2008年06月27日

革命家として生きることの現実 ~立花隆『中核VS革マル』~

*本項は以下の3稿から成る。
①読書録(未完)
②革マル派イカサマ論
③中核VS革マル戦争における死者(70・8・4~75・9・12)

①読書録

「原案vol.9」に、革マル派のおかしい点7つを、原稿用紙にして23枚半に及ぶ分量で
「革マル派イカサマ論」と題して既に述べたのでこの読書録は省略しようと思っていたのだが、その後
「中核VS革マル戦争における死者」を一覧表にまとめた際に触発されたりして、やはりまだ深いものがあると改めて思ったので書くことにした。
 ただ紙数の関係もあり、“深いもの”をまとめきれるかどうかはわからない。

 私はこの本を読むまで、日本に日本共産党以外の共産主義を掲げる政治党派があるとは知らなかった。
 しかもちょうど日共へ胡散臭さを覚え始めた頃だったので、私の思想的視野に新局面を開く1冊となった。

 立花の著作にはかねてから関心を寄せていたが、そのリストの中にある『中核VS革マル』にはまるで目が向かなかったし、何の本なのかという具体的イメージも湧かなかった。

「中核派」というものについても、ごく希薄な認識しかなかった。
 たまに新聞の社会面に爆弾事件等を見ることがあったが、何のためにそんなことをするのか解らなかった。
 これは私の政治意識の未熟さもあるが、マスコミが意図的に彼らの存在自体を隠蔽しているということもあった。

 本来ならば、
「中核派とは共産主義党派で、その暴力革命路線に基づいてこうした爆弾闘争を行っている」
と報道すべきであるのに、その客観的事実自体が“宣伝”になるので、権力=体制の情宣機関たるマスコミは新左翼の存在自体を社会的に抹殺し、
「過激派」というわけのわからない暴力集団がヤケッパチな凶行を繰り返し、善良な無辜の市民に被害をこうむらせているという図式で洗脳を図る。
 今でも一般大衆は「過激派」というのをそういう目で見ている。

 こういう次第で、新左翼の社会的連帯の芽は完全に断たれている。
 無論“ブルジョア・マスコミ”がかくのごとく動くことは新左翼の了解済みのことであるにしても、このことはマスコミがただひたすら真実のみに殉じるという公務から外れて違う何かの動因に基づいて動いていることを、少なくとも明らかにしている。
 そしてかくのごときマスコミのふるまいは、まともな民主主義社会の発展構築を正面から阻害するガンとなっている。

 そのようなマスコミに基づく極々貧弱な基礎知識で本書を読むと、まずのっけから圧倒される。  
 そこに自分の求めていたものをやっと発見したという最高度の精神的高揚も加わって、それは真に衝撃である。

 テレビでよく「何十年史」と題して戦後社会を振り返るVTRを流すことがあるが、それにいつも物足りなさを感じていた。
 その精神的欠落がすっぽり埋まった。

 もちろん「あさま山荘事件」「東大安田講堂攻防戦」等のVTRを流さないことはないが、その公正な意義づけは、前述のようなマスコミのありていによってなすわけがないからさっぱりわからない。
 反対に権力に都合よくいくらでも捩曲げられている。

 なるほど、戦後社会は着実に進歩と繁栄を辿ってきたとするのが権力の描く“正史”だから、そのようにみせかけるために新左翼の軌跡は真っ先に排除するわけだ。

 この日本で、この現代日本で、“日本革命”を目指して闘った者達がいたのだ。

 最初私は、年表の
「法政大会戦」とか「東神奈川会戦」とかの言葉を、即座に解しかねた。
 あと、
「せん滅」とか
「鉄槌」「誤爆」とかもそうである。

 確かに
「誇大な罵倒語」ではある。
 しかしそこで終わればそれまでで、真の衝撃は、
「誇大な罵倒語」が
「誇大な罵倒語」として終わらぬところにある。

 実際に、死者が出ているのだ。
 事実として、殺し合いをしているのだ。

 本書の原稿執筆終了時点('75年7月)で、死者数31名。

 しかも本書は時期的に中核VS革マル戦争をおおまかに覆っていたのではなく、これからまさにピークに向かわんとしているところで終わっている(その契機となったのはもちろん'75年3月の本多書記長虐殺である)。

 “内ゲバ史”には'77年2月の解放派中原書記局長虐殺というもう1つの山があるから、本書は内ゲバ史さえ網羅し切っていないのである。
 それどころか前述の通り中核VS革マル戦争の途中史なのである。

 なぜそんなことをいうのかというと、著者を責めているわけではなくて、それほど、いわゆる新左翼史というものが多重多層的であるといいたいのである。

 私は初め、本書を読みさえすれば新左翼史の把握は充分だろうとタカを括っていた。
 ところが新左翼史には、“内ゲバ史”もあれば、赤軍史、爆弾史、ベトナム反戦史、'60年安保史、三里塚闘争史、労働運動史、全学連史、全共闘史など、多彩な要因が重なり合っているのだ。

 もちろん本書だけで新左翼史全体を把握することはできないが、さすがに立花らしく、基礎の基礎から叙述を積み上げてあるので、少なくとも新左翼のなりたちから'75年までの主だった経緯をこれだけ要領よくまとめ切ったものは他にないだろう。

 特に
「抗争前史」は簡潔であるが、それだけ複雑な内容を凝縮してあるので、当初はきちんと把握できなかった。
 ブントと革共同が新左翼史の二大濫觴であることが解っていないとダメだ。

 正直言ってプチ・ブル的生活への思いを捨て切れていない私にとって、本書に描かれている革命家として生きることの現実は、あまりに凄惨で生々しかった。
 なるほど、
「両派の活動家で、一人として安穏な市民生活を送っている者はいないだろう」。    (未完)

②革マル派イカサマ論

 私は、中核派と革マル派の抗争に関しては、一貫して中核派が正しく革マル派がイカサマだと見做してきた。
 その論拠を、主に立花隆『中核VS革マル』を基にして、7つほど具体的に挙げておこう。
 読めば読むほど、論拠となりそうな具体例が増えていく。

 まず1つ目は、69年1月18日の東大安田講堂攻防戦における“敵前逃亡事件”である。
 これは裏切り以外の何物でもなかった。
 またこのとき革マル派は戦略的要所に就いていたので、その突然の放棄は学生側投降の致命的原因となった。

 そして2点目につながるのだが、この全共闘の方針を間違いとするのなら、革命の目指し方を誤りとするのなら、最初から参加するな、ということである。
 間違いとするものに参加するのは、虚勢張りであり偽善である。
 アリバイ作りと言われても文句は言えない。

 革マル派ではないが、最も象徴的なのが67年10月8日の第一次羽田闘争における日共の行動である。
 日共はこの日多摩湖畔で「赤旗祭り」を行い、羽田へ送ったのは民青の代表数十人だけだった。
 まさに形だけである。
 多摩湖畔で「赤旗祭り」を行うのが正しく、第一次羽田闘争が誤りだと考えるならば、なぜ中途半端に何十人かを羽田へ派遣したりするのか。

 革マル派に戻る。
 革マル派の中途半端な街頭闘争への参加ぶりは、特定の闘争に限らず、闘争一般に表れている。
『中核VS革マル』にはこうある。

「そして、自分たちの街頭行動にあたっては、決してハネなかった。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒をかついでも、機動隊と正面衝突して武力戦をすることはなかった。歩道の舗石を打ち砕いて投石用の石を大量にこしらえるところまではやるが、機動隊がやってくると、さっと身を引いて、ろくに投石もせずに逃げ散るというのが、革マル派のスタイルだった」((上)114ページ)。

 投げない石を、どうして作るのだ。
 使わないゲバ棒を、なぜかざすのだ。
 街頭闘争を否定するなら、なぜ出てくるのだ。
 矛盾だと思わないのか。

 同ページに、革マル派の、中核派に対する
「街頭行動の現実的左傾それ自体に意味を見出す行動左翼集団」
という批判がある。
 私にはこれがなぜ批判の言葉になるのか解らない。

 さて3つ目は、上述のように対権力においてはてんでへなちょこのくせに、内ゲバ、つまり対同志戦という本来ありうべからざる局面においては、一転して猛烈徹底なる武力を浴びせるという点だ。
 実は権力と結んでいるという“邪推”材料として、これ以上解りやすい図式があろうか。

 半殺し狙いの暴力を最初にふるったのは、『中核VS革マル』を読む限りでは革マル派(対解放派、(上)126ページ)である。
 無論抗争のエスカレートというものは、論争→殴り合い→半殺し→殺人と、その場その場のほんのはずみで不可逆的に上昇していくものだから、全部が全部革マル派が悪いというわけではない。
 しかし革マル派に、半殺しや殺人も厭わないという体質が備わっていたことは、否定しきれないように思う。

 きれいにまとめると、次のようになる。

「ともあれ、革マル派のかくのごとき内ゲバにおける熱心さは、他党派の怒りをかった。革マル派が街頭では穏健な行動に終始していたから、なおさらだった。権力に対しては一度だに向けたことのない武力の鉾先を、他党派に向ける革マル派、という非難が浴びせかけられた。権力とは闘わず、権力と闘っている党派と闘うとは、革命党派のやることか、むしろ反革命ではないか、と批判された」((上)126~127ページ)。

 念のために言っておくが、過虐なる暴力性は、残念ながら革マル派の“特異体質”ではなさそうである。
 新左翼諸派全体に、潜在的に備わっている体質といわなければならぬようである。
 まだひょっとして日共や革マル派のような“権力の刺客”の属性なのかもしれぬという希望的観測も残ってはいるが、いずれにしろこの点に関してはさらなる考察が必要である。

 4つ目は、成田闘争の解釈である。

「三里塚に関しては、革マル派はもともと農民の小ブル的私有財産意識から発したナンセンスなものと見ていた」((上)199ページ)。

 この見方は全くの間違いだと思うのである。
 三里塚闘争の契機は、戦争と同質の国家悪の発露、つまり問答無用の大衆蹂躙にある。
 大衆の革命への目覚めとして、これ以上はないというほどの契機である。

 革命党と大衆との連帯のモデルケースとして、これ以上のものはあるまい。
 革命党の今後のベクトルは、三里塚闘争に示されている。
 それをナンセンス、農民は権力の押し付けに黙って服従すべきであったというのだから、話にならない。
 革マル派は一体、大衆の獲得ということを考えているのかと言いたくなる。

 革マル派が「党建設第一」という理屈も解る。
 街頭闘争にのめり込むのを「小ブル急進主義者の誤れるはね上がり戦術」と言うのも理がある。
 だがそれを中核派の行動に対して言うのは間違っている。

 武器・戦術の過激化は中核派よりもさらに左の最左翼・赤軍派や東アジア反日武装戦線に見られたのであり、それは確かに「はね上がり」的に見えないこともなかった(心情的には批判したくない)。

 しかし問題なのはその批判のしかた、口調なのである。
 もし革マル派が、中核派と同じく革命を志すのならば、穏やかに、説得口調で、いわば諭すように批判せねばならないのは当然である。
 なんといっても仲間だからである。
 まず心意気をよしとする前提がなくてはならない。

 例えば69年11月5日の大菩薩峠における赤軍派53名一斉検挙について、中核派は
「諸君の闘いが、これからの階級闘争の新しい段階をきりひらいてゆくうえで不可欠の領域に一歩ふみこんでいることは明白であり、貴重な経験であるとわれわれは考える。またそう考えるがゆえに、われわれはいくつかの点について注意を喚起せざるを得ない」((上)141ページ)
といった調子で論評している。
 これなら赤軍派も以下に続く批判を素直に受け止めることができるだろう。

 これに対し革マル派の論評は、
「赤軍派は誇大妄想患者、塩見(赤軍派議長)に扇動され、二百の機関銃隊、三千の抜刀隊による一週間の国会占拠などという超時代的方針をかかげていたが、スパイの内通により『一揆』を前に『前段階崩壊』した」((上)同ページ)
と、まさに「バカにしきった調子」である。

 まるで自ら敵を作りたいと言わんばかりの物言いではないか。
 こんな挑発的な言い方をして何の得があるというのか。
 まともに考えればこんな言い方をして得があるのは権力側、反革命側ではないか。

 右翼が左翼に対して言うのなら解る。
 しかし新左翼が同じ新左翼に対して「ざまあみろ」とこき降ろす理由はない。

「八派の側は、自分たちが命がけでやってきたことを鼻の先で一蹴され、しかも、度重なる内ゲバでの恨みも加わり、革マル派に対して、爆発寸前の憤りを醸成していた」((上)128ページ)。

 同志が過ちを犯している。
 本来ならば、
「これこれこういう理由で、お前のやり方は間違いだよ。正しいやり方はこうなんだよ。その理由はこうだよ。解るかい? でもそれをやろうとした心意気は大切だ」
と諭すのが筋である。

 なのに革マル派の場合はこんな風である。
「そうじゃねえよバカ。何度言ったら解るんだバカ。まだ解らないのかバカ。全くお前のバカさ加減ときたら呆れて物も言えねえ」。

 政治思想上のやりとり云々以前に、人間としての、相手に対するマナーの問題である。

 度を超した内ゲバで肉体的苦痛を与え、口汚い罵りで精神的屈辱を与える。
 怒らせる手段と考えれば完璧なまでの念の入りようである。

 革マル派の根本的欠陥は、革命運動における連帯獲得の枢要性への認識のなさ、この一言に尽きると思う。

 成田闘争は正しい。
 よしんばそれが間違いであったとしても、それへの革マル派の批判の仕方は間違っている。

 5つ目は、単純なことだが、ウソつきな点である。

 その前に、だいぶ前に書いたことなのだが1つ補足しておきたい。

 過虐なる暴力性は新左翼全体にわたる潜在的体質なのではないか、と書いたが、そういう言い方ではあたかも新左翼に属する人間だけが異常であるようなイメージを与えてしまう(体制側デマゴーグは意識的・無意識的にこうした言い方をする)ので、次のように訂正しておく。

 つまりそうした悪しき性向は、かつて中国大陸で元は善良な小市民だった日本軍兵士が、およそ考えられる限りの残虐行為をやり尽くしたのに見られるように、全ての人間について、潜在的普遍的に備わっているのではないか。
 すなわちそれは人間の業、悲しい性ともいうべき本能なのではないか。
 だから決して新左翼の特性として限定すべきではない。

 さて5つ目の点についてだが、革マル派はいたる所でウソをついている。

 ここで明確にしておかねばならないのは、「ウソ」と「誇張」は違う、ということである。
 誇張ならば中核派も、機関紙上の応酬で多用している。
 それも問題がないわけではないが、なにぶんにも一触即発の党派闘争上のことであること、それとまがりなりにも事実に基づいていること(基づこうとしていること)から、いくらか許容できる。

 しかしウソは許せない。
 これは物事の根本であろう。
 特に政治運動上においてはより一層のストイックさが要求される。
 なかでも革命運動においては、ウソは絶対悪と見做されなければならない。

 しかるに革マル派は平気でウソを多用し、しかもそのウソの性質が、相手(中核派)を貶めるためという最悪なものである。
 権力に就くためにはウソを用いてもよしというのは帝国主義・資本主義者の謂である。

 2つだけ例を示そう。
 73年10月20日の“ミッドウェイ作戦”の成果を、革マル派はこう誇った。

「ウジ虫掃討作戦の展開――これによって、軍団長・小野正春の撃砕をはじめその40~50の『軍団』は半減し、基本的に壊滅させられた。しかも僅か十数個ばかりのその糞つぼも完全に叩き割られ、彼らは残る2つ3つの糞つぼ4畳半に20~30の残党全てを押し込んで、夜も眠れぬ日々を送っている有様である」((下)、20~21ページ)。

 ところが内部文書(『吉川文書』)ではこう言っているのだ。

「出血させるような闘いはほとんどやれていない。軍事的ダメージは完全ではなかった。(略)中核はまだやる気だ。
 R(革マル派)内部の若干の問題点。ビビる人間がかなり出ている。つっこめといっても動かなかった部隊が出た。武器のエスカレートについて反撥する傾向が一部にある」。

 裏と表を使い分けている。
 ブルジョアのやり口である。
 結果的に、最初から実相をさらけ出し、真摯に同志の対応を求めていく方が、くだらない誇張により戦意高揚を煽るよりも団結が増すのではないだろうか。

 73年11月2日に、中核派が元中核派活動家をテロった。
 革マル派はこの件に関してどう言ったかというと、
「『ブクロ派が恐怖と狼狽のあまり、彼を『カクマルだ』と錯覚して』襲ったもので、中核派が自分たちの元の仲間をテロってしまうほど、半狂乱の殺人者となっており、無差別テロに走っているということを証拠だてる話として、さかんに宣伝した」((下)、26ページ)。

 これに対して
「中核派は、この学生がその後革マル派の秘密同盟員となり、“早大戦争”中に革マル派が法政大学を襲撃したときの手引者であると主張し」(同ページ)たのだった。

 喰い違っている。
 ということは、どちらかがウソを意図的についていることになる。
 どちらがウソをついているのだろうか。

 立花隆はこう括っている。

「その当時はどちらが正しかったのかわからなかったが、最近発表された革マル派の内部文書では、この件が、“11.2H大のO(組織)員襲撃”という形で登場し、この事件を“無差別殺りくの開始”というトーンで書きすぎたために、組織内にビビリズムを発生させたと反省が加えられているから、やはり中核派の主張が正しかったのだろう」(同、26~27ページ)。

 ウソをついていたのは革マル派だったのである。

 6つ目は、いわばウソの体現化といえるような、偽装工作が得意な点である。

 例えば73年初夏、革マル派は法政大学を襲う。

「百数十名の部隊が一般学生のふりをして中に入り、黒ヘル、黄ヘル(民青)などで偽装し」たのだった。

 また同年7月4日の“中核村”奇襲の端緒においては、「前進社からだが、今日の行動が変更になったので開けてくれ」と偽装したのだった。

 私はこれを、断じて党派闘争上の一手段として認めない。

 75年4月には杉並区議選をめぐって“ニセ電話作戦”というのがあった。

「“たとえば、4月6日午後11時すぎ、南荻窪のAさん宅に『革新連盟』を名のる男から『こんどの選挙は長谷川に頼む』と電話があった。Aさんが『もちろん入れますよ』とこたえると、男は『長谷川はカクマルを皆殺しにするために立候補する。鉄パイプを買うのに金がたくさんいるから、資金かせぎが目的だ。20万円カンパしてくれ』ともちかける。Aさんが『20万円なんてとてもできない』と断わると、『カンパもしないで支持しているなんてふざけている』と恫喝する。Aさんが『20万はとてもできないが、できるだけのことはする』と答えると、一たん切って12時すぎにもう1度かけ、『実はオレはカクマルだ。中核はおまえのカンパで鉄パイプを買っている。おまえも殺しの同罪だ。覚悟しろ』『自己批判料を50万円払え』と脅迫する。
 Bさん宅には同じく深夜に電話がかかり、『中核派』を名のって『長谷川は中核派の親玉だ。長谷川を支持しろ。このあいだは、川崎で女のカクマルをやった。あのときは、頭をぶちわって真赤な血がふきだし、胸がスーッとして気持よかった。カクマルの生血をすわないと生きていられない』とグロテスクなことをならべたて、Bさんが『それでは支持できない』というまで30分でも1時間でもネチネチと話しつづけた。
『3票必ず入れますよ』と答えた下井草のCさんには、『ポスターはりを手伝え』とか『求殺隊に入って一緒にカクマルを殺せ。反革命を殺せないものは反革命と同罪だ』などと脅迫した”
 こうした電話が区民に片端からかけられ、それがほんとに中核派からのものと思い、杉並革新連盟へ抗議をしてくるものが毎日数十件、警察へ届けられたものが全部で2000件に及んだという。(略)また、こうした電話の内容を記して、
『まったくなんということでしょう。最近世間を騒がしている内ゲバ殺人の専門家=中核派は、その代表である長谷川を区議会に送るために、こんな前代未聞の電話作戦をやっているのです』
 と、“電話でおどかす長谷川を杉並から追放しよう”というビラが、『杉並の革新をめざす会』という団体名でバラまかれた」((下)、189~190ページ)。

 これに対して
「中核派は、革マル派のこうした戦術を、“吐き気をもよおすようなファシスト的手口”と批判し、
『政敵の名を詐称するというやり方は、みずからの立場を明かし、みずからの言説に責任をもち、みずからの思想に責任をもち、自己の思想の実現のために全存在をかけるという政治組織としての最低限の原則さえふみはずしたものである。かれらは、自己のイデオロギーに完全に自信を失い、デマゴギッシュな『中核派批判』にさえ自信を失い、みずからデッチあげた『謀略』論や、『資金集めのための杉並選挙』なるデマもまったく説得力をもちえないことをさとり、ニセビラやニセ電話によって勝手に『中核派』のフィクションをつくりあげ、それを『批判』するという卑劣なやり方しかできなくなってしまったのだ。もはや革マルは、反革命的なイデオロギー集団でさえなくなりはじめている』
 といい、革マル派にはこうした戦術をとったことによって、“思想的死が刻印された”とした」(同、190~191ページ)。

 私もこの中核派の見解に、全く同感である。
 革マル派のやり口は、まさにありとあらゆる手段を駆使するというものである。
 目的のためには手段を選ばない。
 もちろんその手段がどんなに汚かろうが卑しかろうが構っちゃいない。

 しかしどんな抗争にもルールがあるはずである。
 論争における決着が、あくまで発言の論理性で決するものであり、大声、がなり立て、一方的な発言などという論争手段が邪道であるのと同じように、党派闘争にも「最低限の原則」があるのだ。

 それが解らぬ者には、もともと人間社会についてどうあるべきかなどと理想を描き実践する資格などないのである。

 1つだけここで確実に言えるのは、中核派が自分の方からこのような「卑劣なやり方」に出たことは一度もない、ということである。

 己を偽って政敵の発言をこさえあげ、なおかつそれを己に戻って非難するのごときは、いかなる抗争においても、どんなことがあってもあるまじき手法である。

 そして最後の7つ目は、“他党派解体路線”である。

 これまでも虚心坦懐に聞いてほしかったのだが、これは特に虚心坦懐に聞いてほしい。

 63年4月1日、革共同は第三次分裂を起こす。
 その1つの対立点が、労働運動の戦術に関するものだった。

 黒田寛一氏の主張は、
「革共同以外の党派に指導されている労働運動は、いかに戦闘的であろうと、革命には役立たないのだから、すべからくこれを批判していくべし」((上)、93ページ)というものだった。
 これは革マル派の基本的理論である。

 これに対して本多延嘉氏の主張は、
「戦闘的労働運動がある場合には、これと手を組んで、その組織化に当たり、当局や共産党などから攻撃があれば、共にそれを防衛し、その中で、他党派より革共同が正しい政治路線をもっていることを宣伝して、労働者をこちらに獲得していくべきだ」
というものであった。
 これは中核派の基本的考え方である。

 この対立は、両派の基本姿勢の違いを実によく象徴している。

 で、黒田理論の実践化たる“他党派解体路線”は、どのように行われたか。

「この間、学生運動の世界では、マル学同(革共同の学生組織。第三次分裂ではほとんどが革マル派に流れたので、その体質は革マル的)が他党派を自己の傘下にひき入れようと、さかんに活動していた。しかしそれは、他党派を他党派と認めて、共闘しようというのではなく、他党派を解体して、マル学同に吸収してしまおうという戦略だった。そのためには、全学連17回大会で用いたような、ゲバ棒による“武力制圧方式”もさかんに用いられた。他の党派が集会を開いていると、そこに押しかけて、マル学同との“統一行動”を主張して集会を妨害するという“押しかけ統一行動”が、『他党派の解体を促進するための統一行動』という名のもとにおこなわれた。
 解体するほうはいいかもしれないが、解体の対象にされるほうはたまったものではない。この戦略は、他党派の猛烈な反発を招く」((上)、88ページ)。

 この戦略がもたらすものは、団結とは対極のものだろう。
 まるで新左翼諸派の団結を阻害し攪乱分裂させる要因として革マル派があるようである。

 この方法論は全くの誤りである。
 仮りに“武力制圧方式”による他党派解体、自派への糾合が成功したとする。
 革マル派は、そうしてできた組織の維持がうまくいくと思っているのだろうか。

 人間には感情というものがある。
 ロボットではないのだ。
 人間の団結、連帯ということをかように軽視して、何が革命党か。

 その点本多氏が用いるのは武力ではなく宣伝、すなわち言論である。
 対権力戦は別として、大衆・活動家の獲得に言論をもってするというこの点こそ、まっとうな政治運動の姿である。

 これは常識以前のことである。

 ともに革命を目指す諸派がいる。
 微妙に革命理論に違いがある。
 理論の違いなのだから、その党派闘争は言論によってなされるべきである。
 どうしても妥協点が見つからないならば、小異を捨てて革命成就という大同につくという選択もあってよい。

 それほど、何は置いても革命にとって重要なのは団結、連帯の実現である。

 その団結を最も妨げる結果をもたらす手法を正しいとし、理論の相剋を暴力によって超えようとする革マル派。
 何から何まで革命に逆行する。

 暴力とウソ。
 肉体的苦痛と精神的屈辱。
 この革マル派の行動様式を特徴づける2点は、ともに相手を侮辱する、ひいては団結をブチ壊すという点で共通する。

 そもそも革命は何を目指すのか。
 暴力やウソのない社会を目指すのではないか。
 権力を得るためにドロドロした罠、ウソ、権謀術数を用いるという、そういう現実の政治世界をなくしたいからこそ、立ち上がったのではないか。
 
 そういういわば革命の原点といったものを、革マル派は完全に忘れているとしかいいようがない。
 もしそうでないとしたら、もともと革命なんぞ目指していたのではなく、何者かの手によって革命運動の攪乱要因として新左翼の中に放り込まれたとしか考えようがない。
 少なくとも行動現象を基にして考察すると、そうとしか結論づけられない。

 7点と最初に書いてしまったからもう付け足せないが、まだ他にも、
早稲田の学校当局とうまくやっているという、支配や権力といったものとの癒着体質、
相手から浴びせられた批判文句をそのまま返すという(例えば権力の謀略説)なんともいやらしい反論方法、
そしてこれは大きいのだが、
敵対党派のトップを的確に殺すという点(相手を怒らせ連帯運動に水を差すという点でこれほど効果的なことがあろうか)
など革マル派イカサマ論の根拠はいくらでもありそうである。

 ただ、全面的に他の新左翼諸派が正しかったかというと、彼らにも落ち度はある。
 もっと徹底的に革マル派を排除すべきであった。
 無視すべきであった(もっとも、自派の指導者を殺されては無視もできないだろう。この辺が革マル派の狡猾なところだ)。

 少なくとも、諸派を一派に統合するくらいの大同団結があってよかった。
 なぜいつまでもバラバラに分裂したままだったのだ。
 やはり共闘というレベルが限界なのか。
 夢のような話と言われるだろうが、反革マルということで諸派連合が成立していたら、事態は違ったはずだ。

 また、もう1つ解せないのは84年に起こった中核派VS第4インターの内ゲバである。
 詳細はわからないが、これはショックだった。
「革マル派ひとり悪者説」が成り立たなくなる。

 私の革マル派イカサマ論は以上のとおりである。
「原案vol.9」所収(1994・11・27、23歳)


③中核VS革マル戦争における死者(70・8・4~75・9・12)

*凡例…左より、◇=中核派 ◆=革マル派、日付、名前(()付きは死にまでは至らず)、(年齢)、【肩書】

1.◆70(昭45)8.4 海老原俊夫 (21) 【東京教育大3年生】
 内ゲバリンチ殺人初の犠牲者、中核派沈黙、革マル派糾弾大キャンペーン、中核派大打撃

2.◆71(昭46)10.20 水山敏美 【美術学院生】
 中核派“開き直り的”沈黙、革マル派「中核派絶滅」宣言、テロ部隊組織化手がける

3.◇71(昭46)12.4 辻敏明 【京大生・マル学同副委員長(幹部)】
4.◇同日        正田三郎 【同志社大支部キャップ】
 中核派「無条件かつ全面的な宣戦布告、全面的せん滅戦争」宣言、K=K連合論の起こり、「革マル派」を「カクマル」と表記して反革命規定、革マル派も中核派を事実上反革命認定

5.◇71(昭46)12.15 武藤一郎 【革共同三重県委員長】
 中核派、権力と革マルとの二重対峙戦略的防御期、革マル派一方的攻勢

6.◇72(昭47)11.9 川口大三郎 (20) 【早大文学部2年・シンパ】
 殺し合い内ゲバへの契機、革マル派おざなりな自己批判、実行者2人自己批判、転向者視

7.◆74(昭49)1.5 (吉川文夫)*植物人間化 【九州地方委議長(ナンバー2。“東の朝倉、西の吉川)”】
 中核派、『吉川文書』奪取の大戦果、革マル派、中核派を
正式に反革命規定

8.◆74(昭49)1.24 富山隆 【活動家・東大生】
9.◆同日        四宮俊治 【活動家・東大生】
10.◆同日       矢崎知二 【活動家・横浜国大生】
 「この1・24にたいしわれわれがとった態度とそれにもとづく次の行動は、それ(殺害自体)に劣らず決定的だったのである。われわれが1・24の勝利を謳歌したこと、その正義性、革命性、道義性を自信に満ちて公然と表明したこと(略)は凄まじい影響を与えたのだ」(『革共同通信』)

11.◆74(昭49)2.8 比嘉照邦*誤爆 (21) 【琉球大生】 
 「革命的制裁活動に反動的敵対をなしたカクマル分子比嘉某の徹底的せん滅」(中核派)

12.◇74(昭49)5.13 前迫勝士 (37) 【東京東部地区委員長】
 第一次法政大会戦(中核派25名重傷)において、革マル派「無条件降伏勧告」出す

13.◆74(昭49)6.7 小野正裕 【大阪産業大軍事責任者】 
 「流された革命の血は、それを数倍、数十倍する反革命の血によりあがなわれねばならない」(中核派)

14.◇74(昭49)9.10 高橋範行 (25) 【「中央武装勢力」隊員・全逓労働者】
 現役労働者初の犠牲者、中核派革命的等価攻撃を謳う第一次産別戦争宣言

15.◇74(昭49)9.24 中山久夫 (25) 【関西部落研指導者・地区委員】
 12日後の10月6日死亡、革マル派、9月23日から権力の第二次謀略開始と分析

16.◆74(昭49)9.26 *笠掛正雄 【自治労労働者】 *なぜか「実質上の虐殺」と認められているにもかかわらず死者総数にカウントされていない 
 神保町会戦(中核派50対JAC150、革マル派重傷5名を出す中核派の大勝利)において

17.◆74(昭49)10.3 山崎洋一 (30) 【全逓荏原支部書記長】
 「高橋範行同志虐殺の首謀者」(中核派)、「脳内に指が突っ込まれた跡がある」(革マル派)

18.◇74(昭49)10.15 佐藤和男 (23) 【金属労働者】
 ほぼ即死、革マル派スパイXだとする、「これはまたなんというひどいでたらめな主張」(中核派)

19.◆74(昭49)12.1 氏名不詳 【最高指導部】
 革マル派の西日本秘密最高司令本部等秘密アジト3ヵ所同時襲撃において、権力の第三次謀略(革マル派) 

20.◆75(昭50)3.6 難波力 【「解放社」最高責任者】
 「75年決戦の帰趨決する大戦果」(中核派)、権力の第四次謀略開始(革マル派)

21.◇75(昭50)3.14 本多延嘉 【書記長・最高指導者】
 対革マル戦争激化・泥沼化の決定的要因、「革マル派一人残らずの完全せん滅」宣言

22.◆75(昭50)3.20 岡本良治 (25) 【全逓足立支部青年部長】 
23.◆同日        中島章   (28) 【全逓北部小包支部青年部長】
 本多書記長虐殺後最初の“完全せん滅”テロ、「まず中島は、全身をバールとマサカリで切り刻まれたうえに、その頭に自らのスコップを突きたてられ、虫の息となって横たわった」(中核派)

24.◆75(昭50)3.20 西田はるみ 【川崎市役所職員】
 女性初の犠牲者、革マル派、「直対応的応酬の権利を一時留保する」
一方的停止宣言

25.◆75(昭50)4.1 船崎新 【千葉県委員長・JAC襲撃隊長】
 74年1月25日、弟が間違われて襲われ3ヵ月の重傷、同年5月15日には本人も既に一度襲われていた 

26.◆75(昭50)4.26 服部多々夫 【「解放社」責任者】
27.◆同日         鈴木和弘  【JAC隊長・早大生】
 革マル派のあらゆる側面からの社会的孤立化キャンペーンにひるまぬ中核派、「テロの指令現場を襲撃」(中核派)、「組織内部に対する緊張政策として実行」(革マル派)

28.◆75(昭50)5.7 竹原寿 (41) 【教育労働者キャップ】
 鹿児島幹部秘密アジト襲撃において、「長さ10cm、重さ8kgもある鋳型鉄筋で頭を集中乱打」(革マル派) 

29.◆75(昭50)6.4 氏名不詳 【関西JAC】
30.◆同日        氏名不詳 【同上】
31.◆同日        氏名不詳 【同上】
 “関西大会戦”(大阪市立大における正規軍戦、中核派は関西JAC35名全滅(うち完全せん滅3、重傷4)の完全勝利と主張)において、「“逆12・4”(71年の辻・正田虐殺への復讐)の歴史的偉業」(中核派)、「大阪府警が黒ヘルを装って襲撃した第五次謀略」(革マル派)

32.◆75(昭50)6.19 藤盛広之 (22) 【全逓労働者】
 革マル派21人目の死者、「革共同両派への提言」(6月27日)の冒頭で触れられる

33.◆75(昭50)7.5 (菅恭平*虐殺寸前・意識不明 【中央大JAC隊長】
 中核派によると中部・千葉ブロックJAC隊長、3日前革マル派が中核派を
殺人罪で告訴

34.◆75(昭50)7.17 甲斐栄一郎 (20) 【関西JAC・立命館大3年】
 新橋大会戦(両派300名以上、逮捕者320名)において、「史上最大最高の歴史的勝利」(中核派)

35.◆75(昭50)9.12 田中玲彦 【JAC隊員・国学院大生】
 8月下旬から“秋期軍事決戦”、「9・12につづけ、第二、第三の9・12を」(中核派) 


以上、中核派9名・革マル派26名 
(1995・7・9、24歳)
 


ラベル:立花隆
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posted by nobody at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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