共生の本質とは
「共生」とはなにか?異質なものが「共に生きる」ということはどのようなことで、どのような相克や妥協や変化を経て達成されうるものなのか?共生することにより,いかにして異なる生物のゲノムや機能が融け合い,統合されて1つの生命システムを構築するまでに至るのか?
めくるめくほどに多様な生物間共生現象の諸相を眺めながら,このようなことをずっと考えてきました。そのような思索の暫定的な、そしておそらくは表層的な結論を一般向けにまとめたものが以下の小文になります。
初出は講談社の雑誌「本」の2004年12月号に掲載された「共に生きるということの本質」です。
その文章が第一学習社の文部科学省検定高等学校用国語教科書「高等学校 新訂 国語総合 現代文編」に採用され、2007年4月から全国の高等学校で使われています。
「共生」の本質
深津 武馬
「共生」という言葉はとりわけ耳に心地よく響くようだ。生物学はもとより、福祉、医学、環境、文化、社会などの幅広い分野におけるキーワードとして頻出する。ネット検索するとよくわかる。「多文化共生」「男女共生」「地域共生」などにはふむふむと納得できる。「環境共生」「共生社会」などは、雰囲気はわからないでもないが具体的にはどういうことかなと思う。「共生住宅」「共生建築」などは、何をいいたいかはわかるがちょっと違和感を感じる。いずれにせよ、「共生」という言葉のまとうイメージを意識してのネーミングであろう。
私は生物学者として、昆虫と微生物のあいだの内部共生現象の研究をしているが、学生や一般の方々のまえで講義をするときなど、「共生の研究をしているのですが…」という方が、「昆虫の研究を…」とか「微生物の…」とかいうよりも明らかに聴衆の食い付きがよい。研究者は自分の探究している対象に他人が関心をもってくれることがなによりも嬉しい人種なので、これは私にとって居心地のよい状況ではある。
かように人々は「共生」という言葉に心惹かれ、好意的な印象を抱いている。異なる主体がお互いを貪りあうのではなく、思いやりを持って共存するという、調和的、平和的、利他的な関係性のイメージが、理想的な雰囲気を醸し出しているからに違いない。
映画「ファインディング・ニモ」でおなじみの、クマノミとイソギンチャクの関係は、生物間共生の有名な例である。クマノミはイソギンチャクの毒のある触手にかくれて敵から身をまもることができ、イソギンチャクはクマノミの食べこぼしの餌などを頂戴し、お互いに得をするような関係といわれている。しかしよく調べてみると、実はイソギンチャクの方はかえって損をしているのではという話もある。クマノミの食べ残しなどほとんどないし、餌が足りないクマノミはイソギンチャクの触手を食いちぎったりすることもあるという。
こういう話をすると、必ず「その関係は“共生”というよりは、むしろ“寄生”ではないのですか?」という質問が飛んでくる。両方とも得をしているならともかく、片方が搾取されているようなら寄生と呼ぶべきではないかというわけである。このような問いに対して私は「共生関係というのは状況によって“相利”的になったり“寄生”的になったりすることがあるのです」「“共生”と“寄生”は決して対立概念ではなくて、前者が後者を含むものなのです」と答えることにしている。
一般社会ではふつう、お互いが利益を得ているような関係をイメージして「共生」という言葉を使っている。しかし正しい生物学の用語では、そのような関係はより厳密に「相利」と表現する。生物学における「共生」とはもっと広く、文字通り「共に生きている」関係をあらわす言葉なのである。
この表は2つの生物が一緒にいて相互作用しているとき、すなわち共生しているときに、それぞれが得をするのか、損をするのか、どちらでもないのかという3通りずつに分けて、すべての場合を整理したものである。両方ともに得をしているようなら「相利」関係であるし、片方が得をしているがもう一方にはさしたる影響がないようなら「片利」関係となる。片方が得をして他方が損をするのは「寄生」もしくは「捕食」関係であるし、両方とも損をするようなら「競争」関係になる、等々。一見すると「共生」しているようにみえる生き物の関係性の本質として、これだけの可能性が存在する。いや、たった6通りしかないのだから、これだけの可能性しかないといった方がよいかもしれない。
うわべだけみると仲むつまじく見える夫婦でも、必ずしもお互いを必要としあい、支えあうような関係とは限らない。一皮むけばどろどろした確執があったり、一方的な関係であったり、破綻同然だったりということもよくある。深くつきあって内情がわかるにしたがって、その本質がみえてくるのが常である。
生物学における「共生」という言葉の使い方も似たようなものといえる。複数の生物が密接に相互作用しながら一緒にいれば、とりあえず「共生」関係と呼んでおく。くわしく研究を進めていくにつれて、その本質が「相利」か「片利」か「寄生」なのかわかってくる。こうして自然の理解が一歩ずつ着実に進んでいく。
繰り返しておくが、一般の通念とはちょっと違って、生物学においては「共生」と「寄生」は対立概念では決してなく、むしろ前者は後者を包含する上位概念として捉えるべきものと位置づけられている。
このような観点から「共生」という言葉の氾濫を見直してみると、なんとなく胡散臭さがにおいたってくる。「共生」という美名を看板に掲げ、もしかしたら関係者達は心からそう信じているのかもしれないが、その本質には搾取や抑圧や寄生や対立が避けがたく内包されていることも少なくなかろう。もっとも、そんな現実は先刻承知といわれればそれまでであるが。
さまざまな生物における多様な共生現象の諸相をみつめ続ける中で感得されるのは、「共生」における関係性は決して固定的なものではなく、むしろ状況や環境に応じてダイナミックに変化する可能性を秘めているということである。「日和見病原体」という言葉を耳にされたことがあるだろうか。誰の体の中にもごく当たりまえに存在する、穏和な「片利」共生者である常在微生物が、体力や免疫力の低下をきっかけに突然牙をむき、凶暴な「寄生」者に変貌して重篤な病状を引きおこす。「共存」と「敵対」、「相互扶助」と「搾取」、「支配」と「従属」といった一見対立的な概念は実のところ表裏一体であり、共生関係のありかたの連続的なスペクトルの両極端に貼られたレッテルにすぎない、という観点は心のかたすみに留めておいてよかよう。
あえていっておこう。「共生」という言葉のまとう理想的、ユートピア的なイメージには過度に惑わされない方がよい。表面的には調和的、平和的、利他的にみえる「共生」関係においても、一皮むけば多かれ少なかれダイナミックな緊張関係があり、当事者間のパワーゲームという側面があるのだ。たとえ美しい理想を「共生」に見いだし、その実現をめざす高貴な精神であっても、いやあるからこそ、共に生きることの本質から目をそらすことはできないのだ。