65)67歳鮮やかな記録達成(09年)
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 「継続は力なり」を地でいくのがダカール・ラリー最多出場記録を持つ菅原義正さんです。2008年ラリーが中止になったので、26回目の出場記録と、連続20回の完走記録の更新を狙い、2009年ダカール・ラリーにチャレンジです。連続出場だけでも大変なのに、これまで連続19回を完走しています。このうち16回は日野レンジャーでトラック部門を走っています。今日(08年12月10日)には、東京・日野市の日野自動車本社で壮行会があるというので行ってみました。
白井社長を始め役員や社員が菅原義正、照仁両ドライバーやコ・ドライバー、メカニックなどを激励です。ダカールへのサハラ砂漠はテロリストのうろつくところになってしまったため、09年は南米大陸のアルゼンチン、チリで開催されるのです。総走行距離は9500㌔。スペシャルステージは5650㌔です。初の南米開催で参加者数が心配されたのですが、530チーム(モト・230,クァッド・30、4輪・188、トラック・82台)がエントリーしています。
毎年、日本からの参加者が絶えなかったモト(バイク)部門はゼロ。4輪は増岡浩(三菱)、三橋淳(トヨタ)、片山右京(トヨタ)、青木琢磨(いすゞ)、そしてトラックの菅原親子らでドライバーは合計6人です。
かつて三菱のエースとして日本のパリダカ・ドライバーの代表格だった篠塚建次郎さんは、三菱を退社して日産と契約しましたが、日産が2年でパリダカから撤退したため、イタリアの日産ディーラーから出走していました。しかし、09年は出走を断念です。あちこちのスポンサー筋にあたり、出走するために動いていたのは聞いていましたが、資金が集まらなかったようです。日本中のパリダカ・ファンを湧かせた名ドライバーもラリー・フィールドから去る時が来たのでしょう。
テネレ砂漠で大転倒し、トヨタのサービスカーで3日後の深夜、アガデスにたどり着いた時。優勝目前で緊張の極に達していた時、などを見てきたジジとしては、なんだかもの悲しい気持ちになりました。菅原さんは地味です。パリダカのエースともて囃されたことはありません。1983年からバイク、4輪、トラックと乗り継いで、我慢の走りを続けて大記録を達成しています。
「継続は力」でしょう。
今年は衛星電話を持っていくそうです。ジジは現場での取材は引退ですが、菅原親子は「出来るだけエピソードを送りますよ」と請け合ってくれたので、09年の正月はスタートの3日からゴールの17日まで、このコーナーで「悲喜こもごも09年」を掲載します。フォルクスワーゲンと三菱のトップ争いも面白いでしょうが、轟音とともに砂を蹴立てて走るトラックの勇壮な姿も、もう一つのパリダカなのです。
67歳で大記録を狙う菅原義正さんは、何とも珍しい人です。記録達成への走りを遠くから楽しむつもりです。写真=抱負を語る菅原さん、10日・日野自動車本社で=
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64)菅原義正さんのパリダカ出場記録ギネスが認定 |
ダカール・ラリー(通称パリダカ)に25年間、連続出場してきた菅原義正さん(66歳)の、パリ~ダカール・ラリー最多出場(25回)が、このほどギネス世界記録として認定された。
菅原さんは1983年にバイクでパリダカに初出走。その後4輪、トラックと出場部門を変え、日本人ではただ一人の3部門出走者でもある。また、ギネスに認定申請はしていないが、連続19回のパリダカ完走記録も更新中で、中止された今年は20回完走を目指していた。
ギネス世界記録のカルロス・マルティネス担当から届いた認定証には「ギネス認定を様々な面で利用し、ロゴの使用も認めます」との文書も添えられている。
菅原さんに聞く。
―認定の申請の経緯は?
「ボクは特にするつもりはなかったのですが、経理を担当している方が、講演などをする場合、はっきりとギネスで認定されている方がいい、というので申請しました。実際に出場しているので、記録を見れば分かるのですが、それではやりましょうとなったのです」
―バイク、4輪、トラックといろいろやって来ましたね。
「バイクで骨折したり、4輪に乗るようになってから資金繰りに苦しんだりしました。日野レンジャーのワークスとして走った後は、プライベートになってレンジャーを走らせてきました。大きなトラックとの勝負もしてきました。」
―完走率も高いでしょう。
「19回連続して完走しています。今年は20回の完走を狙いました。25回の連続出場記録は破られる可能性はありますが、20回の完走記録は破られないだろうと思っています。区切りのいい20回を狙ったんですがね…」
―中止になって、経費はどうなりましたか?
「エントリーフィーは返してくれたので、60ほどのスポンサーを回り、20%ほどはお返ししました。しかし、自分たちのポルトガル往復や、準備にかかったものは、どうしようもありません」
―来年、南米で「パリダカ」が開催されますが、どう思います?
「サハラ砂漠は走らず、南米大陸ですね。パタゴニア、大草原、アタカマ砂漠です。パリダカの精神をそのまま維持し、主催者も同じなので「ダカール・ラリー」といって何ら差し支えはないと思います」
―出走しますか?
「その準備をしています。今はサハラでのラリーが困難になっていますが、以前のようにどこでも走れる時代が還ってきて欲しいと思いますね。」
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63)イスラエル大使館襲撃。モーリタニアで。 |
08年ダカール・ラリーは中止してよかったのでしょう。2月1日の午前2時20分頃、モーリタニアの首都、ヌアクショットのイスラエル大使館を6人のガンマンが襲撃しました。、襲撃グループは発砲前に「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫んだと伝えられています。警備していた数人が負傷したようです。
07年のクリスマスイヴにはヌアクショットの東約250キロのアレグで、フランス人ツーリスト4人が殺害されています。このときには9人の容疑者が逮捕されましたが、ダカール・ラリー中止の原因にもなっています。
モーリタニアはアラブリーグで数少ないイスラエルと国交を持つ国です。捜査官はアルカイーダ系の「イスラミック・マグレブ」の仕業と見ています。このグループはアルジェリアに本拠を置き、昨年1月にサハラ南西部のモーリタニア、マリなどの反乱分子などをグループの傘下に加え、ダカール・ラリーを襲撃するという脅しをかけて、ラリーを中止に追い込んでいます。
首都での暗躍、大使館襲撃などの行動に出ている現状からみて、ダカール・ラリーの中止は正しい選択だったと思うと同時に、サハラ砂漠を舞台としたダカール・ラリーは大きなリスクがあり、再開は困難との見方を裏付けているように思います。
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62) サハラ砂漠を往くラクダの隊商想い出のパリダカ |

写真を多用したり、レイアウトの関係で「想い出のパリダカ」は、別のサイト「世界を巡るドライブの旅」(http://www2.ocn.ne.jp/~syowa3/)に掲載します。“じじ・ばば・ネット”の姉妹サイトです。リンクページからつながります。
写真はテネレ砂漠でラクダのキャラバンにであったところです。広い砂漠でラクダは隊商の首領の乗ったラクダを中心にして、左右に開きます。渡り鳥が隊を組んでいるのと似ています。一直線に歩くのは狭い隘路や岩だらけのところです。
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61)さよなら・パリダカ |
2008年ダカール・ラリーの中止は、チームにも、オーガナイザーにも厳しい現実を突きつけている。アルカイーダ系のテロリストが、ラリーの一隊を砂漠やキャンプ地で襲撃、危害を加えたり、人質をとる危険が「極度に高い」と判断された以上、強行するのは暴挙だ。仮に強行し、人的損出や人質を取られて身代金要求になると、いったいどういうことになるのかは想像を絶する。
「私が思うにA S O は南アメリカなどで代わりのラリーを開催するのではないか」と言うのはニッサン・ドスード・チームのアンドレ・ドスードさん。参加費の払い戻しや、損害を補償するなどの問題に発展すると、収拾はつかない。“代替えパリダカ”を南米でなどで開催せざるをえないとドスードさんは見る。
今はノルマンディーで販売店を経営しながら、参戦を希望する人に車両、サービスを提供するのも仕事にしているが、元々は自らハンドルを握り、パリダカ、オーストラリア・サファリなどに出場していた。08年には9台の車を参戦させサービスカー、トラックも送り込み、リスボンでスタートを待っていた。
「人命の安全にまで疑問があったのだから、キャンセルの決断は賢い。私自身のチームでも60人はいた。彼らの安全を私が保証することは不可能だ」
A S O そのものが直接被る損害だけでも5000万ユーロ(約80億円)に達するとフランスのル・モンド紙は報じた。参加者へのエントリーフィー払い戻しも平均すると1台でざっと1万3500ユーロ(約216万円=バイクも含む)に達する。このほかにもスポンサーやテレビ局への払い戻しもある。セネガル、モーリタニア関係も数百万ユーロの損害を被っている。通過する自治体も…。
A S O はフランスを代表する“スポーツ帝国”で、新聞(レキップ)、雑誌などを発行するほかにツール・ド・フランスなども主催している大興行会社でもある。しかし、そのA
S O にとってもダカール・ラリーの中止は大きな負担で、参加者ななどの損害を完全に埋めることは至難。「危険を避けるためにやむを得ない決定だった」として損害を自分でかぶる参加者やテレビ局、スポンサーがどのくらいいるのだろうか…。
三菱、フォルクスワーゲンなどは、それこそ何十億円を注ぎ込んでダカール・ラリーに立ち向かっている。自動車メーカーがA S O を訴え「金返せ」などとは言わないだろうが、ダカール・ラリーに代わるビッグ・イベントの開催を裏で要求しないとは言い切れまい。
個人単位になると、さらに深刻度は増す。
「中止したことは理解できるが、マネージメントは別だ。リスボンまで行った我々は全員がサンロー(ノルマンディー)へ戻ってきた。やることはなにもないんだよ。お客さんたちが支出したお金は他のイベントで替えるしかない。それで全てが解決するとも思えない。頭が痛いよ」
ドスードさんの嘆きは尽きない。
「ホテルにも払い込んだ。燃料もアフリカへ送った。今さらキャンセルしようもない。戻ってくることはないだろう。なにが起こるのか、これからだよ。話し合いは難しい」
A S O にとっても大まかに予測されている直接の損害が80億円で済むとは思えない。ポルトガルの自治体からは、はやくも損害賠償の請求が出された。チーム個々の事情も複雑だ。代換えラリーが開催されたとしても、例えば日本から車を輸送し、チームが滞在し、中止で帰国したとき、スポンサーがどこまで理解するのか…。自己負担の損害をどうするか…。さらに代替えラリーが開催されたときの渡航・滞在費、日程の調整などもあり、細かく考えると際限もない。
「私の個人的な見方からすると、ヨーロッパをスタートし、ダカールへゴールするラリーは終わったんだ」
今の世界情勢から言って、ドスードさんの見方は間違ってはいない。そして、他の国や大陸で壮大なラリーが、例え開催されたとしても、サハラ砂漠を駆けめぐる“パリダカ”の復活は困難だ。厳しくも楽しかったパリダカは、おそらくもう帰ってこない。さよなら・パリダカ、を言わなければならない時が来たようだ。ジジが四半世紀にわたって追いかけてきた1つの世界は、想い出だけを残して終わりを告げることになると思う。
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60)ダカール・ラリー中止の背景③ |
08年ダカール・ラリーの中止が発表されて1週間も経たないうちに、南米のチリがサハラ砂漠に代わる“アタカマ砂漠”を中心とするラリー開催をアモリ・スポーツ・オルガニゼーション(A
S O) に呼びかけている。また、ハンガリー、ポーランドなど東欧での開催、パリ~北京の復活なども話題に出て“ポスト・パリダカ”の動きは急だ。
チリ・ツーリズム・サービスのO ・サントリチェス代表は1月14日にも、AS O へ手紙を送り、チリが国際的ラリー開催を望んでいることを伝える。A
S O のスポークスマンは、この動きに対し「今後のラリーについては正式発表までコメントは出来ない」と語っている。
しかし、チリ側は積極的で、副スポーツ相のJ ・ピッツァーロ氏は「政府は興味を持っている。大きなな国際的ラリー開催は正式な検討課題になるだろう」と意欲的な姿勢を見せている。コースもアルゼンチン~ブラジル~チリの3国を繋ぐもので、南米の地理的条件を考慮すると、ダカール・ラリーのスケールに迫るルート作りも可能だ。
既にアンデス山脈の東西を結ぶラリーは、クロスカントリー・シリーズのパタゴニア~アタカマを行っている。南のパタゴニアを走ることになれば、時期によっては強い風と寒気が、サハラとはまた異なった環境を作り出すことになる。
アルゼンチンでは“ラリー・オブ・パタゴニア”の主催者もダカール・ラリーに代わる大会開催の意向があると報じられている。ブラジル、チリと連携すると、新たなクロスカントリー・コースとして話題を集めることになる。
一方、中央ヨーロッパでの開催も浮かび上がっている。ハンガリー~ルーマニア~ロシアのコースだ。チェコのレーシング・チームは「AS O からの東欧、中欧での開催打診があった」と地元紙にリークしている。A
S O はスタート地点としてのリスボンとの契約を3年間としていて、08年で終わる。新たなスタート地点として、東欧を模索し、ブダペスト(ハンガリー)を打診していたとの話がある。
「数年前からA S O はブダペストをスタート地点とするラリー開催を打診してきている。ラリー中止の代替えを他のもので償うのは無理。ラリーを開催するのがもっともいい解決法だ」とハンガリー当局も乗り気だという。開催時期は今年の5月としている。
このほかにもパリ~北京を再開する話。チュニジア、リビア、エジプトなどを繋ぐルートも語られているが、アフリカ大陸での開催は困難との見方が強い。パリ~北京の再開は、旧ソ連からの独立した国との交渉もあり、仮に企画されたとしても、実現までには時間がかかりそうだ。
ラリー中止でリスボンに集結したチームは、それぞれの基地へと戻った。フランスでは通過予定のポルトガル・ポルティマオの市長が、A S O に市が被った損害賠償を請求する意向を示した、と報じられた。A
S O は当分の間、パリダカ・キャンセルの後始末に追われることになるが、中止に関して損害賠償の請求などが多発すると、その対応に勢力が注ぎ込まれ、パリダカは夢を追うラリーとはほど遠い形で、崩壊することもあり得る。
中止の翌日(スタート予定日だった)にA S O は「新たなラリー開催に今日から取りかかる」と宣言しているが、事態は深刻でサラリとした解決は困難な状況にあると見る。
アフリカ大陸を駆け回ったダカール・ラリーは30回目のスタートを切れずに終わった。再びアフリカの地、サハラ砂漠を走る壮大なラリーを再開するのは、今の国際情勢からは至難だろう。サハラのど真ん中、テネレ砂漠やアルジェリアを走れなくなった段階で、パリダカは窮地を迎え、西海岸へ張りついた。そして今、西海岸の南下さえ不可能になった。
1970年代に初めてアラブ・ゲリラによる航空機乗っ取り事件が起こったことを思い出す。海賊のシージャックに対し、空の“ハイジャック”と言う言葉が生まれた。ハイジャックの危険はエスカレートの一途をたどり、味をしめたゲリラはその手段を捨てることはない。
今度は新たにラリーを「誘拐・人質に取る」“パリダカ・ジャック”という脅しの手口が成功した。アルカイーダにまた一つ、うま味のある手段を手にした。これを封ずるのは困難を極める。アフリカ諸国が反政府軍、テロリスト、武装強盗団の封じ込めに手を焼く事態は、今に始まったことではない。
パリダカはどこへ行くのか―。少なくとも今回の中止で、サハラ砂漠の冒険ラリーは終焉を告げた。モーリタニア、セネガルなどの嘆きをよそに、新たな開催希望国が名乗りを挙げている。新しい大スケールのラリーが例え組織されようと、ダカールを目指した、夢に満ちたラリーは、その時代に終わりをつげたのだろう。
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59)サハラ砂漠テロの脅威(中止の背景② |
◇ダカール・ラリー中止の背景②
「ダカール・ラリーはシンボルだ。シンボルが崩壊することなどあり得ない」
分かりやすく言うと「ダカール・ラリーは不滅です」とでもなりますか―。
A.S.Oの苦渋の選択は、アルカイーダ系のアフリカ北西部組織「イスラム・マグレブ諸国アルカイーダ組織」(AQIM)の脅しでした。
「フランス政府からは“テロの危険は極限に達している」の警告を受けたし、過激派組織からも「直接脅しを受けていた」ことをA.S.Oは明らかにしています。
脅しの現実を突きつける暴挙が、セネガル国境に近いモーリタニア領内で、フランス人観光客を襲撃。4人を殺害、5人に怪我を負わせた12月24日の事件でした。クリスマス休暇を家族と過ごし、砂漠の旅を楽しんでいた人たちの悲劇です。
この2日後には、モロッコ、アルジェリア国境に近いモーリタニア領で、今度はモーリタニア軍兵士4人が殺害されています。AQIMは両方の事件に犯行声明を出しました。
この組織は昨年1月にアルカイーダ系に加わったと見られ、フランス、スペイン、アメリカの勢力をマグレブ諸国(アフリカ北西部)から追い出すことを狙いにしているといわれます。ダカール・ラリー襲撃は絶好のターゲットということにもなるのです。
570台の車。1500人にも達する参加者は全て丸腰で、武装した集団に立ち向かう術はありません。砂漠は限りなく広く、明らかにされているコースに潜伏するのはたやすいし、キャンプ地を襲うことも砂漠のゲリラにとっては容易です。
兵士が襲撃された北部国境地帯は、ラリーがモロッコのスマラからモーリタニアのアタールへとたどるルートの近くです。フランス人観光客が襲われた南部地域は、後半にラリーが通過する地域で、ともに狙いすました脅しでしょう。
フランスの国土監視局(敵対情報監視)のテロ対策担当者だったルイ・カプリオリさんはずばりと言います。
「奴らは撃ち合うこともなく、メディアを使って勝利した。皆、彼らがパワフルだと思った。しかし、奴らはその地域にいるごく一部の人に過ぎないのだ。ラリー中止の判断は正しいかも知れないが、テロが勝った、という印象はぬぐえない」
フランスのベルナール・ラポルテ ・スポーツ大臣はラリーのキャンセルをこう見ます。
「経済的な損失は莫大だが、決まった以上、経済的な損出を語るべきではなく、論じるならば安全に関してだろう。ラリー通過国の損出は分かるが、安全をまず考慮すべきなのだ」
一昨年、イラクに入国して人質になった日本の若者3人は、交渉の末、解放されましたが「巨額な身代金を支払った」と言われます。日本政府は明らかにしていませんが、昔、昔の日本連合赤軍ダッカ・ハイジャック事件で、今の福田総理の父親・福田赳夫首相が「超法規的解決」と語ったことを思い出します。
アルカイーダ組織にパリダカがそっくり人質になったら、いったいどうなるのか―。フランス政府やA.S.Oが深刻に考えるのも一理あります。
しかし、通過国にとっては屈辱的です。2000年にラリーを受け入れるはずだったニジェールは「テロの危険がある」との警告で、ラリーの一隊はマリのニアメから、ニジェール上空を大型輸送機で飛び越え、リビアへ行ってしまいました。その時、肩すかしを食ったニジェールの情報大臣は怒りをあらわにして言ったものです。
「砂漠での人の動きは、隅々まで分かる。どこのオアシスに誰がいるのかも承知している。テロはない。私は砂漠で生きてきた」
大臣は過去に反政府軍に属し、指揮を執っていた前歴がありました。そして、どこからともなくリークされた情報は、怖いものでした。
「A.S.Oはラリー開催前からロシアの大型輸送機イリューシンのチャーターを決めていた。そうでなければ2日や3日で大型機がアフリカへ飛来するスケジュールが組めるはずもない」
大きな力が働いたのかも知れないし、そうではないかも知れないのです。当時A.S.Oの代表だったユベール・オリオールは、なにも語らないままA.S.Oを去っています。以来、ニジェールの夢のような砂漠をラリーが走ることは出来ません。
モーリタニア観光局のスポークスマンは激しい怒りです。「国家のイメージに著しい打撃を受けた。この決定は驚きだ」と。
セネガル・スポーツ局のスポークスマンも同様です。
「ラリーのキャンセルはセネガルにとって大きな損失だし、通過国全体の問題でもある」
セネガルのホテル連盟は確実にキャンセルの嵐に見舞われ、その後、ヨーロッパからの観光客が、遊ぶにはリスクが高すぎる、と敬遠する事態を予測して悲鳴を挙げます。
「セネガルへ来ようとしている観光客にどんなイメージを与えるのか…。そういうことまで主催者は考えているのだろうか。数百万セーバー・フランの損出は免れない。今後どうなるのか…」
モーリタニアは3000人の軍隊を投入することで、フランス当局、ASOとの打ち合わせを終わっていました。昨年、マリのステージ2日間がキャンセルされた理由も承知だし、反政府勢力がモーリタニア領内の砂漠でラリー通過料として、1台50㌦を徴集したのも分かっているのです。
「我々は今回のラリーの安全を保証した。どこがいけないのだ」とモーリタニア当局者はテレビで発言しています。ラリーの通過で経済的な恩恵を期待する国と、リスクを避けたい主催者・フランスの考えは、どこか食い違うのはやむを得ないことでしょう。
トリノ冬季五輪などの警備も行ったグローバル・セキュリティ・アソシエーションのアンドレス副会長はワシントンポスト紙の問いに答えています。
「テロの脅しで小さなイベントが中止になったのは知っているが、大きな国際的なものが中止になったのは知らない。確かにパリダカのコース全体で、完全な安全を保つのは不可能だ。レースは特別に無防備だし、いくつもの国を通過する。砂漠は広く、人もいない。こういう地域でどうテロから守るかは至難だ」
“ダカール・ラリーは不滅です”
かつての長嶋さんを彷彿とさせるA.S.Oのエティエンヌ・ラビーヌ代表の声明は、政治・経済・国際環境・国家・宗教・人々の思惑・主張そして強欲…、など坩堝(るつぼ)の中で、実現するのでしょうか。
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58サハラ砂漠・テロの脅威(中止の背景①) |
◇ダカール・ラリー中止の背景 ①
サハラ砂漠の“安全地帯”と見られていたモーリタニア砂漠で、テロの脅威が高まり、第30回ダカール・ラリーはスタート前日に中止となりました。主催者ASO苦渋の選択です。
パリダカは90年代の初めまでは、平和な時代と言えます。79年の第1回パリダカから92年のパリ~ルカップ(喜望峰)までは、アルジェリア、リビア、ニジェールなどサハラ砂漠のど真ん中を走っていました。
アルジェリア、ニジェールの政情不安、反政府活動の激化などで93年には初めてモロッコへ上陸。アルジェリア北部を避け、フェス(モロッコ)からベニオニフを経由し、アルジェリアのエルゴレア、タマンラセットを通り、モーリタニアへ入国する変則的なルートになりました。
しかし、92年のパリ~ルカップで通過したマリは、反政府軍と政府軍が小競り合いをしていて、ラリーの一隊はチャドでの競い合いどころではなかったのです。ニジェールとASOの関係もうまくいかず、広大な夢のようなテネレ砂漠を1000キロも東に走り、また戻って古代からサハラ砂漠の南方のキャラバン基地、アガデスへ到着。一段落してダカールへ向かうロマンに満ちた砂漠の“冒険ラリー”は90年を境に反政府ゲリラ、強盗団の出没などで、大きな転換期を迎えていたのです。
93年にモロッコ初上陸のあと、94年はパリ~モロッコ~西サハラ~ダカール~西サハラ~モロッコ~パリと西海岸に張り付いたラリーとなっています。西サハラにはモロッコの旗がひらめき、国境?地帯には塹壕や強靱な車止め、さらには地雷を避けるために通過路の横は砂や石が盛り上げられていたのが印象的でした。
モーリタニア領のヌアディブとかつてのスペイン領サハラ(西サハラ)は幅1㌔ほどの半島の先で、半分に分けられ、港を分け合っていました。日本の漁船も出入りし、マグロ、蛸などを買い取っていくと言う話しを聞きましたし、日本製の蛸壺が沢山海岸にありました。
パリをスタート地点とするパリ~ダカール・ラリーは94年の大会で“パリダカ”の通称となったパリを離れます。創設者のティエリー・サビーネの名前をとって“TSO”と呼称した主催組織は、息子ティエリーの遺志を生かすため代表をつとめていた歯科医師の父・ジルベールは高齢のため、主催権をアムリ・スポーツ・オーガニゼーション(ASO)に譲りました。
スタート地点は95年からはグラナダへ移ります。依然として西海岸のラリーです。久々にニジェールのアガデスへ入ったのは97年のダカール~アガデス~ダカールでした。しかし、テネレ砂漠を走るルートは採用されていません。篠塚建次郎さんが優勝したのはこのときです。
アガデスのキャンプ地には当時のニジェール大統領が訪れ、オフィシャルやドライバーたちと歓談しましたが、忍者のような黒ずくめの護衛が10人ほど、トラックやテントの陰に素早く潜み、大統領の動きに併せていたのが不気味でした。正式な護衛はもちろん制服で遠巻きにしているのにです。
キャンプ地は強い太陽の照りつける乾いた薄茶色の砂漠ですが、日陰に潜む黒ずくめの“忍者護衛”は、強い照り返しがまぶしいので、余程注意しないと見えませんでした。大統領は「歓迎する。毎年アガデスを訪れるよう期待しています」と話しています。しかし、政情は不安定で翌、98年はニジェールへの入国はありませんでした。
そういえば大統領の手みやげは、事前のASO調査隊が、96年夏にアガデス北方の山岳地帯で反政府ゲリラに強奪された4輪駆動車の返還でした。
パリにスタート地点が戻ったのは98年です。グラナダを経由してモロッコ、マリ、セネガルです。99年もほぼ同じでした。
2000年は大事件の年でした。ダカールをスタートし、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、リビア、エジプトのカイロへのラリーは、マリのニアメ到着時にフランス政府から主催者に対し、緊急連絡が入りました。
「ニジェールで反政府ゲリラが、パリダカを襲撃する」
ASOはラリーをストップ。ロシアの大型輸送機でリビアへとラリー全体を空輸する方針を発表。6日後にリビア砂漠からラリーを再開しました。篠塚建次郎さんはリビアで大転倒。三菱を去り、ニッサンへ移籍する原因となりました。=詳報は〈注〉参照=。
2002年はパリをスタート。マドリッド経由でダカールへのラリーです。増岡さんの優勝でした。03年にも増岡さんの優勝でしたが、マルセイユ~チュニジア~リビア~エジプト(シナイ半島、シャルム・エル・シェイク)とダカールに関係ないラリーとなっています。
[注] 1月16日、5日間に及ぶニアメでの飛行機待ちが終了。テロ事件を回避するためのラリー中断、そしてロシア製大型輸送機3機によるサバ(リビア)への大輸送は合計20便にも達し、合計318台(2輪:141台/4輪:113台/T4(競技)トラック:26台/T5(サービス)トラック:38台)の運搬が予定通り完了した。
16日からはボーイング737型機による4度にわたる人員輸送がスタートし選手がサバへと移動。17日のスタートは2輪が6時30分、4輪が8時17分(現地時間)の予定。
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57)ダカール・ラリー中止。4日A.S.O発表 |
テロのリスクには勝てず!直前に中止
第30回ダカール・ラリーはテロリストがラリーを襲撃する危険が高まり、安全上の問題にから4日、中止となった。ラリーを主催するフランスのA.S.Oが発表した。
昨年の12月末(24日)にヌアクショット近いアレグ近郊で4人のフランス人観光客、26日には北部でモーリタニア軍警備隊4人が、ともにアルカイーダ系の武装組織に襲撃され、1週間で8人が殺害されている。フランス治安当局は3日ダカール・ラリーのオーガナイザーに対し「「テロリストに襲撃されるリスクが高い」とし中止するよう警告を発していた。
ダカール・ラリーは5日にリスボンをスタート。11日にはモーリタニア入りする予定で、19日までモーリタニア砂漠でラリーを展開。20日にセネガルのダカール近郊にゴールする日程だった。
ラリー主催者は昨年のダカールラリーでもマリで予定していた2カ所のステージをキャンセルしているが、理由はフランス治安当局が「ラリーの一隊が誘拐や待ち伏せ攻撃を受ける危険が高い」と警告したことによる。
08年ダカール・ラリーには8連勝を狙う三菱。初のディーゼル・エンジン車で優勝を目指すフォルクスワーゲンの対決に注目が集まっていた。4輪、バイク、トラックなど570チームがエントリーし、既に競技車の多くが車検を終わり、スタートを待つばかりになっていた。
A.S.Oは「09年のラリーを開催するためにも、今年リスクを避ける。夢のある砂漠のラリーは必ず来年からも続開する」と声明で強調している。
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10 56)08年ダカールに迫るテロ、誘拐の脅威 |
08年ダカール・ラリー(5~20日)にテロ、誘拐の危険が迫っています。モーリタニアでアルカイーダ系と見られるテロリストの攻撃が繰り返され、12月24日と26日にそれぞれ4人ずつ、8人が射殺されました。開催が心配される中で主催者(ASO)は予定通りのコース、日程でラリーを開催することを29日に改めて発表しています。
ASOとモーリタニア、フランス両国の治安当局者らがヌアクショットでラリーの安全性について意見交換を行い、ラリーを予定通り開催することで合意しましたが、モーリタニア北方や長いスペシャルステージが開催される砂漠地帯では、ことに注意が必要との見方を示しています。
これまでも反政府勢力や武装強盗団の出没で、被害にあったり、コース変更などがありましたが、今回の状況は深刻です。24日にはフランスのツーリスト4人がヌアクショットに近いアレグ近郊で射殺され、26日には北部地域でモーリタニア軍兵士が襲撃を受け、4人が死亡しています。
アルーアラビア・テレビは「犯行はアルカイダの北アフリカ組織」が行ったものと報じ、モーリタニア当局もアルジェリアに拠点を置イスラム過激派組織と見ています。「イスラム・マグレブ諸国のアルカイーダ組織」が正式名称で、テロ活動や誘拐を盛んに行っている「布教と聖戦のためのサラフ主義集団」が07年1月に改名したものです。
アルカイーダとリンクする戦闘集団はアルジェリア、モロッコなどで活動を繰り返してきましたが、その勢力範囲を拡大。サハラ砂漠南部のマリ、モーリタニア、セネガルでの活動も開始したと見られています。
「ラリーは予定通り1月5日にリスボンをスタートする。モーリタニアに入国するのは、1月11日になる」とラリーの安全担当者、ロジェール・カロマノビッツさんは言っています。去年はラリー参加者を誘拐するとの情報や、アルジェリアの武装集団がマリを経由して、ダカール・ラリーを待ち伏せする兆候を治安当局がキャッチしたため、2カ所のSSがキャンセルされています。
24日に発生した事件では5人が逮捕されていますが、2人はセネガルへ逃亡しました。モーリタニア検察当局は、逃げた2人は「イスラム・マグレブ諸国のアルカイーダ組織」に所属するモーリタニア人で、2006年にテロリスト容疑により逮捕されましたが、証拠不十分で釈放された人物と断定しています。この組織は12月11日にアルジェリアで発生した連続爆破テロ事件の犯行声明も出しています。
ダカール・ラリーは過去、テロや誘拐、強盗を避けるため、アルジェリア、ニジェール、マリなどの走行を中止してきましたが、ついにモーリタニアでも、週に連続2度のテロ攻撃で8人が射殺される事態です。30回を迎える08年ラリーは、安全に競技が出来ると言われ、残された最後のモーリタニア砂漠にも誘拐やテロの危険が迫ってきていることを示しています。
武装強盗団の“笑える話”(51~53回参照)どころではないのです。
【パリダカ・トラブルメモ】
▽1986年 主催者のティエリー・サビーヌさんが、ヘリコプターで移動中に砂漠に墜落して死亡。
▽91年 マリ、ニジェール国境付近で、トラックで参加していたフランス人のC・カバンさんが、ガオ近くの村で狙撃されて死亡。
▽96年 モロッコ南東部のフームエル・ハサンからエル・スマラまでの地点で、トラックで参加していたフランス人のローラン・ゲガンさんが地雷を踏み横転、焼死。
▽同年 三菱のトラックがマリとモーリタニアの国境付近で狙撃され難は逃れた。5発の弾痕がフロントグラスとサイドウィンドウに残り、1発はドライバーとすぐ後ろの席にいた乗員の間を通過している。
▽98年 トラック計7台がバズーカ砲、自動小銃を持った7~8人の盗賊に襲われた。トラック1台、車2台が強奪された。
▽99年 モーリタニアのティシット近くで約50台の車が捕らえられ、プレスカー2台、テレビクルーの車2台、トラック3台、バイク1台が強奪された。参加者の金品も奪われた。
▽2000年 ニジェールに入ったところでテロ、または反乱部族がパリダカを襲撃するとの情報が入り、リビアへトラックを含めすべてをロシアの超大型輸送機、イリューシン2機でピストン輸送。
▽2001年 モーリタニアでSSスタート地点にいた増岡に銃が向けられ、通行料の支払いをオフィシャルに要求。全員無事にスタートしたが、1台50㌦の通行料を、結果として強奪された。
▽2007年 モーリタニアからマリへ入国するルートが、突然キャンセルされた。SS2カ所をやめモーリタニア国内からセネガルへとコースを変更している。テロ集団の動きを治安当局がキャッチし、主催者に警告した。
※パリダカは1979年にパリからアルジェに上陸することで始まった。アルジェリアを南下しニジェール、マリ、などを経てダカールに至るサハラ縦断。その後もリビア上陸リビア砂漠、テネレ砂漠などサハラ砂漠の中心部を走破していた。しかし、アルジェリア、ニジェール、マリなどの治安問題、反政府組織、強盗団などの他、政治的な問題もあってコースは92年のパリ~喜望峰を最後にモロッコから南下するようになった。2000年の事件以降はさらにコースは限定され、モロッコ、モーリタニアの砂漠が主戦場となっている。
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55)命知らずのパイロット |
 チャドのアベチェ空港を離陸しようとしていたチャーター機が離陸を止められ、フランスの慈善団体“ゾーイの方舟”のメンバーなど16人がチャド当局に“児童売買”の疑いで拘束されました。フランスのサルコジ大統領がチャドへ飛び、チャドのイドリス・デビー大統領と会談。3人のフランス人ジャーナリストと、4人のスペイン人エアホステスは解放されましたが、9人のフランス人は首都ンジャメナに移送され、拘束されたまま裁判を待ったいます。(07年10月25日から11月8日)。
ここで幼児売買か、慈善の養子縁組なのか、純粋にダルフール(スーダン)難民の子供を救おうとしたのかをとり上げるのではありません。103人の子供とスタッフ6人、クルー10人を乗せていたボーイング機はスーダン国境に近いアベチェ空港に駐まったままです。(パイロット、男性クルー人、ゾーイのメンバーは10人拘束されている)
「アベチェ空港はボーイングが離着陸出来る空港ではない。滑走路も短いし、舗装もない。許可なしになぜ着陸できたのか」とチャド当局者は言っています。6日には空港関係者3人が逮捕されたので、直接政府との話ではなく、空港と飛行機との連絡で着陸し、離陸しようとしたのかも知れません。
チャーター機はスペイン・バルセロナの基地にするGirJet社とされています。このチャーター専門の航空会社がどういう職務内容なのかは知りませんが、アフリカを飛ぶチャーター機には、怖いものがあります。パリダカでは何度もチャーター機に乗って移動しましたが、大丈夫なのか-、と思うような飛行機やパイロットがいます。
「彼らは腕がいいんだ。どこでも降りる。どこでも飛び立つ」
80年代のパリダカ役員の中に“コロネーロ”と呼ばれているアフリカ浪人みたいな人物がいました。とてもジジには親切でしたが、傭兵には詳しいし、外人部隊にはもっと詳しい男でした。前歴が分かったように思いました。ある日、砂漠のダート飛行場で、前時代の異物のような翼が無闇と幅広の輸送機が目につきました。
「コロネーロ。あれはどこの飛行機?」
「ああ、トーゴだ。トーゴ空軍の飛行機さ」
「空軍が何でパリダカへ来てるの」
「商売だろ。荷物を運んでる」
90年代後半になっても初期のC130型輸送機(1950年代製)が大威張りで飛んででいました。U N とかつては書かれていた文字が透けて見える輸送機(C130)も2機いました。何年か続けてです。
パイロットの多くは戦争や僻地輸送などで腕を磨いてはいても、何かの事情でリスクの高い仕事をしているのだ、とコロネーロはいっていました。前にジジたちが滑走路の両端に並び、暗くなって着陸する飛行機に向け、懐中電灯を照らして、夜間では全く砂漠と区別のつかない、一応整地された“滑走路”を示した話を書きました(No18)。度胸も腕もいいのです。
同じ形の飛行機で30分も前に出るのに、着くのは遅いケースもありました。毎日です。聞いてみると「古くて危ないので、高空は飛べないからだ」の返事。メーカーのチャーターした小型機、ガルフストリームは高空に達すると室内と外部の気圧差で「ピューピュー」と空気の音がしました。
パイロット2人が乗った小型機に割り当てられた日本人カメラマンは怖い目に遭いました。
「2人が喧嘩を始めたんだ。着陸寸前だよ。操縦桿を握ってない方は、怒鳴り合いの後、何か聞かれても知らん顔だ。どうなることかと思った」
ジジの乗ったヘリも酷いケースがありました。ナビゲーターと称する男は、パイロットの友人ですが、地図が読めないド素人でした。途中で飛行ルートが分からなくなったのです。ジジも砂漠への不時着や墜落はいやですから地図を取り上げ、ラリールートを探しだし、それを目標に飛び、何とかビバーク地へ着いたことがありました。
ある意味でサハラを飛ぶチャーター機のパイロットは腕っこきの“はぐれ者”が多いのではないかと思います。フランスにはサハラ浪人みたいな人が沢山います。チャドでの事件を調べていると、昔のパリダカで遭遇したパイロットや関係者たちを思い出します。ダートの滑走路に大型機を着陸させるなど、何とも思っていないのです。
今のダカールでこんなことはありませんが、10年前には珍しいことではなかったのです。
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54)パリダカの終焉は近いのか? |
ダカール・ラリーのオーガナイザーは2008年大会の日程、ルートなどを24日発表した。ポルトガル・リスボンを2008年1月5日にスタート。モロッコ、モーリタニアを経て、休息日を13日、モーリタニアのヌアクショットに設け、砂漠戦の後、セネガルのダカールへ1月15日にゴールする。
スペシャル・ステージは約6000㌔で2007年の4300キロを大きく上回っているが、その分リエゾン区間が短縮されている。
また、例年通過していたマリ共和国は「安全上の理由」から入国しない。ダカール・ラリーの通過国は史上最少の4カ国に減っている。
◇通過国の状況
▽ポルトガル
2006年に初めてホスト国となった。リスボン郊外のベレム地区をスタートし、昨年までは南部でSSを行い、スペインから乗船してアフリカ入りしていたが、08年はポルトガルの港ポルティマオを使用。スペイン入りはしない。リスボンからのスタートは08年限り。09年は異なる国、または都市からになる。
▽モロッコ
ニジェール、マリ、アルジェリアの通過が不可能になってから、モロッコはダカール・ラリー唯一のアフリカ上陸国となっている。1993年に初めてモロッコに入って以来、97年、2000年を除き12年(回)モロッコを通過している。
ジブラルタル海峡に面したタンジェから、エルラシディア、ラバト、ワラザザーテ、アガディール、タンタンなどが頻繁にビバーク地となっている。石ころだらけの砂漠に砂丘もあり、一昨年は増岡浩(三菱)が大転倒し、3連勝の野望をフイにした。
▽モーリタニア
リビアやアルジェリアからアフリカ入りし、ニジェールのテネレ砂漠を走り回った時代から、モーリタニア砂漠は「最後の難関」と言われていた。柔らかい砂や砂丘が連続し、東頼では岩山を縫うルートもある。今はダカール・ラリー最大の勝負所。1983年から19回にわたって舞台となっている。ズエラ、アタール、ヌアクショット、ティシ、キッファ、ティジクジャ、ネマなどが主なキャンプ地として利用されてきた。
▽セネガル
ラリーの名称、ダカールはこの国の首都。フランスから地中海を越え、砂漠を渡り、西アフリカ最大の都市、ダカールへのラリーは、かつて西アフリカに多くの植民地を持っていたフランス人の郷愁を誘うものでもあった。“パリ~ダカール・ラリー”は、パリダカのなで親しまれ、今でもダカール・ラリーよりパリダカの方が通りはいい。26回訪れているのは当然。使われてきたムラや町は、ダカールの他、サンルイ、タンバクンダ、ラックローゼなどがある。
▽写真マリ・ガオ近郊
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53)市販車部門とモンスター |
今日(3月9日)に07年ダカール・ラリーの市販車無改造部門(T2)で優勝した三橋淳さんの祝勝会へ顔を出してみました。スポンサー関係などが圧倒的で、パリダカ関係者はごく少数でした。パリダカ連続出場記録を更新中の菅原義正さんや息子の照仁さん、山田周生さんなどに会いました。山村レイコさんも途中から現れたのですが、だんだん顔を見せる人が変わっているのに、パリダカそのものの変遷を感じました。
「いつもは、こういう会ならもっと馴染みがいるのにな」とジジが菅原さんに言いました。
「なんだかスポンサー関係や、パリダカを知らない人たちを多く呼んでいるようだよ」と菅原さんは答えました。パリダカ日本事務局をやっている志賀あけみさんも来ていましたが、ジジを含めて何となく“場違い”なところに来てしまったかな、の感じはありました。(写真=菅原さんの日野レンジャー)
冒険の世界、遊びの世界、戦いの世界とパリダカのとらえ方は、人により、経験により大きく異なると思います。人生を変えてしまった人も知っていますが、ジジにとってはとても楽しい経験をした世界です。でも、パリダカとは無縁に見えるぴかぴかギャルが沢山いる祝勝会など初めてでした。これからはこういう人たちが、砂漠のラリーに興味を持つのでしょうか。
パリダカなどの映像を作っている荒井さんにも会いました。この人は公共放送にいたとかで、人脈を生かしてパリダカ映像をを日本のテレビに送り込んでいます。
「今年は露出が少なかったよ」と言っていましたが、三橋さんの勇姿を短い映像にまとめて会場で流していました。砂や風、アフリカの臭いを感じました。
パリダカは、一つの時代を終わってしまったので、アドベンチャー・ラリーと大騒ぎすることはできなくなりました。素人の初参戦者なら冒険でしょうが、三菱やフォルクスワーゲンのプロ・ドライバーにとっては、単なるラリー・フィールドです。サポートも沢山いるし、命の危険と言えば、無理をして自分でひっくり返るくらいです。
三橋さんは市販車部門ですから地味です。Tクラス1位になっても、これは身内の戦いみたいなものですが、キチンと走りきるのは容易なことではありません。ジジも昔、車で追いかけたことが何度かありますが、結構大変です。でも、とても面白いのです。
これからはワークス・チームのモンスターが勝手に勝負を競い、ほかの参加者は自分なりに走って、パリダカを楽しみ、支援してくれる人たちを大切にしながら、砂漠のラリーの素晴らしさを知ってもらうことに変わっていくのかも知れません。
不安と興奮で胸のときめくサハラの旅は、今のジジには再現できないでしょう。例え車で走っても、地図と磁石、それにカンを頼りにした素晴らしいゲーム?はなくなってしまったのです。GPSの時代では昔のように、方向すら分からなくなるようなことはあり得ません。
三橋さんはパリダカの新しい世界を切り開いて欲しいものです。砂漠を知らない日本の多くの若者が、胸を躍らせる日本にはない強烈な刺激のある舞台に引き連れていって欲しいと思います。新たな意欲も湧いてくることでしょう。
冒険ラリーは終わり、楽しむサハラのラリーが始まっています。それがうまくいくかどうかに関しては、どんなものになるかな、と見守りながら、楽しんでいるのです。
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52)プロ・ドライバーの厳しさ |
1 プロドライバーの辛さ 更新日時: H19年1月19日(金)
ダカール・ラリーで日本の増岡浩さんが、サポートに回りました。トップのペテランセル、2位のリュク・アルファンから2時間も遅れてしまっては、そうならざるを得ないのです。増岡さんは過去ダカール・ラリーで2連勝しています。その後はペテランセル、アルファンに勝たれて冴えがありません。
ワークス・ドライバーはチームの誰かを勝たせるために、監督の指示に従うことになります。前半は速いもの勝ちの戦いですが、今回は中日まで1、2位だったフォルクスワーゲンが休息日明けに2位のサインツ、その翌日には首位のドヴィリエが潰れ、三菱の大逆転になりました。
増岡さんは不本意でしょうが、優勝可能な2人のサポート役を引き受けざるを得ないのです。ナニ・ロマも同様です。十分な時間差があるので、ペテランセル、アルファンは余裕を持って走行します。トップタイムを誰がマークしようが、順調に走れば1~2は間違いないのです。ここでリスクを冒す必要は2人にとって全くないのです。
速さの証明はステージのトップタイムですが、増岡さんは今年、それもないままに終わります。昨年の転倒よりはいいでしょうが、中日までに上位へ進出できなかったのが致命傷でした。トラブルやパンクは誰にもありますが、それを乗り越えるかどうかが勝負です。プロのパリダカ・ドライバーは、屈辱的なサポート役を何日も続け、仲間を助けてダカールへ走るのです。
かつて優勝を期待された篠塚建次郎さんも、前半に車を壊し、サポート役に回ったこともあります。長丁場を走るパリダカでトラブルは致命的です。プライベート参戦なら自由度はありますが、ワークスでサポートに回ると、前にいる同じチームの車に問題が起こったとき、自ら乗っている車の部品を外しても、前を走る僚友を助けなければなりません。そして、先に行かせいつやってくるとも知れないサポート・トラックを砂漠の中でじっと待つのです。
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51)シュレッサーの頑張り |
 2007年ダカール・ラリーは砂漠ステージを終え、後はダカール郊外の「バラ色の湖」、ラック・ローゼに車を運ぶだけです。SSはありますが、どう頑張っても1、2位のペテランセル、アルファンがコケない限り、ほかの優勝者は出ない環境です。ここまで来ると3位までの表彰台に立てるのは、三菱のほかにはシュレッサーがほぼ確実だと思います。
4位争いは熾烈ですが、1時間も、2時間もトップに引き離されている人たちは、プロとしての勝負には、既に負けてしまっているのです。
「増岡5位に進出」などと言う見出しが日本の新聞に出ますが、優勝を狙うプロとして、トップに2時間以上も遅れたら、上位を走る同じチームのお助けマンに過ぎないのです。5位でも4位でも、奇跡以外に勝てない時間差を、報道からは見つけにくいのです。年間の契約金を4000万円近く得ているパリダカのワークス・ドライバーは、酷いことを言われても、言い訳は許されないのです。
負け続けるワークス・ドライバーに比べ、シュレッサーさんは立派です。年齢は篠塚建次郎さんと同じで、もう第一線を退いてもいい歳ですが、今回は砂漠ステージを終わった段階で総合3位にいます。プジョーが登場して連勝。シトロエンにバトンタッチしてまたシトロエンが勝ち、シトロエンがやめたら今度はシュレッサーがプライベーターなのに、三菱を2年連続して破りました。
ジジは当時、砂漠のキャンプでシュレッサーさんに聞きました。答えは明確でした。
-規則があなたに有利になっているのではないのか?
「不満を言うなら三菱は私と同じバギーを作ればいいだろう。私は1人でやっている。大きなメーカーじゃないんだ。メーカーだったらバギーくらいすぐにできるんじゃないの、勝ちたいのなら…」
これは正論です。篠塚建次郎さんは、ラストランの翌年の今年、またラストランをやっています。ラストランというのは「最後の走行」と訳すのが普通だとジジは思っていました。しかし、篠塚さんは違います。
「ラストランとは言ったが、引退とはいってない」
プロ・ドライバーを引退して好きだから走るのはわかりやすいのですが、ラストランと引退の違いが、ジジにはよく分かりません。
パリダカに出て走る。それは自由です。好きなことを続けるのは幸せです。一時代を築いた人が、楽しみながら走るのは、ジジも大賛成です。しかし、人を欺く言い回しで、寄付を募ってはいけません。そうせざるを得なかったのは、メーカーとの契約は出来ないし、スポンサーも集まらない力になっていたからかも知れません。転倒して怪我をするか、車が壊れるかのどちらかで、勝ちどころか完走も希です。これではスポンサーの付きようもありません。
プロ・ドライバーは厳しい世界です。何でもプロは同じでしょう。サッカーも、野球も「使い物にならない」と思ったらクビです。だからこそ高い契約金をもらっているのです。言い訳は無用の世界です。
「あれがなかったら。あそこでナビが間違わなかったら…」
ジジはもう聞き飽きています。ナビを選ぶのもドライバーの責任なのです。
そんな世界でずっと生き続け、F1やル・マン24時間、三菱ワークスなどを渡り歩き、依然として頑張っているシュレッサーさんには“砂漠の悪役”などと言うニックネームも献上しましたが、本当は敬意を表したいところです。増岡さんも、篠塚さんも、大メーカーの傘の下でシュレッサーさんの足元にも及ばない“甘えの世界”で生きてきました。その時代も、昔の名前も、もうそろそろ終わりに近づいた感じです。3年連続して上位に行けない人を、大金をかけて雇う監督は自分の存在まで消し去ることになります。
日本人が注目されたパリダカ、今ではダカール・ラリーも、日本人のプロ・ドライバーにとって、厳しい現実を突きつけています。パリダカ好きのジジにとってもっといやなのは、日本人ドライバーの動きだけを当然のように追う、日本のマスコミからパリダカが抹消される日も近いのではないかと心配しています。
パリダカ悲喜こもごも、の記事を書いてきましたが、自分の力を相対的にどう評価するか、それが出来るか、出来ないか-。それこそ悲喜こもごも、の裏にあるもの-人間性なのです。シュレッサーさんは今年チームを組むことが出来ませんでした。単独出場です。それでも、トップ3に入ろうというところにいます。懐かしく、お互いによく知るジャン-ルイが、表彰台に立つことこそ、個人的なプロの意地の見せ所です。
頑張れ、ジャンールイ。エールを送り続けています。(炎上した車はシュレッサーの3年前の悲劇です)
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50)07年ダカール・ラリーも悲喜こもごもです |
◇寂しくも懐かしいジジのお仲間たち。
07年ダカール・ラリーには懐かしい名前が見えます。ジジがサハラを走るドライバーたちを、車で追っていた時代からの知り合いたちです。ワークスチームに所属し、華々しく脚光を浴びたドライバーが、プライベートで出走し、トップ争いから遠く離れた位置で苦闘しているのは、本人が好きとは言え、なにかもの悲しい気もします。
日本人ドライバーで最下位の篠塚建次郎(ニッサン)は、かつて「三菱ワークスで最もいい車に乗る男」と言われ、日本人初の優勝者にもなりました。ジジは20回も篠塚さんの砂漠の姿を見ています。ババもチュニジアやモロッコで篠塚さんを追って、ジジと砂漠を車で走り回りました。
パリダカで一度勝った後は、勝ちに恵まれず近年はリタイヤ続き。ニッサンへ移籍したがワークスは2年で解散してしまい、翌年はニッサンディーラーのドスード(フランス)で走りましたがリタイヤでした。何とか出走しようと、昨年はイタリアのディーラーから車を出してもらい「これがラストラン」と言っていました。しかし、好きなのでしょう、それを撤回する形で今回も出走したのです。
ついてない、というべきでしょう。第1ステージのトラブルで大きく遅れ5時間のタイムペナルティー。フェリーには乗れましたがモロッコでの第4ステージを終わって102位です。本当のオールドファンは分かるかも知れません。速かった時代に篠塚さんは“ライトニング健次郎”のニックネームがありました。それはとうの昔語りです。
パリダカ最多優勝のアリ・バタネン(フィンランド)はフォルクスワーゲン・ワークスの「最も安定したドライバー」と期待されて走りましたが、第2ステージの川渡りで速度を出しすぎてエンジンが水を吸い込み、大きく遅れて5時間のペナルティーをくってしまいました。
「ラリーはモロッコからが本格的に始まる。それまでは確実にSSをこなすのがつとめ」と言っていた本人がお粗末をしでかし、ヨーロッパ・ラウンドで大きく後退です。当てにしていたクリス・ニッセン監督は「アリのドライブミス」と決めつけていました。
フィアットで走っているブルノ・サビー(フランス)も三菱ワークスでパリダカ優勝の実績があります。三菱を離れた後にフォルクスワーゲン入りしていましたが、今回は解雇され、個人出場で145位を走っています。
1988年ランチアに乗ってWRCのチャンピオンとなった、ミキ・ビアシオン(イタリア)は、トラック、三菱ワークスなどで走ったが芽が出ず、今回はフィアットで出走。146位に甘んじています。一世風靡のランチャのエースも、すっかり速さを失いました。
“砂漠の女帝”ユタ・クラインシュミット(ドイツ)はフォルクスワーゲンを離れ、BMWに乗っていますが、スペインで出火。9日にはモロッコでクラッチが壊れ遅れています(25位)。トップを競った数年前の勢いは消えています。
「砂漠のラリーは一度味わったらやめられない魅力がある。サハラの夜の静寂さは自分を見つめ直させてくれる」と、かつてフェラーリF1優勝、ル・マン24時間も制したジャッキー・イクス(ベルギー)は、順位を気にしないプライベート参戦でパリダカを楽しんでいました。懐かしい“昔の名前”のドライバーが、功成り名を遂げたイクスのような心境かどうか…。
WRCで三菱、ヒュンダイに乗ったフレディ・ロイックス(ベルギー)は、WRCを諦めバギーに乗って走っています。17位(SS4)は立派な成績です。それぞれの思惑、喜び、悲しみとともに、世界一過酷と言われるダカール・ラリーは砂漠を移動し続けています。
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49)マーニュさんの葬儀に日本人ドライバーはいなかった! |
モータースポーツでも登山でも海のレジャーにしても、事故は「まさかこんなところで」とか「死亡するような状況ではない」などのケースが意外と多いのです。昔、ジジが登山をしていた頃、山を下っていて単純に転んだ、と思った人が、大腿骨を骨折していました。
2007年パリダカにポイントを当て、ラリー・オブ・モロッコに出走したマーニュさんの事故死も、ジジが入手した情報を総合すると“まさか”の状況です。ナニ・ロマさんの運転するパジェロ・エボリューションは「運転席側の左が壊れていたが、そんなに酷いクラッシュではなかった」と聞きました。アンリは右側に乗っています。本来ならドライバーの方が危ないクラッシュだったのです。
現場はオアシスの集落を過ぎた所でした。砂漠のうねりで上りとなり、すぐに下る―、大きなコブのようなクレストがありました。ロマさんはクレストでジャンプし、着地した段階で前方にコンクリート壁のあるのを見たはずです。
「約50㍍ほどフルブレーキでタイヤがロックした跡があった。サスペンションは伸びきっていたので、グリップが得られなかった。さらに路面は細かい石が一面にあって、滑りやすかった」
「コンクリート壁に当たった時の速度は時速約85㌔ほど。アンリは次のルートを読んでいて、前を見ていなかったかも知れない」
「顔面から激しい出血だった。シートベルトが緩かった可能性もある」
砂漠を走るリスクは十分承知のアンリに、魔が差したのでしょうか。ゆるめのシートベルトが、クラッシュ時にどれほど危険かをアンリが承知しているのは当然です。人の肋骨は時速25キロの衝撃をまともに受けると折れます。時速85㌔が、一瞬にして時速ゼロになる衝撃で、顔面をぶつけたら、ひとたまりもないのです。
死因はまだ発表されていませんが、以上のような状況から、おおよその推測はつきます。アンリのシートベルトが緩かったなどとは普通、考えられないけれど、そんなことは有り得ない、とは誰も言えないのです。事故とはそういうものなのだと思います。
新鋭のロマさんは今年パリダカ3位。2007年は大きな野望を持っていたと思います。アンリと共にそれに突き進んでいるとき、リード役のアンリを失いました。
アンリのサポートでパリダカ優勝した篠塚建次郎さん、僚友の増岡浩さんは、葬儀に参列しませんでした。事情はあるでしょうが、日本の三菱自動車のワークス・チームで、パリダカを共に戦った日本人ドライバーが、1人もアンリを送る葬儀に参列しなかったことを、ジジはとても寂しく思います。
名ナビゲータ、アンリの冥福を祈ります。
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48)サハラに夢を追ったアンリにサヨナラです |
アンリ・マーニュさんの葬儀が9日、ピレネー山脈の麓、フランスのブライブ・ラガヤルデの教会で行われました。ジジ・ババはアンリのアンドラの家に2度訪ねて行きました。アンドラの中心から少し北に上ったスキーリゾートの高台にアンリの家はありました。
ルセッテ夫人がニコニコして迎えてくれ、アンリが獲得したトロフィーの飾られた応接間で、次々とトロフィーをガラスで覆われた飾り棚から出し「これはパリダカ、これはモロッコ…」などと嬉しそうに説明してくれました。アンリはいかにも楽しそうに、幸せな笑みと共に、そのラリーを説明したものです。
一緒にレストランへ行ったときに、2000年のパリダカで、トップにいた増岡浩さんの前にシュレッサーさんとセルビアさんの運転する2台のシュレッサー・バギーが割り込んだのはなぜなのか、と聞きました。スポーツマンシップに反するのではないか、ともいいました。アンリは2000年パリダカでは三菱を離れジャン-ルイのナビをやっていたのです。
「あれは作戦なんだよ。増岡がトップ、その次にユタ(クラインシュミット=ドイツ)がいた。我々に勝ち目はなかった。何とか逆転の方法はないかと考えた末に、5分のペナルティは受けるけど、関係ない。ヒロシが熱くなったら逆転の可能性も出ると思ったのさ」
規則を知り尽くしたプロのナビが、老練なジャンールイと2人で練り上げたものでした。増岡さんはパリダカの手練れ2人の術中に落ち込み、セルビアさんを抜こうとして足回りを壊し、優勝をフイにしました。それでもジャン-ルイは勝てませんでした。結果はクラインシュミットさんが女性で初めての優勝でした。きれい、汚いということはあっても、勝負は規則の中で決着するのです。優勝こそ出来なかったけれど、ジャンールイとアンリの作戦は、規則を最大限に利用した作戦だったのです。
その後、シュレッサーさんとアンリさんは幸運から見放されました。2年後にはモロッコの砂漠でシュレッサー車が発火。丸焼けの車からパスポート、ライセンスなどの入った小物入れを持ち出すのが精一杯でした。ジャンールイと離れ、ロマさんのデビューと共に、再び古巣の三菱に戻ったのです。バイク出身のロマさんをサポートし、今年のパリダカでは3位入賞でした。
アンリは優しい男で、子供がいないため身よりのない子供2人を養子に迎えています。ジジは篠塚さんが優勝したときのラリーを鮮明に覚えています。ニジェールの砂漠でアンリは、緊張の極にあった篠塚さんを落ち着かせ、見事に優勝へと導きました。アンリのサポートなしに、篠塚さんの日本人初優勝は難しかったと思います。
「アンドラへ来たらいつでも声をかけてくれよ」とアンリはいっていました。昨年の夏にアンドラへ行き、アンリに電話をしたら留守でした。今年のパリダカはリスボンから出発でしたが、アンリは顔を見た途端にいいました。
「何度か電話したんだよ。ホテルの名前を残しておいてくれたら良かったのに…」
半年前の電話を覚えていたのです。アンリが電話をくれた頃、ジジ・ババはピレネー山脈の一部、アンドラの山へ登っていたので、電話が通じなかったのです。
アンリの葬儀が行われた教会は、パイプオルガンで有名です。砂漠に夢を追い続けたアンリの葬儀に駆けつけるには、遠すぎるので、ジジ・ババは葬儀の場に花を捧げました。80年代から毎年、パリダカといえばアンリと会いました。モロッコ、チュニジア、スペイン、ポルトガル、オーストラリア、ロシア、カザフスタン、中国…。アンリはいろいろな国をナビとして走りました。そのラリーを追ったジジにとって、アンリはとてもいい友人でした。
寂しい気持ちで「サヨナラ、アンリ」です。ちょうど今の時間に、アンリの葬儀が行われているはずです。
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47)ナビ、このリスキーな職業 |
ラリー・オブ・モロッコ最終日にアンリ・マーニュさんの事故死で即座にチームをラリーから撤退させたのは、ドミニク・セリエス監督です。セリエスさんの背中には、金属が入っています。理由は篠塚建次郎さんがリビア砂漠を疾走中に、砂漠の窪み、それに続く砂の壁に気づかず、大クラッシュし、ナビゲータとして乗っていたドミニクさんが背骨を傷める重傷を負ったのです。
篠塚さんは尾てい骨を傷めましたが、ドミニクさんは「再起不能ではないか。治っても車椅子の生活になる可能性が高い」とまでいわれていました。幸い手術は成功し、歩けるようになったし、車の運転やパリダカの指揮を執って、サハラ砂漠を駆けめぐるまでになりました。しかし、トップクラスのナビとしての参戦は終わりました。
前回、ナビは前を見ている暇がない、と書きましたが、実は“掴まるところももない”のです。5点式のシートベルトでがっちりと体をシートに固定してはいますが、ギャップやクラッシュの衝撃に耐える“準備動作”は殆ど出来ません。ロードブックで「!!!」=スリーコーション(大変危険)の印を読み上げても、それがどの程度か、目で確かめるのはドライバーの仕事です。例えナビが“速すぎる”と感じても、速度をどこまで落とすかは、ドライバーの判断次第です。
ロードブックにないギャップや、ドライバーのちょっとしたミスで突然、ジャンプすることもあります。下を向いてノートを見たり、計器をのぞいているときに突然、ダイレクトな衝撃を受けるのだからたまりません。道を歩いていて低い段差に気づかず、骨折したり、転倒する人は珍しくはありませんが、ナビの背骨や首は、硬いサスペンション、シートからの衝撃を受け続けているとも言えます。
「首を傷めた」というナビは数多くいます。重い頭に、重いヘルメットを着けているので、クラッシュ時に首が受ける衝撃は凄まじいもです。大きく跳ね上がった時の着地で受ける衝撃も、背骨から首へ、猛烈な重力がかかります。長い間、パリダカやWRCの記事を書いてきて、いつも矛盾を感じるのは、ナビはドライバー以上に大変だ、と思いながら、主役は常にドライバーだということです。
ナビは割の合わない仕事だと思いますが、やっている人は「自分がドライバーをコントロールしている」の自信です。これがなければ、到底やってはいられないでしょう。マーニュさんはジャン-ルイ・シュレッサーさん(フランス)と組んだとき、増岡さんの優勝をフイにしました。後に彼は「あれも作戦のうち」と説明しました。この話は次回に書きます。
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46)名ナビの死=モロッコ・ラリー |
日本人で最初のパリダカ優勝者、篠塚建次郎さん(当時三菱)を勝利に導いた名コ・ドライバー(ナビゲータ)のアンリ・マーニュさん(53)=写真=が5日、モロッコ・ラリーの競技中に事故死しました。ヨアン・ナニ・ロマさん(スペイン、三菱パジェロ・エボリューション)のナビとして乗っていたのですが、コンクリートブロックに激突し、即死状態でした。
三菱のドミニク・セリエス監督は直ちにチームのラリーからの撤退を宣言しました。後ろでなにが起こったか知らなかった三菱のステファン・ペテランセル(フランス)は、フォルクスワーゲン・トゥアレグ2のジニール・ドヴィリエさん(南ア)を逆転してフィニッシュしていました。この記録はチーム撤退でキャンセルされ、ドヴィリエさんの優勝となりました。
同じチームの増岡浩さんはロマ、マーニュ・コンビのパジェロを追いかけていました。パリダカのバイクで優勝した後に、昨年から4輪に転向し、三菱に乗っているロマさんは、ぐんぐん力をつけていますが、増岡さんに追われて焦っていたのでしょうか…。
増岡さんはクラッシュしたロマさんの車を見て現場に止まり、意識を失っているマーニュさんを車から助け出すのですが、レスキュー隊が到着して5分後に、マーニュさんは息を引き取りました。ドライブしていたロマさんは無事でした。
ラリーはドライバーと共にコ・ドライバーと呼ばれるナビが乗ります。ナビの仕事は重要でコースの指示から、路面の様子、速度、走行した距離など、さまざまなデータを掌握し、ドライバーに指示します。データを与え続けると言った方がいいかもしれません。地図、ロードブック、速度・距離計など読み取るものは沢山あり、車の前を見ている余裕などほとんどありません。
パリダカに限らず、ラリー車の事故で大怪我をしたり、最悪だと死亡するのは、ドライバーよりナビが圧倒的に多いのです。
マーニュさんは1987年に初めて篠塚建次郎さんとコンビを組み、三菱ワークス入りしました。その年は総合3位でした。翌88年には総合2位。篠塚・マーニュ・コンビはとてもいい感じで砂漠を疾走したのです。
しかし、1992年にマーニュさんは酷い目に遭います。テネレ砂漠を全開で走行中に、篠塚さんの運転するパジェロは、砂丘の段差を読み違え、大きく跳ね上げられ、5,6回転します。
「車はバラバラになってました。アンリは“何も見えない”といってうずくまっていました。これは大変なことになったと思いました。救助のヘリが来てアンリを運んでいきましたが、ショックで一時的に目がおかしくなったのでしょう」とアガデスで篠塚さんは話してくれました。その後視力は何事もなかったように回復し、篠塚さんのパリダカ優勝を引き出したのです。
ナビのリスクはパリダカでまだまだあります。マーニュさんの死で直ちにチームのラリー撤退を決めたセリエス監督も、リビア砂漠で大怪我をしているのです。(これは次回に書きます)
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45)援助と物売り |
砂漠のキャンプ地に物売りがやって来ます。ある年、男が数個の缶詰を売りつけに来ました。
「これはいいものだ。買って損はない」の売り込みです。どれどれ、缶詰をよく見るため手に取りました。そこには日の丸が描かれ「援助物質。販売禁止」と書いてあります。
「これ、日本からのものじゃない。売っちゃいけないと書いてある」と言うと、男は薄ら笑いを浮かべながら言いました。
「オレたちゃ、こういうものを食わないんだ」
絵も描いてあります。鯖の水煮でした。すぐ近くにキャンプ地を警備する警官もいたので「これを売ってもいいのか」と聞いたところ「かまわない」の答えでした。言い値は安いし、行きがかり上、1個買ってみましたが、焼き鯖、しめ鯖、水煮も嫌いではないジジも、ちょっと二の足を踏むような生臭い臭いがしました。
チャドだったか、モーリタニアだったか忘れてしまいましたが、この国に住む人たちは、基本的に遊牧民です。モーリタニアの海岸線を走ることもありましたが、小さな村で羊や山羊の肉は食べられても、魚はありませんでした。モーリタニアは日本に大量のタコを輸出しているし、マグロの漁業権を売っています。そういう国へ鯖の水煮を食料援助として送り込む日本の役人の無知、無関心ぶりには驚きます。
次の年もパリダカに同行して、アフリカを走りました。やはり、キャンプ地の傍に露店が出来て、いろいろなものを売りに来ていました。その中に、前の年と同じ鯖の水煮がありました。日本製です。販売を禁止する文面も同じです。一応写真を撮っておこうとしたら、制服をも着ていない人物が「撮っては駄目だ」と立ちはだかりました。
「去年は撮ってもよかった。売っているのを撮るのだから問題ないだろう」といっても聞きません。秘密警察はアフリカ諸国にも多いので、有無を言わさず捕まってしまってはなんにもなりませんから引き下がりました。
1時間ほどしてほとぼりも冷めたろうと思い、先ほどの露店に行ってみると、缶詰はあるのですが、ラベルが全部剥がされていて、砂の上に散らばっていました。どうせ売れない缶詰でしょうが、中身が分からなくては売りようもないと思いました。
前年の警官は事情が分からなかったのでしょうが、この年に写真を撮らせなかった人物は、明らかに援助物資横流しを承知していたのでしょう。アフリカへ出かけた小泉首相はスーダンを初めアフリカ連合へ多額の支援を約束しました。自立のための支援、という言葉は美しいのですが、アフリカを滅茶苦茶にし、部族紛争の元になる国境線を、幾何学的に引いてしまったのは欧州の列強です。そのあたりもしっかりと認識しないと、日本は「なにか言えば金をくれる」と思われます。
援助するならするで、その行く末をきっちりと確かめる必要があります。英国BBCは「支援の多くが、一部の人の懐に消えている」と鋭い指摘をしていました。たかが鯖の缶詰、というかも知れませんが、大型重機やトラクターも既にアフリカ諸国へと送られ、日本の国旗を書いて走っています。日本の情報不足をいいことに、支援団体と結び、遊びに行っているとしか思えない人たちもいます。
したたかなアフリカとのつきあいを始めようという日本の情報収集は大丈夫でしょうか。海外青年協力隊も送り込むそうですが、自然条件、国民性、政治状況などをしっかり把握してからでないと、なんの役にも立ちません。オアシスの村に日本人のバレーボール指導者と称する協力隊員もいましたが、過酷なオアシスの住人にバレーボールなどする余裕はないのです。自動車修理も同じです。パリダカの人たちの中には部品がなくても何とかこなす人もいますが、修理指導に来ながら、日本流の交換修理しか知らないので「部品が来ないと仕事が手につかない」という、気の毒な日本人指導員にも会いました。
パリダカを車を運転しながら追って走っていた日々には、アフリカの本当の姿を垣間見る時間もあったのです。
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44)ニアメ金蠅 |
もう時効だからいいでしょう。80年代の終わりにパイオニアがパリダカのスポンサーになっていたときのことです。ニジェール西端の都市、ニアメにパリダカの一行が到着しました。ニジェール側に近いこの町は、アガデスとともにニジェールでは重要な都市です。
 アガデスで1日休息日があっても、地中海沿岸からサハラ砂漠を南下してきた人々にとって、緑と川は何とも言えない安心感があります。都市ですから一応、ホテルはあります。我々が割り当てられたのは、フランス人がよく使うところで、アガデスのホテルとは言えないようなホテルとは、桁違いに設備はいいのです。
しかし、主催者の一行も泊まるので、割り当てられた部屋数はごく少なく、プレス用などはありませんでした。冠スポンサーのパイオニア関係者が入る部屋だけが、日本人用に予約されていたのです。この年は一般紙からも数人の記者が招待されていました。この中に、とても難しい人がいたのです。
何となく日本人は一緒にホテルへ行きました。そこで部屋数を見ると、ほんの数部屋しかありません。それは仕方がないことです。テントを張って泊まるのが基本のパリダカですから、驚きもしませんでした。
「部屋で寝られ、シャワーを浴びられるだけでも十分ですね。ごろ寝しかありませんね」と、同行していたパイオニアのA部長は苦笑していました。皆、同感だと思ったのですが、1人だけ異議を唱えました。
「うちの社は招待された旅行なら1人部屋に決まってます。オウンルームです。ワンルームをください」
皆、唖然としました。部屋は3つほどしかないのです。
「こういう環境なので、我慢してください。私と相部屋でお願いします」とA部長は言いました。
「いや、1人部屋が当たり前ですから…」と言い張る某一般紙の記者に、温厚なA部長も少し声を荒げました。
「私と同室はそんなに厭ですか」
まわりりの者が駄目っていません。3人も4人も一部屋に泊まるのです。プレス用の部屋などないのです。彼だけ1人部屋など、許されるはずはありません。結局その記者は相部屋を承知したのですが、呆れた出来事でした。
これだけではありません。数日前のアガデスでは、同行していたトヨタの広報担当に、もう1人の同じ会社の女性記者tもども「2台の車を貸してくれ。取材がある」と言ったのです。取材熱心はいいでしょう。しかし、ニジェールのアガデスです。いくらトヨタでも自由になる車が、サハラ南端のオアシスにあるわけがないのです。
困り果てた広報担当者は、手を尽くして1人1台ずつの車を探し出してきました。あまり愚痴を言わない人でしたが、さすがに「参りましたよ。こんなところに広報車なんてないですよ。分からないのでしょうかね…」とこぼしていました。こういうことを知っていたので、自分のことしか考えない一般紙の記者は、誰言うとなくあだ名がつきました。
「ニアメ金蠅」。
うるさくつきまとう蠅ですが、その姿は派手です。新聞社の肩書きをちらつかせて、好き勝手なことを言う彼には、ぴったりのものでした。彼も彼女もトヨタんぽ車をタダで無理強いして借りましたが、トヨタ、の一字も記事にはありませんでした。
パリダカが終わり、2ヶ月ほどしてからA部長から電話がありました。
「あの“金蠅さん”から連絡がありましたよ。“ステレオセットを安く買いたい”というのです。できるだけ安くはしてあげましたが、私と同室は厭だ、なんて言っていたのはウソのようでしたよ」
A部長と2人で大笑いしたものです。こういう人は得てして偉そうな記事を書くものなのです。
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43)アガデスの少年 |
 80年代の終わり頃まで、パリダカはいつもアガデスで休息日を迎えました。パリダカが着き、テントが張られる頃になると、皆、街へ出ます。街と行っても日本で思うほど大きくはなく、泥と日干し煉瓦で作られたモスクを中心に、バザールなどがあります。
ホテルと名の付く建物は幾つかありますが、呼び名と実態は異なります。レストランも一軒ありました。スパゲッティを食わせる唯一の場所です。アガデスに行くたびに、このレストランへ行ったのですが、分厚い日干し煉瓦と泥を塗り込めた建物は、窓が小さく、目が慣れるまでは殆どなにも見えません。サハラの太陽が強烈なので、こういうことになるのでしょう。
パスタは確かにパスタで、腹が減っているから、旨い、と感じたように振り返ると思います。ニジェールのサハラへの根拠地で、イタリア料理などきちんと出来ようもないのです。
アガデスの街は突然、断水になります。オアシスの水は限られていますが、一応、給水塔もあり、街中のおもだったったところには配水されています。しかし、シャワーのあるところには、パリダカの参加者たちが入り込み、シャワーを浴びます。給水塔の水はすぐに無くなり、街の断水はなかなか回復しません。
日本の取材チームは、ビラを借りていました。テントよりいくらかは快適です。同行していた広告代理店のK君が少年を雇い、その少年の家族や知り合いの女たちを選択要員に頼みました。15歳くらいに見える少年は、K君に可愛がられながら、日本人たちの汚れ物の洗濯を女たちにやらせていました。
この少年はちょっといい気になったところもありましたが、性格は悪くはないようでした。その後、アガデス経由のパリダカは無くなり、久しぶりにダカール~アガデス~ダカールが開催されて、アガデスの街に行きました。キャンプ地でのんびりしているとき、逞しい青年がニコニコしながら近づいて来ました。
「Kさんは来てる?」
「いないよ。彼は仕事を変わったんだ」
「ボクの顔を覚えてる?ボクはあんたを知っているけど…」
こんなやりとりのあと、10年も前に会った少年だということに気づいたのです。とても懐かしそうでした。ほかの仕事もあったので、彼とはそれっきりになりましたが、振り返るともう少し、いろいろと話しをすれば良かったと残念に思います。
ニジェールは政情不安です。あの少年が今どうしているか…。気が利く少年だったので、インターネットくらいは出来るだろうと思うのです。あまり逢うこともない知り合いや友人は、出会ったときに連絡手段をしっかりと聞いておくべきだと反省です。あの少年と連絡が取れれば、パリダカの取材とは別に、砂漠の中の砂漠、と言われるテネレ砂漠の旅も出来るように思うのです。
その後、Kさんとも何度か会い、大人になった、あのときの少年の話になりましたが、彼も連絡は取れないと言っていました。砂漠に生活する人たちは、コンピュータなしでの連絡手段を持っていますが、古典的な口づての連絡は、ニジェールまではどうしても届かないのです。
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42)楽しい旅・パリダカ |
 1980年代の終わりまで、ニジェールのアガデスはパリダカの重要な中継地になっていました。アルジェリアやリビアからスタートしてサハラ砂漠に入ると、主催者が飛行機に積んでいる大きな衛星電話やそれを使ってのファックス以外に連絡手段はありませんでした。アガデスの休日にやっと電話やファックスがきちんと使えたのです。しかし、砂漠の旅を楽しむには、この不便さの方がずっと良かった、とジジは今でも思っています。
記事を書き、写真を撮るためにジジは派遣されていたのですが、そういう風に受け止めていたのはジジの方だけで、勤務していた会社の方は「うるさい奴は社内にいない方が静かでいい」くらいにしか思っていなかったでしょう。おかげで砂漠の旅が、毎年決まって出来たのです。
カメラを1台、ノートを1冊、鉛筆数本くらいが仕事用の“装備”でした。テントから着替えまで大きなダッフルバッグに詰めるので、小さいショルダーに仕事用の小物を入れてお終いです。今では取材用の装備が大変です。デジカメ、パソコン、GPS携帯電話、ノートや鉛筆、ボールペン、それにパソコンの予備まで必要です。パソコンにはACアダプターを始めいくつもの備品があります。1つ無くなっても仕事になりません。便利なようでとても不便です。
砂漠地帯でもフランス国籍のGPSだと、フランスの旧植民地のオアシスでは、GPSが通じるのです。衛星携帯電話もありますが、こちらはGPSに比べて料金も高く、ワークスチームで使うくらいです。
余計な話になりましたが、鉛筆、ノート、カメラを持ち、殆どの場所では連絡もままならない昔のパリダカ取材は、締め切り時間に追われることもなく、自分で車を走らせ、キャンプへの到着時間が遅くなっても、記事は送らないのでいっこうに構いません。ドライバーと話し込んだり、オアシスの村をほっつき歩いたり、実際にはパリダカに同行しなければ出来ない取材も可能だったのです。
今は気の毒です。飛行機で移動し、飛行場から飛行場。そこに作られたキャンプ地を移動するだけです。上位のドライバーが到着すると話を聞き、すぐにパソコンに向かって記事を書き、送信しなければなりません。オアシスの村をうろつくのにも、足となる車がないのです。ジジの全盛期?には車を走らせていたので、好きなところへいけました。
その日の出来事が写真と共に即座に日本でもフランスでも、送ることが出来るし、見ることも出来る便利さは、とても素晴らしい進歩だと思いますが、日々、移動するパリダカで、現地の姿を知る暇はありません。国内の旅でもバスに乗っての団体旅行だと、個人的に強い興味があっても、時間やコースで我を通すことは出来ません。サハラ砂漠のラリーも、次第に競技化してしまい、プレスの移動も観光旅行に近づいてきて、昔のようなエピソードも少なくなりました。
今はテロや強盗の危険があるので、アガデスにパリダカは立ち寄らなくなりましたが、以前は、重要な休息地だったし、アガデスで10日ぶりくらいに記事を送った記憶があります。その間は何にもなしですから気楽なものだったと思い返しています。
次にはよき時代に出会ったアガデスの少年の話をします。
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41)置いてけぼりの恐怖 |
 パリダカのキャンプ地は賑やかです。次々と車は到着するし、食堂テントでは勢いよく炊事の湯気が立ち上ります。テント村も出来て、これがサハラ砂漠の小さなオアシスなのかどうか、錯覚するほどです。しかし、賑わいは幻影にすぎません。殆どの飛行機が飛び去り、車も出て行ってしまったキャンプ地は、宴の後、というイメージよりも、ずっと寂しく、呆然とするほどです。
大きな穴が掘られ、ゴミが燃されていて、どこから来たのか、現地の人たちがものを探しています。残酷なようですが、パリダカは豪勢な遊びで、厳しい生活を強いられている現地の人々にとっては、捨てられたもの、残されたものの多くが、まだまだ使える品物なのです。
ミレーの「落ち穂拾い」の絵をフト連想するような風景でもありますが、そこは畑ではなく、荒涼とした砂漠なのです。ヘリコプターで移動する時に、皆が移動した後に残ったことがありますが、朝までの賑やかさが印象に残っているため、とても寂しく、ゴミ焼却の炎と煙が、空しい感じさえ持たせたのです。
「ここに置き去りにされたらどうなるだろう…」と考えました。燃料を一杯にした丈夫な車があれば、きっと心強いと思いますが、一機のヘリコプターが、最終便としてキャンプ地を後にするのです。多くの人や車が集まっているので、都会ではないにしても、冒険ごっこ、の世界です。どこへでも通信できるし、補給物資も沢山あります。砂漠では不自由な水も、C130輸送機やトラックが運んできます。しかし、それはほんの一夜の賑わいに過ぎないのです。賑わいの中で移動する人たちには、都会日界生活をそのまま砂漠に持ち込み、移動していくのです。砂漠に生活する人たちの現実はわかりにくいことでしょう。
ふと、三菱がチャーターした中型輸送機に便乗していたときのことを思い出しました。フランス人たちは気楽です。出発時間はあらかじめ決めてあるのですが、何となく人が集まり、成り行きみたいに出発します。
点呼を取るようなことはありませんから、うっかり忘れられたら、置き去りです。予定の1時間前に出発したこともあります。皆が乗っているのは、当たり前の感覚なのです。1人の日本人が乗っていない、などと考えることは、まずなさそうです。だから、便乗する時、これは危なそうだ、と感じたら、テントを飛行機の翼の下に張り、張り綱をアントノフ機の脚に縛り付けていました。テントを引きずって離陸なんてことはあり得ません。
こういう夜は起床時間を気にすることなく、ぐっすりと寝られたのです。もうこんな体験は出来ません。懐かしい、よき時代のパリダカの思い出です。
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40)自ら好んで熱射病 |
 パリダカの現地取材をする人は、ごく少なくなりましたが、10年、15年前にはかなりの人数がラリーを追っていました。大方はは飛行機で移動ですが、キャンプ地では様々なことが起こります。トリノ五輪で日本のマスコミの予想が外れに、外れたように、実情を知らない人がやってくるのです。
ある年のことです。あるマスコミの記者が派遣されてきました。マリあたりのキャンプ地の出来事です。日本へ帰ってサハラの厳しさ、暑さを周囲に訴えたかったのだと思いますが、早めにキャンプ地に着いたその記者は、テントを張るとギラギラと輝く太陽の下でで寝袋を敷き、仰向けに寝転がりました。
「脱水症状になるからよした方がいいよ」
「ああ、私は大丈夫。気持ちがいいよ」
「寝るのなら木陰がいい。その方が体にもいいよ」
「心配ないよ。ここがいい」
全く聞く耳を持ちません。何度かサハラに来ている仲間は、心配したのですが、無理に木陰へ引きずっていくわけにもいきません。気にはなったのですが、ジジたちは木陰へと移動しました。
その夜です。くだんの記者は「気持ちが悪い」と訴えました。顔はお望み通り、赤黒くなっていましたが、太陽が強すぎたのです。ワークスチームに付き添っているドクターに話したら、すぐに診断し「脱水症状だから、水を沢山飲め。今晩中に5㍑は飲むことだ」といって引き揚げました。
脱水症状になる前にも、この人は人騒がせなことをしました。フランスの外人部隊が作った、ダートの滑走路がキャンプ地の脇にあります。滑走路の脇にキャンプしたといった方がいいでしょう。滑走路の反対側にもテントが張られていました。人は滑走路を横切り、行ったり来たりします。
その記者が1人で滑走路を横切り始めました。遠くで気づいた人は「危ない!」と叫びました。小型機が降下してくるのです。このままでは滑走路の真ん中で激突です。目を覆わなければならない惨劇を予測した途端に、小型機はエンジン音を急に高め、滑走路へタッチダウン状態から急上昇していきました。
皆、驚きました。航空担当のフランス人も仰天です。しかし、その人は平然としていました。
「えっ?そんなことがあったの。知らなかった」
道路を渡るときは、左右を確認して―、は小学校の頃、それ以前から教え込まれているはずですが、この人は滑走路と道路は違うと思っていたのでしょう。
その後に熱射病になったので、お気の毒ですが、あまり同情する人はいませんでした。命に危険はないことは医師の診断で分かっていたのです。世の中には変わった人もいるものです。
この人の後日談です。ある会社の女性記者が言ってました。
「あの人、私たちに言うんですよ。オレは英語がしゃべれる。5000万円の貯金も持っている、って」
やはりこれではモテません。40を過ぎて独身なのも、分かるような気がします。
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39)頭隠して… |
長い砂漠の旅になると、気の強い人が有利です。キャンプ地に飛行機が着き、速い車がやってくるのを到着地点に見に行くときなど、テント村を作らず、大型のテントに大勢がまとめて荷物を置き、出掛けることがあります。テントの前は開けっ放しですから、外から丸見えです。
人の心理として、見えるものは、盗まれる可能性が強いように思います。そこで強心臓のフランス人などは、他人の荷物をどかしてまで、一番奥の、一番下に自分の荷物を押し込むことがあります。
ある年、どこの国か、どこの村か忘れましたが、一つのテントに何十人かが荷物をまとめたことがありました。キャンプ地に近い到着地点で上位の車が走ってくるのを見た後、それぞれが自分の荷物を引っ張り出し、思い思いの場所にテントを張り始めました。
そのうち、数人のフランス人が血相を変えて荷物を探しているのです。一番奥の、一番下、最も安全と思われる好位置に、自分の荷物を割り込ませた、心臓の強い人たちです。1人は主催者のテントへ走っていきました。残る3人ほどは、テントの後ろに回り、騒いでいます。
行ってみたらテントの後ろ側の、一番下がざっくりと切り裂かれているのです。テントの後ろにはラクダ草の生えた小さな砂丘と少し木があります。テントの正面、開けっぴろげの方は前が開け、主催者のテントも少し遠いけれど見えます。
盗人は人目を恐れます。小砂丘と木は身を隠すのに格好の遮蔽物です。安全と思われたところは、前から見た場合に限られ、荒っぽさがあれば、盗む方は後ろ側の下を切り裂いて手当たり次第、荷物を引っ張り出し、勝手知った砂丘の陰へと遁走すればいいのです。前から見えなくても、盗む手段はいくらでもあったのです。
慣れていると言ってもパリダカは年に1回です。ヨーロッパや日本からやってきて「オレは砂漠を知っている。地元の村の様子も分かる」などとほざいても、表面だけで本当のことは何も分かっちゃいないのです。荷物は結局、出てきません。パリダカでものがなくなって、見つかったためしはないのです。
大威張りしていた数人のフランス人はその後、着の身、着のままでレストランテントの端っこに寝起きしながらダカールへ着きました。皆、同情する振りはしますが、命に関わることではないし、それまで彼らの態度があまりにも大きかったので、本心はざまー見ろ、なのです。
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38)化石入りのテーブル。 |
 サハラ砂漠には化石が沢山あります。呆れるほどあるのです。三菱やフォルクスワーゲンがパリダカ車両のテストをするモロッコのエルフール近くには、三葉虫を始め沢山の種類の化石が、同じ岩盤に残されています。三菱パジェロでパリダカ優勝もした、ジャン-ピエール・フォントネさん(フランス)は、長さ2㍍、幅1㍍を超す大理石のように板状に切った石をエルフールで安く手に入れました。もう時効だからバラすと、その石をちゃっかり部品やタイヤをごっそり積んでフランスから走ってくるサービス・トラックに積み込んで持ち帰り、家の応接間を飾っています。
こんなテーブルは貴重です。見かけたことはありません。化石が一面にあり、珍しいと同時に入手するのはかなり困難で、あっても相当高価なものでしょう。バブル経済がまだ尾を引いていて、パジェロが面白いほど売れた時代ですから、チーム側も鷹揚なものです。
篠塚建次郎さんのナビをやり、その後、三菱の“天敵”ジャン-ルイ・シュレッサーさん(フランス)と組み、増岡さんの優勝をフイにし、フォルクスワーゲン、そしてまたまた三菱に戻ってきた、人はいいけれど面の皮はジジの踵の皮ほども厚い、ナビゲーターのアンリ・マーニュさん(アンドラ)も、いい化石入りの岩盤を持ってます。
モーリタニアの砂漠で、1㍍四方くらいですが、素晴らしい化石の詰まった岩盤を、テストの時に車へ積み込み、アンドラへ持ち帰ったのです。砂丘と砂丘の間に露出した岩盤があり、そんなところはベドウィンでも通りませんから、全くの手つかずです。ジジ・ババがアンドラへ行き、マーニュさんの家に行ったとき、その石が飾ってありました。
こんな話はまだまだあって、今のパリダカはキャンプ地にベドウィン風のテントが張られ、食事をしたり、休んだりしますが、それもまた、三菱チームと深い関わりがあるのです。これも時効だからバラシます。
サハラ浪人みたいなジェフさんと言うフランス人がチームの宿や食事の面倒を見ます。現地での手配は堂に入ったもので、例え汚くても、ホテルらしきものが近くにあるキャンプ地では、必ずドライバーたちにシャワーくらい浴びられるようにしています。ジジは篠塚さん、増岡さんなどと行動を共にするので、パリダカでチームがチャーターする中型輸送機がサハラを飛んでいるときには、何度か便乗しました。
ある時、ジェフさんはモーリタニアで大量の丸太とテントを三菱の飛行機に積み込みました。当時のソ連製、アントノフ27型機なので、小型戦車や4輪駆動車などは楽に詰める双発のターボプロップです。丸太をフランスに運んでどうする―、と思ったジジは商売に適性がありません。
翌年、ジェフさんはパリダカの食事関係を請け負いました。三菱の仕事は相変わらず続けながら、やはりアフリカ浪人みたいな強者を子分にし、食事関係を仕切らせたのです。それからです。パリダカの食事が良くなり、食事をする場所にはコの字型にテントが張られ、真ん中でたき火をするようになったのは…。
テントは勿論、ジェフさんがモーリタニアで仕入れたものを参考にして、何張りもコピーしたものです。ジジは以前、まだスキーをいくらやっても疲れない頃、篠塚さん、増岡さんたちとチュニジアやUAEのテストに行きました。ババがナビ、ジジが運転でチュニジア・ラリーを追いかけたこともあります。そんなとき、トラックに大きな化石入りの石を積み込めばいいのですが、フランスまではタダでも、その後、送り出しなどを考えると、腰が引けました。
そんなわけで、ジジはソフトボールを少し大きくしたような、デザート・ローゼ(砂漠のバラ)や、塩湖の塩、小さな化石は持っていますが、がらくたです。貴重な大物などは残念ながらありません。篠塚さんや増岡さんと「オレたちもトラックに積んじゃえば良かったな」などと話したことはありますが、ついぞそんなことをしたという話は聞きません。やはりフランスからの輸送が面倒なのです。
こういうことをしっかり、ちゃっかり出来る神経、狡さ、きめ細かさがない限り、商売人にはなれません。日本人のパリダカ優勝経験者2人も、人後に落ちない商売下手です。一番、威張って化石入りの大きな石板を積み込んで、誰も文句は言えない2人だったのですが、とも化石入りのテーブルを持っていないのはジジが保証します。
写真=三菱サイトから=は「パリダカの人、そんなこともするの?」という砂漠の少女。(コメントは真っ赤な嘘です)。
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37)待ち人来たらずー2 |
冬の砂漠は夜になると冷え込みます。ニジェール川に近くなるとサバンナ地帯で、もう暖かいのですが、モーリタニアのアタールやズエラテあたりまでは、相当冷えます。夜遅くなって着かない車を待つのは大変です。チーママ嬢の車は深夜にキャンプへ着きました。やはり思ったとおりでした。
「スタックしちゃって動けなくなっちゃったのよ。何度も出ようとしたんだけど、ダメだったの。それでトラックが来たんで、助けてもらった訳よ」
女性2人が両手を振れば、ほかのチームのサポート・トラックでも止まろうというものです。言葉は通じなくても、達者な身振り手振りで深い砂から引き出してもらい、おまけにキャンプまでガードしてもらったというからやはり凄く達者なのです。
「サンキュー、サンキューって言って、走ろうとしたら、付いてこいつって言うのよ。もう一台のトラックは“後から行く。埋まったら引き出してやる。夜になるとルートはわかりにくい。オレたちが一緒に行ってやる”って。勿論サンキュー、サンキュだわよ」
彼女の仕事の話になることもありました。ジジが「一度、見物方々行ってみるか」というと、即座にこう答えました。
「やめた方がいいよ。ウチは高っかいんだ。絶対やめた方がいいわよ」
前の年にパリダカへやってきた人の話になりました。
「やめろ、やめろって言ったのに、あの人、店に来ちゃったのよ。高いって何度も言ったのにね。私が付きっきりってわけにはいかないでしょ。若い子なんかが、パリダカの話なんか聞いて、得意にさせちゃったら、いい気持ちで飲んだのよ。勘定の時になって、ギョッてなって“こんなに高いのか”だって…。だから、来ない方がいいって言ったのにね」
薄ら寒い砂漠のキャンプ地で銀座のチーママから客や店の話を聞き出すのは、妙なものですが、とても面白いのです。
「大きな会社の専務がよく来ていたのよ。その人が口を利いて、その会社がスポンサーの一つになってくれたこともあったわ。でも、もうそろそろダメね。景気悪くなっちゃったし、あのオヤジ、会社やめちゃうらしいから…」
この勢いですから、夜中まで砂漠に立ち、到着を待っていても「あら、待っててくれたの。サンキューでした。車、頼むわね」でお終いです。
待っていた人が気の毒になります。そんなことにはお構いなく、何人もに愛想を振りまき、まだ照明のついている食料テントへと行ってしまうのです。それにしてもタフな人でした。男たちがヘロヘロになって到着するのに、彼女たちは平気なのです。
「困ったら助けてもらえばいいのよ」
この精神は見習うべきでしょうが、女性である強みを十分に発揮して、砂漠の“もう1人の女王”でもありました。
彼女は間もなく商売替えし、パリダカ出場もやめました。でも、昨年、六本木で出会ったとき、メルセデスに乗っていました。羽振りはいいようです。
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36)待ち人来たらずー1 |
パリダカには豊かな時代がありました。車好きで銀座のクラブの“チーママ”をやっていた人が、何度か出場しました。昔、芸能界にもいた人で、トシのわりには若々しく、なかなかの美女です。
“砂漠の女帝”クラインシュミットさんも美人ですが、女っぽさでは、到底、チーママ嬢?にはかないません。方やスポーツのプロ、方や高級クラブで男をあしらうプロです。パリダカの勝負は初めから明らかですが、“強い女”と“女っぽい女”のどちらに人気が集まるかは、ワークス・ドライバーのクラインシュミットさんに、勝負ではかないっこない男ばっかりが多いパリダカで、これまたはっきりしています。
チーママ嬢はラリーには素人ですが運転も上手で、遅いけれど疲れを知りません。あるキャンプ地でのことでした。やはり日本から出場していた女性ドライバーが、カッカと怒りジジに言いました。
「何よ、あの人!私の車がもう着いているのに、他の人が来るのを待ってる。私の車の整備をさせるのが、あの人の仕事でしょ」
その通りなのです。これも差し支えがあるといけないので、名前は伏せますが、その男性は同じメーカーの車で出場した車の面倒を見るのが仕事でサハラへ来ていたのです。先に着いた車から整備作業をさせるのは当然で、怒りの女性ドライバーの言うことは正しいのです。しかし、人には感情があります。さらに言えば、いろいろな思惑もあります。
「あいつ(チーママ)まだ着かネーんだよ。何してるんだろ。スタックでもしたのかな」
「いずれ来るよ。達者だからスタックしても、どこかのチームのトラックに引っ張り出してもらってるよ」
「もうみんな着いてるんだよ。何してんだろ」
ジジは答えがありませんでした。余計なこと考えるより、仕事でもしろ、と言いたいくらいでした。彼女がコースから離れ、ショートカットでタイムを稼ぐようなことはしないし、そういう敏腕なナビを乗せているわけでもありません。砂に埋まって抜け出せなかったら、明るく手でも振ってトラックを止め、ピンチを脱しているのが想像出来るのです。
昔、オーストラリアン・サファリというパリダカのようなイベントが、オーストラリアで開催されました。そのときジジはチーママ嬢を初めて知ったのですが、ドライリバーをわたるところで写真を撮るため待ちかまえていたジジに、満面の笑顔で手を振ったのです。ジジはちょっと驚きました。見ず知らずなのによくもあそこまで馴れ馴れしいな―。このことです。
彼の仕事はチーママを待つことではないのです。早くキャンプ地に到着した順に自社の車の面倒を見るために、自動車メーカーから派遣されているのです。早く着いていた女性ドライバーは怒りが収まりません。ジジも慰めようがありません。
同じような事態は何度かありました。日本人の女性ドライバーは、そのたびにジジに愚痴を言います。聞き役には仕方なしに回っても、本当の理由なんて言えないのです。厳しい環境になると人はどうしてもエゴイストになるのです。待っている男の心は、誰でも分かると思いますよ。
だからといって、ジジが女性ドライバーに「あいつは彼女に惚れたんだよ」とも言えませんし…。(待ち人来たらずー2へ続く)
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35)さまようヘリコプター |
リビア砂漠をヘリコプターでラリーを追っていたときのことです。乗っていたのはパイロット、ナビゲーター、それにジジでした。飛び立って1時間以上経ってもラリー車の立てるホコリも見えません。遅い車が出て間もなく出発したのですから、車が見えなければいけないのです。そのうちパイロットがナビゲーターに言いました。
「方向はこれでいいのか」
ナビはなんとミシュランの道路地図を見ながら、首を傾げています。ラリー車用のコマ図なども見ています。
「どうなんだよ!」
返事のないナビにパイロットは、きつい声をかけました。ナビは困り切った表情で、後ろの席に座っていたジジに言いました。
「どっちの方向だろう。この場所が分からないんだ」
これは参った。かなり脳天気なジジですが、ヘリコプターのナビゲーターに場所を聞かれたのです。
「あんた、専門だろ。オレに聞くなよ」
「分からないんだよ」
よくと聞くと、彼はド素人で乗っていればパイロットが目的地へ運んでくれると思っていたようです。そんな人を乗せた航空機担当の役員の神経を疑いますが、フランス人には気楽で、無責任なところもあるのです。
目的地はおおよそジジには分かっていました。どの方向に向かえばいいのかは、地図を見ればいいのです。飛んでいる方向は正しいようでした。パイロットのカンです。こうなっては仕方がありません。ジジは“ナビのはず”だった砂漠経験のない素人から地図を取り上げ、パイロットに聞きました。
「飛んでいるのは初めから同じ方向か」
「そうだ。ずっと同じだ」
「だったら方向を南に変えれば、ラリー車のホコリが見えるはずだ」
「やってみよう」
ヘリの飛べる時間は約3時間ほどでした。残りは1時間もありません。パイロットも真面目な表情になっていました。やっとホコリが見えました。
「見えた。これで分かった」とパイロットはにっこりです。こちらも安堵です。前に立ちはだかってきたテーブルマウンテンを越えると、小さな飛行場がありました。
「こんなところに飛行場があるとは、我々の路線図にも書いてない」とパイロットは言いました。あのころ米・英とリビアのカダフィ大佐の関係はよくありませんでした。フランスの消息通はカダフィ大佐を「誰が攻めようと、砂漠にいれば居場所は分からない」といっていました。パリダカがリビアを走ったのですから、フランスはかなり情報もあったはずですが、地図にない飛行場が、現実に存在したのです。
ジジたちは無事にキャンプ地へ着陸しました。上空から写真を撮るなどという状況ではありませんでした。まる1日損しただけです。
この日、行方不明になったリビアの飛行機を探していた、リビア機が燃料切れで墜落しました。ジジの着陸した“秘密飛行場”は、リビアのパイロットも知らなかったということです。リビアにはリビアのパイロットも知らない飛行場が、砂漠の中にあったのです。
ナビのお粗末からかなり緊張はしたのですが、振り返ってみると、今のパリダカは西北アフリカの大西洋岸に近い地域に限られてしまって、内陸砂漠は走りません。ラリーを追って車やヘリで移動する人も限られてしまいました。リビア砂漠のさまようヘリでは、得難い体験をしたと思っています。
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34)歓待。実は収監でした。 |
砂漠に国境はあってないようなものです。緊張状態の地域などでは、兵舎などがあり、監視兵がいますが、それも轍の道が続いているところだけです。わざわざ砂丘を越えて走るのは、物好きなパリダカ参戦者くらいのものです。昔のキャラバンルートはオアシスを細々とつないでいるので、やむなく砂丘越えをするところもありますが、岩山の麓などを辿っているところがほとんどです。その方が井戸もあるのです。
ある年、ニジェールのアガデスへ西北から回り込むルートが設定されました。アガデス北方約300キロほどの地点で、西から走ってきたパリダカのルートは南へと方向転換します。南へ行く地元の車はありません。大きな砂漠、砂丘にぶつかるので、それを避けています。
西から真っ直ぐ東へは、アルジェリア国境へ向かう車もあるので、轍がついています。日本人のベテランが乗っていた車は、何故か南へ曲がる地点を見落とし、地元車の轍に沿って走り続けました。当然、ミスコースです。深夜になってもその1台はキャンプへ着きません。主催者は心配しました。
「明日の朝までにキャンプに着かなかったら、ヘリコプターを飛ばして捜索する」
朝になってヘリは飛び立ちましたが、40分ほどすると戻ってきました。
「キャンプに向かって走っているラリー車1台を見つけた。行方不明は1台だけなので、あの車に間違いない」と捜索に行った人は言いました。その通りで、1時間ほどすると日本人2人の乗った車が着きました。
「イヤー、歓迎を受けちゃったよ。狭いけど部屋に泊めてくれて、ジュースとパンをくれた」
「どこで」
「アルジェリアの兵隊だったな。偉そうな人のところへ連れて行かれたけど、何を言っているのか分からない。パリダカ、パリダカ、と言っていたら、あっちへいけ、みたいな合図で、兵士に部屋に入れられたのさ」
「そりゃ、国境侵犯だろう。アルジェリアのビザなんか持ってないだろう」
「持ってないよ。だけど歓迎しなけりゃ、食い物なんかくれないだろ」
これを聞いて、何人もが呆れました。パリダカ参戦車と分かったから、とにかく一夜の収監で済んだのでしょう。そうでなかったら、もう少しひどい目に遭っているか、アルジェあたりに、砂漠を越えて送られるところでした。迷った理由も振るってました。
「5㌔くらい走って間違った、と分かった。バックするついでに小便をしていこう、となったのよ。乗り込んでそのまま走っちゃったんだよ」
2人とも方向転換をしたと錯覚したのです。これで入ってはいけない国へ、何時間かかけて行ってしまったのですから間抜けな話です。“連れション”のツケは高かったのです。
「あれはどう見ても歓迎だった」と2人は力説しましたが、すればするほど可笑しくて、居合わせた人たちは、安堵とともに笑い出しました。
Uターンする前に小便をしたばっかりに、彼らは国境を突破して警備の軍に捕まったのです。指揮官がいい人だったのでしょう。翌日には放免してくれたのは幸いでした。
国境に印などありません。GPSもない時代だったので、今ではあり得ないこんな事件も起こったのです。
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33)山羊、猿を売る男 |
今度は山羊です。キャンプ地は似たようなサハラのオアシスでした。夕方になって1人の現地人が、山羊を引いてきました。80年代のパリダカは恐ろしいほどひどい食料でした。以前は自前だったので、それに比べるといいのですが、弁当箱のような缶詰に、ジャガイモ、ニンジン、米などが、カレー味の鶏肉が入るか、牛肉が入っているかの違いくらいで、毎晩同じです。パンもありますが、パリを出るときに仕入れた物なので、日を追って硬くなり、1週間もすると口の中を血だらけにしないだけマシだという状況です。
フランス人たちはこれを紅茶やミルクに浸して柔らかくして食います。ジジたちも真似をして食うのですが、旨いわけはありません。アルジェリアやリビア南部の凍った砂漠地帯の夜に、こんな物で飢えをいやすのですから、パリダカは、今に比べるとどうしても過酷です。
そんな環境だから、山羊を売りに来る男もいるのです。
物好きなフランス人が買いました。価格は思ったより、ずっと安い物でした。テレビは普及していないし、ヨーロッパの物価も知らないのですから、吹っかけても知れたものです。その山羊はテントから少し離れたところで,生涯を終えました。たき火が明るく燃え上がり、1時間ほどして山羊は、食い物の姿に変わりました。
なにがしかの分担金で、足を1本もらい、自分の車のボンネットに載せ、ナイフで切りながら食った肉の旨かったこと…。調味料は持ち合わせの塩だけです。名前を挙げると「あいつもか」などと迷惑がかかるといけないので、今はジジとは違って、パリダカとは縁もなくなり、妻子、もしかすると孫たちに囲まれて、平穏な生活を送っていいるだろう日本人の名前は書きません。
70年代のコンゴでババが肉を食いたいと言っているとき、宿の親父が「豚肉がある」と言うのをジジが聞きつけました。まだだいぶ若かった頃のババは、すごい食欲でした。東京で1人で店に入り「カツ丼2つ」と頼み、1人で平らげて店の親父を仰天させたほどです。
豚肉が食えるぞ、のジジの話に喜んで飛びつき、宿の親父に頼んだのです。
しばらくして「ギャー、ギャー、…」の絶叫がありました。1時間ほどして豚肉が出てきたのです。やはり「旨い、旨い」と言って食ったのですが、肉は新鮮すぎてはいけない、というのは必ずしも的を得ているとは思えません。2人で豚一頭を食いきれるはずはありません。宿の一族はたっぷりと腹を満たしたことでしょう。
それにしても砂漠で山羊を売り、ナイフ一本で解体し、丸焼きではないにしても、4本の足を見事に焼き上げる技術は、ナミの物ではありません。紐につながれてつれてこられ、買い手がいたために、2時間後にはあっさりと肉に変わったのです。もちろん、日本のように青インクの検査済みを示す「検印」などはありません。
彼らは家畜を大事にします。しかし、家畜はペットとは異なります。乳をとるため、売るため、食うため、肉や皮をとるためです。そうでなければ遊牧などで生きられません。
ヨーロッパ、アメリカの動物愛護団体の人も、捕鯨反対をヒステリックに叫ぶ団体の人も「牛や羊は、人に食べられるために生まれてきた」と都合のいいことを言います。
ノルウェーや日本で鯨をいかに大切にし、きちんと料理して食料にしているいることなど知らないのです。知っても知らん振りです。「白鯨」のエイハブ船長のように、油だけをとって後は捨ててしまう、昔のアメリカの捕鯨とは違うのです。
それに鯨は大量に魚を食います。資源荒らしは鯨の方です。そういうことに聞く耳を持たないのが、欧米のヒステリックな団体と、それを支持しないと選挙に受からない議員たちです。マスコミはその尻馬に乗るばかりなのです。
山羊を「食えるように」すぐ傍で処理して売る人たちや、食ったジジたちは「食われるために、生まれてきた動物を、その運命の流れに沿って、口に入れ、満腹になって寝たのです。欧米のヒステリックな人たちも相手が山羊ですから、決して文句は言わないでしょう。彼らが正当性を主張している「食い物」なのです。
それでも何となく、日本人には生々しいものです。
「残酷じゃないよな」
「当然だ。弱肉強食は生あるのの掟よ」
「誰もが綺麗事を言うけど、殺して食うことには変わりないんだ。自分は知らん顔し“このお肉、おいしいわ”なんて言って、血のしたたるステーキを、着飾った女が食うんだよ」
久々にパンパンに張った腹をさすったのを覚えています。こういう時、砂漠の星空は、とびきり綺麗なのです。今はもう、こんなことはありません。山羊を食い尽くして間もなく、話を聞いたのでしょうか、猿を売りに闇の中から男が現れました。大昔ならともかく、いまは猿を食べる人々は少ないはずです。バッタでも生で食ってしまうフランス人の“食い物猛者”も、さすがに遠慮です。男は猿を抱えて闇の中に去っていきました。
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32)ところ変われば売り物も変わる。 |
パリダカのキャンプ地には物売りが来ます。80年代の終わり頃でした。マリのトンブクツー近くにキャンプしたとき、私のテント近くに1本の杭が打たれました。男は袋から大きなトカゲを出しました。トカゲには長い紐がついていて、それを杭に結びつけました。1㍍を超す大きなトカゲで、ノソノソとはい回る姿は、気持ちのいいものではありません。
遠くから見ていた私に「買わないか」と男は声を掛けました。
「食うのか?」に、男は笑いました。
「食えないことはないが、いい使い道がある」
言葉はいい加減で、身振り手振りが入ります。通じない言葉に慣れてしまうと、ボディーランゲージは達人の域に達します。意志は自ずから通じるのです。
「こいつをテントのそばに繋いでおけば、夜は心配ない。安心して寝られる」
理由はオオトカゲがサソリを食うというのです。長い紐はそのためで、テント周辺をはい回るようにしてあるのでした。目立ちませんが、サソリは結構いるのです。石の転がる砂漠で、いくつか石をひっくり返してみると、小さいサソリは何度か見つかりました。一人前に尾の方をピント反らせ、格好はなかなかです。
パリダカのテストを見にチュニジアへ行ったとき、小さな動物園で猛毒のあるサソリをタバコの箱に飼い、それを歩かせ、なにがしかの料金をせしめている男がいました。
―サソリで死ぬ人は年間どのくらいいる?
「この近くじゃ、1人か2人だな」
人口は5000人ほどの街です、かなりの確率ということになります。サソリは色の綺麗なものが危ないと聞きました。澄んだ黄色だったりオレンジ色のサソリが特にいけないようです。
死に至る人はそう多くはないのですが、数日間、高熱が出て、激しい痛みに苦しむようです。サソリが恐れられるのは、そういう人を見るからでしょう。
三菱のラリー・チームをの食事や、現地での受け入れを担当しているフランス人の「ジェフさん」は、アフリカ浪人のような人です。モロッコのテストでキャンプしているとき、黄色く透き通ったサソリをメカニックたちが見つけ、遠巻きにして騒いでいました。ジジもその1人だったのですが、ニコニコしているジェフさんの行動はいつもと違いました。
大男でひ面のジェフさんは、サソリを見るなり、つかつかと近づき、大きな靴でドカンと力一杯踏みつけました。サソリの運命はいうまでもありません。
「危ないことをして遊ぶんじゃないよ」
それだけ言って、また料理テントへ戻っていきました。きっと猛毒のあるサソリだったのでしょう。死ぬほどの毒を持っているのは7、8種類で、殆ど無害なサソリもいるそうです。こんな話しを覚えていたので、トカゲは魅力的でしたが、やはり枕元にオオトカゲを侍らせるのは、薄気味悪いので遠慮しました。
男はまずは売れる当てもないと思えるトカゲを前に、悠々と座り込んでいました。夕方になると袋へトカゲを入れ、気軽に担いで帰って行きました。売り物は1匹の大トカゲだけです。男が1日を棒に振ったのは確かですが、何事もなかったような様子に、砂漠に住む人の悠然とした感覚を理解するのは大変だと感じたものです。
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31)2006年パリダカはゴールしました。 |
◇喜びのパリダカ新チャンピオン。
ダカール2006が15日にゴールしました。ダカール海岸を走り、ナツメヤシの繁る砂丘を越すと、バラ色の湖(ラック・ローゼ)があります。2㌔X1㌔ほどの湖で、微生物の影響で、ワインカラーに見えるのです。
フランス植民地だったセネガルなので、洒落た名前をフランス人がつけたのでしょう。増岡さんも現地にいます。
「レースは勝たなければ駄目です。改めて悔しさがあります。次はオレだ、の気持ちが湧いてきます」と話しています。
パリダカ悲喜こもごも、はゴールのナマ情報です。
以下はニュース速報などです。
ダカール2006(通称パリダカ)は15日、ダカール郊外のラックローゼにゴール。三菱パジェロ・エボリューションに乗るリュク・アルファン(フランス)が優勝。三菱チームは史上初の6連勝、通算11勝のパリダカ新記録を達成した。
2位はフォルクスワーゲン・レース・トゥアレグ2のジニール・ドゥヴィリエ(南ア)、3、4位はナニ・ロマ(スペイン)、ステファン・ペテランセル(フランス)の三菱パジェロ・エボリューション。三菱チームは1、3、4位を獲得しライバルフォルクスワーゲンに圧勝して16日間の戦いを終えた。
最終日の15日はダカール海岸で31㌔の最終ステージが予定されていたが、13、14日に観客の死亡事故が連続したため、主催者はSSをキャンセル。全参加者は14日にダカールに到着した順位でダカール海岸からラックローゼに向かい正式にゴール。アルファンは喜びのシャンペンを振りまいた。
2輪ではマルク・コマ(スペイン、KTM)、トラックではウラジミール・チャグイン(ロシア、カマズが優勝。日本人参加者では4輪の池町佳生、浅賀敏則(ともにとよた・ランドクルーザー)が、22、26位。バイクは堀田修(KTM・37位、柏秀樹(ヤマハ)が63位で完走した。
とトラックの菅原義正、照仁親子(ともに日野レンジャー)は5位、7位と健闘してラリーを終えた。
優勝したリュク・アルファン
「ダカール・ラリーに参戦してから8年。最高の感激だ。ダカール海岸やラックローゼは今までにないほど美しく見えたよ。SSはキャンセルされ、勝負は終わったのだが表彰台の上に上がるまではリエゾン中に“何かあってはいけない”と緊張がとけなかった。
ワールドカップのダウンヒルでの3年連続チャンピオンも嬉しかったが、あれは昔のこと。レースを始めてからは、パリダカで勝つことを目指して頑張ってきた。やっと1つの目標が達成できた。三菱の連勝、優勝記録の更新が私の優勝で達成できたことも最高だ。チームの皆、支援してくれた人たちに感謝したい。そして、来年も勝ちたい」
◇雪山から砂漠へ
スキーのスーパースターがパリダカのヒーローになった。海岸から椰子の繁る砂丘の間を抜け“ラックローゼ”を半周。表彰台に上がって両拳を突き上げた。
「スキーで勝ったのはもうずいぶん昔だ。1998年にパリダカに参加してから、ずっとこの日のために頑張ってきた。最高の喜びだ」
フランス・スキー界では今でもカリスマだ。1980年代の後半から90年代にかけて、アルペンスキーの滑降と言えば、アルファンだった。“リュッチョ”の愛称でフランスでは広く知られている。
ワールドカップの滑降で12回優勝、1995年から3年連続ワールドカップの滑降ナンバーワン。フランス選手権を9回獲得している。
「日本では考えられないほどの知名度です。ペテランセルが去年、パリダカ2連勝したんですが、アルファンと一緒にいると、殆どの人はアルファンの方へ行き、サインをもらっています。スキーの人気なのかパリダカで頑張るからなのか…。スキーでしょうね」と増岡は言う。
筋肉で盛り上がった太ももは、今でも衰えていない。寸分の狂いもなく体重を支え、バランスを保ち、時速200キロにもなる高速で、氷の壁を“落ちる”ようにゴールを目指す。強靱な神経も不可欠だが、そのアルファンさえ「最後の数日は緊張の連続だった」と言う。
「木にぶつかったのはバマコへのSSだった。あれでステファンとの差が開いてしまった。今年も優勝は駄目か、と思ったら、次の日にはステファンが木にぶつかって後退したんだ。ゴールまで近いけど、ジニールとの差を考えると、やはり寝付きは悪かったよ」
14日にはまさかのミスコースだったが、アルファンをマークして追走していたドゥヴィリエもそのまま間違ったコースへ入り込み、タイムロスはお互い様。
「ナビゲーションは難しかった。最後の数日あんなに緊張するとは…。オリンピックで勝てなかったことを想い出したりして、辛い日々だったよ。それも終わった。今度は2連勝を狙う!」
アルファンは明るく、陽気に関係者と握手し、観客に手を振り、久々に雪山から砂漠へ―。“ダウンヒル・キング”だった栄光を、今度は“砂漠の王者”としても味わっているのだった。(フランス生まれの40歳)。
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30)ラリーの事故に思う |
Dakar2006も残すところ1日となって、三菱のアルファンが優勝することになりそうです。
「人も車もリスボンを出たときより、ずいぶんと消耗している。最後まで集中力を保つように話した」と三菱のセリエス監督は言っています。
1日の休みがモーリタニアのヌアクショットであったとはいえ、16日間のアフリカの旅は厳しいです。岩山を越え、砂丘を走り、ジャングル、サバンナを抜ける…。ジジも車で走り、その大変さは良く知っています。
ダカールの街がことさら美しく見えるのも、長旅を終わりホッとした心のなごみがあるからだろう。そのダカールを目前にして、13、14日に続けて観客の死亡事故があった。13日は競技車、14日はアシスタントトラックに少年がはねられた。喜んでラリー見物にやってきて、興奮した末、道路を横切りはねらっれてしまったのは、気の毒というしかない。
ちょっと残酷な話しをする。初期のパリダカだった。ジジも良く知っている日本人が、今のコースよりもっと南の国で、子供をはねて死亡させた。
「できるだけのことはしたかった。親がいたので、有り金の約30万円を渡したんです。それを後で主催者に報告したら、酷く怒られました。“次の街まで走って警官に届け、主催者になぜ報告しない”です。後でその理由が分かったんです」
友人は申し訳なさそうに話したのは、こんなことだった。
次の年になって、ラリー車の直前に子供が「突き飛ばされて転がる」シーンが増えた。悲しいことだが、彼の分析だと「親が保証金を目当てに、子供を突き飛ばす」と見たのだ。まさかと思うが、パリダカを走っているフランスの友人に聞くと、そういうことはある、と平気な顔をして答えました。
「勝手に金を払ってはいけないんだ。その国には、その国のレベルがある。その国の保険会社が、キチンと査定して保険を支払う。そうでないと、国々のルールが成り立たない。喜ぶ金をその場で支払えばいいというものではないんだよ」
そういうことかも知れません。しかし、昔、ババがインドを車で走った時に、多くの人にいわれたそうです。
「足や手に大怪我をしている人が多いでしょ。歩けない人もいる。だけど、そうすることでお恵みを貰えるのよ。普通の人がいくら貧しくても、お金は恵んで貰えないわ」
ジジは今年のパリダカのスタート地、リスボンで片足が膝の下でなくなっている若い女性が、杖をついて信号のところにいるのを見ました。ババと「かわいそうだね。まだ若いのに…」と話した次の場面は、信号で止まった車の窓を叩き、お恵みを!でした。いくらジジでも、両足がシッカリと地に着き、普通の女性に「お金頂戴」なんて言われても、やましい心などないので「いくら欲しい」などとは言いません。足が欠けているから、2ユーロを奢ったのです。
昔のダカール・ラリーの観客のなかには、子供の命で一稼ぎ、いう極悪人もいたかも知れません。貧しさや、子供がどんどん増える環境で、ありそうなことです。本当に子供を前に転がされ、危うく逃れたドライバーもいるのです。そういう国は今は、ラリー・コースから外れました。25年も前のアフリカでの30万円はとんでもない金額です。
今回事故死したセネガルの少年は可愛そうですが、車の走る速度が、普段見慣れたものと全く違うので、感覚的に間違うのです。香港~北京、パリ~北京のラリーでも、かなりのl事故死者が出ましたが、車の時代を迎える当時の中国は、、いかに車は危険なものかを、車の少ない地方の人に知らしめる狙いもあったように推測するのです。
やっとダカールに着く日やその前の日に事故を起こしたドライバーは気の毒です。ラリーを見に来てはねられた少年も可愛そうです。だからといってジジは、パリダカなんか止めちまえ、とは言いません。バランスを保ち、上手に見たり、走ったりする智慧をさらに積み重ねて欲しいのです。
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29)砂漠の戦友 |
“砂漠の悪役”を自称するのはパリダカの名物男、ジャン-ルイ・シュレッサーさん(フランス)です。増岡浩さんがトップでダカールへあと1日でゴールできる日に、スタートの際にもう1台とともに増岡さんの間へ割込み、強引に先を走ったのです。これがもとで追い越しを掛けた増岡車は、木の根に当たり、サスペンションを壊して2位になりました。2001年の事件です。
勝てるラリーを失った増岡さんが無念なのは当然ですが、その後、増岡さんが2連勝したのに対し、翌、2003年のシュレッサーさんは、モロッコで車が燃え、砂漠の中でラリーを終えました=写真=。“悪役も、悪運も尽き果てたか”とジジは思ったものです。
シュレッサーさんは2006年、満57歳になっています。まだ元気で相変わらずプライベートチームを率い、自らもハンドルを握っています。今回のラリー、ポルトガルの第2ステージのことです。増岡さんのパジェロ・エボリューションが2分先に出たシュレッサーさんの車に追いつきました。
今回からセンティネル・システムという警報装置が各車に取り付けられています。200㍍以内に近づき、追い越しを掛けようというときに、このスイッチを押すと、前の車やバイクの中で警報が鳴ります。バイクは自分の音で聞えないこともありますが、車は分かるそうです。
「ジャン-ルイが前なので、絶対に抜かせてくれるとは思わなかった。ボクの車と分かってますから。それがどうしたわけか、端によって抜かせてくれたのです」
増岡さんとナビのパスカル・メモンさん(フランス)は驚きました。メモンさんは事件の時も増岡さんのナビで、邪魔をし続けたジャン-ルイの子分、ジョセフ-マリー・セルビアさん(スペイン)の車の前に立ちはだかり、止めようとして轢かれそうになったのは、フランスのテレビで大写しになり、何度も放映されました。
恨みの増岡・メモン組にシュレッサーさんも敬遠気味でした。マラガ(スペイン)からモロッコへのフェリーの食堂で、増岡さんはシュレッサーさんの姿を見つけました。
「ジャン-ルイがいるよ。今日は抜かせてくれたから挨拶だけしておこうか」と増岡さん。
メモンさんも「そうしてみたら」とはいったのですが、気は進まないようでした。増岡さんだけがシュレッサーさんのテーブルに行きました。
「ジャンールイ、今日は道を空けてもらった。有り難う」
そこで意外なことが起こりました。ジャンールイが立ち上がり、握手を求めて手を差し出して来たのです。
「今日は譲った。明日はオレが行くから道を空けろよ」
ジジもジャンールイとは仲良しです。逞しいドライバーですが、普段はとてもいいオヤジです。増岡さんに言わせると、ハンドルを握ると人が変わる、そうです。ジジも昔、イタリアン・バハでスピンしたあと、最短距離でコースに復帰するのに夢中で、ジジに向かって突進してきたのを記憶しています。砂丘で写真を撮っていた多賀まりおさんは、ジャンールイの車を避けるため、飛び込みのように砂に倒れ込み、難を逃れました。確かにハンドルを握ると危ない男です。
そんな砂漠の悪役が、自分から握手を求めることは殆どないのです。「ラストラン」でダカールに着けず、リタイヤした篠塚建次郎さんと同年の57歳ですが、勢いも良く、豪快で、精力的な男です。女性でただ1人、パリダカ優勝の“砂漠の女帝”クラインシュミットさんをソデにした=12)男と女のパリダカ4=くらい勝手な男ですから、万事タフなのです。
「シュレッサーさんも枯れたのかも知れないね」と何度か一緒に記念写真も撮ったことのあるババが言います。
「ボクに握手を求めるなんて、昔のジャンールイには絶対なかったからね」と増岡さんはババの手料理を食いながら話します。
「F1にも乗ったし、スポーツカーでル・マンも走ったし、プライベートなのに三菱と戦い、2回も優勝したんだから、そりゃ、普通じゃないよ」とジジ。ジャンールイの話でしばらく盛り上がりましたが、ついジャン-ルイが関係したり、関係するクラインシュミットやテニスの元・ボルグ夫人の方に話しが行き、ババがなぜか威張り、ジジはどうしても逃げ腰になるのでした。
勝負を賭け、正々堂々とはほど遠い、インチキなスタートをし、増岡さんの優勝を妨害した“砂漠の悪役”も、だんだんと柔らかくなってきているようです。その代わり、順位の方も下がってしまいました。シュレッサーさんもサハラ砂漠が大好きなのです。バギーを開発し、メーカー・チームを向こうに回して、砂漠戦に挑んだ過去の勢いはありません。
ジジの良く知っている人が、年々パリダカから消えていきます。増岡さんに握手を求めたジャンールイは、2001年の悪行を精算したつもりなのかも知れません。来年、ジャンールイは出てくるかなー。増岡さんの話を聞きながら、ジャンールイがずっと身近な存在に思て来るのです。
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28)天国と地獄 |
Dakarへゴールするのは順位を問わず皆、嬉しそうです。遙かヨーロッパからサハラ砂漠を越え、たどり着いた喜びです。その喜びに浸ろうという、その時に地獄へ突き落とされた日本人参加者がいます。 1996年のグラナダ~ダカールの総合28位になった浅井明さん、青柳暁子さんです。
ダカールのホテルのロビーで、2人が深刻な顔をしていました。ジジを見ると「何か情報はありませんか」というのです。なんのことか、ホテルへ戻ったばかりのジジには分からなかったのですが、ロビーのテレビにはビルが倒壊し、町が炎上している光景が映し出されました。阪神淡路大震災です。
「電話を掛けたけど通じないんです。少しでも神戸の情報が欲しいんです」と青柳さんはすがるような目つきです。神戸に住む青柳さんは、2人の娘さんとマンション住まいです。母親はパリダカ大好きで2人を残して参戦していたのです。
「うちのマンションは傾いたようです。それは仕方がないんです。娘の一人は居場所が分かりましたが、もう1人が分からないんです」
相棒の浅井さんはベテランですが、日本で起こっている大災害をどうすることもできません。ジジも同様です。あらゆるルートで連絡を取り、もう1人の娘さんを探すしかありません。結局、親戚の家にいることが分かり、ほっとしたのですが、ダカールに着いたその日に、自分のマンションが倒壊するなどと言う悲惨な話しは、滅多にありません。
偶然の一致としても酷すぎますが、ラリー中だったらテレビは見られないし、電話もままなりません。ダカールに着いていたから、なんとか連絡も取れたのです。それでも「不幸中の幸い」などといえた状況ではありません。2人は完走の喜びなど吹き飛びました。青柳さんはもっとも早い便を探し、日本へ戻りました。浅井さんが車を送り返す手続きなどのため残りました。
阪神淡路大震災からもう10年が経ちます。ラックローゼからダカールのホテルへ凱旋パレードし、その直後の悲報はゴールが近づくたびに思い出します。ダカールへのゴールは天国です。その直後、災害に見舞われた住み家やその街を知り、どうにもならないもどかしさは地獄です。
チーム・アオヤギは確か7回連続出場でしたが、この年を最後に青柳さんはパリダカ出場をやめました。
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39 27)夢は無惨に砕けて |
ダカールへ到着するのを最大の目標としていた篠塚建次郎さんが、9日のヌアクショット~キッファ間(モーリタニア)を走りきれず、リタイヤしました。11日に分かったことです。ジジが鋭意、調べたところ、篠塚さんは9日のSSでエンジンがストップ。修復できずトラックに引かれてヌアクショットへ戻りました。ダカールへは飛行機で入りました。
遅い車に乗ってのラストランは、勝負度外視の完走狙いでしたが、リタイヤとはさぞ残念でしょう。「最後はダカールにゴールしたい」との夢は、無惨にも砕け散ったのです。スポーツには勝利の感動の裏に、敗北の無惨さがあります。かつて日本を代表してきたパリダカ・ドライバーの最後は、砂漠で星を見ながら終わりました。
モーリタニア砂漠は風があると、地吹雪のように砂が舞い、粒子が細かいので地平線はぼんやりと霞みます。風が収まり、砂丘のてっぺんに立つと大げさに言えば、上は180度、周囲は360度ぐるりと星に取り巻かれているのです。
吸い込まれるように、どこまでもどこまでも星が重なり合っています。ジジは思います。篠塚さんはきっと砂漠に仰向けに転がり、無限の彼方まで重なり合う星を見ながら、21年間に渡るパリダカ・ドライバーとしての過去を思い返しただろうと…。
1991年のパリ~トリポリ~ダカールで篠塚さんはテネレ砂漠で大きな転倒をしました。4回転して車はバラバラになりましたが、怪我はありません。ナビのアンリ・マーニュ(アンドラ)はヘリコプターで運ばれましたが、篠塚さんは日本のプレスカーでアガデス(ニジェール)へ、2日間かけて戻ってきました。
プレスカーの友人は、先に着いていたジジに、深夜到着したことを知らせに来ました。
「プレスカーがあんなに遅いとは思わなかった。ラリーを走るよりよほど草臥れた」と篠塚さんは苦笑です。食べ物がないのでジジは、自分用に秘蔵していた焼きそばを、アガデスの暗いホテルの調理場を借り、篠塚さんに振る舞いました。
「旨いね―、日本の食い物は…。甘い非常食ばかり食ってたんで、特別旨いよ」
ジジも食いたいのに、目の前でぺろりと平らげてしまいました。恨めしさと嬉しさがありました。ホテルと言っても日干し煉瓦の壁、砂混じりの土間でした。
篠塚さんとの思い出は沢山あります。ダカール~アガデス~ダカールで優勝したときには、アガデスに着く1日前に、キャメルグラスのコブに激突。危うく転倒・クラッシュを逃れ、奇跡的にラジェターも無事でした。
猛然とCPへ向かう篠塚さんの車を、そのときジジはヘリコプターで追っていましたが、広大な砂漠を篠塚車とそれに続くジャンーピエール・フォントネ車(ともにパジェロ)が、長いホコリの尾を引いて走る様子は、今でもくっきりと脳裏に残っています。
三菱のパリダカ・プロジェクトは篠塚さんを中心に進んできました。増岡さんはその輪の中で、じっと腕を磨いてきたのです。ニッサンに移った篠塚さんは、その後いいことがありません。三菱の篠塚であっても「ニッサンの篠塚」にはなりきれないままでした。
篠塚さんはさぞ残念でしょう。動かなくなった車の横で、何を思ったか…。ジジの頭や心には篠塚さんを追いかけて走り回ったサハラの日々が、懐かしさとともに刻み込まれています。
日が沈んだ後、サハラの空は次第にざわめく星に支配されます。月が出ると、月の移動で砂の色が変わっていきます。そんな光景を思い出すと、なんだかしんみりとした気持ちになるのです。
篠塚さんを追って、サハラを旅することは、もうないのです。
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日本のラリー・エースだったシノケンのラストラン |
篠塚建次郎さんといえば、日本の“パリダカの顔”でした。三菱パジェロの「砂漠スペシャル」で走り続け、1997年のダカール~アガデス~ダカールでは優勝しています=写真=。時代は移り三菱のエースは増岡浩さんになりました。増岡さんは2002年、2003年と優勝し、パリダカの世界に君臨します。
篠塚さんは2002年の総合3位を最後に、長い三菱でのドライバー生活にピリオドを打ち、パリダカへの挑戦を開始したニッサンへ移籍します。三菱の社員でありながら、プロドライバーとして活躍していた珍しい存在でしたが、社員としての生活より、ドライバーとして「可能性を追求したい」と退社・移籍したのです。
ニッサンは3年間でパリダカ優勝を諦め、撤退していきました。ワークス解体です。企業の論理は個人の思惑を超えます。篠塚さんはフリーになりました。昨年はノルマンディーのディーラーから、今年はイタリアのディーラーからの出場で、ワークス・ドライバーではありません。
「大変ですよ。部品もないし、メカニックも1人しかいません。ワークスなら休息日に車はすっかり直りますが、今はそういうわけにはいきません。ティッファまで、モーリタニアの砂丘群を抜けられれば、ダカールに着けるかな、と言うところです」と篠塚さんは言います。
世界最速の「パリダカスペシャル」に乗り、ニッサン・ピックアップで走り、砂漠を軽々と越えたトップドライバーの時代は去ったのです。
「今度走っていて、こういうパリダカもあるのか、と改めて思いました。初めてパリダカに出た1986年には、パジェロのディーゼルでした。遅くて参りましたが、今はあのときのことを想い出します」
ワークス・パジェロは飛ぶように砂の上を走ります。もちろんスタックもありますが、市販車クラスが何度もトライしてやっと乗り越える砂丘も、軽々と走り抜けるのです。短い日は3時間、だいたい5時間ほどで目的地に着くのが普通でした。キャンプ地に着けばちょっとした村のホテルでシャワーにも入れることが多かったのです。休養テントも、食べ物も用意されていました。
ところがプライベートだとそういうものはないのです。篠塚さんの環境は大変わりしています。その上、乗っている車は、ワークス・パジェロのより3時間、時には倍以上も長く走らないと目的地に着きません。キャンプ地に暗くなってから到着することも珍しくないのです。ワークス時代には考えられないことです。
2003年から昨年まで連続リタイヤで、辛い目に遭っている篠塚さんは「ラストランは是非ともダカールに着きたい」の思いが強いようです。車のクラスは異なりますが、出場20回の浅賀敏則さんは、休養日にこんなことを言いました。
「篠塚さんはなんとかフィニッシュしたいという走りです。リタイヤ続きでは今度こそダカールに着きたいでしょう。しかし、ラリーとしてのパリダカは力の世界です。ボクも考えることがあります。そろそろ潮時かな、と」
トラックで走っている菅原義正さんは24回連続出場です。篠塚さんの栄光の時代を知る数少ない参戦者の1人です。
「ボクも息子がしっかり走れるようになりつつあるので、トシを考えて=64歳=そろそろかな、ですね。ジジーがまだ頑張っているんですが…。ドライバーでは最高齢だそうです」
57歳になる篠塚さんはジャンールイ・シュレッサーと同い年。ダカール・ラリーに四半世紀を注ぎ込んだ日本の“元・エース・ドライバー”は、ダカールまでの残る数日、車が壊れないよう「祈る気持ち」でハンドルを握り続けることになります。
長い間、篠塚さんのパリダカを追ってきたジジは、華やかな栄光の時代を良く知っています。パリダカが大好きな篠塚さんが、大きなスポンサーもなく頑張って出場している姿に、ちょっと寂しい気持ちもあります。好きなことを一生懸命やり、それを楽しんでいるのだからいいか―、と考えながら、なんとかダカールへ着いて欲しい、と思っているのです。
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25)8日は休息日でした。 |
日本から参戦している4輪、トラック、それに三菱陣営のコメントを掲載します。ジジの誇る“最速ネット”です。
長いのでパリダカに興味のない方はパスしてください。
【ヌアクショット(モーリタニア)8日】Dakar2006は8日ヌアクショットで休息日を迎えた。2006年12月31日にリスボンをスタート。休みなしにスペイン、モロッコを4984㌔走破。7日夜にヌアクショット入りした。参加者は過酷な砂漠のラリーで傷んだ車の整備や、つかの間の休養に1日を過ごした。
日本人参加者は4輪で増岡浩(三菱パジェロ・エボリューション)、三橋淳(ニッサン・ピックアップ)がリタイヤ。池町佳生、浅賀敏則(ともにトヨタ・ランドクルーザー)、篠塚建次郎(ニッサン・パスファインダー)が走行中。トラックは菅原義正、照仁親子(日野レンジャー)が元気だ。バイクは服部泰(ホンダ)、柏秀樹(ヤマハ)、岩崎有男(KTM)、堀田修(KTM)。片山晋也(KTM)はアタールに到着したがリタイヤ。
ラリーは15日までマリ、ギニアを経てセネガル入りし、ダカール郊外のラックローゼにゴールする。残る行程はは4095㌔。7日間だ。
◇鳥居勲・MMSP社長
「ヌアクショットへやってきていろいろと話しを聞きました。フォルクスワーゲンが非常に強力な布陣を敷き、立ち上がりを支配しました。我々、三菱の得意とするステージではない、と分かってはいても、序盤はやはり心配でした。
しかし、昨日(7日)、一昨日(6日)は、デューン(砂丘)のステージに入り、シナリオ通りの展開になりました。増岡さんのリタイヤは残念でしたが、それ以外はベストの展開です。一安心しています。月曜(9日)の砂漠も厳しいし、まだマラソンステージも残っています。ロードブックもあまりよくできていないようで、なにが起きてもおかしくはない状況です。優勝に向かって、残るステージで確実な走りをして欲しいです。
フォルクスワーゲンはメカ的なトラブルはサビーだけで、後はドライバー、ナビゲーターのミスです。今回のステージは決してやさしくはなく、昨年ステファンは1度もスタックしていないのに今回は何度もやってます。リュクもそうです。しかし、三菱のドライバーは、スタックでもミスコースでも、ミニマムに終わっています。ドライバーの差、チーム力の差ということになるでしょうか。
ステファン、リュクともに勝ちたいと思いますが、ともにミスをしなければ自分のもの、の意識はあります。無駄ないがみ合い、競り合いはありません。ミスなしでダカールへどっちが先に着くかを見守ります」
中山修・三菱自動車モータースポーツ・チーフ
「大きな問題はなく来ています。去年はピストンのクラックなど、深刻な問題がありましたが、今度はそうした心配はありません。予定通り、決められたとおり、部品を交換し、整備することで送り出せます。問題がない分、メカニックたちにも余裕があります。
今日1日で整備の時間は十分です。ダカールまで気は許せませんが、見守り続けます」
増岡浩
「いったんパリへ戻り、ここヌアクショットへやってきました。チームはいい雰囲気です。ステファンと話したら6日(第7ステージ)の砂丘がとても難しかったと言っていました。ロードブックでは越えなくてもいいさきゅうを、直線的に目標に走るバイクが入り込んで、後の車もそのタイヤ痕を追ったようです。回り込む砂丘です。
客観的に観ると状況は手に取るように分かります。また、パンクも多いのですが、砂丘へ入り、スタックしそうになってから空気を抜く。砂丘から出ても、なんとか保つだろう、で空気を入れない―、そんなことが理由かなと思い当たります。次ぎに走るときには空気の加圧、減圧は確実にやろう、と改めて思いました。3分で済むものをスタック1っぱつで5分10分、もっとかかることもあります。外から見て初めて気づくことも多いのです。いい勉強になっています」
◇日本人トップの池町佳生(トヨタ・ランドクルーザー)
「中日まで来て去年のリベンジをとにかく果たしました。車は全く問題ありません。遅れるのはトラブルではなく砂にはまるなど、ドライバーの問題です。中日以降は自分の走りをキープすることで自ずから順位は上がると思っています。気を引き締めダカールを目指します」
◇三橋 淳(ニッサン・ピックアップ)
「ヌアクショットへはたどり着きましたが、昨日(7日)の転倒で、ロールバーが曲がり、走行は無理でリタイヤします。前半は抑えて走りましたが、昨日はスタート200㌔ほどでブレーキホースに穴が開きました。修理したのですが、完全ではありませんでした。ナビとの会話はフランス語なのですが、意志の疎通に欠けるところもあり、ブレーキはすっかり直ったと思っていたようです。コーションの読み上げが遅れ、穴に落ちて数回転しました。帰っては来ましたが、ダカールへの走行は無理です」
◇菅原義正(日野レンジャー)
「64歳のジジは頑張ってますよ。息子(照仁)もそれなりに走っています。一昨日(6日)の砂丘で偶然、2台が揃って走るシーンがあり、気になるので後ろに付いて様子を見たのです。注意するところはゆっくり、飛ばしていいところは飛ばす、としっかり走っていました。若い人がなんとか育ってきた印象を受けました。順位はダカールへ着くまで分かりませんが、まずはいいところにいます。それより若い人の成長が嬉しいですよ」
◇篠塚建次郎(ニッサン・パスファインダー)
「昨日はヒヤヒヤものでしたよ。3㌔走ったところでリアの足回りが壊れました。前に壊れたのと同じところで、もうスペアもないのでもう一度壊れたらお終いでした。なんとか保ってくれましたが、ワークスと違って休息日で全部が治るという訳ではないのが辛いところですよ。第8回ですか、私が初めてパリダカに出たときには、ディーゼル車でした。遅くて、遅くて、走っていると眠くなるんです。砂丘ではパワーがないからスタックするし、大変な目に遭ったのを覚えています。今はそれほどでもないけど、プライベートの大変さを初めて味わっています」
◇浅賀敏則(トヨタ・ランドクルーザー)
「3台でチームを組んでいるんですが、初めはみんなのトラブルを1人で背負い込んだような形でした。なんとかリカバーして、T2ディーゼル・クラスでは1-2-3で中日を迎えられました。今年からGPSなしで通過ポイントを探し、3㌔以内に入らないと目標の200㍍が分からない。新しい方式ですが、探し出すのはなかなか難しいです。GPSのなかった時代(1991年以前)に戻ったようで、ある意味、大変だけど昔のパリダカを思い出し、楽しかったです」
◇菅原照仁(日野レンジャー)
「順調にいってます。オヤジ(義正)と一ことも多いです。助言通り走るように心がけています。今年はきつい砂漠がモーリタニアだけなので、上位は狙いにくいですが、ハイスピードでの遅れはモーリタニアの砂丘群で挽回しました。明日は厳しいと思いますが、この車は砂に強くスタックしにくいし、ナビもボクも砂丘は遠くを見て走ることをやってきているので、うまく抜けられると思います。パンクもスタックもなしできました。昨日1回だけミスをしましたが、ダカールへはキチンと着くように努力します」緒に走る
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24)パリダカのビッグスターは今… |
日本人でパリダカに勝っているのは篠塚建次郎さんと増岡浩さんの2人です。篠塚さんは日本人初、増岡さんは日本人初の2連勝を達成しています。2人ともDakar2006に出走しましたが、増岡さんは2位を走行中に転倒し、戦列を去りました。
増岡さんは昨日までジジ・ババのパリの本拠に来ていましたが、8日に休息日でチームの皆がヌアクショット(モーリタニア)へ集まるので、朝、パリを発ってヌアクショットへ行きました。
先ほど電話が来ましたが、もう転倒・戦線脱落のショックを振り捨て、来年のパリダカでどう走るかを「客観的な目で見られるのは、とても勉強になる」と言っています。勝負は負けることもあります。負けたときにどう考え、それをいかに次ぎに生かしていくかが“次の勝負の分かれ目”になります。
「ペテランセルは“昨日は難しかった。砂丘で空気圧を落とすので、次ぎに岩が出てきたときパンクしやすい”、と言ってました。みんな何本もパンクさせているのは、つい先へ先へという気持ちで、空気を入れるのを怠ることもあるようです。今度、自分が走るときは、砂丘の手前で空気圧を下げ、終わったら確実に加圧することです」と増岡さんは言いました。
アタールからヌアクショットへの砂丘で大勢がスタックしたところがあります。ロードブックやチームの人たちの話を聞いて、増岡さんは言います。
「ヌアクショットへの砂丘は、迂回するのが正しいルートです。前にスタートするバイクは、方向を定め砂丘でも何でもまっすぐに走ります。後から出た車がそれに惑わされ“蟻地獄”みたいな砂丘に迷い込むのです。外から見たり考えたりするとそれがよく分かります。いろいろと見えてきました。次の戦略もたてやすい感じがあります」
リタイヤは残念ですが、それを肥やしにしないといけません。増岡さんは今、それを一生懸命にやっています。
篠塚建次郎さんはヌアクショットへ日本人最下位で到着です。1986年にパジェロのディーゼルで初出場し、46位でゴールしました。その後は極言すれば“世界で一番速い”砂漠スペシャルに、三菱のエースとして乗り続けてきました。
3年前にニッサンへ移り、勝てないままニッサン・ワークスがパリダカから撤退。篠塚さんは今回、イタリアのディーラーから、まだパリダカに出たこともないパスファインダーで出走です。かつてのニッポンのエースは「ラストラン」と言うことで走っています。
先ほどニッサンからトヨタ車体へ移り、ランドクルーザーで走っている、日本人最高位の池町佳生さんと話ました。三橋淳さん(ニッサン・ピックアップ)、篠塚さん、浅賀敏則さん(トヨタ・ランドクルーザー)の様子です。
「ああ、三橋さんはSSの190㌔付近でひっくり返っていました。穴に落ちてゴロゴロ転がったみたいで、裏返しになってました。本人は大丈夫なようなので、走ってきました」と言う。
―篠塚さんはどうだった?
「篠塚さんはなんだか足回りを壊したようで、トンカントンカンやってました。体の方とは関係ないので、走ってきました」
池町さんは昨年ニッサンで走ったのです。そのとき大先輩の篠塚さんの車がラッシュして炎上したのです。通りかかった池町は「先へ行けよ」という篠塚に「せめてこれで消せれば消してください」と貴重な水、ペットボトル1本を篠塚さんにに渡したのです。心の優しい、真面目な人です。
三菱のパリダカプロジェクトの中で“帝王”のように最速の車に乗り続けてきた篠塚さんは、三菱を離れ、ニッサンに移りましたが、ワークス解体でトップドライバーとしての地位は消えました。イタリアのディーラーを頼り、今、日本人最下位で、ダカールを目指しているのです。勝負の世界は厳しく、運・不運の他にも、自らの力を見極め、決断を迫られるのです。
増岡さんはリタイヤし、WRCので26勝、最多勝で引退したカルロス・サインツ(スペイン)もフォルクスワーゲンで期待を集めたましたが、7日にスタックのあとリアを岩にぶつけ、サービス隊が修理。ヌアクショットへと闇夜の走行です。
再起できるビッグスターもいます。再起できない人もいます。今年のDakar2006に視点を移してもやはり「悲喜こもごも」の世界です。
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23)砂漠の罠 |
Dakar2006がもうすぐ到着するズエラテ(ズエラット)近くで、日本のカメラマン、山田周生さんと相棒は、もう少しでドライアップ、乾き死にするところでした。ズエラテへ200㌔ほどのところで、車のトラブルです。交換部品は持っていません。
ラリーの最後を走ってくるカミオン・バレーと呼ばれるトラックにまずは助けられました。このトラックは「掃き集め。落伍者集め」とでも言うのでしょう。大型の6輪駆動で、運転席の後ろに箒を立てているのが、いかにもフランス人のしゃれっ気とユーモアでしょうか。修靖さんはこのトラックに助けられ、ズエラテに着きました。ここまではよくあるパリダカの話しです。
ズエラテの街で部品を探し出しました。それを持ち地元の車を雇って、動かなくなった車へと戻りました。これも良くあるのですが、車を街へ帰してしまったのが失敗でした。さて、部品を取り付けようとしたら、工具が合いません。周生さんはサバイバルの名手ですが、どうにもならなかったのです。
彼ら2人はズエラテに向かって歩くことにしました。岩山を抜け、砂漠を越え、延々歩くのです。持っていた食料や水は2日で底をつきました。
「砂漠で羊を飼っている人に出会いました。わずかな草のあるところでした。言葉は分からないけれど、遊牧の人たちは、僕らの窮状をすぐ分かったようです。羊か山羊の乳を貰い、また歩きました」
結局5日かけてズエラテの街に着きました。途中で相棒の体の具合が悪くなり、歩けなくなるのをかかえるようにして、頑張り続けたのです。これで諦めるような人ではありません。またもや4輪駆動車を雇い、工具も探しだし、自分の車へと戻ったのです。今度は車を帰さず、動くようになったのを確認して、2台でズエラテへと戻りました。3回も同じ砂漠を往復です。そのうち1回は、歩きですからとんでもないことです。
「話せば長いものになります。時間がたってもあの苦労は忘れません」
写真器材を持ち、バイクに乗ってパリダカを追い、取材しながら競技者より早くキャンプへ着いたり、ダカールまで走り通したこともあるのですから凄いものです。最近はフランス人の写真グループと一緒に、数少ない取材車でパリダカを追っています。
そういえば周生れさんがパリダカで命を落としそうになったことがあるのを、もう1つ知っています。1989年だったと思います。このときはバイクで参戦し、リビア砂漠を南下しているときでした。
朝、ジジのぼんやりしているテントへやってきて「これから出かけマース」と明るく、惚けたような声をかけて出発しました。月並みにジジも「気をつけてな」なんて言ったはずです。2時間もしたでしょうか、誰かが知らせてきました。
「周生さんがトラックに轢かれた」
調べたら本当です。TSO(現・ASOの前身)はヘリ、飛行機とつなぎ、パリの病院へ搬送の手配中でした。誰だったか忘れましたが「周生さんをパリまで送りに来ていた人が、菅原さん(現在トラックで出場=義正さん)の関係者と一緒に、数日間パリにいるといっていた」と言いました。
そこで菅原さんを探し出し、連絡を聞き、周生さんの関係者をパリに足止めすることに成功。看病に当たったはずです。怪我はかなりのもので「柔らかい砂にタイヤをとられ、ひっくり返ったところをトラックに腰を轢かれた」というのは本当のようです。後で周生さんに聞いたら「砂が柔らかかったので、ぼりぼりにならなくて済んだようです」なんてすまして言っていました。ボリボリに腰の骨が折れたら、生きてはいられません。
そういえば、ズエラテのキャンプへ周生さんが帰ってきたとき、ジジはメシの後で、テントの中でうつらうつらしていました。
「ご心配かけました。修靖です。帰ってきました」
「ああ、そう。ご苦労さん」といって顔も出しませんでした。
理由はあるのです。タフな取材をこなしている周生さんが行方不明、と聞いても「戻ってくるのが当たり前」と考えていたからです。
しかし、大変な体験です。サハラに不時着した、フランス郵便機の乗員の苦労を読んだことがありますが、この話は、その体験小説に酷似しているのです。もう少しで砂漠の罠にかかるところでした。
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22)リビア砂漠の元旦 |
リビア砂漠をアルジェリア国境の村、ガダメスに向かって南下していたのは、80年代終わり頃のパリダカでした。今よりは若かったジジが自分で車を運転し、それは素晴らしい旅でしたが、結構、苦労もあったのです。
リビア砂漠は真っ平らな砂の海が続きます。200㌔砂ならその後の200㌔は石だらけだったりします。砂漠に沈む太陽は地平線に近づくと、ひょうたんみたいに2つに見えることもあります。ナビを受け持つフランス人の男も、いい気分になってジジとともに、のんびりと走っていました。
「綺麗だね―。リビア砂漠は…」
「ずっと向こうに車が走っているぞ。あれもパリダカの車だな」
トップ争いを展開する三菱やプジョーは、砂にうっすらとタイヤの跡を残すだけですが、ジジのプレスカーはそういうわけにはいきません。しっかりと砂に食い込むのです。しかし、ワークスカーの軌跡をたどれば、まずはナビゲーションの間違いはありません。
フランスの作家でサハラを飛行し、最後は第二次大戦でドイツ軍に撃墜されたサン・テクジュペリが、体験を書いた小説の中で、サハラの夕暮れの美しさを描写した一節は、ジジが大好きなものです。
「…星を現像していた。サハラ砂漠に夜が来た…」
そんな気分に浸ってハンドルを握っていたのですが、本当の砂漠の夜になりました。月はありません。ラクダもいません。
♪月の砂漠をはるばると…、なんていっている状況ではなくなってきました。
前を走ったタイヤの跡は見えなくなる、気温は下がる、ロードブックやマップの目標も、星明かりでは定かではありません。そんなとき、どうしてこんな所に人がいるのかと思うような砂漠の中に、1人のオッサンがいました。
「ガダメスか?ワシが案内してやるよ」
方向を聞いたらそんなことを言いました。それからです。不安になったのは…。オッサンは平らな砂漠が終わり、急峻な崖が現れるたびに、車から降りて道を探します。砂漠には凄い断層があるのです。ガダメスの村は断層の下にあります。
何度も何度も迷いました。「いい加減協会会長」を自認するジジも、これには参りました。他の人が迷って苦労すると、その話を聞いて高笑いするのが大好きですが、やはり自分が窮地に陥ると、さて、どうしたものか、と思い、何とはない不安も湧いてくるのです。
大晦日でした。やっとガダメスの村に下る急な砂と石だらけの道を見つけました。キャンプ地はもう静まりかえり、食料をくれるレストランテントも、ぼんやりと明かりがあるだけでした。
もらった鮭の缶詰は凍っていました。震える寒さの中で、凍った鮭を口の中で溶かしながら食べました。案内してくれたオッサンは、なにがしかのチップを受け取ると「帰る」と言いました。この夜中にどうやって帰るのか、見当もつきませんが、砂漠に住む人の逞しさに驚きました。
それにしても、時々思うのですがフランス人は変なところがあります。ことにジジの相棒は変わっていたのかも知れません。
「新年を祝おう」というのです。ジジはテントに入って暖まりたかったのです。フランス人の相棒は自分のバッグから何かを出してきて、得意そうに笑いました。
「ちょっと遅れたけど、オレたちの新年だぜ!」
小さな花火でした。筒を上に向けて火をつけたら、シュルシュルシュル…、と上がり、パチンと音がして2本の火花が散りました。キャンプ地は寝静まっていました。
寂しい震えるリビア砂漠の正月をパリダカがやって来るたびに思い出します。あのときオッサンが忽然と現れなかったら、ジジたちはリビア砂漠の砂に埋もれ、パリダカで困ったり、酷い目に遭った人の話を書くこともなかったかも知れません。
新年おめでとうございます。
まずは元旦。悪口や揚げ足を取るのは休止し、ジジの昔語りで年が明けました。
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21)投石よけ奥の手 |
パリダカでは80年代後半になると昼食用のパックが配布されるようになりました。カロリーの高い方がいいということでしょうか、甘いものばかりで往生しますが、朝食の後にもらいます。この昼食パックを投石除けの奥の手として使う名手がいます。
06年ダカール参戦でパリダカ20回出場という浅賀敏則さんです。昔は珍しいこともあってパリダカの車はアフリカ各地で歓迎されましたが、次第にコースも固定し、同じ村を多くの車が通過するので、村人は何かおみやげを期待するようになったのです。特に子供たちは、なにもくれない車に、石を投げるようになりました。
小さなものなら何でもないのですが、拳大もあるものがほとんどで、大怪我をしたドライバーやナビもいます。私もボディの横に、大きな石をぶつけられ、ボディをへこまされたことがあります。
―石を投げられることある?
「そりゃ、しょっちゅうだよ」と浅賀さんが答えます。
―そんなときどうするの。
「オレたちは投石よけの“奥の手”を持ってるんだ」
聞いてみたら他愛もない昼食パックでした。
「子供がいるだろう。近頃は大人だって同じだけど、石が来そうだな、と感じるところがあるんですよ。カンですな。カン。そういうところへ差し掛かると、ナビと2人で昼食パックの口を開き、窓から手を出して掲げるんです。まず1人がパックを投げる。中身が飛び散るでしょう。そこへ皆が群がる。それで済めば、走り去るまでです」
―済まないときは?
「もう一個あるでしょう。今度はそれをナビが、思い切り見えるようにするんです。私はアクセル全開ですよ。そうしておいて、また投げる。これで大丈夫ですよ」
トラックなどは石を拾っているのが分かるとその方向へ進んでみせる。当然逃げる。そんなことを繰り返すのだそうです。強盗に遭うのも速いワークスカーではありません。トップを競うような車は、石が当たる間もなく先へ進みます。
主催者は村人の安全などを考慮して、村の中でネズミ取りをやります。制限を超すと罰金とペナルティです。こういう村にはあらかじめ競技役員がいて、石を投げられるようなことはないのですが、その村の区別がつきません。石をぶつけられてフロントグラスが割れたり、怪我をしてからでは手遅れです。
「そこはさっき言ったカンですよ」と浅賀さん。今回のパリダカでも浅賀さんは何個もの昼食パックで投石を避けることでしょう。
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20)翼の傷 |
ズエラテの街は砂漠のど真ん中にあります。鉄鉱石を野天掘りしている巨大な鉱山があり、ヌアクショットから砂漠の中を2000キロにも渡って鉄道が敷かれています。数えるのも厭になるくらい長い貨車が前・中間・後と3両から5両のディーゼルカーに引かれ、押されて日に1度走ります。
この町にある空港で事故を目撃しました。何に使うのか分かりませんが、細い電柱のような鉄のポールを前に取り付けたフォークリフトのような作業車が走ってきました。駐機している飛行機へまっしぐらです。急カーブするか、止まるか、アフリカ人の運転はかなり無茶ですから、こんなふうに思って、あまり気にしませんでした。
止まりません。コースも変えません。右の翼の後方へ凄い音を立てて突っ込みました。ここでやっぱり「やってくれたな!」と思ったのです。ポールは折れません。それを取り付けていた重いフォークリフトみたいな作業車もひっくり返らずに止まりました。
無惨なのは飛行機の翼です。鉄のポールがかなり深く、翼の後方に食い込んでいるのです。バックして外しましたが、そこには明らかな食い込みの跡が残りました。ぽっかり口を開けていると言ってもいい感じでした。大騒ぎにはなりましたが、その後が驚きです。
飛行機の乗員が翼に乗り、ハンマーなどを使って、トントン叩いたり、折れた部分を切り取ったりしているのです。
知り合いのパイロットに聞きました。
「なにをしているの?フラップ1個は完全に駄目でしょう」
パイロットは答えました。
「何とかするだろ。翼そのものが壊れたわけではないからな」
私はズエラテの街の見物に出かけました。帰ってきてもまだ翼をトンカン、トンカンやってました。仲間たちと「あの飛行機は終わりだろうな」などと話し、翌朝を迎えました。
早朝から何機ものパリダカ飛行機が飛び立っていましたが、駐機場を見ると翼に大きな傷を受けた例の飛行機がいません。聞いてみたら、パリダカの仕事は打ち切り、引きあげた、というのです。
「引きあげるって、飛んでいったの?」
「そう。ヨーロッパへ帰った」
あんな傷だらけで良くも砂漠を飛んでいくものだと、勇気というかむちゃくちゃ振りというか、かなり酷い話です。無事に目的地に着いたかどうかは知りませんが、その後、落ちたという話題もなかったので無事だったのでしょう。
翼の一部の剥がれたジュラルミンかアルミ板を、接着剤で貼り付けていた飛行機もありました。
ふと思い出すのは第一次湾岸戦争の時、日本人を避難させるのに自衛隊のC130をヨルダンに派遣するとかの論議があったことです。
そのとき、今でも時々テレビに出る航空評論家が言いました。
「砂嵐でエンジンが砂を吸い込んだら危ない。派遣は考え物だ」と。
よくもこんな嘘っぱちを言って、航空評論家として今でもメシを食っていられるものだと思います。サハラで砂嵐などはしょっちゅうです。
航空評論家の話を思い出すたびに、砂漠地帯の飛行場や、飛行機の状況を全く知らずに、お金をもらってテレビに出演していたことが分かります。出す方もどうかしています。もっとも、こんな飛行機に平気で乗っていた方も、かなり“イカレ”ていたというべきでしょうか。
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19)C130スタック |
パリダカを飛ぶ飛行機は全てチャーターされたものです。期間中はずっと同じ飛行機がキャンプ場を移動します。飛行場がほとんど舗装されていないことは前回書きましたが、そんな具合なので駐機場はもちろんダートです。
ある年、C130型輸送機が駐機場で大きなエンジン音を響かせていました。何度かそれを繰り返すので、見に行ったところ、前輪が砂に深く埋まっていました。幾らパワーがあっても、垂直離陸機、ハリアーでもない限り脱出は無理です。
テレビ機材やスタッフの移動に使われている飛行機でした。
1時間ほどすると、現地の男たちが大勢集まってきました。埋まった前輪の前方を幅約1㍍ほどで、ずっと溝を掘っているのです。緩やかに坂を作り、50㍍ほど先で溝は終わります。中には絨毯や布などが敷かれ、どう見てもカッコイイ飛行機の通る所には見えません。それでも何とか脱出したのですからたいしたものです。
フォッカーという双発プロペラ機もよく使われています。マリのどこかの空港だったと思いますが、こちらは後2輪がスタックです。誘導路状の平地を進み、バックして他の飛行機が移動できるよう駐機しているときでした。ブスッと後輪が埋まりました。
パイロットはエンジンをフル回転させて脱出しようとしましたが、回しすぎで一基のエンジンがオーバーヒートでアウトになってしまいました。もう駄目です。欧州の会社に連絡し、部品などを取り寄せるのに数日はかかるということでした。
乗っていた関係者は別の飛行機でピストン輸送となりましたが、スケジュールが合わず空港で一晩を過ごしました。食料がないので搭乗員や関係者が、現地で鶏の焼いた肉を大量に買ってきて配布しました。ここまでは良かったのですが、翌日20人ほどは、酷い下痢になり、真っ青な顔をして次のキャンプ地へ向かいました。エンジン・トラブルを起こした飛行機がどうなったかは知りません。
モーリタニアのズエラットでは、とんでもない事故を見ました。駐機しているところへ、フォークリフトのようですが、もっと長い柱を持った車が勢いよく走ってきました。支柱は高く掲げたままで、飛行機の翼の下を抜けようとしたのです。運転手の予測外れなのか、支柱が立っているのを忘れたのか、そのまま翼に支柱が突っ込み、大きく食い込みました。
さて、どうするか―。支柱は車がバックして外れましたが、食い込んだ後は無惨です。乗員は翼に上り、トンカン、トンカンやっていました。
「パリダカで使うのは無理」という話を聞いてもっともなことと思いましたが、驚いたことに翌日、翼に大きな食い込みの跡を残したまま、どこかへ飛んでいきました。
「パリダカへやって来るパイロットは、腕はいいが流れ者」などという話もあります。外人部隊を運んでいた人もいました。最近はキチンとした飛行機が多いようですが、1900年代の終わり頃までは、かなり酷いものだと素人でも分かりました。白状すると1957年製のC130ハーキュリーに、90年代には何度も乗りました。毎年同じ飛行機が来ていたのです。
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18)滑走路の目標は懐中電灯と焚き火 |
パリダカがもっとも賑やかだったのは、1980年代の後半から90年代の初めでしょう。ルートも今のように大西洋岸にへばりついたような、縮こまったものではなく、サハラ砂漠のど真ん中を南下して、ニジェールへ。そこからサヘル地帯を経てモーリタニア、セネガルというものでした。
フランス人のモータースポーツ好きは昔からですが砂漠のラリーには、熱が入りました。全盛期には大小飛行機が30機ほど、ヘリコプターも5,6機は随行しました。それは賑やかなもので、夕方や朝には滑走路の両側に大小の飛行機がずらりと並んでいたのです。
ニジェールの今では通れないテネレ砂漠東側のオアシスでの出来事です。30機もの飛行機は、かつてフランス軍が使った飛行場に降ります。大方はダートです。簡単な吹き流しが1本あるかないかの、広く平らな場所が滑走路でした。
ある夜のことです。主催者の役員が、参加者たちに呼びかけました。
「全員、ライトを持って滑走路沿いに並んでくれ」
何事かと聞いたら、遅れて飛来する一機飛行機が着陸する、というのです。もう砂漠は夜で、星明かりだけでした。夜間にこんな飛行場へ着陸するのは無茶だとは思っても、それは主催者やパイロットの問題です。
「人と人の間隔はなるべく同じくらいの幅で…。滑走路の終わり近くまで散ってくれ」といいます。
滑走路の始りと終わり付近にはには、両側でタイヤが赤黒い炎を上げていました。懐中電灯を持った人たちは、その間、滑走路の両側にある程度の間隔で並び、飛行機のライトに向かって点灯するのです。滑走路は闇で目標はありません。砂が固まっている程度で、舗装などしてはありませんから、しっかりとした境というものがないのです。そんなところで、暗い中、懐中電灯が誘導灯というのですから無茶な話です。
普通、飛行場は危険防止のため、一般人の立ち入りは硬く禁じられていますが、パリダカではそんなことはありません。飛行場とキャンプ地が同居しているのです。
飛行機は無事に着陸しましたが、驚きました。少し着陸地点がずれたり、砂の滑走路の凹凸で方向を失うと“人間誘導灯”は一発でお終いです。並ぶ方も並ぶ方ですが、よほどの緊急事態でもない限り、常識ではあり得ないことです。当時のパイロットは外人部隊上がりや、傭兵上がりなども多かったと聞きます。腕は良くても、精神の方はどこまでまともだったかは分かりません。今はそんなことはありませんが、パリダカがまだ“冒険的世界だった頃の話です。
砂漠で飛行機は酷使されています。よくも落ちないものだ、と思うようなこともたびたびありました。何回か、パリダカを追う飛行機にまつわる話を書きましょう。
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17)目標は空しく風に舞って… |
Dakar2006のスタート地となるリスボンへ、早々とやってきました。リベルダーデ大通りには、Dakar 2006の旗がひらめき、スタート台の作られる予定地は、旗で取り巻かれるように、ムードを盛り上げています。
隣のスペインではグラナダ、バルセロナなどからパリダカが出発していきましたが、ポルトガルは初めてです。結構冷たい風の吹く、どんよりと曇ったリスボンの街を歩いていたら、おかしかった1989年のパリダカを想い出しました。
リビア砂漠を南下しているときのことです。ある朝、スポンサー企業のA部長が弱り果てた様子で言います。
「私のパスポートがないんですよ。ポシェットごと無くなってしまいました」
もう1日リビアを走るとアルジェリアへ入国する日程でした。
「テントの中や寝袋も調べましたか?」
「全部見ましたが無いんです」
「落としたかも知れないと思う心当たりはありませんか?」
「そういえば暗いうちにトイレへ行きました。そこで砂の上に置いたのかな―」
一大事です。パスポートなしでアルジェリア入国は困難です。ふと思いつき、日本人のみんなに呼びかけました。
「Aさんのポシェットがどこかに落ちているかも知れない。とにかく手分けして探そう。砂漠だから目標になるものはないけど、トイレットペーパが目安かも知れないよ」
大勢が砂漠に散りました。しかし、間もなくそれが如何に空しい作業なのか、分かりました。風に吹かれて白い紙は、点々と砂漠を転がっていくのです。使ったところに留まっているはずもないのです。出発時間も近づきました。1人をトリポリやベンガジに送り届ける余裕はありません。
「とにかくもう一晩あります。国境まで行きましょう。うまくすれば通過できるかも知れませんよ」
Aさんにとっては浮かない砂漠の移動だったでしょうが、リビア砂漠は綺麗です。真っ平らな地平線を見ながら走り続けました。
夜になって目的地に着き、食事を終わった後にAさんにもう一度、寝袋を裏返しにひっくり返してみませんか」と言いました。もう何度か手探りで探したあとなので、渋々でしたがAさんは寝袋をひっくり返しました。
ポロリとポシェットは出てきたのです。
「あった。ありました」
こんなこともあるのです。Aさんの喜ぶ顔を見ながら、何人かは複雑な表情でした。何のために白い紙をリビア砂漠で追い回したのか…。空しくも、おかしい出来事でした。
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16)地雷の恐怖ー4 1台前がやられた。 |
リビア砂漠を越え、エジプトの西、シワ・オアシスに向かうルートは、砂漠のどまん中に国境があります。家は一軒もなく住民はいません。
「丘みたいな砂丘が国境で、髑髏マークの標識が立てられていました。地雷危険の印です。そろそろと上っていったら軍隊がいて“止まれ”の合図です。すぐ前に走っていったトラックが傾いて止まってました。地雷にやられた、と言うのです」
前を走っていたトラックは菅原義正さんと同じチームで1997年に日野レンジャーを走らせトラック部門で総合優勝したヨハンペーター・ライフ(オーストリア)が運転していました。地雷を踏んだときはバイクのKTMチームのサポートでした。
「コントロール・ポイントの少し前で、ライフさんのトラックが追いついてきたんです。リエゾン(移動区間)だったので、先に行かせました。もし、突っ張って抜かせなかったら、間違いなくボクの車が地雷を踏んだでしょう」と菅原さんは言います。
トラックの大きさはほぼ同じで総重量は7.5トンくらいです。緩い上りの砂丘は、すでに何十台もの車やトラックが通過しています。
「安全は確認していたようなんですが、前輪で砂を掻き、後輪で押す形となります。深く埋まっていた地雷が、だんだん掘り出され、ライフさんのトラックの前輪が掘り出し、後輪で踏んだということです」
左後輪は吹っ飛んでいました。タンクから燃料が漏れていました。もう少し高速だったら、シトロエンのトラックと同様(96年)に、横転して炎上したことでしょう。危ないところでした。後続は全車ストップです。そこでキャンプすることになりました。
エジプトの兵士が1基の地雷探知機で周囲を調べ始めたのが約3時間後ですが、近くで3個の地雷がみつかったといいます。2003年はシナイ半島のエルム・アル・シェイクがゴールで増岡浩さんが優勝しています。
以前、キャンプで夕食時に話したことが、危うく現実になるところだったのです。軽い車、速い車は地雷の上を通過していったのです。どっしりと重量がかかり、思い切り砂を掻くトラックが餌食になりました。やはり対戦車地雷だったのです。
「ナビをやってた息子の照仁と鈴木君をを降ろし、軍隊が新しく作った迂回路を移動したのですが、生きた心地はしませんでしたよ。シワにはクレオパトラも入ったという温泉があるんですが、それどころではありませんでした」と菅原さんは言っています。
2001年にはモロッコ~モーリタニア国境のスマラ~エルガラウイヤ間で、ランドローバーが地雷を踏み、ポルトガル人のドライバー、J-E・リヴェロさんが左足を半ば失う重傷を負っています。乾燥した砂漠で、地雷はいつ朽ち果てるのか、誰も知りません。埋設した人も、地点も今や誰も分からないのです。
国境地帯では各国軍隊の作った大きなケルンの間をそれると、安全の保証はありません。広大な砂漠といっても、豪快に走れる砂丘ばかりではないのです。
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15)地雷の恐怖ー3 オレの車が危ない! |
 シトロエンのトラックが地雷で吹っ飛ばされた夜、キャンプの夕食で日本から参加のドライバー、菅原義正、篠塚建次郎、増岡浩さんたちと一緒に砂混じりの食べ物を砂の上に敷かれた安絨毯の上で食べました。
日本の防衛庁で聞きかじった地雷の知識を披露しました。
「地雷には大きく分けて、対人地雷と対戦車地雷があるそうですよ。対人地雷は踏んだ人の片足を吹き飛ばすか、歩行できなくなるくらいいの威力で作られるようです。対戦車地雷は戦車が狙いですが、キャタピラを壊し、走行不能にするのが多いそうです」
「それじゃ、だれが踏んでも地雷は爆発するの?」と1人が聞きました。
「地雷は踏んでから爆発するまでの時間をセットできるようですよ。対人はすぐ爆発しますが、対戦車は0.5秒とか1秒とか、もっと間を置くとか…。キャタピラのどのあたりを爆破する狙いかということも関係するようです」
対人地雷では車を壊すまでには行きません。モロッコ、アルジェリア、モーリタニアなどの国境の地雷原の多くは、対戦車地雷だと言われています。こんな話をしていたら菅原さんが言いました。
「例えばね篠塚さんの車は、全速でなくたって1秒もかからずに地雷の上を通過するでしょ。重さだって関係ある。増岡さんだって同じだよ。ここで引っかかるのは、ボクのトラックだけじゃない!」
お気の毒ですが、私の取材した範囲ではそういうことになるのです。重さといい、速さといい、これは仕方がないことです。シトロエンのトラックが吹っ飛ばされたのが、何よりの証拠です。
菅原さんの持っていた箸ではなく、プラスチックのスプーンが止まりました。
「冷たいこと、言わないでよ」
「ヤナこと言わないでよ」
「参ったなー。ボクだけかよ」
ぼやくことしきりでした。
現実に事件が起こり、まだ起こるかも知れないときに、その話題は当然出ます。砂漠の即席レストランは、遊牧民のテントを張り、絨毯を敷いてはいますが、周囲から吹き付ける風で砂が舞っています。菅原さんは、本当に砂を噛む思いだし、食べ物と一緒に砂も噛んでいたのです。
篠塚さんも、増岡さんも、菅原さんの深刻さに、はじめは笑っていましたが、そうも行かなくなっていました。
「大丈夫。バリーズの間を走れば問題ないよ。シトロエンのトラックはショートカットして、危険地域を走ったんだよ」
そういって慰めました。
見えない地雷は恐怖です。シトロエンを爆破した地雷の近くにいた、横川啓二さんはパジェロに乗っていましたが、こう恐ろしさを語りました。
「爆破されたのを見たんです。横転して燃え上がったトラックとすごい炎を…。その原因が地雷と聞いて、それっきりしばらくは動けなかったですよ。じっとして、どうすればいいか考えました。結論はここにいても進めない、ということでした。それからは、ほかの車のタイヤの跡を1㌢でもずれないように、そろそろと運転して、ケルンの間に戻りました。イヤー、怖かったです。トラックが爆破されるまでは、何で先が見えるのにショートカットをしないのか、不思議に思ってましたが、浮かれ気分は吹っ飛んで、本当に怖かった」
この年はその後、何も起こりませんでしたが、地雷の事故はその後も2度あり、菅原さんは危うく、トラックを壊されるところだったのです。
(写真・左から篠塚、1人置いて菅原、増岡の各ドライバー)
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14)地雷の恐怖ー2 トラックが爆破・炎上 |
ヘリコプターでモロッコ南東部のエルハッサンから砂漠の中にポツンとあるスマラのオアシスへ飛びながら、パリダカを取材していました。1996年のことです。顔見知りのフランス人カメラマンと一緒に乗っていました。
「マイン!マイン!マイン…」
ヘリの緊急用無線にけたたましい呼びかけが飛び込んできたのです。パイロットが答える間もなく、無線はがなり立てます。
「マイン、マイン、カミオン、エクスプローデッド!」(地雷、地雷だ。トラックが爆破された)。
無線は発信地点を繰り返し、救助を要請していました。
「方向転換して行きますか?」とパイロット。2人とももちろん「ウイ、ウイ」です。砂漠の彼方に黒煙が見えました。また無線が入リましたが、今度はモロッコ軍からでした。
「上空から退去せよ。着陸は許さない。直ちにスマラへと向かえ」
軍の命令では従うしかない。緊急事態が発生していることは確かです。
地雷を踏んで左前輪を吹っ飛ばされ、横転して炎上したのは、シトロエンのサポート・トラックでした。乗っていた1人は、衝撃と炎の中で死亡しました。
「ポリサリオ戦線が仕掛けた対・戦車地雷だ」とスマラに駐留していたモロッコ軍の兵士は言いました。
ポリサリオ戦線はスペインがスペイン領サハラ(西サハラ)の支配権を放棄した後に、モロッコの支配に抵抗する民族戦線でした。しかし、圧倒的な武力を持つモロッコ軍に、オアシスから追い出され、西サハラには基地すらない状況です。
「誰が、いつ、どこに埋設したのか、今や誰も知らないよ。除去しようにも、一つ一つ探し出すほかはないんだよ」とフランス人記者は言いました。ベトナムやカンボジア状態でもあるのです。
「パリダカのコースは地雷の埋設されているところを通る」という話を聞いていたので、日本を出る前に防衛庁で地雷の話を聞いていました。夜、スマラのキャンプで菅原義正、篠塚建次郎、増岡浩さんたちと地雷の話になりました。
「バリーズ(ケルン)の間を走れば大丈夫でしょ」と増岡さん。篠塚さんも「そうやたらと地雷を踏むことはないよ」と言っていました。
菅原さんはトラックが地雷を踏み、ひっくり返ったので、浮かない表情でした。
「オレはトラックなんだよな」と。
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13)地雷の恐怖ー1 僕が最初だ。震えるドライバー |
1994年にパリダカは西サハラを走リました。パリ~ダカール~パリのコースで西アフリカのセネガルを往復する設定でした。走行距離は1万3000キロを超えました。西サハラのポリサリオ戦線を抑え込み、モロッコが領有を宣言して間もない時です。
西サハラとモロッコの“元・国境”はトラックの頑丈なタイヤでも、グサッと刺さるような大きな刃の付いた車止めがあリました。軍隊が通過してもいい、と判断したらその刃は横になる。モロッコ、西サハラの両側には、こんもりとした土の盛り上がりがあり、機関銃を持った兵隊が潜んでいるのです。トーチカという物でしょう。
モロッコから西サハラ、モーリタニア、セネガルを移動するパリダカは、モロッコにとっては「西サハラをコントロールしているのは我が国」との主張を世界にアピールするためだったのかも知れない。
ポリサリオ戦線は隣国のモーリタニア、アルジェリアなど西サハラの“国境”にたくさんの地雷を埋設しました。多くは対・戦車地雷だったと聞きます。
モロッコ軍の基地は、オアシスごとにありました。
「オアシスにいる反乱軍をつぶすことで、彼らはこの国を出て行くほかない」と、モロッコ軍の守備隊の兵士は言っていました。オアシスを追われたら、もう水のない砂漠で生きようもないのです。
ラリーは南下し西サハラならラグイラ、モーリタニア領ならヌアディブの街がある小さな半島に達しました。南に延びる半島を半分分けしたような国境線です。ラリーはモーリタニアの首都、ヌアクショットへ向かうのですが、舗装路はなく砂漠のトレールを走ることになります。
「西サハラとモーリタニアの間には地雷原がある」とは言われ続けていました。「国境地帯にはケルンがあり、その間を走れば地雷は除去されている」、と主催者は注意をしていました。
主催者には先行グループがいます。その中に、フランス人の知り合いがいました。彼は日本人出場者のナビをやったりして、パリダカの期間は一稼ぎする男です。
彼は本当に震えながら言いました。
「地雷を最初に踏むのはボクだよ。行きたくないよ。走るのは夜だし、どうしよう」
「ここまで来たら行くしかないんじゃないの」と言いました。
「あんたは後から来るからそんなことを言う。地雷で吹っ飛ぶのはボクだよ」
小心と笑うわけにはいきません。幸い無事にヌアクショットへ到着し、パリダカの一隊も移動したのですが、本当に地雷を踏んで死んでしまったり、トラックが壊れた例もあるのです。トラックで出場している菅原義正さんは深刻です。
次にはその話を書きます。(写真は菅原義正さんの乗る日野レンジャー)
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12)男と女のパリダカー4 大誤算!憎き女の優勝を後押し |
ジャンールイ・シュレッサーさんをブロックして“女の怨み”を思い知らせたユタ・クラインシュミットさんは、車から降りてナビのアンディ・シュルツさん(ドイツ)と顔を見合わせてニッコリでした。キャンプ地で増岡さんとの話も弾んでいました。
その2日後に、とんでもない事件が発生しました。ジャンールイの恨みは、三菱チームでトップを走行し、優勝を目前にしていた増岡さんに向けられました。お門違いにもほどがあります。2001年1月20日の第19レグのことです。
トップスタートの増岡さんが、スタート地点へ着くと、そこにはもうジャンールイと“子分”のホセ-マリア・セルビア(スペイン)の乗る2台のシュレッサーバギーが位置を占めていて譲りません。前年まで三菱で篠塚建次郎さんのナビをやっていたアンリ・マーニュさん(アンドラ)は、後から正直にそのときのことを話してくれました。
「ジャンールイが最初に出て、セルビアが続く。セルビアはゆっくり走り、できるだけヒロシにホコリを浴びせ、ジャンールイを先に行かせてタイムを稼がせる―。そういう作戦だった。規則通りなら5分のペナルティで済む。狙っていたんだよ」
ユタにホコリを浴びせられ、抜けなかったジャンールイの仕返しのターゲットは、トップの増岡さんに絞られていたのです。“砂漠の悪役”の予測通り増岡さんは焦り、セルビアを抜くその過程で、リアサスペンションを破損してストップ。同じチームのジャンーピエール・フォントネさん(フランス)の力を借りて修復するのに40分以上かかりました。タイムロスで、総合トップから3位に転落しました。ジャンールイは暫定結果で総合首位に立ち、作戦成功とほくそ笑んだのです。
しかし、当然のことに抗議・審査があり、ジャン-ルイに1時間のペナルティが課せられました。首位に浮上したのはユタ。増岡さんはトップから2位に落ち、ジャンールイは3位になりました。
後で分かったことですが、記録をよく調べると、ユタより増岡さんの方が17秒速かったのです。主催者の記録係の計算ミスでしたが、ナビも三菱のブレーマー監督もあまりの事件で、計算違いに気づかず、結果として女性初のパリダカ・チャンピオンが誕生したのです。
日本へ帰ってからゆっくり調べたら分かったことで、まさに後の祭り。
「今更、間違いを指摘し、順位問題を蒸し返しても、三菱の1~2が変わるわけでもない」。
初の女性チャンピオン誕生は欧州でも大変な話題になっていました。水を差すのは三菱にとって何の得もないという判断もあったようです。
ジャンールイにしてみれば、増岡さんを引きずり落としても、自分が勝てず、ユタに勝たれたのでは、何にもなりません。恨みを晴らすどころか“パリダカの女王”誕生の後押しをしてやったようなものです。フランスのマスコミまでが、ジャンールイのアンフェアな行為をを散々ののしり、パリダカの女王、ユタを大々的に採り上げました。
“砂漠の悪役”が得るものは何もなかったのです。憎き女を優勝させてしまったのですから…。
ユタはジャンールイに“怨恨返し”をしたばかりか、優勝へのお手伝いまでさせたのです。まさに「女は強し。しかも強運」を地でいったようなものです。とばっちりで、優勝を逃した増岡さんこそ、気の毒でした。
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11)男と女のパリダカー3 女性ドライバーの復讐 |
女性でただ一人、パリダカで優勝しているのはユタ・クラインシュミットさん(ドイツ)です。今はフォルクスワーゲン・レース・トゥアレグ2で2006年に2度目の優勝を狙っていますが、この話は三菱パジェロ・エボリューションに乗っていたときのことです。
2001年の出来事は以前、記事にしているので記憶している人もあると思います。焼き直しですが自分の書いた記事なので、問題はありません。女の“復讐”で、パリダカ優勝をフイにしたフランス男のいたことです。
ユタ、増岡浩さんのパジェロとジャン-ルイ・シュレッサーさん(フランス)のシュレッサーバギーが優勝を争っていました。ジャンールイはパリダカの名物男で“砂漠の悪役”のニックネームもありますが、おもしろい人でレースやラリーが大好きです。自分でチームを作り、プライベートで参戦。プジョー、シトロエンが撤退した後に、三菱ワークスの前に立ちはだかった豪傑です。三菱ワークスにも所属してパリダカを走ったこともあります。
ラリーは終盤に入っていました。上位は2分置きにスタートする決まりですが、ユタはジャンールイのすぐ前で出発しました。マリのバマコ~バケル間のコースで、サバンナ地帯の乾いた路面は、猛烈なほこりが立ちます。ジャンールイがユタに追いつきました。激しいアタックで追突するかと思うシーンも、ヘリコプターから分かりました。
どこまでブロックできるか。どこで道を譲るか―。増岡さんとユタ、ジャンールイの優勝争いですから、簡単には譲れません。SS(競走区間)の終わりまで、ジャンールイにホコリを浴びせ続けました。ジャンールイは怒り心頭ですが、ユタはニコニコしていました。
勘ぐるとこれほど効果的な女の復讐は、なかなかありません。パリダカに勝つという名誉と1年間勝利に向けて、スポンサーを集め、車を開発して参戦した男の努力を吹き飛ばしてしまったからです。
ジャンールイとユタは98年までモナコで同棲していました。2人揃ってシュレッサーバギーでパリダカに出場。98年大会ではダカール海岸で、調子に乗りすぎ海へ突っ込んだジャンールイを砂浜へ引き揚げたのはユタでした。一緒に住んでいるのですから意気は合っていたのです。しかし、ジャンールイは“その道”でもなかなかの男です。ユタとは間もなく別れました。
ジャンールイは2度目の結婚をしたのです。ユタは三段跳びで言うとステップ地点に当たります。ジャンールイが足を着いて、次に大きくジャンプして着地するそのステップだったのかも知れません。ジャンールイが結婚した相手は、かつてテニスのスーパースターだったビヨン・ボルグの妻だった人でした。
ユタもなかなかの女性です。ドイツのリュージュでオリンピック代表になったり、パリダカをバイクで完走したり、美人だけれど猛烈に強い気性と迫力があります。女としての“敗北”をいつかは、男に対して砂漠でお返しする、の潜在意識があったのかも知れません。
怒り狂ったジャンールイは主催者に抗議しましたが、たいした利益はありませんでした。この年優勝したのは、ユタ・クラインシュミットさんでした。後に書きますが、このあとジャンールイから見当違いのしっぺ返しを食らったのは、いい迷惑にも我らの増岡浩さんだったのです。ユタが優勝し、増岡さんは男と女の、関係ない私怨のとばっちりで、優勝を逃してしまったのです。
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10)男と女のパリダカー2 |
 可笑しくもあり、気の毒でもある話を続けます。80年代半ばといえば、日本でパリダカが注目され始めた頃です。ある日本人チームがリタイヤしました。ナビゲータとして参戦していた夫妻の間に、軋轢が生じました。
チームの面倒を見ることをメーカーから依頼されていたTさんは「もう時効だからいいでしょう」と笑いながら話します。
パリから送り出す時には2人とも、とても仲良しでいい関係でした。ところが、パリダカを終わり、パリへ戻ってきたのは夫だけでした。
「あれ?奥さんは?」
「ニジェールのアガデスにいるよ。俺たちは別れたんだ」
サハラ砂漠の南、アガデスの街で元・奥さんの方は、精悍な地元の男と“いい仲”になってしまったのだというのです。
「話を聞いて気の毒だとは思ったけど、可笑しくって…。砂漠越えで、すっかりくたびれきった夫に比べ、現地の男は逞しいですよ。北サハラの血を引いた現地の男は、いかにも精悍で、タフに見えるし、実際その通りでしょう。あまりほかのことは考えないし、本能に忠実ですからね。その場限りかも知れないけど、女性には親切です。夫の方は疲れ切っても、妻の方は結構元気だったようです」
アガデスの休息日に問題が発覚。妻の方は「ここに残る」となって、夫だけがパリへと戻ってきたのだった。
アガデスに現地の男と住む、と言っていた女性にその後、会ったことがある。大柄でしたがチャーミングで、なるほど砂漠の男が好むタイプで、タフそうな女性でした。ニジェールに住んでいれば、会うはずもないのです。きっと戻ってきたのでしょう。
ワークス・チームで優勝経験もあるドライバーも、悲惨な目に遭っている1人です。パリダカを一生懸命に走り、フランスへ帰ってみると、自宅には妻が男と一緒にいたのです。予定より早めに、妻を驚かせてやろうと、急いで帰ったのです。それなのに、妻が家に男を連れ込んでいたのではたまりません。パリダカ離婚ー1、のケースとは逆ですが、こちらも現行犯ですから、すったもんだの末にサヨナラのへの顛末を辿りました。
そうかと思うと、同じチームの女性とヨーロッパにいるうちから同じ部屋に泊まり、パリダカが始まると、同じテントに入って過ごす達者なドライバーもいました。女性ドライバーの方も、開けっぴろげで全くそれを恥じたりする様子はありませんでした。男性のドライバーは、砂漠内助の功、が勢いづけたのか、突っ走って優勝をさらってしまいました。
コラムで書いた「やっさんの話」は間違いの“現地妻”話がもめ事に発展したのですが、こちらはまさにパリダカの現地妻そのものです。同じチームですから毎日キャンプでは一緒です。大人同士だし、走れば速いので監督も文句のつけようもなかったようです。こちらはフランスにいる妻にはばれず、離婚はしていません。
似たような話はいくつかあります。パリダカの英雄や、ロマン、夢に燃える人々の中には、こういう人たちもいるのです。
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9)男と女のパリダカ-1。パリダカ離婚 |
強盗の話は後にまた続けます。それより話題を変えて、男と女のパリダカを何回か書きます。誰の話か、などと勘ぐる必要はありません。どこの国の人かも明記しません。それでも本当にあったことで、さもありなん、と思う人もいれば、とんでもない話だ、と考え込む人もいるでしょう。皆様の身に覚えのないことを願っていますいます。
ある年のことです、バイクショップを営む若い夫婦がいました。隣同士、自分のニックネームをつけた小さな店を構え、結構繁盛していました。バイクが大好きな2人は「パリダカへ一緒に出ようか」となりました。もともと意気投合しているのですから、問題はありません。2台、2人でエントリー。友人もサポートを引き受けました。
パリをスタートしてリビアのトリポリを経由。砂漠の中の砂漠、といわれるニジェールのテネレ砂漠を東から西へ、砂丘やフラットな砂ばかりの砂漠を約1000キロも横断する、今のパリダカでは考えられない、夢のようなルートでした。
ところがこの夫妻は最初の難関、砂丘越えで失敗しました。
「助けてー」と女性の声がします。気づいたのは日本の代理店から派遣されたカメラマンでした。4輪駆動車でパリダカを追っていました。
「2人とも砂漠にへたりこんでいたよ。最初のでかい砂丘だった。気の毒だけど助けようもなかった」
この当時まで、パリダカは遅れてしまうと自動的にリタイヤとなりました。今では1日SSをパスして、一般ルートを走り、次の日のスタート30分前にスタート地点に並べば、ペナルティだけ済みます。何回も繰り返して、ペナルティの山となっても、ダカールに着けば完走扱いです。気の毒なことに2人はリビアを抜け出せないまま、リタイヤとなってしまいました。
男と女ー。これからとても不公平なことが始まります。当時は“美形”だった女性の方は、その道に特異な才能を発揮するフランス人のプレスが、とてもよく面倒を見て、プレスカーに便乗させました。この間、フランス人との関係がどういうものだったかは知りません。
「私、離婚するつもりです」とアガデスの休日に、彼女はは親しい人に言いました。彼女はタイヤ会社の飛行機や好き者のフランス人プレスと一緒に、楽々とアガデスに着いたのです。狭苦しい車に。男を便乗させるような、奇特な人はいません。細々ながら交通機関はあるのです。
ヨレヨレにになって、バスやトラックを乗り継いで夫がアガデスにたどり着いて間もなく、彼女の決意は広まりました。「あなただけに言うのよ」と念を押せば、押すほど、その話は貴重なもので、大きな話題に広がるのです。話に蓋は出来ません。夫に同情の声、しきりでした。ダカールに着いた時にはもう“他人同士”でした。
この女性には後日談があります。再婚して新しいご主人とパリダカに出たのです。今度はパリダカで離婚はしませんでしたが、平穏な暮らしを数年した後に、ご主人の女性がらみの不始末を、彼女がこともあろうに“目撃”し、現行犯発覚です。予定より早めに出張から帰ったら、夫が見知らぬ女を抱え込んで家にいたのです。で、また別れました。この女性は生活力があります。めげません。夫を追い出し、時々テレビなどにも登場して元気です。
カラオケで人気のある古い歌なら、こうなります。
♪昔の名前でー、出ていますー。
男性2人の方は、パリダカ・サークルの話題にはなりません。強きもの、それは女です。
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8)寝てたらテントごと運ばれた |
セネガルのサンルイはフランスのツールーズから、南米・アルゼンチンのブエノスアイレスへ飛ぶ、郵便飛行の基地だった。大陸間飛行がまだ黎明期だった頃の話で、フランスの作家、サンテクジュぺりの小説は、実話を元に書かれていて、南方郵便機、夜間飛行を初めとする小説は、飛行と同時に砂漠を飛ぶ過酷さやロマンチックな雰囲気を、見事に教えてくれる。
パリ~ダカール・ラリーは1998、99年にダカールへゴールする前日に、この空港近くをビバーク地とした。空港のあちこちを歩き回った。小さなロビーには、ブエノスアイレスへと飛行する飛行機や乗員の写真があった。
小さな空港から10分も歩かないで着く広場に食料供給や参加者、サポート隊のテントが張られた。湿気が多く、緑も深かったが、砂地だった。日本のいすゞが支援したチームのテントもそこにあった。
メンバーの1人は長い旅に疲れ切っていて、仲間たちが町を見物に行くとき、テント・キーパーをすることにした。日射は強く、日なたは猛烈に暑かったが木陰のテントは、心地よかった。いつしかぐっすりと寝込んだ。
テントが急に動き出した。荒っぽく引きずられている。大声を挙げた。
「誰だー!このやろー!」
人声がしてテントの移動は止まった。
潰れたテントをかき分けるようにして外へ出たら、キャンプ地は惨憺たる様相だった。あちこちで現地人が物を抱え、走り回っていた。パリダカのビバーク地が真っ昼間に略奪に遭っている―。
長いパリダカの歴史でも、強盗やこそ泥こそ出ても、ビバーク地全体が混乱状態に陥ったことはない。軍隊や警察が警備しているからだ。サンルイは警備が甘かったのだろうか。子供から大人まで、物を抱えて走り回り、やってきた警官を見てサバンナの中へ逃げ込んでいった。
この事件があってから、サンルイはビバーク地から外されている。ダカールから200㌔ほどの距離で、翌日ダカール・ラックローゼにゴールするには、格好の場所なのだが、人間が悪すぎる。
そういえばダカールも、年を追って気を許せなくなった。80年代の終わり頃までは町の中を1人でぶらついても不安はなかったが、90年代に入ると“泥棒・強奪天国”になってしまった。
ホテルから100㍍も離れていない自動車ディーラーでのパーティーに行こうとしたカメラマンが数人の男に襲われ、カメラバッグを奪われた。20人ほどのグループの最後尾にいた男は、やはり数人の現地人に押し倒され、所持品を奪われそうになったが、大声を出したため仲間が駆け寄り、強奪グループは逃げた。
似たような話は沢山あり、この記事を書いている本人も、監獄島から戻り、歩いてホテルへ帰ろうと思ったところ、強奪団に襲われ、危うく難を逃れた。真っ昼間でもダカールの街の一人歩きは危険だ。美しかった街も、年々、汚れてきている。アフリカはすぐに「貧しさが…」と言われるが、貧しさだけではない。人々が悪くなっている。豊かな生活を国境のないテレビなどで知り、そういう生活に憧れ、伝統的な部族の倫理や道徳、慣習を捨てる。
援助はどこへ消えるのか―。その行く先を目の当たりに見たこともあった。パイロットでもあったフランスの作家、サン・テクジュぺりが小説の中で呼びかけたサンルイは、あこがれの街でもあったが、テントごと盗んでいく、すさんだ人々の出現やダカールの荒廃を何度も見て、もう行きたくもない、くだらない街に変わった。
自ら荒廃を招いておいて、他国の責任にすり替えようと言う国々は多い。
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7)狙われる参戦者=増岡浩= |
アフリカの強盗ばかりを書いていたのでは不公平です。ヨーロッパでもパリダカ参戦者は狙われます。さすがに車の隊列を銃で脅し、金品を強奪するような強盗はいませんが、2種類の泥棒がはびこっているのです。モータースポーツ好きのマニアックな泥棒。もう一種はごく当たり前の物盗りです。
毎年、スタート地点では誰かが物を盗まれます。近い例を挙げるとDakar2005の車両保管所(バルセロナ)で日本のエース、増岡浩さんのヘルメットが盗まれました。アリ・バタネン(フィンランド)さんのナビ、も同じ目に遭っています。分かったのは05年の大晦日の朝、パルクフェルメ(車両保管所)でした。まだ盗られたた人はいるかも知れませんが、確認できたのは2件でした。
パルクフェルメは車検を終えた車に細工をしたり、何か手を加えないよう主催者が、全参加者の車を集め、厳重に保管するところです。ドライバー、ナビゲーター以外は、立ち入れません。あとは役員と警備員だけです。
「普通の泥棒が車の中に入ったとしたら、ヘルメットだけを盗るようなことはないでしょう」と増岡さんはクビを傾げていました。関係者の犯行が臭います。こういうことがないように、パルクフェルメは存在するのですが、とんでもない話です。
増岡さんもバタネンさんのナビも、予備があったからいいようなものの、一般参加者だったら、ヘルメットの予備など持っては行きません。主催者の責任なのに、ヘルメットを調達しない限り、安全規則でSSは走れません。パリダカは毎日数百㌔のペースで移動しますから、責任者も役員も先へ、先へと動きます。予備のある人で良かった、と同時に初めから、狙われていたということでしょう。
この事件の数日前にも増岡さんは物を盗られそうになりました。
「レンタカーで路地をゆっくり走っていたら、後ろのドアを開けて載せておいたバッグを盗ろうとする男がいたんです。咄嗟に速度を上げ車を壁ぎりぎりに寄せました。壁と車に挟まれそうになった男は“殺される”と思ったんでしょう、逃げていきました」
プロドライバーの瞬間的な判断がなかったら、盗られたのは確実でしょう。
それにしても、可愛そうだったのは、バイクのデニス・コムテさん(フランス)でした。KTMのバイクで海岸のSSを走り終わり、駐車しておいた車へ戻りました。
「パスポート、現金、クレジットカード、参加関係の書類…。大事な物を入れたバッグが消えてしまったのです。欧州の都市では車上狙いが頻発します。それを知っていて車内に大切なバッグを残していたのもいけないのですが、見るも無惨な様子でした。
「これではアフリカへ行けない。酷い話だ」と嘆きますが、盗人の多さでは欧州屈指のスペインですから、盗られたものが出てきようもないのです。パリダカに限らず物騒なところは多く、首からプレスカードを下げていなければ入れないプレスセンターでも、ベルギーの女性記者が自分の椅子の後ろに置いたバッグを盗られました。
数年前にはル・マン24時間レースの記者室で、コンピュータ、カメラ、望遠レンズなどを入れたバッグをそっくり盗まれた日本人カメラマンもいます。
浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽きまじ―。五右衛門。
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6)身ぐるみ剥がれた調査隊(強盗その3) |
パリダカは主催者の調査隊が毎年夏にコース予定ルートを走り、ロードブックを作りながら、安全性や輸送の便宜などを考慮してキャンプ地を決めます。現地の人々とパリダカの一隊が通過する了解を取り付けるのも重要な仕事の一つになっています。ところが、その調査隊が車や所持品の多くをを奪われ、丸腰にされてアガデス(ニジェール)へ送り届けられました。1996年夏のことでした。
ミイラ取りがミイラに―。チームを率いていたのはパトリック・ザニロリ(フランス)で、当時コース作りを担当していました。ザニロリは1985年のパリ~アルジェ~ダカールに三菱パジェロで出走。三菱車でパリダカ最初の勝利を記録。以来、パリダカにはドライバー、主催者のメンバーとして携わってきたベテランです。
この事件は極秘にされていました。ルート踏査隊が「身ぐるみ剥がれた」などとわかったら、参加しようとする人たちの腰が引けるからです。
サハラの旅、そのもののリスクは承知でも、強盗団出没の不安な中で、時間と金を遣い、わざわざ危ない目に会いに行く人は希でしょう。
TSO(現・ASO)は隠しに隠しました。どうして分かったかというと、96年大会(ダカール~アガデス~ダカール)は中間の休息日がアガデスです。当時のニジェール大統領がキャンプ地を視察・激励に来ました。その時の“お土産”が、強奪されたザニロリの車の返還だったのです。
大統領はご満悦で篠塚建次郎さんや我々と談笑しました。黒ずくめでまさに忍者のような精鋭・警備隊員、10人ほどがマシンガンを持って車やトラックの間をスルスルと移動し“黒い影”となって警備するのは、まさに異様でした。灼熱の砂漠のビバーク地。それも真昼です。黒一色で日陰に潜む“サハラの忍者”の動きを見て「“忍者ハットリ君”の衣装はサハラ砂漠でも通用する」と、今でも思います。強烈な日差しの中では、目が慣れるまで、日陰の黒ずくめは見えません。夜陰に紛れるのが日本の忍者装束なら、ニジェールでは日陰に紛れるための黒ずくめ、なのでしょう。
「車を奪った者は処置した。車を返還する。君たちはアフリカの大地のすばらしさを十分に味わってくれ」という趣旨の話しをしました。何のことか分からなかったけれど、ニジェール大統領の発言をフォローした側近の説明で、初めてザニロリたち調査隊が、アガデス北方の山岳地帯で酷い目に遭っていたことが明るみに出たのです。
しかし、その場に居合わせなかった多くの参加者には明らかにされないままでした。大統領がビバークを訪問した、と言うきれい事で終わりました。
大統領の言った“処置”がどういうものか、およそ想像はつきます。この年、強盗団は現れませんでした。調査隊を襲ったのがどういう組織だったか、どの部族だったかも分からず仕舞いです。また、調べようもないのです。
半年前の事件が分かったのは、篠塚建次郎さんが日本人初のパリダカ優勝した年1997年(ダカール~アガデス~ダカール)でした。ビバーク地に姿を見せた大統領はその後、失脚しました。
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5)武装強盗団またもや襲撃(強盗団その2) |
味をしめると人は同じことを繰り返す。それもだんだんとエスカレートする。98年にマリの砂漠でパリダカ参戦のトラックや4輪駆動車を襲い“いい稼ぎ
”をした強盗団は、翌99年にも出現した。今度はモーリタニアのネマからティシットへの砂漠地帯だった。
砂丘が連続しその間を縫うようにパリダカのルートは設定されていた。トップチームはとうに通過し、遅いアマチュア参加者がヘッドライトを点灯し、砂と格闘するように走っていた。夜の8時頃で砂丘は暗かった。
日本から参加していた能代律子さんもこのグループにいた。
「暗い中に車が何台もバラバラに止まっていました。ゴールにしてはちょっと変だと思いました」。
不審に思った能代さんは止まっている車の横に自分の車を着け、状況を尋ねようとした。その途端だった。
「車の陰から3人が銃を持って素早く私たちの車を取り巻きました。一人は前に、両側にも1人づつの3人で、素早い動きはびっくりするばかりでした」
車を降ろされ連れて行かれた砂丘の陰には、既に大勢の参加者が“人質”のように銃を持った男たちに監視されていた。
能代さんはリタイヤした際に必要なので、フランや円などを100万円ほどドライバーシートの後ろに隠していたが、勝手知った?強盗はすぐに金を見つけ、ズタ袋に押し込んだ。衣類もそっくり盗られた
「フランス人はしっかりした人がいて、身につけたお金やパスポートなどを盗賊が身体検査して次々と調べるのですが、自分の番が来る前に砂の中に埋め、盗られなかった人もいましたよ」。
20台ほどが被害に遭ったが、銃で武装し素早い動きを見せる強盗団に、誰も無駄な抵抗はしなかったのでけが人はなかった。強盗団はプレスカー、テレビクルーの車、競技車、それにバイク1台強奪して去っていった。人質たちを置き去りに、車で去っていくとき、首領らしき男が言い残した。
「来年、また会おうぜ」と。
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4)オレを置き去りにするな!(武装強盗団その1) |
銃撃を受けたとたんに、ドライバーは車に飛び乗った。焦った。始動しない。イグニッションのメーンスイッチを入れていなかった。走り出した。ふと横を見た。ナビゲーターがいない!
「車が走り出した。置いて行かれたらお終い。必死で砂漠を走り、減速した車に飛び乗りました」
マリ・ガオに近い夜の砂漠地帯で、日本の坂昭彦、山鹿高資組のいすゞ・ビークロスは、1998年パリダカ(ベルサイユ~サンルイ~ダカール)で武装強盗団に襲撃された。
バズーカ砲、自動小銃を持った軍隊崩れの強盗団は、パリダカ参戦の大型トラック2台やアマチュア参加者の車を襲い、トラックの荷物やプレスカーを奪った。坂・山鹿組はそこを通りかかったのだった。
「裸でパンツ1枚の人たちが、助けを求めていたので止まったら、銃撃ですよ。砂が銃弾でパッパッと跳ね上がったんです。夢中で車を走らせました。横を見たら山鹿がいないのに気づき、ゆっくり走っていたら乗ってきた。後は砂漠をまっしぐら。暗い砂漠を、それこそ一目散に走りました」
置き去りにされかかった山鹿さんは「生きた心地はなかった」と言いました。右ハンドルの車なのでナビの山鹿さんは左に乗ります。射撃は左側からです。
「乗るとターゲットになりそうで、乗る気になりませんでした。そうしたら車が走り出しました。置いていかれたらお終い、と必死でした」
柔らかい砂地を走るのがどんなに厳しいことか…。山鹿はそのことを記憶していません。死に物狂いで走る、とはこういう体験を言うのでしょう。
無事にビバークに着くと、これは気の毒なことに笑い話になります。パリダカとはそういう神経を持たないと「やってられない」ところがあります。日本の生活では繊細な神経を遣っていても、砂漠へ来たらある意味、脳天気なところがないといけません。
軍隊が出動した、と聞きましたが、噂によると「強盗団は小隊くらいでは問題にならない武器と熟練度を持っている“軍隊崩れ”」だそうです。小隊の4輪駆動車2台が、村外れまで来て、待機しているだけだったこともあります。もしかすると“グル”なのかもしれません。日本では強度計算の偽装申請でマンションを建て、大問題が起こっています。建築士、建設会社、審査会社が手を組めば、これはたまりません。脅してものを盗る方が、まだマシでしょう。日本でこれだからアフリカで強盗と軍隊がグルでも、あまり違和感はないでしょう。
強盗団は捕まりませんでしたが、不思議なことに後から車は、マリの政府から引き渡されたそうです。似たような話はまだあります。次の機会に書きます。
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3)Tシャツ・短パンで真冬のパリへ② |
チャドからセネガルまで、車を運ぶのは容易なことではありません。きちんと走っても砂漠ロードからサバンナ、途中にはおんぼろフェリーで川を渡るところもあり、悪路が当然。轍があればそれが道で、それは大変です。
2人は何とか現地でトラックを雇いました。アフリカの人たちは親切なところもありますが、足下を見る、弱みをつかむのも相当なものです。砂漠地帯は厳しい生活だし、昔から隊商との交渉などで、純真に見えても、小ずるいほど商売には長けているのです。
「1日ほど走ったら、もうここから先は行けない、なんて言い出す。それを何とか説得するのですが、そのたびに金はつり上げられる。燃料を買うから、飯を食いたい、とかとにかく、すぐに金をせびる。だからといって替わりはないでしょう。ついに初めのトラックはやめて、別のものを探しましたが、ダカールへ鉄道が通じているバマコ(マリ)へ着いたときには、文無しになっていました」
バマコにはさすがにホテルはある。クレジットカードの通じる世界になった。車を貨車に載せ、ダカールへ送り出したが、日常の買い物などは現金。
「航空券はカードで買えましたが、何か食べるのにも現金がない。仕方がないのでヘルメット、コートなど何でも金に換えられるものはたたき売りました」
普通の旅人なら途方に暮れるが、パリダカに参戦するような人たちはタフだ。真冬のオルリー空港で震え上がるTシャツ・短パン姿での帰還は、笑い事ではなかったのだが、やはりいい思い出になったのだろう。浅井さんが後に、笑いながら話してくれたものでした。
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2)Tシャツ・短パンで真冬のパリへ① |
冬のパリ・オルリー空港にTシャツと短パンで降り立った日本人の男女がいました。パリ~ルカップ(喜望峰)間でパリダカが開催された年だったので、1992年のことだったように記憶しています。
「なんて言ったって、冬のパリだよ。飛行機の中はブランケットを借りたり出来るからいいよ。だけど降りたとたんに、マイナスの世界でしょ。みんな珍しそうに見るし、こっちは寒いし、まっすぐに空港の、何でもいい、着るものを売っているところへ行きましたよ。クレジットカードがあって助かりましたよ」
浅井明、青柳暁子さんのコンビは、いすゞの4輪駆動車でパリダカ参戦を続けていました。浅井さんは東京でバイクショップをやっていたのですが、パリダカの虜になって、店をたたみました。青柳さんの職業はよく分かりませんが、何かコンサルタントのようでした。
2人の関係はドライバーとナビゲーターです。大人の男女だからと、勘ぐるような人は、心のやましい人です。浅井さんがハンドルです。青柳さんはルートを指示します。延々とサハラ砂漠を南下し、ニジェールのディルクから、チャドのングイグミ、ンジャメナを目指しました。
チャドはサハラ砂漠の南に位置し、大きな湖、チャド湖があります。砂、砂、砂…、の世界です。
2人の乗った車はエンジンだったか、トランスミッションだったかが壊れ、走行不能になりました。こうなると、乱暴な話しですが、昔は車を燃やして人だけが帰ってきたのです。青柳さんが「どうしても苦労を共にした車は日本に持って帰りたい」というので、動かない車を3000㌔ほど運ぶ羽目に陥ったのです。
その結果が、Tシャツ、短パンのパリ帰還となりました。
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1)パリダカの夜明け |
パリ~ダカール・ラリー(通称パリダカ)は夢に満ちた世界でした。1979年にティエリー・サビーネ(フランス)がサハラの冒険好きに呼びかけました。
「私と一緒に旅をしないか」と。
歯科医の息子で、冒険好きのティエリーは、サハラ砂漠の旅を繰り返していました。1人や2人でサハラを旅するのはリスクがあります。フランス植民地が多い、北アフリカ、西アフリカはフランス語圏です。旅好きの人々は、サハラを「フランスの裏庭」のような感覚で捉えていました。それでも、やはりリスクは高かったのです。
参加者は4輪・80台、バイク・90台、トラック・12台でした。
エッフェル塔とセーヌ川をはさんで向かい合うトロカデロ広場がスタートで78年12月26日でした。アルジェ~タマンラセット~アガデス~ニアメ~ガオ~バマコ~ニオリ~ダカールと、アルジェから直線的に南下し、アガデスから西に移動するキャラバンルートが採用されていました。
ワークス参戦などはなく、自前の車で走り、ビバーク地では、オアシスの人々から食料を買う、冒険的な雰囲気でした。ジジ・ババはこの時代にはすでにアフリカ大陸の最南端、喜望峰のさらに南のケープアガラスから、ヨーロッパ大陸の最北端の島、ノール・キャップまで車で約6ヶ月かけて走っていました。1971年のことでした。
振り返るといかにも危ない話ですが、ババはキリマンジャロ、ケニア山、ルエンゾリなどに女だてら、1人で出かけ現地の男どもを雇って荷物を背負わせ、頂上に立っています。いい時代だったのです。今なら命はないでしょう。
こんな環境だったのでパリ~ダカールといっても、ジジ・ババにとっては、かなり気楽な旅という感じでしたが、サハラ砂漠という言葉の持つイメージは、日本の若者や冒険者的?な人々を刺激しました。第3回大会(1981年)には、横田紀一郎が率いるACPが2台のトヨタを走らせました。2年ほど前に文教区の区会議員になった根本純さんもこのとき出場しています。
横田さんはなかなか弁が立ち、スポンサーを口説き、この時代のパリダカといえば、横田紀一郎抜きには語れないと思います。精力的にパリダカのロマンを説いて回ったのです。
後から続々と登場するパリダカの“猛者”やエレジーの主人公も、横田さんのACPやそこから分かれた人の作ったチームにいた人が多く、今は遠ざかっていますが、功労者であることは否めません。
パリダカが世間の注目を浴びるようになると、自動車メーカーがドライバーを支援、ついでワークス参戦となります。1983年の第5回大会ではメルセデスに乗ったジャッキー・イクス(ベルギー)の優勝で、一躍注目を浴びました。F1のフェラーリ、ル・マン24時間などで優勝したサーキットの英雄がパリダカを制したのです。
翌年にはポルシェが勝ちましたが、三菱はパジェロに乗ったアンドリュー・コーワン(英国)が3位に入りました。
以来、三菱は途絶えることなくパリダカにチームを送り込んでいます。待たれた日本人のパリダカ制覇も、1997年のダカール~ダカールで篠塚建次郎さんがパジェロで達成しました。篠塚さんは日本のパリダカを一躍、ビッグイベントにした立役者です。三菱自動車のパジェロ大ヒットと時期を同じくしています。いい時代でもありました。
増岡浩さんが2002、2003年に2連覇し、2006年のリスボン~ダカール間のラリーが12月31日にはスタートします。細かい年代などにこだわらず、ジジの思い出に残る「パリダカ。悲喜こもごも」を勝手に書いていきます。もし、参戦者が読んだら「これは俺の話だ」と言うでしょう。年代や人名は調べれば分かりますが、無精を決め込み、記憶だけで書いていきます。
ただ、書いていくことは実際にあったのです。全部が全部、その通りとは言えません。ジジが現場に居合わせなかったことも沢山あります。嘘か誠かと問いつめられれば「誠に限りなく近い話」です。出来事そのものが主体です。
惚けが来たのか、人の名前を正確に覚えていません。顔はくっきりです。調べる手間を省き、無精を決め込んでいるのです。ジジに免じて、関係者に最初にお許しを願う次第です。(写真はマリ・ニジェール川の内陸デルタ)
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