久々の書評、今回は「ぼくらの非モテ研究会」という自助グループを開催する著者による1冊です。
 非モテという言葉はいまやすっかり市民権を得ていますし、この概念と関連する「インセル」については本ブログでも度々取り上げてきたところです。

 本書は自らの語りが中心となり、男性当事者が非モテをどう捉えているのか、どうしてそのような自認をするに至ったのか、どのようにしてそこから脱するのかという点が議論されています。

男社会から外れる恐怖

 さて、本書で著者は、非モテがモテないことを重大な問題だと考える背景に、男社会からの脱落を恐れる心性があると指摘します。一般的に、男尊女卑的な社会においては、男性は女性を獲得できて一人前であるという理解があり、この理解を前提とすると、モテないことはそのままその男性が半人前であることを意味してしまいます。男女で交際することが当たり前となっている社会では、みんながしていることを自分はできないという感覚も加わるでしょう。

 この自分は半人前だという感覚を、著者は「未達の感覚」と呼んでいます。そして、この感覚は非モテ当事者にコンプレックスや自尊心の低下をもたらします。
 一方で、非モテ当事者の多くは、同性である男性からの「からかい被害」にあっていることも指摘されています。これも、卵が先か鶏が先かという問題はあるものの、非モテ=半人前であるという社会的な規範に基づき、犬の群れのように男社会の中で序列の形成が行われた結果であり、同時に序列を形成する過程でもあると言えるかもしれません。

 著者も指摘するように、男社会は様々なものでほかの男性と自分を比較し、競争し、マウンティングをとる社会です。かつて『犯罪学者、恋愛工学とやらを分析する 恋愛工学の思想編』で指摘した「恋愛工学」の世界では、ナンパして性的関係に至った女性の数を競い合う傾向があります。そのために事件にも発展しました。

 こういう背景から考えるに、非モテの問題は本当にモテないことではなく、男性社会の中で優位な立場に立てない、社会的な承認が得られないという問題ではないかとも思えます。

 本書の後半では、非モテ当事者たちがどのようにこの問題から脱するかが論じられています。その中で1つの可能性として、共通の趣味がある集団に参加することが挙げられていますが、これはその集団が共通の趣味を楽しむことを目的としており、集団間の競争が重視されていないので役立つという背景があります。また、「非モテ研究会」それ自体も非モテ問題解決に寄与していますが、これも、非モテという問題をあけっぴろげにしてもそこで否定されない、集団の劣位にあるとみなされないという信頼が影響していると思われます。

女性へ攻撃を向ける男たち

 ここで、非モテとは少し違う話題になるかもしれませんが、やはりインセルについて取り上げないわけにはいきません。もっとも無関係というわけではなく、非モテの最悪の未来がインセルであることは否定しがたい事実です。

 そして、現時点でも、ある表現を利用した行政を批判した女性への(批判ではなく)攻撃が殺到していることから、この話題を扱う必要があると言えるでしょう。こうした攻撃はもっぱらオタクを自認する人々が主導となるものであり、こうした人々は非モテを自認する人々と大きくその層が被ります。

 さて、前節で非モテの問題が、男社会において彼らが半人前であり劣位に立たされる問題であると指摘されました。そういう問題に直面した人々がとりえる行動は、最終的に自分がその集団から外れないようにするための行動です。

 実際に、本書でも、からかわれたりいじられたりすることを受け入れる(ように見せる)ことで、集団からの拒絶を回避する人たちの実例が挙げられていました。
 まぁ、そうした回避方法は(当人にとってあまり心地いいものではないけれど)他者を傷つけないぶん、まだましだとも言えるでしょう。問題は、他者を傷つける方向に向かう回避方法です。その実例が「インセル」の態度、あるいはフェミニストを攻撃し続けるオタクの態度なのではないかと思われます。

 オタクたちは「オタク男社会」という男社会の1つの亜種に属しており、そこでは非モテであることはさほど問題視されず、非モテであることは集団の劣位にあることを意味しません。ここだけを見ると「非モテ研究会」みたいに見えるかもしれませんが、実際のところ実像は全く違います。なぜなら、「非モテ研究会」のような集団がそもそも構成員に序列を付すことを否定する集団である一方で、オタク男社会はあくまで男社会であり、集団の序列は未だに存在しているからです。

 そして、オタク男社会では外集団である女性を攻撃することが、集団内での序列を保つ1つの方法となっています。この集団の期待から外れる人々、例えば私のようにフェミニズムに親和的なオタクはオタク男社会では劣位にあるとみなされ、「フェミ騎士」などと揶揄されることとなるのです。

 逆に、外集団の女性を苛烈に叩くことができる人は、この集団であがめられるようになります。最近ではこの規範が過激になったことで、オタク趣味にさほど詳しくなかったり親和的でなくともアンチフェミニストとして過激な言動を繰り返せばオタクからの支持を得られるという珍妙な転倒すら見られます。あるいは、本来オタク集団の上位に立ちそうな創作者たちも、フェミニズムに親和的なら叩かれ劣位にあるとみなされます。

 ちなみに、こうしたオタク男社会では、オタクではない男が叩かれることは(フェミニズムに親和的である場合を除けば)あまり多くありません。おそらくですが、これはオタクたちが一般的な男社会に対するコンプレックスを抱いており、男社会全体で見れば自分たちが劣位にあることを自覚しているためではないでしょうか。彼らは特に体育会系および政治的経済的権力者を男社会の上位にあるとみなしており、このような集団を攻撃することは稀です。逆に言えば、体育会系でもなく権力もなさそうな男集団、例えばヤンキー系の集団に対しては、DQNなどという侮蔑的な言葉を用いて(あくまでネット上の非対面で)攻撃を仕掛けることもあるように見えます。

非モテから脱するために

 では、こうした非モテの問題から脱するためにはどうすればいいのでしょうか。
 本書もまだ結論を出しているわけではないと思いますが、1つのヒントは前述のように、誰かを何かの基準で劣位にあるとみなす規範をなくすことでしょう。そもそも、コンプレックスは他者からの比較から生まれるものですから、不要なところで比較しなければコンプレックスは生まれないという理屈です。

 もっとも、人間は暮らすうえでどうしても他者と比較してしまう生き物ですし、ある程度の比較が必要な場面もあります。そのような事実を踏まえて、なお比較という規範をどのように解体すればいいかは悩ましい問題です。

 ですが、もしかしたら、こうした課題を考えて言語化すること、それだけでも重要なのかもしれません。自分の中にある感覚に名前を付けて理解し、少なくとも誤った対処を避けようとすることは、大きなプラスにならずとも大きなマイナスを避けられるだけで有益です。

 少なくとも、他者への攻撃に走りさらに被害感を募らせるよりはずっとましでしょう。

 西井 開 (2021). 「非モテ」からはじめる男性学 集英社