目次
左腕が裂けた日
僕が保育園に通っていた 5 歳頃の話です。
小さい頃の僕は普通の男の子と同じような、少しやんちゃで、よく家の中を走り回る子供でした。
僕には姉と弟がいて、よく 3 人で遊んでいました。
保育園から帰るとお母さんに、
「お風呂に入ってきなさい」と言われて、
弟と一緒にお風呂に入っていました。
お風呂から出てリビングにいくと、
先にお風呂から出ていた姉が言いました。
『あんたたちかけっこしたら?』
姉の一言で気合いが入った僕と弟は、
さっそくかけっこを始めました。
タッタッタッタッタッタッター
ドドドドドドドドドドドドドー
とにかく二人とも元気です。
ギャーギャー言いながらこれでもかと走り回ります。
次の瞬間
・・・
・・・
・・・
・・・
バリーンガシャガシャ!!
夜風が涼しい静かな夏の夜に、
ガラスが割れる大きな音が響きました。
そうです。
僕がその音を出した張本人です。
リビングにあるガラス戸に僕は左腕を突っ込んでいました。
そのガラス戸はリビングの床の高さから始まり、大人の背丈ほどあるガラスの二枚戸です。
僕の腕はガラス戸を突き破って、家の外に腕が出た状態になっていました。
僕は一瞬呆然とし、
少し遅れてきた痛みで泣きわめきました。
見たこともない量の血がしたたり、
恐怖で頭が真っ白になりそうでした。
その時、たまたまリビングにいた父が立ち上がりました。
ガラスに突き刺さった僕の腕を、
力いっぱい父は引き抜こうとします。
なんとか腕は抜けましたが、血が止まらないのです。
近くにいた母がお風呂用のタオルを持ってきて、腕に巻きつけていると、じわじわとタオルが赤く染まっていきます。
母親は血をこれ以上出さないようにと必死でした。
すぐに車に乗り、急いで病院に向かいました。
病院に着くと、すぐに手術する必要があると言われま
した。
若干 5 歳で体験する初めての手術。
麻酔を打たれ、意識が遠のきそうになりました。
まだ手術中だったので、気になって左腕を見ました。
なにやら得体のしれない物体が、手首あたりから出ていて、気持ち悪くなって見るのをやめました。
手術は幸い上手くいき、
無事に退院することができました。
あと少し裂けた位置がずれていたら、神経が断裂され、腕が一切動かなくなっていたと言われました。
今でも年に一度くらい腕がうずく時があります。
おそらく、取り除けなかった小さな破片がまだ腕の中に残っているからだと思います。
腕を引っこ抜いたガラスの上の部分がもう少しで落ちてきそうだったと父が言っていました。
5 歳の頃の細い腕にそのガラスの塊が落ちていたら、一体どうなっていたことでしょうか。
現在も僕の腕にはその傷があります。
いろいろな人と関わっても腕の裏の部分なので気付く人は少ないですね。
一応その傷がどんなものが載せておきますね。
小学生時代
小学校の頃は、学校が終わると一旦家に帰り、グローブとボールを持って通っていた小学校に行き、倉庫のコンクリートの壁に向けて、日が暮れるまでボールを投げたりしていました。
野球部には入っていなかったのですが、ボールを投げる事が好きで、駄菓子屋で売っていたビニール製のブヨブヨした柔らかいボールを使って変化球の練習をして一人で楽しんでいました。
それ以外にもその頃流行っていた、
ニンテンドー64 の「大乱闘スマッシュブラザーズ」などを友達の家に行って、夜になるまで良くやっていました。
おまり遅くまでやっていると、
友達の親に注意されるんですよね(笑)
スーパーファミコンの、
『ストリートファイター』という格闘ゲームも好きで、
コントローラーを激しく使っていると、
親指がこすれたり、指に豆ができたりして痛かった記憶があります。
近所の駄菓子屋にも良く行っていて、
チューチューアイスや 5 円チョコなどいろいろ買ってましたね。
スーパーボールや、クモや蛇などが当たるくじ引きをしたり、発砲スチロールでできた飛行機などを組み立てて遊んだりしました。
ミニ四駆のコースを持っている友達の家に行って勝負したり、遊戯王というカードゲームもよくやっていました。
息ができない生活
僕は小さい頃に小児喘息(ぜんそく)という病気を患っていました。
あなたもぜんそくという言葉を一度くらいは聞いたことがあるかと思います。
せんそくの発作が起きた時というのは、
100 メートルを全速力で走った後に軽く首を締められているくらいの呼吸のしずらさです。
それが、季節の変わり目に起きたり、運動をしている最中などに起きたりします。
しかも、その状態が何時間も続く事があるので、専用の吸入器を使ってその発作を沈めます。
発作がおさまるまでは息を吸っても吸っても肺に空気が入りません。
落ち着いている時の気道の広さが 10 割とすると、発作が起きたら 3~4 割ぐらいの狭さになってしまいます。
小学校の時は症状がひどくて、
100 メートル走や体育で運動をすれば、
ほとんど発作が起きてしまい、
その都度、吸入器を使って気道を広げて落ち着かせていました。
小学校から自宅まで徒歩 5 分なんですが、歩いて帰るだけでも息が苦しくて家に着くとすぐに横になっていました。
指が・・・
中学に上がるとあまり勉強をしなくなりました。
相変わらず友達と野球やゲームはしたりしていましたが、勉強のやる気が起きず、授業中は釣りの本を見るか、寝ていることが多かったです。
1 年の時のクラスメイトに勧められ、器械体操部に入りました。
バック転やバック宙返りはできるようになりましたが、練習中に何度も着地に失敗し、2~3 回骨にヒビが入ったり、骨折もしました。
左足を痛めた時は、足の裏が痛すぎて、
家の中をほふく前進のような感じで2 日ほど、はいずり回ったこともありました。
そんなある日、いつものように部活に行くと、友人がちょっかいを出してきたので僕は追いかけました。
部活で使う厚さ 20cm 程度で 1 畳分くらいあるマットの上に友達が乗りました。
僕は、ここぞとばかりにヘッドスライディングするような形で友達に飛びつきました。
すると、僕の左手薬指が友達の体操服に力強く引っかかったのです。
一瞬痛みが走り、おそるおそる自分の手を見ると・・・
薬指があらぬ方向に曲がっていたのです。
びっくりした僕は右手で一気に薬指を元の位置に戻そうとしました。
一発目である程度元に戻ったので、
急いで保健室に行き応急処置をしてもらいました。
が、指は完全には元の位置には戻らず、
今も若干指が曲がったままになってしまいました。
初めての裏切り
中学一年の時、初めて親友と呼べる友人ができました。
体操部に入ったのもその友人の誘いからです。
休み時間には、紙を丸めてテープでぐるぐる巻きにしたボールを投げて遊んでいました。
部活にいつも一緒に行き、
部活でも楽しく過ごしていました。
部活がない日や休みの日も
その友人や部活仲間と遊びに行き、
ゲームをしたり、公園や学校のグラウンドで野球をしたりしていました。
友人の家に泊まって、
お互いに好きな子の話をしたりして、
こういう関係が親友っていうのかなと思えた瞬間でもありました。
当時お金はほとんど持っておらず、
部活が終わってからは、スーパーの中にある休憩所で菓子パンなどを買って時間を潰していました。
そこへある人物が現れたのです。
その人物とはいわゆる不良で、
同学年ですが、あまり関わらない方がいい感じの人物でした。
その日は親友と二人でいたのですが、さっそく絡まれました。
「金くれや!」と一言。
「はよだせや!」ともう一言
親友も「どうしようか?」というような表情をしていて、少しの沈黙が続きました。
その不良は何やら、いろいろとヤバそうな単語を使っています。(当時は何を言っているかわかりませんで
した)
さらに不良はたたみかけます。
「はよ出せって言ってるやろ!」
すると隣にいた友人が僕の方を指さしました。
(おそらくこいつから金を取れという意味です)
不良の矛先がこちらに向き、決断を迫られました。
僕はしぶしぶ財布を出し、
財布の中にあった全財産 150 円を差し出しました。
「もう金がないから勘弁してくれ」と言うと、不良は去っていきました。
後にも先にもカツアゲされたのはその時だけですが、それ以上に親友に自分を売られたことがショックでした。
最悪二人ともお金を出すなら別に良かったのですが、
自分だけ嫌な立場から逃げる行為をした親友には、
今までの付き合いは何だったのかと思いました。
もしかすると、向こうは親友と思ってなかったのかもしれません。
その友人とは大人になってから同窓会で会いましたが、
どうもスッキリしない気持ちが残っていたので、
連絡先を交換して以来、特に関わりもないままです。
その親友にはその他にも数回裏切られました。
大人になって親友の噂をいろいろと聞きましたが、その後の人生は苦労していたようです。
やはり因果応報なのかなとも思いました。
中学時代はそういう人間の嫌な部分を見てきて、誰かを信じるのが少し怖くなっていました。
そして、その頃から小学校からの付き合いの友人と良く遊ぶようになりました。
ワカメと骨折
中学 2 年の時、修学旅行で沖縄に行きました。
始めて飛行機に乗り、
離陸着陸にビビりまくっていました。
離陸して高度が上がると、
飛行機の窓からは今までに見たこともない景色が広がっていました。
海の上、空高くから見下ろす景色、
まるで日本地図を見ているような感覚でした。
そして、高度がどんどん上がるにつれて耳がツンツン痛むのです。
なんだこれ?と思いながら誰かに教わった、
鼻をつまんで鼻息を出すという事を繰り返して、なんとかましになりました。
沖縄についてからは、首里城などの観光名所を回りました。
沖縄の名所の崖にも行き、高さ 20 メートルくらいはありそうな崖から、少し体を乗り出してヒヤッとしました。
観光名所を回った後は、
恩納村という場所のホテルに泊まりました。
ホテルから出たらすぐビーチという仕様です。
旅行に行く前にクラスのメンツがこんなことを言っていました。
「沖縄で泊まるホテルでは、蛇をぶつ切りにした料理が出てくるらしいよ、それも残したらいけないらしい!」というような会話をしていました。
僕はソワソワしながら料理が来るのを待ちました。
覚悟を決めて料理を見ると、
蛇に関係したものは何もなく、
普通に美味しい料理が出てきてホッとしました。
料理を食べ、お風呂に入って、同じ部屋のメンバーとトランプをしていると、消灯時間になったので、恒例の枕投げ開催です。
旅の疲れからかどんどん脱落していき、みんな爆睡に入ります。
2 日目は、ホテルの目の前のビーチで自由行動です。
底まで透き通った綺麗な海に感動しつつ、海水浴の開始です。
体操部のメンバーやクラスの違う知り合いと入り乱れながら海の中で遊びます。
潜ったり、海面に出たりと繰り返していました。
ある時、息継ぎをしようと海面に顔を出すと、
目の前にいる何者かが「おらー」と声を上げ、
僕の顔に手のひらいっぱいの海藻のかたまりを投げつけてきました。
僕は一瞬何が起こったのかわからなくなりました。
海藻を投げてきたのはまったく知らない奴です。
「なんだこいつ!」と思ったと同時に、
僕のパーンチですよ。
何回かパーンチしました。
なんだか手が痛いなと思ったら、
そいつはゴーグルをしていました。
僕は左利きなのですが、
左手の小指付近がもろに、
ゴーグルに当たってしまいました。
指がぶくぶくと膨れていきます。
同じ学校に通っていた幼馴染から、
「何やってんだよ笑」と馬鹿にされ、
いそいそと保健の先生の元へ向かいました。
先生に左手を包帯でぐるぐる巻きにされ、処置完了です。
修学旅行から帰った後も左手の痛みが良くなりません。
病院に行くと、「骨折してますね」と言われました。
しかも、骨折したのは指では無くて、
手首から小指の付け根にかけてある少し長めの骨が折れていました。
結構綺麗に折れていたみたいで、
自然治療じゃ治らないみたいでした。
「針金入れましょうか」と先生。
「ほんとですか?(-_-;)」と僕。
結局固い針金を 2 本、
骨に対してクロスする形で埋め込まれました。
それからどれくらいか経ち、針金を抜くことになりました。
先生がピンセットのようなものを取り出し、
左手の針金を入れた穴からぬるぬると針金を抜き出していきました。
なんともゾワゾワしましたが、
無事に治ってよかったです。
運命のいたずらか…
僕は中学三年間ほとんど勉強していませんでした。
たまに起きている時に授業の内容を聞いても全然わからなくなっていたので、また寝るという過ごし方をしていました。
受験勉強も何もせず、
いざ受験になるとテストが難しくてあまりわかりませんでした。
それでも、とりあえず面接ではハキハキと答えました。
僕が受けた高校は地方でもかなり下の方で、
クラスの中に数人いる頭の悪いグループが、
ギリギリ入れるようなランクの低い学校です。
他にも高卒の資格を取れる高校とは別の機関もあり
ましたが、高校の方に運よく受かったので、高校に通うことにしました。
高校の入学式がやってきて、
クラスのメンツはどんな人がいるのかと見渡していました。
しかし、どうやら中学時代の知り合いはいないようでした。
入学式が済み、高校生活のスタートです。
クラス全員で別の教室に移動し、
いろいろと受け取るために、あいうえお順にクラスメイトが並びました。
すると丁度後ろに、なんだか見たことがあるような人がいました。
?
?
?
「修学旅行で海藻投げつけてきた奴だ!!!」
お互い目が会うと、「あの時の!!」とドラマの再開のような場面になりました。
「久しぶりやね」と声をかけて、
相手も「おー久しぶり」と返してたので、
少し雑談してクラスに戻りました。
僕は高校に入っても相変わらずよく寝ていたので、軽いいじめの対象になりました。
授業中寝ていると後ろの席から、笑い声とともに消しゴムのカスが頭などに降ってきました。
嫌だなーと思いながらも特に反抗はせず、その場をやり過ごしました。
そういう生活が続くうちに、
クラスメイトと関わるのがおっくうになってきて、人を避けるようになっていきました。
今までそういう目に遭ったことがなかったので、結構ショックが大きかったのだと思います。
高校に入るまでは冗談を言ったり、
人を笑わすのが好きだったんですが、
段々それができなくなっていきました。
クラスの中で 3 人が仲が良さそうにしゃべっていて、その中の1人がトイレに行きました。
すると残った 2 人はトイレに行った友人の悪口を言い始めました。
それを近くで見ていた僕は、
誰も信じられないなと思い、
より殻にこもるようになりました。
それ以外にも色々な場面を見てきて人間不信にさらに拍車がかかります。
こうなると、誰かに話しかけられても愛想笑いしかしなくなりました。
そんな面白くない高校生活を続けていたのですが、ある時変化が訪れました。
その日は帰りのホームルームが終わっても少し教室に残っていました。
するとギターの音が聞こえてきたのです。
その方向を見ると、
海藻を投げつけてきた A 君がクラスの友人とギターを弾いています。
「何!?」と驚いていると、A 君が歌い始めました。
「え?めっちゃうまい!」とさらに驚きました。
しばらく彼の演奏と歌を聞きながら、感心しきりでした。
演奏が終わると僕は A 君に話しかけました。
「めっちゃ歌うまいね!」と言って話していると、
なにやら一緒にやっている相方がいないと言っています。
彼は「ゆず」の歌をアコースティックギターで演奏していて、2 人でやりたいと言っていました。
彼は僕に「一緒にやらない?」と一言、
僕からも一言、「じゃあギター教えて」
衝撃を受けたついでに相方まで引き受けてしまいました。
それからバイトをして初めてギターを買いました。
「ギターを弾けるようになったらモテるかも?」というような淡い期待も抱きながら始めました。
学校から帰るとギターの弾き方を覚えるために、自宅で毎日何時間も練習していました。
押さえられない「F」というコードに苦戦しながら、なんとか音が出るようになっていました。
ギターの「Fコード」というのは、
それを押さえられるようになるかどうかが、
ギターを挫折するかしないかの分かれ道になっている弦の押さえ方です。
なんとか「F コード」を押さえられるようになりましたが指がつりそうでした。
この頃から姉が持っていた、
「ゆず」の CD を引っ張り出してきて、
寝る直前までCDプレイヤーでずっと聞いていました。
ギターをある程度弾けるようになると、A 君と一緒によく練習するようになりました。
学校が終わると彼の家でギターを弾いたり、近くの公園に行って歌ったりしました。
つまらない毎日でしかなかった高校生活が、A 君のおかげで少し楽しくなりました。
それからも練習を続け、
彼と話していると「来年文化祭に出よう!」と言われました。
「文化祭か、すげーな」と思ってニヤニヤしていました。
そして高校 2 年になり、文化祭の時期がやってきました。
早速担当の先生に申し込みをして、出演することが決まりました。
それからは今まで以上に練習に力が入って、練習時間も増えました。
文化祭当日、緊張して心臓バクバクです。
何組かのバンドが演奏し、僕らの番がやってきました。
A 君の表情も緊張しているのがわかりました。
今までの成果を見せる時です。
緊張からか、すこし演奏のスピードが上がってしまい
ます。
しかし、1 フレーズ歌うと体育館の会場からキャーと黄色い声が聞こえてきました。
これまた初めての経験です。
なんだかこの感じ、気持ちいいなと思いました。
小さなミスはありましたが、
無事に演奏を終え肩の荷がおりました。
クラスの面々からもお前らすごかったなと褒められ、喜んでいました。
文化祭を見た女子から「メールアドレスを交換してほしい」と言われたと、関わりのあったクラスメイトから伝えられました。
「おっこれは!」と思いメールを交換し、
メールのやり取りをしていました。
しかし、相変わらず当たり障りのない会話しかせず、
「チーン…」終了です。
いまいちパッとしないまま連絡が途絶えていきまし
た。
そんなことはどうでもいいのです。
僕には音楽がありますからと、
言い訳をしてまた音楽にのめり込んでいきます。
そして高校 3 年になってまた文化祭のライブに出演しました。
二回目の出演なので前回より緊張はなく、リラックスして演奏できたので評判も上々でした。
ここまで続けてきたので、
2 人ともプロになりたいなという思いが芽生えていました。
その頃からお互いに作曲をするようになりました。
たまに良さげな曲ができるのですが、
後から聞いてみると、どれもそこそこの仕上がりです。
そんな日々が過ぎて行き、
徐々に就職活動をする時期に入りました。
すでに将来の事を考えている人は、早めに行動していました。
誰かの就職先が決まると、
担任が発表し、クラスメイトが拍手していました。
僕の家は貧乏だったので、
大学に進学という未来は最初から選択肢にありませんでした。
そもそも頭が悪かったのでどっちみち進学できなかったと思います。
とにかく働くのが嫌だったので、
就職活動を放置していました。
しかし、そうしている間にも周りはどんどん就職先を決め次第に焦り始めます。
「ミュージシャンとしてデビューするんだ!」と思いながらもまったくアテもないので、とりあえずお互い働きながら活動しようということになりました。
それからしぶしぶ就職活動を始めました。
しかし、その頃には誰も受けないような就職先が数件残っているだけでした。
就活アドバイザーのおっちゃんに相談すると、ここの会社は良いと思うよと勧められたので、受ける事にしました。
面接に行くと事務所の客室に呼ばれたので、そこで面接をしました。
意外と好意的な反応を得られたので、
これなら大丈夫そうだなと安心しました。
後日、会社から採用通知が届きました。
学校では恒例の就職先決定の拍手をされました。
それから学校生活は流れていき、卒業式を迎えました。
音楽以外には嫌な思い出しかないので、
干渉に浸ることもなく、A 君と普段のように帰っていました。
「これからは路上ライブをしよう」とお互いに話していました。
卒業してからすぐ、車の教習場に通い始めました。
教習場に通うための費用 30 万円をおばあちゃんに借りま
した。
教習場の中にある S 字カーブを運転していると、道からそれてタイヤを何度も落としました。
運動神経は良い方ですが意外と難しいものです。
教習所のコースで行う仮試験では、
試験後に試験官に「君、シートベルトしてなかったね」と言われました。
テンパりすぎてシートベルトすらしていなかったのです。
「ヤベッ、絶対落ちた…」と思いました。
その後、試験官からは、「シートベルトを忘れたのは良くないけど、運転は問題なかった」と言われ仮試験に受かりました。
そして、本試験当日。
一応勉強はしていたので、大丈夫だろうと楽観的。
控室で電光掲示板に自分の番号が表示されないか見守ります。
・・・
・・・
ない…(失笑)
落ちました。
中学の時の体操部のメンバーと、たまたま試験の日が一緒で控室で再会しました。
そのメンバーもその日が 2 度目の試験だと言っていて、意外と落ちている人がいるという話を聞きました。
その日は近くのコンビニでおにぎりを買い、
体操部のメンバーといろいろ話して家に帰りました。
そして、もう一度勉強しなおして本試験を受けにいくことにしました。
噂では一回試験に落ちて免許を取るのを諦める人も多いとか、なんとか… だそうです。
もう一度免許センターに行き、
集中して試験を受けます。
また電光掲示板がある控室に行き、結果を待ちます。
・・・
・・・
・・・
「番号があったー!!」と喜んで、やっと一安心です。
入社日数日前にギリギリ免許を取ることができました。
入社して叩きのされる日々
僕は家具を作る会社に入社しました。
主にスーパーや店舗などのお店の棚や、レジ台などを作っていました。
工場では家具を図面を見て、
まず自分なりの組み立て方を考えて、家具を仕上げていきます。
高校時代に図面を使った授業がありましたが、何分の一の縮小だからなんちゃらということを聞いていたら頭がこんがらがっていました。
そんなレベルだったので、
会社で図面を見せられた時は、ほんとげっそりしました。
工場には職人さんばかりで、
固い感じがする雰囲気に戸惑いました。
図面を渡されて説明を受けるのですが、どうすればいいのか全くわかりません。
先輩に詳しく聞きにいきますが、
それでもわからないのです。
そんな感じながらも、
働き続けて少しは分かるようになってきました。
しかし、3 年で一人前と言われる職人の技術というのはそう簡単には身に付きません。
何度も何度もミスを繰り返します。
いくらやっても上達しません。
会社に行くたびに自信がなくなっていきました。
「俺には無理だ」
「俺には向いていない」
「もうやりたくない」
それまで楽観的に過ごしてきた僕は、ここへきて長いネガティブ思考期間に入りました。
通勤中、仕事中、休憩中
あらゆる場面でネガティブな妄想が勝手に頭を支配するのです。
休日に息抜きのために出かけたのに、
仕事の事が頭によぎって落ち込むことも多くなっていました。
その後も先輩に怒られたり、
ミスをしたりしていくなかで、
完全に自信を失いました。
ミスをする度に笑われました。
「俺は何のために存在しているんだろう・・・」
何をやってもダメ、人とも上手く付き合えない。
安月給、頭も悪い、友達も少ない、彼女もいない。
自分たちの実力じゃプロになれないと思って、A 君と組んでいたフォークデュオも解散しました。
そして、僕に残ったのは劣等感だけでした。
そんな日々が続き入社して 1 年ほど経った頃、工場長から呼び出されてこう言われました。
「やる気がないならもう辞めるか?」
別にそんな素振りを今までしてきた訳ではありません。
おそらくこれ以上僕を雇っていても、モノにならないと判断されたからだと思います。
ここで辞めたら本当にろくでもない男で終わってしまうと思った僕は、瞬間的に「続けます!」と言い切りました。
「そうか、それならいい」と言われその場は収まりました。
このままじゃいよいよマズいと思った僕は、一度真剣に仕事に取り組んでみようと思いました。
相変わらずミスをしたり
指に切り傷ができたりと、
失敗は繰り返しますが、
真剣にやったおかげか
少しずつ仕事ができるようになってきました。
そんなある日の事です。
予想もしない事が起きました。
突然の知らせ
僕はいつものように仕事を終え、帰宅して休んでいました。
プルルルル・・・
プルルルル・・・
プルルルル・・・
自宅の電話が鳴ったので受話器を撮りました。
母親からの電話だったのですが、
いつものような穏やかな口調ではありませんでした。
「○○君が事故で亡くなったみたい」と言っていました。
一瞬何のことかわからなかったのですが、すぐに幼馴染の事だと理解しました。
「うそでしょ!」と返しましたが、
「本当だよ」と言われ表情が固まってしまいました。
僕には幼馴染が 1 人だけいました。
それは先ほど話にも出てきた、
修学旅行で骨折して僕を笑い飛ばした幼馴染です。
僕は小学校に上がる前まで、
2 階建てのアパートに住んでいて、僕は2階、彼は1階に住んでいました。
同い年だったこともあり、
毎日のように鬼ごっこをしたり、
めんこをしたりして日が暮れるまで遊んでいました。
小学校に上がってからも彼とよく野球をしたり、いろんなところへ自転車で出かけたりしていました。
彼とは同じ中学に入学したのですが、
彼はやんちゃなグループに入ったので、
次第に遊ばなくなっていきました。
それからはたまに見かけたとき話すくらいで、遊ぶこともなく社会人を迎えました。
彼が亡くなったという知らせを聞いた時は彼の家族や友人の連絡先も知らず、どうすることもできませんでした。
その日、母親が仕事から帰ってきたので詳しく話を聞きました。
母親は仕事の休憩中には、
まったく新聞を読まないらしいのです。
しかし、その日はなぜかたまたま新聞を手に取り、彼が亡くなったという記事を発見したそうです。
僕は何かしていないと落ち着かないので、
彼が昔住んでいたアパートに行きました。
もしかしたら彼の母親はこのアパートを出て行っているかもしれないと思いましたが、名前を見るとどうやらまだ住んでいそうな感じでした。
ピンポンを何回かしましたが、
誰も出てくることはなく、家に帰りました。
お通夜やお葬式の手配で彼の親は忙しくしていて、連絡も多分取れないだろうなと思っていました。
僕も次の日も仕事があるので、
仕方なく寝る事にしました。
翌日になり、いつものように仕事場に行きました。
その日はあまり作業がなく暇な日でした。
仕事場の先輩がこちらにきて話し始めました。
「昨日の夜、ここの近くで事故があったみたいだね」
と言われて僕はとっさに、
「それ、僕の幼馴染なんです!」と答えました。
母親から事故があった場所は聞いていたので、間違いないと思いました。
どうやらその先輩は、
幼馴染の友人の父親と友達だったそうです。
「お葬式に行きたいんですけど日程も何もわからないんです」と答えると、
その先輩が詳しく知っていて、日時を教えてもらいました。
誰かのお葬式に行くのは初めてのことでした。
会場に着くと中学時代の顔見知りが何人かいて、200 人程度集まっていました。
お葬式が進んでいきますが、
いまいち実感が湧きません。
1~2 時間ほど経ち、霊柩車で見送ります。
火葬場に着き、幼馴染と久しぶりの対面をする時がや
ってきました。
周りからはすでに、鼻をすする音がちらほらしていま
す。
火葬する棺桶を乗せるレーンに乗って、幼馴染は流れてきました。
そっと近づき、棺桶の中に横たわる彼の顔を間近で見ました。
涙があふれてきました。
彼と小さい頃遊んだ景色、
彼の笑った顔、怒った顔
夜の小学校のグラウンドに忍び込んで話したこと
彼と初めて殴り合いのケンカをしたこと
昔過ごした記憶が一気によみがえりました。
「なんで死んでしまったんだ」
「本当はいつか遊びたかったのに」
「もうすぐ 20 歳だからお酒でも飲めたらいいなと思
っていたのに」
そんな希望すら、もう持てないという現実を突きつけられました。
どれくらい泣いていたのかわかりません。
家に帰ってからもボーっとしていました。
お葬式の時に彼の母親に、
「家に一回来てよ」と言われましたが、
忙しくしていたので詳しいことを聞きそびれていました。
次の日になり、彼の家に行こうと思いましたが、
何時にいるのかもわからなかったので、
スーパーに買い物でも行こうと車を出しました。
自宅から出てすぐの、
通りに出るために左右の確認をしていました。
その瞬間です・・・
おばちゃんが乗った車が目の前を通り過ぎました。
こんな偶然あるのかと不思議に思いましたが、すぐに彼の家に向かいました。
彼の家には中学時代の不良メンバーが集まっていました。
気まずいなと思いながら、
用意してくれたお寿司を食べていると、おばちゃんが話し始めました。
彼は大通りをバイクで走っていて、
交差点に差し掛かかる手前で、
赤信号の方から車が飛び出してきて跳ねられたそうです。
彼は跳ねられてからも少しの間動いていたそうですが、すぐに動かなくなったそうです。
その日彼は、友人と遊ぶ約束をしていて、友人を迎えに行く途中だったそうです。
彼はおばちゃんに「何時に○○君を迎えに行く」と話していたそうです。
それから時間が経ち、おばちゃんは時計を見て、
「そろそろ迎えに行く時間じゃないの?」と声をかけ、彼は出発したそうです。
彼は出発した 10 分後くらいに事故にあいました。
相手の車の運転手は飲酒運転をしていて、財布を家に取りに行こうとしていたそうです。
おばちゃんの家の時計は結構ずれていて、迎えに行く時間より早かったらしいです。
もし、その時計の針が正確な時間を指していたら、事故は起きていなかったかもしれません。
でもそれは結果論であって、
何かが起きた後ではどうすることもできません。
僕の母親がたまたま見つけた事故の記事
僕がたまたま働くことになった職場
僕の職場にいた彼の友人の知り合い
そして、僕の職場から数分の事故現場
もしかすると、これは彼の運命だったのかもしれません。
当時の僕には、そう思って受け入れるしかなかったのです。
相変わらずの日々
幼馴染の件が一段落して、
また普段の生活に戻っていきます。
少しだけ仕事をこなせるようになりました。
僕が勤めていた会社では、
工場長に一人前になったと判断されれば一気に給料があがります。
その時の僕の給料は手取り 12 万円。
実家に住んでいましたが、教習場の講習代のローンや、
車のローン、食費や携帯代などの生活費を除くと手元に残るのは数万円程度でした。
朝 8 時から仕事が始まり 17 時に仕事が終わります。
仕事中ミスすれば、すかさず怒られます。
それも低いトーンで。
たいして回らない頭をこねくり回しながら、
必死に仕事をこなして、なんとか 1 日を終えます。
仕事が終わればいつも、次の日のお昼ご飯用の 200 円の弁当を買うためにスーパーに行っていました。
500円の弁当も目に付きますが、
僕にとって 500 円の弁当なんて夢のまた夢です。
スーパーに行く時間がない時は、
コンビニで 菓子パンを1 個買って、
それを昼ごはんとして食べていました。
会社の人から「それだけで足りるのか?」と言われていましたが、
「全然お腹減らないんですよ」と答えていました。
本当はお金がなくて、まともな昼ご飯を買うことができなかっただけなんですが。
会社時代にはその影響もあって、
体重が61kg くらいになっていました。
現在は 66kg くらいで、
ちょうど標準体重くらいなので、
結構痩せていたのではないかと思います。
周りからもガリガリと言われてました。
スーパーから帰って家ですることといえば、
テレビを見ながらネットサーフィンをしたり、
学生時代に遊んでいたゲームをやってみたり、
たまに家の近くの川にルアー釣りに出かけたりしていました。
学生時代以来、旅行に行くこともなく、
遠出して釣りにいくこともできませんでした。
そもそも釣り具を買うお金がないので、
中古のショップで激安ルアーを少し買っただけで金欠になっていました。
友達と遊びに行っても、
徹底的にお金を使わないようにしていました。
ファミレスでは食べたいメニューを横目に一番安いメニューを選びます。
ゲームセンターに行った時は、
友達と 500 円ずつ出し合って、
1000 円でコインを 200 枚手にし、
少しずつ使って時間を潰します。
映画を見に行くと1000 円以上かかるので、映画館にはほとんど行ったことがありません。
お金をかけない最強の遊びは自宅で友達とゲームです。
少しだけお菓子を買って、
夕方までひたすら画面とにらめっこ。
友人との飲み会も年末年始に 1 回くらいしか参加していませんでした。
本屋で時間を潰すこともありました。
タダで本を読めるので何時間も滞在していました。
観光雑誌が目につきますが、
立ち止まることもなく、釣りの雑誌を置いているコーナーへGO。
とにかく平日も休日も地元をぐるぐると回って遊び、同じことばかりして過ごす日々でした。
どこに行っても、僕と同じような過ごし方をしていそうな人がたくさんいましたが、たまにこんな人を見かけるのです。
・高そうな服を着ている人、
・映画館に普通に入ってジュースやポップコーンを買っている人、
・高そうな料理店に友人と楽しそうに入って行く人、
・釣場で見かける高い釣り具を持っている人、
・かっこいい車を乗り回す人、
・ファミレスで友人と旅行に行く話をしている人、
・ショッピングモールで大量に商品を購入する人、
・テレビで流れる公務員のボーナスの話、
・ボーナスをもらって海外旅行に行った友人の話、
どこへ行っても、目につくものに反応して、
お金がないことのみじめさを感じていました。
僕はといえば、
・服は特価品を買って本当に欲しい物は眺めるだけ。
・映画館の手前で面白そうな映画の紹介がモニターで流れていても、それだけ見て移動。
・焼肉屋や高そうなお店の前を通って「おいしそう」と思っても、入れないから素通り。
・何年も前に買った釣り具をボロボロになるまで使用。
・10 年落ちの塗装のはげた軽四自動車を乗り回す。
・ファミレスでフライドポテトを噛みつつ、ただの雑談をする。
・ショッピングモールでウィンドウショッピングするだけ。
・ボーナスゼロ、余裕もゼロな日々。
貧乏生活まっしぐらでした。
実家も自営業で貧乏でしたが、それでもキツイです。
その後も仕事を続け数年経ちましたが、
一人前と呼ぶには程遠く技術はまだまだでした。
僕はこれから先の事を考えてみました。
「あと数年これ以上ないくらい本気で仕事に取り組めば一人前になれるかもしれない」
「でも、そうなると一生この会社で定年まで働く予定で生きていくことになる」
いつまで経ってもなじめそうにない人間関係。
一人前になったとしても手取り 20 万円前後。
いろいろ考えた結果、
ここにはもう居たくないと思い退職届を出しました。
しばらくは失業保険をもらいながら休息しようと思いました。
車のローンなども払い終わり、
失業保険を貰えるようになると、
美味しいものを食べたり、
遠出して釣りに行ってみたりしました。
こんなに充実した幸せな時間を味わったのは初めてでした。
「お金に不自由する生活はもう嫌だ・・・」
そんなことを本気で思いました。
「失業保険がもらえなくなったら、給料の高い職場で働こう」そう思っていました。
幸せだった休息の時も終わり、
徐々にお金がなくなってきました。
父は建築関係の仕事を自営でやっていて、
忙しくなるから手伝って欲しいと言われたので、手伝いながら仕事を探すことにしました。
雨などで仕事が無い時は、
職業安定所に行き仕事を探していました。
しかし、探せど探せど安い給料の会社しかありません。
たまに高い給料の会社を見つけますが、どれもかなり専門性の高い仕事ばかりです。
資格など何も持ってなかった僕は応募すらできません。
給料が高い会社を見つけた時に、
何度か応募してみましたが、すべて書類審査落ち。
運よく書類審査に通って面接にいっても、
コミュニケーション能力が無さすぎて不採用。
いろんなところをことごとく落ちました。
貧乏な生活がどうとかか言う問題ではなく、
働けないのはさすがにまずいぞと焦り始めました。
しかし、いくら受けても落ちるばかり。
自分のコミュニケーション能力の無さに、ほとほと嫌気がさします。
インターネットビジネスとの出会い
とりあえず何か資格を取れば受かりやすくなるかもしれないと思って本屋に行きました。
資格の本が並んである棚に行こうと歩いている時のことです。
その途中にある別のジャンルの本棚でなぜか足が止まりました。
一瞬その本棚のジャンルを書いたプレートが目に入ったのかもしれません。
その本棚の中には、
「金持ちになる男、貧乏になる男」という本があり、表紙には衝撃的な言葉が書いてありました。
貧乏になる男は、
「汗水たらして働けばお金は稼げる」と考える。
そして、中年になったとき、
それまでの約 20 年間の労働に見合うお金がほとんど残っていないことに愕然とする。
これを見た時、僕は目をふさがれたような恐怖感に襲われました。
まばたきをしないまま本をみつめ、体が固まりました。
やがて正気を取り戻し、
本の中身を見ていきます。
すると次々に目を逸らしたくなるような言葉が・・・
・貧乏になる男は「宝くじ」に期待を寄せ、
金持ちになる男は「行動を起こす」
・貧乏になる男は自分が金持ちになるに「値しない」と考え、
金持ちになる男は自分が金持ちになるに「値する」と考える。
第 4 章の題名を見てハッとしました。
「自分を信じて努力しているか?」
紹介したどれもが自分にはできておらず、
ただ現状を勝手に嘆いているだけだと思いました。
この本は絶対読まないといけないと思って、
すぐに購入して家に帰り、読み漁りました。
本を読み終えた後、
「よし、僕はお金持ちになろう!」と決意しました。
しかし、その本にはお金持ちのなるための具体的な方法は書かれていませんでした。
お金持ちがどんな考え方で毎日を過ごしているか、ということしか書かれていなかったのです。
いくら考えてもどうしたらいいかわからないままでした。
それから数日経って、
家でネットサーフィンをしていると、
インターネットを使ったビジネスで稼いでいるという方のブログにたどり着きました。
一年間で数千万稼いだ実績があり、
日本各地を飛び回りながら、旅行をしたり、美味しいものを食べたりと僕とは正反対の生活をしていました。
その方は「せどり」という稼ぎ方をしていました。
せどりとは、電器屋やおもちゃ屋などいろんなお店に行って安い商品や、数年前に発売された品薄の商品などを仕入れてネット通販会社「Amazon」で販売して利益を出すビジネスです。
当時は、ネットで稼ぐと聞くと怪しいイメージしかなかったのですが、それよりもこれからの生活を変えられるなら賭けてみたいという思いが勝りました。
僕の地元はあまりお店がないので、
「電脳せどり」という方法を試してみました。
電脳せどりとは、ヤフーオークションやネットショップなどにある安い商品を仕入れて Amazon で販売する方法です。
電脳せどりでは、パソコン 1 台あれば日本中どこにいてもインターネット上から仕入れができるので、地元にお店が少ない僕は電脳せどりをやることを決めました。
常識が消えた日
実践を始めて数日経った日の事です。
Amazon とヤフーオークションをにらめっこしていると、恐ろしく価格差がある商品に出会いました。
その時は、当時よく見ていたアニメのフィギュアを調べていました。
そのフィギュアは Amazon で 2 万円で販売していました。
商品の売れゆきを調べるサイトを見ても、それくらいの価格で売れているようでした。
早速その商品がヤフーオークションで販売されていないか見てみると、
・・・9 千円?
過去に落札された相場も見てみましたが、過去に出品された同じ商品も 1 万円前後で取引されていました。
「これめちゃくちゃ儲けが出るぞ!」
鼻息を荒くした僕は、
早速オークションに入札しました。
数日後、最高額で入札したので落札することができました。
取引相手から商品が届くと、
フィギュアの箱が潰れないように安全な場所に保管しました。
Amazon の管理画面を使って、
その商品を 2 万円で出品しました。
出品してから 1 週間ほど経ったある日、
もう一度管理画面を開いてみました。
「商品が売れたので購入者に発送してください」
というメッセージが表示されていたのです。
「本当に売れたんだ・・・」
「いや、これはいたずらだからキャンセルさせるよ」
そんな事を思いながら、家にあった段ボールに商品を丁寧に詰め、購入者に発送しました。
しばらくして、購入者に問題なく商品が届いたようで少しほっとしました。
しかしまだ Amazon からお金は振り込まれていないので、返品されたらどうしようと不安でした。
それから数日経ち、Amazon から僕の口座に振り込む日がやってきました。
Amazon から「○○円を振り込みました」とのメッセージ。
「ほんとかよ」と思いながら、振込先の銀行の ATMに向かいました。
「ピッピッピ」
「暗証番号を入力してください…」
口座を見てみると明らかに残高が増えていました。
(当たり前ですが)
2 万円で売った商品は Amazon からの手数料を引いて18000 円ほどの売上になりました。
1万円を切るくらいで仕入れたので、
利益は 8000 円くらいになりました。
興奮した僕は家に帰り、
「よっしゃー!」と何度もガッツポーズをしました。
こんな大金を稼ぐのは初めてでした。
「これだ!」と思った僕は、
ひたすら電脳せどりを実践しました。
電脳せどりは利益が出た商品を何度も仕入れることができます。
日本中の誰かが同じ商品を保管していて、
一定の割合で同じ商品がヤフオクに出品されるからです。
稼げた商品をリスト化していけば、
どんどん1 ヶ月あたりの利益額が増えて稼ぎが安定します。
僕は手伝いから帰ると、
毎日 1 時間ほど電脳せどりを実践しました。
徐々に利益が増えていき、
3ヶ月目には月収15万円を稼げるまでになりました。
仕事現場への移動中やお昼ご飯を食べている時に、稼げる情報がメールに入ってくるので、少し確認して仕入れます。
たった数分で 3 千円の儲けや 5 千円の儲けが出ることもあり、昼飯片手に何千円も稼げる日々が当たり前になっていました。
ちょうどこの頃、いつものようにボロボロの車を運転していました。
交差点を右に曲がろうと思い、
右折レーンで待っていると、
突然ハンドルの前のタコメーターやランプの光が弱くなりました。
右に出していた指示器が今にも消えそうです。
どんどん光が弱くなり、
ウルトラマンの胸の光のように「ピコン、ピコン」と点滅しだしました。
これはマズいと思い、
対向車がいないのを確認して、
右に曲がった先にある 100 円ショップに停車しました。
すると一気にランプが消え、
エンジンが勝手に止まり、一切動かなくなりました。
知り合いの車屋さんを呼ぶと、
発電機がダメになっているらしく、
修理するには 10 万円以上かかると言われました。
この車はそれまでも何回も他の部分を修理に出していて、これ以上直してもまた修理費がかさむだけだと思い、以前から欲しかった普通車をローンを組んで購入しました。
その車に乗り早速遠出をして釣りにいきました。
普通車になり排気量も上がたので、
坂道でもエンジンがうならず、ペダルに軽く足を乗せただけですいすい上っていきました。
こんなに運転が快適になるのかと衝撃を受けました。
すっかりお気に入りの車になってあちこち出かけるようになりました。
特別な日でもない平日に、
焼き肉を食べに行きました。
値段も気にせず好きなだけ頼んでみました。
美味しいお肉でおなかも満たされ、
「食った、食った」と言いながら幸福感に浸っていました。
高そうなお寿司屋さんにも行きました。
板前が目の前で握ってくれたお寿司をほおばります。
「うまい!」と思いながらお腹も心も満たされていきます。
いつも行っている服屋にも行きました。
以前は買えなかった 3 千円くらいする服など、その時欲しかったものは全部買いました。
初めて実費で旅行にも行きました。
以前の車は ETC を付けておらず、
高速道路を使うとかなりお金がかかるので、県外にも旅行したことがなかったのです。
お金を稼げるようになって初めての経験をたくさんしました。
それからも電脳せどりをひたすら実践しました。
電脳せどりを始めて 6 ヶ月後には月収 30~35 万円くらい稼げるようになっていました。
これくらいになると、
以前まで抱えていたお金に対する不安はなくなりました。
ある程度自由にお金を使えるようになり、
買い物を楽しんだり、食べたいものをふらっと食べに行ったり、
釣りでの遠出や日本各地への旅行も頻繁に行けるようになって、毎日がかなり充実するようになりました。
映画が見たくなれば、
平日の夜に出向いて、
ポップコーンやフライドポテト、
ジュースなどを頼むので、
合計2500 円くらいかかりますが、
出費は全く気にならず純粋に映画を楽しめるようになりました。
ある程度稼げるようになると、
商品リストを増やすことをやめました。
稼げる商品リストを見て仕入れるだけにしたので、1 日 1 時間程度で作業を終える生活にシフトしました。
電脳せどりは、当時のかなり頭が悪い僕でもすんなり始められました。
商品を安く買って、
高く売れる場所で売る。
たったこれだけで 1 個数千円の利益が出ます。
それに毎月安定して利益が出るので、
あれこれお金に対して不安になったりすることもなくなりました。
さいごに・・・
長い僕のプロフィールを読んでいただきありがとうございました。
ここまで読んでくれたあなたは、
現在収入に不満があったり、
足りないと感じているからこそ興味を持ってくれたのだと思います。
お金を気にして、節約や我慢を重ねる日々に嫌気がさしていると思います。
僕もそうでした。
仕事をいくら頑張ってもなかなか給料は増えないし、長く勤めるほど仕事量が増えて負担も増します。
それでも生活するためには稼がないといけません。
目覚ましにたたき起こされ、
眠い目をこすりながら会社に行く準備をし、
職場という気が重くなるような場所に向かい、毎日必死に働きます。
仕事をこなすだけではなく、
口うるさい上司や嫌味を言ってきたりする人にも馬を合わせながら感情を押し殺す日々が続きます。
「生活のためには仕方ない」と・・・
それでも人間ですから、じわじわとストレスがたまっていきます。
しかし、ストレスを発散したくても給料のほとんどが生活費に消えていく日々。
それでもちゃんとやりくりしながら自分なりの楽しみも見つけて日々を送ってきたのだと思います。
僕はサラリーマンとして生きていくことに耐えられなくなり逃げ出しました。
何年、何十年と大変な日々を送ってきたあなたは本当にすごいと僕は思います。
僕はそんな日々を送ってきたあなたに、
これからはもっと毎日が充実して休日が楽しみで仕方ないような生活を手に入れて欲しいと思っています。
僕は誰でもお金に不自由することなく、幸せな人生を送るべきだと思っています。
我慢ばかりする人生なんておかしいです。
それぞれに個性があって、
やりたいことがあって、送りたい生活があるはずです。
僕等は働くためだけに生まれてきたわけではないです。
もっと人生を楽しんでいいんです。
もっと好きなことが自由にできる毎日を送っていいんです。
贅沢だとかいうのは誰かが勝手に決めたルールです。
そんなルールは関係ありません。
あなたの好きなようにすればいいのです。
あなたが楽しまなくて誰があなたの人生を充実させてくれるのでしょうか?
僕が貧乏から抜け出して幸せになれたように、あなたも幸せになることにブレーキをかける必要はありません。
どんどん欲しいものを手に入れて、
幸せで充実した人生を送っていいんです。
・欲しい物は欲しいと思ったときに買う。
・美味しそうなお店を見つけたら、そのまま入る。
・友人との遊びや飲み会などの出費も気にならない。
・観光雑誌を見て、普通の休日に旅行に行く。
・イベントやライブ、趣味の関係で遠出が必要になっても、すぐに行く決断ができる。
僕は今、こんな生活を送ることができています。
あなたも月に 10 万円程度の副収入があれば、こういう生活を普通に送れるようになります。
もうお金を気にして行動を制限したり、我慢を繰り返す毎日を送る必要はありません。
月に 10 万程度であれば、才能など関係ないです。
僕はかなり頭が悪かったですしね。
もしかすると、あなたは会社以外でお金を稼ぐということは未経験かもしれません。
知識がないと上手くいくものもいかなくなります。
稼げるようになるためにはどういう考え方が必要なのかということもわからないと思います。
僕が発行するメールマガジンでは、
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