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  • チェストの普及について

    2014-09-01 17:563

    チェストについて

    日本にはチェストという気合が存在します。

    集英社(コミック版)キン肉マン8 ゆでたまご

    ジェロは全ての設定が曖昧ですからどうでもいいとして、チェストが積極的に使われる物語として有名なのは、イナズマンや空手バカ一代、最近の漫画だと日露戦争物語などでしょう。

    このチェスト、一般的には鹿児島の示現流の掛け声だとされています。(諸説あり、陰之流のチェーが起原とも) 鹿児島では今でもスポーツ観戦の際に、『チェスト行けー』といった掛け声が用いられるそうです。

    それではチェストが全国的に普及したのは、どの辺りの時代なのかというのが本日のお話です。

    大正時代の事例

    チェスト、明治大正の物語で何度か見た気がするのですが、探してみるとなかなか出てこない。

    私が確認できた範囲で最も古いチェストが登場する作品は『旅順攻囲決死隊 凝香園 (大正二年)』です。



    この作品の主人公茨城憲一郎は石川県玉津村の出身、空気銃の達人で柔道をよく使いますが、特に剣道を習っているといった描写はありません。チェスト自体も掛け声というよりは、自らに気合を入れるための絶叫として使用されています。絶叫ではないそうです。コメント欄を参照のこと。

    同じく凝香園による『後の血染の聯隊旗 (大正4年)』にもチェストは出てきます。



    こちらの主人公熊谷新太郎は埼玉県出身、やはり剣術は習っていませんし、自分に気合を入れるためにチェストが使われています。

    つまりすでに大正時代には、チェストは剣道の掛け声から離れ、(文脈上、熊谷新太郎の事例では)気合を入れるための絶叫としても使用されていたということになります。

    チェストの謎は残る

    先に紹介した二冊は、今でいうと小学生中学年から中学生くらいまでの子供向けの作品です。ですから大正時代には、子供も知っている掛け声になっていたのでしょう。

    実は大正時代の子供が楽しんでいたコンテンツの一部は、明治時代の大人向けの作品の焼き直しであることが多いです。凝香園の小説も、そういった作品の一つなのですが、明治時代の日清日露戦記物にはチェストは出てきません。

    日本エンタメ文学の先駆けの講談速記本にも、示現流の剣士というのはあまり出てこない。タイ捨流の丸目蔵人はヒーローとして有名なものの、チェストとは絶叫しません。ヤッです。


    可能性として高いのは、学生が流行させたという線です。こちらも可能性が高そうな早慶戦関連の書籍を探してみるも、手がかりはなし。早慶戦つながりで押川春浪の著作を何冊か読んでみるも、やはりチェストは出てこない。第七高等学校関連の書籍も読めるものは読んでみたが、チェストという掛け声を見付けることは出来ませんでした。

    そんなわけで残念ながら、どういった経路でチェストが普及したのかは未だ謎です。これに関しては、今後も調査は続けるつもりです。


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  • 露助について

    2014-08-31 19:3320

    露助という名称が存在し、wikipedia によると「ルースキー(русский)」に由来する』とあります。

    なるほどねぇと納得しそうになってしまいますが、ルースキーとロスケというのはあまり似ていない。ルースキーとロスケの間にもう一段階なにかあったのではないかと誰もが疑問を持つことでしょう。そんなわけで少々調べてみますと、どうやらルースキーと露助の間には「ロスキー」というのが存在したようです。


    血染の砲塔 凝香園 大正2年

    んなわけで、ルースキー→ロスキー→露助という流れで「露助」という呼び名が完成したっぽいです。感動的ですね。ところで日本人は「ファミリーコンピュータ=ファミコン」などといった略称が大好きなわけですけど、もちろん露助も短縮されています。


    ロスというのが露助(ロスケ)の略称です。どうやら漢字で書くと露兵のようです。

    血染の砲台と同じく凝香園の作品に大量に出てきます。

    面白いのは、必ずしもロスというのが蔑称ではなかったという点です。

    もちろん悪口としても使われちゃいますけどね。



    ロスという用語は、明治の日露戦記では見たことがありません。というか凝香園の作品以外で確認できていませんから、調子コイた一個人が勝手に使っていた略称の可能性もあります。そんなわけで、ロスがどれだけ一般的な用語であったのかは謎のままです。

    (少々ややこしいんですが作者の凝香園というのは、明治の終りくらいから大正、昭和の初期くらいまでいくつか存在した物語を提供する集団みたいなものです。彼らは複数人で物語を創り、出版社に提供していました。ちなみに凝香園は武士道文庫で活躍していました。文体などからみるに、日露戦争関連の物語は、凝香園の中の一人が担当していたようです。)

  • 明治人はどのくらい米を食べていたのか?

    2014-08-26 17:072

    昔の農家の人は一升飯を食ってたみたいな話があって、一升というと1.8リットル分の米です。

    肉体労働をしてない人はというと、年間一石(180L)あれば、生きていけるとされていました。いやいや1石というの180Lではなくてだなぁみたいな話もあるわけですけど、その辺りのことは興味もないので詳しいことは知らないです。

    現代だと1人あたりの消費量は60キロ弱くらい、それでは明治あたりだとどのくらい食べていたのかなと気になりましたので、少々調べてました。

    まずは調べやすいところから調べてみますと、日露戦争の頃の日本兵は、1日に6合の米を食べていたそうです。

    飯盒というのがありますけど、あれで米を4合炊くことが出来る。1回の炊事で2回分の米を用意できる設計になっているというわけです。どこで読んだんだか忘れちゃいましたが、1日6合でも量が少なくて腹を減らしてる人がいたそうですから、食べる人はもっと食べていたんでしょう。

    それでは平均的な人はどのくらい食べていたのか?

    掲載されていそうな資料を探しますと、上京し働きながら学ぼうとする苦学生向けのガイドブック的な書籍がありました。新聞配達などしながら、学問を収めようとしている若者向けの書籍です。そこそこ裕福ではあるけれど、お金持ちではない、いわゆる普通の若者たちです。

    で、彼らが1日に食べる米の量は、月に2円25銭1.5斗(27リットル)、1日あたり5合(900グラム)弱でした。


    実験苦学案内 独立自活 徳田紫水 明治36年

    『学生自活法』『自活苦学生』などといった類書でも、同じ程度の数字ですからわりあい信頼性は高いと考えることができます。

    おかずが1円というのはよく分からないかもしれませんが、明治30年代半ばだと安い牛肉の切り落としほんの少しとネギを煮た鍋的なものが7銭くらい、具の少ない味噌汁が2銭くらい、漬物1ヶ月分が50銭くらいの貨幣価値です。

    ついでなので大正7年だとどうかというと、健康な成人男性ならば、4合くらいとされています。


    一日十銭生活 赤津政愛 大正7年


    ただしこれはあまりお金がない肉体労働者の事例で、お金のある人はどうかというと、3合くらいの量でした。多少時代が違いますけど、大正4年の資料を見てみましょう。

    一家の経済 一名安価生活法 長田秋生 大正4年

    明治の学生がおかずに使うお金が米の半分だったのに、こちらではお米代の2倍以上をおかずに費しています。その反面、米の量は1.5斗(27リットル)から1斗(18リットル)に減っています。1日あたりだと3合くらいです。

    なぜに彼らがこんなに米を食べてて太らなかったのかっていうと、おかずの量が少ないってのと、運動量が多いってのがあります。徒歩旅行で20kmくらい歩くのはわりと普通、50kmくらいだと健脚みたいな感じだったみたいですから、足腰はかなり強い。今よりもずっと歩いていたことが想像できますね。

    日本人には米から栄養を取りまくり、カロリーを消費しまくるという手法で、栄養を取っていた時期があったというわけです。

    そんなわけで本日は昔の日本人がどの程度の米を食べていたのかというお話でした。