何度もブログで書いていることなので止めようかと思いましたがやはり書きます。

ニュースで日航機墜落事故から35年の節目と聞くと触れておかなければと思い立ちました。

調べてみるとこの日は月曜日です。この年の8月のはじめにNHK政治部の転勤の内示を受けました。

姫路放送局からの転勤でした。前の週に京王井の頭線の池ノ上駅近くの寮に荷物を運びこみました。

妻と3歳の長男と3人です。荷物でいっぱいで寝る場所の確保が大変でした。

月曜日いよいよ出社となりました。渋谷の放送センターに行き政治部長らにあいさつをしました。

午後、仕事場となる総理大臣官邸に向かいました。2・26事件の舞台にもなった古い建物です。

入って右手にある記者クラブに向かいました。官邸キャップに赴任のあいさつをしました。

五つ子のパパの山下頼充さんでした。優しい方でよく来たと出迎えてくれました。

この年政治部には3人の新人が新たに加わり2人とも私より後輩で既に赴任してました。

3人揃ったのは8月12日が初めてで夜7時のニュースが終了したら歓迎会でした。

ニュースが始まる直前に「日航機がレーダーから消えた」というニュース速報が流れました。

先輩記者たちが一斉に動き出しました。我々新人3人は何が何だか分からなくなりました。

わずかな情報を基に先輩記者たちが原稿をどんどん送り込むのには驚きました。

書き手は手嶋龍一さんでした。ワシントン支局勤務を経て独立した方です。

官邸には時々刻々情報が入ってきました。中曽根総理大臣が深夜静養先の軽井沢から戻りました。

何をしたのかよく覚えていません。一晩中官邸内を先輩の指示で走り回り情報を送り続けました。

右も左もわかりませんので大した情報なんて取れる訳がありません。それでも徹夜で走り回りました。

とにかく動いてないと何もしていないみたいで不安感にかられるのです。

いっしょの新人たちの間ですら、より良い情報をとる競争が始まっているのに気づきました。

NHKというチームで仕事をしているのですが一人一人が独立していて半分ライバル関係です。

520人が犠牲になり遺族が悲惨な思いをしていることは念頭にはありませんでした。

それよりもいち早く情報を送り上司から評価されたいという思いの方が勝ってました。

今振り返ってみれば政治記者の病理が巣くい始まっていたことは間違いありません。

もうひとつNHKはひとつの会社ではないことも直感でわかりました。

いち早く情報をとるのに政治部と社会部が激烈に競争していたのです。

どちらの方がより早く情報を入れたとか入れないとか政治部はやはりすごいとか言ってました。

タテ割りの競争が日常でした。互いの情報の漏洩を防ぐ効用もありますが行き過ぎはマイナスです。

政治部に配属された最初の日から激動だったため、これから始まる仕事の実態が見えました。

この日から1993年8月までの8年間、NHKの政治記者として走り続ける日々が始まりました。