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09月28日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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ぶらり つれづれ

長次郎と剱岳登頂 史実は

写真:荘厳な雰囲気が漂う芦峅寺の雄山神社=立山町、筆者撮影 拡大荘厳な雰囲気が漂う芦峅寺の雄山神社=立山町、筆者撮影

 富山市のいたち川沿いを花見橋まで歩き、この付近で生まれた作家の野村尚吾を偲(しの)んでいると、彼の富山ゆかりの作品「アルプスの見える庭」が思い浮かんだ。立山山麓(さんろく)の芦峅寺(あしくらじ)(立山町)で宿坊を営んだ祖先を持つ都会育ちの清純な若い女性が山に魅了され、山を介して人生を考えていくという、瑞々(みずみず)しく爽やかな印象を与える長編だ。その作品から思い立って芦峅寺を訪れた。

 北陸自動車道立山ICから県道を通って、常願寺川沿いを遡(さかのぼ)る。山が迫り、谷間(たにあい)も狭まって千垣の集落を過ぎ、有峰への芳見橋を右に見て緩やかな坂を上りきると芦峅寺の集落に着く。

 芦峅寺は立山登拝者の宿坊として栄えた立山信仰の拠点で、そのほぼ中央に雄山神社祈願殿がある。隣接する立山博物館の資料によると、江戸期には神社前の参詣(さんけい)街道沿いに33の宿坊が立ち並び、にぎわっていた。神社境内には樹齢約500年の立山杉が密生し、県の天然記念物に指定されている。

 境内の杉木立の中は清浄で厳粛な雰囲気が漂い、野村の「アルプスの見える庭」での作品印象を思い起こさせる。また、芦峅寺は、佐伯平蔵、宗作、文蔵、富男、志鷹光次郎らの名山岳ガイドを多数輩出している。

 名山岳ガイドと言えば、常願寺川対岸の和田生まれの宇治長次郎が思い浮かぶ。長次郎は、新田次郎「剱岳・点の記」の小説や映画では、明治39(1906)年の剱岳下見登山から翌年の剱岳測量登山、その折りの山頂での錫杖頭(しゃくじょうとう)と鉄剣の発見者として主役の柴崎芳太郎測量官に次ぐ主要人物になっている。このことを小説、映画から事実と信じている人が多い。だが、日本の登山史研究家の多くは疑問視している。

 剱岳測量登山で芦峅寺は剱岳を禁忌(きんき)の山として協力を渋ったが、明治40年7月13日と28日(後日判明)の2回、測量隊は登頂を行った。この間の経過と疑問点を五十嶋一晃「剱岳測量登山の謎」(「もうひとつの剱岳 点の記」所収)と布川欣一「史実と創作のはざまで」(「山と渓谷」2009年6月号所収)で整理してみる。

 柴崎は、明治40年8月5、6日の「富山日報」、明治44年の「山岳」で登頂の状況を語っている。柴崎の登頂は2回目のみで、1回目の時に測夫・生田信が錫杖頭と鉄剣を発見し、同行した人名も挙げている。だが、その中にも公式報告文にも長次郎の名はない。ただし、1回目の時に同行の氏名不詳の男が落伍(らくご)したという。この落伍者を五十嶋、布川の両氏を始め、登山史研究家は、長次郎とし、信仰心から禁忌の山への登頂を慎み、芦峅寺への遠慮もあり、あえて彼が取った行動だろうと推測している。

 柴崎が長次郎の名を伏せた理由は分からないが、2人は一緒に剱岳の頂には立っていないようだ。また、剱岳下見登山の時は、長次郎に黒部源流付近での別の測量があり、柴崎には随行はしていない。

 「剱岳・点の記」はあくまでも新田次郎の創作で、小説の全てが事実ではないとの一線を引いて作品を楽しむべきであろう。

 それにしても雄山神社境内の杉林に佇(たたず)むと、神気に触れたようで身が引き締まり、体内に清々(すがすが)しさが満ちてくる。

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