段と目的を見失っていたリザは、彼の紹介により働き口を得て、彼の教えによって新たな世界を切り開けた。高等学校に限った話ではない恩義が彼にはあり、その彼が望むのであればこそ、引き受けてやりたい気持ちもあった。


「……四年間かあ。長いなあ」

「実習生と教育者、双方の合意で途中解消もできるよ。問題があれば片方の意思で強制終了もできるし、そう堅苦しいものではない。君が途中でどうしても嫌になったら言っておくれ。僕が引き継ぐから」


 そこまで環境を整えられて、まさか最初から断ることもできまい。

 半ば折れかかりながらも正当性のある拒否文句を探していると、モーリッツはそんな反応からもう一押しだと悟ったらしく、追加の資料をリザに差し出した。そこには、輝かしい数字の羅列が印字されており、リザは眩暈を感じる。


「それに、食うには困らないくらいの補助金も双方に出る。研究費用も」

「……あー、それはなんとも。魔術省も小賢しいですね」

「彼等とて研究者とは縁深い。どんな餌が一番効果的かはよく知っている」


 「本当に効果的ですよ」とリザは苦笑をした。

 金銭に困っている訳ではないが、この額の補助金と研究費用が国から捻出されるのであれば、本格的な研究に移行できる。今までは環境が環境故に、既存の枠組みを広げる程度の研究に留まっていたが、これからは――将来有望な子供と共に、新しい枠組みを作るような研究ができる。


 そう考えると、少しだけ前向きになってきた。

 既に断るつもりも無かったリザは、決意する。そして観念して頭を垂れた。


「謹んで引き受けさせていただきます、先生」


 そう頭を下げるリザを、モーリッツは目を細めて見た。

 「ありがとう、一指導者の我儘を聞き入れてくれて」と誠実に告げられては、恩義ある身としてはこれ以上の文句を言えまい。モーリッツが手早く進めていく書類手続きを、勢い任せに対する微かな悔恨と共に眺める。


「それで、実習生なんですけど」

「ああ、実習生のことは『勇者』と呼んでほしいとのお達しだ」

「『勇者』ぁ?」


 魔王も居ないこの世の中に、よくも勇者などと馬鹿げた呼び名を。

 思わず素っ頓狂な声を上げたリザを見て、モーリッツも愉快そうに肩を揺らす。


「こっちは子供を釣る方の餌だね、魔術省が言い出した」

「研究者のことはよく知ってますけど、子供のことは何も知らないですね。馬鹿だ、馬鹿」

「流石にこんな子供騙しで釣られる子は居ないだろうに。さしずめ君は勇者の教育係だ」


 クツクツと肩を揺らして笑うモーリッツ。次いで、彼は目を細めて書類を眺め、呟く。


「とはいえ、大切な幼少期を研究と国の未来に費やすんだ」

「『その勇気を讃える』――って具合ですかね。まあ、呼び名はともかく敬意は表します」

「うん、それでいいと思う。それで、実習生……もとい勇者のことだったね」


 早速の呼び間違いを可笑しそうに訂正したモーリッツは、その瞳をリザに投げる。


「君に誰か心当たりが居るなら任せるけど、どうだい?」

「勇者候補に心当たりは無いですね。そもそも、子供の知り合いが居ない」

「だろうと思って、僕の方で適任を探しておいた」


 モーリッツが懐から取り出した写真には、十歳前後と思われる中性的な姿をした黒髪の子供が居た。差し出されたそれを受け取り眺めるも、性別は判然としない。だが、妙に痩せこけていて胸に膨らみが見えない辺り、男性だろうか。

 しかし、それにしても妙に痩せこけているなと懐疑を瞳で示すと、モーリッツが幾らか神妙な顔で口を開く。


「ところで君、一人暮らしだろ?」

「へ? ええ、まあ……ご存じの通りで」

「実はその子、君と同じ境遇だ。年齢は十歳。半年前、両親が蒸発したようでね。先月、国が保護をするまで家の保存食で食い繋いでいた。元々劣悪な環境で育ったらしく、どこか常識が偏っている部分がある。とはいえ、僕と話した時は真面目で誠実な印象を受けたかな」


 そう言われて再度写真を見ると、その痩せ方の意味が分かった。

 過去の自分を子供に重ねて、リザは口を引き結ぶ。


「少なくとも、精神的に酷く不安定という事は無い。それに、君も同じ立場の人間として、この子に寄り添える部分があるだろう――今は孤児院に保護されてるんだけど、補助金も出るんだ。よかったら四年間、君の家で引き取ってみないかな?」




「ここか……大きいなあ」


 子供と孤児院の外観の写真、それから地図を片手に重ね持ったリザは、眼前に立つ孤児院を仰いで感嘆の言葉を漏らす。

 昼下がりの青々とした空の下に広がる芝生の上を駆け回る子供たちは、少なくとも保護前の環境よりは遥かに良い場所に居るのだろう。満面の笑みで元気そうだ。国家直轄の孤児院なのだから、そう心配は要らないだろうとは思っていたが、想像以上に快適そうだ。


 結局、リザはモーリッツの提案通り、子供を引き取ることにした。

 子供の名前はエレン・ナルディエッロ。黒髪で小柄。

 病的に色白の肌。痩せ気味。外見は特徴的だ。


 アポイントメントは取得済みで、職員に先ずは顔を出すべきなのだろうが、もしも庭で遊んでいるようなら少しだけ声をかけてみようか。などと考えてるも、どうやらリザの目論見は外れ、エレンという子供は屋内に居るらしい。

 仕方がなく鉄門を叩いて庭で遊んでいる職員を招き、「本日来訪予定だったリザ・エッゲルトです」と慇懃に頭を垂れ、学生証を提示すると、訝しそうだった職員は表情を穏やかに変えて「どうぞ」とリザを招き入れる。


 途端、遊んでいた子供たちは快活に「こんにちはー!」と口々に挨拶をしてくるもので、リザは驚き慌てながら面々に都度の挨拶を返していく。「……元気で礼儀も正しい」と驚いたように呟くと、リザを案内していた職員は「自慢の子供達です」と誇らしげに告げた。


 そうしてリザが案内されたのは、院長室であった。

 小さめの執務机と来客用のソファが置かれた小さな部屋。

 五十代前後と思われる高齢の女性院長と、それから黒髪を肩まで伸ばした子供が、微かな緊張を表情に、その隣に腰掛けていた。院長は「こんにちは、お待ちしておりました」と。エレンと思われる子供も次いで、リザを見定めるように、しかし緊張を見せつつ「こんにちは」と丁寧に挨拶をしてきた。


 どうやら、コミュニケーションは問題なさそうだと、挨拶を返しておく。

 案内をした職員は院長とリザが顔を合わせたのを確認すると颯爽と去って行き、リザは促されるままにソファに腰掛けた。

 見れば、エレンは依然としてリザを見定めるような視線を向けている。視線に気付いて視線を返せば、申し訳なさそうにそれを逸らした。当然か、これから同じ家で暮らす教育係なのだから、不審な相手は信頼できまい。


 唇を引き結び、不安を覗かせる表情で横目にリザを盗み見ている。

 その指先は、落ち着きなく対の指と突き合っていた。


「改めまして、魔術省および魔導学研究者モーリッツ・ファルケンベルクの命を受けて国立魔術学専門高等学校より参じました、インターンシップ制度の教育者を務めます、リザ・エッゲルトと申します」

「ご丁寧にありがとうございます。私はこの孤児院の院長をさせていただいております、マティルデ・ロッツェンと。そしてこちらは、インターンの実習生をさせていただく――」


 マティルデ院長の視線を受けた子供は、一拍置いてリザに頭を下げた。


「エレン・ナルディエッロです。よろしくお願いいたします」


 改めて聞いた声色は随分と綺麗なソプラノボイスであり、声変わり前とはいえ、男の子でこうも澄んだ綺麗な高音は珍しい――そんなことを思いながら、「よろしくお願いします」と、敬語には敬語で挨拶を返す。


「この度は魔術省が主体となって推し進められているインターンシップ制度において、エレン君に、魔導学の研究実習に参加していただけるとか」


 名前を呼んだ辺りでマティルデとエレンが微かな疑問を表情に乗せるも、何か変なことを言ったかと疑念を返せば、マティルデは特に言及をすることもなく話を進める。


「ええ、モーリッツ教授とは旧知の間柄でして。信頼できる方の自慢する生徒さんということで、我々としても拒む理由は無く。子供達の中で条件を満たしていたのがエレンだけだったので、この子の意思を確認したところ――」

「参加したいです。お金、貰えると聞いたので」


 その愚直な動機を聞いたリザは思わず目を剥いて、マティルデはあちゃー、と言いたげに顔を手で覆った。しかしどこか楽しそうな辺り、本人の意向を取り繕おうという意図は無く、あくまでも外面の悪い動機にバツが悪いといった具合で。

 その様子からは、子供の意思を抑圧する環境など見て取れず、これは包み隠さないエレンの意思だと判断できた。リザは驚きつつ、疑念を解消する為に言葉を交わす。


「お金、好きなんですか?」

「好きとか嫌いとかじゃないです。無いと、生きていけませんから」

「こういう言い方は好ましくないですけど、君が大人になるまで、国のお金が君を必ず、不自由なく育ててくれます。ここはそういう場所です。生きるための心配は要りませんよ」

「ここは凄く温かい場所で……このまま大人になるまでここに居たら、先生たちから色々なことも教えてもらえますし、お仕事とかも貰えるんだと思います」


 リザの言葉を受けたエレンは、淡々と事実を述べるような声色と調子で意思を語る。その言葉選びは十歳というには幾らか大人びており、その話し方はあまりにも歳不相応で。捨てられる前からか、捨てられた後からなのか、少なからず勉強をしていることが窺える。


「でも、それは生きているんじゃなくて、生かしてもらってるんだと思います」


 ひねくれている。偏屈で、穿ったその価値観は歪な環境に由来するものか。


 それでも、的外れではない。

 その言葉に、そんな確信を抱いたリザは思わず頬を緩めた。マティルデも、どこかネガティブなその発言を窘めることはしない。微かな笑みを浮かべている。


 確かに、子供は生かされている。

 だが、それは孤児院に限った話ではない。どこの過程でも、どんな環境でも、殆どの子供は親の庇護下で守られ、生かされて大人になって自立をする。


 恐ろしい話だが、この子供は十歳にして自立を目指している。あまりにも早い成熟は大人に見放された経験に基づくものだろう。子供の背伸びした不安定な自立は正すのが大人の使命だが、この子供は、自覚をしている。

 自分が、無力で非力で、将来性のある子供だと。


「自分で道を選んで生きたいです。お金と、存在価値が必要です。持てるものは全部使いたいので、私に魔術の才能があるのなら、ぜひ、インターンを受けさせてください」


 再び、エレンは深く頭を下げた。

 モーリッツ先生もとんでもない子供を見付けたものだと感嘆をしながらマティルデと視線を合わせる。彼女は「凄い子でしょう」と、楽しそうに誇らしそうに、しかし不安そうにエレンを見る。「でも、だからこそ誰かが見ていてあげなければいけない」と、強く続けた。


「この子を、お願いいたします。この院の、未来ある大切な子供です」


 マティルデはエレンに倣うように頭を下げる。

 リザは微かな逡巡を覚えていた。それは、今更の尻込みなどと情けない話ではなく、想像以上の覚悟と展望がエレンにあるからこそ、教育者は自分ではなく、魔導学の権威、モーリッツ・ファルケンベルクにこそ相応しいのではないかと考えていた。


 そうして悩む素振りを見せるリザと、エレンの視線が交わる。

 エレンは、悩む様子のリザを見て、不安そうな表情をした。焦りを表情に浮かべて、微かに前のめりになりながらリザの顔を覗き込む。


「あの、住む場所はいただける補助金で、適当な場所を借りますから……!」


 悩みの種を何だと思ったのか、十歳の子供がとんでもないことを言い出し、流石のマティルデも「こらこら」と、そんな言葉を嗜める。


 リザはそんな言動に、かつての自分を思い浮かべて重ねてしまった。

 数年前、モーリッツに拾われた時の自分も、まったく似たようなことを言って院長に怒られたものだった。その時の胸中はよく覚えている。とにかく、必死だったのだ。自分という存在は世界の中では遥かに矮小で、居場所は与えられるものではなく得るもの。


 不安だったのだ。自分の居場所がどこにあるのか分からなくて。

 何のために自分が生きているのか、分からなくて。

 あの時はモーリッツに導かれた自分は、今度は誰かを同じように導いてやらなければいけない。モーリッツも『君の為にもなる』なんてよく言ったもので、未来視の魔眼でも開発しているのではないだろうか。


「実は私も、孤児だったんです」


 そう切り出したリザに、エレンもマティルデも驚きを表情に浮かべた。

 「今の君と同じように、モーリッツ先生に拾われて魔導学を叩き込まれました」と付け加えて、どこか信頼にも近い共感を覚えているエレンの瞳と視線を交える。同情なんて安いもので、幾らでも誰にでもできる。でも、同じ立場に立った者の共感は、何にも代え難い。


「君の気持ちは凄く分かります。自分の存在意義を自分自身が認められなくて、何かをしないと生きていけない。どこに居て何をすればいいのか不安になって、夜も眠れない。与えられて生きていく生は、与えられなくなった時に終わるんじゃないかって、不安になります」


 「だから、一人でも生きていけるように足掻いてる」と、静かな瞳で看破されたエレンは、閉口をする。咎められていると思ったのか、不安に歪んだ表情で「あの……」と、何か弁解の言葉を紡ごうとする。けれどもそんな必要は無いと首を横に振ったリザは、微笑んだ。


「でも、一人で生きていけなくたって大丈夫です。君は一人じゃありませんから」


 マティルデはそっと瞳を瞑って、不安そうに眺めていたやり取りから穏やかに目を逸らす。彼女の御眼鏡には敵ったのだろうか。信頼は勝ち取れたようだ。


 エレンはその言葉を聞いて、不安そうだった表情を何らかの感情で歪める。

 その感情をどう形容すればいいのかは、きっと同じ境遇に立ったことのある人間にしか分からないだろう。その受容には果てしない安堵がある。


「君を一人で生きていけるような一人前にできるかは、正直、自信が無いです。ごめんなさい。でも、一人で生きていく必要が無いように、君の居場所になることはできます」


 前半部分は指導者しては失格の情けない物言いをして、「それは困りますね」なんてニヤついたマティルデの指摘を受けながら、バツが悪そうに後ろ髪を掻くリザ。

 しかし、後半に続けた心からの歓迎を聞いたエレンは、歪めた表情を俯かせて隠す。手で目尻を拭って、微かに肩を震わせた。「また、いつでも顔を出すんだよ」と隣で肩を叩くマティルデに、「はい」と震える声でエレンは絞り出す。


 リザは真っ直ぐとエレンに向き直って、そっと頭を下げた。


「ウチに来てください、エレン・ナルディエッロ君。今日から私が君の居場所です」

「……はい! よろしく、お願いします……!」


 顔を俯かせながら、震える声を絞り出した。

 マティルデはそんなエレンの頭を優しく撫でて、その光景はまるで本当の親子のようだった。膝に突いた手にポタポタと雫が落ちていき、そんな年相応の一面を見たリザは、安堵をしながらハンカチを取り出す。そして、その眼前で膝を付いて、目元を拭おうとした。


「ほら、もう泣かないでください。男の子でしょう?」

「……男性差別ですか?」


 その涙を拭おうとした寸前、エレンは涙に濡れた半眼でリザを捉えた。

 「え」と絶句するリザとあちゃー、と本日二度目の楽しげな表情を浮かべるマティルデ。思いもよらぬ指摘に戸惑っていると、目を腫らしたエレンから「男の子は泣いちゃいけないんですか?」と次いで質問をされる。屁理屈のような物言いに対して、しかし生真面目にもリザは「……確かに」と納得を示してしまった。


「確かに、慣習的に慣用句として使っている節がありましたけど、よく考えると性差別的ですよね。男性だって泣いていい、弱い子が居たっていいはずです」

「はい。昨今の人権問題について調べた際に、そういう意見が多数出ていたようです」

「博識ですね……いえ、私が少々人権問題に対して無関心でしたね。改めます」

「お願いします」


 リザは内向的な生活を送ってきたシワ寄せがここに来ていると、自身の非常識を悔いて恥じるとともに、指導者として直すことをエレンに誓った。しかし、モーリッツも常識が偏っているとは、こんな方向性とは誰が想像できようか。

 そんな六歳差のやり取りとは思えない会話を聞いていたマティルデは「子供って難しいでしょう」と笑う。「まさか人権問題に敏い子供が居るとは」と苦笑を返した。


 それから、話が纏まったリザは立ち上がる。


「それじゃ、勇者様。行きましょうか」

「あの……すみません、その呼び方はやめてください」

「あ、やっぱり嫌ですか?」

「どのくらい嫌かと言うと、今度魔術省に抗議文を提出するくらいは」


 やはり子供からもウケが悪かったようで、リザは思わず笑ってしまう。

 モーリッツにも伝えておこうか、と、そんなことを考えながらマティルデに別れの挨拶を告げようとすると、涙に濡れて晴れた瞳と、何の感情か赤く染まった顔で、エレンは不服そうにリザを見上げていた。

 肩までの黒髪、白く艶やかな肌。綺麗で美しい高音のソプラノボイスと、華奢で小柄な体躯。何度見てもまあ、美形な『少年』だと感心していると、『彼』は不満を言葉にした。


「あと」

「はい?」

「私、女の子です」


 ずっと黙っていたマティルデ・ロッツェンの悪役じみた笑い声が院長室に響き、何事かと子供達や職員が顔を覗かせたのは、もう間もなくの出来事だった。

 そうして半日もすれば、『彼女』はリザ・エッゲルトの家族となった。




 よく考えれば、年頃の女の子の家に年頃になりそうな男の子を住まわせるなど、モーリッツが配慮をしない筈がなかった。とはいえ性別については一切聞かされず、ただ名前や出自や外見だけしか知らなかったリザが間違えたのは、仕方のないことだろう。


 しかし、非常に切迫した食生活による肉付きの悪さと無頓着に伸ばされた髪形がそう見せたというだけであり、よく見れば見間違えようもなく、彼女は女の子であった。

 だが、リザにとって性別など関係はなく、エレン・ナルディエッロという少女が自分に似通った境遇の家族であり生徒であることだけが、何よりも優先すべきことだった。


 リザ・エッゲルトの研究室だが自宅だかよく分からない家は、中央に綺麗で浅く、流れも緩やかな川が横断をしている程度の、取り分けた特徴も無い町の辺境にある。山の麓で地価が安く、研究による諸々の迷惑を掛けるような相手も周囲に居ないような、静かな場所だ。リザがモーリッツとの共同研究により発見した、魔導を応用した技術製品の特許による収入で一括購入をした。そんな小さな一人暮らし用の家。


 とはいえ、人間がもう一人も入らない道理も無く、寝室をカーテンによって物理的に遮ってしまえば二部屋だ。そんな具合にリザが胸を張って柔軟な思考を誇れば、エレンは白い目を向けてきた記憶がある。


 エレンも、初めの内は『借りてきた猫』『友達の家に止まる子供』とばかりの様子だったが、日数を重ねるにつれて段々とリザの家を自分の居場所だと認識し始めたようで。当初は『お邪魔します』と繰り返していたのを、ある日を境に『ただいま』へと変えた。

 変えたのか変わったのか、意図のほどは読めないが、想いは伝わった。

 とはいえ、リザは変わらず『おかえり』を言うだけである。


 彼女を迎え入れてからすぐに教育を開始するということはしなかった。

 環境が変わって、それに馴染むまでは考えることも多く心に余裕も無い。意欲というものは学ぶ上では欠かせない大切なことであり、心がそちらに向かない内に焦って始める道理は無い。それがリザの持論だった。


 そんな理由もあり、しばらく、ただ普通の家族のような穏やかな日常を過ごした。


 そうして、二か月ほどが経過した。


 学校と自宅を往復し続けるだけの生活を過ごしていたリザが、珍しく学校の帰りに寄り道をして帰った。既に日は沈みかかっており、山の麓は薄暗い。橙色の照明が静かな木々を温かく照らす、そんな自宅に着いたリザは、木造りの扉を開ける。


「ただいま帰りました」

「おかえりなさい。遅かったですね、ちょうど夕飯ができました」


 リザを迎えたのは、二か月ほど前に比べて幾らか肉付きと血色が良くなって、外見的には非常に健康的になったエレンだった。無論、精神的にも健康体だ。


 あの無頓着に伸ばしていただけの黒髪も、ファッション誌などに目を通すようにして自身で整えるようになり、今では可愛らしいポニーテールが跳ねている。既にこの家にも馴染んだもので、エプロンを付けて夕食の支度を済ませてくれている。


 深いワインの香りが漂う。肉料理だろうか。

 晩御飯を楽しみにしながら「ありがとうございます」と、リザは手に持っていた紙袋をソファに置く。「あたた」と、腕が悲鳴を上げた。本が数冊入っているのだ、魔術による軽量化を駆使するのも億劫でそのまま持ってきたが、学者の貧相な腕では筋肉痛になってしまいそうだった。


 水晶のような綺麗な翡翠色の瞳が、それを捉えた。


「それ、何ですか?」

「教材です。今日からエレンさんの教育実習を始めようと思いまして」


 そう告げると、彼女の綺麗な瞳がまん丸く見開かれた。


「前触れもなく言いますね。ビックリしちゃいました」

「帰り道でふと思いつきまして。そろそろ良い頃合いかなと」

「待ちくたびれてしまいました。もう忘れてるんじゃないかって」

「たいへん難しいので落ち着くまで待ってたんですよ」

「へえ、そんなに難しいんですか?」

「非常に。不安ですか?」

「まさか」


 珍しく尻込みしたような調子の言葉を言うものだから、からかうような瞳を向けるも、やはり彼女は彼女で、不敵な笑みを浮かべて「必ず認めさせます」と胸に手を置いた。


「ところで小学校の授業の方はどうですか?」

「どう、と言いますと?」

「成績ですね。魔術には知力も欠かせませんから」

「小学校での成績が指標になるかは不安ですが、少なくとも今まで通ってこなかった数年分の遅れは取り戻してます。ここ一か月のテストは、普通に」

「平均点くらい?」

「満点です。欠かさず」


 特に誇らしそうでもなく、平然と言う彼女に、リザは思わず絶句した。

 全く小学校での話をしてこなかったものだから、普通に楽しく過ごしているのだろうと思ったら、これである。賢い少女だとは思っていたが、家庭の都合で数年間、学校教育を受けてこなかった人間の成績ではあるまい。


「そりゃ普通じゃないですよ、エレンさん」

「同年代の子達に比べたら高いのは自覚してますけど、それくらいの子供に国が補助金を出してまで魔術の研究をさせる筈が無いじゃないですか。求められる水準が高いのは自覚してますから、頑張ってるんです」


 リザの物言いに、エレンは呆れたようにそう言った。

 「背伸びしてるんだか本当に背が高いんだか」と、リザは苦笑混じりに呟く。「そういえば言葉遣いも余計に老け込んできてますね」と、彼女の将来を憂うと、「そこはリザ先生の影響です」と指摘を受けて、わが身を省みた。


「魔導を研究するんです。小学校の知識で躓けません」

「……もしかして、この二か月間、家でも勉強してました?」

「当たり前じゃないですか。時間は有限ですよ」

「オーケー、私がエレンさんの学習意欲を過小評価していたらしいです。本当は貴女が馴染めるまで待っているつもりだったんですが、要らなかったらしい」


 まさか小学生に正論で殴られると思っていなかったリザは、予想外の一撃に眩暈を覚えながら自らの失態を恥じる。リザが家に居る時は色々と生活に関わる常識や技術を教え込んで、代わりに人権意識の高い彼女から様々な時事問題を教えてもらっていた。


 気付かないものである。意外と。

 二か月目にして我が子の成長に感涙の想いを抱いていると、不服そうな瞳でリザを見詰めたエレンが、唇を尖らせた。


「……落ち着ける居場所だから、頑張れたんです」


 そんな彼女の言葉に、どうやら自分にも誰かの居場所になるくらいのことはできたのだと安堵して、同時に嬉しくなった。思わず頬を緩めると、エレンはどこか照れくさそうにしつつもリザを見て、「ありがとうございます」と、改めて礼を口にした。


 そうして夕食を終えた二人は、すっかり食器も片付いた机に並ぶ教科書の数々を隔てて向き合う。


 教科書と言っても魔術の教科書など初歩級のものしか市販では売っておらず、そんなものを教育実習で用意するつもりは無い。


 机に置かれているのは『猫でも分かる科学と化学! にゃーん!』『幻想科学読本』『機械学の初歩!』『お前なら分かれ! 物理』『科学全書』――並べられた本の題を舐めるように見回したエレンは、痙攣するように動く額を懸命に広げて押さえて、半眼をリザに向けた。


「何ですかコレ」

「教科書ですよ」

「それは分かります。科学の教科書ですね。私が聞きたいのはコレが何かということです」

「教科書ですよ」

「それは分かります。機械の教科書ですね。失礼、聞き方を変えます、魔術は何処へ?」

「教科書――」


 バン! とエレンが力強く机を叩くので、調子に乗って少しだけふざけ過ぎたリザは肩を跳ねさせ、「すみません」と殊勝に詫びた。白い眼が痛かった。


「失礼、冗談です。とはいえ教科書というのは本当でして、科学や機械の教科書でもありますけど、同時に魔導の教科書でもあります。魔術ではなく、魔導」


 そう真面目な表情で解説をすると、半信半疑だった瞳に段々と納得の色が浮かんでくる。今まで魔導については何一つとして教えてこず、近くに図書館は無く、補助金は彼女の要請でリザが一括管理している都合上、彼女に魔導というモノを知る手段は無かった。


「魔導――科学とどう関係が?」

「それを説明するには、実演も兼ねた方がいいですね。外に行きましょうか」


 リザは椅子に掛けておいた上着を羽織って、玄関を指で示す。

 エレンは頷いて、部屋着のままその背中に続いた。


 外は微かに冷えた。秋口の香りと音色が外を包み込んでいる。

 「寒くないですか? 上着、貸しますよ」とエレンに服を示すも、「大丈夫です。でも、今度買ってもいいですか」と、自分の金だろうにわざわざ許可を仰いだ。


「一緒に見に行きましょうか。選びますよ、服」

「いえ、先生のセンスは壊滅的なので。自分で決めますね」

「なんか……すみません」


 詫びることしかできなかった。

 話を終えたかったのだが、彼女は曇り空を仰いで小言を続ける。


「前買ってもらったやつ……買ってもらったものだしサイズが合うから着続けなきゃいけないんですよ。キツいです。サイズじゃなくて心が」


 「部屋着にしてください」と呟くリザ。「言われなくても」とエレン。

 「……見てください。空が私の心を映し出しています」とリザはさめざめと曇天を示した。「綺麗な曇り空です」なんて皮肉を言えるようになったのも、距離が縮まった証拠か。


 話は元に戻って、リザは少しだけ遠くに輝く町の中心部を眺め、ほぅと小さく息を吐いた。ガスランタンの照明が点在する科学の作った夜景を眺めながら、告げた。


「魔導とは魔術の一種です。魔術とは我々が通常では干渉できない、しかし、今も確かにここに存在する不可視非実体の元素、『魔素』に指向性を与えて非科学的事象を起こす技術の総称です。人間の保有する魔素に干渉をする『呪術』や自然界の現象を再現する『元素魔術』、人体に良い影響を与える『医療魔術』などの区分に並列するのが、『魔導』」


 エレンは申し訳なさそうに「メモ帳……」と踵を返そうとするが、リザは「何度でも教えるので、このまま聞いてください」と微笑んだ。少なくともリザは、そうしてもらった。


「そのテーマが掲げるのは『科学』と『魔術』の融合。本来は平行線で交わることの無い両者の接合点となる技術を魔導と呼びます。だから、魔導には科学が切り離せない」


 「なるほど」と、エレンの瞳に炎が宿るように、そこに興味が浮かんだ。

 その好奇心を抱く部分までリザによく似ていると笑い、リザは両手の人差し指を立てた。その内の右側を軽く振って、強調する。


「具体的にどう違うのか? 炎で例えてみましょう。先ずは魔術について――魔術における『炎を生み出す』という工程には幾つか種類がありますが、最も普遍的なのは燃焼による炎でしょう。燃焼とは掻い摘んで話せば、可燃物の激しい酸化反応のこと」


 そう告げたリザは右手の指を振り、そこに火を灯した。

 橙色の光がそこに爛々と輝き、「わぁ……」とエレンは年相応の興奮をそこに見せた。


「『可燃物』や『酸素』『酸化反応』という条件を飛ばして『燃焼』のみを発生させました。必要なのは炎によりもたらせる事象や、その構造を理解すること。これが、『魔術』です。言葉にすれば意味不明でしょうが、既存の科学技術をすっ飛ばした神秘が魔術であり、これが、両者が決して交わらないと言われる所以です」


 ふんふんと力強く頷くエレンに、得意げになってリザは左手の指を振る。


「『魔導』とは、そんな『魔術』と『科学』を交えること。例えばこの空気と魔素以外はほとんど存在しない空間に『疑似的な可燃物』と『熱』を生み出します」


 途端、吹き上がるように左手の指先にも炎が灯った。

 「おぉ……」と感嘆の言葉と拍手をするエレンだったが、しばらく炎を眺めてから、「おぉ……?」と、コテンと首を傾げた。


「傍目には違いが分かりませんね」

「違いなんてありませんからね。ここから隣の町に行くのに、歩いていくのも走っていくのも蒸気機関車を使うのも誰かに背負われていくのも、テレポートをするのだって、全部違う経路で違う努力が要りますが、隣町に立っている貴女を見ても、誰も交通経路の違いは分からない。だから、聞かれるんですよ。『ここまではどうやって来たんですか?』って」


 「なるほど」と、エレンは得心をした。

 そして、非常に悩ましい表情でしばらく唸ってから、恐る恐るとリザを見上げた。


「その……わざわざ面倒くさいことをしているってことですか?」


 単刀直入で歯に衣を着せない言い回しに、リザは思わずクスクスと笑う。

 「仰る通り」と、自分と全く同じ反応に感心をしながら言葉を続けた。


「世間的にはそう言われています。実際、同じ事象を再現するにも、魔術に比べて余計に知識や手間や技術の要る分野なので、世間的な評価は高くないです。ただ、私もモーリッツ先生も……ああ、私の魔導の先生なんですけども。私達は、これに可能性を見ている」


 そう告げたリザは、そっと指先で曇天を示す。

 月も星も覆う薄暗い曇天。折角の夜景の魅力も五割減だった。


「空、曇ってますよね」

「へ? は、はい。曇ってます」

「エレンさんだったら、どうやってあの曇り空を晴れさせますか」


 不意の質問に、エレンは戸惑いを表情に見せた。

 しかし、試されていると思ったのか、戸惑いの表情を切り替えて口を引き結び、真剣な表情で考え出す。「気楽にね」と笑うと、「はい」と力強い言葉が帰ってくる「私にも魔術が使える前提でいいんですか?」と、そんな問いに「勿論」と応じた。


 「ぐぬぬ」と頭を捻って考える彼女に、意地悪く「天候操作は最高位の魔術師の特権と言われています」と囁くと、彼女はさらに表情を険しくさせた。


 秋の静かな風が頬を撫でていく中、ぼんやりと都市部の明かりを眺めて、この静かで小さな世界に二人で生きていくことの心地よさを噛み締める。最初は上手くいくとは思っていなかったが、蓋を開けてみれば、存外に二人暮らしも、先生というのも楽しいものだ。


 やがて、エレンが顔を上げた。自分の回答に納得いかない様子で、解を捻出する。


「雨雲を除去します」

「うん、人類史上で最初に観測された天候制御の魔術はそれでしたね。技術の有無はともかく、エレンさんの発想は最高位魔術師に匹敵します」


 まさか、こうもすんなりと正解を出されるとは思っておらず、幾らか驚きつつも彼女の十歳とは思えない思慮深さに感嘆をする。とはいえ、閃きも何も、最も愚直で単純な手法なのだから普通の魔術師ならば、その発想には至るだろう。

 どこか小馬鹿にされているのではと疑うような半眼を向けてくる彼女をよそに、リザは淡々と言葉を紡ぐ。


「それに必要な条件を言います――まず二千メートルから七千メートルの高さにある、それを遥かに上回る大きさに広がっている水の粒を、空気と区別して認識して適切に除去しましょう。空気ごと取り除くと一時的に真空が生まれてヤバいことになるので、繊細さも必要です。また、一般的な魔術師の魔術による干渉範囲は数十メートルがせいぜいで、数千メートル先の物体を取り除くには工夫が必要です。また、大規模な天候操作をちまちまと少しずつやっていたらすぐに天気が変わってしまうので、一気にやる必要があります。その場合に必要とされる魔力総量は一般的な魔術師の三十二倍と言われています」


 楽しそうにペラペラと、彼女の語った手段を達成する条件を語っていくと、少しずつエレンの表情が悔しそうに歪んでいき、「私、普通の人より魔力多いんですよね?」と負け惜しみを言ってくるので、「一般人の十倍くらいです。届きません」と返した。


「工夫も技術も必要です。魔力だって。だから、普通の魔術師にはできません」

「魔導ならできるんですか?」

「誰にだってできる訳ではありませんが、魔術で雲を除去するよりは簡単に」


 そう言うと、エレンは訝しそうにした。

 リザは苦笑をしながら首を横に振る。


「そもそも魔導だって魔術ですから、ある程度の魔術師なら仕組みを理解すれば簡単にできます。説明をややこしくしてしまいましたが、魔導って『科学者の提案を魔術師が再現したら従来のものよりも簡単に事象を再現できた』って事例に基づくテーマなんです。『魔術師が科学も勉強すれば凄いよね』っていう、それだけの話なんです」


 「要は、魔術師に科学の素晴らしさを説く学問なんです」と締めくくり、リザは曇天を仰いで語った。


「天候制御を最も難しくしているのは、その『規模』です。小規模な雨の生成や除去程度、高専卒業の生徒なら片手間にできます。それでも天候操作が難しいのは、『ここから雲までの距離』と『雲の大きさ』が障害となっているから」

「空まで魔術を届けるのって難しいんですか?」

「それくらいは、ある程度の魔術師になら可能です。ただ、空の雲を除去できるくらい強力な魔術を地表から上空に飛ばすのはかなりの魔力が要ります」

「……魔術を圧縮して飛ばして、上空で展開することで節約ってできないですか?」

「素晴らしい論理的思考ですね。現代における天候制御の最適解はそれと言われています――ただ、実現には『時限魔術』と呼ばれる、学者級に複雑な術式解析と構築の技術が必要で、魔力の大幅な節約は可能ですが要求技術量が跳ね上がります」


 「難しいことを言いましたけど――」と、リザは右手の指先に青白い光を宿して、虚空に滑らせる。日用でない言語で文字列を刻み、最後にそれを指先で弾いた。

 砕けた林檎や花火、割れたガラスのように散って霧散する文字列。


 途端、周囲に暴風が吹き荒れた。

 「わぁぁ!?」と驚嘆の声を漏らすエレンに「少しだけ我慢してください!」と返して、彼女の、驚きに白黒している瞳が自身を捉えているのを確認して、再び指先で空に文字を刻む。魔素に指向性を与える手段は幾つかあるが、これはリザの保有する技術の中で、最も簡単で、だからこそ難しい魔術を行使するのに役立つ。


 長い文字列を、力を込めた指先でピンと弾いて砕く。そして小さな吐息を漏らす。


 やがて、暴風が吹き止んだ。


 リザは星空を眺めるように天を仰ぎ見る。

 風神でも暴れたのかというような暴風に乱れた髪を指の櫛で直しながら、「ほら、見てください」というリザの声に従って、彼女は空を仰ぎ見た。驚愕を宿しつつも胡乱な目をしていた彼女は、空を見た途端、その目を少しずつ見開いていく。


 「――凄い」。誰に言うこともなく漏れ出て紡がれた感嘆の言葉は、夜空に少しずつ溶け消えていく雲と共に、空に流れていった。


 まるで水に溶かした綿菓子のように、雲が少しずつ消えていった。

 「あまり広範囲だと怒られるので、少しだけですけど」と笑い呟いたリザの声が、差し込んできた月の明かりと共にエレンの頬を撫でていく。


 空に大きく広がった雲。その中心部分がドーナツのように切り抜かれ、星と月が顔を覗かせていた。リザの隣で目を輝かせる魔導師の誕生を祝福するように、爛々と。

 秋の風が一陣、静かに二人の隙間を駆け抜けていった。


 星と月に目を輝かせたエレンは、繰り返して「凄い」と、興奮を宿して呟く。


「無粋を失礼して……普通科中等学校前後の科学知識です。空気が何らかの要因で上昇をすると、空気の圧力が低下して膨張します。膨張をすると気温が下がります。気温が下がると、冬の窓に結露が浮かぶように、空気の持てる水分量が減る訳です」

「だから、逆を」

「はい、正解です。ここから空気を吹きあげて、その中心部分を切り抜くように空気を吸い込む。ドーナツの輪っかを作るように空気を操作します――尤も、思い描いた通りに操作をするにも、向こうまで届けるにも少なからず工夫が必要ですが」


 『思い描いた通りの軌跡で風を操作する』程度の魔術は、ある程度の訓練を積めばそれなりの魔術師にもできる。ここまで精密に雲を取り除くには、練習は必要だろうが。


「この晴れ空の間際から、少しだけ小雨が降ってるかもしれませんね。一時的で疑似的な気圧操作なので、すぐに元に戻ってしまいますが、星天を楽しんでください」


 そう告げるリザの言葉に、「はい」と気の無い返事をして、エレンはその瞳を星空に奪われ続けている。そんな彼女に笑みを浮かべて、リザは地面に腰を落として、そっと空を見上げた。初めてモーリッツに魔導を教わった時も、同じように、同じ感動を味わった。


 星が瞬く。こうして空を眺めていた昔の人々は、何を思って星で形を作ったのか。

 退屈だったからという説もあるが、では今の人類がその行為に疑問を抱くのは。

 退屈ではないからだ。忙しいのだ。

 やるべきことが多い――やりたいことも多い。こうして星の空を見上げて、魔術の可能性に想いを馳せて。そこに夢を見て、その道に進みたいと思ってしまうから。


「先生って、こんなに凄かったんですね」


 静かな感動の声が隣から紡がれ、リザは肩を竦めて笑う。


「モーリッツ先生は山も平らにできます」

「大先生ですか」

「ふふ……今度、そう呼んであげてください。喜びますよ」

「私にも、これができますか?」

「勿論。勇者様なら必ずや」

「あ、その件については一昨日、魔術省に抗議文を提出してきましたので」


 コンビ解消の一因になっては堪ったものではない。

 今後は呼ばないように気を付けようと、気を付けつつリザは苦笑をした。


「魔導って、凄いんですね」

「魔導が――というよりも、この根底にあるのは魔術史以前に先達が築き上げてきた科学技術です。この魔術は歴史そのものと言ってもいい。この分野の研究は魔術と違って多大な制限を受けてやり辛いですが、それでも、この分野の研究が導き出した『答え』は、いつか誰かの役に立つ時が来ると思っています」


 そう語ると、立っていたエレンもそっと腰を下ろして、寝転がった。

 仰向けに大の字になって、輝かしい空を眩しそうに眺める。


「……私でも、誰かを助けられますか?」

「何かの成果を紡ぎ出せば、間接的には誰かを助けることになるでしょう」

「直接的には、難しいですか?」

「……直接的に?」


 そう問われたリザは、はたと口を閉ざして彼女の顔を見詰めた。

 リザの困惑の意図が読めなかったのだろう、至って純粋な疑問を口にしたに過ぎないエレンは小首を傾げて訝しそうにするが、彼女の問いはリザにとって、目から鱗と言えた。


 リザ・エッゲルトは学者だ。研究者なのだ。

 魔術師を名乗ることもあるが、厳密に言えば魔術師とは魔術を行使することを生業とする者の呼称であり、開発を軸にしたリザやモーリッツといった人間は研究者に過ぎない。

 研究者は魔術の開発や分析にこそ貢献すれども、適切な場所で、適切に魔術を行使して他者に貢献する者達ではない。可能か不可能か、ではなく、そういう棲み分けだ。


 だが、可能か不可能かで言えば、可能だ。


「お恥ずかしながら、考えたこともなかったですね」


 そう呟く。研究室に引き篭もって、狭い世界で捻出した技術の結晶が誰かを助けると思い込んできた。事実、モーリッツとの共同開発で特許取得をした技術製品は人の役に立っている。そうして建った自らの家が何よりの証左だ。


 だが、魔導による人助けとは、これに限らない。

 実際にこの力が必要な人の場所に赴いて、適切な魔導で誰かを助けて。そんな魔導がこの世に現存をしないのなら開発をして。その二つを両立できる唯一無二の存在が、魔術の研究者なのではないだろうか。


 無論、専念しない故に技術を研鑽するのに支障は出るだろう。

 だが、人助けに限って言えば、何よりも効率的で効果的で。

 「はは」と思わず笑ってしまって、そっと口を手の甲で押さえる。人権の話といい、誰かに何かを教える経験といい、これといい。彼女と出会ってから学ぶことが、本当に多い。教えることは学ぶことでもある――その言葉が示すのはこんな気付きのことではないのかもしれないが、まさしくその言葉通りだとリザは思った。


「どうやら私は、随分と狭い世界に住んでいたみたいです。エレンさんに気付かせていただきました」


 遠く光る星に映る自分の瞳はきっと、決意の炎を宿していたのかもしれない。

 狭く息苦しい、薄暗い研究室のデスク前。

 なにも自分の居場所を、そこに限る必要は無いはずだ。

 自身の瞳を真っ直ぐと見詰めてくる彼女に、彼女と同じくらい真っ直ぐな瞳を返す。彼女はきっと、学者を目指す。リザも彼女やモーリッツと同じ道を歩むつもりでいた。


 魔導に感動をしてこの道に進んだ。だが、自分のルーツはどこにあるかと言われたら、きっとそれは、自分のような境遇を呪い、彼女を引き入れた部分にあるのだろう。

 可能性という新たな道を星のように照らしてくれた彼女はきっと、自分にとっての勇者様なのかもしれない。言えばきっと、取り返しがつかないくらい怒るだろうが、心の中ではそう感謝を抱いておこう。


 彼女の瞳を越して、自分を不敵に睨むように見詰めた。

 この言葉は、狭く小さな研究室に引き篭もっていた一人の学者を引きずり出すための言葉で、そのための鍵だ。


「可能です。魔導で誰かを助けることはできます」


 先程と同じく、この空はリザの心を映し出していた。




 ――それから二年の歳月が経過した。


 エレン・ナルディエッロはエッゲルトに姓を改め、自他共に認めるリザの家族となり、同時に助手となった。既に魔術の基礎は疑う余地も無く会得して、高位の魔術師の足下くらいには及ぶ程度の、腕利きの魔術師となった。科学知識もそれに後れを取ることはせず、日を重ねるにつれて、魔導とは何か、その真髄にも近付いてきていた。


 そして、普通小学校から魔術専門中等学校に進学し、リザの後輩となった。

 同学年の中学生とは比較にならない魔術の腕を買われ、一躍有名人になった彼女ではあったが、その人柄は小学生の頃と何も変わらず、決して慢心をせずに研鑽を続けている。


 対して、高等部三年に進学したリザ・エッゲルトはモーリッツを介さない、『リザ・エッゲルト』としての人脈を形成していき、将来に備えて魔術省とのパイプを築き上げた。

 かつてはモーリッツの弟子として認識されていた魔導学の卵は、一人の魔導学研究者として認められつつあった。研究の方は以前に比べて進歩が遅れつつあったが、そこは愛弟子が補って余りある成果を残して、彼女も徐々に注目を集めつつある。


 では、そんな肝心な研究を放っておいて、リザは何をしているのか。


 ――積み上げられた文献に溺れていた。

 夕刻の橙色の日差しがカーテンの隙間から瞼を焼いて、ようやくうたた寝をしていたことを自覚したリザは目を覚ます。学校をサボって朝から本を読み耽っていて、気付いたら夢の中だった。「エレンさんにバレたら怒られるなあ」と、呟きつつ二年前よりも幾らか伸びた栗色の髪を撫で、身体を起こす。


「もうバレてますよ」


 そんな声を掛けてきたのは、リビングから研究室に顔を覗かせたエレンだった。

 ポニーテールをセミロングに変えて、少しだけ発育の良くなった中等部の制服を着る彼女は、呆れたような瞳をリザに向けてきた。彼女はブレザーを脱ぎ、シャツの上からエプロンを付けて「夕飯はシチューです」と事務的に告げた。


 「いつもありがとうございます」と、微睡みの誘惑に抵抗をしながら身を起こす。不意に、エレンが机に置かれた本の題名に目を止める。


「何を読んでいたんですか?」

「ん? ああ、これですか……ほら、初めてエレンさんに会った時、人権意識について説かれたことがあったじゃないですか。初めて魔術を見せた時に、誰かを直接的に助けることはできないのかと聞かれたことも」

「ああ! ありましたね、懐かしいです」


 昔を懐かしむように瞳を細める彼女は、今は十二歳で、まだまだ子供と呼ぶに相応しい年齢だが、その思想も知識も段々と大人びてきている。容姿も、性格も。


「私なりに色々と考えていたんです。最近ではエレンさんに教えることも減りつつあって、今はご自身での研鑽を見守り支える段階に移りつつある――だから、そろそろ将来についても考えていかなければいけないな、と」

「将来……ですか?」


 エレンの瞳に微かな不安の色が宿る。

 本を撫でるリザは、それには気付かなかった。


「あと二年でインターンは終了です。勿論、今はもう家族ですから、その後もエレンさんにはこの家や研究室を使っていただきたいと思っています。ただ、もう二年も経てば私から貴女に教えることは無くなっているでしょう」

「そんな……!」


 瞳に浮かべていた不安を焦燥に変え、声を張る。

 そんな様子に、リザが思わず視線を返すと、彼女はその表情を沈痛に変えて、「そんなことは無いです。先生は、ずっと私の先に居ます」と絞り出した。


「勿論、そう易々と抜かれるつもりはありません。ですが、そこから先は、貴女が貴女の正しいと判断した道を進んでいただきたいんです。だから、私はもう必要ない」

「……先生は、どこか別の道に行くんですか?」

「旅をしようと思っています」


 エレンが絶句して見開いた目には、積み重ねられた本の題が映っている。

 砂漠化現象、温暖化、異常気象、自然保護、難民問題――環境や人の暮らしに関わる問題の数々を取り扱った書物を読み解いていた。「それは……」と、驚きを口にする彼女に、リザは己を見詰め直すように「私は、この狭い世界に居過ぎました」と、悔恨を吐露する。


「自分の研究が誰かの為になると信じて、研究に没頭してきました。ですが、貴女に言われた『直接的に誰かを助ける』――魔導を使って誰かを助けることを、考えてこなかった。この技術を世界の為に活かすのは、なにも開発だけじゃない」


 実際に現地に赴き、行使する。それもまた必要な行動だろう。

 「簡単な話じゃないのは分かっています。だから、そのための準備を続けてきました。これからも、貴女を見送るまで、入念に続けていきます」と、語り、瞳を瞑る。

 目下の課題は路銀だろうが、幸いにも特許や国の補助金、研究成果に対する研究費の支給額が膨れ上がっている。この調子なら二年後には、少なくとも十年は食うに困らない額が溜まる。無論、エレンの為の資金も残した上で。


「世界を歩き回ります。できることをして、探して、自らの技術と見識を磨きたいと思っています。このご時世に一人旅とは、少々時代遅れかもしれませんが」


 リザがそう笑うと、エレンが唇を引き結んで俯き、エプロンの裾を握る。


「……この家が、私の居場所です」

「はい、勿論です。ずっと、ここに居てくだ――」

「でも、違うんです。この家だけじゃなくて、先生がいるこの家が、私の居場所なんです。お願いします、先生。ずっと、ここに居てください」


 何かを堪えるような震える声だった。

 言おうとした言葉を奪われて、思わず彼女の顔を覗き込む。

 俯かせた表情は今にも泣きだしそうで、エプロンの裾を握るその手は震えていた。濡れた翡翠色の瞳は揺れ、リザから逸らされ、床を捉えている。ぽつりと、屋根の不在を疑う雫が床を叩いて、リザは言葉を呑む。


 彼女は――もう、一人でも生きていける。

 既に食い繋ぐだけの金も稼ぐ手段も、彼女を支えてくれる人間も傍に居る。

 中等部の教職員はお人好しの巣窟だ。モーリッツだってこの話を快諾し、彼女を支えてくれると約束した。孤児院のマティルデ院長だって、頷いた。

 魔術省の中には彼女と親しい人物も居るし、町の人間だって、同様だ。


「貴女はもう、一人じゃありません。でしょう?」

「……先生が居なくなっても、私は生きていけます。今はもう、昔のように孤独に餓えていくような人生を送る必要は無いです。傍に居てくれる人たちも大勢できました。全部、先生のお陰です。一人じゃないし、不自由じゃない。だけど」


 言葉尻に高い感情が乗って、酷く揺れて。けれども一拍置いて、彼女はそれを鎮めた。

 俯いたまま袖で目元を拭い、濡れた瞳を持ち上げてリザを見詰めた。


「不自由でもいいので、先生の傍に居させてください」


 その感情の吐露を受け止めかねた。

 こうまで愚直な思いを向けられた経験は無くて、真っ直ぐに告げられた、包み隠さぬ願いをどう叶えていいのか分からない。それが自分の望みに沿うものであれば、そうすればいい。けれども、もしも、自分の願いに逆行するものだとすれば。


 リザはそっと立ち上がると、俯くエレンに歩み寄る。

 そして身を強張らせた彼女を、そっと励ますべく抱き締めた。

 華奢で柔らかくて温かくて、本当に小さい、まだ十二歳の女の子だった。


 身を強張らせていた彼女は、次第に体の力を抜くと、リザの服の裾を掴んで、肩を震わせた。「ごめんなさい」と消え入るように謝罪を繰り返して、我儘を詫びた。


 大人びていて、理知的だから間違えてしまっていた。

 彼女はまだ子供なのだ。そう再認識して彼女を抱く腕に力を込めた。

 努めて優しい声色で、彼女に詫びる。


「……指導者でありながら、自分のことしか考えられていませんでしたね」


 「ごめんなさい」と続けて、彼女の背中を優しく叩いた。


「貴女を泣かせてまで助けたいものはありません。この話は、無かったことに」


 その日のシチューは、少しだけしょっぱかった。




 一年と少しの歳月が経過した。季節は冬。雪の香りが町の随所に漂う頃だ。

 旅の話を取り止めたリザは、今までのように研究に没頭した。

 『使うこと』や『実用性』に専念していた頃に比べて、やはり技術的な進歩は著しい。しかし、効率性や現代に即した知識を磨いた経験も確かに生きていて、今までに無い視点が新たな発見をもたらす日々だった。


 先月に誕生日を迎えて十四歳になったエレンは、魔術師としては非常に高い域に居るとモーリッツさえも断言するほどの魔術師になっていた。単純な魔力総量はとうの昔にリザを追い抜いていた彼女だが、単純な技術も、もはやリザに迫っている。


 そんな彼女は、流石成長期とでも言おうか、日に日に大人びていく。

 容貌は可愛らしさから美しさへと移っていき、服装もそれに沿っていった。

 セミロングだった黒髪は誰を真似たのか肩先まで伸ばして、美人と呼ぶのに些かの齟齬も無い。中等部に限らず、高等部でも相当の人気を博しているとモーリッツに聞いた。


 対して、リザは高専を卒業した。

 大学への進学も考えたが、高専に行ったのもモーリッツの存在が大きく、魔導学に関して教育機関に通うメリットは薄いと考えた。無論、自分の知らない視点や技術を得る貴重な機会ではあるが、何をするにも、エレンの修了を見届けてからだ。


 今は一介の研究者に過ぎない。

 モーリッツやマティルデ、魔術省の人間から彼等の職場への強い勧誘もあった。エレンと出会う前であればモーリッツの呼び掛けに応じていただろう。会った時ならマティルデか、勧誘を受けた時は魔術省に大きく興味が寄っていた。


 だが、今はエレン・エッゲルトの先生だ。


 インターンはもう、一年も残っていない。

 彼女の十五歳の誕生日を迎える前に終わってしまう。

 それからも彼女の日々は続くが、彼女の先生である内に、持てる全てを彼女に捧ぐ。


 冬仕様で防寒対策万全の、暖炉の橙色が照らす自宅。

 冬の夜は星空も綺麗なのだが、生憎と曇天の今宵。

 リビングのロッキングチェアで揺れながら、研究室新作魔術の術式を書くエレンを見た。


「モーリッツ先生に聞きましたよ。またクラスメイトの子に告白されたとか」

「……大先生は本当に口が軽いですね。人の感情は道楽じゃないのですが」

「ええ、色恋沙汰で酒を呑む方々の気は分かりませんね。で、どう答えたんですか?」

「私の目には大先生も先生も同じように見えますが」

「貴女に告白した子の想いを弄ぶ気はありませんよ。ただ、愛弟子の色恋は、ね」


 「師匠として」と付け加えると、エレンは瞳を瞑って嘆息をこぼす。

 羊皮紙に走らせていたペンを置き、半分隠れた翡翠をこちらに向ける。


「断りましたよ」

「あらら、男の子ですか? 女の子ですか?」

「どちらも、です。同日に二人でした」

「同じ相手を好きになって同じ日に告白するくらい趣味嗜好が似通っている――その二人同士なら案外上手くいくのかもしれませんね」


 外野は好き勝手に言えるもので、リザは飄々と答えてロッキングチェアを立つ。

 そして彼女の書いていた文字列を覗き込んで「できましたか?」と先生として尋ねた。自慢の生徒は不敵な笑みを浮かべ、胸を張る。


「できましたよ。圧縮時に熱を生む現象に着想を受けた『空調魔導』」

「では内容と特許を確認次第、技術屋に試験的な製品化を頼みましょう」

「上手くいけば特許取得でしたっけ? お金貰えるんですよね?」

「確認した限りでは魔術特許の中にこの製品はありません。ただ、科学技術までは確認が追い付かなかったですね。製品化までは漕ぎ付けていないはずですけど、技術自体は既出かも。西の方にこの分野の天才集団が居るんですよね――リスト自体は貰ってるので、あとで一緒に見ましょうか」


 科学技術の発明は西、技術自体は東。

 魔術は南北というのがいつの間にか出来上がっていた構図だ。

 北東圏のリザとしては、いつかは西の方にも行ってみたいものだった。


「既出となると、もしかしてお金貰えませんか?」

「製品化がアウトですね。魔術特許は貰えますけど、はした金です」

「あー、まあ、いいですけども」


 あっさりと執着を捨てる彼女は、今や特許以外にも食い繋ぐ手段を数多く持っている。あくまでもこれは、技術がどの程度まで至ったかの確認という意味が強い。


 彼女の構築した魔術――魔導を確認したところ、空間を指定して圧縮。熱を生んで放出というプロセスを精密に構築しており、彼女が行使してもリザが行使しても、室内温度の調整に関しては非常に上手くいった。機能自体は問題なかった。

 しかし、特許の方を確認したところ、案の定、先駆者が居た。

 先達が半年前に『ヒートポンプ』なる電気や蒸気で駆動する空調機を特許申請しており、構造はエレンの考案したそれよりも遥かに洗練され、人間が魔術を行使しなくとも自動化できるという上位的な差別化点もあり、文句なしの惨敗だ。


 二人で無駄な労力を一頻り笑いあった後、そのまま傷の舐め合いと称して晩餐に移った。彼女の作る料理は、年々リザの舌に合ってきている。胃袋を掴まれているような気分だった。いつものように絶品の肉料理を食べていると、やはり当初よりもずっと綺麗になったエレンの顔が視界に移って、小さく嘆息をこぼす。


「人権意識の高い勇者様に申し上げるのはセクハラを指摘されそうで恐縮ですが」

「その呼び方をやめてくださいと何度も申し上げたはずですが」

「恋人とか、作らないんですか?」


 そう尋ねると、彼女は運ぼうとしていたフォークを止めて「セクハラですよ」と、それを咎める。「すみません」と悪びれずに詫びたリザを半眼で見て、何やらセクハラ以外の何かを不満に思っていそうな、含ましげな不満を表情に覗かせた。


「……恋人を作って出て行ってほしいってことですか?」

「なんでそう卑屈になるんですか。興味本位ですよ」

「恋人は……まあ、さほど意欲的ではないけど作りたいとは思ってます」

「好きな人は居るんですか?」

「因果関係が逆です。好きな人が居るからその人と交際をしたいんです。誰でもいいわけじゃないですよ、中学生をなんだと思ってるんですか?」


 妙に不機嫌なようで、チクチクとリザの胸を刺すような言葉を吐くエレン。

 さては恋愛話が苦手なのだろうかと話題を逸らそうとするも、そうは彼女が許さない。


「そういう先生はどうなんですか? もう高専も卒業して、ずっと一人ですか?」

「うーん、私も特に考えたことはありませんね。魔導が恋人みたいなもので」

「好きな人とか居ないんですか?」

「友愛や親愛ならそれなりに居ますけど、恋愛となると……」


 うーん、と腕を組んで悩むリザ。そんな様を、エレンはとにかく不機嫌に眺めた。


「いな、い、かな……?」

「本当に居ないんですか? そんな特別視をしなくていいんですよ、身近に居る人で、一緒に居て楽しいとか守ってあげたいとか、傍に居てあげたいとか、近すぎて気付かないだけで本当は誰よりも大切な身近に居る人とか居ないんですか?」


 一生懸命に特定の誰かを示そうとするエレンであったが、その条件を探すリザの頭の中は、一度でも恋愛的に意識をしたことのある人間から抽出をしようとしているだけ。そもそも他者に恋愛感情を抱いたことの無いリザが導き出す解答は――


「居ないかなあ。まあ、いつかはそう思える人が出来るかもしれません」

「何で、ですか! なんっ、ご、が、ぐ――! もう!」


 満面の笑みで否定を告げたリザに、言葉にならない憤慨をどうにか噛み殺して、自棄になりながらエレンは肉を口に運ぶ。珍しく取り乱す彼女に驚きつつ食事を進めると、彼女は恨みがましい瞳をジトジトとリザに投げてきた。

 「分かってます。私が悪いんです」と、何に対するものかも分からない自己否定を告げる彼女に「どうしました?」と、リザは心配をする他には無かった。


「『そういう相手』じゃないのに夢を見る方が悪いんです」


 小さく瞳を瞑って断言する彼女からは、まるで自分に言い聞かせるような気配を感じられた。


「それに、そんな資格なんてありませんから」




 夕飯を終えてからの行動は様々だ。

 魔術、魔導の研究に勤しむ日もあれば、疲れてそのまま眠りに落ちる日も、何らかの議題を二人で会議し合うこともある。特に決まった作業がある訳ではない。


 エレン・エッゲルトがその日に選んだのは、最近の趣味となりつつある菓子作りであった。クッキー、ケーキ、スコーン。保存の手段が確立されつつある現代、こうして暇を見付けて菓子を作り、機を見てリザと食べるのが彼女の楽しみであった。

 初めて気まぐれで作ったモンブランを彼女がとても美味しそうに食べてくれたものだから、どうにか、もう一度その顔が見てみたいと始めたのだが、どうにも彼女は、自分の作ったなんの甘い物を食べてもそういう表情をするので、今は強い動機も無い。


 クッキーを焼き終え、乗せたトレイを手に、リザは何をしているのだろうかと、彼女が夕食後に消えていった研究室のほうをひょいと覗き込む。

 どうやら、書架に置いてあった書物を読み耽っているようだった。


 魔術師というのは荒毎に関わることもあり、その点において、リザはエレンとは比較にならない程に長けている。故に、比較的に警戒心が強いはずなのだが、よほどエレンに気を許しているのか、それほど没頭をしているのか、エレンの接近に彼女は気付かない。


 手にしている本の題は『移民問題と受け入れのリスク』――傍には、先日に南西の国で起きたクーデター事件と、それによる国外逃亡者を一面で取り扱った新聞記事。

 彼女と出会った時は、研究室に籠りきりで研究に没頭して、周囲に目を向けることの少なかった彼女だが、今では意欲的にそういった情報を取り入れ、まるで何かの問題を解決するためかのような、局所的に役立つ魔導を開発するようになった。


 要は、純粋な魔術の研究ではなく、現代情勢に沿った魔導に目を向けている。

 彼女は明言をしたことは無いが、彼女の魔導を含む魔術に対する認識は変わりつつある。『いずれ誰かの役に立つ』研究を、『今、誰かの為になる』研究へと変えていった。


 その変化はモーリッツも悟っていた。

 彼は長い研究の中で、その選択を選ぶことはせずに居た。

 だからその思想は彼の意思には沿わないはずなのに、誰よりも嬉しそうに彼はその変化を讃え、誇っていた。『彼女は偉大な魔導師だ』と。


 最近――特に一年と少し前に、エレンが彼女の旅を止めた日から、彼女はああして物思いに耽るようになった。エレンへの実習教育を終えてもここに残り続けると約束したが、彼女の意思は既にここには無い。

 きっと、彼女は約束を守るが、その想いまでは止められないのだろう。


「先生」


 思わず呼び掛けると、彼女は驚いたように目を丸くして、すぐにその表情に笑みを宿した。それから手に持っていたトレイと、その上に載っているクッキーを見て、「お」と唇を湿らせた。


「クッキー焼きました。いかがですか?」

「是非いただきます。ちょうど、口元が寂しいと思っていたので」

「タバコでも吸いそうな言い回しですね」

「嫌ですか?」

「先生なら似合いそうですが……お体に障りますので」

「はは、そう止められると弱いですね。でも、どちらにせよエレンさんの害になりますので、指導者としては吸えませんよ」


 リザは穏やかに笑うと、美味しそうにクッキーを食べる。

 彼女は反射的に手で珈琲を探すが、近くにマグカップは無い。それを見たエレンは「淹れますよ。ブラックでいいですか?」と尋ね、「すみません」という謝罪を肯定と解釈した。


 珈琲も、最近始めた趣味だ。

 彼女はモーリッツの研究室で出される彼の珈琲を、とても美味しそうに飲む。心身ともにとても落ち着いた様子で。自分と二人の時には見せない屈託のない表情を覗かせて。

 彼女にとってのモーリッツは、自身にとっての彼女のようなもので、親のような存在だ。だから子供に見せない顔を親に見せるというのはきっと自然なことなのだろうが、どこか胸の奥底に宿る靄を消し去るために、足掻くためにモーリッツに教わった。


 当初は驚いていた彼女も、多趣味なエレンの生き様を褒めてくれた。


「どうぞ」


 湯気の立つそれらを、汚れても構わない雑多な書類と筆記具で覆われた研究机に置く。

 「ありがとうございます」と、リザは静かにそれを口にする。


「先生にとって、魔導って何ですか?」

「……急ですね?」


 彼女は驚いたように笑って、視線をカーテンの隙間から外に向ける。

 星空の見えない曇天。雪も降らない曇天。

 濁った夜空はまるで、彼女に初めて魔導を見せてもらった日と同じだった。


「それは哲学的な質問ですか? それとも、主観的な?」

「後者です。先生は魔導をどう解釈して、魔導にどんな思いを抱いているのか、知りたくなりました」

「そうですね……最初は『存在価値の証明手段』でした」


 そっと珈琲をもう一口。それは、魔導を初めて知った時のエレンと同じだ。

 同じ道を同じように歩んできた。原点も同じだったのだ。だから、そこも似ている。


「私は貴女と同じで孤児として院に預けられ、そこをモーリッツ先生に拾われました。元々、彼も同じく孤児の出身だった関係で院に出資をしているんです。今でも、私との共同開発した技術製品幾つかの特許料はそっちに回ってます。マティルデ院長の場所にも」

「そ……そうだったんですか? 知らなかったです」

「子供に話すような内容じゃないでしょう。生々しい」


 苦笑をするリザに、「それもそうですね」と苦笑で誤魔化すエレン。


「貴女が密かに院へ仕送りしているのも知っています」


 動揺に肩を震わせ、手にしていたマグカップから珈琲が鼻先に飛ぶ。

 熱さに呻くエレンを楽しそうに眺めて、リザは「院長の密告でね。隠さなくてもいいのに」と、笑う。しかし、そういう恩着せがましい部分は人に知られたくなかったエレンはバツが悪そうに「その話は流してください」と冷たく応じた。


「ともあれ、そんな事情でモーリッツ先生も頻繁に様々な孤児院に顔を出していて、貴女を見付けたのもそういう経緯だったのでしょう。でも、彼に孤児を拾う意思は無かった――だって、彼が拾うより、院で生きた方が裕福で自由だから」

「……大先生にできるのは、魔導を教えることだけだから」

「彼の下に行くのは魔導の道に進むのと同義で、それ以外の道を選ぶなら院に居た方がいい。裕福で自由で、刺激し合える仲間も居る。多くの人に支えてもらえる」


 そう語ったリザは、「でも」と続けた。


「多くの人を支えて、助けて生きる道を選びたかった。そうしてもらったから、それを返したい気持ちもありましたけど、そうされることの喜びを理解したから、他者にそれを授けることで自己肯定をしようとした。その為の手段はこの世界に無数にあふれているけれども、その為の手段はとても難しいものばかりで。だから、師事をする相手が必要だった。でも幼く未熟だった私は、意地を張って独学で魔術を研究していました」

「最初は独学だったんですか?」

「両親の蒸発から院に預けられて、在籍していた期間は半年くらいでしたけど、その間は『元素魔術』を軸に研究していましたよ。それしか魔術を知らなかったので」


 今になれば調べる手段など、図書館や伝聞や、この世に溢れていると分かるけれども、幼少期に図書館で何かを調べるという判断は難しいものなのだ。


「それをモーリッツ先生に見咎められました。目的や動機は明確なのに、馬鹿げた手段を選んで非効率的な道を進んでいる私を見過ごせず、彼は頻繁に孤児院に来て私に魔術を教えてくれました。そして、私が元素魔術から魔導に転向したのを機に、彼に仕事を与えられるようになって――気付けばこうして、貴女にそんな話をしている」


 思えば一瞬だ。七年間という歳月は光のように瞬く間に過ぎ去って、その癖に今という一瞬は鮮明に目の前に広がっている。


「今は、存在価値なんてものを証明しようと躍起になることはないです。だって、そうしなくたって助けてくれる人も支えてくれる人も居る。だから私も、そうする」


 「今は――」とリザは自分の内面を覗くように、窓に映る自分の瞳を見た。

 抱いた感情を確かめた。間違いは無い、胸を張って言えるだろう。そんな自信を思わせる表情を浮かべて、ハッキリと告げた。


「助けられてきた人生だから、これを、誰かを助けるために使います」


 その言葉を受け止めたエレンは、そっと瞳を瞑った。

 噛み締めるようにその意思を反芻して、自らの心の中にあった迷いを確かなものへと変えていく。彼女は出会った時から何も変わらず、ただ誰かを助けようとしている。自分にしてくれたことと同じように、誰かを。その為の手段が間接的から直接的に変わっただけ。


 揺るがない彼女の意思を捻じ曲げてしまったのは己だ。


 悔恨は消えない。だが――


「それに」


 決断を下そうとするエレンの前で、そんなエレンの葛藤など露とも知らずにリザは笑う。どこか気恥ずかしそうに無邪気な笑みを浮かべて、言葉を続けた。


「魔導は大切な絆の糸でもあります。魔導が、モーリッツ先生に出会わせてくれた」


 「それに」と、リザは真っ直ぐとエレンの翡翠の瞳を見詰めた。

 紫水晶が穏やかな輝きを持って、エレンの心を奪う。


「――魔導が、貴女と私を繋いでくれました。貴女と出会えて私は変われた。貴女との出会いは、私の人生にとってかけがえのない宝物です」


 エレンは目を見開き、胸を包み込む温かい感情を確かめるように胸を押さえて俯く。熱くなった目頭を誤魔化すように、更に強く瞑って、拳を握り締める。

 唇を噛み締めて、溢れ出る想いを懸命に堪える。


 深く呼吸をして涙を抑えたエレンを、リザは心配するように見る。

 エレンは顔を上げると、そんな彼女の瞳を見詰めた。


「先生」


 覚悟は固まった。


「見せたいものがあります」




 外は相変わらず曇天だった。冬の冷気が肌を刺す。

 初めて魔導を見せてもらった中秋の晩もこんな曇天だったか。けれども今日はあの日とは違い、ずっと寒くて防寒着を着込んでいる。しかし、あの日よりもずっと心は温かくて、心の熱量が身体を突き動かした。


「あの日と同じ曇り空ですね」


 そう告げたエレンは、右腕の袖を微かに捲って指先を虚空に走らせる。

 エレンがリザを外に連れ出した理由は、その動作と言葉で理解できたのだろう。その様を見たリザは余計な口を挟まずに、弟子の成長を見守った。


 体内に生成される魔素は持ち主の性質に応じて異なる特徴を持つ。

 例えばリザ・エッゲルトは『不定』の性質を持ち、あらゆる魔術に規格外の適合力、つまり万能の特徴を示す『藍色』の魔力の持ち主だ。モーリッツ・ファルケンベルクは『弾性』の性質を持ち、目的に反する動作を組み込むことで飛躍的に性能を向上させる『黄金』。


 エレン・エッゲルトの書き記す文字列は深紅色に輝いていた。

 その輝きは筆者の膨大な魔力を示すように眩く輝き、目を焼く赤で曇天を照らす。

 膨れ上がる魔力が指向性を得る前だというのに実体を得つつあり、微かな風の奔流が吹き乱れた。彼女の瞳の翡翠に差した赤色が、妖しく蠢く。


 エレンの持つ性質は『暴食』。

 『体内魔力』は『自然魔力』を喰らって肥大化し、世界中の魔素がその魔術行使を後押しする。常人より遥かに多い彼女の魔力が更に膨れ上がり、世界を焼き焦がすように赤く輝いた。


「ずっと、悩んでいました」


 そう語りながら、エレンは自身の指先で描いた文字列を弾く。

 ステンドガラスのように砕け散ったその赤い文字たちは、雪のように霧散する。


 途端、肌を切り裂くのではないかと錯覚するような凄絶な暴風が吹き荒れた。


 リザは表情を一つも変えずにその光景を見守り、エレンは想いを込めて再び指を走らせる。


 ――魔術行使は詠唱、綴字、儀式、多岐に渡る。

 綴字は高精度で高効率の、理論上は魔術行使の最適解とされる手段だ。

 しかし、使い手に必要以上の知識を求め、故に使い勝手の悪さが不評だ。モーリッツも主に詠唱を好む。リザは綴字を扱うが、それをエレンには強制してこなかった。


 それでもエレンが文字を書き記すのは、そこに憧れがあったからだ。

 それが分からないリザではない。


 そんなリザの前で、高位の魔術師も青褪めるような長文を六列刻んだエレンは、ほぅと白い吐息を漏らして、冬の曇天、荒れ狂う暴風の中でその文字列を弾いた。

 光の残滓が、そっと夜に溶けていく。

 夜の地面に光が消えていき、その後を追うように白い粒が落ちた。

 空から、白い粉雪が揺蕩い落ちてきた。


 ――暴風が吹き止んだ。


 エレンは指を止め、その瞳を持ち上げてリザを見詰めた。

 リザもまた、空を仰ぐよりも前にエレンの瞳を受け止め、見詰め返す。

 髪を濡らす真っ白な雪が、互いの瞳を見詰めている内に段々と桜色に染まっていった。エレンはあの時の彼女と同じように、「空、見てください」と告げた。


 微かに頬を緩めたリザは、言葉もなく空を仰いだ。


 曇天にはぽっかりと穴が開いて、そこには冬の澄んだ綺麗な星空が広がっていた。

 だというのに、その星々から滴るように、桜色の雪が降り注いでいる。


「……冬の空がどうして綺麗か知っていますか?」


 リザが視線を下ろした先で、エレンは何でもない表情を努めて浮かべて、世間話をするような調子で語った。


「夏場と違って乾燥していて、塵やゴミも無いから――だから、吹きあげる風から湿度を奪って、塵やゴミも取り除きました。今、ここで見上げる星空が、この国で最も綺麗な空です」


 誇ることもなくそう語った彼女。

 リザは浮かべている笑みを少しだけ意地悪く変えて、呟く。


「雪が雲から地表に落ちるまでの時間は、およそ三時間以上はかかるそうですよ」

「へー! ちなみに雪って白いらしいんですよ」

「もっと言えば、晴れ空から雪は降らないんじゃないですか?」


 そう語ると、心底楽しそうにエレンは笑みを浮かべる。


「春って年度の分かれ目で、桜の季節じゃないですか。東洋だと、桜を『出会いと別れの象徴』って呼ぶらしいんです。でも、流石に自然物の花弁を人工的に作るのは趣に欠けるので」

「……貴女らしい価値観だ。凄く綺麗です。どうやったんですか?」

「猿真似ですみません――曇り空を除去したのは、あの日、先生に教えてもらった通りです。雪は穴の周りの雲を冷風で押し上げて、帰ってくる風でここに落としています。色は、去年に魔術省で発表された『対象識別論』を借りて『呪術』の認識干渉から着想を受けた、波長制御を雪にだけ施しています」

「ああ、可視光線の調整でしたか。非常に繊細な作業で、私や先生も苦手な分野だというのに――この規模で、これだけ正確に弄れるようになったんですね」


 リザはこの冬の星空に広がる桜色の雪の光景を、噛み締めるように眺めて、やがて、笑みと共に俯く。しばらく何かを考え込むような素振りで、そんな彼女をエレンは見詰める。

 やがて顔を上げた彼女は今にも泣きそうで、でも今まで見てきたどんな表情よりも嬉しそうで。同時に、その表情はエレン・エッゲルトを一人の魔導師と認めていた。


「前に言ったこと、覚えてますか?」

「前に、言ったこと……ですか?」

「『天候操作は最高位の魔術師の特権と言われています』」


 思い出したエレンは瞳を見開く。

 三年前、確かに彼女はそう言った。

 今まで見てきたのは、彼女の背中だけだった。ただ、彼女のようになれたと伝えたかった。けれども、それだけではない。彼女は、彼女のようになれるよう指導をした訳じゃない。


 彼女はエレン・エッゲルトを一人前にしてくれた。


「いつの間にか、こんなにも成長していたんですね。貴女を、誇りに思います」


 その言葉を聞いた途端、エレンは刹那に熱くなった目頭を自覚する。

 感情が絡まった糸のようになって上手く言葉を出せなくて、焦りと共に口を開いて、詰まりながらも懸命に空気を押し出して。どうにか、言葉を紡いだ。


「――先生のお陰で! ここまで、来れました……! ありがとうございました!」


 深く頭を下げる。雪が首筋に落ちて滴って、エレンはそっと顔を上げる。

 彼女は静かな笑みを浮かべて「貴女の努力です」と、エレンを讃えた。


 エレンは今にも泣き出しそうな顔を取り繕うこともせず、目元を拭って叫ぶ。


「ずっと後悔をしていました! 私は……先生をはじめ、大勢の人に支えられて生きてきました。大勢の人に助けられて、今、こうして魔導師になれました。この歩んできた道のりは私だけのもので、他の誰の物でもありません。これから先もずっと……!」


 自分の歩んできた道を誰よりも大切に思い、エレンはそれを宝物のように思っている。

 それは決して他人の物ではなく。

 『エレン・エッゲルト』の人生はエレン・エッゲルトの物だ。


 だから――


「だから、先生の人生も先生の物で、私の物じゃないんです」


 きっと、この場を眺める誰かは当たり前の事柄を語るものだと笑うかもしれない。

 けれども、ずっと悩んでいたエレンにとってこの言葉はそれ以上の意味を持っている。そして、ずっと忘れられないでいたリザにとっても、同様に大きな意味を持っていた。


 エレンの告白を静かに見守っていたリザは、彼女の言いたいことを察した。

 目を見開いて、悲痛な表情の彼女を励まそうと口を開きかける。リザの思想は変わらず――エレンを泣かせてまで果たす目的は無い。だが、エレンはその思想を否定しているのだ。リザの人生はリザのもので、エレンを泣かそうとも、その道を行くべきだと。


「先生のことが大切で、離れたくなくて、引き留めてしまいました。でも、ずっと悩んでいました。ずっと悩んで、先生の想いと言葉を聞いて、過ちに気付けました。一年前、我儘を言ってごめんなさい……謝るのが遅れてしまって、ごめんなさい……!」


 ボロボロと感情の昂りに伴って溢れる涙を堪えることもなく流して、言葉を続けた。

 ほんの少しだけ、リザの目尻に雪以外の何かが光をもたらした。彼女は唇を噛み締め、懸命にエレンの贖罪を見守る。言葉を挟まず、溜め込んだ想いを受け止める。


「幼くて、ごめんなさい……!」


 そう告げる彼女に、リザは一筋の感情を右の目尻に伝わせて、歩き出す。

 エレンは堪えきれなくなった涙を手の腹で拭って、拭って、それでも際限なく落ちていく心の靄を、それでも拭い続ける。リザは彼女に歩み寄り、エレンは最後に願いを告げた。


「行ってください、先生。 私はもう、大丈夫ですから――」


 言葉の終わりを受け止めるように、リザは彼女の身体を抱き締めた。

 一年前よりも少しだけ、身長差が縮まっていた。

 けれども柔らかくて温かい大切な感触は変わらない。大切な家族を抱き締めて、リザは「子供でいいんです。我儘を言ってもいい。私は貴女の家族で、先生だから」――そう、震える声で言い聞かせた。一際大きな涙の粒がリザの肩に滴り落ちて、雪と溶け合った。


 十四歳の少女だ。親に捨てられ、懸命に生きてきた少女だ。

 誰がその我儘を咎められようか。

 誰がその願いを断れようか。

 誰かの為に生きることを選ぶ彼女の為に、誰が何をしてやれる。少なくとも先生である自分が、彼女の傍に居てやらなければいけない。彼女は何も、謝る必要など無いのだ。


「大丈夫。ずっと、傍に――」

「寂しいです。寂しいんですよ……! 耐えられないくらい先生のことが大好きで、居なくなるなんて考えられない! でも、一緒に付いていけば邪魔をするだけで、引き留めるのは先生の人生を壊すことだから、私は見送るんです!」


 泣きじゃくりながら、彼女は懸命に言葉を紡いだ。


 『年齢の割に、とんでもなく大人びた子だ』。

 それが周囲からの彼女への評価だ。

 だが、大人びているだけで大人ではない。それに、大人になるというのは乾くことではない。大切な人を大切に思う気持ちは大人も子供も変わらない。ただ、その感情を隠し通せるか否かの違いだけで。


 エレンがこの言葉を紡ぐのに、どんな覚悟が必要だったか。

 今までどれだけ苦悩と葛藤を繰り返してきたか。

 感情と理屈と、そして誰かの願いと。それらに折り合いをつけることの難しさを、リザは知っている。だから、エレンの決断を高く評価した。


「それでも、私は貴女の家族です。だから、貴女が大人になるまでは――」

「――先生も、仰っていました」


 リザの、彼女の指導者としての覚悟を孕んだ言葉に、エレンは静かに告げた。

 そっと、自分を抱き締めるリザの手を離して、顔を見合わせる。涙に揺れる言葉と瞳をリザに向けて、リザの不安を払拭するように笑顔を作った。


「離れていても、魔導が私と先生を繋いでくれます」


 『魔導が、貴女と私を繋いでくれました。貴女と出会えて私は変われた。貴女との出会いは、私の人生にとってかけがえのない宝物です』――つい先ほどの言葉を思い出して、彼女の笑みを受け取って、リザはそれ以上彼女の想いを否定する手段など持たなかった。


 唇を噛み締めて溢れ出る感情を押し殺して、ぽつりと一条の涙をこぼす。


「来年の秋。インターンが終わる日に、ここを出ます」


 そっと言葉を紡ぎ、笑みを浮かべて続けた。


「私を、見送ってくれますか?」


 桜色の雪が落ちる。満天の星空が二人の背中を押す。

 冬の風は二人の間を抜けることはせず、守るように、包み込むように流れる。

 この幻想的な世界を創れる偉大な魔導師は。

 リザ・エッゲルトの愛弟子は、笑みで応じた。


「はい」




「――そういえば、今日でインターンは終了だったかな?」


 一年という歳月はあっという間で、二人の魔導師が切磋琢磨をしている内に、気付けば木々は葉を付け、青々と輝いて、今ではもう、赤く染まっている。


 久方ぶりにモーリッツの研究室に顔を出して珈琲をご馳走になっていたリザは、眉を上げて「お忘れでしたか?」と軽口で尋ねる。「確認しただけだ」と、白髪の増え始めたモーリッツは、噛み締めるように、懐かしむように笑う。


「エレン君の今後は決まっているのかな?」

「本人は色々とやりたいことがあるみたいですが、最初に着手しようとしている目標だけは聞きましたよ。まあー、誰に似たのか、とんでもなくぶっ飛んだ夢を叶えようとしている。流石の彼女も一人では無理でしょう、先生にも声がかかるかも」

「はっは、まだこの老骨を頼るか。さては、折れるまで使う気だな?」

「『使えるものは使え』――先生の教えでしょう」


 微かに笑って指摘をすると、「はて」と、とぼけた表情で肩を竦めるモーリッツ。

 彼はそのまま続いて、瞳を瞑って過去に想いを馳せる。


「四年間などあっという間だな。あんな小さく弱かった少女が、今では我々も一目を置く魔導師だ。指導者が良いと言いたいが、こればかりは彼女の努力の賜物だな」

「ええ、たゆまぬ鍛錬が彼女を魔導師にしました――ところで先生」


 「む?」と眉を上げる彼に、一言を添えた。


「昔話をするのは歳を取り始めた証らしいですよ」

「……勘弁してくれ。ただでさえ最近、自覚をし始めているというに」

「知人の『モノワスレ・ワッスーレ』っていう脳科学者が『教育は老化防止に良い』って言ってましたよ。先生もインターンをやってみては? 四年間。素敵な日々でした」


 嘘と本音をぐちゃぐちゃに織り交ぜて喋ると、呆れたような視線がモーリッツから飛んでくる。「悪い所も僕に似てきたね」という称賛には「どうも」とだけ礼を返しておく。


「それで、四年間の教育はどうだった?」


 その話を切り出したモーリッツの表情は真剣で、しかし微かな笑みを宿して。

 リザはマグカップを置くと背筋を正し、彼の瞳を正面から返した。


「充実した日々と気づきの連続でした。この経験も、彼女も、私の生涯の宝物です」

「君は君が思うよりも立派な魔導師になった。そして、立派な指導者に。何よりも、僕が思っていたよりもずっと、遠くへ進もうとしている。断言しよう――」


 彼は佇まいを直すと、リザを一人の魔導師と認め、対等な、敬意を表すべき存在と捉えた。真剣な表情で、リザの背中を押す。


「――君の進む未来に、必ず誰かの笑顔がある。僕はそう確信している」


 その言葉を噛み締めて、リザは八年間の歳月を思い出す。

 彼の弟子として研鑽に励んだ四年間と、彼女の師として新しい世界を知った四年間。

 どちらも彼をなくしてはあり得なかった時間だ。

 今の自分を形成する偉大なる師であり、恩義ある先生だ。


 背筋を正したまま、改めて彼に挨拶をする。


「今日、彼女にインターンの修了を告げたらここを出ます」

「……行く先は決まっているのかい?」

「船で西の大陸に渡り、技師の町を訪れて機械技術を学びます。並行して、その南にある砂漠地帯の深刻な食糧問題について、調査と改善を試みます」

「そうか……長い旅になりそうだね」

「そこだけでも、一年以上は確実に残るでしょう」


 魔導を使えばこの世のどんな問題も一発で解決――そんな夢の話ではない。

 地に足を付けた、魔導師が、学者が歩む人助けの道は、きっと挫折と試行の繰り返しだ。


 神妙な表情で告げたリザに、モーリッツは「ふぅ」とわざとらしくため息を吐いて、椅子に座り直す。その顔をリザに見えないように傾かせ、震える声で続けた。


「ここには、いつ戻るんだい?」

「数年に一度は顔を出すつもりですが、ここに腰を据えるのは遠い先になるかと」

「エレン君が寂しがりそうだね」

「彼女はもう、大丈夫です。だから私も、胸を張って行きます」


 リザの声が微かに揺れる。何度か言葉に詰まりかけて、それを懸命に押し出して、不器用な言葉で懸命に言葉を紡いだ。


 モーリッツの肩が、微かに震えている。

 彼は懸命に震えを押し殺した声で、窓の外に広がる青空を仰いで語る。


「八年間、あっという間だった。あんなに不器用で小さかった君が、今は誰かを助けるために旅に出る。きっと、新聞で君を見る日も遠くはないだろう」


 彼に多くのことを教わった。そうして教わったことを、エレンに受け継いだ。

 そうして教わったことで、誰かを助けようとしている。

 彼が居るから、今の自分が居る。リザは懸命に唇を噛み締め、拳を握り締める。

 俯いて、零れ落ちないように頭を下げ続ける。


「――君を、誇りに思うよ。リザ」


 大粒の雫が、手の甲を弾いた。

 リザは立ち上がり、零れ落ちる涙を隠すこともなく、深く頭を下げる。

 この世で最も敬愛する自らの師に、別れを告げる。


「モーリッツ先生! 八年間、たいへんお世話になりました!」

「……ああ」

「先生と出会わなければ今の私は居ませんでした! 先生の教えてくださった魔導が、私の世界を切り拓いてくれました! 大切な弟子と、巡り合わせてくれました!」


 涙は決して止まることはなく、二十年の生涯で、最も声を張り上げて、この感情をどうにか伝えようと四苦八苦する。モーリッツは持て余していた手を目元に当て、「ああ」と震える声で繰り返した。――自分にとって、父親のような存在だった。


「この御恩は、生涯忘れません!」


 ボタボタと、雨が研究室の床を叩いた。

 そして、雨が年季の入った布ズボンを叩いた。


「気を付けて行っておいで。風邪をひかないようにね」


 震える声で紡がれた父親の言葉に、リザは力強く頷いた。


「――はい!」




「そんなのでいいんですか? 荷物」

「うーん、あまり多く持って行っても荷物になりますからね。資金は十分ですし、食い繋ぐ手段もありますし、向こうで必要分は買おうかと。だから、残りは処分して」

「駄目ですよ。戻って来た時にどうするんですか?」

「いや、まあ、それはそうですけど……邪魔では」

「先生の服が家の邪魔になることはないです。もしそう思う日が来たら、置こうとしているその荷物こそが邪魔なんです」


 自宅の一角で、旅支度を進めているのはとある師弟だ。

 弟子は――エレン・エッゲルトは敬愛する師匠の荷物を、どうやら、いつ帰るかも分からない持ち主の為に保存しておくつもりらしい。対する師匠、リザ・エッゲルトはいつ帰るかも分からないのに残されることに罪悪感を覚えていた。


「いつまでも待ってるんですから。ここに、帰る場所を用意させてください」

「……分かりました。必ず帰りますから、待っていてください」


 一年が経過して、十五歳を目前に控えたエレンは一段と成長した。

 非常に大人びた風貌と美しさに、大人に近付いた体系。将来は万人が振り返るような美人になるだろうと楽しみに思いつつ、その過程を見守れない自分に呆れる。


 しかし、それでもこの道が続いているのなら止まれない。


 リザ・エッゲルトは旅に出る。

 そして、誰もがその背中を押してくれる。

 だから、リザも胸を張って行けるのだ。


「ま、最低限の荷物さえあればどうにでもなります。それより今日は、エレンさんのインターンシップ制度の最終日。メインは貴女の卒業です!」

「違いますー! 先生の旅立ちですー!」


 年相応に不貞腐れた、我儘少女の調子でリザの言葉を否定するエレン。

 彼女の想いを受け止めて以降、少しだけ、遠慮が無くなった。

 互いに敬意を抱きつつ、でも、親愛の証として少しだけ踏み込んだ。


 リザは「生意気な」と笑う。そんなリザの顔を見たエレンは、微かに笑って自身の目を示す。


「目、腫れてますよ」

「ぬ」


 言われて窓に映る自分を見ようとするも、昼下がりの明るい外景色のせいで上手く見えない。なんとか目を細めて見ると、確かに少しだけ腫れていた。


「気にしないでください」

「昨晩もあんなに腫れていたのに」

「そっちはお互い様でしょう」


 エレンとの別れの挨拶は、昨晩に済ませた。

 もう、際限なくエレンが泣き続けるものだから、リザももらい泣きをしてしまった。という設定で誤魔化しているが、無論、リザとて堪えられるほど彼女との思い出が浅い訳ではない。本当に、大切な生徒なのだ。


 大切な人が大勢居る。

 でも、それは自分だけではなくて――きっと視界に映る誰かもまた、誰かの大切な人で、その誰かも、誰かを大切にしていて。想いと命は繋がっているから、それを繋ぎ止めるための旅に出るのだ。「よし!」と、荷支度を済ませたリザは背筋を正す。


 二人で時計を見ると、時間は十三時。良い頃合いだろうか。


「それでは、卒業式を始めましょうか」

「……はい、よろしくお願いします」


 涙は無い。でも、少しだけ感傷があった。


「まあ、卒業式と言っても、言いたいことは昨日、全部伝えました!」

「確かに受け取りました。手厳しい指摘を含めて!」

「もう一度お伝えした方が様になるかもしれませんが、どうします?」

「心が持たないので勘弁してください」


 彼女の敬愛する師匠であるのと同時に、だからこそ、彼女の躍進の妨げとなる悪点を手厳しく、余すことなく指摘した――さては、彼女の昨晩の涙は。そこまで考えて、まさかと首を振った。そんなリザの邪推を察したのか、エレンも苦笑をする。


「――じゃ、形式だけでも卒業証書を授けましょうか」


 リザはそう告げると、研究室の扉脇に隠しておいた小袋を引っ張り出して、疑問符を浮かべるエレンに「証書って言っても、贈り物ですけども」と、袋からそれを取り出した。


 中から取り出されたのは、翡翠色に淡く輝く宝石だ。

 加工をされて、ペンダントの枠に嵌め込まれている。


 純粋な翡翠ではなく、魔力を保有する特殊な成分を含んで生成された、『魔石』と呼ばれる非常にお高い宝石だ。性質は蓄えた魔力に応じて光を放つという点。名高い魔術師が一か月分の魔力を詰め込んで、ようやく真っ暗な闇の中で視認できるか否か、という程度。


 そして、その宝石は昼間でも目視できるほどの淡い輝きを宿している。

 彼女の翡翠色の瞳がその宝石を捉えて、見開かれた。


「ま、魔石ですか!? め、めちゃくちゃお高い奴じゃないですか!」

「先生が生徒の巣立ちに何も送らないとなっては、沽券にかかわりますからね。悪いですけど、嫌でも受け取ってもらいますよ。私の半年分の魔力が入ってます」

「半年!?」

「こっそりコツコツ溜めました」


 驚きに声を裏返す彼女に、そんな反応ならサプライズをした甲斐があると、リザも笑った。とはいえ、半年間全ての魔力を注ぎ込んだ訳ではないが、


「翡翠の魔石って、数千万くらい……旅の資金は」

「そっから切り崩しました」

「何をやってるんですか!?」


 血相を変えたエレンがリザの肩を掴んで、がくがくと揺らす。

 「そのせいで支障が出たらどうするんですか!」と叫ぶ彼女に、リザは想定通りの説教を受けながら「そしたら帰ってきますー」と間の抜けた答えを返す。

 そして、微かに笑いながらエレンを見詰めた。


「私の、半年間の魔力です。恐らく貴女の知る全ての魔術を容易に賄ってくれる――何かあったらこの魔力を使ってください。この宝石が貴女を守ってくれる」

「……先生」

「私は貴女の家族であり、先生です。たとえ、貴女が実習を終えても。それなのに私は貴女のもとを離れて旅立つ。だから、せめてこういう形で守らせてください」


 エレンは返す言葉に詰まって、その言葉に感涙するように「その言い方はズルいですよ」と額を押さえて、苦笑を覗かせた。

 そして、そのペンダントを強く抱き締める。


「……大事にします」

「でしたら、私が必ず貴女を守ります」


 そう微笑んで告げると、その穏やかな笑みを至近距離で見詰めたエレンは頬を染め、「くそぅ」と何かに悔しがりながら、ペンダントをリザに差し出す。


「付けてください」

「ふふ、そうですね。折角ですから」


 彼女からペンダントを受け取り、リザは彼女の首に手を回して、その後ろ側で四苦八苦をする。後ろに回ればいいものを、横着して前から繋ぎ止めようとするから苦戦するのだ。

 そして、その弊害を受けるエレンは嬉しいのだか、恥ずかしいのだか、困った様子で顔を赤く染めて身動ぎをできない。「お、繋がった!」と、まるで魔術が完成したときのような調子で喜んで、リザは手を離す。


 そして、寝室からズルズルと姿見を持ってきて、エレンの前に立てた。


 四年前は肉も無く、骨と皮ばかりだった身体に、病的に白い肌。

 無頓着で無造作に伸ばしていた黒髪と、暗い表情が印象的だった。


 でも、今は年相応の肉付きと血色のいい肌。

 リザを真似て伸ばした黒髪と、自信に満ちた表情が見える。

 そして、その胸元には敬愛する師から授かった、一人前の証。


 瞳と同じ色に輝く宝石を、とても愛おしくエレンは抱き締めた。


「ずっと、大切にします」




『三番線――エルウッド行きの列車が、間もなく到着します』

 柱に取り付けられた気だるげな駅員のアナウンスを聞いて、二人は顔を見合わせた。

 そして、再び視線を戻して、静かなプラットホームで線路を眺める。


 駅のホームに、そう人は多くない。

 閑静なその空間、ベンチに座っているのはリザとエレンだけだった。

 ホームは屋根が覆っているものの、線路上は剥き出して、青々とした空と太陽が見える。ベンチの少し先に延びている日と影の境を、コツンとエレンの踵が叩いた。


 知人には既に別れを告げ、見送りを打診されたものの、列車まで見送られることをリザは望まなかった。後ろ髪を引かれ、ふとした拍子に心変わりをしそうだったからだ。だからこそ、その前にしっかりと挨拶をして、しっかりと、別れを告げてきた。


 それでもエレンにだけは同行を許したのは、彼女はきっと、背中を叩いてでも押してくれるから。弱気な自分を押し出して、見送ってくれるから。

 言葉もなく隣を見ると、エレンはリザの荷物を抱えたまま色づく紅葉を眺めていた。


「あと何回、木々の色付きを見れば先生は帰ってくるのでしょうか」

「……少なくとも、一回では帰ってこないですね」

「じゃあ、来年の紅葉は一人で楽しむとします――いえ、院長や大先生と共に、先生をのけ者にして楽しむとしましょう。その写真を先生の場所に送ります。近況の手紙と一緒に。だから、先生も、少しでも一か所に長居をするときは、手紙をください」


 「約束します」と微笑むと、涙なんてもう、返ってはこない。

 リザの背中を押すような、晴れやかな笑顔が返ってきた。


 蒸気を吹きながら、列車が向こう側からやってくる。

 この列車に乗って大陸の西端まで行き、そこからは船に乗り換える。

 この列車に乗ったその瞬間、リザ・エッゲルトの旅は始まる。


 二人で言葉もなくその光景を見守って、そして、列車がホームに停車するまで、二人でベンチに腰掛け続けた。そっと顔を見合わせて、こうしていても仕方が無い、と、一斉に立ち上がった。視界がほんの少しだけ高くなって、少し向こうの紅葉が見えた。


「少しだけ、名残惜しいですね」


 静かに笑ったリザは、そっと列車の扉に歩み寄る。

 蒸気が噴き出して、扉が開いた。

 『発車は二分後です』――そんなアナウンスが響いて、リザは立ち止まる。

 列車に乗車する者も降車する者も居ない、二人だけの静かな世界で、リザは発車のギリギリまで待とうとした。そして、それを願おうとしていたエレンも、立ち止まった彼女を見詰めて、紡げる言葉も無くて、彼女の荷物を抱えたまま、沈黙する。


 十数秒が経過して、エレンは彼女に荷物を預けた。

 色々な思い出や感情が頭を支配する。エレンもリザも、思い出が邪魔をして言葉を紡げない。けれども、ここで言葉が要らないように、きっと思い出を積み重ねてきたのだろう。

 だから、交わすのは約束だけでいい。


「待ってますよ、いつまでも」

「必ず、帰ってきます」

「きっと、辛いことや苦しいこともあると思います。でも、何があっても先生を待ち続ける生徒が一人、ここに居ますから。だから、それを思い出して頑張ってください。頑張れなくても、帰ってきて、私に泣きついてください。きっと力になります」

「……ええ、期待しています。貴女は、自慢の生徒です」


 エレンは胸のペンダントを抱き締めて、そっと微笑んだ。

 リザはそんな彼女を抱き寄せ、「行ってきます」と囁いた。


 残り、一分と少し。乗り逃しては格好もつくまいと、リザは列車に乗り込んだ。

 そして、扉が閉まる直前まで彼女と視線を交えていようと、そう思い振り返る。

 そうして見た彼女の表情は、少しだけ緊張をして、それていで、何かを企むような悪戯っぽい笑みを浮かべていた。珍しい彼女の表情に驚いていると、彼女は大きく息を吸う。


 そして――



「先生のことが、女性として好きです!」



 そんなことを、面前で叫んだ。

 「なっ――!」と、想定外の事実に驚き戸惑い、同時にこんな大衆の前でまさかそんなことを言い出すとはと、焦りを表情に浮かべて車内を見回すと、流石に数名乗っていた内の半数以上が、驚き、リザとエレンを見ていた。


 思考がまとまらなかった。彼女が、どうして。そんな節は無かった。

 彼女は家族であり、弟子であり、生徒であり。少なくともリザからエレンに対してそんな感情を向けたことは無かった。想い人が居る訳ではない、彼女を嫌っている訳ではない。でも、そういう風に認識したことのない相手からの恋慕の感情を、受け止めかねた。


「私の居場所になると言ってくれた時から、私の心の殆どを埋め尽くしていたのは先生です! 二年前から割とアプローチしてたけど気付いてくれなくて、結構怒ってました! でも許します! 許すので、私と結婚してください!」


 彼女の年齢は十五歳だ。大人びて見えても、子供だ。

 そして同性間。流石に人が少ないとはいえ車内でも喧騒が起き、出発の頃合いを見計らっていた車掌も、その目に好奇を宿して光景を眺めていた。


「――ちょっと待ってください、急すぎるし、そもそも難しいですよ!」

「もしかして、同性愛の差別ですか!?」


 まるで出会った時のような言い回しを、人権意識の高い勇者様は声高に叫ぶ。

 しかし、今の自分は昔の自分ではない。反論の刃を彼女に振りかざす。


「この国では同性婚は認められていなくて、法律の文章に『両性』なんて書かれてるから同性婚は駄目というのが司法の判断で、だから私は貴女の想いに――!」

「じゃあ同性婚が許可されたら結婚してくれるんですか!?」


 想像以上にグイグイと来る彼女に、「えぇ……」と戸惑い呻くリザ。

 けれども生真面目にも彼女の申し出を打診して――結婚、恋愛、その関係性というものを彼女に当てはめて、少なくとも嫌悪感は出てこなかった事実を認める。

 だからたぶん、誰に恋愛感情を抱いたこともない自分だが、彼女との恋愛関係に否定的な感情は持っていないのだろう。無論、肯定的でもなく、今はあまりに唐突で整理する時間も無く、驚きと戸惑いが脳を支配しているが、可能性は、ゼロではない。


「だ、断言はできないですけど……検討します」

「じゃあ、いつか人助けの旅としてここを訪れてください。それで、大切な人と結ばれない私を、助けてください」


 リザは驚きも戸惑いも全て飛んで、ただ、彼女の顔を見詰めた。

 彼女は静かな笑みを浮かべて、リザを送り出そうとしていた。


 そんなことを言われてしまうと、今までの話もまるで、その結論に行き着くための方便のように感じられてしまう。けれどもきっと、そんな嘘を吐くような少女ではなく、彼女もまた、勇気を振り絞ってそう言ってくれたのだ。


 困惑や混乱だけで終わらせてしまっては、失礼だろう。

 腕を組んで笑っていた車掌は、リザの顔を見る。『まだ、もう少しある』と瞳で告げてくる彼に、どうも、と手を振り返して、それから、「こうまで言わせて黙ってる訳にはいきませんね」と、そっと、指先で虚空をなぞる。魔導師の弟子との別れ際に、魔導ではなく元素魔術を使うのは趣に欠くかもしれないが、こればかりは仕方が無い。


 今更羞恥心を感じているらしく頬を染めたエレンが、そんなリザの所作を眺める。

 彼女の目の前で、青白い文字列を指で弾いた。


 虚空に生成されたのは、二つの綺麗な銀色の指輪だった。

 見詰めていたエレンの瞳が見開かれる。


「年齢も、性別も、そして夢も――阻むものが多いので、今は未だできません。だから、安物ですみませんが、今は約束に留めておいてください」


 そう言って、リザは彼女の手を取って、その左手の薬指に嵌めた。


 途端、車内から騒々しい歓声が上がって、列車が微かに揺れる。仕事熱心でない車掌は、駅のアナウンスで『ヒュー』と口笛を吹く。高音が途切れていた。

 風情に欠くなあと苦笑しながらエレンの顔を見ると、彼女は信じられないものを見るような目で、指輪を眺めた。


 少しずつ、木々が色づくように頬を染めていった彼女は、火でも吹きそうなくらい真っ赤に染め上げた顔で、言葉も紡げずにリザを見た。


「言い方を変えますね」


 リザは、彼女の目の前で自分の指に銀の指輪をはめて、約束した。


「必ず、迎えに来ます」


 ほんの少しだけ頬の紅潮をおさめた彼女は、瞳を瞑って言葉を噛み締める。

 そして、どうしようもなくその胸を包み込む幸福に、微笑んだ。


「行ってらっしゃい」


 彼女に見送られ、リザは大勢の祝福の視線に包まれながら車内に一歩、踏み込む。そして、二分が経過した。列車は出発の時間を迎える。

 『ドア、閉まります――お忘れ物の無いよう、ご注意ください』。リザの顔を見ながら告げられたそんなアナウンスで、リザは「っと」と、忘れ物を思い出した。


 手を振るエレンに、満面の笑みで手を振り返した。


「行ってきます」

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