ON KAWARA というアート
2019年01月14日
▷世界のON KAWARA
河原温(カワラ・オン)[註1]という人をご存知だろうか?
コンセプチュアル・アート(概念芸術)の第一人者として世界的に高く評価され、いまや最も著名なアーティストであるが、日本国内での知名度としてはあまねく知れ渡っているというほどではない。
映画界で「世界のクロサワ」と言えば黒澤明、演劇界で「世界のニナガワ」と言えば蜷川幸雄であるが、美術界において「世界のカワラ」が与えたインパクト、影響力は大きく、きわめて重要なキーパーソンと考える。
[註1]国立新美術館副館長(当時)の南雄介氏が河原温夫人に確認をとったところ、河原温は「カワハラ・ユタカ」が本来の読み方で、つまり「ON KAWARA」はアーティストネームであったことが判明したという。その理由については、「温」を「ユタカ」と読ませることが難しく、「オン」の方がサインをするのに短くて簡単だったから、とのこと(参照:NACT Review 国立新美術館研究紀要No.2「東京時代の河原温」2015年)。
そこで今一度彼の足跡を振り返ることで、彼がどんなことをやってきたのか、いったい何を表現しようとしたのか、多少なりとも河原温のことを知っていただけたらと思う。
29,771 days
これが河原温の経歴のすべてである。ただ生存日数だけ。そのスマートさは作品のような佇まいである。
もとよりこれは公式のバイオグラフィだが、『美術手帖』は彼の略歴を(当人は不本意だろうが)「ARTISTS」でしっかり載せている。この略歴には出てこないが、河原は1991年にカーネギー賞(アメリカ)、1992年にアーヘン美術賞(ドイツ)を受賞している。
愛知県刈谷市の出身で、刈谷はトヨタ自動車発祥の地として知られるが、父親はトヨタ自動車の前身である豊田自動織機・自動車部に創業時から在籍し、エンジニアとして携わっていた。実は河原温が県立刈谷高等学校卒業[註2]というのを後で知っていっそう親近感を覚えた。それというのも彼は私にとって同郷人であり、期せずして同校の我が先輩であった。
[註2]前掲の『美術手帖』には「愛知県立第八中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)を卒業」とあるが、旧制から改称されており「愛知県立刈谷高等学校卒業」が正しい。また1955年5月発行の『美術批評』に掲載された略歴には「1933年 愛知縣刈谷市に生る」「1951年 愛知縣立刈谷高校卒業」とある。
なお余談になるが、刈谷高等学校の記念誌『六十年史 1978 刈谷高等学校』所収の座談会「母校六十年を語る」にこんな会話が出ている──「我々の1年後の3回ですが、河原温という今世界的に有名な芸術家が出ています。ニューヨークにいますが」「河原温の兄貴の河原淳といってね、日本のイラストレーターの元祖みたいな人ですね」。
さて話を作品世界へと進めよう。日本で活動していた時期に描かれた「浴室」「物置小屋の中の出来事」「死仮面」といった素描画の連作は戦慄が走るほどに得体の知れない何かを描写した凄まじい傑作揃いであるし、またニューヨークへ拠点を移した1965年以降の「CODE」をはじめとする一連の暗号作品もアグレッシブな試みであるが、本稿では1966年以降の代表作を中心に要説として取り上げることにしたい。
▷ON KAWARAのアート
まず、1959年離日する前に河原の提唱していた芸術論がことのほか興味深いので紹介しておく。
河原は原画の一点制作や美術館・画廊での作品発表には公共性という点で問題があるとして懐疑的な姿勢を示し、「作品の稀少価値などというものは、とっくの昔に絵画の本質とは関係のないものになっているのではなかろうか」「複製になって始めて完成される作品──つまり無数に原画が存在するような作品をつくりだすべきであろう」(河原温「『原画一点』への疑問」)と説いた。
その手始めとして、河原自ら印刷所と製版所へ出向きオフセット印刷の技法を駆使して制作を行う「印刷絵画」なる実験的な試みに取り組むのだが、すでにこの頃から絵画の新たな表現の可能性を模索していたことが伺い知れる。
TODAY
河原の代表作としては、1966年からニューヨークで制作を開始した「TODAY」シリーズ[註3]がよく知られている。「日付絵画 Date Paintings」とも呼ばれているが、リキテックスのアクリル絵具で単色に塗られたキャンバスの中央に、JUNE 20,1981という具合に制作したその日の日付が白文字のタイポグラフィで描かれ、完成は当日厳守がルールである。
よく展覧会ではキャンバスだけ壁に飾って展示されたりするが、元来はボール紙で自作した箱の中に制作当日の新聞とセットにし、あたかも時間と記憶を後世に伝えるタイムカプセルのように収納していた。
[註3]巻頭写真は、河原温が東京・ギャルリーワタリ(現ワタリウム美術館)と共同で制作した作品集『ON KAWARA Date Paintings 1981-1983』(オン・サンデーズ発行)の表紙。本書には1981年から1983年まで河原が実際に制作した「TODAY」が1/7スケールですべて収録されているほか、巻末に組み立て可能な展開模型やポストカード、おまけにシールシートまで挿入されるなど凝りに凝った稀有な図録となっている。
展覧会でその「TODAY」を前にしていつも感じることは、とにかくシンプルで美しい。
ただ日付だけの絵画ゆえ、何も考えることをしなければスッと通り過ぎてしまえる。だがそこに墓碑銘のごとく唯一刻まれた時は、まぎれもなく河原温という一個人が「今日」確かに生きた証し、実在した軌跡そのものだ。生涯に描いた枚数は実に3000枚近くに及ぶという(1966-2013年)。
もう二度とやって来ない「今日」にひたすら向き合おうとした河原は、なおも<存在と時間>という目に見えないものを何とか捕まえようとさまざまなアートを試みていく──
I READ
「今日」読んだ新聞記事の切り抜きをスクラップし、バインダーに綴じていく(1966-1995年)。
I GOT UP
「今日」起床した時刻をポストカードにスタンプし、出先から特定の相手へ郵送していく(1968-1979年)。
I MET
「今日」出会って会話した人たちの名前をタイプで打ち、バインダーに綴じていく(1968-1979年)。
I WENT
「今日」出向いた道程をコピーした地図の上に赤線でマーキングし、バインダーに綴じていく(1968-1979年)。
I AM STILL ALIVE
「今日」も生きているという生存報告だけを、出先から特定の相手へ打電していく(1970-2000年)。
ONE HUNDRED YEARS CALENDAR
一日という単位で表現していた「TODAY」から今度は20世紀と21世紀それぞれ100年にわたる日付をすべて網羅した「百年カレンダー ONE HUNDRED YEARS CALENDAR」を制作した。
人の一生をカレンダーに表わすことによって限られた時間を端的に可視化したもので、河原が生きた日付のところは1932年12月24日を起点として黄色のドットで、また「TODAY」を制作した日付は緑色(1枚)か赤色(2枚以上)のドットでマーキングされている(1984-2012年)。
ONE MILLION YEARS
一日、そして一生という一個人の時間軸から、さらに全人類の時間を俯瞰した「百万年 ONE MILLION YEARS」(下記写真)へと展開した。ここにおいて河原の眼差しは<個人史>から<人類史>へ向かうものとなる。
Photograph: Peter Foolen | Source: weblog
西暦の年号だけを紙にタイプ打ちして綴じたバインダーは、「百万年-過去」と「百万年-未来」とで構成されている。1ページにつき500年、200ページ10万年で1巻となし、トータルで4000ページ20巻にも及ぶ壮大な大著であるが、人の一生などわずか1ページ中の1/5以下でしかない。そのはてしなさ、はかなさに茫然自失となるが、否応なしに実感させられる。
「百万年-過去」は998031BCから始まり1969ADで終わる。最初のページにはこう献辞が付されている──
「生きて死んだすべての人へ For all those who have lived and died」
ついで「百万年-未来」は1981ADから始まり1001980ADで終わる。献辞は人類の絶滅を見据え、こう付されている──
「最後の一人へ For the last one」
河原と親交のあった美術評論家で俳人の馬場駿吉氏は、「百万年」という時間が選ばれた理由について、「まず、過去百万年は人類(ホモ・サピエンス)が生死を継ぎつつ現代まで文明を形成してきた時間であり、未来百万年は、今の地球環境の悪化から考えると、人類が滅亡に至る時間と想定され、従ってこの二百万年は人類の文化史すべてを含むことになる黙示録的な意味を持つ」(『中日新聞』夕刊 2014年7月16日付 寄稿「河原温さんを悼む」)と考察している。
途方もない膨大な時間の流れを整然と列記した「百万年」こそ、とりわけて傑出したマスターピース(名作)といっていい。もはやアートを超え、「人類史の遺産」ひいては「人類の遺品」とさえ思える(過去:1970-1971年/未来:1980-1998年)。
PURE CONSCIOUSNESS
1997年1月1日から7日まで一週間にわたる「TODAY」7枚を、世界21カ国の幼稚園(日本では高知の幼稚園)で巡回展示した「純粋意識 PURE CONSCIOUSNESS」と呼ばれるプロジェクト。もはやそこは美術館や画廊でなく幼稚園。発達段階の4歳から6歳の子らが生活の風景として作品と日々接していく(1998-2013年)。
ところで先の「百万年」はバインダー仕様が12セット制作されたあと、過去・未来2冊組の印刷製本や朗読CDとしても刊行された。そればかりか、すべての作品を印刷して複製化したところに河原のあくなきこだわりが見てとれる。
おそらくそのコンセプトの端緒は、原画の一点制作を良しとせず、複製によって完成される「印刷絵画」へ傾倒していったことと無縁でないだろう。
河原は終生、アートを通して一個人、さらには全人類の<存在と時間>をも問い続け、克明に記録し続けることで存在証明を果たそうとしてきたのではないか。その意味で河原はコンセプチュアル・アーティストというより、<存在と時間>のたぐいまれなる表現者と呼んだ方がしっくりくる。
On Kawara
▷ON KAWARAの沈黙
□世界的な現代美術家、河原温さんが死去 81歳(産経新聞)
□河原温氏が死去 現代美術家(日本経済新聞)
□On Kawara, Artist Who Found Elegance in Every Day, Dies at 81 (New York Times)
□On Kawara dies at 81; artist's works addressed passage of time (Los Angeles Times)
□On Kawara obituary (Guardian)
□On Kawara, Le Dernier Jour (Liberation)
河原温が亡くなったという訃報は、彼の作品を扱っているニューヨークのデイヴィッド・ツヴィルナー ギャラリーによってもたらされた──
「深い悲しみとともにギャラリーはオン・カワラの逝去を公表する It is with great sadness that the gallery announces the passing of On Kawara」
そして他界した翌年の2015年2月6日から5月3日にかけて、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で集大成とも言える回顧展「ON KAWARA-SILENCE」が開催された。
展覧会を統括したキュレーターのジェフリー・ワイスによれば、表題の「沈黙 SILENCE」は河原のアイデアとのことだが、河原は生前「沈黙者」という肩書きをいっとき掲げもし[註4]、オープニングレセプションやメディアなど公の場に姿を見せない、肖像を晒さない、自作について語らない、というふうに作品と表題以外の情報や属性をいっさい遮断することで徹底して沈黙を貫いた人であった[註5]。
作品をニュートラルかつユニバーサルなものにしたい決意の表れとしても、それと引き換えに河原温という実体はかくも長き不在によって知りえぬまま、ついに未来永劫「沈黙者」となった。
[註4]2004年11月東京・銀座のPepper’s Galleryで催された松井茂個展「詩の原型展」カタログに河原は「純粋意識」を寄せているが、肩書きは「沈黙者」とだけある。
[註5]もっとも実際に河原と会った人たちが異口同音に語るには、寡黙な人という印象はまるでなく、滔々たる能弁で会話が絶えない人だったようである。
豊田市美術館学芸員の能勢陽子氏によれば、「その作品が与えるストイックで謎めいた印象とは異なり、作家自身は饒舌で才気煥発、ユーモア溢れる人だった。その話題は、美術や美術を取り巻く精度、文明、宗教、経済、数学、物理、宇宙まで、実に多岐に渡っていた。その中で、美術の話はほんの一割程度だったと記憶している」という(芸術批評誌『REAR』No.33「沈黙の一語」)。
またインディペンデント・キュレーターの渡辺真也氏は、「午後4時から話し始めて、話し終わって時計を見ると午前3時になっており、11時間も話していたのか!と驚いたのを覚えている」「数学や幾何学、物理学、さらに歴史や哲学、言語や経済学など一通りの学問について、1時間ほどクイズを出され続けた」と述懐(芸術批評誌『REAR』No.33「河原温さんとの思い出」)。
現代美術家の杉本博司氏もまた、河原は常日頃から「私は日本人ではない、地球に住んでいる地球人だ」と話していたそうで、飛行機の搭乗口で会ったときには「話し始めて13時間、主に経済と政治の裏話で、アートの話題は一切なかった」と書いている(『日本経済新聞』2020年7月12日付「私の履歴書(12)NYの日本人」)。
河原が公に姿を見せたのは、1965年12月発行の『美術手帖』で最後となる。煙草を手に笑みを浮かべている素顔の写真とともに4ページにわたってびっしりと日本語で“饒舌”に記述された「接続法」なる作品を誌上掲載。その翌年1月4日から「TODAY」シリーズがスタートする。
かつて河原は、芸術の本道は「相互交流」にあるとし、「芸術作品はみられ、よまれ、きかれてはじめて完結するのである」「鑑賞者にとって作品はオブジェであり、このオブジェを手がかりにして、ある創造的生産をおこなうのである。つまり作品が完成されるわけである」(河原温「印刷絵画」)と論じていた。
「沈黙」をもって完結したなどというのははなはだ早計で、万人が関わるアートとして共有(シェア)され、よりいっそう活かされてこそ<不在者>に徹した作家の本懐であろう。
遺言のように残していった「沈黙」とて、言うに及ばず誰一人として例外なく免れえない。等しく私にもあなたにも訪れる時間どおり、もう間もなく…
結びに代えて、ON KAWARA というアートをまっとうした有終の美に深く敬意を表し、その偉業をたたえたい
──私淑する後輩として。
(文責:鳥居賢司)
【日本国内の主な収蔵先】
□函館美術館|「TODAY」
□いわき市立美術館|「印刷絵画(NO.4砦/絵画と人間)」「ONE HUNDRED YEARS CALENDAR」「TODAY」
□千葉市美術館|「考える男」「TODAY」「ONE MILLION YEARS - FUTURE」
□東京国立近代美術館|「浴室」「物置小屋の中の出来事」「塵捨場」「色彩暗号文」「天然痘」「孕んだ女」「TODAY」「I GOT UP」「I MET」
□東京都現代美術館|「暗号」「TODAY」「I GOT UP」「I AM STILL ALIVE」「ONE HUNDRED YEARS CALENDAR」
□きよ田|「TODAY」
□原美術館|「TODAY」
□世田谷美術館|「TODAY」
□ワタリウム美術館|「TODAY」
□イケダギャラリー東京|「TODAY」
□富士ゼロックス株式会社|「CODES」「I MET」
□慶應義塾大学アート・センター|「I GOT UP」
□多摩美術大学図書館|「I READ」「I AM STILL ALIVE」「ONE MILLION YEARS」
□富山県美術館|「ドローイング(東野芳明旧蔵品)」
□静岡県立美術館|「TODAY」
□名古屋市美術館|「カム・オン・マイ・ハウス」「私生児の誕生」「TODAY」「I GOT UP」「ONE HUNDRED YEARS CALENDAR」「ONE MILLION YEARS - FUTURE」
□豊田市美術館|「TODAY」「I AM STILL ALIVE」「ONE MILLION YEARS - PAST AND FUTURE」
□刈谷市美術館|「TODAY」
□滋賀県立近代美術館|「TODAY」
□国立国際美術館|「印刷絵画(いれずみ/絵画と人間)」「TODAY」「I AM STILL ALIVE」
□大阪中之島美術館|「肉屋の内儀」
□大原美術館|「黒人兵」
□ふくやま美術館|「TODAY」
□高松市美術館|「印刷絵画(絵画と人間)」「TODAY」
□福岡市美術館|「朝が来る」「孕んだ女(下図)」
□造形作家・岡崎和郎個人所蔵|「TODAY」
□美術評論家・中原祐介個人所蔵|「印刷絵画(植民地の怒り)」
□株式会社エムアウト代表・田口弘個人所蔵|「TODAY」
□株式会社ZOZO創業者・前澤友作個人所蔵|「TODAY」
□株式会社ストライプインターナショナル代表・石川康晴個人所蔵|「TODAY」
□株式会社大和プレス代表・佐藤辰美個人所蔵|「TODAY」
【これまで鑑賞した展覧会】
□ON KAWARA AGAIN AND AGAINST 河原温展『反復と対立』河原温と同時代の美術 1966-1989(ICA, Nagoya 1989年)
□ON KAWARA 1952-1956 TOKYO(パルコギャラリー 1991年)
□PICTURES OF THE REAL WORLD (In Real Time) On Kawara Date Paintings 1966 -1994 河原温とアメリカの写真(原美術館 1995年)
□河原温 1954,1954,1956 内藤礼 1991(名古屋市美術館 1995年)
□河原温 全体と部分 1964-1995 ON KAWARA WHOLE AND PARTS 1964-1995(東京都現代美術館 1998年)
□ON KAWARA CONSCIOUSNESS. MEDITATION. WATCHER ON THE HILLS 河原温:意識、瞑想、丘の上の目撃者(豊田市美術館 2005年)
□TIME AND CONSCIOUSNESS - DATE PAINTINGS AND COLLECTION 時と意識-日付絵画とコレクション(豊田市美術館 2015年)
【参考文献】
□佐々木基一|美術批評「物質化から人間化へ-河原温の作品を中心に-」(美術出版社 1955年5月 No.41)
□河原温|美術批評「座談会 新しい人間像にむかつて」(美術出版社 1955年7月 No.43)
□河原温|美術批評「アンケート メキシコ美術展をみて『メキシコ美術展の価値化』」(美術出版社 1955年10月 No.46)
□河原温|建築文化「現代の表現 絵画-創造的構想力の現実性」(彰国社 1955年10月 No.107)
□河原温|アトリエ「抽象絵画とテーマ絵画の限界で」(アトリエ出版社 1956年2月 No.348)
□河原温|美術手帖「作品紹介 河原温『不在者』」(美術出版社 1956年5月 No.108)
□河原温|美術手帖「随筆 シネマスコープの夢」(美術出版社 1956年10月 No.115)
□河原温|美術批評「新しい世界の作家 どせう地獄-吉仲太造の作品について-」(美術出版社 1956年12月 No.60)
□河原温|美術批評「何とかしなければならぬ」(美術出版社 1957年1月 No.61)
□河原温|美術手帖「映画色彩評 鳳城の花嫁」(美術出版社 1957年6月 No.126)
□河原温|美術手帖 臨時増刊「対立物の無表情な同居」(美術出版社 1957年6月 No.127)
□河原温|映画批評「八月十五夜の茶屋」(昭森社 1957年6月 No.1)
□河原温|映画批評「合評会・制作者懇談会 『抵抗』-作家と作品」(昭森社 1957年7月 No.2)
□河原温|美術手帖「『原画一点』への疑問」(美術出版社 1958年4月 No.140)
□河原温|美術手帖 臨時増刊「印刷絵画 I. 印刷絵画の発想と提案 II. 印刷絵画の技術/印刷絵画『植民地の怒り』」(美術出版社 1959年3月 No.155)
□砂母天|美術手帖「人物点描 メキシコにゆく 河原温」(美術出版社 1959年9月 No.162)
□本間正義|美術手帖「その後の河原温 ニューヨークのアトリエを訪ねて/河原温の作品『接続法』-印刷絵画のためのプロジェクト」(美術出版社 1965年12月 No.260)
□峯村敏明|小原流挿花「見えないアトリエ24 日付絵画の野心-河原温 その1」(小原流出版事業部 1978年5月 No.330)
□峯村敏明|小原流挿花「見えないアトリエ25 大地的空間感覚の表現を越えて-河原温 その2」(小原流出版事業部 1978年6月 No.331)
□峯村敏明|小原流挿花「見えないアトリエ26 時の行人-河原温 その3」(小原流出版事業部 1978年7月 No.332)
□峯村敏明|みづゑ「展覧会から 河原温-不連続の連続(上)打ち出された自画像」(美術出版社 1981年3月 No.912)
□峯村敏明|みづゑ「展覧会から 河原温-不連続の連続(下)On Kawara Daedalus 像の試み」(美術出版社 1981年4月 No.913)
□河原温|ON KAWARA ONE MILLION YEARS 河原温 本『百万年』-人類最後の一人に-(ギャルリーワタリ 1983年)
□河原温|ON KAWARA Date Paintings 1981-1983(オン・サンデー 1983年)
□河原温|ON KAWARA 1952-1956 TOKYO(PARCO出版 1991年)
□河原温|死仮面(PARCO出版 1995年)
□名古屋市美術館編|河原温 1954,1954,1956 内藤礼 1991(河原温・内藤礼展実行委員会/中日新聞社 1995年)
□南雄介・武内厚子編|河原温 全体と部分 1964-1995(東京都現代美術館 1998年)
□加藤種男|日経アート「百万年の中の1日を生きる証-河原温への手がかり-」(日経BP社 1998年2月 No.112)
□松井茂|美術手帖「企画展レビュー 河原温『意識、瞑想、丘の上の目撃者』-おしゃべりな河原温-」(美術出版社 2005年3月 No.862)
□山田諭・能勢陽子・渡辺真也・馬場駿吉|芸術批評誌REAR「批評 ON KAWARA」(リア制作室 2014年12月 No.33)
□南雄介|NACT Review 国立新美術館研究紀要No.2「東京時代の河原温」(国立新美術館 2015年)