親民社

「保守主義者であることが不可能な国」の人間として、保守主義者でいること

今野元『教皇ベネディクト16世−「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』評
令和三年八月十三日
アウグスト・ジグムント

序に代えて

「カール・ラーナー、ハンス・キュング、そしてヨーゼフ・ラッツィンガーはゲネサレト(ガリラヤ)湖の湖畔に立っている。彼らが眺めているのは、自身の元へ来るようにと招く水上に立つイエスである。それに応えて、まず年長者のイエズス会士であるラーナーが水の上へと一歩を踏み出す。彼は一度よろめいて倒れそうになるが、基本的に問題なく濡れずにイエスの元へと辿り着く。若きラッツィンガーがラーナーの示しに倣って踏み出し、堂々と水の上を歩いて問題なくイエスの元へと辿り着く。
ただ1人、一番自信があったはずのキュングが、水の中に溺れそうになる。彼はなんとか助けに入ったイエスの手にしがみつくことで難を逃れる。それを見たラーナーはラッツィンガーに耳打ちする。『あいつには水面下のどこに踏石があるか教えてやるべきだったよな』。
それに対して、ラッツィンガーは驚いて答える。
『踏石!?そんなもの、どこにあったとおっしゃるのですか?』」1

上に引用した、『マタイによる福音書』の第14章22〜33節における水上を歩くイエス・キリストとそれに対応する弟子たちの物語に範を取った例え話は、第二次バチカン公会議世代の立場ごとの差異を明確に表現している。一方にはキュングの進歩主義が、他方にはラッツィンガーの保守主義がある。前者は現実に奇跡が起こることに対して懐疑的であり、後者はその生起可能性を信じる。
両者を進歩主義の立場に寄りながら、半ば折衷的に架橋するのがカール・ラーナー、第二次バチカン公会議(1962-1965)において主導的な役割を果たしたドイツ人イエズス会士神学者である。

しかしながら、第二次バチカン公会議において妥協を見出していたはずの両者の立場は、1968年の世界的な学生運動の高まりを中心とした諸革命とともに、その間に再び大きな深淵を生む出すこととなる。
本書が描いているのは、そのようなドイツ・カトリック教会内部における、熾烈な政治的・思想的闘争である。

概観

本論の批評を行うにあたってまず指摘されねばならないのは、その圧倒的な重厚感および膨大な先行研究・参考資料の量だろう。索引・資料リスト含めて500ページ近くに及ぶこの本は、90年近くに渡る教皇生前退位までのヨーゼフ・ラッツィンガーの道のりを詳細に調査しており、それだけの量の仕事を遂行する著者の根気には目を見張るものがある。まずはその点に関して、著者に深い敬意を表したい。

まず評者から読者に向けて、カトリシズムというものがキリスト教の枠組みにおいてどのような特徴を持つのか説明したい。
そもそもキリスト教という宗教は古代ローマ帝国後期・末期において組織化されたものとして発達したのであり、当時の主要言語は古代ギリシャ語であったことから、初期の公会議はいわゆる東方正教的な要素の強いものであった。

その後フランク王国が強勢を誇るようになると、ローマ大司教がビザンツ(ローマ)帝国からの分離を図るようになり、フランク王国の助けを借りてラテン語世界の復権を試みるようになる。「カールの戴冠」で有名な800年という象徴的な年はまさしくラテン世界の復権の象徴であり、同時に「中世」と「古代」が明確に分離した年でもあった。
それは「西欧・中欧」と「東欧」が分離した年でもあり、ここからローマ・カトリシズムと東方正教の両者は全く異なる道を歩んでいくことになる。前者は「中世」という特異に動的な時代環境を作り出したのに対し、後者は全く歴史的に静的で不動な「古代」という環境に閉じこもり続けることになるのである。
そして、ローマ・カトリシズムの中からプロテスタンティズムという「近代」が出現することで西欧では歴史が弁証法的に動いていくのに対し、この近代化プロセスに全く関与しなかった東欧の東方正教はまるで歴史が円環的に動いていくかのようにほとんで変化しないままであり続ける。
すなわち、カトリシズムというのはプロテスタンティズムという名の進歩・革新思想と対峙しつつ如何に動的な「保守主義」を貫徹するか、常に変化する歴史の荒波の中で模索してきたのに対し、東方正教はそのような対峙の必要性がほとんどないまま同じ「保守思想」であり続けてきた、と言えよう。ここにカトリシズムの、他宗派と比べた時の大きな特徴が存在する。

以上の説明を行った上で、著書の内容に関してまず評価されるべきであると評者が考えるのは、ラッツィンガーが第二バチカン公会議に対して、公会議中と公会議後にそれぞれどのような態度をとったのか、ということを明確に著述している点である。
著者が述べているように、公会議中においてまだ若き神学者であったラッツィンガーは極めて博識でカトリック教会の伝統をよく学んでいる司祭であったにせよ、当時の教会保守派の古色蒼然たる頑迷さに対しては明確の批判的な態度をとっており、80年代以後に定着した強硬保守派のイメージとは正反対の革新派であった。2
若き日のラッツィンガーは基本的にドイツの神学者である自身を教会の中枢に位置するイタリア人司祭・神学者たちと比べて「進歩的」であると考えていた節があり、教権を見下していた事実があるのは面白い。

事実、第二バチカン公会議はイタリア人教皇であったヨハネス23世によって主催されていたものの、そこで神学上の議論を主導したのは基本的に革新派のドイツ人司祭たちだった。その代表的な人物がイエズス会士のカール・ラーナー(Karl Rahner: 1904-1984)であり、ラッツィンガーはラーナーのような年長の神学者たちが議論を展開していくのを公聴する立場にあった。よくラッツィンガーは当時から保守派であったように考えられるが、少なくとも公会議中においては若き革新派だったのである。後述するようにイタリアとドイツは特に地理的な意味においてヨーロッパの「中心」にあるわけだが、保守派のイタリア、革新派のドイツという両者の関係は、叙任権闘争を巡る時の両国の関係を想起させるようで興味深い。

また本書の詳細な調査を象徴している箇所として挙げられるのが、第二バチカン公会議でなされた決定がどのようなものであったかを、原典にあたって、通俗化された解釈に影響されずに明瞭に著述している点であろう。進歩派神学者・司祭たちの喧伝もあって、第二バチカン公会議でなされた決定が「カトリック教会の大幅な進歩」であるかのごとく捉えられることが往々にしてある。しかしながら著者が指摘するように、第二バチカン公会議は徹底的な守旧派と革新派の妥協であったのである。3

例えば、よく第二バチカン公会議の成果として挙げられる「エキュメニズム」(教会一致運動)に関してであるが、その方向性を定めたとされる『啓示憲章』は確かにカトリシズムとプロテスタンティズムを架橋する可能性を見出しているものの、同時に「聖書のみ」を確実なテキストとするプロテスタンティズムと、聖伝をも重視するカトリシズムとの差異をも明記している。また今でこそなし崩し的にカトリック教会における典礼は各国語中心となっているものの、公会議で採択された『典礼憲章』ではあくまでラテン語を基本的な使用言語としつつ、一部で各国公用語を使用する、という決定がなされていたことも、著者は明記している。

すなわち、第二バチカン公会議は「進歩派の大勝利」でも「カトリック教会の大幅な近代化」をもたらした訳でもなく、あくまでも保革の徹底的な妥協点、折衷案を見出したものだったのである。にも拘らずその後の半世紀近くの間に、カトリック教会は(特に典礼などの面で)大幅に「近代化」していく。
その過程は既成事実の積み重ねを中心とした、なし崩し的な変化の加速であった。公会議の時点で「革新派」だったラッツィンガーはこの過程に強い懸念を抱くようになったのであり、彼が「保守化」したのも、そのために他ならなかったのである。この事実を、著者はラッツィンガーの言動の変遷を追うことで見事に描き出している。

事実、第二バチカン公会議はキリスト教の歴史全体を見ても極めて大きな出来事であった。ローマ・カトリシズムと東方正教が完全分離する以前にも「全地公会」としての公会議は開催されていたわけであるが、325年の最初の公会議にあたるニケーア公会議以後の約1640年間に渡って近代化を部分的にでも受け入れるような公会議が開催されたことはいまだかつてなかった。
1964年に初めて、リベラリズムを許容するような決議がカトリック教会においてなされたのである。これは、公会議という巨大なイベントが初めて近代主義を許容した瞬間であった。その結果「リベラル派カトリック」などという、それ以前は考えられないような勢力が誕生することとなったのである。これは、東方正教はともかく、カトリシズムの「正当性」や「普遍性」とは何かを根本から問い、そしてそれを揺るがしかねない要素を孕んだ出来事であった。
そして、本来折衷的に接合されたはずのリベラル派と保守派は、公会議の決議の革新的な部分と保守的な部分のどちらに重みを置くかにおいて、大きな溝を生んでいく。この事実を我々は、現在の比較的リベラルな教皇庁と、強硬保守的な中東欧のカトリック諸大司教区の対立に見出すことができるのではないだろうか。

さて、本書の中核テーマとも言えるヨーゼフ・ラッツィンガーとハンス・キュングの熾烈な対立・ライバル関係に関してであるが、その始点を著者は1966年のラッツィンガーのテュービンゲン大学正教授就任時に見出す。
この年号は極めて重要であり、ドイツ・カトリック教会がいわゆる68年の学生運動とともに大きな分かれ道に突き当たったことを象徴しているからである。のちに激しく対立するようになる両者であるが、66-69年のラッツィンガーのテュービンゲン大学教授時においては、その不仲の萌芽こそ芽生えていたものの、まだ決定的なものとはなっていなかった。

とはいえ、この時の経験はラッツィンガーにとって「保守化」する上で決定的なものであったことは、間違いない。折しも世界中で同時多発的に大規模な学生運動、新左翼的革命運動が盛り上がっていたこの時代において、大学と同等、もしくはそれ以上に「権威主義的」だったカトリック教会やその司祭が運動家たちの攻撃の主要目標となっていたことは、想像に難くない。
テュービンゲン大学神学部もその攻撃と喧騒の真っ只中にあり、ラッツィンガーの望んだような静かな研究環境からは程遠いものであった。大学の講義室において講壇から一方的に御高説を垂れ流す教授司祭たちの権威を解体しようとする運動家たちの「革命」騒ぎは、ラッツィンガーにとって我慢ならないものであった。

69年、テュービンゲン大学に嫌気がさしたラッツィンガーが新設のレーゲンスブルク大学に移籍すると、残留したキュングとの亀裂は決定的なものとなる。70年にキュングが教皇不謬論を疑問視する著作を発刊すると教皇庁がキュングに対して査問を行うようになり、ラッツィンガーはその査問過程において中心的な役割を果たすようになる。
最終的にキュングはカトリック神学教授資格を教皇庁から剥奪されるが、69年以降のラッツィンガーとキュングの対立はまさしく「68年以降」の保革の対立構図に他ならなかったのである。

この過程を著者はテュービンゲン大学教授時のラッツィンガーの学生運動との対峙を詳細に描くことでいかにして彼が「保守化」していったのかを詳述している。4この学生運動期におけるラッツィンガーの毅然とした対決姿勢は有名なものであるが、著者の記述で評価されるべきはラッツィンガーの姿勢のみならず当時のキュングの姿勢をも一般的に流布しているイメージとは別の観点から著述している点である。当時のキュングは一時期のハーバーマスばりに学生運動に迎合したと思われている面があるが、実際はキュングも学生運動の「講義破壊」に相当困惑していたという事実がある。いくら急進的な革新派・進歩派の神学者だったとはいえ、学生運動の生み出す際限の無い無秩序の前にはどうにもならなかったキュングの姿は興味深い。5

1977-1982年のバイエルン・フライジング大司教職をへて82年にヴァチカンで教理省(かつての異端審問庁)長官に就任するラッツィンガーであるが、彼は2005年の教皇就任時までこの役職を務めることになる。
20年以上に及ぶ長期に渡ったこの期間にラッツィンガーが行なったことに関して、著者は彼の発言やインタビューを中心に著述しているが、評者にはこの箇所に関して、著者には重要な観点が抜け落ちているように思われる。確かにこの期間のラッツィンガーの発言は保守強硬的な姿勢を明示しているものであり、彼の政治的立場をしる上で重要な資料である。

しかしそれとともに重要なのは、この期間において彼が当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の右腕であったことであり、実質的に教皇庁のナンバー2であったことである。折しもヨハネ・パウロ2世が教皇に就任したのは1978年、サッチャー政権誕生の一年前であり、ラッツィンガーが教理省長官に就任したのは1982年、ドイツ連邦共和国においてCDU /CSUのヘルムート・コール政権及び本邦において第一次中曽根康弘政権が誕生した年であった。
ヨハネ・パウロ2世の誕生も、ラッツィンガーの教理省長官就任も、80年前後のレーガン・サッチャー・コール・中曽根などといった西側諸国における保守の反共ネオコン政権の成立と軌を一にするものであったことは、指摘されねばならないだろう。
教皇庁が保守強硬派で占められていく80年代は、当時の世界的な反共主義の流れの一環だったのである。ラッツィンガーはこの当時において、言うなればヨハネ・パウロ2世的な反共の後継者と(少なくとも当時の教皇には)みなされていた可能性が高い。評者には著者が長官時のラッツィンガーの言動を追うあまりこの時のラッツィンガーの立場の意義をあまり問うていないように思われる。

上述の本書の問題点は、教皇・ベネディクト16世時のラッツィンガーのありかたの描写にも当てはまるように思われる。ラッツィンガーが教皇に就任した2005年というのはジョージ・W・ブッシュ政権二期目であり、アメリカ合衆国において80年代以降、一時期はクリントン政権などを挟みつつも、基本的に共和党ネオコン派の支配の下で傍流に甘んじていたリベラル左派が大きな反攻を狙っていた時期であった。
またラッツィンガーの祖国では確かにこの年にメルケル政権が左派シュレーダー政権から政権を奪還していたものの、すでにメルケルの主導するCDUの「リベラル化」が図られていることは明らかだった.
このような世界的な、特に旧西側諸国におけるリベラル左派による「脱ネオコン」が虎視眈々と準備されている時期は、ラッツィンガーのような「反共の後継者」が教皇に就任するには余りにもタイミングが悪かったと言わざるを得ない。著者は教皇時のラッツィンガーの言動や政策を追うことに終始しているが、なぜ彼がリバラル左派を中心として、特に西側メディアに徹底的に攻撃されたのかを上記の時期的な観点から著述してはいない。同じ強硬保守派のヨハネ・パウロ2世は死に際しても世界的にその功績が大々的に称賛され他にも拘らず、である。

実はここに1989年以前の世界におけるドイツのカトリック保守派と東欧のカトリック保守派の根本的な差異がある。東欧のカトリック保守派は共産主義体制の打倒を第一に考えていたため、いわゆるリベラル化したカトリック勢力(解放の神学グループなど)を差異がありつつも共通性を認めて共に共産主義と戦う同胞とみなしていた。それに対して、ラッツィンガーのようなドイツのカトリック保守派は左翼リベラリズムの脅威を身近に感じており、彼らをむしろ敵とみなしていた。それゆえ左翼リベラリズムに対す態度に関しては両者の間に差異があり、これが両者のリベラル派からの評価の差異に直結していることは疑いようがない。
以上のような批判点はあるものの、改めて評価されなければならないのは、著者がラッツィンガーを「ドイツ人」の問題に焦点を当てて描いていることであろう。というのも、本評のタイトルにもあるように、特に戦後においてラッツィンガーが対峙しなければならなかった問題は、「カトリック保守主義」をドイツにおいてどのように貫徹するか、というものだったからである。これは「ドイツ」という国家と「ヨーロッパ」の関係のあり方そのものに直結する問題でもある。
元来、「ドイツ」にあたる神聖ローマ帝国は特に中世においてヨーロッパの中心そのものであった。地理的にも西欧というよりはむしろ「中欧」に属したこの帝国は、古代においてヨーロッパの政治的中心地であったイタリアに変わってヨーロッパの政治における主導権を握るようになる。

それゆえ、ここに「ドイツ」のアイデンティティを巡る厄介な問題が生じることになる。「ヨーロッパ」の中心地としてのドイツのアイデンティティは、宗教的観点から見れば明らかにカトリシズムであって、プロテスタンティズムではない。
しかしながら、ルター以降のドイツ・ナショナリズムを勘案すると、そのアイデンティティはプロテスタンティズムになる。ライン川をとるか、それともドナウ川をとるか。この問題は、遠く20世紀のドイツ思想にまで影響を及ぼしている。
マルティン・ハイデッガーとエルンスト・ユンガーという20世紀ドイツの右派知識人巨魁2人は、共通点がありながらもナチズムを巡っては明確に態度が分かれた2人であった。ハイデッガーは元来洗礼カトリックであったが、のちにカトリシズムを離れ、アリストテレスを含む古代ギリシャの存在論に「始原」を見出した。その彼は、ヘルダーリンを高く評価するなど、明確にプロテスタント的ドイツのナショナリズムを奉ずる人間であった。

対して、ユンガーは戦間期などにおいては明らかにドイツ・ナショナリズムに重きを置く思想家であったものの、ナチス政権以降徐々に「ヨーロッパ」のあり方に関心を見出していく。それは明らかに初期ロマン派の詩人・ノヴァーリスのキリスト教的ヨーロッパ論や、世紀末ウィーンの詩人・フーゴ・フォン・ホフマンスタールのヨーロッパ論を継承したものであった。そしてそのためか、最晩年にはカトリックに改宗する。言うなれば、ハイデッガーは20世紀のアリストテレスであるならば、ユンガーはそのマイスター・エックハルトであった。これはさらに、明らかに「ドイツ人」であったハイデッガーと、明らかに「オーストリア人」であったホフマンスタールの差異の問題にもなる。そしてこの差異は、「バイエルン人」であったラッツィンガーにも関わる問題になる。

宗教改革以来、ドイツ(神聖ローマ帝国)という地域はプロテスタンティズムという名の近代主義をとるか、それともオーストリア側のカトリシズムをとるかで常に激しい政治的闘争に巻き込まれてきた。その中でラッツィンガーの生まれたバイエルンは、歴史的にはオーストリアに近い政治的・地理的立場にあるにもかかわらず、「ドイツ帝国」の誕生に際しては、小ドイツ主義に与してオーストリア・ハンガリー二重帝国ではなく基本的にプロテスタンティズムを奉ずるドイツ帝国の一領邦となることを選択した。
このことは、ラッツィンガーを含むバイエルン生まれのカトリック・ドイツ人のアイデンティティ形成に深刻なジレンマを残すこととなった。なぜなら、ドイツ人でありながら同時にベルリンのプロテスタント君主であるホーエンツォレルン家に反抗せざるを得ない、ある種のマイノリティに置かれることになったからである。

ナチスが利用したドイツ・ナショナリズムも、戦後に福音派が次々と便乗していった様々なリベラリズム(特にジェンダー・イシュー)も、著者の言い方に従えば「西欧のオリエント」に属するカトリック教会にとっては受け入れがたいものであった。
であればこそ、近代以来カトリック教会は常にローマを起点にヨーロッパを「キリスト教的」なものにしようと試みてきたのであり、ラッツィンガーは21世紀においてその試みの最前線に立つ存在であったのである。

そのように考えれば、著者が言っているようにラッツィンガーの立場の変遷が極めて一貫したものであった、ということが明らかになるかと思われる。彼が当初第二次ヴァチカン公会議において革新派に属していたのは、古色蒼然たるカトリック教会を近代化させることで、西欧に浸透してヨーロッパをリードする存在に変貌させる意図があったからであろう。
だが、その目論見は裏目に出ることになる。なし崩し的な教会の現代化と、公会議の数年後にやってきた学生運動による革命騒ぎの有様を目の前にして、ラッツィンガーは「キリスト教的ヨーロッパ」を復活させるための方策を考え直さざるを得なくなった。そして彼が教皇に即位する頃には、カトリック教会の最大の敵であったマルクシズムが東欧においては崩壊している代わりに、西欧は全く味方ではなくなっていた。「ヨーロッパ」の中心である西欧は、対峙する相手となっていたのである。

特にドイツは、21世紀に入ってもはや「保守主義者であることが不可能な国」と成り果てていた。最後に「保守主義」を前面に出していたのはヘルムート・コール時代のCDU /CSUであり、メルケル政権に入ってから本来保守政党であるはずのCDUは保守主義を度外視するようになった。
そして、晴れてEUをリードする立場に立ったCDUの幹部たちは、ヨーロッパの「価値観」を、単なる左翼リベラリズム(世俗的ヒューマニズム)であると公言してはばからなくなるようになった。6

著者の言うように、ラッツィンガーが試みたことは「キリスト教的ヨーロッパの逆襲」である。それがラッツィンガーの教皇在位時に成功したとは、言いがたいように思われる。しかしながら現在のヨーロッパ、特にEUに目を向けると、西欧と中東欧の対立が、まさしく「ヨーロッパとは何か」という問題を巡って激化している。

20世紀の間は、曲がりなりにも西欧において「ヨーロッパ」を意味するのは基本的にキリスト教であった。それは、プロテスタント圏の西欧諸国にも「キリスト教民主主義」を冠した保守政党が主要な保守政党として存在していることからも明らかだろう。当時においては、欧州統合はキリスト教民主主義政党諸派が主導したプロジェクトであった。実際、ヨーロッパにおいては宗教改革以降プロテスタンティズムとカトリシズムが互いに激しく対立することはありつつも、その「外部」に共通の敵(イスラームや共産主義など)が出現した場合においては、両者はその差異の垣根を超えて連帯してきたのであり、冷戦期においても、ドイツの最大保守政党がCDU /CSUと表記されるように、カトリック的な強硬保守主義とプロテスタント的なリベラリズムがキリスト教保守主義・民主主義の枠組みの中で調停され連帯をなしていたのである。

しかしながら、西欧のリベラル化に伴い、徐々にキリスト教民主主義的な性格は欧州連合プロジェクトから消失していく代わりに、今度はリベラルな世俗的ヒューマニズム(安っぽい「人権」観念など)が「欧州の価値観」として喧伝されるようになっていった。この傾向は冷戦の終焉、そして世紀転換に伴って全面化することになる。
しかしながら、冷戦期においては、マルクシズムが嫌だからこそ「キリスト教(民主主義)」的なヨーロッパに加わりたかった中東欧諸国からすれば、この西欧の変容は裏切りでしかなかった。であるからこそ、今日中東欧諸国はキリスト教こそがヨーロッパの価値観であると主張しているのである。これはすなわちかつての神聖ローマ帝国(オーストリア寄りのドイツ)の立場が、中東欧諸国に移ったことを意味しているに他ならない。

ラッツィンガーがベネディクト16世として長きヨハネ・パウロ2世の在位ののちに、すなわち「ポスト冷戦期」の政治イシューが前面化する中において西欧に対して投げかけた問いは、まさしく今現在において強烈なアクチュアリティーを帯びているように思われる。それを解する上でも、本書は優れて助けになる著作となっていると言えよう。

結語

第二バチカン公会議とは、カトリシズムにとって後戻りできないような「必要な失敗」だったように、本書を読んで筆者には思われた。
改革の必要性を強く感じていたラッツィンガーは、会議後に必要以上に様々な「改革」が進んでいくことに強い懸念を示すようになった。それは彼の前任者たるヨハネ・パウロ2世に関しても同様である。
事実、難解で時には意味不明なラテン語原典のままの祈祷文やそれに伴う儀式の過大な重厚さの簡素化は、保守派にも(のちにカトリック教会から分離するピウス10世会のような急進保守派は除いて)歓迎されたものであった。当初、第二バチカン公会議の成果は教会の新たな夜明けとして期待を持って信徒たちに受け入れられたものであった。
そして保守派においてでさえ、当時を知る人々には公会議以前には戻りたくない、とする信徒も少なくないと聞く。公会議以前のカトリック教会は、あまりにも組織の権威が重厚長大すぎたことは、否定しようがない事実である。

しかしながら、同時に「68年以降」の今日の我々が生きる世界に存在する諸問題にも通じることであるが、組織や制度からその重々しい権威を取り去ると、同時にその組織や制度の内実および存在意義自体が希薄することも、紛れもない事実である。かつてエリート養成機関であった大学の、今日における惨憺たる状況がわかりやすい例だろう。権威が、国家国民であれ信徒であれ、なんらかの人間集団に対して自身の人生の軽くない一部を犠牲にしながら生きる「奉仕者」が持つ「特権」であるというねじれた構造は、本来は単純な批判を拒むものである。にも拘らず、68年以降の世界においては「反抗」の名の下に、「権威=悪」という極めて短絡的な批判がまかり通ってきた。大学教員は教壇を降りて学生にその場所を空けるべきである、等々。

このような批判は、結果として「権威を批判し解体するような権威」という、さらにねじれた、極めて厄介な存在を生み出したにすぎなかった。その結果、様々な権威的組織や制度は、一般庶民からなんらの敬意を抱かれない存在と成り果ててしまったことは、今日の世界情勢を見渡す限り、火を見るより明らかだろう。このことは、残念ながら現在の教皇庁にも通ずる問題であるように思われる。

問われているのは、組織や制度がいかにあるべきか、ということにとどまらない。組織や制度に属する「人間」達こそが、どのような存在として生きていくかを選択するのか、ということである。
指導的立場に立つ人間は、その生き方を選択する時点において、何かを犠牲にする覚悟を求められるのである。この事実は、忘れられてはならないように、筆者には思われてならない。覚悟ある指導的人間を、人々は切に求めている。



親民社論説委員 アウグスト・ジグムント


1https://www.katholisch.de/artikel/17138-joseph-ratzinger-hans-kung-und-68er
2今野元『教皇ベネディクト16世−「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』、東京大学出版、2015、116頁参照
3同、108-111頁参照
4同、144-156頁参照
5同、143頁参照
6https://www.tagesspiegel.de/politik/eu-kommission-will-gegen-ungarn-vorgehen-von-der-leyen-nennt-lgbti-gesetz-eine-schande/27333942.html